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                     異国への通商の御朱印写し
文書1 寛政十年(1798)

       翻刻            現代文訳
P1
   異国へ通商の御朱印写
長崎西築町乙名、荒木作三郎家に蔵る所の古文書ニ云
文禄の初、従日本国異国江通商のため渡海被為成
御免、京都より三艘、堺の浦より一艘、長崎より五艘の
船主ハ東京、交址、東補塞、太泥、六昆之国々江渡海仕候
右之内一艘の船主ハ私先祖宗太郎と申者ニ而、元和八
壬戌年
台徳院様 御朱印頂戴仕、広南国往来仕候、仍彼地
国王に謁見仕候所、懐柔の情不浅、恩交の余り囲碁の
賭にことよせ、国王之息女妻に賜り、其時王歴世の阮
   外国との通商御朱印(許可証)の写し
長崎西築町の乙名、荒木作三郎家に伝わる古文書によれば、文禄の初、日本国から外国へ通商のための航海を許された者は、京都より三艘、堺の湊から一艘、長崎から五艘の船主(註1)は東京(トンキン)、交址(コウチ)、東補塞(カンボジャ)、太泥(マレー)、六昆(暹羅の一部)の国々へ航海しました。(註2)

この中の一艘の船主は私の先祖宗太郎と言うもので、元和八年(1622)台徳院様(秀忠、註3)より御朱印を頂き、広南国(ベトナム中南部交址国の一部))と往来しました。 この国の国王に面会しましたところ、たいへん気にいられ、囲碁の賭けにかこつけ、国王の息女を妻に賜りました。 その時同地歴世の支配者である阮
氏の親族に宗太郎を加えるという書状を賜りました。
P2
氏を宗太郎に附属し親族之契を結びし書一張を
被賜候、此書外廊に金泥の絵形あるを以て金札と唱
其船を金札舟と称し来候由伝承り申候
其後四十余年を経て、寛永十乙亥年ニ至り、日本より
異国渡海の事とも御禁成被 仰出候、其国彼国の通路断
絶仕候、宗太郎妻日本に誘引、此方ニ而女子壱人設け、御当
地ニ於て相果申候、存生之内手馴候交址作りの鏡一面今に
持伝候
御朱印之御事ハ渡海御停止させられ候後民間に持伝候
奉恐、天和元辛酉年宮川監物様・川口攝津守様御在勤之節、
伊太郎(初代を宗太郎、二代目宗右衛門、宗太郎の実子無之
候ニ付、京都奥野山庄右衛門二男を養子に仕、外祖父広南王娘に
嫁し則宗右衛門、 三代伊太郎儀、宗右衛門実子)
御役所江持参仕候
元禄三庚午年山岡対馬守様御在勤中、西築町乙名伊 
太郎江蒙 仰出、先祖 御朱印頂戴仕、数代守護奉り此節
奉差上候訳を以、新規御役被為 仰付候、伊太郎子荒木三兵衛
(同人子)同宗太郎
右先祖より私迄九代、寛政拾年ニ至二百十年相成申候
御役儀蒙仰候而百九年無滞相続仕候
  寛政十年戌年正月   荒木小十郎
此書は外縁に金泥の絵形があるの金札と唱え、その船を金札船と称して伝えて参りました。
その後寛永十年(1633年)になると日本より外国に行く事が禁止され、交址との通商も途絶えました。 宗太郎は妻を日本に帯同し、こちらで女子一名を生み長崎で生を終えました。 彼女が生前に使用していた交趾国製の手鏡をひとつ今も伝えています。
 
  御朱印状については渡航が禁止されているのに民間に持伝える事は恐れ多い事ですから、天和元年(1681)長崎奉行所に宮川監物様と川口攝津守様が御在勤の時に伊太郎(初代を宗太郎、二代目宗右衛門、宗太郎の実子が無く京都の奥野山庄右衛門二男を養子にして、外祖父は広南王娘に娶わせたのが宗右衛門で、三代目伊太郎は宗右衛門実子)が奉行所に持参しました。(註4)

元禄三年(1690)長崎奉行山岡対馬守様が御在勤中、先祖が頂いた御朱印を数代守り続け、この度返上したとの事で新規に西築町乙名(町年寄)の役を伊太郎が拝命しました。 伊太郎の子は荒木三兵衛です。

先祖宗太郎より私迄九代、寛政十年(1798)迄で二百十年になり、乙名役を勤め始めて百九年無事に続いて居ります。
      寛政十年(1798)戌年正月 荒木小十郎

御朱印之写并旗一箱
    従日本到交趾国船也
     元和八年十一月四日
   御朱印
    三寸二分

   旗の図
御朱印の写し及び旗一箱
   日本より交趾国に到る船也
       元和八年十一月四日(1622)
   御朱印  (源秀忠)
    三寸二分 (約8.2cm角)
 旗の図

 *荒木船の旗はオランダ東インド会社のロゴ(Voc)の天地を逆にしたデザインになっている。
出典:国立公文書館 視聴草六集の三

註1:京都の三艘船主は角倉、茶屋、伏見屋、堺の一艘は伊予屋、長崎の五艘は荒木、末次2、船本、糸屋の合計九艘(通行一覧)
註2:現ベトナムを17世紀初頭は安南国と総称し、北部を東京、中部を交址又は広南と呼んでいた様である。 広南国は安南後黎朝
の重臣玩氏が建てた国。
註3:徳川家康が天下を取ると朱印状を発行して積極的に海外貿易に乗り出した。 海外向け公文書は徳川姓でなく源姓を用い、源家康、源秀忠と記した。 
註4: 荒木家系図
   荒木宗太郎
      |―女子
広南王―娘  |―伊太郎―三兵衛―(5-8代)―小十郎
         宗右衛門(奥野山家より養子)

文書2  享保16年(1731)

     翻刻文      現代文訳

   金札和解一通
我曽祖父宗太郎といふ人元和八壬戌年 御朱印を
いたゝき商船の主となる、交趾国に往来せし時、国王
恩寵厚く、囲碁の賭により息女を賜り親類
分にてもなされしよし、いかなる故にや、此舟を金札
船と申伝り、然るに寛永十二乙亥年異国渡海
御成禁あり、父伊太郎右の御朱印を伝へけれとも
勿体なき事に存し、天和元辛酉年、長崎御奉
行所宮川公・川口公に返上す、則其写し并舟印の旗 
今に持伝ふ、こゝに交趾国王より宗太郎に給りたる

一通の書あり、異国の文字読分かたきを歎き一
日其道に達せし人を頼ミ、本朝の文字に和らけ
是を左に記し、いさゝか先祖の事跡を子孫にし
らしめむことをこひねがふのミ
  享保十六年辛亥年十月   荒木三兵衛屋栄

   金札邦訳一通
我が曽祖父宗太郎と言う人は元和八(1622)年に御朱印を戴き商船主となる。 交趾国に往来していた時、国王に気に入られ、囲碁の賭に勝ち国王の息女を賜り、親類分として扱われたという。 どんな理由かこの船を金札船と言い伝えられた。しかし寛永十二(1633)年に外国渡航が禁止となった。 父伊太郎は御朱印を伝へられたが、恐れ多い事と思い天和元(1681)年、長崎奉行所の宮川公と川口公に返上した。 その写しと船印の旗は今も保存している。

ここに交趾国王から宗太郎に与えられた
一通の書がある。 外国の文字で判読できなかったが、その専門家に頼み日本の文字に翻訳して貰ったので是を記す。 少しでも先祖の事跡を子孫に伝えたいと願うだけである。
  享保十六年(1731)十月   荒木三兵衛屋栄
 (漢文訳省略)
安南国の殿下兼広南等処書を立てるため
の事(安南国ハ右交址の地也、広南は其領分
   ナルユヘ広南を今ハ交址とよミきたれり)
蓋聞両国の乾坤を重ぬといふことハ此詞まことなるかな
一家の和睦をしたしむ事何のたつときことかこれ
にしかんや、然に我阮氏代々国をたてしより此

かた努て仁心をほどこす、ゆゑに遠きものきたり近き
ものよろこび、おのおの恩沢を蒙れり、爰に日本国
の船主木の宗太郎といふものあり、船にのり海を
ハ渡りて我国に来たり、まみゆる事を栄耀とし
親類のちなミを交ん事をねがう、我其心を推
察し仍て親属に加へ阮太郎と称す、其名高く
あらハるゝことハ是宮庭之光顕ハるゝのミにあらず
南国北国通路のためを堅ふする也、詩経ニ曰、いハゆる
麟之趾麟之頂とて公族の多にたとふ、其方の才
令子の才にかなへり、日の如く月の如く松の如く、わ

が壽ハ南山の寿にひとし、斯かる栄華を満
足せり、ああ国につねの法あり書を立て拠証
をあたへおくものなり
   弘定二十年四月廿二日
安南国の殿下兼広南を治める王が書状を記す
 (安南国は交趾の地であり、広南は其領分であるから今は広南を交趾とよぶ)
 確かに両国の親交を重ねる事は実に一家の親交を結ぶ事がもっとも肝要な事である。 我阮氏は代々国を立てて以来、ずっと仁心を施してきたので、遠方の者も近いものも夫々に恩恵を得てきた。 ここに日本国の船主荒木宗太郎と言うものが居り、船で海を渡って我が国に来た。 是非とも面会の機会を得て親類の交際を願った。 私はその心を推察して親族に加え阮太郎と称す。 其名が高くなる事は是は宮廷の威光が揚がるだけでなく、南国と北国の通商が盛んになる事である。 詩経では有能な者の末は優秀な一族が栄えると言う。 そなたの才能は私の目にかなっている。 太陽の如く月の如く松の如く私の人生は満足すべきものである。 ああ国にはよい方法がある、書にしてこれを与えるものである
           弘定二十年四月廿二日


出典: 国立公文書館 視聴草六集の三

註1:麟之趾  子孫に賢人が多い例 詩経 麟之趾、振振公子
註2:弘定二十年 ベトナム後黎朝の年号 1619年(元和五年)

註3:朱印状は一回の航海毎に与えられたので荒木宗太郎に対する朱印状は元和八年が最初とは限らない
註4:一般にこの時代の船主は航海はしなかったが、荒木宗太郎は船主でありながら自ら航海した。