幕末攘夷の原点
−孝明天皇の時局詔勅ー
当HPで前回は幕府大老井伊直弼の積極的開国論 と安政の大獄について書いた。 今回はその対極に当る 朝廷の攘夷について、 今から調度150年前に孝明天皇 の詔勅という形で出された文書があるのでこれを解読する。 詔といえば天皇の意向叉は命令を朝廷で文書化したもの だが、当時は印刷された訳ではなく写本から写本へと流布 して行ったものと思う。 取上げる詔は国立公文書館内閣文庫の朝野纂聞と 云う写本による。 これは当時京都町奉行、江戸町奉行等 歴任した幕臣の浅野長祚(号梅堂)が安政6(1859)年から 文久3(1863〕年頃迄の内政及び外交の文書を集めて 編纂したものの中の一つである。 「天詔」として流布した 様で、この一文が幕末の社会、政治に計り知れない程 大きな影響を与えた事は間違いない。 |
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文書は朕という天皇自身の第一人称で書かれ、天皇の意思を朝廷の公家達に伝えた形をとっている。 内容は幕府が日米修好通商条約の勅許を求めた安政5年(1858)1月頃から文久2(1862)2月の和宮婚儀による 公武一和迄の朝幕関係が述べられているので、文久2年(1862)4月頃出されたものと推定する。 その後の幕末歴史の推移を見て、この文書の以下の内容が特に影響を与えたのではないかと思われる。 1.天皇の意思は攘夷であり先祖から引継いだ神国を夷狄(異国人)に穢されてはならない。 2.攘夷こそ正義であり攘夷を行う事が勤皇である。 注:攘夷とは異国人を打払い、鎖国に戻す事 3.幕府重職の井伊掃部頭や安藤対馬守に対する攘夷派のテロについても心情的に理解を示している。 4.公武一和の下、10年以内に攘夷の軍を幕府に起させる事、 起さないなら直接天皇が指揮する 安政の大獄により攘夷派は徹底的に弾圧され押さえ込まれたと思われるが、 井伊大老暗殺から2年後 この書が出るに及んで攘夷派が勢いづいた事は間違いない。 攘夷運動は前にも増して激化し狂信的になって ゆく。 文久2年の秋口から京都では天誅と称するテロが盛んに行われ、 先ず安政の大獄の協力者達が次々と 暗殺され、首が四条河原に晒された。 天誅と云う事自体が既にこの詔の影響ではないだろうか。 更にテロの 対象が開国派にも拡大した様子が朝野纂聞に記録されている。 編纂の浅野自身が文中で、何某は良い意見を 進言する開国派だったが、最近天誅が怖くて攘夷派に転向した見下げた奴だ、と云っている。 しかし何某は詔に 接して攘夷こそ勤皇と思って転向したのかも知れない。 上記1−3はテロの横行という社会現象を生んだと思われるが、4については天皇の意思と離れて攘夷が幕府 否定、即ち倒幕の方向に向っていったようである。 この詔から4年後(1866年)孝明天皇は36歳で崩御するが、 最後迄政体を変える気持ちはなく、 徳川幕府に政治の大権を委任する姿勢だったと云われている。 そのため に倒幕に持込みたい一部雄藩・公家にとっては天皇は何とも困った存在になり、関係者に毒殺されたという説が 残っている。 孝明天皇崩御の1年後王政復古が号令され明治維新となり幕府は消滅するが、 かって攘夷を唱えた人々 も手のひらを返した様に開国派となり、江戸幕府が結んだ諸外国との通商条約はそのまま明治政府に引継がれた。 |
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朝野纂聞第五冊 天詔 画像クリック拡大 |