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                    現代文訳 天竺物語書

         播磨国高砂船頭町の徳兵衛が天竺へ渡った物語
○私は十五歳で天竺へ渡航しました。 この時は京都の角倉与市殿商船でその船長である
 大坂の前橋清兵衛に雇われて渡航しました。
○長崎から女島と男島迄96里、それから高砂(台湾)迄650里走りました。 但し高砂の
 長さは750里あります。 この国の港(基隆)の12-3里沖にウクウ・タケンと云う島が
 二つあります。 
 日本から此処までは南へ走り、此処からは西へ650里走り広東河口のマカオと云う所を
 目指します。 ここは水深が199尋(一尋5尺として約300m)あります。 又此処までは
 日本で見る北斗星と磁石で方角を考えましたが、ここからは南十字座の明るい星二つを
 見ながら走ります。
 マカオから300里南へ走りヒョウのハナと云われる所(雷州半島か海南島)を目指します。
 これは南京(中国)と東京(トンキン、ベトナム北部)との境目です。 
 是より300里西へ走ると交址国(ベトナム北部)のトロン嶽と云う高い山を目指します。  
 ここは達磨大師の誕生の地です。 
 ここから400里南へ走り占城(ちゅんば、ベトナム南部)のクワロウと云う島を目指します。
 そこから更に400里南へ走りカンボジャのホルコントロウと云う島(メコン川河口付近)を
 目指します。
 そこから200里南へ走るとシャムの芋島(インドシナ半島先端)があります。 
 そこから800里北西に走るとマガタ国(シャム)のリュウサ川(メナム川)河口です。 
 長崎から此処まで3800里です。
○シャム国リューサ川口(メナム川)より3里川上へ上るとバンテイヤと云う城があります。 
 此処で日本からの御朱印状の審査があり、早舟でシャム国の都へ送られます。 
 ハンテイヤより27里川上にバンコクと云う城があります。 
 更に27里川上にウリウヒサラと云う城がありますが、ここで昔空海が文殊と智恵を競った
 といわれています。 ここから更に25里川上へ上ると都で大海と言う所です。 
 此処までリウサ川口から75里あります
  
註1. 角倉家は京都の豪商で茶屋四郎二郎と共に朱印貿易で有名。徳兵衛は書記として雇用された。
   註2. 一般には天竺は仏教の故郷のインドの古い呼び方だが、江戸時代初期にはインドシナ半島全て
       天竺の内と考えていた様である。 江戸後期になると知識人は世界地図が有る程度頭にあったか
       松浦清山の随筆甲子夜話で徳兵衛の見聞は天竺ではなく暹羅(しゃむ、現在のタイ))で
       あると云う。
   註3. 里程は本書に限らず大分現在の距離とはぶれがある。 地図上で行程を測定すると
       長崎ータイ間凡そ4800キロ(1200里余)である
   註4. 達磨大師は5世紀南インド出身で中国で布教した禅宗の元祖、 記述は俗説か
   註5. マカタ国は釈迦の時代に北インドのガンジス川中流で最も栄えた国、前一世紀には滅亡。 
       本書ではシャムと云ったり、マカタ国と言ったりしているが、シャムと読替える。
       江戸後期の幕府編纂の通行一覧ではシャムの旧名がマカッティと云ったのではとある。
       リューサ川も位置から見てタイのチャオプラヤ川(旧名メナム川)である。
   註6. ハンテイヤとは現在のタイの首都バンコック付近にあった城と推定する。 大海とはその頃の
       シャムを統治したアユタヤ王朝の都、現在のアユタヤと思われ、ウリウヒサクは途中の城と
       思われるが文殊と空海の話は俗説か。 文殊は釈迦の弟子で知恵者として有名で空海とは
       千年の開きがある。
   註7. タイ観光案内ではチャオプラヤ川口の首都バンコックから旧都アユタヤ迄75キロとある。 

      
○テビヤタイと云う所に寺があり、この寺屋敷は昔須達長者が住んだ跡でシャムの王の
 屋敷との事です。
○長さ20里の釈迦堂が三ツあり、テビヤタイからこの堂迄7里の町続きです。 
 釈迦の立像、座像、寝像の三尊があり、釈迦の作との事です。 立像は東向、座像は
 北向、寝像は頭を北にして顔は西向です。 寝像の小指の厚さは3間余あり、堂の柱
 壱本の太さは15人が手をつなぎ15度廻っても漸く三分の一位で、余り気温が高く
 全てを廻る事は出来ませんでした。 堂の軒の内に幅八間の通り町三筋あってこれを
 釈迦堂町と云います。 彼堂は釈迦仏共に土の山を彫りぬき堂や尊形に造られました。
 今でも人々は年忌等の志に金箔を寄贈し、尊形や堂に金箔を貼るので金仏の様に
 見えます。 
 この三ツの堂が6-7里続き、高さ2里あるのでアユタヤを目指すには海上より釈迦堂を
 目当てにします。 この外に山は近所には無く、この国の奥には高山が多いそうですが
 ここからは見えません。 ところで天竺では6丁(約650m)を一里とします。
  
 註1.テビヤタイとはアユタヤの仏跡がある区域の名と思える。 須達長者とは今昔物語の天竺編で
       登場する北インド一国の高官で祇園精舎を寄贈したと云う人で、シャムののアユタヤ王朝とは
       関係ない。 アユタヤ王朝は14世紀中頃成立18世紀後半滅亡
   註2.数字は何れの写本も同じで非現実的だが、アユタヤの仏教建築の壮大な様子はタイ観光案内
      でも読み取れる。 徳兵衛が見た時は最盛期と思われるが、その150年後アユタヤはビルマの
      侵略で破壊され王朝は亡びる。 その後トンブリー王朝、現バンコック王朝にタイ国は引き継がれる。 
      近年アユタヤで寝釈迦像が復元された由でその高さ5m、全長28mとある。
   註3 アユタヤはチャオプラヤ川の三角洲に立地する平地であり、今でも遠くから寺院が見えるとの事。
      この文書の山を掘りぬきと言うのは実態に合わない。 又河口の海迄直線で50キロあるので海上から
      見えたか疑問だが、後述アユタヤ迄貿易船が上る事ができたので川を上ると遠くからでも見えたと思う

  
○都(アユタヤ)より42里川上にリョウツ仙(山)があり、山の高さは一里程(600mか)
 で其処に幅八丁、長さ十六丁の岩があります。此岩の上で仏が説法なされたとの事です。
 岩の上に少し高くなった所に仏の座像、足跡及び手水鉢があります。 
 都からリョウツ山迄42里の間3月末から4月末迄市が立ちます。 天竺の八日市とは
 この市の事です。 
 これから43里川上へ上ると座禅石と云う岩があります。 この岩の高さは32-3丁有る
 そうです。 此岩がリュウサ川の中へ覆いかぶさっています。 此岩の上で諸仏が座禅を
 されたので座禅石と云、此川中に覆いかぶさった上に仏のお堂があり、中には座像の
 釈迦像が一体あります。
 座禅石より2里川下へ下るとごんが川と言う川があり、東へ流れ此川の口をカボチャと云います。
 ごんが川の遠い奥迄1200-1300里あります。
○リュウサ川口から75里川上の大海(アユタヤ)迄貿易船が来ます。 それより奥には貿易船は
 行けませんがが小船なら川上へ行けます。 川下から川上迄の道程について或る老人に尋ねた
 ところ、 往復八年懸りましたが川上の檀特仙には到達せずに帰ったそうです。
○チャヤ六コンヒツヒル(リゴール)と云う所は都(アユタヤ)から800里南々西にあり、 
 此処では蘇方木や伽羅を産出します。 更に900里南々西に行くとジャガタラと云う所で、
 此処では革類が色々あります。 リゴールはシャム国の南々西の角で、これより南に南蛮国、
 ほりぎすがあり、北西にはオランダ、イギリス、ヌビススワンニヨロ、ダッタン国があります。
○リョウツ山の廻りに生えるタラヨウの木から毎年車一つ分の葉が出ます。 当地(高砂か)
 十輪寺にあるタラヨウの葉は仏が在世の時に説法した聞書の文字でテビヤタイの長老から
 貰ったものです。 私を雇ってくれた船長前橋清兵衛の宿泊所が木下六左衛門と云う人の居宅で、
 その奥さんは長老の妹です。 その関係からお願いして手に入れたものですが、これを当寺に
 什物として上げたものです。 この六左衛門は日本では三百石程取った侍との事で、今は
 シャム国王の親衛隊で大納言の位との事です。
 
註1.リョウツ山とはどこか不明だが数字はこれも非現実的、江戸時代初期も1丁とは60間で現在の約108mに
     相当する。 尚写本によっては霊鷲山としているものもあるが、これは釈迦が天竺マガダ国の霊鷲山で
     説法したと今昔物語にもあるので、写本した人が想像して当てはめたものと思う。
  註2.ごんが川とは一般にはガンジス川を云った様だが、ここでは河口がカボチャならメコン川に違いない。
     本書の云うリュウサ川はチャオプラヤ(メナム)川でごんが川はメコン川となる。 しかしメナム川の上流が
     メコン川と繋がってはいないが、タイ北部ではメコン川はラオス国境を東に流れ川下はカンボジャである。
  註3 原文だんどくせんは檀特山と思われるが釈迦の前身の北インド一国の王子が修行した山でガンダーラ
      地方(インダス川上流で現在のアフガニスタン)にあると云う(広辞苑)
  註4.チャヤロクコンとはマレー半島の中部にある六昆(リゴール)でシャムに属した国であり、後述山田長政が
      王に任命された所。 アユタヤ王朝シャムの影響下の最南部の国である。 
      ジャガタラは現在のジャワ島ジャカルタで17世紀前半オランダの東洋における基地となった。 
  註5.他の国名に関しては地図も明確でない時代であり方角はとも角、南蛮国はスペイン、ほりぎすはポルトガルと
      推定、ヌビスワンニョロとはノビスバンヤ或いはノビエスパニアであろう。 江戸時代初期スペインが
      経営したメキシコの事を云った。 novaespania (新スペイン)と当時のスペイン人が云ったと思われる。 
      ダッタン国はモンゴルだが、其頃インドがモンゴル系のムガール帝国の時代なのでインドを指すと思われる。
  注6.タラヨウ ヤシ科の多羅樹の葉で、傷つけると黒くなるので鉄筆などで写経した(広辞苑)
  注7.1600年の関ヶ原陣、1615年の大坂の陣などで戦国が終わり、主君を失った侍達がシャム、コウチなどに
     朱印船で渡り、現地に住み傭兵等の職を得た。 アユタヤの日本人町には最盛期には数千人住居したと云う
     後述山田長政は特に有名だが、ここで言う六左衛門もアユタヤで職を得たひとりと思われる
      
○日本から天竺へ渡航した時10月16日に長崎の福田を出船し、翌年3月3日にシャム国の
 リュウサ川口のハンテイヤに着きました。 帰国は中一年を置いて三年目の4月3日
 リュウサ川口を出船し、8月11日に長崎に到着しました。
○15歳で渡航した時の乗船は角倉与市殿の長さ20間横9間の中国風の船で人数は397人でした。
○二度目の渡航は私が19歳の時で21歳で戻って来ました。 この時は10月14日出船し
 翌年2月6日にシャム国へ着、その翌年8月6日に長崎に帰着しました。
○二度目の時はオランダのヤヨウスと云う人の洋風の船で渡航しました。 ヤヨウスは
 長崎に屋敷があり、日本で知行1000石拝領して江戸にも屋敷があり、やようすという
 町です。 
 その時の船長はびとうと市右衛門と云う長崎の人でした。 オランダサヨ船と云い384人
 乗組んでいました。
 
注1.長崎の福田は長崎湾の外で朱印船貿易時代の港、鎖国後は湾内に作った出島が外国との窓口になった。
  注2.角倉船の長さは52間とする写本が多いが、100m近い木造船は非現実的で此頃の西洋船でも20間は
     大きい方。 通航一覧でも甲子夜話でもこの船は20間、幅9間となっている。 
  注3.徳兵衛の渡航は最初寛永3(1626)、二度目渡航は寛永7(1630)となる。 やようすは
     ヤン・ヨーステンに間違いないが、彼は元和9(1623)に海難事故で死亡している。 
     ヤン・ヨーステンが所有した船の意味か。
      英語版やドイツ語のウィキペディアではヤン・ヨーステンは天竺徳兵衛とシャムに行った事があると
      記述されているが信じ難い。 尚日本版及びオランダ版にはこの記述はない。 
  注4.ヤン・ヨーステンは1600年オランダのリーフデ号で大分県に漂着し、徳川家康に保護された。 
     同僚のイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)と共に家康に重用され、朱印状を与えられて
     東南アジア各地と朱印船貿易で活躍した。
     東京駅の八重洲は彼が家康から拝領した屋敷が有った事からやようす町と呼ばれ八重洲となったのは有名。
      

○万里が瀬と云うのは南京と東京(トンキン、現ベトナム北部)との境目であるヒョウの
 ハナと万里か瀬のハナが毛抜合うハナです。 この瀬の幅は15里で万里が瀬の先端は
 ジャガタラの口迄あり、3,500里程北東から南西に流れています。
○シャム国領内マキモウフルサントメと云う所があり、都からの道程は千里宛サントメ迄
 三千里あります。 皮の類、織物、島類色々産出します。 ここは天竺でも暑い所で、
 四季共人々は車に乗ります。 車から落ちたら地面で焼付きミイラになるそうです。
  注1.万里とは南沙諸島付近の浅瀬で航海上の難所と云う解釈が多いが、文章を其の侭読むと雷州半島と
     海南島の間の毛抜を合わせた様な所から、ジャワ島とスマトラ島の間のズンダ海峡迄3500里の海流とも
     取れる。  瀬の意味は浅瀬と急流の両方があると辞書では云う。
  注2.マキモウフルサントメに言及する書は見かけないが、これはシャム国ではなく当時ポルトガルの
     基地があったインド東海岸のサン・トメ(現在のチュンナイ)と考える。 その頃インド大陸は
     ムガール帝国の時代であり、マキモウフルとはムガールのサントメと徳兵衛は聞いたのではないだろうか。
     シャムの都(アユタヤ)より千里宛三千里の解釈はマレー半島の先端マラッカ(現シンガポール)迄
     千里、そこからマラッカ海峡を抜けてベンガル湾に出る迄千里、更にベンガル湾横断千里で合計3千里と
     聞いたのではないだろうか。 
     サントメ縞(桟留縞)と云う縦縞模様の輸入織物が江戸時代の文献に良く出てくる。 徳兵衛はシャムで
     サントメの事を聞いたものと思われる。 
     通航一覧でもサン・トメ迄の朱印状が発向された記録はないので、ポルトガルやオランダ船がサントメから
     アユタヤに商品を持ち込み、それを朱印船が日本に持ち帰った事は十分考えられる。 鎖国以後は
     オランダ船がバタビア(現ジャカルタ)で中継して桟留縞を持ち込んだものと思われる

○シャム国に椰子と云う果物があり、日本の梨を大きくした様なものです。 この椰子を
 二つに割ると中には水四合程ありますが、 この水は解毒作用があるので日本人は
 早くから使っています。 その皮半分に米三合程入りますが、これで60杯を一匁で売買
 されます。 即ち一匁で米一斗八升と云う事です。
○伽羅山と云えば六昆(リゴール)の伽羅山が有名でここから伽羅が沢山産出します。 
 他にルソン(フィリピン)カンボジャからも産出します。
○シャム国にも伽羅山と云われる林があります。 伽羅はこの三月に切れば来三月に皮を
 剥ぎ、悪い部分はチンマナハンと云、良い木の部分だけを伽羅と云います。
○珊瑚珠はチャオプラヤ川河口、メコン川河口に出ます。 他に南京の都の口(長江河口か)
 に沢山出るそうです。
○シャム国に松の木はありませんが紫檀、黒檀等色々の樹木があります。 竹は沢山あり
 大竹になると大きさ4-5階分ありますが、竹の葉は細く小指の太さ程しかありません。
 竹の節の間は一尺程で、町屋の普請にも竹を引き割って使います。
○家の作りは大体は二階作りにします。 暑い国ですから床を高く張って二階に居住し
 床の下は空けておきます。 屋根は瓦葺又はこけら(木の皮)葺きにしています。 
 畳は籐の筵を表に付けるので冷たくて良いとの事です。
  
注1. 米1斗八升=一匁とすると、一石=5.56匁となる。 寛永年間の日本の米価は一石銀25匁程度と
       云われており、シャムの米価は日本の四分の一以下の価格となる。 現代価値に換算すると銀一匁は
       約1670円(1両=10万円換算)

  
注2.朱印船貿易時代の輸入商品で伽羅(香木)と蘇方木(染料)、紫檀、黒檀等は人気商品だった様である。
  
注3.一般に珊瑚珠とは海底の珊瑚を磨いて加工したものと辞書にあるが、ここでは山奥の原石が長い旅路で
        自然磨耗して丸くなった状態の石(恐らく赤色)ではないかと考える。

  
注4.竹の大きさはいずれの写本も同じだが太すぎる、節間は写本により三尺としているものもある
        竹の葉についてはどの写本もはっきりしない

○人柄は日本人より背は高く、気高く綺麗に見えます。 男は耳から下を剃り、頭髪は
 伸ばして先端を切ります。 南蛮風で芥子坊主の様です。 女は髪を其の侭で伽羅の油を
 身体にも使い、髪はからわけにして巻上げます。 単の襦袢の様な物を着て前に
 下がっているのを後ろに跳ね上げ、上には十徳の様なものを着ます。 
 女の礼服はかつぎ帷子を着ます。
○男は腰にビットクと云う海部包丁の様な脇差を差します
○天冠と云う冠を上下共に付けます。 上官は純金の装身具をさげ、下々は真鍮等を
 使います。
○一般に僧侶は女性が通った跡を通りません。 誰か男性が通るのを待っているので男が
 道に出て茶菓と念入りに唱えた後に通ります。 ちゃかとは釈迦と言う意味です。
○俗人は日本人を見ると両手を合わせちゃかと拝み、たいへん尊敬しています。
○食べる事はキンコウ、否と云う事はミライと云います。
○三四月から六七月迄は少し涼しいですが日本よりは暑いです。 八九月から三四月頃迄は
 夏季節より特に暑く一日に三四度も水浴びをします。
  
注1.海部包丁とは徳島海部郡の刀工集団が作っていた脇差。 柄、鞘共籐で巻いてある。
   注2.装身具は原文では”ようらく”とあるので瓔珞(首や腕の装身具)と解す。


○白銀は灰吹銀を使い、日本の白銀は25%引きます。 灰吹銀を一両、一匁、
 又は二分五厘と云う様に切、両口に極印を打って居り、秤には掛けません。 
 銭は日本と同様に使います。
○米は一年に三度出来ます。 三月六月十月の三度で苗は春一度正月に植え、後二度は
 羊の様に出来ます。 初めと最後の米は中米で、六月に出来る米が上米として納めます。
 米の藁は刈り取らず下木の様にしています。 稲は穂の首だけを刈って米にします。
 米の入れものとして籐筵をカマスに縫い、四斗五升又は五斗程入れます。 藁は使わず
 縄にも籐を細くして縄に綯い、三尋程にします。
○麦、粟、稗はなく、大豆や小豆はあります。
○瓜、茄子は常にあり、日本と味は同じです。 瓜はどれも美味しいですが白瓜はありません。
  
注1.日本の銀貨は重量で価値を決めていたので決済には秤が使われていた。 一方金貨には刻印がしてあり、
      1両、1分とか1朱と刻印があった。 シャムでは銀で日本の金貨と同じ様に刻印で価値を
      決めていたと思われる。

  
注2.「羊の様に」の表現はどの写本も同じだが、意味としては後から後からと群れて出ると云う事か
  
註3.藁を活用しないのはシャムだけでなく、安南(ベトナム)でも同じだった事は徳兵衛より150年程後の
     漂流民の報告からも読み取れる。 日本では古来藁を草鞋、縄、俵、かます、筵、飼料などに活用した。


○獣物類は虎・象・唐鹿等沢山います。 象は国王の象小屋を建て飼育しています。 
 象の頬に鍵を付けて水汲み等に使います。象の顔の傷は星が出れば一夜で癒える
 そうです。 大象は戦の時並べてその背に櫓を組むと聞いております。
○日本の様な牛は無く、水牛が沢山居ります。 百姓は水牛を日本の牛同様に飼い、
 田畑を犂(すき)、車を引かせたりに使います。
○日本より馬は小ぶりに見えます。
○猿は居りません。
○フントウと云う日本の山犬様なものが居り人に危害を加えます。
○麝香鹿は鉄炮で打ち、其侭壷に入れて土に埋めて置きます。 後で取りだし売買しますが
 シャム人はむさいものと言い嫌います。 是に良く似たヒホウと云う動物がおり、
 間違えて打つと捨てますが是をヒホウの死と云います。  
○リューサ川には鯉、鮒、鱒等色々な魚が沢山います。 この支流には蛇も多く、
 暑い季節に水浴びをする時は子供は竹の柵の中で水浴びをします。 蛇に子供を取られる
 事もあるので、その時はテビヤタイの長老に頼んで文字を書いて貰い、それを川上から
 流せば蛇は半死の状態で浮きますから、それを討取ります。
○リウサ川の蛇には角がありませんが、釈迦の説法以後に角を落しました。
○孔雀は家々庭で飼っております。 糞は人に毒との事で家の外へ捨てます。 
 鳳凰が空を飛ぶと恐れて家の中へ逃げ込みます。
○鳶(とび)や烏(からす)は居り、とびは日本と同じに見えますが、烏は白いです。
   
註1.象の疵は星が出れば一夜で治るとか、蛇が経文で弱るとか、鳳凰の話など何処にでもありそうな
       民間説話的なものを除けば何れも信頼できる話である。

   
註2.写本によっては麝香犬としたものもあるが同じ類の様である。 麝香は漢方薬や香料として使われた。

○シャム国の山田仁左衛門と云う人は一国の国主(高官)で日本からの朱印状を審査します。
 生まれは伊勢国山田の人で神職の代理として江戸に出ましたが、よからぬ事をして裁判に
 掛けられそうになったので長崎へ逐電し其の侭シャム国へ渡りました。 
 国主に頼まれ方々の戦で手柄を立て、国主の娘婿になり後に国主を継いだと聞きます。 
○山田仁左衛門をオヤコウホンと云い、オヤコウホンとは侍大将の事で位はオンフウと云う
 左大臣だそうです。
○侍はアイ衆と云い、知行を何万町と云う俸禄で王帝の護衛を勤めます。
   
註1.山田仁左衛門(長政)については諸説あるが、アユタヤの日本人町の侍数百人を率いて戦い、
       シャム国王の信頼が厚く高官を勤めた。 しかし国王の死後王家内の争いに巻き込まれ属国の
       六昆王に左遷された後毒殺されたと云う。 更に日本人町は新王の命令で焼き払われたとの事。 
       長政がシャムに朱印船で渡航したのは1612年頃で死亡が1630年となっているので徳兵衛が
       シャムを訪れた時はシャム国の高官だった頃になる。

     
○日本よりシャムに持ち込んだ商品は蚊帳、から笠、扇子、ぬり物、銅、鉄の道具等、
 又刀や脇差も好まれました。 多かったのは唐傘、蚊帳、扇子等です。 又日本の紙は
 薄くて強いのでこれも好まれました。
○シャムからは糸巻物(織物)、薬種、伽羅、蘇方木、鮫皮等を買上げました。
○角倉与市殿船の船長に雇われた前橋清兵衛と云う人は大坂の塩屋道薫方に出入りして
 いました。 その頃の大坂の大年寄は淀屋孝安、大塚屋心斎、塩屋道薫が勤めて
 居られました。 私は船長の清兵衛に雇われて渡航しました。
○与市殿船の船員として八十人渡航しました。 長崎、スペイン、オランダその他の
 海上交通に明るい経験者を選んで雇われました。 船員の夫々の役を以下決めております。  
 タイコンとは操舵手、アハンとは帆柱に登る者、両コンとは両帆の手綱担当、
 一テン二テン三テンとは三筋の綱の夫々の担当、トウテンとは碇担当、
 テツコウとは荷物積み役、サホンとは掃除役、カキツケとは物書き役です
   
註1.朱印船貿易時代のシャム国との貿易品目を示す貴重な記録である。 鮫皮は刀の柄に巻いたと思われる。
    註2.朱印船がポルトガル人等を雇っていた事は残された絵馬などからも推察できる。 船員の役割名は中国語の
       の様である。 角倉船の水夫数は80人となっているが別本では50人となっている。 
       いずれにせよ総数394人とは大人数であり残りは商人だけでなく傭兵などの職を海外に求めた
       侍ではないかと想像する。
 
       アユタヤの日本人町は最盛期は2千人以上住居したと云う説もある。(通航一覧)

     
○天竺の物の数えかた
 一はウンカ、二はトラス、三はテレス、四はクワトロ、五はシンク、六はセイシ、
 七はセイテ、八はオイテ、九はノビ、十はデシ、百はテフンテキ、千はレン、万はトン
○中国の主要港
 チャチウ、 フクチウ(福州)、チンチウ(泉州)チンモウ、カラノクニ(唐国)、
 カントウ(広東、マカオ)、ナンキン(南京)以上七港
○中天竺の名
 トンキン(東京、ベトナム北部)、コウチ(交址、ベトナム中北部)、
 チャンパ(占城、ベトナム南部)、ルソン(呂宋、フィリピン)、
 カボチャ(東補塞、カンボジャ) 以上五国の港
○空海が滞在したのはウリヒサラのケイカイ山清鈴寺と云う寺です。
  
註1.数の言い方は1から10迄はポルトガル語と思われる。 徳兵衛の頃17世紀初期迄は
     ポルトガルがインド沿岸、東南アジア各地で最盛期であり、17世紀中頃からオランダ、
     イギリスが興隆してポルトガルは衰微した。 
      数字は商売では最も重要でありシャムでも先駆者であるポルトガル語が貿易の共通語だったのでは。
         1uno 2dois 3tres 4quatro 5cinco 6seis 7sete 8oito 9nove 10dez

  
註2.空海が再度登場するが、空海は唐の長安にある青龍寺で密教を学んだとある(ウィキペディア)
     
随ってシャム国とは関係ない

○シャム国へ商船を送る事を許された(朱印状受領)人数         
 角倉与一、茶屋四郎次郎、平野藤治郎、後藤、籠屋、江屋 以上京都の六名
 長崎の末次平蔵、高木作左衛門、オランダのヤン・ヨウステン
 暹羅(しゃむ)の山田仁左衛門他
○初渡りの時の長崎奉行は竹中采女様でした。
 以上天竺往来に付いてお尋ねがあったので覚えている通り物語りました。
   
註1.朱印船貿易は慶長六(1602)から寛永11(1634)迄の33年間、広南(安南、ベトナム中部)、
      東埔寨(カンボチャ)、東京(トンキン、ベトナム北部)六昆(マレー半島中部)、
      大泥(パタニ、現マレーシヤ) 東寧(タイワン)、呂宋(ルソン)、亜瑪港(マカオ), 
      暹羅(シャム)、交址(ベトナム北部)などに家康、秀忠の
      許可証(朱印状)を受領して貿易を行った。 渡海の大船は長崎の五艘(末次2、船本、荒木、
      糸屋各1)、
      堺の伊予屋1及び京都の角倉、茶屋、伏見屋の各1の合計九艘だった。(通航一覧より)
    註2.朱印状の交付先は通航一覧では62名程で註1の大船所有者は勿論、商人、九州大名等が名前を
      連ねているが外国人等が抜けており、寛永11年迄に100名程との研究書もある。 
      朱印状は毎年一航海毎で古いものは返還したという。 
      30年の間に10回以上朱印状を交付された人々は角倉、茶屋、末吉、船本、ヤン・ヨウステン等、
      自前の船を持たずに朱印状を得た人々はオランダやポルトガル、中国船のチャーター或いは
      大船所有者に相乗りしたとしか思えないが、その点は通航一覧でも明確ではない。
    註3.竹中采女正重は豊後の大名だったが秀忠(此頃は大御所)により長崎奉行に任ぜられた。 
       しかし密貿易が暴露し切腹させられた(奉行在任1629-34)。 徳兵衛が帰国した時には
       奉行職だったと思われる。


○徳兵衛が拾五歳で天竺へ渡った年は寛永三丙寅(1626)であるから元禄七年(1694)
 迄69年に成る。 徳兵衛は八十歳で剃髪して法名宗心と号す。
   
註1.15プラス69で84となるので、剃髪後84歳の時に物語ったと解釈も出来るが写本製作者が元禄7に
      写本したとも取れ、何時物語が書かれたか本当の所は分らない。 他の写本も同じ様な文章があり、
      元禄7が元禄15とか延享4(1747)となっている。 いずれにせよ徳兵衛が若い時の記憶を年老いて
      から語ったと思う。

   
註2.尋ねられて物語したとあるが、誰に尋ねられたかは不明。 写本によっては所の領主に尋ねられたと
      有る由




完