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   十三 慶応―明治初(1865‐1871)
〇慶応元(1865)年
 ・元治二年六月年号替る。六月より諸物価高くなる。
  白米二斗二升入一俵、十一貫五百文替(高原・小林地域)  
  但し関所外四ヶ所穆佐地域では、白米一升一貫文、
  秋山標でも一升が一貫文である。二斗四升入は二十四貫文 
  但し鹿児島も二斗四升入りで二十四貫文である。
  麦は百文で四合、小麦は百文で三合、粟百文で四合
  大豆百文で三合、そうめん百文で二十五匁(約九十四g)
  木綿百文で四匁から三匁五分(十三―十五g)一反で七貫文、
  あさおにこき百文で四匁(十五g)、上布は一反が十八貫文、中布一反十五貫文、下布一反十二貫文
  金物や諸道具は百文で六匁(二十三g)、翌年には四匁(十五g)になる。
  翌年(1866)六月には、白米二斗二升入で二十四貫文になり、他諸物価もこれに応じて高くなった。
  当年(1864)十月には白米二斗二升入が十五貫文である。
  註1 幕末の物価高騰は通貨改鋳によるインフレによるものだが、一つには開国に伴う交易で、輸出に
   物資が廻り国内物資がひっ迫したと言われている。鹿児島藩では琉球経済立て直しの為として
   琉球通宝の発行権限を幕府から三年の期限で許可を得たが、この設備技術を利用して
   天保通宝(百文)の偽貨幣を大量に鋳造し、武器購入等に当てたと言われるが、これも
   インフレの原因と思われる。

 ・天正十八年(1590)噯役が始まり、天明六年(1786)迄二百年程、衆中、噯が定められていたが、
  天明六年から郷士、郷士年寄と名前が替り、慶応元年(1865)六月に又衆中、噯となった。 
  百年程郷士、郷士年寄と呼ばれた。
 ・前年から真幸院内四ヶ所で酒屋が許可され、藩で買上げる事になった。慶応元(1865)五月より
  これら酒屋村に鹿児島の町人三百世帯が移り、住居建設が各地で始まった。
 ・十月七日頃から坂本寺の山に猿が一疋現われ、その後宮田山に移り、同月廿日頃にも現われ数日
  見られたとの事。 以前百五六十年前の正徳年間(1711)に霧島山が噴火した時、猿が里に下りて
  来たと云う。今度は一体何の予兆だろうか、その内に分かるだろう。

〇慶応二年(1866)
 ・六月十六日、異国船が鹿児島の前に着船した。軍艦三艘で前々から長崎で相談して招待したもので、
  ロシア、オランダ、イギリスの各国軍艦が訪問したと聞く。磯の浜で同廿日鉄砲の演習の為との事。
  同月廿二日鹿児島を出船したと聞いた。
 ・昨年十二月から鹿児島城下に諸郷からの番兵が詰める事になり、郷士高五百石に付、一人づつ勤務
  する事になった。 高原からは、竹之下庄五と田口敬之助が勤務したが、今年)七月朔日から鹿児島
  から京都守衛に転勤となり、同三年(1867)二月十三日帰国になり、前述庄五と敬之助は高原に
  到着した。

〇慶応三年(1867)
 ・正月十一日、宮田の上斎木百姓甚太郎と云う者の養女が牛の子を産んだ。 躰一つに足四つ、尾一つ、
  首から二つになり、両方の頭に歯の生えた口があり、鼻二つ、目四つ、耳四つ、角四つで全て揃った
  牛である。 月数も合う黒牛であるが、四五日もすれば死ぬだろうが、城下へ報告した。
  この様な事が過去にもあったか調べると、六十九代後朱雀院の代、長久四年(1043)に牛が頭二つ
  ある子を産んだとあり、この年大日照りだったと云う。
  註1.牛の奇形児が生まれた咄だが、産んだのは養女ではなく牛だったのが、伝達中に養女となったか
 ・去る慶応元年(1865)頃、将軍が死去され、一橋家に将軍継承をお願いしていたが、同二年冬死去
  されたので、当分将軍は不在となると云う。
  同二年(1866)十二月、天子様が痘瘡で崩御され、明けた三年正月には禁断五十日が通達される。 
  天子崩御による禁断は此の時が初めてである。
  註1 十四代将軍家茂は慶応二年七月廿日、大阪城で病死した。次の将軍は田安亀之助(三歳)を
    遺言で指名したが実現せず、その年の十二月五日一橋家の慶喜が押されて十五代将軍となり、
    五か月程将軍空位となる。 孝明天皇の崩御は十二月二十五日。

 ・二月廿八日、鹿児島の番兵勤務が命ぜられ、高原からは高妻熊太郎と橋口嘉太郎の二名が勤めた
 ・二月、高原地頭は小林の居地頭管轄だが、鹿児島で死去されたので、三月から地頭が替り
  谷川十郎兵衛様が任命されたが同年九月鹿児島で死去された。
 ・九月、小林居地頭が替り、近藤七郎左衛門殿が任命され十月始めて来られた。 高原諸社へ参詣の
  為十月十二日高原へ入られた。 
  この時の地頭は五ヶ所、小林、須木、野尻、高崎、高原を管轄される。
 ・七月、白米二斗二升入俵が四十四貫文になる。
  粟一俵三斗二升入りが三十二貫文、あさお(麻糸)は七匁が百文で、新こきおは三匁で百文。 
  他の諸品はこれらの値段に準ずる。 作物の出来具合は平年並みである。
 ・八月十二日、鹿児島の前之浜を出船して京都に登った人々がいる。 
  高原からは高妻熊太郎殿、橋口嘉太郎の二名が上京した。 此の時同船で狭野権現神主の岩元大和、
  社家の日高右近と岩元兵庫の三人が上京し、白川家の直官になった。
 ・九月、諸所の寺領が召上げられた。 高原郷では、花堂の坂本寺、広原の真弦庵、麓の地蔵院、
  水流村の極楽寺、以上四ヶ所が藩に没収された。
 ・鹿児島では前々から琉球通宝の百文銭及び半朱銭札を銭に交換し、天保通貨となる。
 ・十一月十三日、薩州太守が前の浜から出船して上京され、これは八九年ぶりの上京である。
 ・太守様が京都に上られた時、明けて慶応四年(1868)正月三日、江戸徳川家の軍勢が京都に押し
  寄せ、薩摩守を討つ計画だったが、薩摩勢が伏見で防ぎ留めて勝利し、大阪迄追討した。
  大阪城を焼討し薩摩・長州の味方は同月十日迄大阪淀、伏見で毎日戦ったと聞く。 徳川家の将軍も
  最早是迄である。 
  この二月中に長崎、天草、豊後の富田、日向の本城の各地を薩摩軍が討ち取ったと聞く。

〇慶応四年(1868)廃仏毀釈
 ・三月十一日、鹿児島へ番兵勤務の為、高原より丸山儀一郎、黒木一彦の両名が出発した。
 ・四月廿九日、錫杖院住持は麓の法連寺への移動が命ぜられ、 同寺内の御宮脇にある千手観音や
  諸仏も法連寺へ運ばれ、仁王は焼失した。
 ・同閏四月三日、神徳院住持は小林の宝光院へ移動が命ぜられ、右両寺には高十五石分宛下された。
  狭野神社脇宮の千手観音及び寺内諸仏は三日に焼失した。 仁王は石でできているので脇の山内に
  捨てられた。  郷内村々の諸仏は、次第に村々へ神道が入る事により、焼かれるか破棄された。
  高原における諸仏焼却棄却の役は曽於郡より派遣され、高原の後は小林や妻霧島へ移って行った。
  以上此度の諸仏棄却の事は日本国中へ天子からの勅許に基づき通達された事であり、僧職に是迄
  許可されていた、神徳院高二百八十石余、寺境内の横千間(一・八キロ)縦二千間(三・六キロ)の
  免税地及び領内の田畑の寺領分が没収された。
  錫杖院は高百三十石余、寺境内の祓川後前しんのいぼ迄の寺領分地、田畑が没収された。
  この両寺内は今行政管轄になり、大山野管轄が通達された。
 ・神皇十一代垂仁天皇の代に、後漢明帝の永年十年(西暦67)天竺から仏法僧が日本に渡り、白馬寺を
  初めて建立し、それから五百六十八年を経て人皇三十代欽明天皇の時、大蔵経二千巻が日本に渡り、
  百済より五経博士、暦の博士、医薬の博士、僧侶十人余が渡来した。 天皇の命により大和の大宮大寺
  を建立した。 百済から金の釈迦像、旗、天蓋、仏典が天皇に贈られたのでこれらを蘇我稲目に
  給わった。 稲目は大和に向原寺を建立して仏像を安置する。 
  これが日本へ仏法が渡り、伽藍の始めである。 
  その後疫病が流行り、物部尾輿等は、神国に仏法を用いる事による神の祟りだと言い仏像を破棄する。
  しかし疫病が収まらないので再び仏法が始まるが、疫病、洪水、大風は年毎にあり、人々は悩む。
  三十二代敏達天皇の時に聖徳太子が出て、仏法は繁栄する。
  この敏達天皇代(西暦574)より当慶応四年(1868)迄千三百二十八年になる。 その間仏法は盛んで
  寺領分による石高は日本国中では何百万石になるか分からない。
  これは神徳院大権現、錫杖院大権現が報告している事であるが、今より神徳院は社と呼び、寺の跡を
  神主館として神主の居所である。
  錫杖院は祓川神社と呼び、寺の跡を東御在所神主館とする。
  東御在所錫杖院跡には押領司権之守が慶応四年(1868)閏四月廿五日に移った。

 ・閏四月、天徳元年と年号が替わると云う情報があったが、替らなかった。
 ・同年五月十日、鹿児島へ番兵として出張した丸山儀一郎、黒木幸之助は勤務解除となり、替りに
  丸山十郎右衛門と永田円十院が五月十日に辞令が出て、同十一日それぞれの家を出発した。
 ・閏四月廿日と廿三日に下野国宇都宮城で戦争があり、敵方徳川氏・会津氏が敗れた。味方薩州・長州は
  大勝利との事。
 ・五月の通達。 昨年(1867)八月、京都の守衛として編成された部隊は、東国の徳川家及び会津家が
  朝敵となったので、その征伐に出軍するとの通知があった。
 ・五月晦日、京都守衛が命じられ、高原からは永濱勧右衛門、黒木幸之助の両名が出発したところ、
  同七月三日から越後国の越後口と言う所で勤務する事になり、鹿児島前の浜から出船した。 
  同月廿四日から丸山十郎左衛門、永田円十院も前の浜から出船し、越後口に勤務した。

 ・六月に記録する。 去る慶応三年(1867)十二月八日頃から徳川氏、会津家、桑名家は内々大坂へ
  軍勢を向けて謀反を企てたが、明けて四年正月三日より大合戦になった。 
  征討大将軍に仁和寺宮様が出陣され、錦の御旗を立て、諸所へ出張されたとの事。 
  同十二日頃迄数日戦いがあり決着したとの事。 これにより徳川将軍は無くなり、高八百万石は没収
  されたとの事
 ・五月の通達。
  一銅銭壱文は鈖二十四文となる。
  一銅銭四文銭は四十八文となる。
  一小刀、かまの類は鈖百文で三匁五分の重さが買える。
  一なた、よき、鍬、山鍬の類は鈖百文で四匁五分
  右の四ヶ条の他に金一両が鈖九貫文は従来通り。 
 ・九月から銅 鈖壱文
  一銅銭一文が三十二文になる。
  一天保銭(百文)ひとつ二百文
  一半朱(琉球通宝)一つ三百文
 ・十一年前の安政五年(1858)八月に北北西の方にほうき星がでたが、慶応四年(1868)正月大戦争
 (鳥羽・伏見の戦い)があった。
 ・秋に年号替わり明治となる。(九月八日)

〇明治元(1868)年  戊辰戦争の終結
 ・九月廿三日、奥州会津城が落ちた。
  官軍が会津城を包囲して攻撃したところ、賊側が敗北し、先月廿二日に城主肥後父子を初め、別紙の
  通り謝罪状を提出し、翌廿三日には刀を外し軍門に伏したので、同所近辺の寺で謹慎させられた。
  部下は猪苗代で謹慎となり武器は全て提出した。同廿四日に居城を受取となり米沢も降伏を申し出た、
  この事を関係者に通達し、諸郷、私領へも通達する。
  但し本文の通、会津が降伏したので、一番隊より六番隊迄、一番遊撃隊、一番、二番大砲隊、白川口
  臼砲打係は国元への帰陣が通達され、先月廿四日に会津を出発した。
    (明治元)十月
        備後  島津忠義 (鹿児島藩主)
        図書  島津久治 (以下家老連名)
        右衛門 桂 久武 
        龍衛  川上久齢
        内膳  町田久憲
        良馬  島津久義

 ・会津謝罪文
  臣容保は恐れながら言上奉ります。 私は京都在職中、朝廷の莫大な御恩を蒙りながら万分の一も
  お返しもしない内に、当正月伏見において行違いで暴動の一戦を皇居の近くも憚らずに起こした事が
  天朝に聞こえ深く畏れ入ります。 それ以来引き続き今日まで朝廷軍の敵として抗った田舎者の頑迷
  による過ちは今更言い訳も御座いません。 実に天に許されざる大罪、あたら人民に塗炭の苦しみを
  与えた事全て臣容保のやった事です。 今後どの様な刑罰を下されても恨む事はありません。
  臣父子並び家来の死生について偏に天朝の聖断を仰ぎます。但し国民(会津の)と婦女子に関しては
  元々知らない事であり罪もない事ですから、全てお赦し戴く様代わってお願い致します。
  これにより是迄の兵器は全て差上げて速やかに城を開き、官軍の司令部へ降伏謝罪を致します。
  この上で若しも王政復古による特別の恵み深く寛容なご処置がなされれば有難い事です。 此の事を
  大総督府の長官に万死を冒して歎願致します。 恐惶頓首再拝
                慶応四年(1868)九月      源容保(松平容保)
                                           謹言

  亡国の陪臣長修等が謹んで言上致します。 老君容保は長く京都で奉職しており、朝廷の厚恩を
  蒙りながら、それにお応えする事もない上に、天朝の咎めに触れて遂に今日の事態に至りました。
  容保父子が城を差上げ降伏謝罪する事になった事は、偏に私達臣下が頑迷粗暴で輔弼を失った為です。
  今更お願いも却って恐れ多い事では御座いますが、臣下の気持ちとして耐え難く、代わって私達を
  厳刑に処して戴く様に伏してお願い致します。 何卒容保父子に関してはお恵みを以って寛大な処置に
  して下されたく、失礼を顧みず祈願致します。 臣長修等 恐惶頓首再拝
                   松平若狭守喜徳重役  容保養子現藩主
                   菅野権兵衛長修花押 家老
                   梶原平 馬景武花押
                   内藤介右衛門信郎同
                   原田 対馬種龍同
                   山川 大蔵 重同
                   井深茂右衛門重常同
                   海老名郡治李 同
                   田中源之丞玄 同
                   会津右兵衛為 同
                   外諸臣共一同
                                   謹上
 
  会津総人員
  一治官・士中(軍事局共)三十人
  一役人       六十八人
  一士、兵隊     七百六十余人
  一兵卒の他下々迄  六百四十六人 
  一士中以下下々迄  千六百九人 
  一病人       五百七十人
  一士中の従僕    四拾二人    
  一他領脱走     四百六人            
  一婦女子      五百七十五人 
  一鳶の者      二十人
  一奥女中      六十四人  
   右以外に城下に滞在するもの合せ五千二百三十五人         
 
  武器の記録
  一大砲    五十九挺、弾薬含む
  一小銃    二千八百二十五挺 
  一胴乱    十八箱   (火薬を携帯する入れ物)  
  一小銃弾薬  一万二千発
  一鑓     千三百二十筋
  一長刀    八十七振 
     以上
                九月    今村九左衛門 

  右の通り書面至急回覧する事、
  地頭方へは別に連絡していないので、そちらで報告せよとの通達である。 以上
         明治元(1868)十月十五日 地頭所取次 市来清八郎
      小林・野尻・高原・高崎・須木の噯役宛
              
 ・慶応三年(1867)八月から鹿児島番兵勤務の高妻熊太郎、橋口嘉太郎は京都守衛を命ぜられたが、
  翌年(1868)五月、江戸への出兵が命ぜられた。 橋口嘉太郎殿は江戸に到着した後、越後国へ出兵
  して戦ったが同年七月十二日腹部臍脇に砲弾があたり重傷を負い、四年十月帰国帰宅した。 
  一方高崎番兵の平川藤兵衛は同所同日に戦死し、八月三日に越後国に葬った旨が十月に連絡あった。
  高妻熊太郎殿は京都で脚気の病で帰国を命ぜられ、四年六月に帰宅した。

 ・慶応四年(1868)秋、号が替り明治元年となる旨通達があった。 
  同年五月晦日、鹿児島番兵を命じられた永濱勧左衛門、黒木幸之助が高原を出立し、同八月三日
  鹿児島前の浜から出船して越後国への出兵が命ぜられた。 同月四日五日の間、肥前国の沖合で大風に
  より蒸気船のメインマストが吹き折れ、平戸と云う所に六日の夜一泊、そこから出船して越前の敦賀の
  湊に着き、翌九日出船して越後国新潟に到着、滞在した。 
  十六日に新潟を出船し、十七日出羽国秋田郡久保田に着いた。 ここの城主は官軍の味方だが、爰から
  十二里に敵勢が居るので押し寄せ、神宮司の玉川花立で戦闘があった。
  廿三日の午後四時から翌朝二十四日六時迄戦闘が続いた。 又九月十五日から十七日の朝迄上島、
  皆岩野、樺山の三ヶ所で大きな戦闘があり、追討したところ敵は降伏した。 その後各地皆降伏した。
  
  その後奥州に行き、奥州道より常陸国(現茨城)・武蔵国(現埼玉)を通り江戸で十日滞在した。
  以後廿日迄に諸国を通り京都に到着、七日間滞在後大阪に下り六日間滞在した。 
  十二月十三日出船し、廿四日五日の間土佐沖で難船し、廿六日日向細島に着いた。
  廿九日に高岡に泊まり、明けて明治二年正月元日に高原に帰宅した。 両人共無事帰宅できた。
 ・明治元年(1868)五月に鹿児島前の浜を出船した丸山十郎左衛門殿と永田円寿院殿は越後国へ出兵を
  命じられ、戦闘して新潟に五十五日滞在し、明けて明治二年(1869)二月廿三日に高原に両人共
  無事に帰宅した。
 ・これら関東東北へ出征に先立ち、門出でとして狭野神社並び東御在所神社に参詣し、初穂料として
  一貫二百文、焼酎三杯宛差上げて御神楽を頼んだ。 その時より毎月朔日に狭野神社に御神楽、
  月中十五日に東御在所に御神楽と前記品物を差し上げた。人数が多い時は二貫文或いは二貫五百文、
  焼酎も五杯程差上げた。後の為此処に書き記す。

〇明治二年(1869)
 ・七月、是迄領国(藩内)の先祖を祭る際は仏僧により、中元の七月十四日五日の両日、生霊盆祭りを
  して来たが、挙行禁止となり、神道祭りにする事が通達された。
  二月四日以後十一月中の卯日より以後、年中に神道で先祖祭りを行う様通達あり、皆承知した。
  昔からの事を顧みると、神武天皇より人皇二十九代宣化天皇迄は神道のみであり、先祖祭りも神道に
  よる祭りだったという。 三十代欽明天皇の時、天竺又は唐から仏法僧渡来して、仏道が繁昌したと
  云う。人皇始めから一千五百三十七年に当たる四十五代聖武天皇の御世に、日本国中全て仏僧による
  生霊盆祭りが行われたと思われる。 
  この時から当年迄一千十六年の間の習慣であるが、此度取止めが通達された。
  人皇三十八代斉明天皇代に初めて諸国の寺でうらぼん経を読ませた。後世是を聖霊祭と云ったとある。

 ・八月、薩隅日三ヶ国御城で鹿児島城下士小番家、新番家、御小姓組家、諸郷衆中士と是迄三段階
  あったが、此度徳川将軍家との戦争で諸郷から出兵して東国が収まったので、城下士、小番、新番、
  御小姓、諸郷衆中は皆同格とする事が通達された。
  この件は八月十六日、小林地頭仮屋に噯、与頭、横目の三役が呼ばれ、地頭の近藤七郎左衛門殿から
  直接通達された。
 ・徳川将軍家が廃止となり、明治元年(1868)三月、京都の天子は江戸に治めに下向され、公家の
  仁和寺宮様が将軍になり、老中、若年寄役、目付役が夫々替わり三政(参政)役等の名に替った。
 ・諸郷の役々も常備隊大長役支配に役名が替った。
 ・明治元年(1868)三月、所領持の大名十九人は鹿児島城下に移動となり、その跡領分は郷となり
  国主(藩主)の支配下になった。これらの御一門家は、重留一万八千石余、加治木一万八千石余、
  垂水一万三千石余、都城三万七千石余、其外八家は城下で知行高千五百石が給与された。
  その他大名並び寄合家の知行は三百石となった。
  大名十九家の私領は、重留、加治木、垂水、花岡、新城、市成、種子島、知覧、喜入、鹿籠、吉利、
  永吉、日置、平佐、入来、宮之城、黒木、蒲牟田、都城であった。

〇明治三年(1870)
 ・十月、高原、高崎は一緒になり、高原内の水流村は上庄内に付属し、高城内の妻霧島は高原に付属、
  都城内の桑鶴村は高原に付属した。 此時都城は三つになり、上庄内郷、下庄内郷となり、加治山
 (梶山)は勝岡に付属した。
 ・七月、高原・小林地方で所々白米二斗二升入り一俵に付七十三貫文の値段になった。
  藩内でも鹿児島では一俵で八拾貫文になった。 その他諸物価高くなった。
  同四年(1871)始めより白米は三十貫文なり、同七月から白米一俵二十貫文になる。
 
〇明治四年(1871)
 ・九月、各地から江戸へ出兵する様に通達があった。 
  諸郷から合計八百六十余人が九月八日に鹿児島前の浜から出船した。 
  高原からは五人、藤田本助、高妻藤太、平川十郎左衛門、四位、日高が出兵した。
 ・九月十五日、鹿児島吉野で調練があり、薩摩、大隅、日向三ヶ国から常備隊十四大隊、予備隊十大隊、
  他に鹿児島から大砲隊、諸郷番兵隊六隊、合計三十大隊が集まった。
  高原からは常備隊一小隊半、予備隊半隊、合せて二小隊が出兵した。 総人員は一万三千人余である。
   註1 陸軍の編成は小隊が三十~六十人、大隊が三百~一千人である。 小隊が二~四で中隊、
     中隊二~四で大隊を構成する。

                         
記録終