解説に戻る        江戸後期主要異国船渡来記録1
                船の全長で相対的に表示(除長崎への中国・オランダ定期交易船) 次へ
1791年(寛政3年9月)異国船取扱い幕府通達
日本近海に異国船が時々遠望される様になり、異国船が見えた場合には警戒態勢を取り、近付けば臨検を行い拒むなら打払、そうでなければ穏健に立去らせる  (天保雑記)
天地丸
日本最大関船
長15間、27m


1792年 (寛政4年9月)  ロシアのアダム・ラクスマン根室へ
エカテリナ女王の命令で大黒屋光太夫ら紀州藩神昌丸漂流民3名を日本に届け通商を望む。 箱館へ回航させ幕府役人が対応にあたり漂流民を受取る。 一方、通商については長崎で交渉する旨伝え信牌(通行証)を渡す(視聴草

エカテリーナ号
ブリッグ、42人
全長15間半、33m


1804年(文化元年9月)  ロシアのレザノフ長崎へ
仙台の若宮丸の漂流民、津太夫ら四名を伴い、前回ロシアに渡した信牌を携え通商を要求。 しかし幕府ではラクスマン渡来時の老中松平定信が失脚しており、通商を拒否した上信牌も取上げる(視聴草

ナジェージダ号
フリゲート、81人
全長24間半、44m


1806年(文化3年正月) 文化薪水供与令

ロシア船が近付けば立去る様に説得、 若し本当に薪水食料が不足なら与えて立去らせる事、 再三の説得に応じないなら打払い (天保雑記

1806年(文化3年9月) 1807年(文化4年4月)  文化魯寇事件
日本に通商を拒否されたという理由でホウシトフなるロシア人が武装した商船でカラフト、翌年にはエトロフの番所で略奪する。
(→詳細へ)

ユノナ号商船40人
余1000石積位


アヴォス号同25人
余、500石積位


1807年(文化4年12月) ロシア船打払令

蝦夷地におけるロシア船の乱妨狼藉に対し、ロシア船は近付けば打払う事。 若し本当に漂着ならその場に留めて届出て指示を待つ事 (天保雑記
麒麟丸
小早、小形軍船
長8間余、15m

1808年(文化5年8月)  長崎フェートン号事件
イギリス軍艦フェートン号が長崎港へオランダ国旗を掲げて侵入し、確認に赴いたオランダ商館員を人質にして薪水を要求。  警備の手薄で撃退も出来ず要求を呑み、時の長崎奉行は責任を取り切腹。(→詳細へ)

フェートン号
フリゲート、350人
全長141ft、42m


1811年(文化8年6月) ゴローニン事件
クナシリ島に薪水補給のため上陸したロシア人8名を日本の警備隊が捕らえる。 その中にロシア軍艦ディアナ号艦長ゴローニンがいた。  副艦長リコルドはロシアに漂着した漂流民を送還したり高田屋嘉兵衛の観世丸を拿捕し嘉兵衛を人質として協力を得て文化10年箱館でゴローニン等を引取る(→詳細へ
  

ディアナI号
スループ、102人
全長16間、29m


1818年(文政元年5月) イギリス船ブラザーズ号浦賀へ
ロシアのオホーツクとインドベンガル地方を往来するイギリス商船が日本との交易打診の為、浦賀に立寄る (視聴草

ブラザーズ号
商船、9人
全長13間、24m


1822年(文政5年5月) イギリス船サラセン号浦賀へ
浦賀に漂流したイギリス捕鯨船に薪水、食料を与える。 小田原、川越、白河の三藩及び浦賀奉行〔幕府)合せて2、300人が動員された(文政雑記
 

サラセン号
鯨漁船、36人
全長19間、35m


1823年(文政6年正月) 中国船土佐に漂着
中国江南の商船16人乗が土佐浦戸に漂着、 土佐藩では幕府へ届ると共に薪水、食料を与え長崎へ運行させる(文政雑記

江南船
商船、16人
全長8丈5尺、26m


1824年(文政7年
3月) イギリス捕鯨船2隻沖合に碇泊、常陸大津に2艘の艀で11名上陸したが藩兵が捕らえ留置する。 幕府で調査の結果、水と野菜の調達が目的だと分り、是等を与え退去させる。(通航一覧)

インディン号
鯨漁船 38人
長105ft、32m


アン号
同 28人
長98ft、30m

7月) イギリス船薩摩藩宝島に上陸、牛を望んだが断り、代わりに野菜等与えたが再度上陸して牛を殺して肉を運ぶので、薩摩藩警備員が一名射殺すると死体を残して逃げ去る。(天保雑記) 

イギリス船
鯨漁船


1825年(文政8年2月) 異国船(無二念)打払令施行
ロシア船、イギリス船渡来によるトラブルの為、終に幕府では異国船無条件打払令を出す。 但し中国船や朝鮮・琉球等船・オランダは対象外 天保雑記) 

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