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                     古文書に見る竹島
                  
     − 歴史が語る二つの竹島 −

   最近竹島問題がクローズアップされているが古文書を通して整理してみた。

   江戸時代中期にも竹島一件といって日韓(当時は朝鮮国)の間で問題となり、幕府は対朝鮮外交窓口である対馬藩を通じて交渉し、1696年(元禄9年)に竹島は国外と決定した。 その時の竹島とは無人島で日朝両国民の入り会い状態になっていたが現在の韓国欝陵島の事である。 交渉が終った様子を示す文書で、江戸後期に対馬藩から提出されているのが残っている。 
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   では現在の竹島とは何?となるが、江戸時代には松島とよばれ往時の竹島の手前にあり、周りで魚を取るか竹島往復の風待ちに利用する以外は産物は何もない小さな島(岩礁)であった。 江戸後期には幕府では竹島は国外(渡航禁止対象)であるが、松島は国内と明確に区別している古文書が残っている。 これは天保七年(1836年)に起った浜田藩の竹島密航事件で、廻船問屋会津屋八右衛門を主とする藩ぐるみの密輸事件として幕府評定所が断罪している。 
   判決文によると、八右衛門等は松島に行くと云う名目で竹島に渡航し、人参、木材等持ち帰り大坂で売り払ったとある。 この事件で八右衛門と藩家老の用人、橋本三郎兵衛が死罪、家老二名は評定所呼び出しに応じず切腹、その他藩役人、大坂の商人達等多数の関係者が処罰され、過去に老中迄勤めた藩主と雖も懲罰左遷を命じられた。     
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   幕末1863年に米国で発行された日本地図があるが、これには現在の欝陵島及び竹島とほぼ同じ位置にTaka sima(竹島)、Matsu sima(松島)と示されており、浜田藩事件の判決文にある竹島と松島の位置関係を良く示している。 
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  上記で見る限り松島は日本固有の領土と考えられるが、何故か明治政府の処理が江戸幕府の立場と連続性に欠けており、その事が現在の混乱を引き起こしているようにも思える。
   
   その一つ目は明治10年の閣議決定で竹島外一島は国外としていること。 一島とは何所か明示されていない。
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   その二つ目は明治16年の閣議決定で、北緯37度30分東経130度49分に位置する日本称松島(一名竹島)、朝鮮称欝陵島は以前より両国政府間で話合っているので、むやみに日本人を渡航させない様にと通達が出ている。 
   ここで示されている位置は竹島(欝陵島)であり松島ではない。 松島の位置は北緯37度14分、東経131度52分であり、何故海上90キロも離れた松島と竹島を一つにしたのか不可解である。
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   その三つ目は明治38年(1905年)に松島の位置にある無人島を漁業に使うと云う事で日本が領有宣言をしている。 その時日本は既に国際法による実効支配に基いて処理して居りクレームはどこからも無く、この無人島を「竹島」と命名し島根県に編入している。 現代の我々から見ると何故ややこしくなるような名前にしたのか理解に苦しむが、元々日本領だった松島を改めて竹島として領有した事になる。
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   以上が過去の経緯であるが、戦後に韓国が一方的に李承晩ラインを設定し、以後竹島(往時松島)を占拠しているのが現状である。 「実効支配の二番煎じ」は有り得ないのではなかろうか。(20110822)