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薩人唐漂流

  400年程前の江戸時代初期、薩摩藩は琉球国に侵攻し琉球を藩の属国とするとともに、
琉球国の一部だった奄美大嶋には代官をおき直接支配するようになった。 以後琉球国は
それまでの宗主国であった中国の明や清朝に朝貢を続けると同時に薩摩藩の支配も受ける
ことになる。 今から
200年ほど前から、財政難に苦しむ薩摩藩は大嶋経営を強化、
大嶋特産の黒砂糖を独占販売するなどし、藩の財務内容を改善し、逆に富を蓄積して
いった。 時の藩主は島津斉興で松平豊後守を称し、幕末から維新にかけ実力者として
活躍した斉彬、久光の実父である。 薩摩藩はこの蓄財により藩の軍備を強化し、倒幕
維新の主導権を握ることになったと言われている。 この物語は松平豊後守が藩主になり
間もない頃である。 一方当時の清国は広州の湊を開港し100年を経ているが、欧米列強が
各種の内政干渉する以前であり、国内の治安も良く役所の組織もしっかりしていたと
考えられる。 尚鎖国下の日本では幕府が長崎を窓口として、オランダと共に唯一通商を
認めていた時代である。

  物語は薩摩藩の大嶋駐在代官とその藩士5名、目付2名、その他藩士の家来達が2
交代で大嶋に勤務していた事が伺われる。 
2年の勤務を終えた藩士たちが帰国時三艘
の船に分乗したが、内藩士
3名、その家来たち12名、船頭、水主(かこ)26人、大嶋の
雇い水主(かこ)
8名、合計49名乗船の伊勢田丸(690石積)が他の艘とはぐれた上、
大風に逢い約一ヶ月半漂流の末、広東省陸豊県
(香港の近く)付近に漂着し上陸する。 

其の後清国役人の連携により、彼等漂流民を日本向けの貿易船に乗せ、帰国させるべく、
広東省から江西省を経て浙江省の乍浦港
(上海付近)まで約1500キロ、陸路と川舟で送り
届け、広東上陸
8ヶ月後清国貿易船で長崎に帰国させる。 鎖国政策の下で外国からの帰国
であり、物語は長崎奉行の取調べに対する報告書の形になっており、漂流の経緯、清国内
での各地異動に伴う風物の描写、清国関係者とのやりとり等が記述されている。 
特にキリスト教に影響されていないか、密貿易をやっていないかを厳しく詮議されたことが
伺われる。

  解読して感じたことは、清国の地方組織が非常にしっかりしており、人道主義に沿って
処理が適切に行われていると思えること、当時日本の船が漂着する事がしばしば有った
ためか処理に慣れていると思われること、これだけの人数を半年以上面倒を見ることも
大変な費用になると思われるが、やはり当時の大国の懐の深さか感じられる。 
また維新後、日本の海軍上層部は薩摩藩出身者が占める事になるが、単に藩閥などと
いうものではなく、大嶋経営などで武士階級が組織的、継続的に長距離航海を経験し、
人材に層の厚さがあったのではないだろうか。 
不可解なことは物語冒頭にある薩摩、
大嶋間が水行一ヶ月以上は他の資料からみても長すぎることである。 鹿児島出帆三月廿一日が
単に四月の書き間違いか、 余ほど風の具合が悪く途中の島で風待ちをしたか、それとも大嶋の
位置を意図的に幕府に隠すためか、いずれだろうか。  

  本資料は以前古文書教室で石塚豊芥子の街談文々集要の1巻及び2巻を解読したが、
同書
18巻(国立公文書館所蔵、内閣文庫本の最終巻)からのコピーを購入し解読したもの。 
尚解読にあたり、経験豊かな古文書教室先輩A氏の智恵もお借りした。(20060325

原文1-2頁 原文31-32頁
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現代語訳による概要時系列サマリー
薩人唐漂流 解読文
索引、注釈
地図広東省(部分)



参考文献
鹿児島県史料集(38) 鹿児島県史料刊行会
漂流船物語 岩波新書



          

                            
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