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         破煙草の弁     禁煙の弁
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 夫この煙草といふもの元蛮国の産にして、中華の物
にもあらず、曾て聞、慶長十年の比はじめて此国江
わたり、元和のはじめより都鄙に普くなべて翫ふ
事になりぬ、されどの此物人に益ある事更になし、その
不能の品は筆に枚挙する事あたわず、中について
その尤をいはく、此物本草洞詮などに味辛く気温
にし毒ありと有て、勿論その能毒も見へされども、能
少分毒多き事をあらはしたり、これのミならず今
の俗風になぞらへ考見れハ、第一興益の財是が為に
費て詮なし、高貴冨饒の人も是等の事はおこた
この煙草と云うものは元は西洋のもので中国から渡来
したものではない。 聞くところでは慶長十年(1605年)
比始めて我国に渡来し、元和の始(1615年)から都市
も地方も広く流布するようになった。 しかしこの物は
人に役立つ事が全くない。 その害はむしろ枚挙に
いとまがない。 
中でもこの物は本草洞詮などでも味は辛く、少し毒も
あると云う。 勿論その毒がどの程度か不明だが、
良い事が少ない分毒は多いというべきか。 それだけで
なく今の風潮を見ると、第一に貴重な財をこれに遣う事は
勿体無い事である。 

註1 日本へは慶長6年フランシスコ会の宣教師が種を
肥前平戸に伝えたと言われる。
註2 本草洞詮 中国清代の薬学、博物学書1661年刊
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共なるべしけれども、今ハいか成賎敷山がつの下民も
是をもてはやして不捨事に成行て、その身の食にかへ
ても是を翫ふ事のやうにて、誠にあたら財宝を水に投
し火に入るより浅間敷事とこそおもひ侍れ、すてに
貝原氏が和事始に今俗に飲食の内にも殊に酒・茶・煙
草の三飲は貴となく賎となく、智あるも愚なるもわ 
きて
是を賞す、されは酒ハ毒ありといへとも少し飲む
人に益ある事、諸の医書に見へたり、殊に聖人も是を
捨たまハず、茶ハ渇を潤し煩臓を去る能あり、ただ煙
草のミ益なく害多き事、是に過たるものなし、俗輩奴
婢は語るにたらず、士君子たる人の蛮国の俗をしたひ

身に害あるもの好ミ賞する事甚僻事なるべしとあり、此論
的然として至論と言つべし、是に荷担する人はあるひハ
人の立居の溢となるなどといひ、叉は恋慕の中たちとな
なるなとゝいひ、祝事、愁気の友たるなとゝ色々に説話
を付会すれども、其故は依怙の偏言にして取るにたら
ざる也、予一言にさとすべし、此煙草凡流布セざる以前
ハ人にもてなしも疎く、恋のかけはし、祝事の寿き、愁
事の慰もなかりしか、如何にや、是にたとへんは鳴呼がま
しけれども、孟子にこと如く書を信せは、書なきにしかじ
といへるもかやうの事おも申べきにや、此もの出さる以前
をさつして無益なる事の最上、これにいかて及ハん、かろ
身分が高く金持ちの人々にもこの事はいえるが 
今はどんな賎しい身分の者達もこの煙草をもてはやす
習慣を捨てず、食べるものも食べずこれをもてあそぶ。
誠に大切な財宝をどぶに捨て、或は火に燃やすような
浅ましい事をしていると思うべきである。 

既に貝原氏が和事始で述べているが、今の世の飲食の
中で酒、茶、煙草の三飲は貴賎、智愚に関らず特に嗜
まれる。 ところで酒は毒があると云うが、少し呑む分には
薬であると諸々の医学書にも書かれており、殊に聖人
(孔子)もこれを捨てなかった。 茶は渇きを潤し、臓器を
休める効果がある。 ただ煙草だけは益がなく害が多い
もので是以上のものはない。 下層の人々にはとやかく
云わぬが、士君子たる人が蛮国(西洋)の習慣を慕い
身体に害があるものも好んで親しむ事は道理に合わぬ
事であると云っている。 この論は的確且つ正論と云う
べきものである。 

煙草を擁護する人々は煙草は立ち振る舞いの間合いとか
恋の仲立ちとか、祝い事や寂しい時の友であるとか
色々理屈をつけるが、これらはみな贔屓の引き倒しで
取るに足らない。 作者はここで一言論じておきたい。
この煙草が流行する前には人のもてなしが疎かったか、
恋のきっかけ、目出度い祝い事、寂しい時の慰みが
なかったか。 どうだろう。
これに例えるのはおこがましいが孟子に、総ての書物を
信ずるなら書物が無い方が良い、とあるのを考えて
見よう。 この煙草が渡来する前を察すれば無益が最上
である。 どうしてこれに及ぼうか。

註1 貝原益軒〔1630-1714) 福岡藩士、本草学者、
養生訓が有名
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くその罪を論セんに、くわいきせるハ不礼至極にもな
り、馴ては口をはなさずむさぼり吮事その意地心入の
さまあらわにしていやしく、今の俗幼き人なとのきせる
とりてもてはやすハこしく過て見くるしく、叉いかなる
智ある人もやゝもすればすいがらを多々衣服におとして
おもひも寄らぬ疵ものをもふけ、かうじたるハ彼火ニて
家居什宝を焼失し、或は身をはたず事にもいたり
ぬ、むさく穢しき灰吹のたまりし躰もしや誤りて座
敷の掃除をけがし、庭の気色を損ずる事もあらぬ
ものを翫ふのあやまり也、心あらぬ人は今まてのあや
まりを捨て、是を禁止せしめは、あやまつて改るの聖
教にも叶ひ、神明の仏陀の冥助なとかなからん、
是我がへんしうをいふにあらず、人は人の常ならんを
願ふこそ本意ならめと此弁をなして家童に及し一教の
端にもと禿筆を染侍りぬ
   葉煙草は畑ふさけやあほう草
    己巳秋七月廿二烏     葏生舘主人
軽くその罪を論ずれば、くわえ煙管(きせる)はたいへん
無礼な事であり、 馴れると口を離さず貪り吸う事になり
その意地きたない根性が顕れて賎しいものである。 今
時の若い者がきせるを持てはやすのも見苦しい。 叉
どんなに知的な人でも時には吸殻を衣服に落とし、思い
も寄らぬ疵ものを作ってしまう。 更に高ずると煙草の火
で家や什器、宝物を焼いてしまい、或は命まで失う事に
なる場合もある。 むさく汚らしく溜まった灰皿もうっかり
ひっくり返し座敷を汚したり、庭の景色を乱す事も余計
なものをもてあそぶ事から起る間違いである。 

心ある人は今迄の過ちを捨て、これを禁止するならば
「誤って改める」と言う聖人の教えにも叶い、神仏の冥加
も有るだろう。 本論は作者の思込みを語るのではない。
人が人として正常である事を願って本心から論じ、我子供
達への教えになればと思い拙い文を綴ったものである。
  葉煙草は 畑ふさげや あほう草
  己巳秋七月廿二日(寛延2、1749年)葏生舘主人

註1.原文は己巳で年代はないが、安永三の反論から
それ以前の己巳で寛延二、1749年と推定

          反論1 
              題名なし
           
  反論1
   (禁煙の弁に対する反論
p4
予が友葏生舘の主人その姓たばこをたしなまず故に破
烟の文を顕ハして、煙草ハ毒ありて人の身に害あり、士
君子たる人蛮夷の風俗を慕ふ事歎し、下民是が為
に貨財を費す事を愁ひ、叉きせる灰吹のけがハらし
きをにくむ、且巻尾に一句を詠じて
  葉たばこは 畠ふさけや あほう草 と記セり
予もとより煙草を好む、今彼の破煙の文を読て始て
其非をさとり、甚恥入て額に汗する事あり、故にあ
やまちを改めて今晩より煙草禁じ、きせるを手
に取るまじ、去るにてもさすがなれにしけふり草、今を
限りの事なれは、ただ今二三ふく吸て後のおもひ
私の友人である葏生舘の主人は元来たばこを嗜まない。
そこで禁煙の文を著して、たばこは毒であり身体に害を
もたらす。 士君子たる人野蛮な外国人の風習を慕う事
を歎き、庶民が煙草の為に財貨を浪費する事を愁い
叉きせるや灰皿が汚らしいのを嫌悪する。 そして巻末に
一句を詠んで、
  葉たばこは 畠ふさげや あほう草 と記している。

私は元々煙草を好む者だが、彼禁煙の文を読んで始めて
その非なる事を悟り、たいへん恥ずかしく額に汗した。
そこで過ちを改めて今晩から煙草を禁じ、煙管を手に取る
まいと思った。 さりながら長年慣れ付きあってきたけむり
草であるから、 今二三服吸って今生の思い出にしようと
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出にセんと常よりも大ふくにひねりて、はくり\/と
吸ければ、煙ハ雲と立なびき庵の中に籠る烟の中に
何やらんかげの如くにちら\/と物の形そ見へたりける
あやしくおもひよく見れは、そのさまちいさき女の姿
くちば色の衣裳を着し、長ききせるを杖につき、煙
に乗たる天女の姿忽然としてあらわれたり、いにしへ
漢家の李夫人の消にしたまのたちかへり、反魂香の烟
のうちにあらハれ出しもかくやらんと、あやしくも叉気味
わるし、され共きせるをしやにかまへ何者なるぞととが
むれば、女ハにつこと打ゑミて、我身の事はかねて
よりも聞もおよばせ給ふらん南蛮国に名も高き淡

婆姑といふ女なり、君常に多葉粉を愛し給ひしに、葏生
館の主人とやらん破烟の文を作りしを読とそのまゝ心を
変じ、たばこを禁じ給ふ事いと歎かわしく思ふゆへに
かりに姿をあらハせり、彼言に記せしその趣心にかなハぬ
事多し、まづ伝へ聞、神農百草をなめ給ひ毒と薬を
こゝろミられし時たばこハ渡らねハ、たばこをハなめ玉
わず、さればこそ本草にたばこの能毒記されず、末世に
生れし凡人は神農の智恩もなく、みたりにたばこは
毒なりと何を証拠に定めし歟、多葉粉によりて起り
たる病の名をハ何といふ、終に其名は聞ぬ也、たばこを
愛する人が彼蛮夷の風にて賎しくハ、砂糖を好みて
いつもより大きなかたまりを煙管に詰め、ぱくりぱくりと
吸えば煙は雲の様に立ちなびく。 すると庵の中に籠もる
煙の中に何か影の様にちらちらする物の形が見えてきた。

不思議に思いよく見ればそれは小さな女の姿ではないか。
茶色の衣装を着て長い煙管を杖にした天女が煙の中に
忽然と現れた。 昔漢の時代の李夫人の魂が立ち返って
反魂香の煙の中に現れたのもこの様なものかと不思議で
叉気味も悪い。 そこで煙管を斜に構え、何者と声を掛ける
と女はにっこり微笑んで、私の事は是迄もお聞きでしょうが
南蛮国では有名な淡婆姑という女です。
貴方は常に煙草を愛されていたのに葏生舘の主人とかが
禁煙の文を作ったのを読み、そのまま心変わりして煙草を
止められる事はたいへん嘆かわしく思うので、仮に姿を
現しました。

彼の文には納得出来ない所が多々あります。 まず伝え
聞くところでは神農が百草を嘗めて毒と薬を分けられたが
煙草はその時渡来していないので嘗めて居られない。 
だから本草には煙草は毒かどうか記されていない。 後世
の人間が神農が試みていないものを濫りに煙草は毒とは
何を根拠に云うのか。 煙草による病気の名があるか、未だ
その名は聞いた事がない。 

註1. 反魂香 (はんごんこう) 漢の武帝が李夫人の
死後、この香をたいてその面影を見たという故事
註2. 神農 古代中国の伝承に出る三皇五帝の一人
人々に医療と農耕を教えたという。 百草を嘗めて薬草か
毒があるかを検証し、最後は毒で死んだと云う。
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なめるハいづくの風と名を付ん、叉下々の者がたばこに
銭を費して、たばこで世帯を吸つぶし乞食になりし
沙汰もなし、きせるのやにや灰吹のけがらハしと云事も
其人\/の物くさ\/、掃除せぬからおこる事、たばこに
とがハなきものを、それに猶更聞へぬは葉たばこハ畑
ふさけんあほう草と詠し給ひし其一句、何とも我等ハ
心得ず、まづ津の国にはつとりの其名も高しかうバし
き舞葉・翁留、其外もこゝそたばこの名所なり、和泉
しんでん、河内そぎ、甲州龍王叉小松、信州にはけんこ
あり、上州たての品多し、殊にハ山名せうほうし、奥州
会津に坂の下、出羽上杉の米沢や常陸は水戸の

赤ちゃ、叉小山田の品もあり、薩摩の国にこくぶあり、国
々所々の畠にてたばこを作り出し、其作徳にて妻
や子を養ひはくゝむ世渡りを、畑ふさけのあほうとハ
何があほうぞきかまほし、破烟の文を打すてゝ今迄
ありし其いとく、心かはらずいつまでも、朝暮たばこを
もてあそび、やはりおいどの穴からも煙りのいづるほど
吸給へ、只にくらしい御方ハ葏生館のおやぢさま、ちつと
やにでもなめさせたい、是迄なりやおさらばと、いふかと
おもへばたちまちに、ありし姿はほのぼのとたばこの
けふりともろともに、きへてあとなくうせにけり

 安永三年ノ四月五日      尻烟子作   
たばこを愛する人が蛮人の風俗に馴染み賎しいと言うなら
砂糖を好んで嘗めるは何所の風俗と言うのか。 叉下々の
者が煙草に浪費して家庭を吸い潰して乞食になった話も
聞いた事がない。 煙管のやにや灰皿の汚らしさも、人々
の物ぐさで掃除をしないから起る事で煙草に罪はない。

それと更に納得行かないのは葉たばこは畑塞げる阿呆草
と詠まれた一句。 とても私達は承服できない。 
先ず津州〔三重)服部の有名な香ばしい舞葉や翁留。 
それ以外にここぞ煙草の名所といわれる所は、和泉の
しんでん、河内のそぎ、甲州(山梨)の竜王、小松、信州
〔長野)にはけんこがある。 上州〔群馬)仕立ての品多く
特に山名やせうほうし、奥州会津の坂の下、出羽上杉の
米沢、常陸水戸の赤チヤ、小山田、 薩摩にはこくぶがある。
国々所々の畑でたばこを栽培し、その収入により妻子を
養い育てる職業を畑塞ぎの阿呆草とは、何が阿呆か聞き
たいものである。 
禁煙の文は捨てて今までの様に心変わりせず何時までも
朝に晩にたばこを楽しみ、やはり尻から煙が出る程吸い
なさい。 只憎らしいお方は葏生舘の親父様、少しばかり
やにでも嘗めさせたい。 それではこれでさようならと言う
かと思えば今までの有った姿は忽ちにほのぼのと立つ煙草
の煙と共に消えてしまった。

  安永三年四月五日(1774年)    尻烟子作

註1 砂糖の輸入 江戸初期からオランダ船で大量に持込
まれた。 
註2 日付が1774年で葏生舘主人文の己巳年〔1749年)
から25年のずれがあるのは不可解。
       反論2
           破煙草の弁を砕くの序
    反論2
       禁煙の弁を論破する
p7
さきに葏生舘の主人述給ふ破烟草の弁有、閲處悉く
其不能を挙て功を伸る事あらず、むへなる哉其達人
性来此草を甚嫌忌して、常に欲る所なきによりて
他人の用るを不益とのミ見なし給ひて、破言を施
し給ふもの也、益有事を載給ハざるは、素其道に疎に
して益の味を知り給ふ事なきの謂にして、我等の
心を計り及し給ふ事の不叶所也、都而其物に委し
からずして其物を損ハんとするは、外見の能及ざる
儀にして、岡目八目のたとへ、此道の不粋といふべし
一休和尚ハもと仏の道に長して能その味を知りて
以前に葏生舘の主人が述べた禁煙の弁がある。 調べた
ところ悉く煙草の無益を列挙して、効能を述べていない。
無理も無い、 この人は本来この草をたいへん嫌悪し決して
用いない。 だから他人が用いる事も無益と見なして禁煙を
唱えている。 有益である事を載せてないのは元々この道に
疎く、有益さを知らないので我々の気持ちを計る事が出来
ないわけである。 総じて云える事だが、そのものに委しく
ないのに、そのものを批判する事は本質に届かずきわめて
不粋な事である。

註1 岡目八目とは囲碁で外野で見ている人の方が八目
先まで見えている、という意味だが、この喩との関連不可解
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後、釈迦といふいたづらものが世に出て多くの人を迷ハ
するかな、なとゝ詠めるはさながら心ありげにておくふかく
つけしらぬものも訳有げに聞く也、是ハ実にその道に
暁達し味をふくみて破言を出すもの也、終に煙草の
多益をも不計して是をさみするの意、心不達の甚し
き所也、先煙草をたばこと和訓する事色々の或
説を求めて淡婆姑といふ者の塚より生じたる故に
たばこと名付て、やはり蛮国の音を仮よしなどいえり
可取にも非ず、唯初手把になして後刻て粉にする
故手把粉の意なるもの也、其徳と云は人々先ハ独り
こちなる閨の友としてハ胸の烟りのおもひをくらべ、銀

ながしのかミま張に情の拠をしゆらせて吸付の幾
やらぬ心を伸へ、公私の労を助くるのいとまには、手のあ
まりなるきせるをくわへながら、富士・浅間のけしきを鼻
の先にみなし、或は旅行の独路も一ふくの薫りに山野
の狼犬もおぢおそれ己と退し、皆此草の徳なり
いはれざる本草の能毒のこと興益の筆意を書戴給へ
侍れと、意あるものは是に限らず、藜
(あかざ)は仙人の美食
として人に益あるの薬草なれ共小毒あるの名をのがれず
河豚は大毒ありと人々知る處なりといへとも、其厚味
不可捨とて世以て調法し侍る、此魚のごときは間々
誤って人を害する事有といへども、人あながちにす
一休和尚は元々仏道に長じており、良くその味を知った後
釈迦といういたずら者が世に出て多くの人を迷わす事か
等と語ると、何があるのだろうと奥の深い所を知らぬ者も
興味示す。 これはその道に精通したものが味を含んで
無茶な言葉を言い出す例である。 煙草も良い所が多い
のを全く無視してこれを貶(おと)めるのは、甚だしく本質を
欠いたものである。 

まず煙草を「たばこ」と読む事は色々な説があるが、
淡婆姑と云う者の塚に生えたから「たばこ」と名付けたとか、
やはり西洋の音を借りたとかあるが信用できない。 唯初め
手把(たば)にして後に刻んで粉にするので手把粉と言うの
である

煙草の良い所は人々が独り過ごす夜の友として胸を焦がす
想いと烟を比べ、銀めっきの煙管に情けの宿るのを知り、
仕事で疲れたひと時に富士山や浅間山の景色を鼻先に
想像する。 叉独り旅する時、一服の香りに山野の野犬や
狼も恐れて近付かない。 これらは全てこの草の効能で
ある。
本草に載せてある効能や毒の事は他にも色々異議がある。
藜(あかざ)は仙人の食用として人にも役立つ薬草だが、
毒も少々ある。 河豚(ふぐ)は猛毒を持つと人々に知られ
ているが、その味が良いので捨てるわけに行かぬと重宝
している。 この魚の場合は時々人命に関るがそれでも
人々は捨てない。

註1 「たばこ」 ポルトガル語の Tobacco から由来
註2 銀ながし 銅の上に水銀を塗る銀メッキ、剥がれ易い
p9
てずして、多葉粉の人を害したる事今川状にも
不見、長寿の翁もます\/是を好む事かそふべからず
痰持なる人たばこは毒なりとて止メたるも叉痰の
治たるためしあらず、爰を以て具け手をはなすべから
さるものは烟草の調度也
   孟秋晦於    武昌城述之
               蜷間菴拝答
たばこが人に害を与えたと云う事は今川状にも書いてなく、
長寿の老人も益々たばこを好む例は数え切れない。 
痰の出る人に煙草は毒と言うが、たばこを止めて痰が治った
例もない。 これらの事から決して手離してはいけないもの
は煙草の道具である。
   7月末日   江戸において記述する
             蜷間庵拝答

註1. 今川状 今川了俊(南北朝時代の武将)が養子で
ある弟に書いた家訓で、寺子屋の修身教科書として標準的
に使われた。 この時代に煙草は無く書いてある訳がない。
註2.武昌城 江戸の事を中国風にこう呼ぶ事があった。
隅田川を墨水(ぼくすい)と呼ぶ例は漢詩等に多い。
文鳳堂雑纂 巻48 破煙草の弁、反論
上記解読p5原文コピー より
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