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                      薩人唐漂流
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一文化十三年丙子閏八月松平豊後守家来漂流帰着御届
               松平豊後守家来
        禅宗          古渡七郎右衛門 子五十才
         “           染川伊兵衛     子五十五才
         “           税所長左衛門   子五十才
 
 私共儀唐国え漂着仕候所、此度当子ノ二番船、同三番、同六番唐船より
 送り来候ニ付踏絵被仰付
(ふみえおうせつけられ)、国元出船積荷物并漂着の次第、彼地逗留
 中の始末、委細有躰
(いさいありてい)可申上(もうしあぐべく)候旨、御吟味御座候(おぎんみござそうろう)

 此段四年以前酉年、松平豊後守代官新納次郎九郎儀琉球国の
 内大嶋え為在番
(ざいばんのため)罷越(まかりこし)候ニ付、私共并(ならび)同役伊集院徳右衛門、江川金
 六郎儀、右代官え付役の義豊後守申付候間、目付役有川与左衛門、
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 弟子丸六郎一同、同年三月廿一日薩州鹿児嶋出帆、同四月二十八日
 大嶋へ着舟仕、先達相詰
(さきだちあいつめ)候者ハ交代仕(つかまつり)、去亥八月迄在番仕罷有
 候所、薩州より代り役差越候間、右代官并
(ならび)私共同役、目付役の者別船
 二艘ニ乗組、私共三人、其外家来十二人、舟頭、水主廿六人、雇水主
 琉球国大島の者八人、都合四十九人薩州阿久根政右衛門所持の船、
 二十三反帆、六百九十石積伊勢田丸え乗組、大嶋より鹿児島へ相納
 候黒砂糖三十二万斤、尺莚二百束并、乗組ノ者共手回り諸道具、
 舟中糧米、且彼地在番の者より薩州え届物等右舟え積入、去ノ亥ノ八
 月十四日大嶋の内大熊ト申湊出帆仕候処、同夜五ツ時頃西風吹出し
 雨降り出候ニ付、右二艘の類舟ト一同大熊湊え乗戻り、同十七日風なき
 候ニ付、猶又一同出帆仕
(つかまつり)候所至(いたっ)て順風にて走り候内、追々類舟に乗離レ
 同廿一日大しまの内東古仁村役所の下へ碇を卸
(おろし)、右役所私共三人
 家来共召連て上陸仕候所、類船二艘共大島の内津代湊え着舟致シ
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 候旨承り、夫より又々乗舟薩州ヲ心ざし出帆、同廿四日帆損
(ほそんじ)舟中ニて
 取繕ひ同廿(七か)日迄同様の風吹、同日夕七時頃より俄
(にわか)ニ北東風替り
 候ニ付、地方へ乗よせ可申様
(もうすべきよう)候処、夜ニ入帆柱鳴り候ニ付打驚キ、乗組ノ者
 共一同相働候へ共、風以よいよ吹つのり甚だ危く有之
(これある)ニ付、帆を卸(おろ)
 舟頭、水主共其髪を切、神仏へ祈願を掛け、乗組の者とも
 一同相働
(あいはたらく)、同廿八日も夥敷(おびただしく)帆柱なり、詮方なく帆柱切捨、舟中
 者共身命限り相働候内、昼八ツ時頃大嶋の内西間切と申所ヲ
 廿里斗
(ばか)りニ見懸(みか)ケ候へども風強ク乗寄候事ならず、益々風つよく
 候ニ付荷物打捨、神仏に祈願をかけ、同十(廿か)九日早朝より又々荷
 物打捨相凌
(あいしのぎ)候所、四時頃より追々風かハり亥子の方を志し走り、水
 際より楫をれ(折れ)候ニ付、表の方ニ碇を三房卸し下ケ候得共間もなく二
 房ハ切れニ付、猶又
(なおまた)一房下ケ置候、同夜家来共髪を切、讃州金
 毘羅伊勢大神宮え祈願を懸ケ、同晦日雨降り出し又々西風強ク
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 吹出し候ニ付、祈願のため私共指料の大小海中え沈
(しずめ)候処、四ツ時頃より
 北風に替り、九月二日迄同風吹続き候ニ付追々荷物打捨、流レ
 漂ひ、何卒
(なにとぞ)地方(じかた)え近寄致様神鬮(みくじ)を上候所、其明日中ニ地方ヲ見出シ
 候神鬮
(みくじ)下候ニ付何レも相悦(あいよろこ)ひ、同三日も同様流レ次第に致居候
 内、琉球国鳥の嶋にも可有之
(これあるべく)とぞんじ三里程の島見出し候ニ付、何
 とぞ乗寄申度
(のりよせもうしたく)、乗組の者共一同相働候内右の地方も見失ひ、呑
 水も切候ニ付汐を煎
(いり)、水を取、飯を焚(たき)、呑水ニも仕(つかまつる)、同四日雨ふり
 出し候ニ付箱蓋
(はこふた)等ニ請溜置(うけためおく)、同五日より地方も見掛不申(みかけもうさず)其後ハ日々
 風にまかせ流レ次第に仕罷在
(つかまつりまかりあり)候処、水主阿久根権右衛門先達より病気
 ニ付介抱致遣
(かいほうつかわ)シ候得共次第ニ差重(さしかさな)り同廿七日相果(あいはて)候ニ付、死骸ハ箱に入
 舟中ニ差置漂ひ罷在
(まかりあり)候所、夜四時頃より小方の唐舟二艘私共舟の
 近辺乗通り候ニ付、唐国地廻りの舟ニても可有之
(これあるべき)トぞんじ、一同力を得、
 猶又
(なおまた)流次第ニ仕居候内、白鷺、鶉を見掛候ニ付、弥(いよいよ)地方近寄(じかたちかより)候義ト存候處、
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 同十月四日唐土漁船と相見へ舟三十艘程見掛候ニ付、地方え引寄
 呉
(ひきよせくれ)候様書付見せ候へ共不相分(あいわからず)様子ニ付、唐土ハ何レの方ニ候やと是また
 書付見せ候へ共不相分
(あいわからず)様子にて天地と認置すぐに漕かへり候、定て
 程遠キ有之
(これある)義と相察し其侭(そのまま)ニ仕置候所、又々翌五日漁舟相見へ
 数百艘見かけ、招き候所十艘程近寄候ニ付、地方へ寄せ呉
(くれ)候様仕
 方
(しかた)ニて相頼候ヘ共不相分様子にて漕かへり申候、然る所、昼頃五リ斗(ばか)
 の地方を見出候所唐国と候へ共、琉球人薩州え通路の義ハ唐国え対シ
 差合
(さしあい)の由兼(かね)て承り候ニ付、琉球人交り居てハ如何ト存、幼年ノ者の外
 ハ月代
(さかやき)を剃らセ日本人の姿ニ仕替へ、実孝を孝助、伊久貞を矢太郎ト
 名付置、右地方を志しいよいよ相働き近寄候處、舟数百艘繋有之
(つなぎこれあり)
 其節風波強く殊ニ夕方ニ成り候ニ付、其所へ碇を入舟繋仕居
(ふねつなぎつかまつりおる)、同六日
 風波つよく三り程沖の方江吹流レ碇綱切候ニ付、鎗、鉄砲、刀、脇差、其外
 束衣類、手まハり等少々ヅツ持、乗組の者共不残端舟
(のこらずたんしゅう)二艘ニ乗移り、
(出船ハ乗捨十五六丁程漕致候処、端舟の内壱艘大波打込候ニ付、今壱艘え乗移り、)
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 右端舟
(たんしゅう)ハ捨置追々漕のき(退)、凡一里程参り候所本船より火煙出、定メて
 衣類に炎がうつり燃上り候義も可有之哉
(これあるべくや)、其ままに仕置、其節権右
 衛門死骸も焼失いたし候儀ト奉存
(ぞんじたてまつり)候、夫より浜辺へ乗よせ候所りやう(漁)
 場と相見へ小家六軒程有之
(これあり)、唐人廿人程参り私共舟え罷越(まかりこし)候ニ付、舟
 中水遣
(みずつか)イ切(きる)候段手真似仕(てまねつかまつり)候処、水并柿等持参り候ニ付打寄給申(うちよりたべもうし)候、乗り
 参り候端舟ハ乗捨、積残有之
(つみのこしこれある)品々を持(もち)一同上陸候処、小キ堂有之(どうこれあり)
 此処ハ広東省の内恵州府碣石鎮の内ノ由。 北の方三り程先キに
 碣石鎮ト申所有之
(これある)由、其所の者共仕形(しかた)致し教へ候ニ付、右堂ニて舟中より
 持越候食物給り上、水主共を岳へ上ケ北の方人家の有無見させ候處
 地方役人
(じかたやくにん)の由、供二人召連参り候ニ付、右の者へ案内を頼、舟頭阿久
 根宅右衛門義、其砌
(そのみぎり)疱瘡相煩罷在(ほうそうあいわずらいまかりあり)候ニ付、此処迄ハ水主共介抱いたし
 連越候へ共、迚も歩行なりかね候義ニ付、右役人え仕形
(しかた)致相頼候所、轎(ぎょう)
 唱へ左右後へハ竹ニて拵
(こしら)へ中ニ腰懸ケ有之(これあり)、腰をかけ前ニ足を載せ候木
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 有之
(きこれあり)、凡二間程に拵候駕籠の様成物(ようなるもの)を前へよせ宅右衛門を乗セ人足
 躰
(てい)の者二人ニてかつき、一同海辺塩浜有之(これある)処一リ半程参(まいり)候所、広徳
 禅寺ト申寺へ着、此処碣石鎮ト申所の由、猶又
(なおまた)右役人案内いたし家又ハ
 畑有之
(はたけこれある)処十五六町罷越、碣石城内役所へ連参り候へ共、何ノ尋(たずね)
 も無之
(これなく)、右城ハ二リ廻り程ニて堀櫓無之(ほりやぐらこれなく)、門ハ石門の様ニ拵(こしら)へ扉ハ鉄を張り
 城内ニハ町家有之
(まちやこれあり)、役所ハ瓦葺(かわらぶき)ニて寺の様ニ相見へ、町家凡(およそ)四五百
 軒程有之
(これあり)、魚肉等多く商ひ、又ハ呉服屋、菓子屋、米屋あり、右役
 人も同道前ノ広徳禅寺へ罷帰り止宿仕
(とまりやどつかまつる)、役人も付添居申候。右
 上陸仕
(つかまつり)候所より碣石鎮え罷越候途中ニて、女を見掛候所髪ハ頭上に
 曲ケ小キ唐団の様成もの、其外不見馴(そのほかみなれぬ)造り物、又ハ菊の花をさし
 面にハ白粉を付、足ハ至
(いたっ)て細ク、衣類ハ絹或ハ緞子ニ縫有之(ぬいこれある)を着いたし
 軽き者ハ木綿にて拵
(こしらえ)候ヲ着候。 同所ニて水牛を見懸ケ候所鼠色の
 様ニ有之
(これあり)、角太ク長サ三尺余も有之(これあり)一躰常ノ牛より太く道筋の川
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 にて数疋見かけ(候)。同夜供七八人召連候役人罷越
(まかりこし)、漂流の次第相尋(あいたずね)
 様子ニ付、難風に遭ひ漂流いたし候ニ付、日本えかへし呉
(くれ)候様書付見せ候處、
 明日知県官より送り遣し候旨、文字と書又ハ仕形いたし罷帰り、右役人ハ
 王友光ト申者の由承り候。  同七日薪、塩、野菜、油等唐人共持こし
 相与え候ニ付、私共方にて焚給(たき、たべ)申候、唐人共大勢ひ見物ニ参り候ニ付
 付添居
(つきそいおり)候役人相制(あいせい)し、私共居候寺の門を打候所、屋根に廻り
 見物いたし、又王友光参り荷物等の義相尋
(あいたずね)候様子ニて夫々
 仕形ニて相答申候。 舟頭宅右衛門病気次第ニ差重
(さしかさな)り相果(あいはて)候、私
 共え付添居候役人より僧を呼寄、読経いたし死骸ハ布団
(ふとん)の様
 成ものに包ミ棺は無之
(これなく)、役人付そひ野原に有之(これあり)候墓所へ葬
 申
(ほうむりもうし)候。 右僧ハ長キ羽織の様成(ようなる)鼠色ノ衣を着し、下にハ筒袖の着
 ものを着罷在
(まかりあり)。 右広徳禅寺に逗留仕候内、町家諸所ニて
 引臼を牛に附、素麺拵候粉挽
(ソーメンこしらえそうろうこなひか)セ候と見請(みうけ)、是ハ常
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 躰
(つねてい)の牛ニて遣(つか)イ候者ハ居不申(おりもうさず)候。 同夜鎮城より役人三人参り
 陸豊県え送り候段、文字を書、仕方等ニて相しらセ直ニ帰り、
 同八日一同出立、轎ニ乗せ人足躰の者かつぎ参り、田地
 又ハ人家有之
(これある)所六り程参(まいり)城内役所へ連参り、此所
 陸豊県と申町家凡千軒余も相見へ、 城ハ石垣を
 築、立門ハ鉄張りにて矢狭間
(やはざま)の様成所も有之(これあり)、土間
 にハ瓦を敷、台を置、下役躰の者大勢参り漂流の
 次第を尋候へ共通じ不申
(もうさず)候、然ル處武器類相渡候様(ぶきるいあいわたしそうろうよう)、仕形
 仕候ニ付、武器類の義ハ難渡旨
(わたしがたきむね)仕方仕見せ候所、朝廷法令
 ニ付渡候様、猶又仕形仕候ニ付脇差ハ難手放
(てばなしがたく)候、又鉄砲
 五挺、槍一筋其外家来水主共所持、の大小三十腰相
 渡し候、追ては渡遣
(わたしつかわ)し候旨書付見せ候。 夫より役人一同
 右の所を立、町家ニ至り宿屋二軒手当有之
(これあり)、止宿役人
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 も付添、食事ハ彼方より持越シ呉
(くれ)候故打寄給申(うちよりたべもうし)候、右ノ
 所ニ逗留致候間、督捕庁ト書付候提灯を燈し、知県と申役
 人ノ小役の由度々参り候、其頭陸豊県ハ大官の由、水晶の
 玉を首にかけ、金の玉を飾り候帽子を冠り候を見請申候、同
 十一日役人同道陸豊県役所へ罷越、早々広東え送り呉(くれ)候様
 相頼候処、広東総督へ申遣し置
候へ共、布政司ト申役人交
 代中ニ付、外へ送り遣ハし候義延引の由申聞、右布政司ハ蔵ヲ
 預り候役人にて正三品位の由。右陸豊県往来ニて芝居見物
 致候処、仏堂有之
(これあり)祭りの様子ニて新舞台ニ拵へ屋根ハ無之(これなく)
 幕を張り、六畳敷程の板敷ニて太鼓、銅鑼、三味線等にて
 囃子立、男女立出狂言の様成事いたし、女の衣裳ハ舳太
 襟有之袴着いたし罷在
(まかりあり)、私共義も打交り腰掛に腰を掛
 見物し茶なと給させ候。 同廿七日水主共宿屋え知県の下
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 役のよし参り、私共前書の役所へ連参り、上陸の節乗捨
(のりすて)候端
 舟の代銀相尋
(だいぎんあいたずね)候ニ付、其儀ニ不及旨(およばぬむね)相答候。 翌廿八日右役人参り
 寒気ノ砌
(みぎり)綿入等有之哉(これあるや)ト尋候様子ニて惣人数の寸法を改、同
 十一月朔日右役所え呼れ参り候処、明日外
(ほか)え送り遣(つかわす)候旨仕方いたし、小切(こぎれ)
 朱にて“天朝広在大憲賞給”ト認有之
(したためこれあり)候を背ニ縫付木綿の
 綿入三十八家来水主へ被遣
(つかわされ)、且又端舟代銀の由ニて銀二十両
 相渡候ニ付、其義不及旨
(およばぬむね)辞退仕候得共強て渡候ニ付請取(うけとる)、彼方より相
 渡候案文の書面認差遣し候、右銀ハ丸ク一ツ七匁弐分程の掛目
 ニて花形打有之
(うちこれあり)、銭ニ引替候へば七百四十八文又(ハ)八百文程ニなり候
 よし。 右銀を持て家来水主共ノ股引買調
(かいととの)え、外(ほか)の県官より銭二貫
 文呉
(くれ)候ニ付貫請(もらいうけ)、水主共へ相渡焼酒豚など調給させ候。 其所ニては
 落花生ト申物ニて豆腐を拵、或ハ油を取候よし、右油揚物又は
 燈シ油等ニいたし至
(いたっ)て宜(よろ)しき様子に有之(これあり)、豆腐ハ日本より下
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 直
(げじき)のよし。先達役所に預ケ置候鎗鉄砲大小ハ莚(むしろ)につつミ、軽キ役人白紙
 にての掛紙いたし相渡
(あいわたし)候。 同二日役人五人付添陸豊県出立、轎(ぎょう)ニ乗
 人足躰の者かつぎ参り、私荷物も彼方の者持運ひ、宿々次道々
 書付の由ニて見せ候ニ付一覧の処、米一升銀九厘七毛、菜薪ハ銀一分
 轎(七ツ宛)一人前に差出候様認有之
(これあり)。 其後見請候送状ハ私共名前を認メ
 賄
(まかない)等県毎ニ差出候様認有之(これあり)。 是又広東本省ニてハ法令ニ付一刀に
 ても帯候儀は不相成候間隠置候様
(あいならざるまかくしおきそうろうよう)外役一人参り仕形ニて教(おしえ)候間
 柳ごり又ハ風呂敷ニ包持越候。 田畑山無之
(これなく)岳有之(おかこれあり)、人家も少々づつ
 有之所
(これあるところ)七里程罷越シ、海豊県ト申処のよし着いたし、右役人ハ引取申候。
 此所ハ土地広く町家数千軒建つづき、旅籠や躰ニて早々止宿仕。
 同三日外役人付添城内役所に参り候処人数改有之
(にんずうあらためこれあり)、城内の様子
 ハ一躰陸豊けんの城内同様也、城内に町家有之
(これあり)要害宜(よろし)き処の
 由、平地ニて門の上ニ櫓の様なる所有之
(これあり)、夫より直に右役人付
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 添ひ轎
(ぎょう)に乗せ、七里程参り候処家数六軒程有之(これある)嶺脚と申
 処へ着仕止宿仕。 同四日右の処出立、羊踶嶺と申山へ壱里余
 も登り夫より下り候処鳳河渡と申所へ着、町家二十軒斗
(ばかり)
 有之
(これあり)、是迄の途中険阻なる所ニて関所躰(せきしょてい)の所有之(これあり)、至て
 古く相見へ番人も不居合
(おりもうさず)、右関所の下手を通り左右ハ松山
 ニて又々川端ニ出、船ニ乗り小川を二里程行候所幅弐三町の
 大河ニ出、又枝川をのり通り夫より上陸、鵞準と申町家五百
 軒程相見へ役所躰の処有之
(これあり)、夫より教嶺と申所へ着き
 家数廿軒斗
(ばか)り相見へ、此所旅籠屋躰の所へ止宿。 此所往来
 の途中ニて百姓躰の者大勢私共を見物に出申候、百姓家ハ
 瓦葺ニてわらぶきハ無之
(これなく)、土蔵ノ様ニ拵へ広白土ニて塗たて
 有之
(これあり)候。 右轎を担参り候者ハ海豊県よりの通し人足にて
 同五日教嶺出立致候処右人足平山司へ参り候処、途中ニて
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 何か争論致し、裸にいたし竹にてたたき申候。 夫より又川船に乗り
 右船ハ屋根有之
(これある)網代の帆を掛、役人乗船一艘、私共船二艘都合
 三艘ニ乗組夜通シ乗り参、同六日帰善県と申所へ上陸いたし
 付添ひの役人同道ニて城内役所へ参り候処、私共を引渡候様子ニて
 城内右役人ハ引取申候、右城ハ行方ハ大河ニて城内ハ町家建、城外
 ニも町家有之
(これあり)、内外千軒程も可有之(これあるべく)豊饒の地に相見へ、私ども
 城内に扣居
(ひかえおり)候處、内科人(とがにん)と相見へ、長サ三尺余の割竹を以(もって)三十程
 たたき、或ハ長サ四尺程の首かせを入、何か文字を書候紙を結付、
 又ハ足に鎖りを入候も有之
(これあり)、其外長鎖りを首に懸けたるも有之(これあり)
 右役所ハ門開き外より大勢見物人有之
(これあり)、夫より猶又役
 人付添ひ川船ニて三里程参り候処、博羅県と申所ノ由船を付
 候処夜中ニて町家の様子不相分
(あいわからず)、同所ニて米等持こし相渡し
 候ニ付受取、船乗出同七日鉄山岡と申所の由船を付、此所ハ
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 町家も相見へ山無之
(やまこれなく)田畑有之(たはたこれあり)、畑ニハ砂糖黍等うへ付有之(これあり)
 夫より東莞県と申所の由着船致し、夜中の義ニて土地の
 様子委
(くわしく)見留不申(みとどけもうさず)、猶又船乗同八日大河へ出候処、所々に
 人家有之
(じんかこれある)処へ着船、此所広東省城下の由。 番禺県と申所
 ニてハ其所の役人壱人下役躰の者拾人程参り上陸の人数相改メ、
 右の所は川添ニて汐着引有之
(しおちゃくいんこれあり)、川幅東西二里ばかり南北一里斗(ばかり)
 北の方ニハ山遠く相見へ、其外一躰平地ニて一里程川上に家居有之(かきょこれあり)
 東西三里斗
(ばか)り南北二里斗(ばか)りも可有之(これあるべき)番禺県の城も遥に見懸け、
 在津
船日々出入多く有之(これあり)、凡五六千船もつなぎ居申候、其内海士
 船と見へ候船ハ川下の方二里程の所に三拾艘程もつなぎ居、西洋
 国阿羅国の舟の由二艘着いたし、其外盗賊改の船と相見へ小船
 数艘鉄砲五六挺ヅツ鎗請笠等飾り、夜中廻り方致し候よし。
 鎗ハ日本の鎗より長く両晒シ二て鞘ハ無之
(これなく)、竹の先ニ包丁のようなる
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 物を据付候も有之
(これあり)、或ハ船の左右ニ石火矢等飾り候も見掛、其外諸
 国の商館ニも可有之
(これあるべき)や三軒程遥に見かけ候処、赤白黒の竪筋多く
 吹貫の様成物
(ようなるもの)を建有之(たてこれあり)、出入の人多く右館より船へ往来いたし候
 様子ニ有之
(これあり)。 或ハ官人交代と見へ船数艘着舟、家内引越ニも官女
 見かけ候処、髪ハ曲げ有之
(これあり)金銀ニて拵へ候花を飾り、軽き女ハ髪を
 曲げ候までニて打交り艪を押申候、遊女等も居候由、舟に乗り行を
 見かけ候処髪ハ曲げかんざしにてとめ、右の内少々年ぱいのもの
 ハ額に切
(き)れを当て有之(これあり)候。 右番禺県ノ湊口ニて右左に出張ノ所
 見へ上下に矢狭間
(やはざま)有之(これあり)、石矢多く備へ有之(これあり)候を見受、其餘の
 儀ハ上陸仕候ニ付委敷
(くわしく)見とめ不申(もうさず)候。 右の処に四十日余滞船仕候
 同十三日役人二人総督より申付候由ニて参り、近々広南の内へ
 差送り候間、私共所持の武器類売渡候様、仕形仕候間、其儀ハ
 相成かたき旨答へ候処、法令ニ付何連
(いずれ)売渡候代りに賞金多分

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 遣
(つかわ)し候旨文字を書又ハ仕形仕(しかたたつかまつり)、強て相望(あいのぞ)ミ候へ共、放しかたき
 品々有之
(しなじなこれあり)、殊に先年薩州の者池山喜三右衛門、中原仲右衛門
 唐国へ漂流致し候節も渡候儀ニ無之
(これなき)旁々売渡候儀致し
 かたく旨、仕形
(しかた)等ニて相断り候処右役人ハ引取。 同十四日南海県知県
 の由役人罷越
(まかりこし)刀数相尋致(あいたずねいたし)、帰国の上相納候儀ニ候哉(や)、何(いず)れニも売渡シ
 候様仕度旨申候得共、三十三腰有之
(これあり)候得共売渡候儀難致(いたしがたき)旨、仕
 形ニて相答へ候処、右の分一読致し引取申候。 然る処同十四日、知県
 の下役ノ由罷越、私共三人へ木綿蒲団壱ツ宛、家来水主どもへ
 も四十四呉申
(くれもうし)候ニ付貰受申候。 同十九日役人二人罷越(まかりこし)人数并(ならび)ニ武具
 数等相改引取申候、然る処同廿二日冬至ニて前夜よりつなぎ居候
 船の賑
(にぎわい)ハいよいよ祭りのやうに有之(これあり)、私共船へ知県より差送り
 候由ニて鶏、家鴨、蓮根、醤油、焼酒等相渡候ニ付受取、此節帰
 善県より私共乗参り候船ハ番禺県より差出し三艘に乗替
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 外に賄船有之
(まかないぶねこれあり)船つなぎ居候。 同十(十二か)月十日盗賊有之(これある)由ニてとり
 さわぎ鎗、長刀等持寄候得共、強盗と申ニハ無之
(これなく)(もみ)を盗候よし
 承り申候。 同十六日番禺県の寺へ参詣仕候処、天公堂か関帝堂
 ニても可有之
(これあるべき)や玉虚宮と書候額かけ有之(これあり)、至て立派ニ相見へ仏所へ
 二尺廻り程の伽座を焚有之
(たきこれあり)候。 夫より舟へ帰り候処同廿日知
 県の下役の由二人相添へ出船、右役人ハ候補県丞連声和、候補未入
 流周芷川と申者の由承り申候。 南海県と申所の由暫く船繋
 仕候処大小の舟数艘つなげり、夫より夜ニ入佛山と申処通り候
 処広東同様至て繁花
(はんが)ニて川端ニ遊女屋有之(これあり)、川の方を正面
 ニ見世
(みせ)を拵(こしら)へ、硝子燈篭をともし遊女ども大勢居申候を見受。 同
 廿一日広さ七八丁程の川へ出候処陸へ船より縄を付、ひき立三水県
 と申町家五町斗
(ばか)り建つづきたる処へ着船、此所にて広東ノ船
 ニて参り、同廿一日舟三艘ニ乗り別
(わかれ)候処船毎ニ飯米其外食物
19頁
 類人数に準シ相渡候ニ付受取出船仕。 同廿三日芭巴と申町家四五
 十軒有之
(これある)所へ着船、此所ハ用心厳敷所(きびしきところ)ニて合図の鐘太鼓鳴シ
 一時
(いっときに)に一度石火矢を打申候、右の処出船同廿四日ハ何方へも船寄不申(ふねよせもうさず)、
 同廿五日清遠県と申町家壱里斗
(ばか)り建続き候所へ着船致シ
 候処、手広く有之
(これあり)城も相見へ船中ニて委敷(くわしく)見留不可申(みとめもうさず)、此所ニて
 船乗かへ出帆仕、同廿六日横石と申町家百軒斗(ばか)り有之(これある)所へ着
 舟仕候処、川筋ニ峡山越と申処に寺有之
(てらこれあり)、至(いたっ)て風景よろしく左右
 梅樹多く有之
(これあり)。 同廿七日何方(いずかた)ニも舟寄不申(ふねよせもうさず)、同廿八日英徳県由
 ニも城有之
(しろこれあり)、見請の城同様ニて櫓有之(やぐらこれあり)。 同廿九日右の出船仕
 玉補庄と申人家少々有之所
(これあるところ)へ着船仕候処、川筋に番所
 有之
(ばんしょこれあり)、私共へ付添ひ候役人通り候節にハ番所より銅鑼をならし
 番人二三人相詰め、軒にハ文字失念阿訊と認候額掛け
 有之
(これあり)候、番所の前にハ土ニて通塚の様成るもの築き立、朱にて
20頁
 丸く画有之
(えこれあり)、都而(すべて)川筋ニハ所々右躰の番所相見へ何(いず)れも同様
 なり。 同晦日
(みそか)付添ひ候役人より猪の子、鶏、焼酒等差送り候ニ付
 貰受申候。 此所へ珍ら敷岩屋有之
(いわやこれあり)、見物仕候処穴のやふなる所
 三ケ所有之
(これあり)、右の所に仏堂のやうなる所相見へ広東第一の所
 ニて観音巌と申所のよし承り申候、其夜ハ右の所川近へん
 川中ニ船繋留。 当子の正月朔日、同様罷在
(まかりあり)候所近辺に人家有之(じんかこれあり)
 銅鑼
(どら)をならし候を承り申候、夫より年始の祝義として付添ひ
 参り候役人乗り候船へ罷越
(まかりこし)祝義申述候処、右役人に年礼と
 して私共船へ罷越
(まかりこし)申候、其節ヒヨウチャコト申物のよし紙にて
 張抜ニ拵へ候物を打候処、其音鉄砲よりもひびき申候。 同三日迄
 同所に滞船、同四日出船曲江県と申所へ着、格別手広く繁
 花
(はんが)地、川向に町家数千軒建、城も見へ川ニハ商売船数艘
 繋ぎ居り、一町程有之
(これある)舟橋を懸け、此所の渡船にハ女斗(ばか)
21頁
 水主致居
(かこいたしおり)候、此所ニて船かへ同五日より乗り出、夜分は川中に繋ぎ
 日々乗り参り候処、同十日南雄州と申町家数千軒有之
(これある)所へ
 着船、太平門と書候額掛ケ候鉄張の門有之(これあり)、古ハ南雄州の城門の
 由、此所の門ニハ高サ并
(ならび)横幅五間位長サ五六十間程の太鼓橋掛
 有之
(かけこれあり)、橋の下ハ櫛形様なる穴八ツ有之(これあり)。同十一日上陸仕、私共并水主
 等迄轎ニのらせ参り候処、大庚嶺又梅嶺と申左右共高山
 ニて下ニハ梅樹有之
(これあり)、格別ノ古木ハ見不申(みもうさず)。 此所でも町家又ハ
 役所躰の所も相見へ、広東辺より荷物夥敷
(おびただしく)持越シ候を見受
 申候。 同日南安府と申町家数千軒有之
(これある)所へ着、宿屋躰の
 所に泊り、同十二日川端へ出、右川にハ用水を取候水車左右に
 有之
(これあり)、私共を川舟二艘ニ乗せ川岸に居候処、北京へ貢物持由
 帰路の由暹羅国の者三人広東の官人、湯大爺と申者同伴
 致、右暹羅国人ハ歯黒く唐人同様に帽子をかむり罷在
(まかりあり)候。 夜に
22頁
 入何事にや紙ニて龍の形を拵
(こしら)へ、中に火を燈シ鐘太鼓を打鳴し
 候を見受候、同十三日同所出舟此所より川上へ乗り参候処、同十五日
 贛州府と申町家数千軒有之所
(これあるところ)へ着、堀の内に櫓見へ候城も
 有之
(これあり)。 其夜ハ舟繋致し同十六日乗替出舟、同十八日十八灘と申
 川の由所々ニ瀬多く有之
(これあり)乗り通り候処ハ、瀬の間わづか二間程
 有之(これあり)至
(いたっ)て六ツケ敷場所ニて夜分ハ舟繋仕。 同十九日万安県と
 申町家数千軒有之所(これあるところ)へ着、付添ひ役人より米等
(など)渡し、同日
 ハ風雨強く候ニ付川中に舟繋留メ、同廿同地出船追々参り候処、
 同廿二日吉安府廬陵県と申所へ着、町家多く建続き城も
 相見へ此所の頭、陽永叔出生の地の由、付添ひ役人文字を書、仕
 形等ニてしらせ申候。 同廿三日同所出舟、同廿四日峡江県と申所へ
 着、此所も町家多く建続き翌廿五日出舟、豊城県と申所へ
 着、町屋多く有之
(これあり)、同廿八日南昌府と申所へ着、至て手広き
23頁
 所ニて町家も目及び不申
(もうさぬ)程に建つづき、川筋壱里ばかりの
 間は透間なく大船数千艘繋居申
(つなぎおりもうし)候、此所ニ勝王の閣と申所
 有之
(これあり)候ニ付見物仕候様、付添ひ役人よりしらせ候ニ付一同罷越(まかりこし)
 候処、岸の間に入口有之
(これあり)番人二人程出迎、入口ニハ兼て錠をおろし
 有之
(これあり)、猥(みだ)りに人を不入様(いれざるよう)にて右の所より這入(はいり)候所、入口八間余の
 横拾三間程も可有之閣
(これあるべくかく)ニハ畳ハ無之(これなく)、下ハ瓦を敷、二階ハ板敷
 ニて正面王勃勝王閣と序并
(ならび)詩を書、乾隆元年九月九日
 観察使清書と認メ有之
(これあり)、天井ハ雲形の紙を張、閣の下ニも
 序并詩を書、脇の方ニ韓退之の文有之
(ぶんこれあり)、是ハ元和十五年湖
 州へ左遷ノ時ノ事の由承り申候、閣の外面ニハ勝王と書候額掛有之
(がくかけこれあり)
 右額の前に三方四面の所有之
(これあるところ)内正面に西江第一楼と書候、
 額を掛ケ有之
(これあり)候、閣の棟木に嘉慶十七年新造の由書記有之(かきしるしこれあり)
 其夜ハ川中に繋候。 同廿九日出船二月朔日瑞洪鎮と申、町家
24頁
 五六百軒も有之
(これある)川中の嶋の様なる所へ着仕候処、見物人大勢出候
 ゆへ舟付不申
(ふねつけもうさず)。 同二日龍津と申家弐三百軒程有之(これある)処へ着、此
 所ハ秦の始皇の時鏌耶の剣を打候処の由承り申候、同三日同所
 出舟人家百軒程有之所
(これあるところ)に暫く船繋ぎ留、同四日安仁県と申
 所へ着、町家数千軒有之
(これあり)、付添ひ候役人より米等受取。 同所出船
 同八日貴渓県と申処へ着、町家数千軒有之
(これあり)、同十二日鉛山県川口
 と申処へ着、町家四五百軒程有之
(これあり)。 同十三日私共舟乗替出舟
 広信府と申処へ着、町家数千軒相見へ此処へ滞船致候内、雇
 水主大嶋坊助疱瘡相煩
(ほうそうあいわずら)ひ候ニ付付添ひ候役人へしらせ、是迄
 参り候県毎ニ医師罷越
(まかりこし)、薬相あたへ介抱いたし遣し候得共養生不
 相届
(ようじょうあいとどかず)、同十五日相果申(あいはてもうし)候間付添ひ役人へ相遣候処、其所の役人へ申達
 候由ニて下役躰の者壱人付添ひ、私共に立会候様
(いたすよう)しらせ候ニ付、見
 届のため長左衛門罷越
(まかりこし)候処、死骸を長手の箱に入、唐人ども
25頁
 かつぎ参り北門外墓有之
(はかこれある)候処へ葬(ほうむり)、其節出家は参り不申(もうさず)候。
 尤
(もっとも)坊助病中玉山県より参り候医師に応対いたし候処、薬草の内
 大黄
(だいおう)相用ひ有之(これあり)、日本ニても大黄相用ひ候哉(や)と尋(たずね)候ニ付、用ひ候儀
 無之旨
(これなきむね)仕形ニて相答へ候処、難病故大黄相用ひ候旨仕形ニして
 しらせ申候。 右薬一貼ハ凡目方一斤程有之
(これあり)。 同十六日上陸仕(つかまつり)付添ひ候
 役人より昼食代として壱人前銭四拾文ヅツ相渡候ニ付貰受候、私共を
 轎に乗せ参り道中ニハ茶屋多く茶を汲差出し候者女ニて
、凡
 九里程参り候処町家数千軒建つづき遊女も相見へ繁花成る
 所へ着(つき)常山県と申処の由、宿屋躰の所へ泊り右銭ハ途中
 所々ニて食物等調
(ととの)ひ遣(つか)ひすて申候。 同十七日出立、幅一弐町程
 有之(これある)川端へ出候処、又々舟に乗り舟中にて米相渡候ニ付受取、
 人家無之
(じんかこれなく)川筋乗参り候内十里程ノ間、川の左右一面に蜜柑
 山有之所
(これあるところ)を通り、同廿三日厳州府と申所へ着、町家数千軒
26頁
 有之を見掛、此所ハ古
(いにしえ)後漢光武帝の時、厳子陵と申者召(しょう)
 不応
(おうぜず)釣を垂れ候処の由、河岸上の方に釣致(つりいた)し候台二ケ所
 有之
(これあり)、石の上に屋根を造り、下の方にハ祠堂と申堂壱ケ所有之(これあり)
 を舟中より見懸け申候。 夫より同廿五日六合塔と申瓦青にて
 六角に造立候六重の大成塔有之所
(これあるところ)へ着船、外の場所にて都而(すべて)
 右様の塔県毎に見かけ申候。 此所ハ銭塘県と申所の由、家
 広有之所
(これあるところ)へ着、右ハ五湖の内浙江ニて大海の様子有之(ようすこれあり)、省
 城より南に当り申候、右省城の西門の外西湖の由、此所より
 上陸仕、裏屋の様なる所を通り候処堀端に出、又々舟にのらせ
 省城の城外五六町程も乗り水門を入、城内へ乗入候所
 堀の左右ハ町家にて右堀ハ要害とハ不相見
(あいみえず)へ、通船の為ばかり
 と相見へ二町目毎ニ太鼓橋懸け、所々に番所相見へ凡二里
 半
も乗り候処櫓等有之(やぐらなどこれある)城門相見へ、右門脇に水門ヲ通り抜
27頁
 候処、仁和県と申
(もうし)銭塘県より家続の処ニて 、町家手広く三里
 四方も可有之
(これあるべく)処ニて上陸候処、裏屋のやうなる処を十町ばかり
 参り又々堀端に出、船に乗り参り候処水勢イ早川のやうに
 有之
(これあり)。 同廿六日石門県と申町家少々有之(これある)処へ着、直に乗出し
 夜通シ同廿七日嘉興府と申家至て手広き所へ着、夜に入
 平湖県と申所へ着、暗夜にて町家等の様子相分り不申
(もうさず)、同所
 出舟夜通シニ乗通り、同廿八日乍浦と申所へ着致、巡倹司李
 大爺と申役人下役躰の者二人召連れ罷越
(まかりこし)、私共へ付添ひ候
 役人へ面会いたし、李大爺ハ東門と申内へ引取申候、日本へ
 度々渡海の者のよし、通事
(つうじ)唐人二人参り日本詞少々相分り
 付添ひ案内いたし七八町程川下に舟を下し候処、石垣築等有之
(これある)
 上り場有之
(これあり)、唐人共多く出私共を問屋のやふなる処へつれ参り
 候処李大爺罷在
(まかりあり)、人別改メいたし鎗、鉄砲、刀等も相改、程なく
28頁
 李大爺并
(ならび)付添の役人も引取申候。 右問屋のやうなる処ハ二階造り
 ニて下ハ土間にて私共ハ二階に罷在
(まかりあり)、朝ハ粥、昼ハ飯、魚、鶏、豚、野菜
 等煮焼いたし、一日三度ヅツ差出し申候。 同廿九日付添候役人罷帰り
 候由ニ付為暇乞
(いとまごいのため)、役人乗り候舟へ私共三人罷越(まかりこし)是迄世話に成候
 礼申述、右役人へ私共持越し候紬縞一反ヅツ、田葉粉入一つヅツ、きせ
 る一本ヅツ、下役の者二人へ木綿一反ヅツ差送り罷帰
(まかりかえ)り候処、役人
 方よりも為暇乞罷越申
(いとまごいのためまかりこしもうし)候。同所逗留中同三月四日海関役所へ
 幼年の者共召連罷出
(まかりいで)候様、通ジ人より申聞候ニ付、雇水主(やといかこ)清治郎、
 八悟郎、佐五郎、三治召連れ、通ジ唐人付添ひ罷越
(まかりこし)候処、荷物
 会所の様なる所にて朱洪と申役人躰の者立出
(たちいで)、私の刀を見
 度旨
(みたきむね)通ジを以(もって)申聞候間、承知の旨答、其後清治郎外三人
 ハ奥の方へ連れ参り女多く人数罷在
(まかりあり)、菓子等呉(くれ)候由持来り候間
 一同罷帰
(まかりかえ)り申候。 翌日朱洪罷越(まかりこし)刀見物いたし帰り申候。 同七日海防
29頁
 官役所へ罷出
(まかりいで)候様通ジ申聞候間、私共并(ならび)ニ家来、水主共一同罷越(まかりこし)
 門内腰掛に扣居
(ひかえおり)候所、鉄砲三放打儀衛門と申所へ呼いれ
 同所迄拾四五間斗
(ばか)りも有之(これあり)、其間ハ左右に鎗又ハタテの由
 ニて笠の様成る丸く拵へ候物を持人数多く堅メ罷在
(まかりあり)、後ろの
 方にハ見物人多く群集いたし居役所へ出候處、希昌阿と
 申役人立出、書付相渡し候ニ付一読仕候処、今日呼出候義ハ海防官
 の先例ニて見物人大勢出候ニ付、決而
(けっして)驚間敷(おどろくまじく)、私共義も大勢
 の事ゆへ喧嘩等致さずやう制しおき可申
(もうすべく)、五月中ニハ送り返す
 べく旨の書面ニて、其節鉢に蜜柑、梨等ヲ盛差出し、召連
 候者共へハ菓子差出し申候、段々世話に預り候礼通ジ人ヲ以
(もって)
 申述候処、幼年の者共ハ残し置候様通ジ人申聞候間
 清治郎、八悟郎、佐五郎、三治残しおき其外ハ罷帰
(まかりかえ)り申候、然ル処清治郎
 外二人しバらくすぎ罷帰り海防官の女共見物致し候由申
30頁
 聞候。 前書の李大爺罷越
(まかりこし)、希昌阿より相渡候由ニて箱持来り、私共
 并
(ならび)ニ家来、水主等所持の刀、脇差、鉄砲等相改め、右に入(いれ)錠を
 おろし白紙のカケ紙致し、錠ハ私共へ渡し帰候ニ付右箱の儀私共
 罷在
(まかりあり)候処ニ差置(さしおき)申候。 同所逗留中湯屋へ度々参り候処、石を
 組立湯壷三ツ有之
(これあり)、籾がらにて湯を焚(たき)、樋より湯壷に入候様
 仕掛ケ有之
(これあり)、唐人打込ニて多人這入(はいり)、唐人共ハ銘々湯分差
 出し候得共、私共儀ハ唐船荷主より差出候由ニて時々差出候
 儀無之
(これなく)、右湯にハ女ハ参り不申候(もうさず)。 然ル処五月初旬日本渡海
 の舟罷帰
(まかりかえ)り候由ニて、蘇州に罷在(まかりあり)候荷主方へ飛脚を立候由。 
 右ニ付私共儀ハ別宿引移り候様、通ジ唐人より申聞
(もうしきき)壱町
 程隔たり候出店の様なる所二階に差置候処、同十一二日頃と覚へ
 荷主の由崇文松、徐陸源と申者参り候間面会仕、其後私共
 居り候処の書院躰の所ニて狂言の様なる事致見物仕候處
31頁
 顔を色々にぬりたて、官人躰又ハ女の衣裳など銅鑼、太鼓
 三味線、笛等にて囃子立踊り致候得共相分り不申
(もうさず)候。同廿五日通ジ
 唐人氷を持参見せ申候、如何致
(いかがいたし)囲ひ置候哉(や)相尋(あいたずね)候処、冬の内山合の
 湿気有之所
(これあるところ)を堀、其内に囲置候由申聞、其砌(みぎ)り生魚抔持
 歩行候ハ多く魚の上へ氷を乗せ候を見掛け申候、右ハ暑気の
 時分ゆへ魚のいたまぬやふ致候よし承り申候。 六月朔日荷主崇文
 松、徐陸源より私共へ馳走の由、天后堂ニおいて芝居有之
(しばいこれあり)候旨
 見物いたし候様、通ジ唐人より聞候間
(ききそうろうま)一同罷越(まかりこし)候処、天后堂ハ乍
 浦舟端に堂有之
(どうこれあり)、門内に舞台を造り官人躰の者或ハ
 女衣裳などニて顔ハ色々粉り、三味せん、笛、太鼓、銅鑼等にて
 囃子立、何か躍り致し候得共相分不申
(あいわかりもうさず)、私共ハ桟敷に差置
 見物被致、舞台の脇ハ一面に多人数見物致し罷在
(まかりあり)候、右相済(あいすまし)候上
 同所書院躰の所にて煎、海鼠、鮑、豚、鶏、野菜類品々しかと
32頁
 不覚
(おぼえず)凡三十程ばかり、酒も差出し格別の馳走ニて其節ハ天后堂
 女祭礼ニても候哉、右の像を舟に乗せ 歩行候を見掛け申候。 猶又
 同所逗留中役所より差送り候由ニて木綿蒲団、襦袢、夏木綿
 袷羽織、風呂敷、帽子一つヅツ、股引一足ヅツ、沓二足ヅツ、蓆一枚ヅツ
 蚊屋一張ヅツ其外扇子、うちわ、手掛等通ジ人より銘々(めいめい)へ相渡し
 たばこ、紙類ハ度々ニ呉
(くれ)候ニ付貰受申候。 同七日通ジ唐人と同道
 観音山と申所へ罷越
(まかりこし)候処、天后堂より東に当り海辺に続候
 小高き山ニて麓ハ草薮山中所々ニ墓所有之
(ぼしょこれあり)、頂上ハ椋(むく)、榎(えのき)
 多く有之
(これあり)候、其後荷主共より菓子、酒抔差送り候、右ハ出舟前酒
 ニても振舞可申
(ふるまいもうすべき)処、取込ニ付差送(さしおくり)候旨、通ジ唐人申聞相渡(もうしききあいわたし)候。 同十日
 此節日本渡海の舟追々出帆致候間、私共の内引分乗組
(ひきわけのりくみ)
 様、且又
(かつまた)箱に入有之(いれこれあり)候武具も勝手ニ取出し不苦旨(くるしからぬむね)、通ジより
 申聞候ニ付、七郎右衛門并
(ならび)主右衛門、権左衛門、市治朗、実孝、佐五郎
33頁
 三治、熊助可乗組旨申合
(のりくむべきむねもうしあわせ)、武具等銘々(めいめい)取出し、通ジ唐人同道
 荷主方へ為暇乞罷出
(いとまごいのためまかりいで)、段々世話に相成候旨礼申述、立出天后堂
 へ参詣仕
(さんけいつかまつり)、直に乗船仕候処、同十一日伊兵衛并(ならび)藤右衛門、休治朗
 十右衛門、仁助、伊久貞、清治朗、右左衛門乗組候処、同十三日に
 出帆仕昼夜走り参り、七郎右衛門其外の者乗組の舟は同廿四日
 伊兵衛其外ノ乗組之舟ハ同廿六日長崎表へ着船仕候処、長左衛門
 其外の者共ハ居残逗留仕居
(とうりゅうつかまつりおり)、同十四日長左衛門、郷四郎、治左衛門
 十郎、助右衛門、小助、富治、八治郎乗組同十五日出帆仕
(しゅっぱんつかまつり)昼夜走り
 候処風順悪く、同廿四日肥後国天草郡崎津村へ漂着、同廿六日
 同所より挽舟
(ひきふね)を以(もって)送り翌廿七日長崎着船仕候、然る処水主(かこ)
 薩州阿久根八兵衛疱瘡相煩
(ほうそうあいわずら)ひ居、薬用ひ候得共養生不相
 届
(ようじょうあいとどかず)、六月十五日病死仕候間、外水主共長崎着船の上承知仕候
34頁
 右の通申上候処、唐国逗留中切支丹宗門勧めに逢
(あい)候儀ハ無之
 哉
(これなきや)、若し右躰(みぎてい)の様子有之(これあり)候者、有躰に可申上(もうしあぐべき)旨再応御吟味御座候
 此段私共儀唐国逗留中切支丹宗門勧めに逢候儀ハ勿論、右躰
 の様子及見聞不申
(もうさず)、如何と心付の義も毛頭無御座(ござなく)候、若し隠し置
 外より相知れ候ハバ如何様の御咎ニも可被仰付
(おうせつけらるべく)
一私共所持の武器類唐国漂着候上、唐人共方へ預け候得共
 取戻し此節持帰り候、外彼国へ残し置候儀ハ無之哉
(これなきや)、金銀残
 所持
(きんぎんざんしょじ)致さずや、且唐国逗留中商売ケ間敷(ましき)儀不致哉(いたさずや)委細可申
 上
(もうしあぐべきむね)是又御吟味御座候
一私共琉球国の内大嶋より出帆仕候節積乗候武器、唐国漂着
 の上国法の由申聞候ニ付、唐人共へ預置候得共不残
(のこらず)取戻し、刀の
 身等一同此節持帰り候、外に彼地へ残置候品曽而
(かって)無御座(ござなく)、家
 来ハ勿論水主共の内所持の腰物ニ至迄持帰り、此節御改メ
35頁
 受候通り、毛頭相違無御座候
(ござなくそうろう)、金銀残の儀ハ元より一向所持不仕(つかまらず)、
 留中貰候銭又ハ乗捨候端舟代として受取候銀を以て食物類、
 股引等調
(ととの)へ、其外商売ケ間敷儀決て不仕(つかまつらず)
一於唐国
(とうこくにおいて)龍牌等相与(あいあた)へ候儀ニ無之哉(これなきや)、且金銀其外に貰物の分御
 吟味御座候
(おぎんみござそうろう)

 右ハ龍牌と申物与へられ候儀無御座候
(ござなくそうろう)、衣類銀残其外貰ひ候
 分別紙申上候通持帰り御取上に相成申候
 右の通少も相違不申上
(そういもうしあげず)候、已上
      文政(化か)十三年子閏八月廿六日
                 古渡七郎右衛門
                 染川  伊兵衛
                 税所 長左衛門


添付1
右三人の者唐国より持帰りの品々左の通り

   三筋
鉄砲 但玉四十八       五挺
   四腰
脇差    同
刀身     一本
陣笠    二ガイ
口薬入    四ツ
麻上下    一具
野袴     二具
火事装束     一揃
絹綿入    六ツ
同羽織      一ツ
書状     三十七封

   内拾六封御開封の上御渡し、残りの分ハ焼捨被仰付(やきすておうせつけられ)
   右の外衣類、手廻りの品々八十七口也
    
右三人の者唐国ニて貰物品々左の通り

木綿フトン      六ツ         一 夏木綿袷羽織       六ツ
木綿肌着      三ツ       一 蚊張      二張
同股引        五足       一 布帷子      三ツ
同風呂敷      三ツ       一 同股引       三足
(むしろ)      四枚       一 ウチワ      三本
扇子      十六本       一 タバコ 二八コ分      一包
手拭      三ツ       一      六足
籠具 但錠カキ       三組       一
墨跡      五十九枚       一 拭物        六幅
四海惣図       一巻       一 石摺墨跡        二冊
一心普敷録      一冊       一 敬師録      同
木綿      三切       一 革 フトン      一ツ
足袋      一足       一 平安散       二瓶
龍眼肉       一篭       一 巾着        三ツ
     三枚       一 蝋燭      二包
薬瓶       六ツ       一 菓子      拾三包
小皿      一ツ       一 猪口      拾
水呑      一       一      四ツ
写本      五冊       一 茶出        二ツ
     一壷       一      一本
竹火入        二ツ       一      二箱
(たらい)      二ツ       一      三ツ
      一 手桶 柄杓一ツ      一ツ

  右三人の者家来、水主届出ニて死失候者所持の持帰り候
  品々左の通り

      五腰         一 脇差       廿三腰
鎗穂        一ツ         一 書状        三十九封

      右五封ハ御開封の上御渡被成、残の分ハ焼捨被仰付(やきすておうせつけられ)
      右三人の外衣類、手廻りの品々百三十三口

  三人の者家来、水主唐国ニて貰物品々左の通り

唐銭三百九拾弐文       
   右は御取上為代り日本銭四百弐文御渡し被成(なられ)              
木綿ワタ入      三十九五足       一 夏木綿袷羽織      四十三
同 フトン      四十三       一 蚊張       四十三
同 肌着      五十六       一 布帷子      同
同 股引         四十三足       一 風呂敷      同
ウチワ      四十六       一 (むしろ)      四十ニ枚
タバコ      八箱       一 扇子      五十四
     六十二足       一 手拭        三十三
絹綿入       一ツ       一 籠具        四十三
明鏡胴キ      一ツ       一 繻子着物       一ツ
夏木綿羽織       二ツ       一 革 着物       一ツ
ウニカウル      一切       一 木綿袷       一ツ
平安散        三十瓶       一 目鏡        三ツ
髪結道具      一箱       一 人形      二十一
画        七枚       一 墨跡      百三十八枚
     三十七       一 唐晋       一冊
茶碗      四十八       一 猪口      八十
巾着      一ツ       一 碁石      三百八十二
水呑       六ツ       一 蓋茶碗        二ツ
菓子      四箱       一 足袋      三十九足
指金         拾       一 ボタン      二十一
氷砂糖        一カゴ       一 毛氈      二枚
白袋       七ツ       一 剃刀       二挺
硯 筆六十二      一面       一      二挺
苧綱      二スジ       一 火打      一ツ
孔雀      二ツ       一 (たらい)      二ツ
鼻タバコ      四ツ       一 丸薬      三瓶
木綿      一切       一 耳掻      二ツ
     四セン       一 火箸      一ツ
     七ツ       一      四ツ
帯〆      一ツ       一 線香      一
竜眼肉      少       一 広東人参      
蝋燭      一包       一 紫金錠      三包
茶出シ       二ツ       一 根付      一ツ
キセル      九ツ       一      二枚
胸当      一       一 タバコ入      一ツ


 右は私共持帰りの品々御改
(おあらため)の上被成御渡(おわたしなられ)(たしかニ奉受取(うけとりたてまつり)候、已上
    文政(文化か)十三年子閏八月廿七日
                 松平豊後守家来
                    古渡七郎右衛門
                    染川  伊兵衛
                    税所 長左衛門
                 古渡七郎右衛門家来
                    谷元 主右衛門
                    宮原 権右衛門
                        市 治朗
                 染川伊兵衛家来
                    川畑 藤右衛門
                        休治 朗
                        十右衛門
                        仁  助
                 税所長左衛門家来
                    重信  郷四郎
                    四本 次右衛門
                    辻村   十郎
                       助左衛門
                       小  助
                 薩州喜入浦
                    水主  熊 助
                 同国水引
                    同  太左衛門
                 同国出水 
                    同  与右衛門
                    同  市 太郎
                    同  勘 太郎
                    同  助左衛門
                    同  三 太郎
                    同  伝 四郎
                    同  治  郎
                 同阿久根
                    同  市右衛門
                    同  太右衛門
                    同  直  次
                    同  吉 次郎
                    同  五 郎吉
                    同  五  平
                    同  喜  助
                 同京泊
                    同   喜  八
                    阿久根 権四郎

                    泊   林  蔵
                    水引 休 次郎
                    山川 十  助
                    京泊 勘 四郎
                    水川 辰 五郎
          松平豊後守領分琉球国の内大嶋
                    雇水主実  孝
                    同  伊 久 貞
                    同  清 次郎
                    同  富  松
                    同  八 治郎
                    同  佐 五郎
                    同  三  次
  
  右の通漂流人共へ被成御渡
(おわたしなられ)私立合受取にの相違無御座(そういござなく)候ニ付
  奥印仕
(おくいんつかまつり)候、已上
                 松平豊後守家来
                      福崎 助七   
   

              唐国の様子
付1頁

一人物の事日本にさして相替り候儀無之
(これなく)、広東辺の者ハ一体丈(た)
 高く其外ハ常体ニて、男ハ髪を剃り頭上に丸く残し候髪を
 三ツ打に組後ろへさげ、天鷲絨
(びろーど)繻子等にて拵候帽子赤き糸ニて
 飾り、帽子の上にハ真鍮、水晶等の玉を飾り候を冠り、 衣類ハ紗 
 綾紬
(さやつむぎ)等を襦袢ニ致し、股引のユルキ物をバはき黒、紺、浅黄
 色の繻子、純子等ヲ筒袖仕立、裏ハ絹又ハ皮を付、胸を牡
 丹懸
(ぼたんが)けに致し候衣類を着、綿入ひざ迄有之(これあり)、足袋、繻子又ハ
 革にて拵
(こしらえ)候沓(くつ)をはき、雨天節ハ裏に釘を打候沓をはき
 傘を相用(あいもちい)、役人の衣類も同様の内、羅紗等相用、水晶の玉を首
 に掛け、帽子の玉金ニて拵候玉を飾り候も有之
(これあり)、広東より潮州へ
 参り候者の由
(よし)背に剣を付候者有之(これあり)。 夏の衣服も仕立は同様
 ニて肌着ハ麻、上着ハ多く紗ノ類を相用
(あいもちい)、帽子も藤をせい(製カ)し
付2頁
 笠の上に赤き色を付候物を冠り、女ハ髪を頭上に曲げ唐国扇
 様成
(ような)る物、又ハ見なれざる作りもの或ハ草花をさし、顔にハ白
 粉を付足至て細く、衣類は絹又ハ純子に縫
(ぬい)有之袖(これあるそで)幅広く
 襟有之
(えりこれある)着、袴の様なる物をはき、軽き女ハ木綿ニて同よふの
 衣服を着、官女ハ金銀ニて
造り候花を髪に飾り立るに相見へ、
 遊女ハ髪を曲げかんざしニてとめ、年増のものハひたいに切
(きれ)を当て
 罷在
(まかりあり)
一暹羅国の者ハ丈
(た)ケひきく顔色黒く歯も黒く髪みちかく
 五寸程有之
(これあり)を結び候儀も無之(これなく)後ろへ撫付(なでつけ)罷在候。 衣服ハ唐人同
 やうニて、帽子毛氈のやうなるものニて拵候を冠り申候
一食物の事、米の飯、粥并
(ならび)鯉、鯖、鯡、鰺、室鯵、家鴨、鶏、豚、玉子、海月(くらげ)
 海鼠
(なまこ)、干蚫、野菜ハ落花生と申者ニて拵(こしらえ)豆腐、蓮根、大根、モヤシ
 等有之
(これあり)、都而(すべて)右様なる類を醤油、油又ハ塩煮ニ致し鉢皿に盛り
付3頁
 台にのせ側に銘々腰掛を置、打寄
(うちより)腰を懸け、箸ニて給申(たべもうし)
 味噌ハ無之
(これなく)、此外蜜柑、梨、柿有之(これあり)、焼酎、酢、油、菜ハ差して
 日本ニ相替り不申
(あいかわりもうさず)候、右落花生の油ニて食物を揚、或ハ燈油
 ニも相用申由
(あいもちいもうすよし)
一家作りの事、屋根ハ瓦葺ニて藁葺
(わらぶき)ハ見懸け不申(もうさず)、町家ハ何(いず)れ
 も土蔵造ニて、二階造りの家多く下ハ土間ニて瓦を敷、腰掛を
 置申候、役所躰の所ハ門構へニて
寺のやうに相見へ申候
一土地の様子一体打開、碣石鎮より陸豊県迄ハ一向山無之
(やまこれなく)、岡斗(おかばか)
 ニて途中所々に有之
(これあり)、日本の立場の様に相見へ家弐三軒ヅツ
 有之
(これあり)、其外ハ嶮岨の山も見掛け候得共ハゲ山がけにて大庚嶺、
 海嶺と申高山の下ハ梅樹多く古木ハ不相見
(あいみえず)、或ハ十里程続き
 申候蜜柑山川の左右に相見へ、右山ハ至て奥深く眼及不申
(めおよびもうさず)、
 海ハ日本の様子ニ不相替
(あいかわらず)、荒浪の場所ハ無之(これなく)、川ハ幅弐三町
付4頁
 又ハ七八町、一里ばかりの所、或五湖の内浙江ハ大海のやふに有之
(これあり)
 番禺県ノ川ハ海続ニて汐差引有之
(しおさしひきこれあり)、同所に諸国の商館ニも
 可有之哉
(これあるべきや)、赤白黒の堅筋有之(これある)吹貫のやふなるもの立候処三軒程
 見掛け、帰善県より恵州府へ通り候川にて舟橋をかけ、南
 雄県の川ニハ高サ幅五間位、長五六十間位に相見へ候太鼓橋ヲ
 掛渡し、橋の下ニハ櫛形様なる穴八ツ明有之
(あきこれあり)、南安府の川ニハ
 用水を取候水車所々に仕掛、十八灘と申所ハ川内瀬多く
 僅瀬の間二間位の所を乗通り申候、銭塘県より仁和県へ通り
 候堀ハ二町目毎に太鼓橋有之
(たいこばしこれあり)、所々ニ看所有之(ばんしょこれあり)
一草木の事、さしては日本に相替り不申
(もうさず)、梅多く椋、榎、竹も松も有之(これあり)
 大木ハ無之
(これなく)、十里程続(つづき)候蜜柑山有之(これあり)。 其外竜眼肉樹、或女の
 髪に菊花をさし候を見掛申候、右の外相替り候草木見懸不申
(みかけもうさず)
一鳥獣の事、豚、家鴨、鶏多く牛も見懸け耕作等ニも遣
(つか)ひ水
付5頁  
 牛ハ常体の牛より大
(おおき)く鼠色の毛ニて角長(つのながく)三尺余有之(これあり)、
 廻りも太く寒気の節川中に数疋居申候。 馬ハ武官の者騎候
 由、都而
(すべて)軍馬の分ハ鼻息迫不申様(せまりもうさぬよう)鼻の先を切さき有之(これあり)
 陰嚢も抜取有之
(ぬきとりこれあり)、飼方麁末(かいかたそまつ)と相見へ野馬同様ニ有之(これあり)候。
 此外首に白毛有之
(しろげこれある)鳥又はハツチャウと申鳥より小形の鳥
 有之
(これあり)、右のほか見懸け不申(もうさず)
一気候の事、広東ハ暖気の方に覚申
(おぼえもうし)候、乍浦ハ寒強ク堀水も
 氷り通舟相成兼(つうしゅうあいなりかね)候由、私共参り候道中ハ寒気至て強く、当
 二月四日より七日迄大雪ふりつづき、暑ハ逗留中五月頃の気候
 日本にさして不相替
(あいかわらず)、雷ハ折々有之(これあり)、地震ハ逗留中無之(これなく)
一産業の事、見世
(みせ)に魚肉多く売候所、或ハ呉服屋、菓子屋、米屋
 等有之
(これあり)、何連も町並に見世を出し都而(すべて)見世ニハ紙又ハ板に書候
 看板有之
(かんばんこれあり)、帳面を扣(ひかえ)商ひ致し、或ハ織物いたし候所も有之(これあり)。 石臼
付6頁
 を牛に付、素麺を拵
(こしらえ)候粉をひかせ右の牛を引廻り候者も無之(これなく)
 牛ばかりにて臼を引申候。 其外塩浜見懸け、曲江県の渡シ
 舟ハ女ばかりニて漕参り候、其外途中にて茶屋有之
(これあり)女斗(ばか)
 ニて茶を汲差出し、遊女も有之
(これあり)、舟に乗せ連行候を見受申候。
 仏山の遊女屋ハ川の方を正面に見世を張り、遊女居并
(ならび)硝子燈
 篭を燈シ申候。 医師ハ私共の内病気の節罷越
(まかりこし)、脈を見候て
 薬調合致呉
(いたしくれ)、水主坊助痘瘡の節の薬ハ大服ニて一貼凡壱斤
 程も有之
(これあり)候。 湯屋ハ石ニて拵(こしらえ)候一畳敷又ハ二畳敷程の湯壷三ツ
 有之、湯ハ籾殻
(もみがら)ニて焚き樋を仕掛、湯壷ニ入れ拾人程も一同に入
 申候、唐人共ハ湯銭差出し候得共何程出し候哉存不申
(ぞんじもうさず)候。 且又
 花形打有之
(はながたうちこれある)銀銭ハ掛目七匁二分程ニて銭に引替候へバ七百
 四十八文又ハ八百文ニ相成申候
一耕作の事、田畑有之
(でんぱたこれあり)、田ハ牛にすかせ申候、畑ハ麦、菜、薩摩芋
付7頁  
 砂糖黍畑の間に桑植付有之
(くわうえつけこれあり)、田畑の様子日本の仕方に替り候
 儀無之
(これなく)
一祝儀の事、去十一月廿二日冬至ニて前夜より川筋の舟賑敷
(ふねにぎわしく)、私共
 へも鶏、豚、家鴨、焼酎、蓮根等差送り申候、当正月元日私共滞
 舟仕候近辺の村里陸手に銅鑼をならし、付添候役人為年礼
(ねんれいなし)
 私共の舟へ参り、其節ヒヨウチャコト申紙ニて張抜にこしらへ
 候物を打候処、音至て強く鉄砲よりも相響申候
一寺院の事、差て替る義無之(これなく)候、都而(すべて)唐土の墓所ハ土を二尺
 ばかり築立、石を建テ法名ハ不見、誰の墓と俗名彫付有之
(ほりつけこれあり)
一唐国逗留中諸所とも静謐
(せいひつ)ニ有之(これある)候段承り申候
    右の通申上候得共逗留中猥りに外へ出し不申(もうさず)
    候ニ付、委敷
(くわしき)義ハ存不申(ぞんじもうさず)候、已上
       文化十三年子閏八月廿六日
                      古渡七郎右衛門
                      染川  伊兵 衛 
                      税所 長左衛門
                      水主惣代 熊助
                      雇水主
                      琉球人惣代
                             実孝