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                 上野公園歴史探訪
  古文書教室の有志9名で上野公園を探訪する。 きっかけは明治維新時、当時の一知識人
が記録した官軍と彰義隊の戦争についての日記を解読した事から現地見学案がまとまる。
  台東区のボランティアガイド、W氏の案内で説明を聞きながら、コースは公園最南端の
西郷隆盛像から始まり、公園内を北上し最後は隣接する谷中霊園にある最後の15代将軍
徳川慶喜墓所に至り三時間余の探訪を終る。 
皆さんお疲れさま。(20080610)
西郷隆盛銅像
上野公園南端、広小路を見下ろす所にある。 
左が上野の西郷像で右は故郷鹿児島の城山の
下に立つ西郷像。 明治維新の最大の功労者で
幕府側の勝海舟と対談し江戸の無血開城を実現。
後明治六年政争に敗れ鹿児島に帰り、明治十年
西南戦争に担ぎ出され政府軍と戦い戦死。 
上野の西郷像は高村光雲の製作だが、犬は弟子
の後藤貞行作の由。 此人は馬の像が専門で犬は
初めてだったとか、 言われて見れば犬の足が馬
の足のようにがっちりしている。
西郷さんの有名な言葉「敬天愛人」
(天を敬い人を愛す)が台座に彫りこまれている 
彰義隊の墓
将軍徳川慶喜は新政府に恭順し上野寛永寺に
蟄居する。 慶喜の一橋家時代の家臣による助命
歎願の同士の集り、拾数人が彰義隊の始まりだった。
その後幕府崩壊で旧幕臣の一分が加わり2千人規模
に膨れ、官軍との摩擦が起きる様になる。
政府は大村益次郎を総司令として派遣し、大村の
綿密な作戦で彰義隊は1日で壊滅する。 
200人以上の彰義隊戦死者はこの場所で火葬に
された由。 ここに墓を作るに当り政府の許可を取る
のに関係者は苦労したようで、墓標には只「戦死の
墓」とあるのみ。 しかし当時は埋めて置かれたという
小さな墓標には彰義隊の名が掘り込まれ、戦死の墓
の墓標の前に置かれている。
天海僧正の毛髪塔
天海僧正は家康晩年に面会し、秀忠、家光の3代
に仕え、天台衆の高僧としてだけではなく、政治
ブレーンとしても活躍、108歳で1643年(寛永20年)
に世を去る。
家康の諡号を「東照大権現」としたのも、江戸城の
鎮守として日光の東照宮、更に上野に徳川家の
菩提寺として寛永寺の造営を進言したのも天海で
寛永寺の開山(初代住職)となる。 毛髪塔の由緒
ははっきりしないが、墓所は日光にあるようなので
その支店の様なものか。 当HP古文書コーナーの
落穂集で天海は四巻の家康の臨終時(三池伝太
御腰の物)及び六巻東叡山寛永寺の事、不忍
弁財天の事等に登場。
清水観音堂(重要文化財)
広大な寛永寺は彰義隊戦争で殆ど焼失したが、
一分は焼けずに所々今も公園内に残っている。 
この寛永寺を建立するに当り、上野山界隈は天台
宗の本山である比叡山をモデルに設計され、山
全体を東叡山と呼び、不忍池は琵琶湖に、弁財天
の島(今は陸続き)は竹生島に見立てている。
この観音堂は寛永寺の焼け残りの壱つであり、京都
の清水寺をモデルとしている。 
舞台は本物の清水寺よりも大分低く飛び降りても
たいした事もなさそうである。
花園稲荷神社
この上野の山一体を寛永寺造営の為開発する
ので付近に生息する狐の居場所が無くなるのは
かわいそうだ、と天海僧正が祠を建て狐を祭った
のが最初という説である。
当初は穴稲荷と呼ばれていたがその後廃絶、明治
六年篤志家が再興し、花園稲荷神社となった由。 
鳥居をくぐって行くと最後は洞穴の様な所に行き
着くがこれが元々の祠らしい。
五条天神社
この神社は狐の祠の隣にあるが、元々は現在の
御徒町アメ横界隈にあったものを昭和三年此地に
遷したという。 
東照宮や寛永寺とは全く関係なく、医薬の神様が
祭られている。  
この神社の神輿は千貫(約4トン)あり、三年に
一度出る由。
時の鐘
元々は江戸城の中にあり、2時間毎に時間を報せ
ていた。 落穂集によればこの鐘は将軍の居場所
に近く耳障りという事で、城内の時間は太鼓で報せ
る事にして、鐘は元和五年(1619)日本橋石町に
移設された。 その後明暦の大火(1657年)以後
江戸の町が大きく広がった事に応じて、新たに各所
に時の鐘が設けられた。 
この上野の鐘は1666年に設置され、今の鐘は
1787年製作の物の由。
当時江戸には、石町、上野、浅草、本所、横川町
市谷八幡、目黒不動、赤坂、四谷など都合9箇所に
時の鐘があったという。
上野大仏
初代は寛永8年(1631年)越後村上藩堀丹後守の
寄進であるが地震と火事で何回も再建が繰り返され
関東大震災(1923年)に頭部落下以後は再建の
目処が立たないまま寛永寺で保管していた。 
戦時中金属回収令(1940年)で胴体及び破損した
頭部は供出されて消滅、1972年に保管の顔面部
のみ元からあった現在の場所に安置された。
もうこれ以上は落ちない、と云う事で受験の合格
祈願にお参りの人が多い由。 尚オリジナルは
6メートルの坐像だったとの事なので鎌倉の大仏の
約半分(鎌倉大仏は12.38メートル)、因みに奈良
大仏は14.98メートルの由
上野東照宮
上野には元は伊勢津藩藤堂高虎、弘前藩津軽家
越後村上藩堀家等の大名の下屋敷があったが
寛永元年(1624年)寛永寺建立の為幕府が上地
させた。 その時藤堂高虎の屋敷内には家康の遺言
という事で既に東照宮が存在していたが、 三代
将軍家光が慶安四年(1651年)にそれを豪華に改築
したのが現在の東照宮であり、その時御三家初め
10万石以上の各大名が石燈篭を寄進している。 
この東照宮の目的は日光の東照宮には中々参詣
出来ない庶民も江戸で参詣できるようにしたもの。
最初は浅草寺内に建立されたが火事で焼け、以後
この上野東照宮が江戸の代表となった。
右の写真は東照宮の唐門であるが左右の登り龍、
下り龍の彫刻は左甚五郎の作との事 
五重塔及び東照宮鳥居
左の五重塔は秀忠、家光二代の将軍の重臣として
老中、大老を勤めた土井大炊頭利勝が寛永八年
(1631)に寄進したもの。 寛永十六年に火事で焼
けたが直ぐに再建されたものが現在のものの由
右は東照宮山門の鳥居の門柱で、江戸幕府初期の
大老を勤めた酒井雅楽頭忠世が寛永十年(1633)
寄進した巨大な石の鳥居。 関東大震災でも微動だ
にしなかったという。 忠世の孫に当る忠清も大老と
して権勢を誇ったが、四代将軍家綱の子がないので
五代将軍には親王を立てる事を画策。 結局五代
綱吉の時代になり忠清は失脚し、この鳥居は地中に
埋められた。 しかし後享保年間に酒井家は許され
鳥居も掘り起こされた。
グラント将軍の植樹記念
同将軍は米国南北戦争時北軍の総司令官として
勝利する。 18代大統領になったが晩年夫妻で世界
一周旅行に出、明治12年(1879)に日本にも立寄る。
日本側の歓迎宴が出来て間もないこの上野公園で
行われ、その時将軍夫妻が記念植樹を行った。 
右の樹木は夫人が植えたタイサンボク(マグノリア)
でグラントギョクランと命名されている。 
左の記念碑はその記録を留めるために昭和五年に
作られたもの
。 尚長崎の立山公園にも同将軍
夫妻の植樹と記念碑があるところから長崎も訪問した
と思われる。
野公園生みの親像
彰義隊戦争で荒廃した上野の山を再利用する為
1870年に政府はオランダ医師ボードウィンに医学校
と病院予定地として調査させた。 ボードウィンは
眺めが良いので、此処にはヨーロッパ式の公園を作る
べきと提言し政府も1873年に了承、 三年後日本で
最初の西洋式公園が完成した。 
左は公園生みの親としてボードウィン博士を顕彰
して1973年に記念碑を建てたが、手違いで弟の胸像
が使われ、2年前に漸く正しい現在のものになった由。

右は公園中心の噴水で、ここに寛永寺の中心建物が
あったという。 公園は宮内庁の管轄となったが、大正13年に東京都に移管された。 そのために恩賜公園
という
本坊正門
寛永寺の本坊は現在の国立博物館の場所に
あったが彰義隊戦争で焼け落ち、その正門だけが
残り現在に至る。 柱には同戦争時の弾痕が残り
往時を偲ばせる。
当初は国立博物館の正門として使われていた由だが
今は博物館に隣接する輪王殿という葬儀会館の門
として使われている。
 
寛永寺根本中堂
元々の寛永寺の中心となる根本中堂は他の
寛永寺諸施設よりもかなり遅れて建立され、元禄
11年(1698)五代将軍綱吉による。 場所は現在の
公園中心の噴水のあたりにあったというが、彰義隊
戦争で焼失した。
現在の根本中堂は川越の喜多院の本堂を明治8年
に移設したものという。 
喜多院は寛永寺開山の天海僧正が1588年に入寺
したという縁がある。
徳川慶喜墓所
上野に隣接する谷中霊園の一角にあるが門があり
中は入れない。 徳川家歴代将軍の墓は芝増上寺
か上野寛永寺霊廟にあるが、最後の将軍である
慶喜は社稷を失ったと云う事で上記の墓所には入ら
なかった由。 
因みに他の将軍14人の廟或いは墓所は以下の通り
 日光東照宮: 初代家康、3代家光
 芝増上寺: 2代秀忠、6代家宣、7代家継
         9代家重、12代家慶、14代家茂
 上野寛永寺:4代家綱、5代綱吉、8代吉宗
         10代家治、11代家斉、13代家定
 増上寺と寛永寺は数の上で6名宛とバランスが
よく取れている。

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