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               夏草やつわものどもが夢の跡(1)

広大な中国大陸では漢民族の統一と分裂が繰り返され、更にそこに異民族国家が入り込み、
4千年とも5千年とも云われる長い歴史が流れています。 このページでは7世紀から
9世紀に活躍した唐の詩人達が歴史を振り返り、そこで活躍した人々の栄枯盛衰をテーマに
詠んだ漢詩をとりあげます。

  紀元前17世紀頃、黄河流域に興った殷王朝は紀元前11世紀、周に取って代わられます。 
周王朝は一族、重臣を諸侯に封じた封建制度を確立しましたが、紀元前八世紀異民族の侵略で
滅びます。その後、都を東の洛陽に移して東周が始まりますが周室は名目だけで、力をつけた
諸侯が実質的に領国を支配し、その中で有力な領主が覇者として全体を取り仕切り、春秋時代
とよばれました。 更に紀元前5世紀頃からは弱肉強食の戦国時代となり、紀元前
221年秦が
全国を統一するまでを合わせて550年程を春秋戦国時代と呼んでいます。

 春秋時代から戦国時代に移る前、呉と越が熾烈な戦いを繰り広げ、呉越同舟、臥薪嘗胆、
会稽の恥などの言葉が生れました。 呉王夫差と越王勾践の戦いは、先ず呉王が会稽の
戦いで勝ち、越王は絶世の美女、西施を献上して許してもらいます。夫差が西施にうつつを
抜かしている間、勾践は会稽の恥を忘れず臥薪嘗胆して再起し、夫差を打ち破り呉はここに
滅びました。

 李白(701-762,盛唐の詩人)は、当時から千二百年以上昔の呉、越夫々の旧跡で七言絶句
を残しています。

1
蘇台覧古 李白  蘇台覧古(ソダイランコ)
旧苑荒台楊柳新  旧苑荒台(コウダイ)揚柳〈ヨウリュウ〉新(アラ)たなり
菱歌清唱不勝春  菱歌(リョウカ)清唱(セイショウ)春に勝(タ)えず 
只今西江月  只今惟(タダ)西江(セイコウ)の月のみ有り  
曾照呉王宮裏人  曾(カッ)て照らす呉王宮裏(キュウリ)の人

詩解
古い庭園や荒れ果てた城址にも柳が新しい芽をふき、菱を摘む若い女性の歌声が聞こえる春は
いっそう感傷的になる。今は唯西河に懸っている月も昔は呉王の後宮にいた美しい人〈西施〉
を照らしていたのだろうな。

2
越中覧古 李白  越中覧古(エッチュウランコ)
越王勾踐破呉帰  越王(エツオウ)勾践(コウセン)呉を破って帰る
義士還盡錦衣  義士家に還って尽(コトゴト)く錦衣(キンイ)す
宮女如花滿春殿  宮女(キュウジョ)花の如く春殿(シュンデン)に満つ
有鷓鴣  只今唯鷓鴣(シャコ)の飛ぶ有〈アリ〉

詩解
臥薪嘗胆した越王勾践が呉を破って凱旋し、一緒に戦った部下達もみな立派な衣服を着て
祝い、宮殿には美しい女達が花のように満ちたことだろう。しかし当時の宮殿も今では跡形
もなく、唯しゃこが飛んでいるだけである。

  戦国時代になると戦国の七雄といわれる、秦、楚、燕、斉、趙、 魏、韓が台頭しましたが、
中でも一番西に位置する秦が最強で、他の六国が共同で秦に対抗する合従とか連衡の策が
議論されましたが、秦の始皇帝の時代になると六国を次々と呑みこんでゆきます。
このような状況で燕の太子丹は荊軻という刺客を秦に送り込みます。
   史記(刺客列伝)によれば、燕の人たちは易水の辺まで決死の荊軻を見送りにでたが、
そのとき荊軻が「風は瀟々として易水寒し、壮士ひとたび去ってまた還らず」と詠うと、
人々みな意気を高められ、目を怒らせ頭髪は天をさして冠を押し上げんばかりだった、と
云っています。駱賓王(
7世紀初唐の政治家)は次の五言絶句を残しています。
3
易水送別 駱賓王  易水送別(エキスイソウベツ)
此地別燕丹   此の地燕(エン)丹〈タン〉に別(ワカ)る
壮士髪衝冠   壮士髪(ハツ)冠(カンムリ)を衝(ツ)く
昔時人已没   昔時(セキジ)人(ヒト)已に没し
今日水猶寒   今日(コンニチ)水(みず)猶(ナ)お寒し

詩解
この地、易水で燕の丹に別れ、壮士の髪は冠を衝くほどの勢いである。 然し今はこれら昔の
人たちは全て無く、唯寒々とした易水の水だけが往時と変わらず流れている。
註:この詩では髪が冠を衝くのは壮士(荊軻)であり、史記の記述は見送りの人たちの髪が
冠を衝いたとなっており、少し異なります。

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