史料1
竹島一件交渉終結 (元禄九年、1696年)
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      竹島
宗対馬守義功より差出候家譜之内

元禄九年因幡国と朝鮮国と之間ニ竹島と唱候島
有之、此島両国入会之如く相成居不宜候付、
朝鮮之人此辺江参候事を被禁候段、従 公儀
被 仰出、其段朝鮮国礼曹参判江家老使者

前々年より再度差渡候処、論談及入組候を
今年正月廿八日、義真国元江御暇被成下候節、

右竹島江日本人相渡候儀無益との事ニ候間、
被差留候段、領主江被仰渡候由、義真江被仰渡
候付、義真帰国之上同年十月、朝鮮之訳官使対話
仕候刻、右被 仰出之次第伝達仕、爰ニ至り論談
相済候
      竹島
宗対馬守義功が提出した家伝の文書より

元禄9年因幡国(現鳥取県東部)と朝鮮国(韓国)
との間に竹島という島がある。 この島は両国の
人民が出入りしており、好ましくないので幕府より
朝鮮人が来る事を禁止されたので、その旨を
伝える為に家老を使者に立て、2年前から毎年
朝鮮国執政と交渉してきた。

ところが今年正月28日、義真が江戸から帰国の
許可を幕府に貰うため挨拶に伺ったところ、上記
竹島への日本人渡航を禁止する旨、関係領主
に伝達された由を義真に申された。
義真は帰国後、同年10月朝鮮の使者に幕府の
詞を伝え、是迄の交渉は終結となった。


宗義功 対馬国府中藩十二代領主(1773-1813)
宗義真 対馬国府中藩第三代領主(1639-1702)
礼曹参判 朝鮮国執政職
元録5年から9年迄交渉が行われた
出典:国立公文書館、内閣文庫、蠧余一得 四集巻五:
史料2
浜田藩竹島密航事件、幕府評定所判決文及び触書
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              石州浜田
                  松原浦無宿
                     八右衛門
其方儀石州松原浦ニ而船乗渡世中、北海筋渡海之
節々見請ル
竹島を朝鮮国付属之地とハ不弁旨雖
立、右島者人家無之空島ニて良材有之、海岸魚類
も多く魚業伐木等いたすならハ助成と可相成と存付、
出府之砌元領主松平周防守家来、三沢五郎右衛門・
村井萩右衛門江便り、領主益筋ニも相成由ヲ以、

同島江渡海志願之義、大谷作兵衛江申立置帰村後
右之趣浜田表へ罷在候国家老、岡田頼母事秋斉聞込
之由ニ而、同人召仕橋本三郎兵衛より尋請、必定
作兵衛外弐人江申立候次第通達有之義と存、益地ニ
相違無之旨咄聞、追而右島は何れの国地とも難差極、
手入等之義者可存止旨、萩右衛門より申越をも不取用

再応執成之義、三郎兵衛江相頼砌、
右最寄松島江
渡海之名目を以竹島江渡、
稼方見極候上弥益筋ニ
有之ならハ取計方も可有之由ニ而、秋斉并同家来
松井図書も心得居候趣、三郎兵衛申聞候迚、大坂表
ニおいて銀主共聞請宜敷ため同所周防守蔵屋敷詰
家来、島崎梅五郎江三郎兵衛より頼ミ、書状申請、
中島町庄助等を申勧、銀主ニ引込、

殊右目論見中、外不届有之領主より浜田入津差留所払
ニ相成候身分ニ而元住處ニ罷在、大坂安治川南弐丁目
善兵衛其外之もの共乗組竹島江渡海いたし、絵図面
相仕立又者木材採、既ニ人参と見込、紛敷草根等
持帰ル上者、異国人ニ出逢、交通等いたす義ハ無之とも、

素より国界不分明之地と乍心得、畢竟領主先代重
御役柄中故、志願も成就可致哉抔相心得、秋斉其外
之もの共へ申立、既異国之属島江渡海 いたし、
立木等伐採持帰ル始末 御国体江対し不軽義
不届ニ付死罪申付
              石州浜田
                  松原浦無宿
                     八右衛門
その方は石見国松原浦において船乗り稼業を
して居る時、能登方面に航行中に時々見かけた
竹島が朝鮮国に属する事は知らなかったと
云うが、この島は無人で木材が豊富で沿岸には
魚類も多く漁業や林業をやれば、藩の為にも
なると思付いた。

そこで城下を訪れた時、以前の領主である
松平周防守の家来の三沢五郎右衛門、村井
萩右衛門を訪ね、藩の利益になるので同島へ
の渡航希望を大谷作兵衛に伝えて帰村した。
その後この趣旨が浜田藩国家老である岡田頼母
(秋斉)に伝わり、頼母の用人橋本三郎兵衛より
呼出しがあったので、大谷作兵衛外2名に話した
事と思い、間違いなく利益になる旨説明する。 

 この島は何国に所属するかも不明であり、計画
は中止すべきとの萩右衛門の意見もあったが、
三郎兵衛に頼み、最寄松島へ渡航する名目で
竹島を調査し、確実に利益となるならば、方法も
ある旨秋斉及び松井図書も承知している事を
三郎兵衛から聞く。 

更に八右衛門が大坂で金主を集め易い様に
周防守の蔵屋敷詰家来、島崎梅五郎への
紹介状を三郎兵衛が書いてくれ、中島町庄助
などを金主に引き込んだ。

特にこの計画の中で、以前不正があり領主より
浜田入港を禁止された大坂安治川南二丁目に
住む善兵衛、その他が乗組み竹島に渡航し
地図を作成し、叉は木材を伐ったり人参に
紛らわしい草根を持ち帰る。 

外国人と接触した事はなくとも、元来国境
不明の場と分っていながら、特に領主が前の
幕府老中だから、目的を達成できると秋斉
及び他の者達を説得し、外国の属島へ
渡海して木材等伐って持ち帰る事は、法度を
破る事甚だしく死罪を申渡す


石州:石見国、現在島根県西部
大谷作兵衛、村井萩右衛門、藩勘定役 押込
三沢五郎右衛門 勘定〆役 押込
岡田頼母: 家老、松井図書(家老)共に切腹
善兵衛: 永牢
橋本三郎兵衛: 死罪
島崎梅五郎:押込
藩主松平周防守は蟄居、 跡継ぎは国替
で棚倉藩へ左遷
一天保八酉二月御触
 今度松平周防守元領分石州浜田松原浦罷在候
 無宿八右衛門、竹島へ渡海致し候一件、吟味之上
 右八右衛門其外夫々厳科ニ被行候、右島往古者
 伯州米子之者共渡海、魚漁等いたし候といへども
 
元禄之度、朝鮮国江御渡ニ相成候、有来渡海
 停止被 仰出候場所ニ有之、都而異国渡海之義者
 重キ御禁制候条、向後右島之義も同様相心得、
 
 渡海致ましく候、勿論国々之廻船等海上ニおいて
 異国船ニ不出会様、乗筋等心掛可申旨、先年も
 相触候通相守、以来可丈成遠沖乗不致様乗廻り
 可申候
 右之趣者御代官、私領者領主、地頭より浦方村町
 共不漏様可触知候、触書之趣板札ニ認、高札場等
 ニ掛置可申者也
二月
右之趣可被相触候
    天保八酉二月御触
この度松平周防守の領分だった石見国浜田藩
松原在住の無宿八右衛門が竹島へ渡航した
一件で取調べを行った。 裁判の上、八右衛門
その他夫々厳しい罪科に処した。

この島は昔伯耆国(鳥取県)米子の者達が渡航
して漁を行っていたが、元禄時代に朝鮮国へ
渡されたものである。 以来渡航は禁止対象と
なり、全ての異国への渡航と同様に同島への
渡航も厳禁となったので其旨心得るように。

勿論諸国の廻船は海上で異国船に出会わない
様に通路を選ぶ事。 前にも通達しているが
出来るだけ沖合遠くを乗りまわらぬ事。

以上の趣旨を代官より、私領では領主、地頭
から浦々、村々漏らさず通達する事。 触れの
趣旨は板に認め、高札場に掲げる事
 天保八年(1838年)二月


1.幕府老中から大目付を通じ全国に通達された
触れと思われる。
2.松平周防守の元領分、と言う事はこの時は
既に左遷国替が行われていたと見る。
以上出典:国立公文書館内閣文庫、天保雑記第十八冊
史料3
明治政府の竹島に関する処理(閣議決定)

3-1
明治十年 版図決定
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明治十年三月廿日
大臣
  参議
  卿輔
別紙内務省伺日本海内竹島外一島地籍
編纂之件、右ハ元禄五年朝鮮人入島以来旧
政府該国ト往復之末、遂ニ本邦関係無之相聞
候段、申立候上ハ伺之趣御聞置、左之通御指令
相成可然哉、此段相伺候也
    御指令按
 書面竹島外一島之義本邦関係無
 之義ト可相心得事


竹島外一島の竹島は欝陵島を言っているとしても
外一島とは何を指すか説明なし。
3-2
明治十六年 渡航禁止
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           内務卿
北緯三十七度三十分、東経百三十度四十九分ニ位ス
ル日本称松島
一名竹島朝鮮称欝陵島ノ儀ハ従前
彼我政府議定ノ儀モ有之、日本人民妄ニ渡航
上陸不相成候条、心得違の者無之様、各地方長
官ニ於テ諭達可致旨、其省ヨリ可相達、此旨及
内達候也
明治十六年三月一日   太政大臣
  内務卿山田顕義殿

1.松島
一名竹島とあるが何故松島が出てくるのか
不可解。 江戸時代から竹島と松島を同一とする
文献は無かった筈である。 尚緯度・経度で見る
限りは往時の竹島(現欝陵島)である。
竹島(現欝陵島)北緯37度30分東経130度52分
松島(現竹島) 北緯37度14分、東経131度52分

2.推察するに、当時日本人が松島に行くと云う
名目で竹島に入り込み、朝鮮側からクレームが
ついたので右の渡航禁止令が出たのではない
だろうか。
3-3
明治三十八年 新竹島領有
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明治三十八年一月廿八日
                法制局長官
内閣総理大臣 
外務大臣 大蔵大臣 海軍大臣 文部大臣 逓信大臣
内務大臣 陸軍大臣 司法大臣 農商大臣

別紙内務大臣請議、無人島所属ニ関ス
ル件ヲ審査スルニ、右ハ北緯三十七度九
分三十秒、東経百三十一度五十五分、隠岐
島ヲ距ル西北八十五浬ニ在ル無人島ハ
他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡
ナク、一昨三十六年本邦人中井養三郎
ナル者ニ於テ、漁舎ヲ構へ人夫ヲ移シ
猟具ヲ備ヘテ海驢猟ニ着手シ、今回領
土編入並ニ貸下ヲ出願セシ所、此際所
属及島名ヲ確定スルノ必要アルヲ以テ
該島ヲ竹島ト名ケ、自今島根県所属
隠岐島司ノ所管ト為サントスと謂フ
ニ在リ、依テ審査スルニ明治三十六年
以来中井養三郎ナル者カ、該島ニ移
住シ漁業ニ従事セルコトハ、関係書類ニ依
リ明ナル所ナレハ、国際法上占領ノ事実
アルモノと認メ、之ヲ本邦所属トシ、島根
県所属隠岐島司ノ所管ト為シ差支
無之儀ト思考ス、依テ請議ノ通、閣議
決定相成可然と認ム
注:
1.右の無人島とは緯度・経度から見て間違い
なく松島の位置である。 国際法に従って領有
は実効支配が重要である事を学び、アシカ漁を
利用したものと思われる。 松島は江戸時代も
風待ち以外に利用していなかったと思われる。

2.本来松島と云っていたものを何故竹島と名前
をつけたのか理解に苦しむが、察するに往時の
竹島が朝鮮のもの(欝陵島)となり、竹島の名称
が日本の版図から消える事を避けたかっただけ
ではないだろうか。

3. 明治十年、同十六年の閣議決定だけを見ると
竹島も松島も全て朝鮮側と解釈される可能性も
あるが、明治三十八年に左の様に国際法に基き
従来の松島を新しく竹島として領有している。

以上出典:国立公文書館 アジア歴史資料センター