古文書トップへ           江戸後期異国船の渡来記録             

    江戸時代初期に切支丹問題から異国への門を閉ざして以来、オランダと中国船だけが年に一度
交易に長崎に来る状態が150年以上続いた。 併し18世紀末から19世紀になると俄かに異国船が日本に
渡来するようになり、幕藩体制はその対応に苦慮する。 異国船渡来の目的は国により異なっており、
幕府の取扱い方針も状況に合わせて変遷せざるを得なかった。 1792年にラクスマンのロシア船が根室に
現れた時から1854年にペリー艦隊の米国と和親条約を結ぶまで、日本に渡来した主要異国船の渡来背景や
取扱い方針を当時の古文書を読みながら整理して見る。 渡来異国船毎にできるだけ史料を添えているが、
以下に各国の概略を纏める。
          ロシア 
    蝦夷地方でアイヌ民族を通じてシベリアの北方民族と古くから細々とした交易があった様だが、ロシアが
シベリアへ進出すると日本とは隣国の関係となり、ロシアは国家同士の交易を一貫して望む様になる。 日本の
扉を開く手段として漂流民の送還を行いながら接触を図るが、ラックスマンによる大黒屋孝太夫等の送還に始まり、
最終的には1853年にプチャーチンが国書を長崎に持参して交易と国境交渉を提案している。
          イギリス
    日本近海で鯨漁場が発見され1820年頃からイギリスの武装した捕鯨船が頻繁に日本近海の太平洋側に
出現する。 捕鯨船の薪水・食料調達の為、日本各地及び海上でトラブルを引き起こした。 交易については
中国市場開拓で手一杯のためか、国家レベルの交渉は日米和親条約以後である。 尚早い時期1808年に
ヨーロッパのナポレオン戦争の流れでイギリスとオランダが敵対関係になり、その影響が長崎出島に及んだ
フェートン号事件がある。
          アメリカ
    イギリスの後を追い日本近海の捕鯨に1830年頃から進出したが、1840年頃からはイギリスを抜きアメリカの
独壇場になって行く。 又アヘン戦争前後から中国への自国商船の太平洋往来が増え、捕鯨船や商船の薪水・
食料の補給及び遭難の場合の扶助などが最重要事項となり、国家レベルで日本へ開国を求め最初の和親条約
締結国となる。 
          フランス
    捕鯨ではフランスも日本近海に進出はしていた様であり、難破した場合の乗組員保護を求めている。 
交易についての申し入れはイギリスと同様、日米和親条約以後である。
          オランダ
    江戸時代初期から西洋諸国の中で独占的に日本と交易を行ってきたが、日本が中国の様に英仏に
侵略されれば全ての既得権を失う危機感からか日本に平和的な開国を勧めている。
                           

   
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