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  十二 安政―元治期(1855‐1864)
〇安政二(1855)年
 ・三月十五日、御池を巡回した。昨年十一月五日の大地震の時から、御池の水が引き始め、今年になり
  各地から御池辺を数人が毎日廻っている。 私永濱万兵衛も狭野の児玉平馬と連れ立ち巡回したが、
  水面が弐丈五尺(7.5m)程下っている。 西嶽の下に楠木があり二百m程水から離れている。
  横が五尺(1.5m)、長さ五間(9m)程ある柳木の堂宮より後の浜迄四拾間(70m)余り水が
  引いた。 水際には昔から松の杭が打ち込まれていた。
 ・五月廿三日、鹿児島から廻文が到着し、異国船用心として、江戸詰が命じられる。 人数は諸郷より
  合わせて四十八人で、高原から三人黒木尚斎、瀬戸口右八郎、鳥集庄兵衛が高原を六月三日出発し、
  鹿児島から同月十一日に出発する。 
  近郷では小林より四人、高崎より三人、高城より三人でその他は遠郷との事である。
 ・高原地頭が替る 三十二番目、安政元年(1854)八月朔日、福崎助八殿、取次は伊集院善右衛門殿
 ・十月十九日、霧島山御鉢から夷守岳北向平の方に擂鉢形の山影が見え、それが矢岳の瀬戸尾越の方へ
  移動する様子を
、広原の藤田源五左衛門の下人庄太郎、妻こむす、他にそで及び女一人合計四人が
  同日四時頃見た。

 ・十月二日夜十時、江戸で大地震があり、崩壊が九割との事で同六日から鹿児島へ飛脚があり、
  同十八日に到着した被害の情報は以下の通り。
   一江戸の総面積五千七百町
   一土蔵数十二万四千四百六十
   一大名屋敷四百余
   一旗本士屋敷十八万五千八百
   一寺院宮社六千二百余
   一死人十二万八千六百人余
   一怪我人三十二万六百人余 
    救援小屋 上野、浅草、窪町、他九軒、合計十一軒
       此地震で黒木尚斎が家屋の下敷で死去。
  この江戸大地震における損害は右の通りだが、江戸詰の藤田白之丞から同年十一月に送ってきた
  情報によれば、高二十二万石の筑後久留米城主有馬玄番頭殿の江戸屋敷女中が百五人余死亡、
  家老一人他怪我人があった。 
  高十五万石の松平時之助殿は十一歳との事だが、御家中三百五十人余、乗馬十三疋人馬焼死との事。
  この地震で多くの死人の連絡がある。
  薩摩藩屋敷数ヶ所の内、桜田御屋敷は曲がり崩れ半分焼け、怪我人十八人の内七人死亡。 
  他の当藩邸に怪我人はなかったと言う。

〇安政四(1557)年
 ・十二月十四日夜十一時頃、永濱万兵衛の屋敷西の裏屋に火が付き、四部屋の内家中火が起こり、
  西風強く瞬時に焼失した。 牛馬、衣類、刀箱迄は持ち出したが、俵や道具類残らず焼失した。

〇安政五(1858)年
 ・七月十六日朝六時に太守様が死去された由、この時は鹿児島に在国だった。
  松平薩摩守斉彬公逝去、御歳五十歳、在任八年、現在日本で一番の聖人と言われていた。
   法名 須聖院殿英徳良男大居士御霊位
    薩摩・大隅・日向三国の太守、且琉球兼領
  この御死去により七月廿四日から禁断五十日、と高原に伝えられた。 御嫡子は昨年九月誕生の
  御歳二歳で側室に生まれた鉄丸様となる。 御隠居様(前太守斉興)は江戸在住。 
  鉄丸様は若君であるが、当分の間政務はできないので、重富屋敷から御城へ上がり、国主を十八年
  勤めると決めてあった。 ところが若君様(鉄丸)が死去したので、重富屋敷の島津山城守(久光)
  の嫡子又次郎様(忠義)が十九歳で斉彬公の養子になった。

 ・八月、北西の空にニほうきぼしが出現、長さ一丈五尺計、横一尺計で夕方七時に出て夜五八時に
  入る。入る時は二丈五尺程の尾を引く。

〇安政六(1859)年
 ・八月廿七日、常陸の国主水戸中納言殿(徳川慶篤)差控、水戸前中納言殿(斉昭)は永蟄居、
  水戸殿舎弟一橋宰相殿(慶喜)が隠居謹慎、水戸殿末弟松平讃岐守差控、同末家松平大学頭差控、
  同末家松平播磨守差控となる。
  同日作事奉行岩瀬肥後守、軍艦奉行永井玄番頭の二名は役職罷免、切米召し上げて差控。
  西丸留守居川路左衛門尉は役職罷免、隠居言い渡し、小姓組仙谷右近組の川路太郎は祖父左衛門尉が
  隠居を言い渡され、家督の相続は許される。これらは稲垣長門守宅で若年寄列席で、稲垣長門から
  言い渡され、御目付神保伯耆守、小倉九八郎が立会った。
  同日水戸殿家老中山備後守、其方は、家柄や重要な立場であるにも関わらず、前の中納言殿は考え
  違いから家来達に良からぬ企てを命じた事は家老にも責任がある。これにより厳しく処分するところ
  だが、未だ若いので(信宝1844年生まれ十五歳)特別に斟酌して差控とする。
  以上は松平和泉守が井伊掃部頭の意向を受けて老中列席の場で申し渡した。大目付伊沢美作守、
  御目付鳥居権之助同席。
  同日水戸殿家老安島帯刀は切腹、同家来茅根伊之助は死罪、吉左衛門倅の鵜飼幸吉は獄門、
  鵜飼吉左衛門は死罪、鷹司殿家来鮎沢伊太夫、小林民部小輔の両名は遠島、京都烏丸下長在町上ル町
  芳兵衛借家に住む儒者池田大学は中追放、近衛家老女むら岡は押込、以上は評定所において寺社奉行
  松平伯耆守、大目付久貝因幡守、南町奉行池田播磨守、北町奉行石谷因幡守、御目付松平久之丞が
  立会い、伯耆守が申し渡した。これは老中井伊掃部頭の指示であったと聞く。
  註1 安政の大獄。 幕府に対する二つの批判に対して幕府(大老井伊直弼)の鉄鎚である。 
   一つは外国との条約を朝廷の勅許なしに結んだと言う水戸を首領とする攘夷派に対して、今一つは
   将軍家定の後継十四代将軍として、幕府が押す紀伊家に対して一橋慶喜を押したグループに対する
   もの。開国派の幕府官僚は一橋派で処断されたため、事件が分かり難くなっている。
 
 ・年号が安政七から万延元に替る。(三月十八日)

〇万延元(1860)年
 ・三月三日、江戸城下桜田門内において、井伊掃部頭殿が朝八時に登城途中、列の真ん中へ水戸殿家来
  十七名が切込み、掃部殿の家来を皆切り果たすか負傷させ、掃部頭殿の首を切取ったと云う。
  十七人の内二人は薩摩家の家来で有村次左衛門兄弟との事。水戸家からの依頼で一味に入った由。
  有村次左衛門は歳十七才で掃部頭殿の首を取り、その他十七人切り、自身も負傷して、掃部守打ち
  取ったと大声で名乗り切腹との事。 兄は薩摩御屋敷に入り帰国した。水戸殿家来十五人は無傷で
  帰国したと聞く。井伊掃部頭は近江国彦根城主三十五万石である。
   註1 桜田門外の変 安政七年(1860)三月三日、井伊大老の暗殺

 ・年号が万延から(二月十九日)文久に替り、秋から銅銭一文が二文に替る

〇文久元(1861)年
 ・五月廿五日、夕方七時頃から北北西にほうき星が出る。
  星の周り七八寸で尾は南の渡り三尺程である。

〇文久二年(1862)
 ・二月、江戸幕府老中安藤対馬守が切られたとの事で、水戸の浪人が名乗り出たと云う。
   註1 坂下門外の変 文久二年一月十五日、老中安藤信正は負傷

 ・二月七日、球磨相良殿の城家で出火し、城と武士町が全焼した。 その日の二時頃北の強風により、
  小林、高原、高崎は煙が吹きかけてきた。又小林原や高原原では書物の断片や相良氏由書などが風に
  乗り飛んできた。 これらの断片は集めて地頭仮屋に納めた。 高原の藤兵衛山付近の道、畠、川中
  にも落ちた。
 ・八月三日の夜より見え出したほうき星は夜八時には真上に見え、東から西に引く尾は四尺程である。
 ・春から夏秋にかけて日本国中全般にはしかの病気が流行り、三十八年ぶりの流行である。 
  鹿児島でははしかによる死人が多く、各地に死人少しづつある。 
  以前の流行の時はしかにかからなかった五十歳、六十歳、七十歳台の人がはしかに罹っている。

〇文久二年(1862)
 ・春には金一両は鈖九貫文だったが、翌年文久三年(1863)三月から一両は鈖八貫文となった。
 ・三月には銅銭一文は鈖四文に換算する。 昔から小銭一文替だったが、最近は鈖四文替、小鈖だと
  八文替となる。
 ・春から鹿児島の磯で幕府の許可を得て、琉球通宝の百文銭の鋳型が作られた。
  註1 琉球通宝の鋳型を天保通宝百文と同じにして、大量の偽天保通宝を作り、流通させた事で幕末
     の激しいインフレの一因となったと云われる。

 ・以前安政五年(1858)七月十六日に逝去された、松平薩摩守斉彬公の死去後五年になり、
  此度文久二年(1862)十月十五日に中納言の位が贈られたと通達があった。 法名は須聖院様。

〇文久三年(1863) 薩英戦争。
 ・今度異国船が来ると云う事で事前に厳重な警戒指示があったが、此の年六月廿七日に異国船が山川口
  へ入って来たので、山川から鹿児島へ狼煙の合図を廿七日夜九時に揚げた。途中で二ヶ所、桜島を
  経由して鹿児島で受取、狼煙をあげると鹿児島始め近郷海岸では大至急に持ち場に待機し侵入を待つ
  明廿八日朝八時に鹿児島前の浜へ異国船が現れ砲台を避けて磯の沖へ掛った。
  異国船七艘で大小はあるが、二艘は長さ六十間、横三十間ある。一つ目の名は中白軍船、一つは
  フレガットと云う名との事。 それを中心に本船として外輪乗り五艘で大砲を打ってくる。
  廿八日異国船小船一艘で浜之市・重留の前の辺を乗り廻り、明けて廿九日には重富の前に隠しておいた
  藩購入の蒸気船三艘が米や金品を積み入れているのを見かけ、異国船を寄せ付けて船を桜島へ引寄せ、
  乗組員を下ろして積み込んだ品々を取り上げ、直ちに火をつけて焼き払った。他に鹿児島の前の岸壁に
  入港していた琉球船三艘も奪った。 米や砂糖等が積み入れてあったと云う。
  以上の事が報告されたので、七月二日正午から大砲を打掛が始まり鹿児島と桜島の砲台から砲撃した。
  異国船からも大砲を打ち出し戦いになり双方止まず夜の八時迄戦いが続いた。 異国船も外輪船は
  破損が酷かったが、本船二艘は無事との事。
  明けて三日になり谷山の沖に退避した異国船に桜島の小島砲台詰めの青山氏より砲撃で異国船に命中
  して破損水船になったので、小根占の沖に放置し山川口に退避した。 
  同七日夜又戻って来て放置の船を曳いて出たという。
  国許の負傷者八人、二人は死亡した。 他は軽傷が全部で三十人程であると云う。

  鹿児島上町の武士小路は焼失したが、当地の武士、町人の老幼男女は六月廿七日から八日にかけて
  近郷へ避難するよう事前に通達があった。 殿様は千眼寺へ、御姫様は花尾山へ避難していた。
  この時、殿様は国分へ移る予定だったが、当地の諸士から一応鹿児島に滞在願いを出した由。
  各地の砲台へ勤務した人々、負傷者、死者に合計二千両程が支払われた。
  火薬は四千斤(約六・四トン)の内少し残ったという。
  異国船から打ち掛けた大砲の玉は鉄製で、長さ一尺八九寸(五十センチ)で廻りは一尺余
  三十センチ)で大きな玉は八十五斤(約五十キロ)で大小がある。 桜島で収集した玉は俵で
  十七俵あり、小船三艘で鹿児島へ送った。 鹿児島へ打ち掛けた玉は収集して藩の作事所へ納める様
  に通達があり、数千個の玉が納入されたとの事。
  異国人死体が鹿児島の所々に打ち上げられ、死体は百人以上あった由だが、各地からも段々死体が
  上がるので全数は分からない。  江戸からの情報で死人百八十人と報告あったと九月に聞いた。
  高原、高崎、野尻、小林、須木からは、七月三日四日五日に掛けて出陣したが、国分、加治木迄
  出張した時点で異国船が引き上げたとの事で、軍賦役方から鹿児島に来る必要ないので帰郷せよと
  連絡あり引き取った。 
  高原からの隊は国分宮内に一番隊一組を留め、地頭所島津矢柄様へ届けに四人、永濱作八郎、丸山
  儀一郎、宮田庄次郎、黒木宗一郎が行った。 
  六日朝地頭所へ届けた後 宮内に待機した組も一緒に七日帰宅した。
   註1 生麦事件に端を発した薩英戦争。 七艘の蒸気軍艦(内一艘が外輪で残りはスクリュウ)で
     渡来した。

〇元治元(1864)年
 ・七月十七日・八日、京都に長門国(長州)勢が攻め込み戦争となった。 諸国勢が防衛で戦ったが
  京都の七割が焼失した。
   註1 禁門の変で戦いの際に起こった京都の大火(ドンドン焼け)

 ・八月五日、長州に異国船十八艘が攻め、五日・六日に戦闘があり、長州勢三百人程討ち死にした由。
   註1 文久三年攘夷派の長州が下関封鎖、外国船砲撃を行った事に端を発し、翌年英仏蘭米の
     四か国が長州を砲撃した(四国艦隊下関砲撃事件)。

 ・十月五日、居地頭制が復活し、小林に地頭名越屋左善太殿が着任する。 加久藤、飯野、須木、
  野尻、高原を加え六ケ所を受持つ。 同九日高原を訪れて神徳院と錫杖院に御参詣、地頭仮屋に宿泊
  明けて十日は野尻へ向かわれた。
   註1 鹿児島藩では寛文三(1663)に居地頭制がなくなり、二百年ぶりに同制度が復活した。

                            
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