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                岩淵夜話別集現代文

                      巻三
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第32話 金三郎、吉丸に草履を履かす 

天正の頃関東で下の者に勢いがある事の譬として、千葉に原、原に両酒井と云った。
これはその当時千葉は下総の国佐倉に在城し、原と云う家老が笛吹の城に居たが主の
千葉殿より威勢が強かった。又原の家来で上総の国堂金の城に酒井左衛門及び同国
土気の城に居た酒井伯耆、この両人とも原の家来であるが、主の原より威勢を振るった。
この事を指して当時は一般に云われたものである。
その後天正十八年に小田原の北条家滅亡以後は、太閤秀吉公の命令により、北条家が
所有した国々は家康公の御領地とされ、此年を関東御入国と一般に云う。
ところで北条家の諸浪人は江戸へ出府して、伝手を求めて帳面に登録し徳川家への奉公を
望み、検討の上数年旗本として採用された。 其時笛吹(うすい)の原の子の吉丸、堂金の
酒井の子である金三郎も同じく御当家奉公人となった。

そんな或時山城の国伏見において御城普請の際、家康公が急に庭に出られるので当番の
者達がお供をした。 吉丸は御腰の物を持つ役なので草履をはきに行く事も出来ず、
素足で炎天下の敷石の上で蹲踞しているので金三郎がこれを見かねて草履を持って行き
履かせた。 仲間の者達がこれを見て、最近では珍しい事だ、どんな親しい間柄だろう、
諸侍の目の前で朋輩に草履を履かせてやるなどと云う事が有ろうかと大変な評判となった。
其頃迄は旗本の譜代衆の中でさえも安祥、山中、岡崎などの各時代により派閥があり、
新参の者達の中でも上方衆、甲州衆、小田原衆などの各派閥が意地を張り合い、何か事が
あると一塊になって互いにけん制するような頃だったので、酒井の噂も申上げてはどうかと、
目付衆が相談して御耳に入れた。

家康公も此時の様子を既にご存知で、不審に思って居られたので金三郎を自ら調査された。
金三郎が云った事は、現在は両人共に御家へ採用された朋輩でありますが、元を正せば
吉丸は主、私は家来でございます。 若い吉丸が炎天に素足では苦しいだろうと見兼ねて
草履を履かせたものです、それ以外何の他意もございませんと申上げた。
家康公はこれを聞かれ、金三郎は若輩であるが武士の本意を弁え、昔の主の子を粗末に
しないとは奇特な心懸である、其心からは家康の恩をも恩と思う事だろう、近頃頼もしい侍である
と上意が有り其後御加増を下さった。 
初めはとやかくと批判していた人々も俄に口を閉じ、 家康公の物事に対するご判断は深遠と
感心するばかりである。それ以後は旗本諸人の気持ちは批判に代わって、主筋であれば云う
までもなく、一度でも番頭、組頭として一日でも支配を受けた人には、その後どんなに自分が
出世しても出合いの時の礼に心遣いをする事が本筋であり、そうでなければやって行けない
様な風潮が今日迄の旗本の風俗である。
     
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第33話 江戸の開府と建設

関八州が家康公の領地となるにあたり、御在城はどこになるのか未だ発表が無い時に、旗本
諸人の内十人中七八人は相模国小田原と予想し、残り二三人は鎌倉になるだろうと考えた。
ところが秀吉公と御相談の上で武蔵国江戸を居城とする事を発表されたので、諸人は手を
打って是はどうした事かと驚いた。 理由はその頃迄の江戸は東の平地の場所は何処も彼処も
海の入り込んだ芦原であり、町屋や侍屋敷を十町迄も割付けられる様子では無く、一方西南の
方は茫々と萱原が武蔵野へ続き何処が果てとも分らない。  城と云っても昔から一国を持つ
大将の住んだ物ではなく、上杉家の家老大田道灌斎が初め設計・築城したもので、其後は
北条家の遠山が居住しただけであり、城も小さく堀の幅も狭く門や塀も簡単な様子なので、
関八州の太守の御座城となるような物ではないと人々が考えたのも当然である。

ところが次々と普請を命令され、旗本の小身衆は地面固めに手間取らぬ様にと、御城より
北西の辺りに大番町として最初に屋敷割りを指示された。 実に予想の通りで、岡の土をひき
ならして谷を埋めるので普請の手間は少なかった。 次には川筋に水除き、汐除きの土手を
築き葭原を干上がらせ、所々を舟を入れるための堀川に当て、其土により地面を上げて町屋に
割下され、それからは段々と諸大名の居屋敷をお渡しになった。

其後天下の御座城となり日本国中の貴賎ともに寄集り家を作るので、屋敷の敷地は広大と
なったが江戸中で田の潰れは少しばかりで、大方は萱原や入海の埋め立てで解決した。
特に江戸中ヘ天下の人民が入り込み、田畑の開発も自由だったので昔から茅だけしか
なかった武蔵野も上々の畑に開発され、新たに百姓の家居となった村里は数限りない。
したがって御城より大名屋敷、町家、寺社へ掛けてかなりの土地であるけれど田畑の広がった
事はそれより遥に大きい。

このように損得迄も賢慮に洩れる事は何一つなく、今天下の貴賎が集まっても何一つ欠ける
ものがなく、全てが間に合うので万民が住みやすくすごせる。 これを百年前の関東御入国時
の江戸の様子の聞き伝えから現在の都の様子は全く考えられない。 ところが茅野、芦原の
時に将来は必ず繁昌の地であるとして決定された大神君の御賢慮には唯々感じ入る
次第である。

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第34話 浅野弾正、秀吉公を諌める

太閤秀吉公による朝鮮国征伐の時、家康公も筑紫国の名護屋の港に在陣されていた。 其頃
朝鮮へ渡海した軍勢は異国における長い戦に退屈し上下共に帰国を望んでおり、よって彼の
国の征伐は巧く行っていない、という噂があった。 この咄が秀吉公の耳に入り、家康公ならび
前田利家、蒲生氏郷を招かれて、異国退治が是程迄手間取るはずがないのに、このごろでは
日本の諸軍勢は大小上下共に朝鮮在陣に退屈して、皆が帰国の事ばかり考えていると聞く、
今時残念な事である、 このような事では到底果々しい事は出来ないので、今度は秀吉自身が
渡海するつもりである、その場合には利家、氏郷両人も同道するべきである、我国の事は家康が
残れば何の気遣もない、ところで秀吉を渡海させる程であるならば朝鮮国の事は当然ながら
大明国まで直ちに攻撃して、唐人どもを全てなで斬りにして四百余州を一瞬にして従えて、
大明国の王となる事にも何の疑いも無い、と大いに広言された。

利家・氏郷も、仰る通り人生は束の間の世の中ですから、こんな時代に生れ異国に武名を残す
事は本望至極です、と両人共に喜んで同意した様子だった。 其時家康公の御機嫌はたいへん
悪く利家・氏郷両人へ向かって、そもそもこの家康は不肖の身でありますが、若年の頃から
多くの敵と出合い戦ってきたが、未だに不覚の名を取った事はありません、ところがこの度
太閤御自身が出港され、あなた方お二人も渡海され、家康一人が残って日本の留守番とは
全く同意できません、此件はいくら云われても承服できず必ず違背があると思う、と苦々しく
云われた。 

この時浅野弾正が末座より進み出て、是は徳川殿の云われる通りです、全般に最近の秀吉公
のお心には狐が入込んでいるのでしょうか、以前の秀吉公ではありませんので御腹立される
必要はありません、と云う。太閤はこれを聞かれたいへん腹を立てられ、おのれ弾正め、秀吉に
狐が付いたとは何事ぞ、その理由を云え、と云われ、片膝を立てて責めかかるのを弾正は少しも
怯まず云われる、そもそも朝鮮や大明国の者達が日本に対してどんな罪を犯してこの様に
なったのでしょう、良くない事を思い立たれた為に、日本の諸軍勢が朝鮮へ渡って在陣し、
兵糧その外全てに多額の費用が掛っています、夫だけでなく日本国中の人々の産業も安定
せず、前線・銃後の貴賎諸人の嘆きを御前はご存知ないのですか、其上更に御自身が渡海
され、利家・氏郷迄行くとなると北国から奥州へ掛けて数万の軍勢を引連れる事になります。
そうなると日本には人がいなくなり、もし其後に方々で一揆が起こるか、日本国の留守を聞いて
異国が攻めて来れば、徳川殿一人がいくら頑張っても何ともならないでしょう、従って留守番は
嫌と言われるのは当然です、諺に人を獲るスッポン(どう亀)が人に獲られる、とか云いますが、
朝鮮や大明国を取ろうとしている内に日本に災難が降掛るのは明白です、こんなに考えの
浅い殿ではなかったのに、今日の上意の趣意は将に狐の智恵が入替ったものと私は思います、
と云われた。

秀吉公は聞かれて、道理はともあれ主人に向かってとんでもない奴、と云われ刀の柄に手を
掛けられるのを利家・氏郷抱き留めて、弾正は我々が処分致します、御手をお汚しになるのは
勿体ない事です、と宥めて、両人弾正を睨んで座を立たせようとするが立去らない。 その時
家康公が座を立たれたので弾正も御見送の為に座をはずしてそのまま自分の陣所へ帰った。
秀吉公ももっともの事と思われたか、自身が渡海する事は沙汰止みとなり、
程なく弾正も以前の様に出仕する様になった。当時は諸家の評判では家康公の渡海の希望と
云い、弾正の座敷の取持と云い、名人の掛け合いであると云合った。

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第35話 大久保石見守の事

家康公が常々云われていた事は、人の主人となって家来を持つときには二つの心得が
必要であり、その者の志を使うか使わないかである。 先ず志を使うと云う事は、本来生まれつき
律儀であり、主人に尽す事を第一に考え、仲間に大しても我侭でなく、誠実でしかも智恵才覚を
兼ねている者がある。 この様な者には目をかけ、引き立てて一家の取り仕切りや国の政治を
任せても安心できる有用な侍である。 次に能力を使うと云う事は、その本来の性格はそれ程
良くなくても何か一つ勝れた所があり、それが偶々役立つとき大いに利益になるものである。
是も又目をかけて取立てる様にしなければ物毎が進まないものである。 この点をよく判断して
人本来の性格を知った上で人は使うものである、と云われた。この上意に関して次の話がある

家康公が江戸の御城に居られた時、お見舞として上方より四座の猿楽師が下ってきて御城で
能を演じた。 諸旗本衆に見物する様に云われ料理も用意され、御白洲には町人達も詰めて
見物し、菓子やお金まで戴いた。 この役者達を引き留めて居られる間、彼等は替るがわる
夜話に参上した。 ある夜の咄で家康公は、家康が若い頃は三河の国半分を領土として、
それから段々大身となり、今関八州の守となった、そして今日本全体で毛利輝元と家康が国数
では諸大名の中で最大である、しかく金銀と云物は思う様に持てないものである、金銀が
乏しくては何に付けても困るので、どんなに多くても良い物であるが、金銀を貯へるには収入を
多くせねばならず、収入を多くしようとすれば人を持つ事が出来ない。 人を持たねば国の守り
が弱く、戦でも勝つ事ができない。 何とかできる事ならば人も多く持ち、金銀をも多く持つ様な
方法が無いものだろうか、と云われお笑いになった。
其の場の人々も、仰の様に両方共満足の行くようには中々難しい事で御座いますと申し上げた。

この時金春座の大蔵太夫が御座敷の末席に控えていたが、この咄を聞いて翌日青山藤蔵の
家に行き、昨夜御前で斯々の上意でしたが、その時申し上げたい事が御座いましたが
先ず憚り多い事ですし、又大事な内容を他人に聞かせる事でもないと思い発言を差控えました。
殿様がお望みの様に人も必要なだけ召抱え、その上お金も十分に出来る様にする方法が
有るのです、これを申上げたい、と云うので藤蔵も、それは結構な事だ、所でそれが妥当な方法
であるなら、早速申し上げて其方を推薦するから先ず私に聞かせよ、と云えば大蔵太夫は、
その方法は直接申し上げるのでその時に私が申上げる事をお聞き下さい、と云う。

藤蔵は登城して機会を捉えて大蔵太夫が云った趣旨を申上げたところ 、家康公はお笑い
なされ、それはどんな方法かな、と言われた。 藤蔵は、私もその概略を聞いた上で申し
上げるべきと思い尋ねましたが、大事な事ですから直接申し上げますの御前で聞いて
下さいとの事でした、 と申し上げれば、是は良い慰みになるだろう、と頷いて大蔵太夫を
召され、藤蔵一人を側に置かれて方法を尋ねられた。大蔵が申上た事は、前夜の殿様の
ご意見通り、金銀を貯えるには御領地の百姓から年貢を高めに設定し、収納米を増やして
是を売って代金に換えるか、又は山や川から上がる税金を多くお取りになるか、この二つの
方法以外には御座いません、併しこれでは御領内の万民が困り、政情不安となりそれを
抑えるために御家中の侍を多く採用されようと思われては、とにも角にもお金が貯まる訳が
ありません。

是に付いて私は考えますのは御領分の中で所々の山々を調査されれば金、銀、銅、鉄、
錫等が出る山が必ず有るはずです。 熟練した山師や金堀を呼集めて掘らせて見たい
ものです。 若し金銀が多く出ればその地方も豊かになりますし、第一に土中に埋もれて
いる金銀を掘り出して御用に立てるのですから何の障りにもならず結構な事だと考えます、
と申し上げた。
家康公は聞かれて、それは其方自身の思いつきか、それとも誰かその道の熟練者の話を
聞いたのか、と尋ねられた。 大蔵は答えて、上意の様に上方には金山に関係する熟練者
が多数居り、その者達が話しているのを常々聞きました、と申上げたところ、それではお前の
家業を辞めて金を掘る奉行にならないか、と云われた。

大蔵は、畏まりましたとそれを請け家業の能は弟子に譲り、国中から山師を呼集めて彼等を
連れて伊豆の山へ入り、堀人足を集めて昼夜の境もなく掘らせた。 予想通り山も栄え多くの
金銀を掘り出して江戸の御城へ納入したので、家康公も大変御機嫌で直ちに大蔵を大久保
石見守となされ、武蔵国八王子に知行を下された。 大久保は滝山に住居を構へ、金に関わる
手代役の者上下数百人を与力や同心の様に使い、後には伊豆の山だけに限らず所々に金山を
発見し、佐渡の国へも渡って金山を支配した。

石見守はこの様に出世に預かるとは云え、本来の心は悪いので考え違いが多く、第一に身の
ほども弁えず奢を究めて色々悪事を働き、これを繕うために諸役人達の機嫌を取り幕府の
利益を掠める事も多かった。 併しながら自分一代は無事に過ごしたが、死後になってから積る
悪事が露顕して、息子二名は処刑され家は断絶となった。
この石見守は能楽師から召出され、一方本多佐渡守は鷹匠からお取立になったもので、
それぞれ賤しい身分から頭角を顕して出世した事は似ているが、その志を使われたか、或いは
その能力を用いられたかの違いは歴然としているように思われる。

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第36話 蒲生氏郷曲渕老人を望む

蒲生飛騨守氏郷は奥州に百万石の領知を給って会津へ入国する時に家康公の所へ立
寄られた。 前から連絡も有ったのでたいへん悦んでもてなしをされ家康公が言われた事は、
今度奥州の押えとして会津の城を拝領された事はたいへん結構な事です、 近国ですから
何でも相談できると私も悦んでいます。 ところで何か餞別を差上げたいが何でも一つ所望
されればその通り差上げたい、と言われるので氏郷も、たいへん忝い事でございます、
思いがけず大名を仰付られ、急に裕福になり十分支度も出来ましたので特に不足の物も
ございません、しかし折角のお言葉ですからひとつ所望いたしますが宜しいでしょうか、と
いわれるので家康公も先ほども言った通り私にできる事なら何でも所望してくださいといわれる、
そこで氏郷は、それでは只今御座敷へ来る時見かけた色が真黒な老人で朱鞘の大脇差を
指して居る者は何者でしょうか、今時珍しい容貌ですが私の家来にして今度の入国の記念に
連れて行きたいのですが、お許しなら何を下されるよりもありがたいといわれるた。

家康公はこれを聞かれ、是はたいへんお安い御用ですぐにでも進呈したい、と言いたい
ところですがあの老人は若い時に武田信玄の家老、板垣信形と云う者の雑用をしていた男で
全く筋目も無い者です、その信形の倅、弥次郎と云う者が信玄に対して奉公を行わず、外にも
色々悪事を行った為信玄から成敗されました。 その時あの老人は曲渕庄左衛門と云う侍で、
その弥次郎に奉公していたが、主の弥次郎を殺したからには主の仇であるから是非とも信玄を
打殺そう、と狙い廻した程の無分別者であり、その上御覧の通りの老人ですから、召使われても
何の役にも立たないでしょう、この事だけは幾重にも御断りしたい、と仰られるので氏郷は、
筋目も分別も少しも構いません、勿論年寄である事も結構です、しかし特別に御寵愛されて
いると見受けますのそれでもと云いません、兼々承っている曲渕ですからせめてその知人となり、
少々昔物語など承りたいものです、と云う事で曲渕が御座へ呼ばれ、信玄・勝頼二代の間の
所々の合戦の物語を数時間申上げたと言う
     
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第37話 太閤秀吉公他界後の体制

太閤秀吉公の病気が快復しそうも無く子息秀頼は未だ幼少で あるので、他界後の天下に
ついて覚束なく思われ、京都将軍足利家に習い、家康公、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、
宇喜田秀家を五大老と定め天下の政治は大小問わずこの五人に任せられたと云う、
次に生駒雅楽頭、中村式部、堀尾帯刀を三中老と定め、五大老と五奉行との中に立って、
万事に宜しく相談に乗る様にすべしとした。 
それから又浅野弾正、増田右衛門尉、石田治部少輔、長束大蔵、徳善院玄以法印、この
五奉行は私(秀吉)が在世時と同じく、私心を放れて秀頼の為を思って支配すべし、もっとも
軽少の事は各々相談して解決をし、重大な事になれば五大老の面々へ尋ねて指図を受け、
若し又指図通りにしては悪くなると思えば三中老達にも相談してそれを大老の面々へ報告
して巧く行く様にすべし、
五奉行の者達は大老と直に事を争って理非を論じたり、差図を非難して逆らってはいけない、
勿論五奉行の仲間内で自分を主張しお互いの仲が悪くなれば天下が乱れる元になると考え、
神文を取り交わし心を一つにして秀頼を守り立てるべし、と堅く遺言があり、慶長三年八月
十八日終に他界となった。

大谷刑部少輔はそれまで五奉行に列していたが眼病のため職を去り加判に入らなかった。 
然しながら太閤時代には筆頭であり万の事を知り有能と人々に言われ、特に石田や長束等を
初め、大谷の推薦で秀吉公に奉公した者も多く、その上大老衆へも親しく昼夜の会合に参加
するので諸人が敬い五奉行も及ばなかった。 中でも家康公に対しては特別に熱心に出入
するので、家中でも他家でもたいへん親しい関係と思っていたが、大の諂い上手で上には
良い様に見えても心根は妬ましく又石田と親しい様子も変わらないので本音は如何かと
疑問を持たれていた。
浅野弾正には太閤時代より(家康公は)表向の諸事の御用を頼まれ、私的にも親しくされており、
今でもなお入魂であり、奥向の事は尼の香(孝)蔵主が家康公の事を大切に扱われていた。

従って五奉行仲間では弾正に各人は気を付け、奥向では香蔵主を気遣っていた。 この
ために石田以下の者達は様々の手段で家康公と弾正の関係が悪くなる様に計画を廻らすが、
家康公は前からこの事を賢察して居られ、弾正も当然ながら分っているので少しも油断は
しなかった。 然しながらお互いに親しい様子では反って良くないので、太閤他界後は家康公
も弾正に兼ねてからの恨みが有る様に見せられ、弾正も疎んじる様にしていた。 併し外様
大名の細川越中守、中老の堀尾帯刀がその中に立って彼方此方と情報をもたらすので、
五奉行仲間の事は大小となく家康公の御耳に達していたが当時の人々は知らなかった。
又香蔵主は秀忠公が特別に同情され、後は江戸の御城で採用され、三河岸に居屋敷まで
下さった、その上香蔵主の子、川副六兵衛と云者は、織田信長公に奉公した川副式部の
惣領であるが、大御番に採用された。これは香蔵主が退職の代わりと云う事でたいへん
大切にされた


香(孝)蔵主(?-1626)高台院(秀吉本妻)付の筆頭上臈で奥向を取り仕切った。一生未婚で
甥の川副六兵衛を養子とした

38
第38話  家康公石田の危難を救う

慶長四年の春大坂にて池田三左衛門輝政、福島左衛門太夫正則、細川越中守忠興、
浅野左京大夫幸長、黒田甲斐守長政、加藤左馬助喜明、加藤肥後守清正等の面々が
集まり相談し、石田三成を打果して日頃の恨みを晴らし、今後の悪人の見懲らしめにしようと
計画し、この事を密に家康公にお伺いを立てたが、とんでもない事であり、決してやっては
いけない、と止められた。 石田もこの企てを聞いて出仕を止めて用心していたが相手が
大勢なので今後どうしたものかと困っていた。 そこで佐竹右京大夫義宜が伏見でこの事を
聞き、三成と仲が良かったので夜中に大坂に下り三成宅へ行、今度の事は理を非に曲げて
家康公に頼込なければ解決出来ないだろう、と意見して宇喜田秀家に留守中の事を頼み、
夜に紛れて女乗物に乗って伏見へ上り、今度の危難をお救い下さい、とお願いをした。

御家中の人々は兼てから三成が悪意もって家康公の仇である事を知っているので、是は
もっけの幸、ここで三成を成敗されれば以後の災が無くなると口々に云う。 その夜本多
佐渡守が登城して来て、御夜話は終ったかな、と尋ねるので土井大炊頭が当時は甚三郎と
云う子姓だったが、今少し前に御寝所へ入られましたと云う、佐渡守は少しご意見を得たい
事があるので登城しました申上げてくれ、との事なので甚三郎は取次ぎ申上げると未だ
起きておられ、参れ、との上意なので、佐渡守は御傍へ参り、今宵はいつもより早くお休み
になられますね、と申上げると家康公は、其方の夜中の出仕は何事か、仰られので
佐渡守は、いや別の事では御座いませんが石田治部はどうされますか、と申上げれば
家康公、実はその事を今も色々思案しているぞ、と上意だった。 佐渡守は、それを聞き
安心しました、御思案されると仰られる以上申上げる事は御座いません、と云って直ちに
御前を退出した。

その翌日には大坂へ使者を送られ、例の大名達へ異見をしたけれど何れも同意せず、
既にここに至っては元の状態に戻す事は困難です、皆の希望通り石田の御成敗を仰付け
下されば本望です、その上悪人の事ですから天下の政治の為にもなります、と一同が
答えたが、家康公より重て仰られた事は、石田の悪意は各位へ対してだけでは無く、
家康へも同じである、然しながら故太閤が取立られた者であり、その上この度は各位に
責められ身の置様がないため、家康を頼りに来た者を日頃不快の者だからと云って
見捨てる訳には行かない、この度の事は家康に免じてお頼みしたい、それでも同意できない
という事であれば、家康の身上に替えても三成は引き渡さないとの口上で、とりわけ
池田輝政は縁者の甲斐も無いと段々不満を仰られた。

これによって諸大名も異議が無くなり、そのようにお考えならともかく元の方針通り、
石田の奉行職を停止して江州佐和山に蟄居すべし、という事で決着がついた。
所が諸大名が夜に伏見の屋敷へ大坂より人数を頼み押し掛けるとの風説があり、その上
夜になって城の櫓へ上れば何処からともなく大量の火縄の匂がしていた。 
これでは石田の手勢だけ召連れ佐和山に帰る事は難しいとの事で、三河守秀康郷を
差添へ瀬田の大橋まで送らせられた。 石田の家来大庭土佐守、その他大勢が佐和山
から迎えに来ていたのでその者達へ引き渡され秀康公は瀬田より帰られた。 尚柴田
左近と云者に佐和山まで見送る様にと仰付られた。

この三成を保護された事について、世間では家康公の考えは成敗する積りだったが
佐渡守が達って異見申上たので助けられたと云うがこれは間違いである。 
後に石谷将監が土井大炊頭にこの時の次第を尋ねたところ大炊頭は前述の様に物語った由

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第39話 大坂城にて家康公暗殺計画

慶長四年九月八日家康公は大坂の城へ行かれ西の丸に入られ、 秀頼への御対面の為
本丸へ行かれる所を増田・長束以下の者達が家康公を殺害しようとする企が有った。
浅野弾正も表向きは企ての一味の中に居り、家康公が登城される時刻に通常通り弾正一人が
お迎に出て、先に立って書院へ案内するため廊下を通りなさる時に、土方勘兵衛が抱き留め
大野修理が小脇指で突くという打ち合わせである。 
この計画を弾正方より長岡越中に告げられたので長岡は急いで西の丸へ参上して密に申上げ、
明日の御出仕は中止なさるべきとした。 家康公は聞かれてその様な事を知った上はその
心得をすべし、登城は中止しない、と仰られた。

さて翌日朝になり登城に際し、本多中務・牧野右馬充等を先頭に立てた屈強な侍大将
十二人は家康公が着座される座敷の次の間まで伺公する手筈で、他には使番衆五人は
玄関までと云う事で以上十七人が御供に召連れられた。 桜の門で番人が御供衆が多いと
云うが誰も聞き入れなかった。 
さて玄関へお上がりになる時弾正がお迎えに出て挨拶を申上げ、例の様に先へ立って上がる、
家康公は例の御供衆を召連れられ御座鋪ヘ通りなさるその威勢に辟易して事前の計画と違い、
土方も大野もお目通りさえも出られない、秀頼公と対顔される御座鋪の次の間に定められた通り
御供衆が列座しているので指を指す事も出来ない。
秀頼公は殊の外成長され、お元気そうでたいへん目出度い事であり家康一人の悦びです
と淀殿へも口上を述べられ、盃の交換も済みやがて立上られた。 五奉行が残らずお見送りに
出て御訪問を悦んでいる旨を述べ、早刻秀頼郷からも使者があり、淀殿からも御礼があった。
その日に大坂を出発し伏見ヘお帰りになった。

この家康公の登城に際し大勢の家来達が付き纏い、特に秀頼郷が対面する次の間まで推参した
事は如何にも理由があり、若し理由が無いのにあの様な事であれば太閤の遺言に背き、幼少の
秀頼を侮るものであり、やり方が家康には似合わない、と淀殿はたいへんな立腹で五奉行の
面々へ穿鑿があった。
各奉行は困っていると弾正が云うには、この事は最後まで隠し通す事は出来ないと思う、
そうなると五奉行の中一人も残れない事になる、それでは秀頼郷の為になる者が外には
無いので、皆は知らない事にし、拙者一人が罪を被りどのような処置になっても止むを得ない、
と相談して淀殿へ申し入れた。 淀殿はそれを聞き、それは秀頼を大切に思うのでは無く天下
の大乱を招くやり方である、故太閤御他界から未だ三年も過ぎないのにその様な企てはとんでも
無い事である、と云われ伏見へも急いで使者を送り、弾正の不届きの様子を詳しく申上げ、
どのような咎でも仰付られます様にとの事であった。

家康公は聞かれて、淀殿のお気持ちには満足です、併し弾正等は故太閤から浅からぬご恩を
受けた者であり、私を亡き者にすれば秀頼の為になるであろうという積りで、その様な悪事を
企てた事でしょうから、智恵の無い者とは思いますが、それ程の科人とも云えません、謀叛や
逆心等とは違いますので此方でも良く吟味して相当の咎を行いましょう、と返答された。
その後に弾正は甲州の知行所へ、土方は常州水戸へ、大野は武州岩付へと夫々蟄居が
仰付られた。 弾正が云うには、土方大野両人共に他国に流され、拙者一人は倅の領知に
居住するのは自由の侭であり憚り多い、との事で武州の府中に庵を設けて不自由な暮を
していた。 秀忠公が武州野辺に鷹狩に出かけられた時は使者を送られ、獲物の鳥や
御菓子などを下さり便りをされた。 後々は江戸の御城へも招かれ懇意浅からず弾正も忝き
次第に思っていた。

弾正には男子が三人あり、惣領左京太夫は家督を継ぎ甲斐の国守であった。 次男但馬守は
その当時は宇兵衛と云い、秀頼郷の小姓組だったが京都大政所に勤務していた、三男
采女正と云いこの様に子供が多いので何れにも知行は必要であろうと仰られ、家康公の
御領知の内常州笠間の城に五万石の領知を添へ、 弾正の隠居領として下さった。
左京太夫は三十八歳で死去し男子が無かったので、弟但馬守が兄の家督を継いだ。
従って笠間五万石は三男采女へ渡った。 以後今日に至るまでこの浅野家は譜代として
勤めている。

岩淵夜話別集巻三完

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