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   小林誌之序
 (原文は万葉仮名)
呉竹(クレタケ)の世々に語継ぎ云い継来る事等も、浜千鳥書き連ねたる跡にし有らでは、万に
よくは伝わらぬ物にしあれば、往古(イニシエ)より諸国(クニグニ)に史人(フミヒト)を置きて、
何にまれ由緒有事は並べて物に記せる例(タメシ)になむ有りける、然(サレ)ば此郷(コノサト)
の事件等(コトドモ)、何くれと記したる記(フミ)の無きにしも非らねど、或は漏たるも多く、或は
誤まれるも少なからず、適(タマタマ)其名有ても由来詳(ツマビラカ)ならで、かにもかくにも
足らざる状(サマ)なるが、己常に飽かぬ事に思えば、別(コト)に物して、浅茅原委曲(ツバラ)に
せま欲するつけて、若かりし頃より去る筋の記せるものに心を留めつゝ、其彼(ソレカレ)と月草の
模写(ウツシ)留めつるが、賎手(シツダ)巻数多く積りぬれば、其を分別も無く、唯一つに集め
綴りしは天保の初めなりしを、当昔(ソノカミ)公事(オオヤケゴト)の暇(イト)なき而已(ノミ)ならず
将(ハタ)東の京に度々まう上り等して、国に帰りてもさりぬべきほだしがちにて、其事となく
数(アマタ)の年月過ぎにしを、此春は不意(ユクリナク)も病に罹りて、其床中の思はくには、
此を得果たさぬ事の本意なきは更にも言わず、若(モシ)朝露の命消果てぬには、共に空しく
失せなむ事の慨(ウエタ)くて、いかで其大概(オホカタ)をだに正し置きてんがなと思い
発(オコ)して、痛気(イタツキ)の心よからぬに、勉めて筆執る事とは成りぬ、

其は先ず霊幸布(タマチハフ)神の瑞垣(イガキ)を初め国・所・山川等の古(フリ)ぬるを尋ね
廻りて、山寺の荒れたる跡さへ探り、亦其所の形図(アリカタ)を著し、玉鉾の道の遠近
(オチコチ)、物のあり員(カズ)をもよみあげ、昔兵士(モノノフ)が武き挙動(フルマイ)ありし
跡処より、世に名ある人の奥基(オクツヤ)にいたるまで遠つ昔の慕(シノバ)るゝ事など、其余
さまで用なきをも都て我郷に係(カカ)らいし事の限りは、残るくまなく取りて書連ね、条々の傍ら
には正しき神典を初め、所在記を許多抜出し、又世々の識者の説より、己が思いよれる事等に
至る迄取交へ、細註(コガキ)をなして、小林誌(ショウリンシ)とは号(ナヅ)けし也、

猶広く問い求め、深く考え糺して、思い得足らむは次々書加えてむ心緒(ココロバエ)也けり、
是は強(アナガ)ち人に見すべき料(タメ)にも非ねど、邑内(ムラウチ)の人にして虚数(ソラカゾ)
ふ大凡(オオカタ)をだに得知らで過ぬる予子等(ヨガコラ)の輩、石上(イソノカミ)故(フルキ)を
尋ぬる便にもなりなむものと、固より劣(オチ)なきみの、況して疾により心急かれて、とみに物
せし業(ワザ)なれば、誤り漏たる事の多有らむは著しければ、見む人いかで取直し、補うては
此上なき幸ならむかしと斯く記せるになも、時は明治と言う御世の二年と言う年の三月、
                                              赤木越智通園


  小林誌目録
   巻之一
 一 日向国・諸県郡・真幸院・小林郷等之名義
 二 島津庄真幸院郡司系図並伝
 三 歴世小林地頭
 四 小林郷之周廻
 五 自小林至鹿児島及近他郷他邦境遠近直法
 六 高員総計
 七 士族高員
 八 人員総計
 九 牛馬総計
 十 家部戸数総計
 十一士人家部並姓氏
 十二小林全図
 十三足軽家部並苗字
 十四社家並神社付家部苗字
 十五下人家部人躰
 十六増人家部人躰
 十七転住者家部人躰
 十八居住者家部人躰
 十九村落
 二十町之部
 廿一穢多

 巻之二
 廿二 神社部
 廿三 山部
 廿四 池部
 巻之三
 廿五 古跡部
 廿六 古城部
 廿七 古戦場部
 廿八 寺院部
 廿九 古墳墓部
 三十 木浦木遍路番所
 三十一橋部
 三十二産物

小林誌 一之巻

   
一日向国諸県郡真幸院小林郷等之名義
日向国は古事記ニ云、伊奘諾尊、伊奘冉尊、筑紫島を生給段に此島も身一ニ而五面有、
面毎ニ名有故、筑紫国を白日別一ト謂、豊国を豊日別ト謂、火ノ国を速日別ト謂、日向国を
豊久士比泥別ト謂、熊曽国を建日別ト謂云々、
日向の名義書記景行天皇巻ニ十七年三月、子湯県遊干丹裳小野ニ幸、時東望之、
左右ニ謂、曰是国也、於日出方ニ直、故其国ヲ号シテ曰ク日向也云々、六人部是香云、

日向てふ名は高千穂の峰より負ひて皇孫命の天降坐ざりし以前より常に呼来つる称なること、
猿田彦神の天八衢に迎給へりし時の御言に見えたるを以て論なし、八田知紀云、日向てふ
名義の発起は襲峰にもあれ丹裳小野にもあれ、其地直に日に対ふと云意より負へる名にて、
日向は日向ひの義にこそよるべけれ云々いはれたるは然ることなり、扨推古天皇の御歌に
辟武迦武は必牟のかな也 古は字のごとく比牟迦と唱へしならむ、和妙抄に比宇加とあるは
音便にこれより後の唱なり、清少納言か冊子にも比宇加とあり、

但し日向国は今の薩摩・大隅かけて本は日向一国にして、所謂熊曽国といひ後亦隼人国とも
唱ひ、又日向ともいひしを日向の国ノ中に薩摩といふ地名ありて、後に薩摩の国は建られたる
なり、其年間不詳ねと大宝より霊亀までの間なるへし、 其故は大宝二年の記に唱更(はやひと)
の国とありて、養老元年の紀に始て大隅薩摩二国の隼人とあるなり、大隅国は元明天皇の御世
和銅六年四月、割二日向国肝坏曽於大隅姶良一、始置二大隅国一云々と見ゆ、

扨国といふは既に神典にも挙たる如く、神代よりの名なるが、本居翁古事記伝に云、一国を
二ツに分ケ又二国を一ツに合せなど御代御代に彼レ此レ変りしもありつるを、嵯峨天皇御代
弘治十四年に越後ノ国を割て加賀国を建られて六十八国此内壱岐と対馬とは大島と云て国と
云はず に定まれる
後、今の如くにして永く革れることなし 国々の名を一字を取て某州と云ことあるは、中ころ、
なまさかしき昔の漢国の定めに倣ひて云初たる、私ことにして公の御制にはあらず、皇国には
州と云う御制はなきことなりといはれたるがごとし。 

今薩摩国総廻百三十里二十六町十六間三尺、高三十一万五千五百石 (欠字)
大隅国百十五里十一町四十間四尺、高十七万八白三十三石四斗九升一合、
日向国二百八里三十三町の内、九十五里七町十間三尺、高十二万二十石五斗八升、
総計邦君ノ領二百二十六里四町六尺今に至りてなほしかり、 

○諸県郡は八代、須志田、綾、向高、真幸、庄内、志布志、大崎也、和妙抄に諸県郡は
牟良加多(ムラカタ)とあり、本居翁の説に何れの古書にもみな諸県と書たるを思へば、本は
毛呂賀多(モロガタ)なりけむを、牟良(ムラ)とはやや後に訛れるも知りかたけれど、如く
和妙抄に依れり、又賀多(ガタ)は亜賀多(アガタ)なれば必ず濁るへしといはれたり、按に
諸は毛呂々々とも訓み、唯毛呂とも訓むなり、牟良と唱は音通へばなり、県は阿賀多と訓む
字なれど凡て某県(ナニガタ)と云フ時は多くハ阿を省く例なれば、今毛呂賀多(モロガタ)唱も
然り、されば阿賀多は上(アガ)り田にて元は畠の事なりと有る如く、河内に大県、美濃に方県、
山県、信濃に小県、但馬に二県、安芸に山県、日向に諸県なと云郡ノ名其外郷・里の名にも
多かる、皆本は畠より負るなりとあり、按に此諸県も上古(イニシエ)牟良賀多と称ふ一ツの地名
ありて後に広く今の郡の名には成りしならむ、其は即チ我が郷に然呼ふ村名あり、委くは次の
真方村の下に弁ふへし、さて郡とは記伝に幸徳天皇の御世に至りて、其ほどまて県と云ヒし程
の地を皆郡と名けて天下悉く国を分ケたる名を郡と定められて、某国の某郡と云なりと見えたり、
扨日向五郡とは臼杵、児湯、那珂、宮崎、諸県をいふなり、或人云、諸県は皇国第一の大郡
なりとぞ、

○真幸院は延喜兵部式諸国器杖の条に、真斫(マサキ)と作るは即此地なり、上代には飯野・
加久藤、加久藤は飯野ノ内久藤村なりしを割て加久藤郷を建、久藤を加へて加久藤と名つけ
給ふとの旧名にてありしと思はるゝを、中古已来吉田・馬関田・加久藤・飯野・小林の五郷を
真幸院とは称へり、其は院司を建られしより、院の名となりて双方隣る地、此の院に隷りし
ならむ、
宝光院寺記ニ云、伴姓北原家三ノ山に世々居住而所領知之分内を惣而真幸院ト称ス云々、
名義は我学兄稲留翁云、真は例の誉ことばにて幸といふことならん、其は物産の宜しき地
なればなりと謂れたれど、尚字義に因られし説にてよくも当たれりとは思えす、後醍院直柱翁
は前後野岡つづきたるを真幸と云フと云はれ、和田秋郷翁の説に真幸は諸県郡の地名にて、
延喜兵部式日向国駅馬条に真斫と作るは即チ此地にて、中古已来此を真幸と呼ひ、其地今
五郷に渉る、謂ゆる吉田、馬関田、加久藤、飯野、小林にして、此等其ノ院に隷(ツケ)るもの
なり、俗に此地等を真幸表五箇郷と呼べり

今按に建久八年日向国図伝帳注文に此書の奥には右去元暦年中之頃、武士乱逆の間、
於譜代国之文書ハ散々取失畢、雖然寺社庄公図田、大略注進如件、建久八年六月日、
日下部依包権掾矢田部恒包権介、日下部盛真権介、日下部行真権介、日下部重真権介、
日下部宿祢盛綱と有り、此は大隅国桑原郡正八幡宮と云社家、其家蔵にして後りに応永
二十八年二月二十七日忠敦とあり諸県郡内真幸院三百二十町殿下御領島津御庄寄部
千八百十七町の内とす地頭右兵衛尉忠久と見え、即チ我島津家の御太祖なり また同郡内
吉田庄三十町、同御庄一図二千二十町の内とす、
上の寄郡なると合わせし田代三千八百三十七町に作れり これも地頭は同し、また同郡内
馬関田庄五十町安楽寺領六十三町の内とす 地頭須江太郎と有るを以て見れは、吉田・
馬関田は当時(ソノカミ)共に一つの庄にして真幸院に隷りとは見えす、

扨此真幸てふ名義ハ神武天皇御紀に、天皇腋上(ワキカミ)の嗛間丘に登坐て国形を廻望給ひ
雖内木綿之真迮国、蜻蛉(アキツ)之臀呫(トナメ)せるが如しと詔宣へる真迮国の義にて、迮は
狭と同じく今の幸ノ字はもとより延喜式斫に作れるも共に仮治なり、然るを此幸の字に付てくさくさ
論説ある中に、此地他に勝りて美穀豊熟の地なるから真幸の称ありと云ふ説も有れど此は
信られず、此地もとより美穀豊熟なるは土地の然らしむる所なり 抑此地は小林を除きて西南の
方に栗野嶽、飯盛嶽、白鳥山、甑嶽、韓国嶽、夷守嶽此は小林の地にて、吉田、馬関田など
よりみたらむには東南間とも云べし、さて此嶽ともは霧島所謂高千穂の山脈に係るものなり 
東北の方は肥後の球磨山に続ける大山脈ともなるが、其ノ中に白髪嶽球磨の山中にあり
狗留孫嶽飯野の山中にして熊曽嶽の転略なること疑なきものをやそれより戌亥ノ方に廻りて熊峰
般若寺坂など称ふ険しき阪路とも塞り此の両所は栗野と吉松との境にして皆東北なる球磨の
大山脈に続きたり 其ノ間に内木綿(ウツユフ)の真狭如して包れたる国形なるから、上代の神人
等みそなわしのまにまに告出られたる称(ナ)にやあらむ、
然るは其真狭国てふ地ともは、上代には今大隅国桑原郡に属る吉松てふ地より飯野に至るま
ての郷々を都て称つらむか、

元暦以来将家の沙汰として院司を置れてより今の如く称ふことゝはなりしならむ、其は同郡なる
栗野てふ地より吉松の如く出むには、まづ其処の境なる熊峰の阪路甚険しくて、大隅と日向との
国境は此峰にこそ有らめと見ることなり、さて吉松より飯野まで其間に吉田馬関田加久藤と次々
に続けり 東西に長く南北に狭くて東西五里計にて南北は一里に足らざるところも多かるべし 
其間はいと平かにて阪路とても無く、なかに大河一筋流れたり左右は何方も田地にして、此の河
飯野大河平てふ山中より流れ出て、大隅なる菱刈郡の郷々を通り、薩摩の山北祁答院など称ふ
処ともを流れ通り高城郡水引に至り、それより高江の久見崎てふ処ニして西海に入る、謂ゆる
川内川これなり 扨斯の如く西南は霧島の大山脈と東北は球磨山の大山脈とに引包れたる地形
なれば、実に内木綿の真迮国とも称ふべき状なり、其は此地を踏て見たらむ人は大方かく有とぞ
諾(ウベナ)ひつべし、 但し予がかく云へるを強誤ぞと諾はざる人はいかにせむ、
此はただ我並々神の御典を熟く読み窺ひ、古の道を以て今の有を御し、熟く道紀を守り、上代
の事実の跡を考への及ぶ限りに弁へ知らむとする人のみぞ諾ひなむや、

斯て其吉松を今は除きて小林を真幸院に隷(ツキ)たれど、其は此院の称有りし已来の事
ならむか、然るは彼飯野より小林に出むとするにも、其境よく派(ワカ)れて紛れなく見ゆ、但し
今の街道は後の新墾道にて、当昔(ソノカミ)なるは上江通とて上江は飯野の地なり 一口ある
谷峡の阪路を登り小林の南西方村と云ふ地に出づ又今の街道もやゝ阪路を登上りて広野に
出なり、小林の麓、細野駅まて三里の野路にて、此野を小林原と呼ぶ、   

扨此小林の地は西方の高千穂の山脈高く聳え即ち夷守嶽の麓にして、東に野尻、南高原に
疆(サカ)ひ北は即飯野郷なり、東南遥かに打晴れて彼ノ真狭国の称に預る地形に非ず、
兵部式に夷守とあるも即ち此地なり、然るを此地にて真幸院に属たるは何の頃より然なりと云う
こと今知難く、此は定めて中古已来諸国各々将家の沙汰として院司或ハ庄司なとゝ云ふを
置れたるより、此地真幸の飯野に隣るゆえ、彼ノ院内に属したるものか此は天智天皇以来、
神代より神ながらに伝はり来りし封建の制を止められ、郡県の制に改革て郡司等の職掌を
置かれたれど、保元・平治以来終にその制廃れ、天下一統武家の世と変り、又元暦以来鎌倉
将軍家に至りて、惣追捕使の今に転り、それよりして諸国に守護・地頭を置かれ、彼郡司の
職に倣ひて院司又庄司等の称起れるものなり、封建、郡県の事は予が巷街弊談に論じ置きつ

扨其院とは当時国々郡の中なる郷・村等を幾つにても方限を分けて取合譬へは此真幸院に
今の如く五郷を属けしとおなし 其郷村の中に何地にあれ府舎を興(タ)て其館を即チ何ノ院、
某ノ院と称ひ、其を支配して知たる職を院司とは称ふなり、其ノ院ノ下司と称ふもあり 然れバ
院司は其館に就て公収を支配し、此れを官に致すを以て任とはせしなり即ち今の郡代又
代官等の如し 

斯て此真幸は既にも論べる如く小林を除きて 吉松より次々飯野までの五郷に渉れる大名と
思はるれど、後には一つの地名と成れるにて其々延喜の頃此の地に駅の有りしに而も知るべし
然るは其地今何れならむ知り難けれと、若しくは今の加久藤飯野両所の間ならむと思ふ由あり、
其は即チ上に挙たる建久の図田注文に真幸院三百二十町、吉田庄三十町、馬関田庄五十町と
有るを以て見るに、馬関田と吉田とは各々一つの庄にして真幸院とは別なり、然れとも広く渉り、
当昔真迮と呼たらむは上に論へる如く決て吉松より次々吉田、馬関田、加久藤、飯野の五所を
称ひしなるべし、此の地形より出たる名称にて、これ又既に論へるが如く、斯て其真幸の地名
一処の地に約(ツマ)りて、其処に駅舎を建つればこそ、彼兵部式に真斫と載されたり、これを
見ても其頃既に一所の地名となりしことを知るべし、 又図田帳注文なるも院とは有れと一ツの
地名の如く聞えたり、心を平にして、熟く弁ふへし、又小林の駅も当時一ツの駅と見えて兵部式
に夷守と載られしは即ち此地なること既に論たるか如し、是又当時は真幸の地に非ること著し
かりきと委く論られたるは然ることなり、或人云、一向僧の党が私書に長谷と記し在るは飯野より
吉松辺まてのことなりと云へり、此も地形を以て仮に名付たりと見えて実に宜なりけり、

○小林郷は小林城の名あり、亦慶長頃まては小林村と呼ふ村ありしを今は真方村に属て、村名
には呼ねど小林門と称ふ門号有り、又古倍志波留(コベシバル)また古倍志田万(コベシダマ)と
此は林をへしと俗に云いひ慣しと同じくて小林原なり、田万は千町田万某田万と云ふとおなじく
して、田面(タノモ)なり、タノモのノをムとはねてタムモと常に云へは、ムモはムに約(ツ)まる故に
むをまに通し云うならむ 呼ぶ田地もあり、
扨小林城の名義は小さき林あるに依り然唱へしならむ、然れは城の名より村名ともなり、後に郷の
称とはなりしなり、邦主の管轄と成て後に城の名を用ひて小林と改められたりとは云伝へたれど
年月詳ならず、文禄年間の諸書にも尚三ノ山とありて、慶長よりこそ今の小林とは称へるなれ、
太古の郷ノ名なる夷守も今も比奈毛里と称ふ処広からずといへとも、田畠等の字(ナ)にもなほ
比奈毛里とあり、亦此地に夷守嶽あるを以ても顕かなり、況して延喜駅馬式に亜揶今綾に作る
野後今野尻に作る夷守今雛守に作ると路次の次第を載られたるにても知るべきものをや、
猶夷守の名義ともは雛守神社の下(トコロ)に人々の論もあぐべし、

扨或人の云へる如く小林は大郷なれば、古昔公より撰れて示されし文にも大郷の部に
収レられたり、其文は○大郷と題して出水、加世田、頴娃、指宿、谷山、志布志、末吉、
高岡、大口、伊集院、小林、国分、川辺、諸県郡高城、串良、高山、小根占、
○中郷と有る下 伊作、甑島、田布施、阿多、大根占、大姶良、鹿屋、桜島、姶良、財部、
穆佐、大崎、溝辺、横川、栗野、吉松、加久藤、飯野、本城、山崎、羽月、大村、樋脇、
東郷、水引、高城郡高城、野尻、阿久根、高江、恒吉、市来、串木野、隈之城、長島、鶴田、
鹿児島郡吉田、蒲生、帖佐、高原、福山、清水、踊、曽於郡 
○小郷と有る下 馬関田、松山、百引、高隈、牛根、坊泊、久志、秋目、百次、薩摩郡山田、
中郷、野田、高尾野。山野、郡山、諸県郡吉田、須木、高崎、倉岡、山之口、内之浦、勝岡、
式根、田代、日当山、川辺郡山田、山川、曽木、姶良郡山田、綾、湯之尾、馬越 
已上云々とあり、    

今按に寛文三年より居地頭を止められて後は、鹿児島より係ての地頭となりしか、其地地頭所
に参入らることあり、始めての来越を初入部と呼ふ、それに就ては諸事の式もあることにて
饗応の事は更なり、万にいたり此大中小郷に応し計らふへき料(タメ)に如此も部を別られて、
初入部ノ度毎に沙汰有りしに見ゆ、余にも差別(ケジメ)なとを定めて副られし書もあれど、
こゝに用なければ省つ

又三ノ山ともいふ三ノ山は矛峰、韓国、夷守此三山より名つきたらむと或人述へりしを並穂翁
も諾(ウベナ)はれたれど、其は夷守こそ小林にのみ属るなれ、矛ノ峰、韓国嶽は余にも跨り
たる山なれば、尚物遠き説なるへし、然思はれしは即チ、此邑に三ノ山、又道ノ山てふ地名
ある事を心着かれたりしならむ、其ノ三ノ山と云へるは、矛ノ峰の乾に当たり半里余に両部ノ池と
号ふ池の辺に、往昔三ノ山と呼山ありしと見えて旧き図などにも其ノ名記して有るなり、其ノ池も
往古の燃跡と思はれ、又享保元年九月、両部ノ池此名義ともは池の下にいふべしの間より震火
発す云々見えたれは、燃穿(モエホゲ)ざりし当昔(ソノカミ)は疑なく三ツ計に派(ワカ)れし状
なる一ツの山ありて、然名には負ひつらむを如此稍々に炎穿、又文化に燃出、巓(イタダキ)も
無くなるに就て、三ツ山の名は如く失て今は新燃嶽とは呼ぶなり、委しくは峰部池ノ行にも云ふ
べければ爰には其大概をいふなり されば享保已前まては其ノ山を三ノ山と呼ひて猶小林郷に
属れは、此名より郷名に負ひしにもあるべけれと、謂ゆる霧島の大山脈の真中とも謂つへく、
況して大隅国曽於郡郷に隣り、麓よりは遥に隔り五里計も山上にして、只に一ツの山ノ名なり
けむと思はるれはおほつかなし、
又道ノ山三ノ山ともと呼へるは夷守嶽の山足(フモト)に有りて、今は俗に吉富城山と呼へとも、
旧くは三ノ山城委しくは城の下にもいふべし と呼しは物に誌したるも多くして高サ五十歩計、
南北一町余、東西には長く尾を引きたる様なるを、中四町ほとを放(オキ)て双方の道路あり、即
霧島山に麓より上り到らむには此街道ならでは有ることなけれは、彼霧島山に対(ムカエ)たる
道ノ山の意ならむか、此地北南ノ方は田地にして、曽於郡、高原なとより飯野に通ふ道筋にて、
上代景行天皇の高屋行宮より球磨山のやうに幸坐(マ)し路ノ次も即チ是なるへけれは、旧ハ
道ノ山てふ意もて名けむを、亦道ノ山とも作るもあれは、ツとチは同音なるから、美津乃夜万
(ミツノヤマ)と云慣れしならむ、
然れは既に云し如く、小林城と呼名を用て後に郷ノ名を小林と改めしと同じくて、上代には夷守
なりしを当昔(ソノカミ)三ノ山城の号を採りて如此は郷ノ号を三ノ山とは為せしならむ、何れにも
あれ此ノ二タ地の三ノ山の号より出しことしるへし、

扨出雲風土記郷ノ字は霊亀元年ノ式ニ依リ、里ヲ改テ郷ト為スと見え、後の備中風土記にも
霊亀年中云々とありと、我師平田大人の古史徴に説たり、斯て国は広く郡県なと云ひしは固より
狭く、又郷村なと云は其より狭きを云ひて、往昔より余りに違ふことなくして、凡て国の小分の
名に用ことにはなれるなり、但し本居翁云、郷とは共に佐刀(サト)なれハ、古へより一ツなり、
字に就て後の分ちをいはゝ、幸徳紀及令なとに里とあるは、即チ郷のことなるに、出雲風土記
なとにては郷ノ内に里あり、其外にも其ノ郷之其ノ里と云ることあり、又郷を通はして里と云ること
もあり、さて古へに国又県と云は、其凡ての地を云名、牟良(ムラ)又佐刀(サト)なとは人居
(ヒトノスミカ)を云名にて、元其ノ趣キ異なるか、凡ての地は広く人居は其ノ内に在て、狭ければ
其広キ狭に因りて、おのつから大キ小キ名となれるなり、さて又牟良(ムラ)と佐(サト)との
差別(ケジメ)は大かた後にも云も、同しほとの名と聞え、佐刀は大キにも小くも通はして、広く
云名と聞えたり、京を美佐刀(ミサト)と云ヒ、奈良ノ京の時にも奈良の里とも云ヒ、旧都を
布流佐刀(フルサト)と云なと以て知るへし、牟良はかくさまに京なとを云ることはなし、
名の義(ココロ)も牟良(ムラ)は人の家の群がりある意、佐刀は居住所の意なり云々いはれたり


    
二郡司系図
○島津庄西海道九箇国ノ内、筑前肥前豊前謂前三ヶ国、筑後肥後豊後謂後参加国、日向
大隅薩摩 謂奥三国、島津御庄 
 日向方真幸院郡司系図
 真幸太夫日下部宿禰  次男高依
    但自是以前、於七十五代系図ハ略レ之
  嫡子権介日下部 久見
  太郎忠源    供奉
  行事  久末
  行事  太郎  成末
  次郎  末貞 元永譲状
  太郎  真重 永暦御状
  次郎  重兼    次男貞綱
  太郎  貞頼      舎弟 貞信
  孫太郎 貞能          貞光
  孫太郎 貞継 法名願行   貞兼
  次郎  貞季 法名妙覚    保貞
  左衛門 三郎貞房        貞氏
                     貞保
         以上系図
    
五代某云、按に日下部氏は上古より代々郡司奉職して真幸院の領主なり、日下部は瓊々杵命
の長男、火進命の神胤にて阿多事人、大隅隼人等と同族、神代より建久の頃まて日向なと特に
盛なり
日向国図田帳を調進せし姓名に権介等日下部宿禰盛綱、日下部重直、日下部行直、日下部
盛直、日下部依包なと見え、古の名は系図と異なれとも皆共同族なるべし、 高祖忠久公封に
就の時、真幸太郎日下部重兼(系図貞ニ作る)領主たり、 夫より貞頼、貞能、貞継、貞李、貞房
相嗣て、貞久公の時に至る、伴姓の北原右兵衛佐兼幸、日下部氏に代て真幸院を領し、飯野
に在城す(三山も其管内にかゝる、三山は今の小林なり)、

北原氏其先天智天皇の皇子大友皇子に出つ、其子余那始て伴姓を賜ふ、六世兼遠薩摩に
移る、兼遠四世の孫を右兵衛佐兼貞と云三子あり、長子を兼高といふ梅北ノ祖なり、次子を
兼俊いふ肝属の祖なり、第三子を右兵衛佐兼幸といふ北原氏ノ祖なり、始て日州真幸院の
主たり(文安の頃源久義と見え、文亀の頃北原伴兼亮兼延、弘治年間平良中務大輔伴義堅
領主と見ゆ、皆同家支族なるへし)
其後北原氏世々伊東・相良に党し、日向を乱ること年あり、近郷日隅の地を兼併して其所領
頗る広し、先北原周防守範兼又二氏に党す、球磨城主相良近江守前続、兵を真幸院に遣して
北原を資く、是年範兼、相良祐頼(前続か弟)を徳満城(加久藤郷なり)に宴す、事を論して
合さるを怒て相刺て死し後は二氏の交も絶エて範兼が子、左馬頭久兼、恕翁公に降けれは、
公軍を発して真幸院なる相良か軍を逐て其地を全く久兼に賜ふ、其後北原氏又賊徒に党して
日隅に寇すること久しく叛服常ならず、大中公ノ時、永禄五年北原氏に乱あり

按に北原左馬介久兼嫡孫北原兼守病死ノ跡にて一向宗の内乱起り、士卒日向ノ方、球磨ノ
方に落行もの多し、此時北原掃部介、大河平家を頼ミ横川ノ城に退くとなり、はた伊東家の臣
壱岐某が私書に云、永禄五年壬戌の下に同年の二月ノ時分、真幸北原殿家みたれ申候、
此のゆらひは一向宗の故にて、北原兼守は此方の御むこニ而候、女子御一人にて早世候時分
兼守の為にはいとこにて候御同名民部少輔殿子息を養子にとゆいごむ候、此儀に相定候、
然は北原殿御りうに尤も三ツ四ツの時分にも候哉早世候により、かねがね一向宗、他宗二とをり
候、北原民部少輔、白坂下総介両人は一向宗の棟梁にて候、依之三ノ山平良殿
(平良中務大輔伴兼賢と云者、弘治に見ゆ是か)、其外衆中一篇に一向宗きらいにて候、
又々内々の宿意も候と申候、彼是にも候哉、民部少輔殿いつくにて候哉立篭候も召よせ、
親子共生害させ被申候、それによって御当家へ御音信申上られ候条、御屋形様御父子共に
高原まて御光儀被成候、去は内々御屋形様一向宗御きらいの儀を被存候か、又は御内儀をも
被承候か、しらさか下総介は家城高崎をすてさるより下の如く限り出申候、扨御屋形高原に
御越ノ時分、北原代々衆各出仕被申候、いつれにも御見参而御懇に御意候処に、さはしらさか
迄を御前にも召出されす候事、下総介名字たる儀も候哉、又は分段なるも候哉、然々不知候、
是を御うらミ事□ニか、又は身□にも申候か、春中に薩州衆を引込□たてなをし申候、同五月
くまへも内段申て分別を以、五月十日真幸悉く取かへし申候、やうやく野頸、三ノ山、高原
三ヶ所まて御持留め候、是よりして真幸口の弓箭相はしまり候、同六月の時分真幸大河平の
村、此方より御やふり候とあり

時に北原又八郎兼守三ノ山城に卒す、子なし、兼守か妻は伊藤義祐か女なり、故に義祐三ノ山
に来り、北原か親戚と議して後を立ンとす、衆議決せす、義祐謀て一族馬関田右衛門佐を
立て、更に兼守か妻を配す、北原か麾下是に服せす、三原遠江守(曽於郡城主)白坂美濃守
(踊武士)衆に先たちて大中公に降り、其采地に配す、於是栗野・吉松・馬関田等の士悉く
公に降参す、
永禄六年二月(三月ならむと思ふ由も次にいふ)、大中公軍を発して三ノ山城を陥る(按に此役
詳ならす、謂ゆる壱岐か私書に永禄六年三月、真幸に作なぎしけれとも敵不出合云々、此三月
真幸南方くぼ谷の町悉く薩州より大勢にて破るとあるのみなり、久保谷は永禄八年十月三ノ山城
責の時、花立口には太守義久公、義弘公、久保谷口には左衛門督歳久陣営云々と有、
久保田谷にて小林城より三四町ほど西に丁り、今に久保谷と唱ふ地あり、又其辺に本町といひ、
又たきの口などいふ地あれは符号り、されは三月なるべし)於是公北原掃部介兼親に真幸院を
賜ふ、

是より先き北原又五郎貴兼(北原八世)死し、長子豊前丸(父を又七郎兼門といふ、早卒す)
年猶幼なり、故叔父長門守立兼家督代となる、文明年中日向飫肥に戦死す、立兼弟あり
民部少輔兼珍と云ふ纂立して真幸を領す、三世相伝て又八郎兼守に至る(兼守は三ノ山城に
卒す、然れは兼珍より兼守に至り三世同しく三ノ山に在城せしならむ、北原民部少輔兼孝も
真幸の主と見ゆ、然れは兼孝は兼珍が子にや)

長享二年豊前丸球磨に走りて相良氏に寓す、相良氏か妻は豊前丸か叔母なる故なり、中務
大輔義兼と称し、相良左近将監時泰か娘を娶る、其子武蔵守兼泰と云ふ、兼親は即其子なり、
是に至りて兼親を球磨より召て真幸院を賜ふ、兼親再興の恩を感す、北原氏か親戚、兼親に
勧め伊東・相良に絶ち志を一にして公に仕へしむ、兼親か叔父左兵衛吉松にあり潜に伊東・
相良に通し兼親を撃むことを謀る、大中公兼親か境を伊東・相良に接し孤立して敵しかたきを
慮ひ、転して伊集院神殿(コドン)村を賜ふ、兼親其封に就く、真幸より十五世にして兼親に
至り始て封を移さる、

永禄七年於是真幸院を松齢公に賜ふ、北境に鎮たらしむ、十一月公飯野城に(加世田より)
移りて治所とす、同九年是より先三山伊東氏か所領となり兵を三山に聚て真幸を謀る、是に
至て大中公謂らく伊東氏重兵を三ノ山に屯く、球磨ノ相良を誘き屡真幸院に寇す、因て速に
三ノ山城を抜き、敵を退けすむは後患をなさむとて、貫明公を総督として左衛門尉歳久を副
とし、松齢公に飯野に会し、十月廿六日軍を発して三山城を攻む、敵将米良筑後守城を守る
時に、菱刈氏密に是を伊東に告り故、予め軍兵を増して城の備へを堅す、 
松齢公は城東の水ノ口より攻め、歳久は城西の大手口より攻む、歳久の兵急に進て先ツ外域
を破る、松齢公も二丸を破る(按に此時伊東方にも戦亡する者米良主税助、福永新兵衛、
米良筑後、同弟美濃、肥田木段右衛門、紙屋図書、北原雅楽助、同又八郎、橋口河内等の
名見ゆ、猶外にもあるへし)敵退て本丸を保つ、矢石を飛し堅く拒ンて下らす、時に伊東氏
須木ノ兵をして赴き援けしむ、援兵城東の稲荷山に陣し、矢丸を飛す事雨の如し、
我軍前後に敵を受て稍苦しむ、且松齢公重創を蒙り痛み甚し、 貫明公城の一挙に抜かたき
を見て五百人を帰路の伏し、令を下して兵を収め、播迭して且戦ひ、且退く、敵追尾して
城外に至る、伏兵起りて我軍反撃せしかは、敵敗走して城に入る、是役や城を陥ゆること
あたハさるは、預敵守備を増せし故なりといふ、

翌十年八月 大中公詐て声言し、令を下し再ひ三山を攻へしとて兵を飯野に会し、親(ミヅカ)ら
飯野に至て軍事を議す、菱刈氏亦是を伊東に告く、敵其守備を増して我を待ツ、十一月廿四日
松齢項等と令を改め 貫明公軍を潜て急に菱刈氏か馬越城を攻て是を抜く、勢に乗て其九城を
陥る、進て菱刈大膳亮隆秋を牛山城に囲み翌年に至る、

伊東氏飯野の虚を窺して田原塁(田原陣は飯野御城より巳午ノけんに当り広野なり、南ノ方
細キ尾筋ノ小道あり、其外東西北深谷、飯野城に向ひ一筋敵付の入口有て要害なる陣場なり、
飯野城より一里一町廿五間あり、其間にハキ岡といふ小岡あり、 忠平公御在城時此ノ岡の蔭
にて田原陣見通しかたき故、士卒其外百姓を掛、険阻を切崩し田原陣まて見え通り、朝夕御覧
ありしとなり)に依り真幸を謀る、松齢公大口より飯野に還る時に伊東義祐会議し、今や島津氏
の勢日に強大なり、若我地方へ薩軍を受る時は我軍危らむ、故に先たち兵を発し飯野を進取
すへしとて、大衆を三山に聚む、且田原塁より彼地方へ連砦を設け、守兵を置き烽火を上け
緩急相救はしむ、其連砦は龍峰、三山、岩瀬、野尻、戸崎、矢筈、紙屋等なり、

元亀三年三山より大挙して飯野を侵す、松齢公大に是を木崎原に破る、是より伊東氏か勢
衰ふ、
天正四年八月 貫明公 松齢公、歳久、家久等と高原城を攻む、守将伊東勘解由城を下る、
於是三山、高崎、内木場、岩瀬(内木場、岩瀬共に小林ノ地)、須木、須師原、奈碕(須師原、
奈碕共に須木ノ地)の八城恐怖し城を棄て遁れ去る、 貫明公等三山城に入り勝鬨を発す、
諸将と盃酒献酬の式あり、既にして凱旋す、是に於て我軍威大に日向に震ひ、翌年十二月
我軍伊東氏か治城佐土原を破る、主師義祐其挙族と豊後に走る、

公の凱旋するや川上四郎兵衛忠兄に命して、三山城を守らしめ、速に城壁を修せしむ、忠兄
年十六、性頴敏にして才略あり、軽卒を発し民家の板戸を集めて城上の垣とし不日にして成る、 
松齢公其速成を感称す、其後鎌田尾張守をして三山城を守らしむ、慶長四年伊集院忠真
(即源次郎なり)庄内を以て叛く、四辺の諸城みな衆備を厳にす、当城は上井次郎左衛門尉
及其子伊勢守覚兼是を守れり、爾来世々地頭を置く、以上真幸院古来沿革の大略なり、
其事跡の三山に係る者は粗是を挙ぐ、其事実の脱誤ある如きは後日是を再考すへく云々
いはれたり、然れは此処彼処に己レ細書亦は他書に因りて少書加へたるもあるなり


   
三 歴世小林地頭
川上四郎兵衛忠兄(天主四年八月三山地頭、年十六亦三山城代或は三山城を守らしむも)
鎌田尾張守政年(天正四年丙子八月云々、其後龍伯公政年ニ三山城ヲ保チ是を守らしむ
 云々)
上井次郎左衛門尉秀秋(入道伝斎、後諏訪と改)按に義弘公老中に任ず、或書曰、三山公の
  有となりて上井次郎左衛門尉秀秋を地頭ニ据へ給ふ云々(後綾地頭、於彼地病死、伝徳寺
  境内墓有)、 一書曰、当城は上井次郎左衛門尉及其子伊勢守覚兼是を守れり、是により
  世々地頭を置く云々、 此書に依れは地頭ノ名目は始めならむと思はる
諏訪伊勢守里兼(初新五郎又神五郎里兼に作ル、後義弘公老中ニ任ス)後次郎左衛門称ス
上井仲五兼政(次郎左衛門里兼弟也、文禄ヨリ慶長ノ頃迄か不詳)
上井市正兼通 亦上井右京ト云人ノ名、元和四年ノ書ニ見ゆ、上ノ市正と同人か、然れは
  是も同く地頭と思はるゝ由あり、其に押川某か家蔵書ノ内に左の如く
   江戸御殿守腰板賦
    一與
 高六百七十一斛        上井次郎左衛門殿
 高九百二十八石八斗七升    小林衆中
  外百七十八石七升引入ノ高除
 高二十一石七斗四升      四本主税之助殿
  合千六百廿一石六斗一升(内一石六斗一升過上)
  板数九枚(但百八十石ニ付一枚ツヽ)
 一板長サ七尺広サ一尺四寸厚サ七寸、但寸尺之本相添候、於舟元本末をのこ引ニ而、口を
  厚紙を以可被張セ事
 一拾一月限ニ於船許出物請取衆被相渡、其墨付市来八左衛門殿、山田民部少輔殿江
  近日ニ可有合点事
 一船許一所ニ於難被届者、早々与中之板数ノ内、前かどニ何方之蔵許江いかはといゝ
  可被相届之由、山田民部少輔殿、市来八左衛門殿江近日中ニ差出を以、可有合点候板、
  可被相揃処者、毎年之出物請取蔵諸浦江被定置候間、かつてがってニ可被相届候、
 一処ニ可被相付板も書物ニ而前々とニ被申出候者、船賦可申付事
 一御蔵入并連々無公役ノ方ニも此節者被仰付候間、可有其心得事
 一江戸御殿守依御普請被仰調、御進上之儀候条、無緩疎、其首尾専一候事、
    元和四年午十月廿三日諸右衛門、紀伊守、摂津守、図書頭、野守連署にて
 上井右京亮殿と宛書あれはなり

鎌田左京亮政喬 寛永ノ初頃地頭と見ゆ
相良親右衛門長貞(初杢助長治寛永ノ頃地頭、年月不詳)
諏訪仲右衛門兼安(仲五兼政後嗣、古名上井)
 寛永十一年七月 移小林
 寛永十四年八月十四日此地ニ死ス、年五十三、昌寿寺ニ葬ス
諏訪杢右衛門兼利(家来黒木氏両家至今小林居住)
 寛永十四年小林地頭高二百石御加増
 寛永七年(亦十五年とも)の頃より寛文三年卯七月三日まて地頭職、此後居地頭止らる
 (天正四年より寛文三年は凡八十八年、其間居地頭なり)
相良新右衛門長隆(付衆中須賀主殿助高三十三石七斗隈ノ城より寛文五年此地ニ移る、
 同七年亦去る) 寛文三年癸卯七月三日地頭職、因茲自町田勘解由、島津中務共に
 当昔御家老、小林噯江伝之一簡有り
伊集院十右衛門久朝(付衆中伊集院以春、寛文七年移る)
  自寛文六年午十月十八日至同八年申八月 地頭職
  故ニ従新納五左衛門、島津帯刀、島津図書(共ニ御家老)於小林噯伝之一書有り下倣之
高崎惣右衛門能延(付衆中木脇六左衛門、鹿島次左衛門、伊瀬地十左衛門、木村平右衛門、
  橋口杢右衛門堀之内宮内左衛門江田半左衛門寛文九年此地ニ移リ延宝六年阿多に去る)
 自寛文八年八月廿五日至延宝五年巳正月 地頭職
相良新右衛門長隆 
  自延宝五年丁巳正月十五日至同六年午九月再地頭職
比志島主膳国治 
  自延宝八年申七月四日至天和三年亥二月 地頭職
黒葛原吉左衛門忠通(後治部)
  自天和三年亥三月十三日至元禄九年子十月地頭職
樺山諸右衛門久福 
  自元禄十二年卯三月廿八日至宝永二年酉十一月同上
樺山助太郎忠郷 
  自宝永二年酉十一月朔日至同三年亥正月廿七日同上
島津求馬久房 
  自宝永三年戌正月廿七日至正徳二年辰五月七日同上
名越左源太恒索(初平八) 
  自享保十一年午二月六日至寛保三年亥正月十一日同上
相良源太夫長儀 
  自寛保三年亥正月十一日至延享三年寅八月 同上
仁礼仲右衛門仲古
   自延享五年辰正月十一日至明和七年寅正月、同上
大野多宮久房(後隼人)
   自安永六年酉正月十一日至寛政十一未十二月同上
川上織衛久譲
   自寛政十二年申正月十一日至文化七年午正月同上
市田壬生義宣(後長門)
   自文化八年未正月十三日至同十四年丑八月 同上
島津波門久住 
   自文化十五年寅正月十一日至文政二年卯五月 同上
末川将監久光
   自文政三年辰正月十一日至同八年酉四月  同上
調所笑左衛門
   自文政八年酉五月十五日至同十年正月 同上
野村主礼盛贇
   自文政十年亥四月二十二日至天保二年卯六月 同上
長束市郎右衛門正澄
   自天保三年辰正月十一日至同十二年丑七月 同上
名越右膳盛胤 
   自天保十二年丑八月十九日至嘉永元年申正月 同上
岩下新大夫祐順
   自嘉永元年申正月十一日至同二年酉五月 同上
川上矢五大夫久連
   自嘉永二年酉 至同三年戌五月     同上
山口直記利紀
   自嘉永三年戌五月至同五年子正月    同上
森川利右衛門長喬
   自嘉永五年子正月十一日至       
頴娃織部久武
   自嘉永        至安政五年午正月 同上
福崎助八李脩
   自安政五年午正月十一日至同七年申正月  同上
郷原転久寛
   自安政七年申正月十八日至元治元年子九月 同上
名越左源太時敏   旗預、用達兼 丸田竹翠
   元治元年甲子九月小林居地頭兼飯野・高原・野尻・須木・ 加久藤
   其文ニ曰
   一大番頭格
   一御役料高百八拾石
   一小林居地頭兼加久藤、飯野、高原、野尻、須木
   一惣物主       姓名
 右之通、御役替并地頭職被仰付、御役料高被下置候、小林之儀者要枢之地不容易
 場所柄ニ而兼而人心一和、武備不行届候而者、不相叶事候付、所中者勿論、近郷迄
 致支配、文武相引立、兵備練磨シ、御趣意十分致拡充、毎事行届候様心掛致精勤、
 馬関田居地頭、万端引合可相勤候、 当世態出格之思召被仰付候
  子九月十六日
  其後ノ文ニ曰
  加久藤之儀、馬関田居地頭江致兼支配候様、別段被仰付被成御免候条、可申渡候
  子十月
  慶応二年寅六月、居地頭ノ居之字相除、甑島、長島移地頭之儀、移之文字相除候様
  被仰渡候事、 亦其后馬関田並諸県郡吉田、吉松、加久藤
                名越源太
   右之通兼地地頭職被仰付候
     七月(慶応二年寅年なり)
中原周介高綱
  慶応二年丙寅八月小林飯野加久藤馬関田吉松吉田高原野尻須木地頭職分高百石、
  小林住館  後ニ小林一組
    物主      名越左源太代り
              中原周介
   慶応二年寅十月被仰付候
谷川次郎兵衛      旗頭 千田佐左衛門
  慶応三年卯二月、九箇郷(小林、飯野、加久藤、馬関田、吉田、吉松、高原、野尻、須木)
  地頭職(文曰)
  大番頭御役、御勘定奉行勤之当御役ニ而地頭職被仰付、御役料高(百八十石なるべし)
  是迄之通、 被下置候 左候而、御趣意致貫徹、万事行届候様被仰付候
近藤七郎左衛門(後チ七ト称)国中
  地頭職分百石
  慶応三年丁卯八月(小林、飯野、加久藤、馬関田、吉田、吉松、高原、野尻、須木)地頭職
  其後 小林、野尻、須木、高原、高崎
         地頭 近藤七郎左衛門
           但当分通小林江可罷在候
 右者此節英式軍勢ヲ以、諸郷々兵隊之組合被相替候処、当分之組合之侭ニ而者、
 一隊中之郷々入交之不便利之場所有之候付、不差障場所者当分通ニ而、其外右之通
 地頭、組合被相替、 左候而一大隊組合郷之中ニ二箇所ツヽ要枢之場所候付、右郷々江
 右之通地頭被召置、攻守急緩其時時宜ニ随ヒ、御城下藩屏之任ヲ尽候様被仰付候
  慶応三年卯九月


  
 四 小林郷の周囲
○周囲 六万千二百八十一間半(111.4km)
  町ニして 千二十一町廿一間半(111.4km)
  里ニして 二十八里十三町廿一間半(111.4km)


   
五 小林より鹿児島及近他邦境郷に至まて遠近道法
○小林五日町御制札より鹿児島程表まて
   二十一里十二町二十二間 西真幸筋白銀通り
   十九里半六町五十一間  東荒襲通り
   国分浜ノ市江十三里、海上六里
○日向国諸県郡
  飯野御制札 三里、乾ノ方往還郷境柳ノ本一里三十五町四十三間
    但し小林御制札元より其ノ同所まて下倣之
○右同
  須木   四里十六町、艮ノ方街道郷境小杉ノ本二里六町四間
○右同
  野尻   三里十八町、卯ノ方右同岩瀬河中一里二十間
○右同
  高原   一里廿七町 巽ノ方右同後谷一里十八町廿四間
○右同
  上荘内       午ノ方辺路郷境(火常峰勧請堂)六里余
○大隅国曽於郡
  襲山        未ノ方右同(霧島山中瀬戸尾越洗出) 五里程
○同国桑原郡
  踊     申酉ノ方右同韓国嶽絶頂六里余
○他県
 肥後国球磨人吉九里、乾ノ方加久藤通同国辺路北山山中方カ水池ノ元四里半子ノ方
  但し上荘内ハ旧ト都城ノ内なりしを、明治 都城分郷に成て
  上庄内、下庄内と唱へしか、同四年新に都城県建らるゝにつきて   
  下庄内は亦都城と唱へ、上庄内は荘内と唱ゆべきよし布令のおよひしなり


   
六 高員総計
○惣高一万二百三十石七斗九升六合六夕九才
 内高七千五百十三石七斗七升二合四夕六才   竿次帳現地
  内高六千五百六十六石六斗三合四夕四才   百姓請取
   内高二千五百五石八斗三升四夕四才    御蔵入
    高四千五十七石二斗八升三合五夕八才  御軍役高
   高九百四十七石一斗六升九合二才     諸浮免
  高八百十四石五斗六升五夕一才     漸々御竿入永作
  高千九百三十九石四升七合九夕八才     自作地
  高六十石四斗九升一合四夕六才       諸屋敷高
惣田方四百八十六町四反六畝廿八歩  
惣畑方六百三十二町七反五畝十六歩
 外二十町三反三畝十七歩 屋敷


   
七 士族高員
○高二千三百六十四石一斗九升六合六夕五才 小林士族軍役高
 内高千四百八十八石八斗五升四合八夕五才 自作地
  高三百九石七斗二升四夕二才      門付高
   内高                高原広原村
  高五百十七石二斗六升三合二夕五才   自作高


   
八 人員総計
○人員凡六千四百人         明治三午年改
  内男 三千三百四十八人
   女 三千四十一人
  外男女凡六百人余   諸所より転任住者午ノ改ニ不入


   
九 牛馬総計
○牛馬四千二百九十四匹
   内牛千三百二十九匹 
内男牛千九十九疋
女牛千二百十六疋
        馬二千九百六十五匹 
内駒三百五十三疋
駄二千五百八十一疋
  

   
十 家部戸数総計
○総家部 千七十五
○総戸  千五百六十九


   
十一 士人家部並姓氏
○総士人四百八十五家
  人躰二千二百四十四人
   内男千百六十六人
    女千七十八人
  外五十家 転住   午歳人別改ニ不入
一野辺七 
家系曰    盛  一伊福四 家系ニ   平 景
一坂元七             一富満十三
一押川八      橘  近 一西田六
一上野三             一植村三 本上村
一永野六 
家系         一柚木一
一平賀一 
家系曰旧石塚氏中古号後藤  藤原 祐 一本田四
一竹之下八        茂 一斎藤九      藤原 実
一堀之内一     平  年 一黒木四
一西 二         頼 一瀬戸口一
一森岡六           一平野一
一壱岐二           一宗像二 
本宗方
一押領司八          一早田三
一永井三           一中窪二
一崎山三           一井之口三
一丸尾一           一川畑二
一柚木崎二          一前田一      菅原
一温水六           一山口八
一秋水一           一山本一 
家系曰天智帝ヨリ出、旧松葉氏天子姓
一永山六           一大牟田四
一山之内一          一井上三 系譜   源  政
一本村二           一四藤一 本紫藤
一宮原四         惟 一松田五
一有馬三           一橋口四
一高岩四           一水間二
一中山十三          一楢崎二
一横山六           一赤木四 古名河野、後長峯ト号、家系アリ 越智 通
一的場一           一時任十三 系ニ曰天御中主命ヨリ出 藤原 為
一栗屋五           一鶴田三
一川野二 
本河野系図有  越智 通   一恒吉一 旧島津家支族家系ニ委シ  源  長
一鳥集三           一大脇三 
家系曰旧佐々木氏中古藤原姓ヲ賜云々 源  為
一興呂木一          一永峯二 
家系ニハ長嶺ニ作ル   藤原 政
一上井一           一西田六         時
一山下一           一萩原一
一田畑二           一川添二
一籾木一           一立本三
一高野一           一深瀬二
一大坪二 
系図曰自桓武帝出、中古三浦氏平   貞  一園田三
一大川平二          一青山二
一脇元二        祐  一里岡二
一野坂一           一大山一
一塚田一           一川原三
一真方一           一永里二 
家系ヲ見ニ菊池家ニテ古文書数通蔵 藤原 隆
一馬場一           一八重尾二 
系図ヲ見ニ菊池氏ノ流  藤原 矩
一田口二           一山波一
一真崎一            一高野瀬一
家譜ニ云号川之瀬亦河瀬亦高之瀬ト 藤原 頼
一小田一           一松元五
一富永一           一中馬一
一高妻一           一松方二
一千里内一          一弓削一
一堀 六           一野元二
一赤崎二           一中村三
一湯山一           一相場一 
本愛場
一宮之原一          一児玉二
一梯 三           一野田一
一関田二           一須崎二 
系図   藤原 祐
一溝口三           一羽島一 
系図   惟宗 友
一柊崎一           一窪田一
一稲留二           一森 一      藤原 長
一大岐一           一向井四
一脇田一           一石塚一
一安藤一           一湯之前一
一餅原一
系図ニ古名大塚       惟 一大迫一
一中島二           一迫田一
一岩下一           一津久田一
一出水二           一黒江一
一柳川一           一湯山一
一中野一           一指宿二 
 旧
一寺師一 
元         一二ノ宮一 旧
一片野坂二 
旧加世田士   一宇都一  旧
一肥後一  
旧川辺士    一春田一  旧川辺士
一本田一
  
一安藤六           一徳田三        通
一飯田一           一田原八
一成合一           一大迫三
一小川八           一宇都八
一久留一           一菅 二
一有屋田二          一宮之原一       重
一田島二           一阿久根二 
一高崎六           一重山十二       芳
一黒木七           一枦山三
一田村一           一田中一
一陣 一            一北原二
一郡山三           一折田一
一山之内三          一鳥丸一
一野本二           一山下八
一大山三           一橋口一
一藤田二           一川野三
一川口一           一武石二
一斉藤一           一本田一
一堀之内一          一戸高二
一池田一           一岡元二
一古川五           一井前二
一金丸一           一前田一
一溝口一           一能勢一
一佐近充一          一伊達一
一鳥丸二           一門松一
 上自安藤至門松五十姓、凡百二十家、島津主殿家来
一松元五           一大山二
 右両姓、凡七家旧島津
一鈴木一 元高岡士

    十二 小林全図

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十三 足軽家部並名字
○足軽家部二十一
一鉾立三  一野添四  一川原一  一武村一  一浜田一
一真方一  一坂元一  一有馬一  一和田二  一池田一
一坂下一  一藤田一  一野崎一  一木之瀬一 一重信一
   人躰八十二人


    
十四 社家並神社付家部姓名
○社家並神社付家部十二
一斎藤三  一鹿口一  一宮原一  一夷守神社 一之内侍
一浜島三  一内村一  一半学坊  一金蔵



   
十五 下人
○下人家部三十九
  人躰百四十九人


   
十六 増人
○増人家部三十三
  人躰百四十二人


   十七転住者

○転住者家部百四十四
  人躰


  
 十八居住者
○居住者家部凡二百余
  人躰 不定


   
十九 村落
○東方村
  旧高辻帳ノ高七百八十八石九斗三升五合三夕
  当高七百三十九石八斗三升九合三夕九才
   内高五百八十一石五斗六升六夕二才  百姓請取
一鸙野屋敷       一内門         一中之屋敷
一桑水流屋敷     一山之口屋敷    一飯谷門
一大窪屋敷       一栗巣野門      一下之薗屋敷
一下り藤屋敷      一大久津屋敷    一橘八重屋敷
一中窪屋敷       一上之原屋敷    一遊木猿屋敷
一西水流屋敷      一深田屋敷      一下津佐屋敷
一東高津佐屋敷    一西高津佐屋敷  一橋満屋敷
一上之薗屋敷      一内之木場門    一上原屋敷
一永野屋敷       一池之上屋敷    一赤木屋敷
一上野屋敷       一谷之木屋敷    一内久保屋敷
一榎久保屋敷      一坂之下屋敷    已上門員三十二
 家部三十二
 戸数六十七  用夫百九十七人
 人躰五百六十人
 東方村は往昔よりの名にて、名義は郷の麓より東の方に当れる処なれば、東ノ方なる村にて
 字の如し、然て村の義は人家の群りある意なり、委クハ既に小林郷の下に述れは合せ
 見るべし、 門屋敷のことは後にいふへし

○水流迫村
 旧高辻帳高二百八十八石五斗二合六夕
 当高二百九十石四斗一合五夕
  内高二百二十国四斗八升八合五夕三才 百姓請取
一綿内門      一田之上門     一山之上門
一水流門      一萩之窪門     一上之薗屋敷
一小薗門      一炭床屋敷     一小水流門
一立代屋敷     一穂屋之下屋敷   已上員十一
 家部十一
 戸数二十
 人躰百六十六人 用夫三十四人
 水流迫村は上古は水流之迫村と呼しなり、此地固より岩瀬川の川添ヒなるが、亦綿内といふ
 地に泉ありて、其地に溜池ありて、夫より村中を流通るもあれハ、水流狭所(ツルサコ)の意に
 もあらむ、玉扁に迫ハ窘(セマル)也、急(イソカハシ)也、附也、陜也なとあり、狭はせばきを
 云、 所ハ彼処、此処、何所杯の如し

○堤村
 旧高辻帳高六百四十石二斗四升八合
 当高千四百九十七石三升八夕五才
  内高六百三十六石七斗一升五才   百姓請取
一福留門      一中村門      一前田門
一堤門        一有田門      一岩淵門
一岩満門      一末盛門      一坂下門
一田中門      一竹之内門     一水流薗門
一西之薗門     一有村門      一新田門
一楢木門      一山田門      一末永門
一久保薗門     一吉薗門      一富吉門
 家部二十一
 戸数二十六
 人躰百二十人  用夫四十九人
堤村は元旧ハ堤分村と呼しなり、此地元来川添なる村なるが、水を雍(セキ)たる堤の多き処
(此を俗中将井堤といふ)なれハなり、夫より水分れて築たる堤の多き処なれハなり、扨堤の
名義、水を外へ漏し溢らさぬ由の名にて、包意なり、字鏡に披陂ハ土ヲ以水ヲ雍ク也、豆々牟
(ツツム)とあり和妙抄に陂堤、和名豆々三、堤亦隄亦堤ニ作ルと見ゆ

○細野村
 旧高辻帳高六百三十二石五斗四升二合
 当高三千二百七十三石三斗一升六合三夕 
  内高二千二百七十三石三斗一升六合三夕  百姓請取
一永田門      一前村門      一徳永門
一本市門      一外永原門     一富永門
一東脇本門     一脇之上門     一飯盛門
一小屋敷門     一内永原門     一東薗門
一村山門      一新満永門     一軸屋門
一有馬門      一中薗門      一福島門
一加治屋薗門   一小薗門      一北雑敷門
一安影門      一樋之口門     一前原門
一倉薗門      一田之上門     一六部市門
一上仮屋門     一下仮屋門     一城山門
一森永門      一大工屋門     一塩鎌門
一内仮屋門     一前田門      一沖満永門
一宮之下門     一内満永門     一内田門
一志戸本門     一南雑敷門     一外薗門
一前満永門     一満窪門      一水増門
一吉永門      一吉留門      一大紋門
一吉本門      一榎田門      一轟之上門
一満薗門      一脇元門      一南薗門
一山中門      一新村門      一内村門
一山下門
 家部五十八
 戸数六十七
  人躰四百十四人  用夫百七十人
 往昔は外ニ十日町村(旧高千五百五十三石三斗三升九合)と云ふ有り、今ハ細野村に隷て
都て細野村と呼ふあり、十日町村の名義ハ今も十日町と云町あるが、其町村中にありし故の
名なり、十日町の名義ハ次町の部の下に称ふへし、偖細野村の名義並穂翁云、穂裾野村
なれりと説れたるが如し、亦穂添之村若ハ穂襲ノ村にてもあるへし、其ハ野方甚く広大なる
地なれハ細野としてはいかゝなれハ、強たる説なから試にいふなり
山手によりて椎八重多豆波江なといひ、また山足にも宮ノ原と云ヒて殊ニ広き野原なり、
然るを此宮ノ原と云地にハ重豪公即世安永七年より天明七年の間、六歳の春を迎へ杉を
指入られたり、凡杉穂五百九十八万七千六十本余と云々、東西山の流れ一里十三町余、
名て宮ノ原御仕建杉と称ふなり、或人曰く、我藩内に類する処なしと、将畑に為しもあれと
今猶野原も有るなり

○後川内村
 高ハ前細野村に合て挙たるなり
一柚木脇門      一北之薗門     一外島田門
一木下門        一小堀門       一内島田門
一堀之内門      一大塚門       一野間門
一佃門         一窪門         一西之間門
一井出之口門    一内竹之内門    一古薗門
一新竹之下門    一外竹之下門    一永吉門
一倉元門  
 家部十九
 戸数四十
 人躰百三十六人
此村は旧細野村ノ内なりしを後に割て枝村とハなせしなり、後川内(ウシロカワチ)の名義ハ
稍後に流るゝ辻堂川と云川の内ツ村なれハ後川内村なり

○南西方村
 旧高 六百三十四石五斗八升一夕三才
 当高 千五百三十三石一斗三升五合七夕八才
  内高九百十三石九斗四升四合一夕  百姓請高
一鬼目門       一黒沢津門     一吉村門
一西立野門      一岡之薗門     一熊之迫門
一鳥越門       一窪田門       一今村門
一東立野門      一広庭門       一孝之子門
一石氷門       一谷屋敷       一轟門
一中津門       一大手水門     一上之薗門
一上今別府門    一下今別府門    一今東門
一立山門       一神之原門     一中之屋敷
一田中屋敷      一下之薗門     一平川門
一小出水門      一中之別府門    一東木場門
一平木場門
 家部三十一
 戸数五十八
 人躰三百七十七人  用夫百二十人
昔時ハ西方村と呼し也、名義ハ郷の麓より西ノ方にあれハ然云へりしならむ、後に今の如く
南ノ字を加へし所以は、此ノ地少南にも係れるなれハなり

○北西方村
 旧高 四百三十二石八斗七升八合
 当高 六百九十四石三斗五升
  内高四百九十五石五斗二升八夕四才  百姓請取
一有村屋敷      一神之薗屋敷    一今村屋敷
一外種子田門    一今別府屋敷    一大窪門
一脇屋敷        一大丸屋敷      一橋谷屋敷
一牟田門       一黒仁田門      一深草屋敷
一仮屋屋敷      一柚木山屋敷    一永久井屋敷
一内種子田門    一坊薗屋敷      一入佐門
一外入佐門      一岡原門       一岡原名
一南薗門       一西種子田門
 家部二十二
 戸数四十三
 人躰三百五十六人  用夫九十七人
昔時ハ北方村と唱へしなり、名義ハ郷の麓より北に当れる村なれハなりけむ、然るを後に
西ノ字を加ることになりしハ、此村少し西の方にも寄たるなれハなり

○真方村
 旧高二百九十五石五斗一升五合一夕 *二百五石・・・か
 当高千八百八十四石七斗八升三夕一才
  内高千二百四十四石六斗八升二合九夕二才  百姓請取
  小林村 旧高七百三石四斗三升二合
  大豆別府村 旧高二百九十五石九斗四升九合
 右の二タ村、古へハ外に有りしを後に已上三村を合て、総ての名を今真方村とハ呼ふなり、
然て小林村の名義ハ小林の城と称へる城ノ名を発起にして、村名に負へりしなり、今も小林原と
云へる地ある由ハ既に委しく弁しか如し、又大豆別府の名義ハ遠つ神代に豆を植初たる処と
言伝て、豆乃比布(マメノビフ)と呼へる地あれハ、その名より転し物と思ハる、名義ハ豆殖生の
意にやあらむ、然るハ往古ハ万米乃比布(マメノビフ)と専ら称へをりしを、豆を大豆(マメ)とも
常書くことなれハ、大豆別府と作るを今ハ字音に読て、陀伊豆比布とも呼へるもあれと、なほ
里人の云へる如く豆のびふといふこそ、古への名にハありけれ、和妙抄に大豆ハ
和名万米(マメ)とあり

一小林門       一前田門      一杉薗門
一杉鶴門       一中薗門      一坂元門
一中村門       一倉薗門      一内門
一北之薗門     一下之村門     一松之元屋敷
一有尾屋敷     一窪谷屋敷     一西窪門
一亀沢屋敷     一正学門      一水流門
一鵜戸門       一西之村門     一西之薗屋敷
一橋之口屋敷    一殿所門      一市谷門
一和田門       一松尾屋敷     一大豆別府門
一榎田門       一保揚枝門     一宮之下屋敷
一中之神門     一南正覚門     一吉丸門
一松ケ迫屋敷    一上之神門     一木切倉門
一有留門       一青木門      一内之倉門
一吉永門       一東窪門      一今屋敷
一海蔵門       一田中門      一吉之薗門
一白ケ沢門      一大部薗門     一吉村門
一宮窪門
 家部四十九
 戸数七十八
 人躰五百七十七人    用夫 百八十人
真方村の名義ハ諸県村の意ならむ、其故ハ本居翁の説県ハ上田(アガタ)にて元は畑の事
なり、たゝ田舎を云とのみ心得来つるハ非なり、唯に田舎の事を縣と云ることなしといはれたり、
上代に朝廷の御料を作りて貢進る地を御縣(ミアガタ)と云も御上田(ミアガタ)より起れる名とも
見ゆれは、御と真と通はしても用フる字なれハ、真上田(マアガタ)ならむと一度は思ひしかとも、
なほ能ク按へは然らす、其は漢字を用る世になりて此阿賀多に縣ノ字を当て書ならひしことゝ
見え、はた何縣と連ねて言ときの縣の唱へハ、多く阿は省く例にて、諸縣は牟良賀多(ムラガタ)
と唱ることは上にもいひし如くなるが、ムラとマは約(ツヅク)れば諸縣(マガタ)村なるへし、
旧真方村と呼ひしは、麓より丑寅に当り山手によりて、殊に畑の広大地なれハなり、固より真は
美称と甚しく云と全キことゝに用ふるなれば、真方としては叶さるに依て、強たる考の如くなれと、
かくはいふなり、頼庸も真方の考稍理ありげなり、尚能思ひ度くて定むべきことにこそいはれたり

広原村 上世は温水村と云ヒしなり
 右広原村は延宝九年高原郷に属られたり、其ノ所以は元高原ノ内高崎村を割て、高崎郷を
建られ、茲に依りて高原より訴の趣ありて斯くせられしとそ、又其時同く野尻より水流村を高原に
付られたりといへり、
斯て今は高原郷に隷れとも、従来の通夷守神社祭祀ノ日ニ当りては此一村は祭礼式などを
なし、且同村神社は古例を以て小林神官往て祭之となり(但此広原村は水土善く富饒にして
戸口足れり)合て今は村八ツ合人躰二千五百七十七人但し上に挙し高辻帳ノ高とは御朱印高
の事にて、旧は村員も十一名なりしか、家康公已来今に至り代々の将軍家に其侭申出ニ成て
有るとかや

上件門、又屋敷と呼ふ名義未思得ねとも、記伝に門は家を云、皇太宮をも朝廷(御門の意なり)
と申す如く、臣の家をも内々ならず外さまの事に就ては門と云るなりとあり(同書に門は加那斗と
訓へし、万葉に小金門に之人乃来立者、又児呂我可那門欲また佐伎母理二多知之安佐気乃
可奈刀低になどあり、加度と云は加那斗の略なり、又門は戸も同く家のみならす、海河にても
国にても出入口を云て、水門島、門川、門迫門なといふ是なりと、説れたる然ることなり)、 
屋敷の説は未見当らねとも屋敷は屋志伎域ならむ、其は屋は舎屋敷は宮敷なといふ敷(内裏を
百敷と云も百官をしき給ふ故の名なるへし)と同くて、舎屋を営意下の域は垣など結び廻らし
一構なる処云名にて屋敷域なるを伎は重る故に伎を一ツ省てヤシキとのみいい慣しことにも
あらむ(重る言省く例は旅人を多比止)、唯に屋敷とのみ云ひては用言にて叶ざれはなり、
されハ上に引出たる如く門は家を云なるが、家は構を総べ云名、舎屋は其中に建たる舎屋
にて、其ノ舎屋を建る一区を呼ぶ名なれハ、全屋敷も門も同しなり、然るを如此差別を分ケられ
たるを按に大凡高二十五石以上を司るを門と為し、亦高二十五石に足らさるを屋敷と唱
来れハ、決て古へより公の御制なるものならむ


    
二十 町ノ部
○十日町
一海老原二 一大牟田三  一原田一    一岩元一
一鶴丸二   一上田五    一町元五    一村雲一
一薗田一   一瀬戸山二  一橋口二    一蛭川一
 家部二十六
 戸数二十八
 人躰九十人
此町は旧記云、霧島町又鷹導町とも呼て、太古には幽国の人是に出て、桂銭を以て物に易ふ
とも云ひ、又京より遠き町なれは遠か町と称ふとあれとも信がたし、土俗の伝には年に十日の市
を為す事あれハ十日町といふいへり、近年は此町に市の立ことは絶て無けれとも、市場の締の
料とて、目付役立会の式のことは今に遺れり、秋郷翁は古へ夷守駅は此の町辺ならむかと
いはれたり

○五日市
一川野二  一小村一   一小野二   一瀬戸山二
一松元一  一深瀬一   一橋口一   一岩沢四
一池井一  一萩原一   一永山二   一吉永一
一永友一  一成見三   一森山二   一蛭川一
一田口一  一薗田二   一前田一   一大山一
一高橋一  一渡辺二   一森永一
 家部三十四
 戸数三十七
 人躰二百八人
此町は家部員及人躰は凡上に記せる如くなれとも、年来土着ノ徒多くして戸口街(邸)に余れる
計賑へり、素より往還通路筋なれハ往昔より中央に御制札を(但し其下に距鹿児島程表
二十一里十二町二十二間と書標木作り)持て傍に駅を据、又旅人、問屋、其ノ他近郷問屋
(近キ年頃小林に地頭を置れ、近郷諸所管轄のことゆえに、其管轄ノ郷々は各常に問屋を定め
置とそ)等有り

五日町の名義は年に五日程大市をなすことあれハ五日町とハいふとそ、今市と唱ふは
七月五日より六日まて、又十二月廿五日廿六日諸方の商人屯集て市をなすのみならず、豫て
市中(呉服屋七八軒、油屋四五軒、其外酒屋、質屋、焼酎屋、麺屋、古手屋、木薬屋、紺屋、
味噌酢醤油屋、魚店、履物屋、笠屋、米穀屋、器物屋、合薬屋、綿屋、菓子屋、縫物屋、
万小間店数軒)是を販もの少からねハ、平日に市を為すに似たり、既に白尾翁(氏)も此小林の
地たるや、日隅の要会にて、四方の商売茲に来て交易の市場とす、故に郷内富饒、近境に
比類なしといひおかれしなり、

扨町の名義未考得ねども、麻知(マチ)は町、市、坊、街、陌、市、廓とも書き、一町々々毎に
門を建、或は縦横に行路を通し、家居区々に為るよりの号なるにや、又知夜宇(チヤウ)と
呼るは町ノ字音訓にて凡三十六間、一町毎に坊ノ名を別にすれハ某町とは唱ふならん


   
二十一 穢多
○穢多家部二
   戸数十一
    人躰八十六人 但男女
右穢多は是迄帳外の者なりしか、明治四年未八月自朝廷御布令文ニ曰
穢多非人等之称被廃候条、一般民籍ニ編入シ、身分職業都而一同相成候様可取扱、
 尤地租其外除蠲之仕来も有之候者、引直方見立取調、大蔵省江可伺出事
  辛未八月   太政官
別紙ニ
穢多非人等之称被廃候条、自今身分職業共ニ平民可為同様候事
   辛未八月    太政官
右之通於東京被仰渡候段、申来候条、取調申出候儀共民事局江
申渡、向々も可申渡候
   十月   鹿児島縣庁


小林誌第一巻終

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