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                      山田仁左衛門事跡


   山田仁左衛門事跡
駿河志ニ云、駿河の国府馬場町に山田仁左衛門長政と 
云ものあり、父は紺屋、仁左衛門常に武機軍学
を好ミ、いつの頃か駿府貨物の用にて年々
長崎へ往来する町人と同伴し長崎へ至り、夫ゟ
暹羅国へ渡り住居し、其時に彼国隣国と
争あり、国王の名ヲンフウと云長政か器量ある
事を知て相親ミ、約し戦争の謀を長政に
はかる、長政奇才あるもの故に彼国の人を日本
人に仕立、武具迄も日本様ニ取拵、日本より加勢

至る由を唱て長政大将として隣国と合戦して
勝利を得る、因て国王、長政をして嗣子として
女を以てめあハす、長政は浅間の社産神
たるに就て開運之軍船の図を絵馬として
暹羅国より寛永年中奉納す、右の図絵年
誌ともに長政自筆のよし、一度帰朝の願望あり
けれとも果さず、其後毒殺にて害せらるとなり
匹夫にして外異に至り国威を外邦に振ひ
かゝやかす奇男の勇夫也、此絵馬の事跡達
台聴、享保中江戸へ召下して 上覧有り、其後

天明八年申十一月五日、浅間の社炎上之節此
絵馬も災を免れず灰燼に委す、寛政元
年浅間の社司新宮兵部、予が茅屋に訪来りて
いわく、去申年の炎上に当社珍物の絵馬も焼たり
此絵馬ハ
有徳院殿の上覧に備へし物故神宝同前なりしに
写しを仕置たる者もなし、残念なりと悔ミ語りし故
予宝暦四のとし戍として駿河にありし時、其先 *戍=守衛
考左近丞にはかりて彼絵馬を謄写し留置たり *先考=亡父
とて取出して兵部に与へけれハ限なく喜びて

夫を謄写して亦社頭に留むと云

     山田仁左衛門事跡
駿河志によれば駿河の国府馬場町(駿府、現静岡市内)に山田仁左衛門長政と言う者が居た。 父は染物屋だったが、仁左衛門は常に軍事を好んだ。 いつ頃か駿府と長崎の間を商品を持って往来する商人に同伴して長崎に旅行し、そこからシャムロ(現タイ国)に渡航してそのまま住みついた。 その時シャムロでは隣国と係争があり国王の名はヲンフウといったが、長政が有能な事を知り親しく謀議して戦争に踏み切った。  長政の奇才でタイ人を日本人に仕立て、武具も日本式に作り、日本より加勢が来たと言って長政が大将になり合戦して勝利を得た。 国王はそれを謝して長政に娘を娶わせたという。

長政は浅間神社が自分の氏神であることから、開運の軍船の図を絵馬としてシャム国より寛永年間同神社に奉納した。 この図及び詞は長政自筆との事である。 一度帰国の希望があったが果たせず、その後毒殺されたとの事である。 軽い身分の者だったにも拘らず海外で国威を高揚した稀有な男子である。 この絵馬の事が将軍の耳に入り、享保年間(1716-1736)に江戸へ下して吉宗将軍の上覧に供えた。 

その後天明八年十一月五日、浅間神社が炎上した時この絵馬も燃えてしまった。 翌寛政元年(1789)浅間神社の宮司の新宮兵部が拙宅を訪れて、昨年の炎上で当社の貴重な絵馬も焼けてしまった。 以前有徳院殿(八代吉宗将軍)の上覧に入れ神宝同然なものなのに写しをした者もなく残念な事だと語った。 私は宝暦四年(1754)に城番として駿府城に勤務した時、兵部の亡父左近丞に相談して絵馬を写し取って置いた。 それを取り出して兵部に与えたところ、 兵部は大喜びでそれを写して又社頭に掛けたと言う。

註1 シャムロ(暹羅)現在のタイ、この頃はアユタヤ王朝の時代で現在のアユタヤに都があり、数百人規模の日本人町もあったという
註2 駿府城は幕府の大番兵が交代で守備をした。 伏見城、二条城も同様。

註3.駿河志 旗本榊原長俊(香山)(1734-1798)の著作八巻(天明三)、彼は1754(宝暦四)年と1783(天明三)年に駿府城勤番。
、駿河浅間詣に
云、馬場町は山田仁左衛門が産所也、天性不敵の
男にて口論ニ長じ相手余多を殺害し、今に
本朝に遁るへき地なしとて天竺暹羅国に渡り
計略を出して神象を作り、夫国を攻取り終には王子
となりアンヒウ大王と名乗り、其後当府の旧友商
船に乗して渡天し、かの大王にまミえ睦しく旧
里を物語し、浅間の社は吾産神なれハとて己が
軍の躰を絵書て絵馬となし納めぬ、其表に曰
奉植依立願成就 令満足所 当国生今天竺暹羅国住居
  寛永三丙寅歳二月吉日   山田仁左衛門長政
己が性名ハ自筆のよし、享保の頃迄ハ社中に有しが玉
殿多く破損し、雨露の災を憂て今ハ表具して
御宝殿に納め神主新宮兵部方ニ預り、表具竪六尺
四寸五分、幅二尺六寸上下茶緞子中縁空色緞子
一文字白地の金入金地株色絵軍船一艘、日本人
乗たる躰なり、一枚の額を割りて二幅となる
予在番の中、神主新宮修理といへるに入魂し
て此絵を見たり、故に其趣を記す、又山田仁左衛門
事ハ宗心渡天の書に載たり、いわく天竺に山田

仁左衛門と云ものあり、暹羅一国の王也と云々、又日本
伊勢山田御師の手代と書たるハ非なるへし、当府
の産なる事顕然たり、又江庵子が説に、此人
を記せり曰く、駿州わらしなの領民仁左衛門といふ
もの有、生質才器胆界なりけるが、日本の中にてハ
させる立身もなりがたくおもひ、暹羅に渡り国
帝に仕へぬ、国王の弟謀反を起し王位を犯
さんとして甚急也、仁左衛門儀を唱へて乱を撥
し残党まて討鎮め、其功に依て長臣と
なり後は隣国を攻取勢ひ漸盛なり、一度

帰朝の望あり、銀千貫目の貯なければあたハず
とて聚之、其時ハ日本人暹羅へ渡海する者 *これを集む
多し、生国の人々なれハなつかしきとて対面
するに、左右に衛士を置剣を持せ、シャムロの衣
服を着て其形厳重也、終に病死して帰朝
の志を不達と云也
 文化四卯年冬      早川定永誌之 
駿河浅間詣によれば、馬場町は山田仁左衛門の生地であり、彼は生まれつき大胆不敵な男であり、口論に嵩じて相手多数を殺害したので、国内に逃げるところも無くシャムロに渡った。 計略を巡らして神象を作り、その国を攻め取り終には王子となり、アンヒウ大王と名乗った。 その後駿河の旧友が商船に乗り渡航して大王に面会し、親しく歓談した。 浅間の社は吾産神であるからと言い、自身の軍の様子を描き絵馬として納めた。 
その表に言う、
   立願が成就して満足しているので奉納する。 
       当国生まれ今天竺シャムロに住居す。
     寛永三年二月吉日   山田仁左衛門長政

自身の姓名は自筆との事である。 享保の頃迄は社中に有ったが玉殿が破損して雨露で傷むのを恐れ、今は宝物殿に納めて神主新宮兵部が預かっていた。 表具は竪六尺四寸五分、幅二尺六寸上下茶緞子、中縁空色緞子、一文字白地の金入、金地株色の軍船一艘、日本人らしき人が乗っている。 一枚の額を割って二幅となる。
私は駿府勤務中に神主新宮修理という人と親しくしており、この絵を見たので、その様子を記す。

又山田仁左衛門の事は宗心(徳兵衛)が語った渡天の書(天竺物語書)にも出ており、それによれば天竺(シャムロ)に山田仁左衛門と云ものがおり、シャムロ一国の王である云々。 又日本の伊勢山田御師の手代と書いているのは間違いである。 駿河の産である事は明らかである。 又江庵子の説では、此人は駿河の藁科の領民で仁左衛門と言った。  性格才気は大物で日本の中では立身できぬと考え、シャムロへ渡り同国王に仕えた。 国王の弟が謀反を起し王位を簒奪しようとした。 仁左衛門は軍を動かしこれを押さえ、残党迄も鎮圧した。 その功でシャムロ国王の重臣となり後には隣国も攻め取り隆盛を極めた。
一度帰国を考え、銀千貫目の貯が必要とこれを集めていた。 その頃日本人がシャムロへ渡海すると、故国の人ゆえ懐かしく対面したが左右の衛士に剣を持せ、シャムロの衣服を着てたいへん厳重だったという。 しかし終には病死して帰国の望みは叶わなかったという。
    文化四年(1807)冬   早川定永これを記す 

註1.江戸時代後期でも山田仁左衛門については諸説があったようで出生、シャムロへの渡航、死因など真実は不明。 戦前日本の南方進出に伴い、現地での調査研究も試みられたようだが、王の娘云々は証明できなかった様である。 唯タイで大名クラスになったのは事実らしい。
出典:国立公文書館 視聴草四集―五

○ 異国日記抄書             *金地院崇伝書
大久保治右衛門六尺山田仁左衛門、暹羅へ渡り有付、今ハ暹
羅ノ仕置ヲ仕候由、上様へノ書ニも見へたり、此者ノ事
か、土炊殿・上州へ文ヲ越ス *土井大炊助利勝・本多上野介正純
 乍恐欽奉言上、爰元従屋形、 御上様迄以金札被
 申上候之条、万々 御前可然様ニ御取成奉願候、為使者
 暹仁弐人并伊藤久太夫被指遣候之条、乍恐可被得
 尊意候、爰元従屋形 御上様迄御進物、以注文
 申上候之条、御披露奉願候、随而乏少之義御座候へ共   
 鮫弐本・塩硝弐百斤致進上候、態奉御祝儀計
 候、誠恐敬白
   元和七年卯月十一日  山田仁左衛門長政在判  
                従暹羅国
  進上
   大炊様 御小姓衆中御披露
                     *本多正純元和八失脚
 此状奉書ノ如ク成紙ヲ折紙ニシテ、常ノ日本ノ折紙ノ
 如クニシテ来也、上州へも同然ノ由也、大炊殿へノ状ハ此方へ
 緩々返事可調由也
右之返書同時ニ調候案等左ニアリ
音耗披閲
貴国之両使持
王書来
朝、并土宣如件々到来、奏上    *土宜 土地の名産
大樹源君、両使拝礼、則賜
返翰帰
国、訳士伊各陳付之鮫弐本
来厚意多々、晒布二十疋宛投賜之、聊補定書耳

不宜
    元和七年     土井大炊助
      九月吉展       利勝 印
                 正純朱印
   答
     山田仁左衛門尉
此書ハ間ニ合鳥子ヲ上下ヲ切、タケヲ短カクシテ書之、架箱
ヲモチイサクシテ、上カ続目ノ上ニ答ノ一字、下ニ△、以上何も日
時ニ調ヘ御城ニて渡し、山仁左ヨリ大炊殿へ之状も大
炊殿へ御城ニて返進スル也、 △封の一字書之、右ニ両人ノ名
                 本多正純
                 土井利勝 左ニ山田仁左衛門
  ○ 異国日記抄書          *金地院崇伝書
大久保治右衛門の駕籠かきだった山田仁左衛門がシャムロへ渡り職と得て今はシャムロの政治を司っていると言う。 秀忠将軍への書に見えるのはこの者の事か、土井大炊殿、本多上野介へ書状を送ってきた。 書状は:
 恐れながら言上奉ります。 此方より上様へ国王の書状を提出しますので宜しくお取次ぎお願い致します。 使者としてタイ人2名及び伊藤久太夫を差し遣わしますので、恐れながら貴意に添いたく存じます。 此方より上様への進物を御披露願います。 些少では御座いますが鮫二本及び塩硝二百斤を御祝儀として進上致します。 恐々謹言
   元和七年四月十一日  山田仁左衛門長政 判 *1621年
                         暹羅国より
 大炊様 御小姓衆中御披露
                     
 この書状は奉書の様な紙を折紙にして、通常の日本の折紙の様で本多上野介にも同様な書が来たと言う。 大炊殿への書状は此方(金地院)へ返書作成の依頼があった。 

上記返書jは同時に用意して案を下記する。
音信を披見しました。 貴国の両使節が王の書を並び土地の名産品を持参し来朝しました。 将軍源の君(秀忠)に両使節は拝謁後、返書を賜り帰国しました。 通訳伊各陳の付添い及び鮫二本と塩硝200斤の厚意を謝し、晒布二十疋宛贈ります。 
    元和七年     土井大炊助利勝印   *1621年
      九月吉日   本多上野介正純朱印
   答
     山田仁左衛門尉

此書は間に合わせの鳥の子紙の上下を切り、丈を短くして書く。 架箱も小さくして上が続目の上に答の一字、下に△、以上の内容で内容、封書とも用意してお城で渡す。 仁左衛門の大炊殿宛の書状もお城で返す。
 △:封の一字を書き、右側に本多正純と土井利勝、
              左側に山田仁左衛門

註1 異国日記抄: 家康ー秀忠の側近として外交文書を統括していた金地院崇伝(1569-1633)の記録
註2 大久保治右衛門忠佐(1537-1613)徳川家臣、駿河沼津藩主。
註3 土井大炊助(1573-1644)秀忠時代は老中、後家光時代は大老(土井大炊頭)
註4 本多上野介正純(1565-1637)家康側近、秀忠老中、元和8年失脚。
註5.塩硝 硝酸カリウム 黒色火薬の原料、200斤=122k
 
註6.鳥子紙  上等な和紙
酒井雅楽殿ヨリ状来、しゃむろ山田仁左衛門へ返書遣
候認様如何と尋ニ来、則仁左衛門□し見セン成案左
ニ書之
  御書謹而頂戴仕候、去年奉捧少分之処、被達
  上向之通、無冥加仕合忝奉存候、殊従貴公様御皮袴
  上下被仰付、忝拝領仕候、抑此国の国主旧冬不慮遠
  行被申付、而従当新王為 御次目以金札御礼被申、
  上候、則為使者おろわんさこんてつふ壱人、おこん
  まつけひい壱人、おこんよこはつ壱人、通主壱人
  ニ五右衛門尉と申者従、拙者着渡被申、御前可

  然様ニ御披露被為成可被下候、然者拙夫船去夏着
  渡可申上処ニ、南蛮之海賊妨通路自由不罷成、御
  請達ニ仕儀ニ御座候、則如例年、船渡海之儀奉願
  存候、此上意以御影、御朱印頂戴仕度念願御座候、定
  条国之外聞御座候条、偏奉願存候、雖可来、便多御
  座候、両 上様へ奉捧少分候、可然様ニ被思召候ハ達
  上覧可被下候、聊軽微之至御座候得共、紅ちりめん拾
  端并花毛氈二枚奉進上候、奉表御祝之計御座候
  尚此等之趣宜願御披露候、恐惶謹言
   巳三月三日    山田仁左衛門尉   *寛永六年
                   長政
     関主税助殿 御披露   *酒井雅楽頭の家人か?
 
此雅楽殿ヨリ仁左衛門方へノ返事ハ雅楽殿右筆下書
 仕候て持来所ニ、相改遣ス案有左
  貴墨披閲、貴国之先君逝去之告報、悲惜不浅、新
  国王為 続目、上使捧金札渡海、方物共以奉
  大樹両君、□礼多幸、廼整得答書、付与三使、且又
  自分之音具献上所被収納也、微臣ゑ両種恵来如
  紙面頂之厚意多々、従是晒白布廿疋辺贈、表寸
  忱者也、商舶往来往来互不可有疎心、余属三使之三寸
  不悉
    寛永六巳       酒井雅楽頭
      十月三日        之在判
      
       山田仁左衛門殿
*廼=すなわち
酒井雅楽殿より来状があり、シャムロの山田仁左衛門へ返書をしたいがどのように書くべきかと尋ねてきた。 仁左衛門の書及び返書案を示す。
 (仁左衛門書)
お手紙謹んで頂戴しました。 昨年少々の物を贈りましたが上にも達せられた様でたいへん忝い事です。 殊にあなた様からの皮袴上下をありがたく頂きました。 ところでこの国の王が昨冬思いがけず死去しました。 従って新王からの挨拶状を申上げるため、使者としてオロワンサコンテップ、オコンマツケヒ、オコンヨコハツの三名及び通訳として五右衛門尉と言う者を私の方から渡海させます。 将軍御前に然るべく御披露お願い致します。 ところで私自身は去年夏に渡航予定しましたが、西洋の海賊のために航路が妨げられてお伺いできませんでした。 例年の様に通商をお願いしたく、御朱印を頂戴したく存じます。 これは国の外聞を保つ為にも必要ですから是非ともお願い致します。 
両上様(将軍家光、大御所秀忠)へ少々ですが贈り物を用意致しましたので出来れば上覧に供えて下さい。 僅かですが紅ちりめん十反及び花毛氈二枚を進上致します。 ご挨拶の印です。
 以上宜しくお願いします、恐惶謹言
   寛永六年三月三日  山田仁左衛門尉長政 *1629年
                   
     関主税助殿 御披露    *酒井雅楽頭の家人か?

上記に対して雅楽殿から仁左衛門への返事を雅楽殿の右筆が下書したものを持って来たので校正した案を次に示す。
貴書拝見しました、貴国の先君逝去の知らせに接し、たいへん悲しい事です。 新国王の挨拶の書を携えて上使が渡海して土産物を持参した事、大樹両君はこれを謝し、すなわち返書を三使に与えました。 又私へも贈り物を頂き、この紙面を以って謝すると共に晒白布二十疋贈り私の気持を伝えます。 通商の商船往復は互いに途切れぬように。 三使節の気持ちと同じです。 
                  敬具
    寛永六年十月三日   酒井雅楽頭印 *1629年
      
       山田仁左衛門殿

註1.酒井雅楽頭(忠世1572-1636) 老中
註2.朱印船貿易は寛永12年に禁止となるが、寛永6年頃は活発だったと思われる。 
註3.異国日記 金地院崇伝(1569-1633永禄12-寛永10)の日記、金地院は家康・秀忠に仕え外交、法制度、宗教政策立案を一手に行う
註4.元和9年(1623)に二代将軍秀忠は将軍職を三代家光に譲り大御所となり、寛永9(1632)死去迄二元政治が行われていた。

出典: 国立公文書官 視聴草四集―五