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            天詔(翻刻)            現代語訳・注
夫聖人に非ルよりハ内安けれハ必外患有りと方今天下
二百有余年至平に慣れ、内遊惰に流れ武備を
忘れ、甲冑折廃し、干戈腐錆す、卒然として
夷狄之患起て不能応之、終に癸丑甲寅之年より 
有司益駕御之術を失ひ、事損抜多し、是以
戎虜不知所恐惧徴求無厭、条約を定め開市を 
通セん事を請ふ、幕府因循不能拒其請、以旗下
小吏奉聴、朕知其誣誷斥之、翌巳年二月幕府
以老吏堀田―及二三小吏登京、事情を陳し
尭舜時代より以後は国内の平和が続くと必ず外から危機が
迫ると云う。 昨今の我国は200年来の太平に慣れ緊張感
を欠き軍備を怠り、防具は傷み武器は錆付いている。 
ここに突然外国の脅威が迫っても対応ができず、終に
嘉永6年7年以来幕府は外国に主導権を奪われている。 
ここに来て外国は更に通商条約を迫り、開国して貿易を
要求してきたが幕府はこれを断りきれず、役人を送り許可
を求めてきた。 しかし私は作為に満ちているので許可
しなかった。 翌年(安政5年)2月幕府は堀田備中守が2-3
の役人を伴い來京、事情を説明し


1.儒教で理想の国家とした伝説の尭帝、舜帝時代か
2.国癸丑甲寅之年:1853,1854の二度に渡るペリーの
 来航で日米和親条約を結んだ事を指す
3.堀田老中に川路聖謨、岩瀬忠震等の開国派官僚付添
切請不止、朕熟察古今夷狄之憂雑不少、近年
之如く甚しきハ未有之也、若一旦親狎之羶流穢溺
神州陸沈し、朕が世に至て初て金甌を欠ハ何以
先皇在天之霊に謝セんやと深謀遠慮之群臣
に諮詢するに、皆其不可なる事を白す、叉列藩
内密上言之者有りて、更幕府に命して天下之
大小名に令し、時宜を陳セしむ、然るに幕府命を
脱し肯て是を天下に伝示セす、朕深憂慮し未
処置する事不有、於是群臣八十八人憤然として
熱心に許可を求めた。 私が深く考えるに、古今外国との
問題は色々あったが最近の様な問題は過去に無かった。 
若し一旦これに慣れると日本は外国に翻弄されるだろう。 
私の代に国家を傷つける事になれば、何と云って先祖の
霊に申し開きが出来るのか。 この事を朝廷の公家達に
諮ったところ、皆開国はすべきでないと云う。
叉ある藩から内密に言上するには、幕府に命じて全国の
大小名に意見を述べさせるべきであると。 ところが幕府は
これを無視して全国に通達しない。 私はこれを憂慮して
いたが、朝廷の公家88人が憤然として、


1.廷臣88卿列参事件:安政5年3月日米通商条約不許可
 を求め公家88人が抗議、岩倉具視が主導と云われる
奉状を以て朕が意を賛す、叉或曰朕若幕府之
請に不従ハ必承久・元弘之事を為んと、然れとも朕
此一身を以て祖宗之天下に為んやと卒に重て   
命するに、前令を以次て幕吏を返らしむ、叉使
を発して幣を三社に奉し、戒虜国体を侵す
事なく人民其生を安セん事を祈祷す、庶幾ハ
弘安之先踏を残んと、豈図らんや旬日之間幕吏  
朕命を不用、遂に条約を定め通商を許し、片紙
を以て奏曰、時勢切迫不得已也と、朕殊に其侮慢
奏状を提出して私の意見に賛意を示した。 叉ある者が
云うには、若し私が幕府の要求を受け入れないならば、
幕府は承久や元弘の時の様に天皇を流刑にするかも
知れないと。 しかし私の一身に代えても先祖以来の
国家の為なら、と重ねて条約拒否を命じ幕府の役人達
を帰らせた。 叉使者を立てて幣を三社に奉じて、
外国に日本国が侵略されず、国民が安心できるように
と祈祷した。 叉願わくば弘安の時の様な事が起ると。
ところが10日ばかりの間に私の意図に反し、幕府は条約を
定めて通商を許し、時勢は切迫しており止むを得ません
でした、と一片の紙切れで報告してきた。 私は特にその
朝廷を侮った


1.承久の乱 1221年後鳥羽上皇・順徳天皇が鎌倉幕府に
  対し反乱。 敗れて上皇は隠岐へ、天皇は佐渡へ配流
2.元弘の乱 1331年後醍醐天皇の鎌倉幕府に対する
  反乱。 事前に情報漏れ失敗、天皇は隠岐へ配流
3.弘安の役 1281年元寇、蒙古軍台風で全滅
無礼を怒と雖とも、未タ遂ニ是を譲責セす、三家
家門或ハ大老を召し、其仔細を尋糺セんと欲す
然るに尾水越其余二三之各藩臣を籠居し、叉
曾て命を奉セす、次て前将軍薨セり、叉忠告する
もの有り、曰嗣子幼君将軍ニ任する事なく
暫其為す所を見て而後任しよと、然とも
直に其職に任じ其を以て其職を尽さしめんと
す、然るに将軍幼若有司柔惰、朕が意に適ふ事
を不知、曽て攘夷之念なく、却て是を親服し
無礼を怒ったが未だ詰問できていない。 三家家門叉は
大老を呼んで事情を聞こうとしたが、幕府は尾張、水戸、
越前、その他2-3の藩臣を拘束して私の命令に随わない。
その内前の将軍が死去したので、叉私に忠告する者が
いた。 即ち幼君を将軍に任ぜず暫く様子みてからに
すべきと。 しかし幕府は直ちに将軍職を継がせようと
している。 将軍は幼く役人は外国に対し弱腰であり、
これでは私の意に適うとは思えない。 是迄も攘夷の意識が
なく却って外国人と親しくしており、


1.三家家門:徳川家の親戚筋、尾張・紀州・水戸徳川家
 及び田安、一橋、清水家の三卿、越前松平家
2.13代将軍家定の死去
3.幼君とは13歳の紀州徳川家慶福、14代将軍徳川家茂
剰正議之士を排斥す、朕其三家三卿等を召せとも
不来、剰正議之各藩臣を退隠或ハ禁固セしめ
其積鬱之余激して変を生じ、外夷其虜に乗セん
事を憂慮し、辞令を幕府水府に下し、天下之  
大小名同心合力幕府を輔佐し、内奸吏を除き
諸藩勤王之心を慰め、外醜虜を攘ひ、各国窺寄
之念を絶セしめんとす、然るに皆朕が意を躰し
其命を海内に伝示し、天下一心戮力徳川を補佐し
外夷征殄之議を不興、却而公武不和之難を醸し
それどころか、攘夷を唱える正義の者を排除している。 
私が三家・三卿を呼んだのに来ず、その上正義の各藩臣
を隠居または蟄居に処している。
この様な処置が反発を生み、幕府に対する反乱など起き
れば外国がその機に乗じて戦を起すのではないか、と危惧
したので、勅を幕府と水戸藩に下し全国の大小名が協力
して幕府を輔佐し、幕府内の悪役人を取り除き、勤皇の
精神で外国を打払い、今後日本を窺う様な事をさせない
ようにする事である。
この様な私の意向に同意し、命令を全国に伝えて全員
力を合わせ徳川を補佐し外国を粉砕するべきなのに
それをせず、却って幕府・朝廷が不和となる様な
雰囲気となっている事を


1.退隠・禁錮: 尾張、水戸、越前各侯等一橋 慶喜を
 14代将軍に押した面々が井伊大老により 処分された。 
 安政の大獄の前哨
2.辞令を幕府水府に:水戸藩に下された戊午の 密勅と
 云われる物で大獄の直接原因となる
3.内奸吏:無勅許の条約締結、一橋派の排斥等で明らかに
 井伊大老を指すと思われる。
朕深く之を憂ふ、其間事々粉々書云ふへき事
難し、然れとも其一二を云ハんに、人々以為幕府
如是衰弱不振、戒狄如是猖獗不懲然則
外患何時止まん、神州正気何時回復セん、人
民何時生を安セん、是豪傑英雄之将に非ん
ハ治むる事不能と三家中一橋其英明なるを以
て之をして其職に当らしめん、寧よく大事を
成就セん、是以草莽有志之士其中に周旋
奔馳するものあり、叉其間奸猾其意を快セん
私は深く憂える。 これらの事を一々述べる事は難しい。
しかしその一つ二つを云えば人々は思う、幕府は何故こんな
に弱腰なのか、外国は何故こんなに猛威をふるうのか、
これを阻止しなかったら何時外国からの脅威がなくなるのか
国家の威信は何時回復するのか。 これには強力な将軍で
なければ収拾できない。 徳川一門の中で一橋慶喜が
英明と云う事なので彼に将軍職を勤めさせれば打開できる
のではないか、と草莽の有志達が運動していたが、それを
叉弾圧する


1.一橋慶喜: 水戸徳川斉昭の息子で三卿のひとつ
 である一橋家に養子に入る。 後の十五代将軍
とするもの有りて事多く、朕が意の如くならず 
して間部下総守登京、幕命を以て天下之事を   
論する者一切に縛ねして是を江戸に下し、次て四大臣
落飾幽居し、正議之士是以尽く、下総守幕議を  
白して曰、条約押印之事ハ先役備中守所為に
して当役之寄る所ニあらす、即今条約を返し
通市を止むる時ハ、外国に不信を伝へ、彼か怒を
激し異変不測に生セん、環海武備未タ充実
せず且大奸内に在り、若外患起らハ内憂之に
ものがあり、混乱しており私の思う様にならない。 
と云うのは間部下総守が幕命で来京し、国家の事を
論じる者達(攘夷、一橋支持)を逮捕し江戸に送った。
更に4人の大臣を罷免して謹慎処分にした。 これで
正義の人々が全て絶えてしまった。 下総守が言う
には「条約締結は前任者の備中守のやった事であり、
拙者は拘っていません。 しかし今条約を破棄し通商
を断れば外国に不信を招き戦争になるかもしれません。
我国の軍備は未だ整わず国内にも大きな問題もあり、
若し外国と戦争になれば国内の不満分子がこれを機に


1.間部下総守: 井伊大老の意を受けて大獄を推進
 した老中。 
2.備中守: 前老中堀田備中守 前出 
3.四大臣:近衛左、鷹司右、鷹司前関白、三条前内 
乗セん、然らハ忽ち天下土崩瓦解如何とも為へからる
に至る、希くハ幕府の申所に任せて姑く天下之  
時勢を御覧セん事を、必年を経ずして戎虜
を攘絶し、神州之正気を回復セんと、是以朕不
得已於て其請に任せて以て天下之事勢を見る
其後庚申年三月三日水府浪士井伊―を
刺す事有、其所為ハ乱暴に似たれとも、其所懐
中之状書を見て其意を察するに深く外夷
之跋扈を憤怒し、幕府之老職を死を以て
反乱を起し国家崩壊を止める事はできなくなります。 今は
幕府の方針(開国)に任せて暫く様子を見て下さい。 必ず
将来は外国を凌いで日本国の威信を回復をします」と。 
斯く云うので私は已むを得ず様子を見る事にした。
その後一昨年3月3日、水戸藩の浪士達が井伊を刺殺する
事件が起きた。 その行動は乱暴ではあるが、彼等の懐中
書状から察すれば外国の進出に怒り幕府高官を暗殺する
事により


1.井伊大老暗殺:桜田門外の変 万延元〔1860)3月3日
2.浪士の懐中から斬奸状なるものが出てきた
 
諌むるに有り、是朕か掌より所憂、叉其後年
墨使を刺し叉東禅寺之件々、皆其意斯に
基つけり、其余外夷の陸梁なる封州之事
二カ国相増事、兵庫より陸行江府に至る事 
海岸測量、殿山を借与之事等、朕一々幕府
に其然らさる事を責れとも、幕吏奏曰是皆
一時之権宜にして浪華開商延期之術策
なりと、叉奏請曰、外夷を払殄するに天下一心
戮力に非すんハ為し難し、故に和宮を以て将軍
その政策に非を唱えている。 これは私が心から憂慮して
いた事である。 叉その後アメリカの役人を刺殺、東禅寺での
襲撃などある。 これらは皆攘夷の気持ちに基く。 それ以外
にも外国の干渉ある対馬の事、条約を更に2カ国増やす事、
外国人が兵庫より陸路江戸に旅行すること、海岸の測量、
殿山の借地の事等、私は一々それを受入れぬ事を幕府
に伝えたが幕府役人は、これも一時の方便で最終的に
大坂の開港を引延ばすためと云う。 叉幕府からの申入れ
では、外国勢力を払拭する為には国内の総力を揚げなけ
れば難しく、 その為に和宮を将軍に


1.墨使:米国公使ハリスの事務官ヒュースケンの暗殺、
 万延元(1860)12月。
2.第一次東禅寺の件:英国公使オールコックの滞在
 場所(東禅寺)を文久元5月28日水戸浪士14人が襲撃
3.対馬の件:文久元2月ロシア艦ポサドニック号が対馬に
 半年居座り対馬藩に借地を求めた。英国の協力と箱館
 奉行の外交で解決
4.兵庫より陸行:英公使オールコックが上海訪問後
 長崎経由海路瀬戸内海、陸路江戸に帰着、文久元5月
に尚して以て公武一和を天下に表し、而後戎虜
頸絶に可及也、不然ハ公武之間を隔絶セんとするの
奸賊有りて、外夷拒絶に及び難しと、朕念ふに
先帝違腹之妹を以て百有余里之外に嫁して
其古来未曾有有之武臣に尚セん事、朕が意実に
忍びさる所也、然るに幕吏切に内外之事情を
陳述し、朕が憐を請て不止、朕之意も不忍と
雖も祖宗之天下ニハ易へ難しと意を決して
其請を許し、十年を不出必然外夷攘除之事
娶って朝廷と幕府の強固な関係を天下に示し、夫に
より外国勢を打払う事も可能となる。 さもなければ朝廷と
幕府の間を割こうとする邪な者が居るため、外国勢を拒否
できない、と。 
私にとっては腹違いの妹を百里を超える都の外へ送出す事
古来より武臣に嫁がせた前例がない事で実に忍び難い。
然るに幕府役人は内外の困難な事情を述べて熱心に
私の許可を求めるので、私も祖先からの国家を保つ事には
代え難く、意を決してその願を認め、十年以内に外国勢を
払い除く事を


1.皇女和宮降嫁: 14代将軍家茂の御台所になる
  文久元(1861)12月和宮江戸下り
2.尚:天子の娘を娶る
を命し、且海内大小名に朕意を伝示し、武備
充実セしめんとす、幕吏連署奏状し、皆朕か
命を聴んと、故に去冬和宮入城之事に及へり、然
るに今春に到り。幕吏安藤―浪士の為に
刺さる、是等皆井伊を刺セし者と同意之者にし
て、皆此輩ハ死を観る事帰るが如く、実に
勇豪之士也、嗚呼此輩をして少々其憤鬱
する處を伸へしめ諭すに丁寧誠実之言
を以てして暫く其勇気を儲へしめ、他日非常
命じ、この事を全国に知らせ軍備を強化させようとした。 
幕府役人は連署して私の命に随う事を約束したので、去冬
和宮が入城(江戸へ)する事になった。
ところが今春に老中の安藤対馬守が浪士に刺された。
彼等は井伊を襲った者達と同じ水戸浪士で、皆死を怖れぬ
実に勇敢な者達である。 この者達にいま少し憤りを鎮める
様諭し、その勇気を貯え将来


1.安藤対馬守:老中 文久2年(1862)1月15日江戸城
 坂下門外で水戸浪士に襲われ負傷。 坂下門外の変。
 
之変に用ひ、其を先魁たらしめハ、堅を衝き
鋭を挫するに於て何之難き事かあらんや
誠に惜むへき士也、幕府意を斯に不着、日夜
猶其余党を探るなるへし、是徒に怨を天下に
構へて事に於て益なく、其本に反らすして
徒に威力を以て制セんとせハ、是を捕レハ叉新
に生じ、天下之変せむ時なく、終に大変を激
生するに至らん、是朕が深く憂慮する
所也、聞翌十六日将軍拝廟之事あり、有司
外国との戦に用い、先鋒を務めさせるならば仮令相手が
鉄壁の備えであっても、打破る事は容易いだろう。 実に
惜しむべき者達である。 幕府は日夜残党を探索する事
だろうが、これは徒に怨みを天下にに募らせるだけで無益
な事である。 根本を変えず力で制するなら、捕らえても叉
新たテロが続き、国内休まる時なく最後には大きな内戦
に至るだろう。 私はこの事を深く憂慮するものである。 
聞く所によれば変(坂下門外の変)の翌日16日には将軍の
拝廟の予定があったという。 幕府役人は
前日之変を以て拝廟之事を延引セんと謂へり
然るに拝廟之事を変せす是を行へりと
朕其寛量を愛し因て思ふ、庚申二月以来  
九門外に守兵を置き、叉関白邸亭にも兵士を
置き、或は泰朝ニ武士を具して非常に
備ふと、是等朕深く慙憂する所也、因て叉思ふ
に往年三社に奉幣セし以来、神州之汗穢を
払掃セん事を朝夕祷請して叉法楽等今
猶之を行ふに庶幾ハ以て前々志願を全ふして
前日の事があり拝廟を延期する様願ったが予定通り行った
との事、 私はその寛容を愛する。 
一方思うに安政7年(1860)2月以来御所の九門の外を守兵
で固め、叉関白の邸にも兵士を置き、泰殿に武士を侍らせ
いざと云う時に備えるというが、私はこれをたいへん残念に
思う。 それにつけても以前三社に幣を挙げて以来、我国
の穢れを払拭しようと朝夕祈祷し、神仏に音曲を奉納して
攘夷をこいねがっており、このような好ましからざる状況を


1.幕府は朝廷と列藩との接触と断つ為、御所の警備を
 厳しくした。
2.三社: 伊勢、石清水八幡、加茂神社
之を終んと、去年元を改め天下に与に更始す 
公主既に尚し公武実に一和す、此時に及んて
既往ハ咎めさるの教によりて天下に大赦し、三
大臣の幽門を赦し列藩臣之禁錮を赦し有意之
士之連座セる者を赦さん事を速告、幕府
以て此挙を行しめよ、是朕所深欲也、而後天下
心を合セ力を一にし、十年内を限り武備充実
セしめ、断然として夷虜に諭すに利害を以て
し、一切に之を謝絶し、若し不聴ハ速ニ膺懲之師
終らせようと思い、昨年改元を行い天下に知らせた。 
先帝の内親王、和宮も既に降嫁し朝廷・幕府は実際に
和解した。 この機に過去は問わない、という主義で天下
に大赦を下し、三大臣の謹慎を解き、列藩臣の蟄居
を許し、叉連座した有意の者達を許す様、速やかに幕府
に告げて実行させよ。 私はこれを深く望むものである。 
以後日本全体が心を合わせて力を集結して、十年以内に
軍備を整え、外国勢は全て去るよう説得し、若し彼等
が受入れを拒む様なら直ちに武力行使に


1.昨年の改元:万延2年 2月19日に文久元(1861)に改元
2.和宮婚儀 文久2〔1862)2月11日、家茂17、和宮16歳
3.安政の大獄で幕府が処罰を下した人々の大赦について
 三大臣: 謹慎 鷹司右、鷹司前関白、三条前内大臣
 列藩: 一橋慶喜、尾張徳川、松平春獄、他
を挙、海内之全力を以て、入テハ守り出てハ制セハ
豈神州之元気を恢復セんに難き事有んや
若然らすして徒ニ因循姑息旧套に従て
不改、海内疲弊之極、卒ニハ戎虜之術中に陥り
坐なから膝を犬羊に屈し、殷鍳(鑑か)不遠印度之
覆轍を踏ハ朕実ニ何以か先皇在天之神霊
に謝セんや、若幕府十年内を限り朕か命に従ひ
膺懲之師を作さすんハ、朕実に断然として
神武―神功―之遺蹝に則り、公家百官
踏み切り奮戦すれば、我国の威信を回復する事に何の
難しい事があろうか。
若しこれと反対に因循姑息にして従来のやり方を改めない
ならば、国家が疲弊し外国の思うツボにはまり西洋人に膝を
屈する事になる、戒めとすべきインドの様な状況を見るなら
私は何と先帝や祖先の霊に謝ればよいのか、 若し幕府
が私の命令である十年以内に外国打払いの軍事行動を
取らなかったら、私自身が神武、神功の遺業に習い、公家
百官と


1.殷鑑不遠: 殷が戒めとする手本は遠い昔に求めずとも
 前王朝の夏が悪政で亡ぼされたではないか。(詩経)
 戒めの手本はすぐ近くにあるの意。 殷鑑遠からず
2.インドはムガール王朝の支配が緩み国内がばらばらに
  なり、そこを英国に付け込まれ次々植民地となった
3.神功: 第十四代仲哀天皇の后、兵を率いて三韓征伐
 をした伝説がある〔古事記)

と天下の牧伯を師ひて親征セん、卿等其斯
意を体して以て朕に報セん事を計れ

全国の諸侯(大名)を率いて攘夷の親征を行う。 諸卿は斯く
心構えして私に報いるようにせよ


1.孝明天皇は最後迄徳川家を信任していたが、親征宣言
 は幕府朝廷の二重政権となり幕末の混乱の元となった。
2. この詔の時期は文久2年(1862年)初夏の頃か

出典写本: 内閣文庫 朝野纂聞
第五冊(壬戌輯説)


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