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遅れた情報
 
19世紀のグローバリゼイション    
  
  アメリカが日本に開国を迫る迄の詳しい経緯が、ペリー来航3年前に日本に送られていた。 



左絵は第一次ペリー来日時の旗艦サスケハンナ号

  これは1850年1月にニューヨークの法律家アーロン・パルマーから日本に滞在していたオランダ
商館長ヨーゼフ・レヴィソンに送られた書翰及び米国の公文書・新聞・雑誌のニュース・論調
などである。 パルマーはアメリカの貿易に纏わるクレーム処理等行う法律家であるが、貿易振興会
の会長の様な立場で米国政府とも緊密な関係を持っており、特に東洋貿易拡大を目指していた。
 
  この情報は早ければ1850年8月にはレヴィソンが長崎で入手している筈であるが、此時点で
日本側の関係者に示された記録はない。 偶々商館長の交替年であり多忙を極めた事も考えられが、
彼は同年11月には日本を離れ2年後、1852年にこの書翰と彼の日本論を「レヴィソン日本雑記」
としてオランダで出版 (原題はBladen over Japan,1852 国会図書館蔵) している。 この本が何時
日本に入ったかは記録に見えないが、早ければオランダ東インド・バタビア経由で1853年8月(但し
ペリー浦賀入港は同年7月)と思われる。 そして「レヒソン・ヤッパン巻3」として日本語に翻訳
されたのは1854年4月頃と云われ(但し日米和親条約締結は同年3月)、勝海舟は安政元年8月31日
(1854年10月21日)付書翰の中で、最近の珍書の一つとして挙げている。(勝海舟全集)

  一方米国で公表されたペリー派遣決定は1852年(嘉永5年)のオランダ別段風説書に載せられ、
ペリー到着のほぼ10ヶ月前に日本に到着している。 又アメリカ世論や公表記録等パルマー書翰に
相当する所はペリーとの和親条約交渉に臨む4ヶ月前に幕府は中浜万次郎から報告を受けていた。 
従ってこの書は肝心の時には間に合わなかったが、日本に開国を迫る意思決定の経過と、19世紀
半ばの膨張するアメリカの戦略が良く分る。

  アメリカはメキシコ戦争の勝利により、1848年にカリフォルニアを得て大西洋から太平洋に
繋がり、西へ西へと膨張する。 更に蒸気船の発達により太平洋航路を開拓して東洋との貿易を
盛んにし、海上の覇権を英国から奪い世界一になるという目標が形成されつつあった。 当時鎖国を
していた日本はアメリカにとっては市場というより寧ろ中国、インド、東インド(東南アジア諸島)
への蒸気船航路の補給基地として必要性が高まった。 
  しかし米国政府内でも日本へどう迫るか中々意見の一致を見なかったが、そこに降って沸いたのが
アメリカ鯨漁船の日本への漂着である。 乗組員は日本に救助され長崎のオランダ商館経由で帰国
したが、彼らが日本で保護されていた間の待遇について不満を述べた事が針小棒大に宣伝された。
 米世論は沸騰し、鯨漁船が避難、補給が出来る様開港、及び人道に基く待遇の改善を日本に約束
させよ、日本が拒否するなら武力行使も辞せず、という強硬論が支配的となる。
 その結果人道主義の名の下に、強力な軍隊を率いた使節を日本に派遣する事が政府で決定される。 
 
  レヒソン・ヤッパン巻3の構成は、パルマーの書翰引用から始まり、アメリカの新聞・雑誌記事の
引用、オランダ、ドイツの学者の説引用、レヴィソンの意見等が複雑に入り組んでおり、江戸時代
の訳者も苦労したようであるが写本も読み難い。 明確な事は日本での米鯨漁民取扱いについて虐待が
あったという記事に対しては、レヴィソンは当事者として反論して日本を弁護している。 
又前述の様に米国の東洋貿易拡大という国家の目標が新聞雑誌記事の引用で読み取れる事である。 

  前回当HPで中浜万次郎が幕府に報告した内容の古文書を取上げたが、万次郎が1849-50年の
米国情報を正確に伝えたと云う裏づけにもなる史料がこのレヒソンヤッパン巻3である。  2−3の
写本を校合して翻刻、現代語訳、注を試みたが、世論の引用かレヴィソンの意見か分らぬものや
文章の連携が不自然なもの等で、必ずしも理路整然とはなっていない。

    
    レヒソン・ヤッパン巻3 翻刻、現代語訳 へジャンプ

視聴草続七集之七 国立公文書館蔵   拡大
タイトル:レイソンヤッパン抜粋巻之三
力石雑記巻34 北海道大学北方資料室蔵    拡大
タイトル:レヒソンヤッパン巻三


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