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   一 表紙 前書
天保四年(1833)十二月吉日
高原郷所系図 一冊
          書持主
            永浜武助師次

此の書物に示す当地の事柄は各家の系図にも書き記される事なので、子孫に至る迄不手際があってはならない。


   
二 高原郷の歴代地頭名
一番 天正三(1575)年 鎌田刑部殿 
二番 同 五(1577)年 上原長門殿 
三番 同 九(1581)年 吉田若狭殿 
四番 同十一(1583)年 山田理庵殿 
五番 同十四(1586)年 新納旅庵殿 
六番 同十八(1590)年 山田理庵殿 
七番 慶長二(1597)年 入木院又六殿
八番 同 七(1602)年 島津大膳亮殿
九番 寛永七(1630)年 村田九郎左衛門殿 
十番  同十五(1638)年 鎌田源左衛門殿  
十一番 正保三(1646)年 猿渡大炊介殿  
十二番 承応三(1654)年 相良主税殿  
十三番 明暦三(1657)年 相良吉右衛門殿 
十四番 寛文六(1666)年 喜入休右衛門殿
十五番 同 九(1669)年 山田民部殿
十六番 貞享元(1684)年 若松彦兵衛殿
十七番 同 三(1686)年 種子島次郎右衛 
十八番 同 五(1688)年 喜入休右衛門殿
十九番 宝永二(1705)年 清水弥兵衛殿
廿 番 元禄九(1696)年 樺山権左衛門殿
廿一番 正徳三(1713)年 左近丞与大夫殿
廿二番          市来勘左衛門殿
廿三番          伊集院仁左衛門殿
廿四番 宝暦三(1753)年 畠山喜藤左衛門殿*1751
廿五番          伊集院伊膳殿
廿六番 明和       石黒戸後右衛門殿*1764
廿七番 寛政       樺山助之進殿  *1789
廿八番 文政元(1818)年 日高次右衛門殿
廿九番 同 八(1825)年 平島平八殿
三十番 同 九(1826)年 義岡久馬殿
三十一番 同十 (1827)年 島津典礼殿 後に替名相馬殿
三十二番 安政元(1854)年 福崎助八殿
三十三番 同 五(1858)年 島津矢柄殿
三十四番 元治元(1864)年十月五日小林にて居地頭
            名越屋左膳殿 *名越左源太
   慶応二(1866)年九月より高岡表の地頭で転出 
三十五番 慶応二(1866)年九月 中原周助殿 
         小林の居地頭で九ケ郷管掌
三十六番 慶応三(1867)年三月 谷川十郎兵衛殿 
         小林の居地頭で九ケ郷管掌
三十七番 慶応三(1867)年九月朔日 近藤七郎右衛門殿 
         小林の居地頭で五ケ郷管掌
  註1 高原城を伊東家から島津家が勝取ったのは天正四年八月で、それ以降島津家臣、上原長門が
    高原城主兼高原地頭と云う書もある。 ここでは島津家領になる前の天正三年に鎌田刑部が
    最初の地頭とある。

   
三 中世末期の高原と領主変遷
〇永正五(1508)年、高原・江平・志和地・野の見谷・高崎を一所にして伊東氏が支配しており、
 高原城も その一つである。この時幕府の征夷大将軍は足利義稙(在位1508―1521)。                          
〇天文十四(1545) 高原地頭 稲津豊前(伊東家臣)
〇天文廿(1551)年 北原勘解由の領内になり、高原・江平・志和地・野の見谷合わせて士は七百三十二人。  この時の地頭は白坂式部大夫(北原家臣)が勤めた。
〇元亀元(1570)年北原家と伊東家が戦い、又高原は伊東領内になる。
〇元亀三(1572)年 高原地頭 九岐因幡守(伊東家臣)
 この時高崎城が定められたが、城の工事は無かった。
 註1 中世には高原は真幸院に含まれ、南北朝以後は北原氏の領地だったが、北原氏の力が衰え、
   真幸院は伊東氏と島津氏の争奪の地となる。永禄年間(1560年代)に島津氏が真幸院の
   飯野以西を支配し、小林以東を伊東氏が支配して高原城も伊東氏が所有していた。
   天正四年(1576)島津氏の猛攻で   高原城が落城し、以後小林、須木、野尻の伊東氏所有の
   城が全て島津氏に属し、真幸院全体が島津氏領となる。

〇天正四年八月、高原城の攻防があり、城を守る伊東家が島津軍に敗れ、これ以後日向の伊東家は
 没落し、 伊東家臣、野尻地頭の福永丹後守殿も退去する。 以後日向国諸県郡の一部真幸院全体が
 島津家の領地となり、飯野に在城していた島津兵庫頭義弘(島津家十八代当主、義久公舎弟)の
 領する所となる。 此時高原から兵庫頭に付いた五人は、迫間、川平、大牟田、宮田、朝倉である。 
 志和地及び江平は分離したが、江平は又高原の中に戻り一所になる。
〇天正四(1576)年には出水・菱刈・大口から高原に移った士は坂田、真方、白坂、麦山、牛谷、
 森山、本田である
〇天正五(1577)年には高原地頭として上原長門守殿が任ぜられる。
〇天正六(1578)年、琉球国が島津家傘下に入り、琉球へ高原衛門、田実大蔵が派遣される。
 此年蒲生から移った武士は、山元、平川、尾方、渕名である。
〇天正八(1580)年、島津軍は豊後国に侵入
〇天正九(1581)三番目地頭として吉田若狭殿が任命され、二年間勤務。 此時物頭役の制度が始まり、
 庄屋代行の赤崎丹波が任命される。
〇天正十一(1583)年、四番目地頭として山田理庵殿が任命される。 物頭役は川添越前。
〇天正十三(1585)年、高岡の福山へ移された士は白川、松岡、本田、赤崎、吉井、瀬之口、麦山、
 黒木、 白坂、平良
〇天正十四(1586)年、五番目地頭として新納旅庵殿が任命される。 高原の物頭役は、白坂権左衛門、
 ・宮田六郎左衛門(後に飛騨)、迫間、甲斐(後に酒袋入道)、此時松下、大重が伊集院より移る。
 ・京都軍(豊臣軍)が侵入する。
〇天正一五(1587)年、羽柴太閤(豊臣秀吉)が大軍を率いて下向する。 上井次郎左衛門秀穂から
 加増目録を下さり、郷の人々に通知があった。
 註1 伊東氏は高原落城以後急速に衰え、日向を追われ豊後に逃亡する。 その後島津氏の北上が
   始まり、九州の殆どを制覇したが、天下人となった豊臣秀吉の九州平定と衝突。天正十五(1587)
   に島津氏が降伏し、島津氏は旧領の薩摩、大隅、日向諸県郡のみが安堵される。以後江戸時代を
   通じて高原は島津氏の領土となる。
 註2 地頭として名を連ねる山田理庵、新納旅庵などはいずれも島津家重臣であり、常駐したとは
   思われない。

〇天正十七(1589)年、高麗(朝鮮)から外交使節が京都に渡る。 豊臣秀吉太閤が天下統一
 小盛江介と谷川金兵衛が畑酉池の堤で上意により討たれた。
 理由は伏見へ飛脚を送るよう命令されたが、これが遅れた為である。 竹下・斉藤・樋渡が切った。
 是は後に徳永淡路が切られたのと同じで非道の死である。
 義久公が伏見へ参府する折、宮田村へ一宿され、その後は花堂高松の仮屋へ到着された。
〇天正十八(1590)年、六番地頭 山田理庵殿
 時噯役(後の郷士年寄)の制度が出来、大牟田五左衛門(後に藤兵衛)及び川添壱岐介が任命される 
〇文禄元(1591)年、高麗入(朝鮮の役)が始まる。
 此時東霧島が高原の内になる。

〇慶長元(1596)年 
 高麗から使者が和睦の為に伏見へ渡来する。
〇慶長二(1597)年、七番地頭 入来院又六殿が任命され、真幸院全体の司令官となる。
  註1真幸院には西から吉田、馬関田、加久藤、飯野、小林、須木、高原、野尻が含まれる

〇慶長三(1598)年、庄内八万石の伊集院源次郎殿が籠城し、傘下の十二外城に籠る
〇慶長四~五(1599⁻1600)年
 ・庄内の乱に関連して高原の衆中、徳永淡路兄弟が鳥井原で切腹した。 
  その頃池平、黒瀬戸、瀬戸尾筋に監視所があり、瀬戸尾筋は花堂の隠居の兵士たちを配して鹿児島
  との往還を管理しており、これは噯役の川添壱岐の管轄だった。 
  庄内の戦いを見分するため、鹿児島より三原伝左衛門殿と樺山権左衛門殿が東霧島と青木渡世訪れた
  時、川添は庄屋に案内させるように命じた。 川添壱岐は常々庄内軍側に味方する気持ちがあると
  思っていた淡路兄弟は、庄屋を奪われると思い川添壱岐を切った。 
  此後、淡路兄弟は岩岐殿の屋敷に籠ったので、国分のお城(当主島津義久)へお伺いを立てたところ、
  淡路兄弟に切腹の命が下ったので鳥井原で切腹することになった。 介錯人は大岐源左衛門と屋籠時
  の世話をした平川大膳であり、検視確認は黒木伊賀、森山安右衛門、瀬戸五左衛門、噯大高藤兵衛、
  宮田飛騨、朝倉主計、迫間酒袋である。
 
 ・新納武蔵守(島津家家老)から高原への指示覚書
  一庄内の戦いに出す足軽の人数
  一白坂権之介、瀬戸口郷左衛門、平川大膳、大野蔵之介、瀬戸口刑部左衛門(後五左衛門)、
   黒木伊賀(後助左衛門)、森山安右衛門、竹下大蔵、大岐源左衛門、 宮田飛騨(後六郎左衛門)
   早田壱岐、合わせて十一人
  一斥候遊撃の人数、山本清兵衛、高原衛門、小森長右衛門、考良玄蕃、斉藤蔵人、藤田筑前、
   樋渡彦兵衛、紙屋四郎左衛門、田実大内蔵、尾方与介、合わせて十人
 ・源次郎殿和睦、山田城の落城は六月廿三日
 ・此時加増目録が、慶長五年三月十日付で入来院又六印で発行され、人及び勤務地で高下がある。
 註1 庄内の乱は薩摩における最後の内乱である。 乱の原因は薩摩の筆頭家老で庄内領主の
   伊集院幸侃が島津本家後継者の忠恒(後の初代鹿児島藩主家久)に京都伏見で手討にされた
   事により、嫡子源次郎忠真が島津家に対し反旗を翻し、都城及び管轄十二外城に籠る。 
   秀吉亡き後の豊臣政権の筆頭家老で幼君秀頼代理の徳川家康の仲介で和睦が成立する。

 ・美濃国関ケ原で軍があり、入木院又六殿はこの時戦死。
 ・高原の衆中の移動、川添、吉井は高岡へ移り、丸山十右衛門は入来市成家から入り治部左衛門の
  子となる。入田殿は後川内から高崎に移動


 
四 近世初期慶長―寛永期(1600‐1644)
〇慶長七(1602)年、八番地頭  島津大膳殿
 ・噯役朝倉主計、丸山治部左衛門、山口隠岐、宮田飛騨
  後に噯肥田木太郎右衛門、丸山十左衛門、山口隠岐
〇慶長八(1603)年、徳川家康公征夷将軍に任ぜられる
〇慶長十七(1612)年、東霧島が高城に入る。
〇同十九(1614)年、徳川家康公、大坂へ発向(大坂冬陣)
〇慶長十九年(1614)
 ・八月四日、藩より知行目録が下される。
  捺印は三原諸右衛門印、伊勢兵部少輔印、比志島紀伊印、
  町田勝兵衛無印で各人に宛書

〇元和元年(1615)八月十七日大坂落城、豊臣家秀頼公滅亡。
〇元和二(1616)年四月、家康公他界、日光東照権現と号す。
〇元和八(1622)年、家寛公上京参幸。(徳川秀忠の事か)
〇寛永三(1626)年、将軍御父子上京、但し二条城へ御幸。
〇島津家家久公(初代鹿児島藩主)が中納言三位上に任ぜられる。中納言の別称は黄門様である。
   
〇元和・寛永年中(1620‐1630)に移動した高原衆中
 島津大膳亮殿が地頭の時代
 ・肥田木太郎左衛門、弓削今早右衛門、肥田木源右衛門、肥田木八左衛門は小林より移動。東善衛、
  東縫殿は本来伊東家領内より移動。
 ・肥田木次郎左衛門は庄内より移動し本の名は藤田。
 ・岩本善衛は川内より、石塚五郎左衛門(本名甲斐田)は向田より移動。
 ・萩原源藤は自ら移る。彼は飯野入沙門屋敷から来て馬場大学院と称す。 後に続く長学坊は
  日向国から移動。
 ・向井仁衛は菱刈から移る。
 ・斉藤善右衛門、黒木玉仙坊、松坂千右衛門は屋敷が出る
 ・永田半左衛門は清水典厩の家来だったが浪人の後、宮田正心の保証で高原に屋敷を持った。
 ・萩原弥市は小林から移動、萩原主膳は清水から移動し大蔵の養子になった。 
  黒木段右衛門は伊賀に取り立てられた。
 ・木藤段介、茂兵衛子は庄内から移動、宮田正心の取り立てで屋敷が与えられた。
 ・大重拾左衛門は采女の子になる。
 ・黒木右京は秋月領内から移動、本名は米良だったが黒木姓になる。次代は黒木貞右衛門。
 ・田口善左衛門は養子で続く。
 ・甲斐二左衛門は秋月領内から移動。
 ・岩崎蔵之介は地頭から取り立てられる
 ・増田表右衛門は日向嵐田から移動。
 ・樋谷采女は秋月長門守領内から移動
 ・小牧代右衛門、鳥梟徳右衛門は屋敷が与えられる。
 ・甲斐両右衛門は秋月領から移動、本名は宮多で、甲斐は甲斐二右衛門から許される。
 ・黒木宇右衛門は秋月領内から移り黒木右京の養子になる。
 ・岩崎主水左衛門、同八郎兵衛、小野清左衛門、平川十郎左衛門、松永善介に屋敷を下された。
 ・永野小左衛門は丸山阿波の養子になる。
 ・肥田木勘解由は綾から移動し養子となり屋敷が下された。
 ・川原八郎兵衛、廻間弥兵衛、橋口仲兵衛、斉藤新兵衛、亀田早左衛門、大迫勘解由左衛門、
  大迫織部、四位宮内左衛門、山口藤兵衛、斉藤千左衛門に屋敷が与えられた。
 ・児玉壱岐は児玉七郎左衛門の後に子として継ぐ。児玉甚兵衛は地頭から取立てられた。
 ・楠元新五郎堅物は加治木より移動し、その後屋敷が出た。
 ・黒木弥右衛門は野尻へ自ら浪人として出た。(又六殿が地頭を離れる頃)
 ・松下仲左衛門は猶子を得る。真方普堅坊養子に出る。
 ・成田掃部は屋敷を出る
 ・大重拾右衛門は田口になり、又大重を名乗る。
 ・猪俣城之介は須木より移動して屋敷が与えられた。
 ・永井平介、寺田弥右衛門、宮原弥七右衛門、中村藤兵衛は養子となった。 
 ・寛永六(1629)年島津大膳亮殿に付いて飯野へ移った士
  肥田木太郎右衛門、肥田木八左衛門、小玉才兵衛、
  向井二兵衛、落合甚介(本名伊東領内の人士)で出る。
 ・坂本讃岐は志布志から移動、
 ・宮田八郎左衛門は曽於郡から移ったが本の場所へ帰る。   
 以上は平川九郎兵衛、森山讃岐、黒木帯刀、朝倉三左衛門、山口隠岐が書き記す。
〇寛永九(1632)年 九番地頭 村田九郎左衛門殿
  噯山口隠岐
 ・穆佐から移入した衆中、但し石高、屋敷あり
  村田仲左衛門、田中長官、永浜穆佐(初め長浜)四人
 ・中島直左衛門(宗伝入道)は村田九郎左衛門殿に良く仕えた人で士として申し分なく、当所に
  屋敷を与えられ、後継は中島新右衛門である。
 ・永浜五郎左衛門(本名村田)跡継は孫兵衛、次は五郎兵衛と養子が続く。
 ・この頃の噯役は村田仲左衛門、丸山主膳、宮田正心入道、猿渡大炊殿。
〇寛永十三(1636)年、一向宗の厳禁で連座して減った衆中は二十人で次の通り。
 安藤治左衛門、川原四郎右衛門、大牟田五左衛門、福元覚右衛門、山下二右衛門、紙屋四郎左衛門、
 肥田木二郎左衛門、山口対馬、井牟礼勘左衛門、播薩戸利右衛門、松原彦左衛門、田口五兵衛、
 松下彦之 進、高橋掃部、高橋土佐、新甫筑後、木牟礼七左衛門、川原蔵人、児玉丹後

〇寛永十四(1637)年、此時代に跡継の子に取り立てられた 
 人々。養子となった人前田弥兵衛、徳永対馬、白石彦左衛門、田実表右衛門、東郷杢之進、
 橋口大玉坊、 鎌田案右衛門
〇寛永十五(1638)年、肥後国島原で軍が有った。正月に各地より出征した(但し石高持ちの士)
 
〇寛永十五(1638)年 十番地頭   鎌田源左衛門殿
  噯役 宮田正心、後に隼人、
  轟木大休坊後に甲斐両右衛門
〇同年(1638)二月 家久中納言(初代鹿児島藩主)逝去
〇寛永十六(1639)年十一月、光久公(第二代鹿児島藩主、大隅守、島津家廿一代目の子孫)が
 家督相続に 伴い諸外城を廻り高原にも来訪。 到着を迎えたのは、一番宮田六郎左衛門、
 二番宮田作左衛門、三番山 元丹後、四番丸山治部左衛門、五番宮田孝右衛門、六番村田助左衛門、
 七番森山宗左衛門、八番萩原志彦作、九番川瀬喜左衛門、十番山 波八郎左衛門、
 田口十左衛門の屋敷が本陣となり一泊された。
 家督相続の祝儀に村田仲左衛門、山口隠岐が参上する。
 この時地頭は鎌田源左衛門殿で、地頭仮屋に付書き記す。
 天正十年(1582)始め坂本寺本殿に五反の免地があり、地頭仮屋として坂本寺が預かってきた。

〇寛永十九(1642)年、野尻から移動した士
 宮田孝右衛門(本名意兵衛)、宮田作左衛門の子として入る。
〇寛永廿年(1643)人事異動
 小森長右衛門は楠田玄蕃の子であり、此時代に養子になった人々は横山大伝坊、山口代右衛門、
 弓削段右 衛門、酒谷福仙坊(後に山口伝兵衛)、小野藤兵衛、肥田木茂右衛門(後に時任権左衛門)
〇寛永廿一(1644)年、検地があった。

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