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                岩淵夜話別集現代文

                      巻四

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第40話 家康公、長束大蔵に脇差を贈る

慶長五年上杉景勝を退治するため、六月十八日家康公は伏見を出発され大津の城では
京極宰相が食事を献上した。 その晩は石部に旅宿され、翌日は水口で城主長束大蔵少輔が
食事を献上するので御迎のため大蔵父子が石部まで伺公した。 そこで明朝には水口に
入られる由仰られたので長束は悦んで水口へ帰った。 ところがその夜八時頃急に石部を
出立され、水口辺を夜中に通り過ぎられ、 長束方へは使者を立てられ、これ迄立ち寄る予定
であったが急用の為急いで通り過ぎます、たいへん残念です、との口上で来国光の脇指を
贈られた。長束は仰天して使者と連れ立って土山まで参上して、道具拝領の御礼を申上げて
帰った


京極宰相: (高次1563-1609)妹は秀吉側室、妻は淀の妹、関が原では東軍に属し
大津篭城戦で多くの部下を失い出家するが、家康に高く評価され、若狭小浜八万五千石を
与えられる
来国光: 鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての京都の刀工、刀、短刀などが国宝に
指定されている(九州国立博物館)

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第41話 小山本陣へ石田謀叛の注進

家康公が関東へ下向された跡に石田治部少輔は佐和山より大坂へ出て、諸大名を誘い
謀叛を企む由、諸方の注進が小山の陣所へ聞こえてきた。 旗本の諸人はこれを聞き、東国
の上杉だけでも簡単な敵ではないのに今度は又石田が謀叛するに至っては、前から一味の
諸大名も多いので家康公お一人の身に迫る由々しき大事である、 と気遣いをするが家康公
は少しも苦労に思われる様子も見えず、何時もの様に御機嫌で秀忠公の宇都宮の陣所へ
この旨をお伝えになった。

さてこの度の御供して下向した上方の大名は残らず小山の御陣所へ招待もてなしをされ、
井伊兵部少輔・本多の両人を通じて各大名に発表された事は、石田以下の凶徒が逆乱を
企てた事はやむを得ない、各位は妻子を大坂に残して居られるので心配に思われる
でしょうから勝手に上られて結構です、又凶徒の一味と親しく一所に行動しようと思われる
方々はこれも結構です。 戦いの事は夫々理由があるものですから、今日は味方、明日は敵と
なる事も古今珍しい事ではありません、少しも遺恨はありませんという口上が述べられた。

列座の大名達が口を閉じている時に、福島左衛門太夫が進み出て、他人はともかく拙者は
全く二心は持ちません、家康公が出馬されるのであれば清須の城を明渡しましよう、
弾薬や兵糧もそれなりに日頃から蓄えておりますからお役に立つはずです、と云うので一座の
大名一同も誰々もその様に思いますと申上げた。 井伊・本多がこの旨を申上げたところ重ねて
山岡道阿弥、岡江雪と通じて、只今各位が申上げた通りを聞かれ非常に満足しておられます、
それでは景勝を急いで退治すべきか、それとも先に上方の凶徒等を征伐すべきか、この旨
各位相談して遠慮無く申上げるべしとの仰である。 

福島左衛門・黒田甲斐守両人が一座の家老中へも相談して、先ず上方を退治なさるべきと
答えた。 山内対馬守は掛川の城を明渡すので人数を入れて安心して上洛して下さい、また
自分の人質は吉田の城へ差上げますとの事である。 これによって海道筋の諸城主がこの旨を
申上げる事になった。 
又大坂騒動の注進は方々より有ったが中でも山内対馬守の内室からは侍を飛脚に仕立てて
送ったので、諸方の注進よりも早々に到着したものを早速に言上し、その上全く別心を考えない
旨を一番に申上げたので家康公はたいへん悦ばれた。 だからこそ関ケ原一戦勝利後の
上方大名への御褒美の時、内容が他に異なったのであると云う


岡江雪:(岡野融成1535―1609)後北条家臣、其の後秀吉、家康に属す、出家名 江雪斎
   
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第42話 堀尾帯刀の事

三河国池鯉鮒の宿で堀尾帯刀は、加賀井弥八郎が水野宗兵衛を討果したので、帯刀が
相手をして即座に弥八郎を切り殺した。 この噂が正確な報告が無い内に上方より馳せ
下って来る方々の飛脚が聞き伝えて小山・宇都宮の陣所で広まった。 
この事から風説では堀尾帯刀が石田と志を通じて加賀井と共に水野を説得したが水野は
家康公の第一の味方であるため同意せず、その為にこの様になったのだと云う。 
一方堀尾信濃守はこの陣に御供しているので父子の間での内通も有るかも知れない、
既に事が明らかになっているので信濃守は逃れられないが今はどんな気持ちか、と
周囲では囁いていた。 

井伊兵部・本多中務の両人は相談して本陣へ行き密かにこの旨を言上して、事態が
はっきりするまでは信濃守の陣屋を両人の家来達に取巻かせましょうか、と伺ったところ
家康公は暫く思案された後言われた事は、喧嘩した事はありそうな事だ、しかし帯刀は
私に気を遣っており上方へ通ずる事はない、間違いなく今日中には確かな情報が来るだろう、
それまでの間は少しでも信濃守を疑ってはならぬ、と上意なので両人は御前を引き
下がった所、この喧嘩の経緯を詳しく言上する飛脚が到着した内容が明らかとなった。
井伊・本多は後々までこの事を語り、家康公は実に良く人を見る目を持って居られると
感心した。


池鯉鮒ノ駅: 池鯉鮒宿(ちりゅうじゅく)現在の愛知県知立市
堀尾帯刀:(吉晴1544-1611)秀吉の武将、浜松12万石、関が原では東軍に属し、
戦後出雲24万石
加賀井弥八郎:(重望1561―1600)美濃加賀井城主、石田派と言われている。
宴席で口論の末水野を殺害、堀尾に切られる
水野宗兵衛:(忠重1541-1600)三河刈谷城主、
     
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第43話 美濃の大柿奪い取り

八月廿三日に美濃国岐阜城を攻め落としたとの事が前線の諸将から注進の知らせが
同月晦日に到着した。 九月朔日に江戸を出発され関ケ原への行程の途中、岐阜の
近所にある八丈村瑞雲寺と云う小さな寺で一休みされた時、ここの住寺が大きな柿を
盆に積みもてなしをした。 家康公はこれを御覧になり御側まで召寄せられ、 是は
住寺の心づくしがこもっている、と言われ御供の児小姓衆を残らず呼ばれ、これが有名な
美濃の大柿である、其方達で我勝ちに奪い取りをせぬか、といわれ盆ごと座鋪へ移させ
皆が奪い取るのを御覧になり非常に御機嫌で、有名な美濃の大柿も児姓共が我勝ち
に奪い取り解決した、と上意であった。


バイドリ 我勝ちに奪い取る事(広辞苑)

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第44話 逸物の鷹の子は逸物

九月十五日関ケ原合戦が勝利に終り、凶徒は全て敗れ散ったので家康公は実見山へ上られ、
冑を持参する様に云われ、皆不思議に思っていると、頭巾を取り冑を召され、勝って 甲の緒を
〆ると云うのはこの時である、との上意だった。 そこで前線の諸が将参列して御祝義を申上げ
家康公も、各々方も粉骨尽された事悦び浅からぬ旨仰られた。 

そこへ松平下野守殿が軽傷を二ケ所を負い御目見し、井伊兵部少輔も鉄砲傷を負い腕を括って
首に掛け、同じく御前へ出て下野守殿自身が御手柄なされた様子を言上して、やはり逸物の
鷹(家康)の子は逸物と見えます、と申上げれば家康公は聞かれ、上手な鷹師(兵部少)が
付いてこそである、と云われ非常に御機嫌で下野守殿へも兵部少輔にも直接に薬を下さった。

山岡道阿弥が参上して、誠に夜が明けた様で御座います、勝鬨を行われるべきです、と
申上げれば家康公は、何時でも日の出の合戦はこの様なものである、まだ安心できないのは
諸大名の妻子が皆大坂に有る事である、すぐに上洛して妻子を各人に引渡した上で勝鬨は
行うべし、との上意があり、道阿弥を始め御前伺公の諸大名は各々鎧の袖に感涙を注いだと
云う


松平下野守(忠吉1580-1607)家康四男、秀忠の同母弟、井伊直政の娘婿

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第45話 福島正則の事

関が原近くの永原の陣所で近藤登之助・伊奈図書・加藤源太郎の三人を召され、今度の戦が
決着した上はこの先遮る物が無いとて、各軍勢が妄りに上京して狼藉等を犯す事も有り得ると
思い、その旨各軍勢に注意を触れてはいるが、猶念を入れ各々を指名するので大津へ行き
日の岡に番所を設けて往来の人を改めた上で通すべし、と仰付られ三人は畏まってその様に
勤めた。

そこで福島左衛門太夫の使者の侍が番所の前を通る時に突然口論となり、番人の足軽達が
棒で使者を叩こうとして棒の先が使者の侍に当ったのでこの為堪えがたいとして、其の場より
使いを返して福島の陣所へ遣わし事の次第を報告し、即座に討果そうとしましたが、天下の
関所ですから理不尽の問題になるのもどうかと思い我慢しました、某は間違った事は少しも
有りませんがこの様な結果になったのは力が無かったからです、と言って切腹をする時、
相手は伊奈図書だと云って死んだ。
左衛門は是を聞いて色々抗議を入れて来た。 家康公は未だ御存知にならない事だと
各関係者が相談して異見として、番人が何人居ようと相手をして我慢すべきであると云ったが、
正則は承知しないので、家康公より図書に切腹を仰付られた。

正則はこの度各軍勢の中でも抜きん出て功績が有ったとは云っても、その功に誇ったやり方
だと皆の評判となった。 勿論家康公も心外に思われた様だが、関が原での勝利直後で
残党が未だ諸国に有って静謐にはなっておらず、しかも凶徒の張本人である石田や小西等
の行方も判らぬ時節であるのでやはり御遠慮なされたかと思う族も有ったと云う。

その後上方諸大名へ恩賞を与えられる時も安芸・備後両国を正則に割当られたので忝い事
だと思われていた。 ある人がこの事を井伊兵部少輔へ尋ねたところ直政の答は、福島は
天下の為に大きな手柄を立てた人である、なんと云っても図書は家康の御家人であるので
この様にせざるを得なかった、そうは云っても誰でも一生間違いが無いとは限らないので
今度大国の拝領を仰付られ、お近づきになればそれだけ福島は今後の行動が大事である、
と申されたと云う。
その通りとなり秀忠公の代になってから正則は定目に違反してお詫びのしようも無かったと
聞く、当に直政の金言の通りである。


福島正則(1561―1624)安芸・備後49万8千石
定目違反: 広島城の無断改築を行った事で武家諸法度に違反したとして1619年福島は改易となった

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第46話 石田三成の生捕り

九月廿三日田中兵部少輔の手勢が石田三成を生捕り、大津の旅館へ連行して来たので
家康公がその経緯を尋ねられたところ、関が原で西軍が散った後、伊吹山の険路を越えて
草津辺へ出ようととしたが途中で腹痛になり、樵(きこり)の身形に替えて破れ衣を着て、腰には
鎌を挟んで岩穴の中で伏せていたところを搦
(からめ)取った由報告があった。 その時御前に
伺公して居た人々は、大謀叛人として何処へ逃げようと思ったのでしょうか、左様な見苦しい
身形に替えて今時未練の男です、と申上げれたところ家康公は、命を全くしてこそ事の目的
を遂げるのであるから、望があれば一日の命も大切である、未練と云う事ではない、早く衣服を
与えて肌を温めさせよ、食事を進め病気なら医者に看させ養生させるべし、万事不自由しない
様にせよ、と仰られた。 
当分は本多上野介の陣屋に置様にとの仰であったが鳥居久五郎にとっては父の仇であると
仰られ翌日から鳥居方へ預けなされたと云う。


鳥居久五郎(成次1570-1631)伏見城で石田一味に攻められ討死した鳥居元忠の三男、
この時三成を預かる間武士道に随い丁重に扱ったという
   
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第47話 福島家の三家老

福島左衛門太夫正則は安芸・備後の両国を拝領して入国の御礼に上られる時、家老三人の
者達も御目見えが許された。
一番にお礼に出たのは備後寒鍋の城主福島丹後でこの人はびっこであった。 次の備後
三好積山の城主尾関石見で、この人は三ツ口だった。 三番目は備後東城の城主で
長尾隼人、この人は片目だけが光っていた。
家康公の後に並んで座っていた小姓衆の中で我慢できずに笑い出す者がいた。

この御礼の挨拶が済んだ後、家康公は小姓達にの方を向かれたいへん立腹され云われた、
今福島の家老達を見て笑ったのは何事か、三人が共に片輪者であるためおかしく思って笑った
に違いない、人は誰でも何時、如何様な支障が起こり、五体が不具になるか解からないもので
ある。
その上でも今の三人は皆戦いの経験豊富で勇ましい武士であるからこそ、福島の家中でも
出世をして撰ばれて家老にまでなり、こうして家康の前へ出て礼を述べられる、と云う事は
武士の誉であり、若者にとっても羨ましく自分もあやかりたい気持ちがあればおかしい事など
無いのに、何とも思わぬ考えから今の様な笑いが出ると思うぞ、
そんな心構えでは成人しても世間で通用する事は難しい、一般に武士は思いもしない
片輪者になる事も納得しなければ奉公はできないぞ、よくよく考えてみよ、と仰られ二三日の
間機嫌悪くなさっていたと云う

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第48話 三河守の腫れ物

三河守秀康郷は若い時、腫物の病気で久しく引込んで養生されていたが、快気したので
病後のお礼として登城される事になった。
家康公もたいへん悦ばれ、もてなしの用意を仰付られ、当日になり三河守殿が登城された
ところで家康公は御傍衆を呼ばれて、秀康の面相は以前と通りか、と尋ねられたので、特に
替った事は御座いません、申上げたところ、鼻の形モ替っていないか、重ねてお尋ねになった
ので、お鼻の形もいつもの通りで御座います、唯お痛みなのでしょうか薬を付けて居られます、
と申上げれば急に御機嫌が悪くなり家老衆を呼出して云われた事は、三河守は久しく病気であり
元通り快復して今日登城する事は私にとってもたいへん満足だった、そのため皆も知っている
様に十分にもてなしをしようと思い猿楽まで用意した、 ところが私の心に納得できぬ事がある
ので対面はしないので直ちに退出せよ、と仰られた。

家老一同は色々お詫びごとを申上げたが、中々聞入れられず強く立腹されているので、仕方
なく上意の趣を秀康郷に申上げれば非常に困惑されたが、当座に好転は難しい様子なので
その日は退出された。 旗本衆上下はこの事実だけで、誰一人その理由を知っている者は
なかった。 三河守殿もたいへん気にされ御目見えを是非、とお願いしたが家康公は聞かれ、
私も久しく対面していないので一時も早く逢いたいと思うが、再度と云っても先日の様な勿体を
付けて登城するのであれば逢う事は出来ない、との上意であった。 

皆は、それは如何様の事でしょうか、いま少しお話を承れば秀康公へ御異見を申上げられる
のですが、といえば家康公云われるには、いやいや、何事の異見と云程の事でもないが、
秀康が今度の病気で鼻が変形して見苦しいとの事は私も既に聞いていた事である、ところが
先日登城の際に鼻の形が良く見える様にと思い薬を付けたと聞いた、腫物が治ったので
あれば薬を付ける必要はない、鼻の変形を隠そうとして貼付薬を使う事は三河守らしくない、
一般に美男を好むのは公家か町人の事である、形が醜い事を気遣う必要は全くない、人間の
病気には色々あり、目玉の抜け出る事、口の歪む事、手足の指が萎縮する事もある、是等は
全て病気であるから、どんなに見苦しくても少しも恥ではない。

そこで家康の子に生れ三河守と呼れて一軍の大将を勤める者が鼻の形が醜いなどを気にして、
張薬を付けて見栄え良くするのは以ての外で汚い心である。 一般に大将が好む事は家中や
その家来達まで聞き伝えて真似するものであるから、ちょっとした事でも人の上に立つ者は気を
つけねばならない、秀康のやり方を家康も尤と思ってか見ぬふりして気持ちよく対面と遂げた、
と旗本達の蔑みもあると思い急に対面を止めたのである、この旨をよくよく三河守に言い聞かせよ、
と云われ次の面会の日時をも決められたので、秀康郷も一入(ひとしお)忝く思われ登城した
ところ、前に支度された以上のもてなしで秘蔵の道具等もいろいろ与えられた。


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第49話 山内一豊土佐一国拝領の事

山内対馬守は土佐の国全体を拝領して、入国後のお礼の為大坂へ上り西の丸へ登城の際に
家康公は面会され万の物語をされ、土佐の国は何拾万石程とご存知か、とお尋ねになった。
対馬守は承って、この度は在国の間も十分無かったので、指示を色々致しまして領分の事は
先ず概略を報告させました、地元を良く知る家来が申しますには弐拾万石内外有るはずとの
事でした、と言上されたところ家康公は手を打たれて、それは予想以上です、太閤の時代に
伏見で長曽我部元親が登城する時、その体裁などから見て五拾万石以下の身上では
できない事と皆が思っていた事である、従って土佐の国は海も渡らねばならないし大変だが
あなたにと考えていたものです、との上意だった。

対馬守は承って、只今の上意の事は私身に余るものであり、子々孫々に至る迄伝えて忝く
思うもので御座います、とお礼を申し上げ感涙を押えて御前を立たれた。
この上意を伝え聞いた人々は、山内はこの度それ程の軍功もないのに遠州掛川六万石から
土佐一国の主を仰付られた事でさえも福島や池田等の諸家以上だと思われていたところに、
今日の上意を聞き、よくよくお考えに叶った事があったのだろうと評判になった。


山内対馬守: (一豊1546-1605)関が原の一戦の前下総小山での会議で真先に城も全て
家康に献上して味方する事を表明し、そのため他の大名達も追従せざるを得ず家康勝利の
原因を作ったといわれている。

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第50話 大野修理の本領安堵

関が原の一戦後、土方勘兵衛雄久と大野修理両人にも元の領地を安堵する事を指示された。
この両人は以前に家康公が伏見の御城より大坂へ来られた時、五奉行の指示を受けて
家康公殺害を実行しようとした連中なので、幾らこの度は味方として奉公したとしても前の
罪が重いので一命を助け置かれるだけでも大変な御慈悲であるのに、本領安堵迄を許される
べきでない旨、密に申上た人があった。

其時の家康公の上意は、其方が云う事も一理は有るけれど、この両人は五奉行の指示で
家康さえ殺せば秀頼の為になると一筋に思い入れての事である、故に私にとってこそ敵で
あっても、秀頼為には忠義の者である、特に今度の戦で修理は安中より出て浅野左京太夫と
共に岐阜の城を攻めたが、関が原合戦の時には石田に向かって人よりも先に矢を射掛け
たくて、浅野に了解を得て先手の福島の部隊に参加し、自身で河内七郎左衛門を討取った、
土方についても早々に水戸より出て私の使いとして加賀に行き、前田利長と強力して味方の
有利となる様取り計らった、これも又立派な働きである、過去の悪事を問わないが良く、まして
過去に大坂城中で家康を襲う計画も秀頼の為に誤った事であり悪事とも云えない、
そのような理由でこの度の恩賞から外す理由は無いと云われた。

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第51話 山名禅高の羽織

或時山名禅高が確かに古い羽織で所々破れたものを着用して、御前へ出られたので家康公は
御覧になって、禅高その羽織は、と云われると禅高は承って、この羽織は万松院義晴公から
拝領致しましたものです、申し上げられるのを家康公は聞かれ、さすが山名殿、感心なもの、
と思われと大変感銘を受けられた。


山名豊国: 号禅高(1548-1626) 山名豊定の子 戦国時代武将で秀吉の御伽衆、
後家康に属し1601年但馬国に6700石、交代寄合
万松院: 足利義晴(1511-1550)室町十二代将軍在位1521-1548

52
第52話 台所役人常見の香物

家康公が駿府の御城に居られた頃、台所の全てを任された役人に常見と云う人があった。
或時奥の方に勤める女達が集まって話している中で、こんなに何もかも塩辛くては困った事
よ、いつになったら気持ちよく口に合う物を食べられる事やら、と囁き合っているのを家康公が
物越に聞かれ、その女中を呼ばれて、今お前達が言っているのは何の事か、尋ねられれば、
いや大した事ではございません、御台所より出され私達に下される物の事です、と申上げた
ところ、それはどの様な事かと、尋ねられたが誰もが言い兼ねているので更に御たずねに
なった。 
そこで幹部女中が申上げるには、近頃の事では御座いませんが以前より出されます味噌や
漬物がたいへん塩辛いのです、私達の様な年配の者でも食べにくいものですから若い人達は
一口も食べられない様な状態でございます、 私からも賄いの常見へ度々申し入れて
おりますが聞いてくれません、その事について今隣の部屋で話し合い、常見は強情な事よ、と
皆で笑っていたものです、と申上られた。

家康公は聞かれ、それは確かに皆が困っているのも理由がある、今後はそのような事がない様
にしてやろう、と言われ表の間へ行かれ常見を呼んで云われたのは、台所から出される味噌・
香物等が塩辛すぎて奥の女達がたいへん困っているようだが、今後その様な事が無いように
指示せよ、との上意を常見は謹んで聞いた上で、脇指を外して御前近くへ寄り、耳元に口を
近づけ何やら暫く囁いていた。 家康公も笑いながら頷かれ、彼是云われる事もなく常見は
御前を立去った。

御前近くにいた人々には何事を申上げたのか想像も出来ず、暫くしてある人が常見にその時
の事を尋ねたところ常見は答えて、大した事ではありません、女達は一般に食欲旺盛です、
今のまま塩辛くしてさへ大量の味噌・香物が必要ですが、上意の通りに塩加減を良くして
食べさせたらどんなに沢山食べるか検討も付きません。 そうなると年間にしたら大変な出費と
なりますので今後女達が内々に申上げる訴えなどお聞きにならないように、と申上た迠です、と
常見は語った。 
今駿府の城中に常見蔵と云う蔵があるのは常見が預かっていた蔵の名であると伝えられている

53
第53話 大仏よりも真直ぐな政治

或時家康公の御前で山岡道阿弥・前羽半入等がお話を申上げて、天下を治められる方は
末世迠お名前が残る様になされるのも当然と思います、太閤秀吉公は都の内に大仏殿を
建立なされたのでお名前は何時までも残ると思われます、と申上げた。 
家康公が云われたのは、確かに皆の言われる通り大仏殿は末世に残る太閤の名誉である、
しかしながら家康はなにも構わない、私の後においても天下が二代或いは三代と替らぬ国風
で真直ぐな政治が残るように工夫・思案をする事は大仏を何体建立する事にも遥に勝るもの
と思うぞ、と上意があった。


山岡道阿弥 (1540-1603)三井寺僧だったが還俗し、足利義昭、信長に仕える。信長死後
剃髪、秀吉の御伽衆、以後関が原では家康に付き甲賀衆の総帥として尽す、戦後9000石

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第54話 主人の悪事を諌める事

駿府の城で家康公が咄衆ヘ上意有った事は、一般に主人の悪事を見て諫言をする家老は、
戦場にて一番鎗を突き入れるよりも遥に勝れた心掛であると思う、 その理由は敵に向かったら
勇敢に戦い自分の命を庇ってはいけない事である、しかし勝負は時の運次第であり相手を
討つこともあれば、相手に討たれる事もある、仮令討死を遂げても末代まで名を残し、主人にも
惜しまれれば死んでも本望である、運良く相手を討てば勇者としての名を挙げ、主人にも
悦ばれその上恩賞を得て家も富み、子孫繁栄の元にもなるので戦場での働きは死んでも
生きても損にはならないものである。

ところで主人の悪逆不動に逆らって強く諫言をする時は、十のうち九ツ半までは危険な勝負
である、理由は主人が悪事を好む時の心は逆に善事を嫌う、このために昔の人も、良薬は
口に苦く、金言は耳に逆らうと云った様に、主人の悪事を見逃しにせずに異見を云う家老は
疎んぜられ、自分の傍には近づけぬようにするものである、そうなると主人に諂い、追従を云う
連中が申し合わせてその家老のアラを探し折りに触れ讒言する、 主人はそれを真実と思い
益々心を隔て目見得もしなくなる。 そうなると大抵の者は残念に思い、主人を見限り、見放す
気持ちになりそれ以上は用心の為意見する事を止めるか、仮病を使い引篭もり隠居を願ったり
して、物事にこだわらず過ごすものが十人中八人か九人である。 
それに反して主人の機嫌が悪いのにも構わず、一家の長としての道を守って、主人を諌めな
ければ自分の責任と思い込み、何もかも忘れ、幾度も幾度も烈しく諌める様な家老の場合、
最後には主人による手討に逢うか、又は押篭られて身上や命まで失い、妻子までも苦労させる
事は明らかである。 この事から考えて見れば戦場の一番鎗は却って簡単な事では無いか、
との上意だった。

これに関連して家康公が浜松の城に居られた時、ある夜本多佐渡守其外三人が用事で御前ヘ
召出された時、中の一人が鼻紙袋を開け一通の書付を取出して封を切って自分自身で御前ヘ
持参して差上げた。 家康公は御覧になり、夫は何か、と尋ねられれば、以前よりずっと私が
考えていた事などを書付けて置いたものです、憚りではございますが、御前の参考にもなるかと
思い差しあげる物です、と申上げたので、それはそれは感心な心掛けだな、と云われ、
佐渡守よ、遠慮なくここで読んで聞かせよ、と云われたので、畏りました、といって数ケ条の
書付ヲを読み終った。 一ケ条読み終わる度にもっともな事と相づちを打たれ、是に限らず
今後も思う事があれば遠慮なく聞かせよ、と上意があったので、御聞届戴きました事忝い事です、
とその人は額づき用事も済んだので御前を去った。

佐渡守は外用もあり後に残って居られたが、家康公が云われた事は、今の者が読聞かせた
書付に付いて如何思うか、尋ねられたので、佐渡守は、一条として御前のお役に立つものは
無いと思います、と申上げれば家康公は手を振られ、いやいや、あれはあの者の考えを
精一杯書付たもので気を使わずに良い、私も心からなるほどと思う事は無いが、普段から
考えていた事を文書に調え、懐に納めて置き機会を見て私に見せようと思う心掛けは感心な
事である、その内容が役に立てば使うし、役に立たねば使わないまでの事である。 

一般に自分自身では間違っていても分らないものである、しかし小身の者は親しい友達・
傍輩・学友などがあり、互いに悪事があればけん制するので、自分の悪事を人に言われて
改める事が多いものである、是は小身の者の得になる所である、一方大身の者は皆それぞれ
に気位が高いので友達・明友と会って気安く話し合う事がないので自身の善悪を検討する
事がない、毎日毎晩の話しに参加する者は皆家来達ばかりなので大抵の事はごもっとも、云う
以外は云わない。 従って少々の間違いは間違いとも思わないので、改める気持ちもなく
そのままになる事が多いものである、これはつまり大身の損になる事である。
およそ人の上に立って部下の諌めを聞かずに国を失わなかったとか家が断絶しなかった
例は古今とも無い、と言われた

佐渡守はこの事を覚えていたので、ある時子息の上野介に語り聞かせて家康公を思い出し
落涙した。上野介は、その書付はどんな 文言でしたか、又その人は誰ですか、と聞いたが
佐渡守は、その書付の文言もその書き主も其方が知ったところで何の役にも立たない事だ、
と云われた。

岩淵夜話別集巻四完

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