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                      朱印船貿易時代の人物
                       
−荒木宗太郎と山田仁左衛門ー


朱印貿易時代の荒木船、艫に掲げた旗が荒木宗太郎の船印。 クリック拡大
原画は今は存在しない奉納絵馬と言われている。 長崎市立美術館蔵

  16世紀末戦国の世が終わると日本人のエネルギーは海外に向かったようである。 豊臣秀吉は文禄年間に朱印船貿易の許可を八人の商人に与え、17世紀初頭に徳川家康の時代になると朱印船貿易を制度化して、東南アジア諸国と活発に外交を重ね貿易を奨励した。 初期の朱印船時代の八人は、長崎の荒木宗太郎、末次平蔵、船本弥平次、糸屋隋右衛門、京都からは茶屋四郎次郎、角倉了以、伏見屋そして堺からは伊勢屋で末次が二艘、外一艘宛合計九艘の船主達である。 これ等の船主は自身は航海せず船長を雇い身内や使用人に航海させていたが、中で荒木宗太郎だけは船主でありながら自身が船長として航海した唯一の商人と言われている。 
  元々宗太郎は肥後の武士だったが、長崎に来て武士を廃業して商人になったと言われている。 宗太郎が名を残したのは豪商のひとりだったというだけでなく、安南国(現ベトナム)の実力者で広南国を建国した阮氏に深く信頼され、その王女を妻に迎え阮氏一族に取り立てられた事である。 朱印船時代が封印されて暫くした江戸時代中期に宗太郎子孫が保管していた朱印状を長崎奉行所に届けた事から阮氏による宗太郎宛の古文書も明らかとなった。   


異国渡海朱印状写:左上朱印の大きさ8cm角、写はブランクだが現物には源秀忠の名があったと推定する。 交趾国は安南国の別名。 長崎市立美術館蔵 
  朱印状は申請ベースで毎年ひとりに一枚、行く先を記入して幕府から発行され、帰国すると又幕府に返還したという。 家康ー秀忠の時代に発行された朱印状は30年間で100人を超え、商人だけでなく、九州の大名(島津、加藤、細川、有馬等)にも与えられており、枚数は200を超えると言われている。 江戸時代後期に編纂された通航一覧に慶長九年から元和二年迄は62人という記録も残っている。  
  本来航海が終わると返還された筈だが、何故か元和八年(1622)の朱印状が荒木家に残っていた。 子孫が是を長崎奉行に届け出た事により、荒木家は長崎の町年寄を拝命する事になったようである。 宗太郎を阮氏の親族に加えるという書簡は元和五年(1619)年であり、残っていた朱印状は元和八年であるが、宗太郎は最も古い船主八人の一人であり、1590年代から安南(東京、広南、交趾、占城も含)、暹羅などへ多数回航海していたものと思われる。
  宗太郎は正妻である阮氏王女の間に一女があり、養子を京都から迎えて荒木家は続いた。 宗太郎は寛永13年(1636年)、妻は正保2年(1645年)いずれも長崎で没したという。
 
   
   荒木宗太郎 異国朱印状翻刻及び現代文訳はこちら


 山田仁左衛門奉納の絵馬: 視聴草編纂の宮崎成身の模写。 クリック拡大
此の頃暹羅の造船能力は高かったか、朱印船貿易の為暹羅船を購入した大名もある。
 
  山田仁左衛門(長政)が戦国時代に生まれていれば雑兵や足軽から天下人や大名となった豊臣秀吉や前田利家、藤堂高虎などの様にそのチャンスもあったかも知れないが、成長した時は既に戦国は終わっていた。 少し遅れて生まれた為、日本では出世の機会もなく沼津藩主の六尺(駕籠かき)を勤めていたが、何かのきっかけで暹羅(シャム、現タイ)に朱印船で渡った。 出生や渡航の時期についても明確な文書はないが、慶長年間と思われる。 シャムでは同じような境遇の日本人が集まり、都のアユタヤには日本人町もあった。 仁左衛門はその中で頭角を顕し、アユタヤ王に信頼され最終的にはアユタヤ王国の大名クラスになった様である。 
  いくつかの伝承が残っているが、一次資料に近いものとして立願が成就したとして暹羅から軍船の絵馬を静岡の浅間神社に奉納した事。 慶長六年から寛永十年位迄の朱印船貿易時代の外交文書を統括した金地院崇伝の異国日記の中で元和七年と寛永六年の条に将軍へアユタヤ国王の使節を派遣した時の書簡のやり取りが残っている。 
  戦前日本の南方進出に伴い、長政は格好の先駆者として現地資料による研究も行われたようであるが、結局正確な事は分らなかった様である。  
  
   山田仁左衛門事跡翻刻及び現代文訳はこちら