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  五 正保―貞享期(1645‐1688)
〇正保三年(1646)  十一番地頭   猿渡大炊介殿
 噯宮田隼人、甲斐両右衛門、轟木大休坊、
 後噯黒木次郎左衛門、丸山治郎左衛門、

〇慶安元(1648)年
 ・此年の八月に与頭(組頭)役が定められる。 地頭が決定し、森山新兵衛と同名吉左衛門が立て
  られた
 ・この頃の養子 中嶋新左衛門、田中市之介、田口蔵之介(与頭)、小野右京、梅木成右衛門、
  長友鉄寿坊、朝倉三左衛門(後に廻間佐右衛門)、二見加右衛門、黒木良言坊、長峰九左衛門、
  海老原休左衛門、山元新右 衛門、徳永軍兵衛、森山新兵衛(後に与頭)、大重十右衛門、山本
  新右衛門、瀬戸口刑  右衛門、樋渡五右衛門、大玉坊、 山口新左衛門

〇承応二(1653)年 十二番地頭    相良主税殿
 後噯村田仲右衛門、宮田隼人、川野大正院、丸山治右衛門、
 甲斐和泉、黒木次郎左衛門、驫木大休坊

〇明暦三(1657)年 検地があった。
 ・検地に際し噯役、郡見廻役には飯米の支給があり、翌年の検地奉行は川南次郎右衛門殿が
  指揮した。
 ・この頃の与頭は黒木良言坊、小野右京、平川主水壱郎、瀬戸口刑右衛門、斉藤万兵衛、田口
  蔵之介、肥田木源左衛門、朝倉太郎左衛門
 ・此時代の養子は岩本宇右衛門、丸山五郎左衛門、甲斐甚右衛門、中村弥六兵衛、迫田助六、
  楠田三右衛門、山下鉄之助、高妻弥五右衛門、日高万左衛門、黒木大之介
 ・木藤助兵衛は野尻より移る
 ・養子は松岡少右衛門、黒木高之介(後に高原堅物)、丸山源左衛門、黒木市兵衛、村雲
  三右衛門、
 ・永山次右衛門は永山早右衛門の跡を継ぐ
 ・新甫次右衛門は源左衛門の跡を継ぎ後に養子となる
 ・松坂休三郎は同六左衛門の跡を継ぐ
 ・中別府五右衛門は流罪を科せられたが、慶安元(1648)に赦され、明暦元(1655)年に
  鹿児島より帰り、入来の牟礼屋敷に入り、嫡子は斎藤屋敷に入る。

〇明暦三(1657)年  十三番地頭  相良吉右衛門殿、
 ・噯は宮田七郎兵衛、村田助左衛門、川野大正院、丸山主膳、後噯丸山伊賀、黒木助左衛門、
 ・与頭は田口蔵之介、瀬戸口伝右衛門、朝倉太郎左衛門、黒木良言坊、斉藤万兵衛、後与頭が
  替り藤田源五左衛門、 森山権右衛門、永浜五郎兵衛、猪俣為右衛門、黒木貞右衛門、高原
  良清坊、小野宇兵衛、  平川九郎右衛門、朝倉朱左衛門、大姶良武右衛門、樋渡世兵衛、
 ・此時代の養子は丸山主税、楠田浅右衛門、篠原堅右衛門、平川喜左衛門、萩原条右衛門、
  長山次左衛門、
 ・永牟田甚左衛門は長牟田銀右衛門の跡に入る。
 ・此時代に小林から入り養子となった者は川野長元坊で大正院養子となる
 ・宮田孝左衛門、同七郎兵衛は川辺より入る。
 ・斎藤休三郎は同正右衛門の養子、
 ・斉藤五右衛門は同刑左衛門の跡を継ぐ
 ・万治二(1659)年から寛文七年(1667)迄の間に一向宗連座で減った士は黒木宅右衛門、
  四位彦右衛門、徳永半平
 以上の内容は村田亥永入道が書記した記録による。

〇寛文六(1666)年 十四番地頭 喜入休右衛門殿、
 ・噯 丸山主膳正、黒木助左衛門、川野大正院、村田助右衛門、後に宮田弥兵衛
 ・与頭 藤田源五左衛門、森山権右衛門、平川九郎左衛門、後に猪俣為右衛門、瀬戸口与兵衛、
  山口伝左衛門、 小野大学左衛門、瀬戸口伝左衛門、田口蔵之介、朝倉朱右衛門
〇寛文九(1669)年 十五番地頭 山田民部殿、
 ・後噯 平川九郎右衛門、平川仲兵衛、川野長元坊、黒木助左衛門、丸山十右衛門源太、川野
  大正院、丸山主膳、黒木助左衛門、
 ・与頭岩本宇右衛門、朝倉太左衛門、藤田源五左衛門、田口清右衛門、永浜五郎兵衛、岩本
  丹後兵衛、森山権右衛門、後に小野大学右衛門、後に丸山勘左衛門、後に森山安兵衛、
  猪俣為右衛門
〇寛文十三(1673)
 ・二月十九日、光久公嫡子二十二代目薩摩守(綱久)様逝去

〇延宝五(1677)年、荒川内に馬次場(馬継場)が立てられる。
〇延宝八(1680)年
 ・十二月廿九日、喜入次兵衛殿の取次で養子縁組として亀田助右衛門は早左衛門の跡、黒木
  三右衛門は段左衛門の跡、松岡覚右衛門は少左衛門の跡に夫々認められる。

〇延宝九(1681) 高崎が別外城になる。
 高原地頭 山田民部殿
 高崎地頭 村田源左衛門殿、
 小林地頭 黒葛原吉左衛門殿
 ・五月十七日 区画割総責任者は野村太左衛門殿と菱刈弥兵衛殿で役人は鎌田又兵衛が担当。
 ・蒲牟田村、後川内村、麓村、高原に付属する。
 ・小林より広原村が高原に付属し、用夫廿人と衆中は入来為右衛門、川瀬喜左衛門、山波善右衛門
  赤川軍介、 前原少仙坊、武村新介、花堂円良坊の合計七人が含まれる。
 ・野尻から水流村の用夫九十三人及び、前田村、大牟田村、黒瀬村が高崎に付属する。
 ・高原の噯役は丸山十右衛門、村田仲右衛門、黒木助左衛門、
  高崎の噯役は川野長元坊、平川九郎右衛門
 ・境界(赤水)は花繰より鳥井原の辻北の一本松
  長尾山の境界は松尾道の楢の木、そこにあった山の神は後に狭野原に移る。この山の神は
  山田理庵老(島津義久家老、第六番高原地頭、この時の地頭山田民部の父)が立てたと
  言われている。 鳥井原の松より東は尾牟礼の塔、五輪の切石がある。 それより東は
  大平原で高原の地である。
 ・温水山の境界設定に立合った人々
  山奉行林休兵衛殿、高原噯村田仲左衛門殿、行司森山安兵衛、外に早田少右衛門、森山蔵之進
  甲斐両右衛門、瀬戸口刑右衛門、広原の源介、後川内村の佐助、小林からの人々は噯役
  時任三左衛門殿、横目大脇孫兵衛殿、行司梯対左衛門殿、竹木見廻田畑大蔵殿
 ・高崎境界に高原から立合った人々
  噯役村田仲右衛門、与頭森山安右衛門殿、猪俣為右衛門、行司斉藤源左衛門、竹木見廻萩原志彦作
  高崎からの人々
  噯役川野長元坊、郡見廻小野三右衛門、行司紙屋四郎左衛門、竹木見廻役小野三右衛門
 ・高崎衆中の屋敷は九十三ヶ所、高原衆中屋敷は百三十九ヶ所で、衆中の入れ替えも有るが役人日帳に
  詳細記録される。
 ・阿万拾兵衛は名前変更を訴えていたが、地頭の山田民部殿
  から上甲された。但し無屋敷である。
 ・丸山右京の跡は養子掃部が継いだ。

〇貞享元(1684)年  十六番地頭   若松彦兵衛殿、
 ・与頭(組頭)は森山安左衛門、甲斐両右衛門、中嶋六左衛門、岩本宇左衛門、
 ・噯役は黒木助左衛門、丸山源太夫、村田仲左衛門、黒木二郎左衛門(後に宮田弥兵衛)
 ・川原覚兵衛は一向衆として咎を受けたが赦免された。
〇貞享二(1685)年 十七番地頭は二年半無地頭、
 ・噯及び与頭は前年と同じ。
〇貞享三(1686)年  十八番地頭  種子島二郎右衛門殿、
 ・与頭は森山安兵衛、甲斐両右衛門、岩本宇左衛門、宮田隼人、中嶋二郎右衛門、瀬戸口刑右衛門、
  後に永浜勘兵衛。噯役は丸山源太夫、黒木二郎左衛門、村田仲左衛門外記、黒木正左衛門
  (後噯宮田隼人)及び宮田幸右衛門主馬。
〇貞享五(1688)年  十九番地頭   喜入休右衛門殿、
 ・噯役は黒木正左衛門、丸山五郎左衛門、村田外記、宮田幸右衛門主馬
 ・同年八月六日、島津綱貴公(廿三代目)が家督受け、鹿児島に入城された。
 ・薩摩守綱貴公の下向御祝儀として、平橋迄参上したのは
  宮田幸右衛門、衆中代表の永浜勘兵衛と村田外記。
  九月朔日に御城で噯役黒木正左衛門と士代表山本新八がお目見えした。
  

六 元禄期(1689‐1704)
〇元禄元年(1688) 十月六日に貞享から改元
 ・島津家二十一代目光久公は下屋敷へ移られ、九月に上京。
 ・十二月、小森武兵衛が鹿児島へ転勤となる。高弐才分を証文により高原から除く。 
  これに伴い馬十二疋、 人員 二十四人出る。
 ・三月、噯役は永浜勘兵衛、村田外記、丸山源太夫、丸山五郎右衛門代りの丸山孫之進、
〇元禄二(1689)年三月
 ・与頭は森山安兵衛、中島六左衛門、黒木吉兵衛、瀬戸口主水
 ・田実大蔵、岩本宇左衛門は養子をとる。 
  長牟田杢左衛門長山の養子となる。
 ・十二月、噯役は村田外記から宮田主馬に代わる、黒木次郎左衛門から丸山孫太夫に代わる。
〇元禄三―六(1690‐92)年
 ・三年正月、又三朗様(綱久嫡子、綱貴)島津修理大夫綱貴となる。これに伴い鹿児島の御城へ
  御祝儀の為、噯役の黒木正右衛門と衆中代表として、森山安兵衛が登城
 ・同年十一月、噯は黒木正右衛門から丸山五郎右衛門に代わる。
 ・四年六月、噯は永浜勘兵衛から宮田主馬に代わる
 ・五年正月、噯は黒木次郎左衛門が村田外記に代わる
 ・五年三月、かさみ噯役として永浜勘兵衛が就く。
 ・六年四月、噯丸山五郎左衛門から甲斐両右衛門に代わる
 ・廿番目地頭は空席となる。これは喜入休右衛門殿が地頭辞令を断った為、此時から当番の
  御用人衆(鹿児島 本藩)が高原の行政を支配する事になる。

〇元禄七(1694)年、藩主の死去
 ・大隅守様(島津光久、第二代鹿児島藩主)が十一月廿九日
  七十九歳で鹿児島の下屋敷で逝去。 
    新捐舘寛陽院殿薩隅日前太守従四位左中将
       泰雲慈温大居士御厄日十二月十九日
 ・五十日間は下々まで長髪、但し通達文では侍分だけとの事、諸出家は同様である。
 ・この時の噯役は村田外記、宮田主馬、永浜勘兵衛、甲斐両右衛門
 ・御厄日(葬儀)の十二月十九日には各外城(郷)から噯役一名と衆中代表一名参加する事が
  通達された。 高原からは噯永浜勘兵衛、衆中代表森山安兵衛が出席した。 
  諸所の諸寺から残らず諷経に参加した。  十九日より一七日間中院府で諷経があった。
  但し福昌寺に於いて施物(一貫文より五百文、三百文迄)は正月廿日迄禁止、
 ・諸普請は正月三十日より開始、海川の漁は十七日過ぎて解禁、正月の祝儀は例年の通りで良いが、
  祝い物の遣り取りは堅く禁止する。当然ながら上下も着用しない。市中の諸商売は十七日より
  解禁となる。
 ・神徳院は野諷経と府諷経に勤め、僧は九人(内二人は宝光院、錫杖院は病気の為不参加)、
  法道寺、国源庵は福昌寺に加わり野諷経に参加する。
 ・十一月三日に御逝去になったと云う事で、御悔やみとして噯役宮田主馬、士代表瀬戸口主水、
  丸山次左衛門が準備したが、後に十一月廿九日が正しいとなった。
 ・薩摩守様(島津綱貴、第三代鹿児島藩主)は在国。
 ・修理大夫近作様(忠竹、後の第四代藩主島津吉貴)は江戸に住居しており、元禄八(1695)年七月
  廿五日に初めて鹿児島に下向され、この時廿歳だった。高原より御祝儀に押領司長門大夫、
  宮田作左衛門が  市来湊に出迎えた。  此の時は無地頭であり、噯は宮田主馬、村田外記、
  永浜勘兵衛、甲斐両右衛門  である。 
  七月廿七日に下屋敷へ御祝儀に参上(永濱勧兵衛、丸山源八)
  註1 第二代鹿児島藩主、島津光久は長命で七十九で没しているが嫡子綱久は四十歳台で死去
     しており 三代藩主の地位は綱久の嫡子である綱貴(光久孫)に引き継がれた。

〇元禄九(1696)年、鹿児島の大火
 ・正月廿六日、綱貴公は鹿児島を出発。
 ・四月廿三日晩、鹿児島御城が焼失したので御見舞に噯の宮田主馬と衆中代表として押領寺長門が
  お見舞いに参上した。この火事で御城の重臣達も言葉を失っていた。 この時高原は地頭空席で、
  噯役は永浜勘兵衛、村田外記、甲斐両右衛門、十一月に宮田主馬に代わり丸山源太夫。 
  諸所士や寺僧は木や竹を一人に付竹三本、小竹二十本か長木一本、百姓は茅、菰、縄類を提供する。
  下屋敷は燃えなかったが、被害はあった。 竹木持参は次男迄、中間も含み普請役所へ納める。
 ・十一月、廿番地頭に樺山権左衛門殿が就任。
  御祝儀に参上するため、甲斐両右衛門、与頭瀬戸口主水、郡見廻永牟田市左衛門、行司宮田
  伝右衛門、 横目押領司長門、庄屋木藤八右衛門が十一月十一日出発した。
  この時の噯は村田外記、永浜勘兵衛、甲斐両右衛門、丸山源太夫、与頭は黒木主計、森山安兵衛、
  瀬戸口主水、  丸山源之進、永牟田市左衛門、丸山十左衛門である。

〇元禄十(1697)年、古文書調査
 ・五月廿九日、系図並びに古書物や古諸目録書の調査確認のため、諸所を訪問。
  調査官は市来源右衛門殿、筆者貴島仲兵衛殿(病気で小林に滞在)。 
 ・此時高原地頭は樺山権左衛門殿、噯は村田外記、甲斐両右衛門、永浜勘兵衛、丸山源太夫。
 ・黒木家古文書調査の記録
  一土地帳簿一通、慶長十九(1614)年八月四日付
  一屋敷目録一通、慶長十九年十月廿五日付
  一黒木氏系図一通
  一三原左衛門佐、川上右近将監、島津下野守(何れも家老)からの切紙一通、十一月十五日付、
   黒木土佐宛
  一大友義統書状一通三月十日付、今村作之丞、高畑式部少輔宛、
  右御用のため受取りました。記録所で写しが済み次第返却します。   以上、 
    五月廿九日 黒木助左衛門殿、 市来源右衛門判

 ・写本
   庄内合戦への協力に対し、此度四石の加増が下される。
                入来院又六印(真幸院軍代)
 ・土地帳簿          黒木助左衛門殿
   日州諸県郡高原の中に七十町石持しき一ほり切
                  同 黒鳥川内
       天正十五年宛 上井次左衛門秀穂
        九月日
        黒木土佐守殿
 ・写本
   知行目録
    高五石三斗三升 浮免
 右の地は公役に対して宛がわれるものである
  慶長十九年八月四日 三原諸右衛門判、伊勢兵部少輔
            比志島紀守判、町田少兵衛尉無判(何れも家老)
   黒木助左衛門殿 
 ・写本
   黒樹紙の系図、但し破損している
 上書に藤原北家、菊池氏の系図とあるが続いていない。
 ・右目録の上に
  田畑合計四反七畝廿七歩、籾大豆十五俵、三斗四升六合九勺内二升三合三勺川成行京升による
    坪数は写さず。急用であり合計を写した。
 ・写本
   近年諸所における軍(いくさ)に協力あり感謝している。就いては今春、諸勢に必ず
   お願いするので、当村の兵力を準備願う。
   今村主馬入道が協力してくれるので特に世話を頼む。
   少しも油断なき事。恐惶謹言
                 義統書判
     三月十日
    今村作之丞殿、高畑式部少輔殿
 ・写本
   此度の戦で戦死した者が有れば報告されたい。
   少しも油断しないこと。 左近将監左衛門佐判
      霜月十五日           下野守判
     黒木土佐守殿
 ・朝鮮における虎狩の書一冊があったが、急であり写さなかった。
 ・豊臣政権五大老からの書面写し一書
     会津中納言景勝、安芸中納言輝元、備前中納言秀家、加賀大納言利家、江戸内大臣家康
    羽柴兵庫頭殿(島津義弘)
    同又八郎 殿(島津忠恒、後の家久)
   右書面の本紙は別にあり。
   註1 本紙とは薩摩軍の活躍で円滑に日本軍が朝鮮から撤収できた事に対する感謝状
     (旧記雑録にあり)と思われる。

 ・大坂夏の陣で元和元(1615)年、豊臣秀頼が滅亡したが、島津陸奥守(家久)から秀頼配下の
  大野修理大夫(治長)への返書写しで、別紙あるが写さなかった。
   註1 別紙とは秀頼に味方する様に大野治長より依頼があったが、島津家が断った文書と
     思われる。
 
 ・右書物及び系図は一冊又は二冊又は十冊のものを提出し、請取証は頂いている。
     元禄十年(1697)五月
   合計古書十通を提出し受取証は頂きました。
               黒木助左衛門より提出

 ・その外古文書提出の人々
  永田市左衛門・斉藤五左衛門・竹下志嘉・黒木助左衛門・新穂次左衛門・入木村百姓兵左衛門・
  早田少右衛門・萩原弥左衛門・永濱勘兵衛・迫間市左衛門・阿万勘左衛門・庄田善左衛門・
  山元新八・瀬戸口為角・四位与左衛門・東光坊門前・山口伝左衛門・肥田木新左衛門・内田甚蔵・
  田口四郎兵衛・飯野中間の山下半左衛門・斉藤権八
      合計二十一人でそれぞれ写を取った。
      元禄十年(1697)五月廿九日
 
〇元禄十一(1698)年
 ・二月十三日より同十九日迄、鹿児島の大乗院で鎌倉の頼朝公五百年忌の法事があった。 
  島津家の主催で、法名花尾権現と号した。 神徳院はこの法事の諷経に参加した。 
  二月十七日の勤行には台宗法華八講の僧合せて八人、
  東からは坂本寺、宝光院、西雲寺が参加した。 この際人馬の手当の指示があり、高原から
  士三人が付き添った  宮田主馬、竹添松右衛門、岩元斎宮である。
  此時の地頭は樺山権左衛門殿、噯は永浜勘兵衛、村田外記、甲斐両右衛門、丸山源太夫である。
  此外福昌寺や臨光明寺も諷経に参加した。
  註1島津家の元祖島津忠久は源頼朝の長庶子であるという伝承で頼朝五百年忌がおこなわれたもの。

〇元禄十二(1699)年
 ・四月に領内諸所の境の測量があった。絵図作成の為鹿児島より検使二人、絵師二人が立ち会った。
 ・地頭は樺山権左衛門殿
 ・噯永浜勘兵衛、村田外記、黒木治部、丸山源太夫、この正月に与頭は森山安右衛門に代わり
  黒木主計、噯役の外記に代わり黒木正左衛門、八月与頭森山安右衛門に代わり息子新之介となる。

〇元禄十三(1700)年
 ・四月、綱貴公が江戸へ参勤された。
 ・六月、子息修理大夫公(吉貴)下向され、御祝儀に丸山治部左衛門、岩元伝兵衛が参上した。
 ・十二月、松平家の尾張大納言殿(徳川光友)逝去。
 ・十二月 松平家水戸中納言(徳川光圀)逝去

〇元禄十五(1702)年
 ・地頭は樺山権右衛門殿
 ・与頭 黒木主計、但し森山新之介の代り、元禄十四(1701)年三月、永浜勘兵衛、宮田主馬、
  丸山五郎左衛門、  宮田六左衛門
  噯 丸山源太夫の代り甲斐両右衛門、丸山治部左衛門 元禄十五年(1702)正月
  行司の森山安右衛門代り田口内蔵之介  元禄十四(1701)年正月
 ・中将様(藩主島津綱貴)在国だったが、三月十日江戸に登られた。
 ・二月十八日、前の元禄十年(1697)五月に提出した古文書が返却されるので、
  噯役の黒木治部之介が鹿児島藩庁に参上した。 記録所へ提出したものを返却された。 
 ・噯役は黒木正左衛門、甲斐両右衛門、村田外記、黒木治部之介である。合計二十一人に対し、
  二十八匁宛与えられた。
 ・古書物は返却されたが、十通の内一通は留め置かれて高原衆中と書かれた墨書きの札が付けられた。
  古文書の留め置かれた人数記録
  古書文二ツ 永浜勘兵衛
  同 一ツ 田口四郎兵衛        
  同 一ツ 黒木助左衛門
  同 一ツ 竹下志嘉
  同 一ツ 飯野の中間山下半左衛門
  右細かく書き記した別紙がある。
 ・二月十五日、修理大夫様(吉貴)は江戸から帰国の途中、白鳥山へ参詣された。高原からは
  噯黒木正左衛門、 相川瀬七左衛門、及び大口へ行く二人、岩本伝兵衛と丸山十左衛門が参加し、
  総責任者として村尾源左衛門  殿が加久藤へ詰められた。
 ・十月十一日、修理大夫(吉貴)様は西霧島寺へ行かれた。高原より進物持参の使いとして
  宮田六左衛門、押領司長門が勤めた。 神徳院及び錫杖院からも御進物を差し上げた。
 ・噯黒木正左衛門、村田与右衛門、黒木治部之介、甲斐両右衛門 
 ・十月廿四日、近習御目付の竹田八郎右衛門殿が外城視察に来られた。特に親孝行の者を報告した
  ところ浮洗の境遇にある者を報告する様にと事だった。 その外諸事当地の事を申し上げた。 
  神徳院及び錫杖院へ訪問された。
  此時噯は甲斐両右衛門、黒木治部之介、村田与右衛門、黒木正左衛門、横目は木藤八右衛門、
  瀬戸口主水
 ・十一月、江戸の火事で芝の御屋敷も焼けたので、鹿児島城へ押領司長門、黒木貞右衛門に二名が
  悔やみに参上した。 この火事の支援米として、高一石に付き米一升供出するよう通達あり、
  通常の出納米に加えて  それぞれの蔵へ納入すること。 書状は地頭から渡す事が口上で連
  絡あった。尚次男の屋敷は供出除外の書状が地頭から出された。
                          押領司長門・黒木貞右衛門
 
〇元禄十六(1703)年
 ・二月、樺山権右衛門殿死去により無地頭となる。 
 ・噯役村田与右衛門、甲斐両右衛門、黒木五左衛門、黒木治部之介
 ・四月、行司(山林管理役)が丸山十左衛門から黒木次兵衛に代わる
 ・八月、前年に返還されなかった五人の古文書は島津豊前殿が留め置かれ、返却されないと
  通達あった。黒木助左衛門の古文書は京竿が採用された時の趣意書。
 ・十一月廿三日、江戸で大地震が止まず、十二月十四日迄 時々揺れたとの事。 
  死人廿一万五千七百人と聞く。
 ・翌年(元禄十七年)迄百文に付米二升とする事。

〇元禄十七(1704)年
 ・四月六日、奈良の大仏用材として、松二本(十八尋長=約三十m、木口四尺=一・二m)を
  加久藤白鳥山から千人以上で引き出し、各地に運搬の加勢を命じられ、衆中、町人、出家、
  郷内の人々全てが参加した。  
  国分の川から船に積む迄、飯野から道筋の各外城(後の郷)である小林、加久藤、馬関田、吉田、
  吉松、栗野、横川、踊、曽於郡、高原、高城、山之口、都城、財部、末吉、勝岡、加治木が
  参加した。 尚飯米は支給されなかった。
 ・五月に年号が替り宝永元年となる。



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