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レヒソンヤッパン巻之三
  外国人日本通商の企、亜墨利加人当今日本江
  志望之ことを載たる公顕の告牒記録の事
      レフィソン「日本」第三巻
 外国人の日本との通商計画、 最近アメリカ人が
日本に望む事を記録した新聞・雑誌の論調

原題:J.H.Levessohn, Bladen over Japan, 1852
我日本に在し時、ヘルミル人名の暦数千八百五十年
第一月八日、ワスシンクトン共和政治の都府より発したる
一翰を得たり、将又是に付属の書あり、是則彼地執事
衆議の時に告し説にして、既に日本の事に携りし議なり
是を蘭語に訳し左に出す
 私が日本に滞在していた時、アーロン・パルマー
氏の1850年1月8日付合衆国首府ワシントン発信の
書翰を受け取った。 此書翰には付属の書があり、
アメリカの政府が議会に報告したもので、日本に関
するものである。 オランダ語にして以下示す。

我: ヨーゼフ・ヘンリ レフィソン J.H.Levijssohn
 1845年11月1日から1850年10月31日迄長崎駐在
 出島オランダ商館長を勤める。 
共和政治に於て和蘭使節たる我友テスタ人名の計に
因て左の書を汝に贈る、大に良し 

第一シベリー
地名・マンシュラ同上北大平海中亜細亜州
 属島の地理・政事・商法録評定官の命に依て暦数
 千八百四十九年版する所なり
第二亜墨利加通商を東方に開弘する趣向にして
 東方独立の国民に携りし事に就て我友ケレトン
人名
 に与へたる書翰、評定官の命に依て千八百四十九年
 版する所なり
第三海上の事に携る執事の長キンク
人名、共和政治
 領分より南太平海を経、上海及広東に蒸気船の
 通路を開かんか為、弁利なる事を衆会館に示したる
 説、其命に依て千八百四十九年版する所也

第一第二は日本海岸にて亜墨利加鯨漁船ローレンス
船号・ラゴダ同上難破に及ひ、其漂民汝の扶助によりて
獄を免れ、共和政治に帰参のため汝の仁恵深切ハ
亜墨利加諸民感謝する所也、
   (以下パルマーの文の引用)
合衆国駐在のオランダ大使テスタ男爵の紹介で
次の書を貴職(レフィソン)に贈る。
1. シベリア及び満州を含む北太平洋アジア・属島
 の地理、政治、経済に関する記録で1849年に
 上院の指示で印刷出版したもの
2. アメリカ合衆国の通商を東洋に拡大する目的で
 東洋の独立諸国民に関するもので、私の友人の
 クレイトンに送った書翰で1849年の公開された物
3.海運に関する責任者キングが合衆国海域から
 南太平洋を経て上海及び広東へに蒸気船の航路
 を開く為に必要な事を議会に報告した内容で、
 1849年に公開されたもの。

第一、第二の問題に関してはアメリカ鯨漁船
ローレンス号及びラゴダ号が難破した際に、貴職の
尽力により漂流民達が入獄を免れ、合衆国に帰国
出来、アメリカ国民は皆感謝している次第である。


1.パルマー:Aaron Palmar, Newyork の法律家
2.ケレトン:クレイトン Jhon M. Clayton
テイラー
大統領の国務長官、交易のグローバル化推進者
3. ローレンス号、ラゴダ号の米国鯨漁船漂着民は
出島オランダ商館経由で米国に引渡された。
当HP「日本に漂着したアメリカ人」に解説 
4.テスタ: 原文はBaron Testa, 駐米オランダ大使
風聞記は此国に於て公説流布の具なり、漂民等日本
に於て非道の応接に逢の説専にして、速に共和政治
の軍勢を江戸に発向し、日本政府をして法律正整の
人民の制度に倣さしめ、亜墨利加通商の為、其湊港を
開き、
且サンフランスコー
北亜墨利加の地名より上海・広東に
通路すへき蒸気船のため、松前・対馬・琉球の地に
石炭場を設う趣向を促し、若其談判をシューグンス
乍恐公方様御事をいふ歟の方ニ於て及執政拒むに於てハ
日本政府承伏に及ふ迄、其都府にボムベン及焼玉を
放発して、国中の湊港を塞閉し恨を日本船に霽さん、
此意頻に止さる筋也、故に是を衆会館にて得る様に
すへし
我等当今諸説に因り、不日に太貌利太尼亜・仏朗西
の両国征戦に加勢すへし、素より日本無量の産物を
有ち土地豊饒にして、交易に莫大の利益ある諸品諸
出産する帝国の政府をして閉鎖の法を停め、政務を
法律正整の諸法民に改革せめん趣意なり


思ふニ是日本のため必大事なり、汝日本に朋友あらハ
告知して可ならん歟、
但亜墨利加人の文なり
新聞・雑誌は米国では公論の道具である。 是に
よると漂流民が日本で非道の扱いを受けたという説
が専らであり、直ぐにでも合衆国軍隊を江戸に送り、
日本政府に法律整備国家の制度を倣わせ、
合衆国の為に開港、及びサンフランシスコから
上海や広東と往復する蒸気船のため、松前・対馬
琉球辺に石炭貯蔵地を設ける事を日本と交渉する。

もし日本の将軍や老中達がこれを拒むなら、彼ら
が承知するまで江戸に砲弾を降らせ、国中の港を
閉鎖して日本船にこの恨みを晴らすだろう。 この様
な意見が非常に多く、これを議会で取上げるべき
である。 我々には遠からず英国・フランス両国も
この戦いに加勢するだろう。 

又日本は多くの産物があり、土地も豊饒なので交易
すれば莫大の利益が見込める筈なので、日本政府
には鎖国をを止めさせ、法制度を万国に通用する
ように改革させる趣旨である。

思うにこれは日本にとって重大問題であり、もし貴職
が日本に親しい友人があれば知らすべきではないか
 但しこれはアメリカ人(パーマー)の文である。
注:
風聞記: 新聞、雑誌等を指す。

 我此書簡に付添の雑説を悉く述るに暇あらす、只
 暦数千八百四十九年第九月三十日の亜墨利加風聞
 記中に強盛の旨趣を爰に著すものなり


 先日本に発向し其国をして亜墨利加人の損亡を購
 しめ、而して日本人向後善行を勤るの証を得、
 亜墨利加使節日本政府に在勤すへし、若此等の
 免許なき時ハ暴を以て砲煩を発するニ危踏の期なし
 此迅速の発向ハ専ら亜墨利加商法の利益を促する
 為なり、 但風聞記中の説なり

一公説録ハ亜墨利加州一般の通商、就中印度・唐国・
 日本と貿易の因を結ひ、殊に日本ニは鯨漁及蒸気船
 の通路を目指し、黄金富饒のカリホルニー
北亜墨利加州
 地名
より真に遠隔の東方を経、通商の基を開くの旨趣
 なり
 是寓説に彷彿たり


一オルドホイス人名は自著のテイドシキリフト書名中に
 暦数千八百四十八年の説を述へ、フーフェル
人名
 千八百四十八年のテイドシキリフト
書名中に此趣向に
 拘るケレトン
人名の書簡を載とあり
   (以下レフィソンが書翰添付書を引用) 
 私はこの書翰に添付の雑説の全て述べる時間は
ないが1849年9月30日のアメリカの新聞記事の中で
特に強調されているものを以下に示す


 先ず日本に軍を派遣し、アメリカ漁民への不当な
扱いに対する賠償をさせ、以後待遇を改善する約束
を取り付け、アメリカの使節を在勤させる事。 もし
この条件が満たされないならば、武力を行使する事
止むを得ない。 この迅速な軍隊派遣はアメリカの
商業利益の為である。 
  但しこれは新聞紙上の説である

 公論として米国の一般通商、中でもインド、中国及
び日本と貿易を行い、特に日本とは鯨漁船や蒸気船
の航路を確立し、金産出で豊かなカリホルニアから
遠隔の東洋との通商基礎を固める意向であると言う。
この意見は極めて多い

 オルドホイス氏は自著の書中に1848年の説を述べ
フーフェル氏tは1848年の上記書中にこの趣意に
関するクレイトン長官の書翰を載せるある。


一般公論としては
1. オルドオイス: Sloet Oldhuis 1807-1884
 1840年台に活躍したオランダ政治家
2.フーフェル:Walter R. van Hoevell 1812-1879
 1840年代活躍のオランダ政治家
3.テイドシリフト 蘭 雑誌、 
4.米国のパルマー、クレイトン、オランダの上記
 2政治家は何れも貿易拡大、グローバル化
 を唱えた。

一ペルミル人名は暦数千八百三十年より四十年迄
 ねーヨルク
地名にて亜墨利加及他邦のデイレクテュル
 ファンアケントスカッフ官名の任に因て、東方の諸政府
 其国司等と書簡応答し、印度及其諸島・唐国・豪斯
 多刺里等の名たゝる風聞記を定式得、近頃欧羅巴・
 英吉利・仏朗西・和蘭国巡行に当て、東方の国産・
 其人民の貿易通信の道を公に弁知せんが為、其国々
 に於て官府出入の赦免を得たり、是必ペルミル
人名
 地理・政事・商法記の肝要たるを知るの才あるを以て
 なり、此説を名付け東方不知国の著目あり 
   (以下著者によるパルマーの紹介)
パルマー氏は1830年から40年迄ニューヨークで
アメリカ及び他国との交易振興の任務を帯びており
東洋の各政府高官と書翰交換し、インド、東印度
諸島、中国、オーストラリアの著名な新聞・雑誌を
購読している。 近頃はヨーロッパ諸国、イギリス、
フランス、オランダ等を旅行し、東洋の産物や各国
の貿易情報を提供する為、各関係官庁に出入り
している。 これは偏にパルマー氏が各国の地理、
政治、商業に精通している故である。 これらを
纏めて「東洋の未知の国」の著述がある。


ペルミル: パルマー Aaron H. Palmer
 元々は法律家で米国と海外取引のクレーム処理
の仕事をしていたが、米国の貿易振興の責任者の
様な立場で、東洋との貿易拡大策を米政府に
しばしば進言している。
 ペルミル人名曰、前のセケレタリスデルシカットカームル
官名ワルキル人名此著書を検閲し、我国の通商を開弘に
必要たるを知り、此著述普く諸方を経歴して未審の国之
政務産物等を料簡し、就中北亜細亜州にコンシュル
官名
アケント
同上等在任せざるといえとも探索を極たる功讃へ
あり
扨ワルキル
人名此著述を他邦の新説によりて補ひ、是に
地図等を具属し、近来測量に依て全備せしめ、政府の
庇蔭にて公論の書とするの志念ありて推挙せしニ、
評定館の執事免許の意あれとも、其有司の評決にて
空敷なれり、実に嘆するに余あり


一暦数千八百四十八年第十二月十一日ワルキル人名
 
著述の修歳記録の載たるハ共和政治、東方独立の
 国民と議談ニ及ひ、古よりいまたあらさる所の通商開
 興に於てハ、共和政治国中商業貢税に拘る弘大の
 有益なり、東方の国民人丁通計凡拾億の数なり、将又
 此通路にて我蒸気船南洋に至れハ、ワルキル
人名
 
思考の如く、我国の有益に於て世上の商業一変し、
 我国弘大安寧、盛権政整興国以来多々栄盛ならん


一去月八日汝に与へしねウヨルク地名ヘルチモール同上
 
の記録を熟覧して、以て是を国司及びカヒネット官名 
 に呈するを願ふ所なり、蓋第二月廿四日国司の任を 
 受たる都督テイロル人名に此ねウヨルク地名記録を
 贈たり、 
 此記録中ニ共和政治の政府より使節を唐国に向け、
 是に相当の勢を具属し、此辺にある東北亜細亜及
 印度諸島の通商道を開き、此使節唐国に赴の序、
 東亜仏利加アベイスシニエ
地名アラビヤ同上等の
 名たゝる港に至り、亜墨利加の足さる所を補んか為
 其地の産物等を識知するの命令を受んと欲す、
 此告牒に唐国・東印度海通商の大任を受たる官府
 ねウヨルク
地名のバンキール金銀指揮役
 アスシュラテュール
保証職・ニートル船主・シケープス
 ホウヽル
船工等名を記せり、偖此告牒を共和政治の
 アゲント
諸侯或執政・諸所の裁判館・ねウヨルク地名
 諸執事等良善とし、加之フィセプレシデント
官名
 フィルモール
人名及びセナテコール官名シワルト人名
 
此告牒の趣意貫徹専要とせり

一如斯して評定官・鑑官に与ふる記録に高貴の官人
 各名を記し、暦数千八百四十六年第六月一日テイクス
 
人名より評定館に与へ、尚外国の事に関るコミサ―リス
 
官名に贈たり

一ヘルチモール
地名の記録にハ其地に名たゝる商家等
 名を記し、東方の国民と貿易の固を結ハんがため、我
 政府より特に使節を送るを促せり

一此強盛の亜墨利加共和政治は人民興発急速に備ハ
 り、普く航海貿易に繁栄の国と同列するとも、聊
 恥る事なし、時既ニ至り亜墨利加政官等勉て他邦
 の産物・地理・政事・風俗を明弁し、我国の交易を
 外国に開弘し、有益によつて外国と好をむすふ事
 肝要なり


一専ら我政府の法則たるハ、只東方の人民と通信貿易
 の道を開くを係要とするのミにあらずして、尚通商
 航海自在の記験を普く北洋より南洋に示し、則
 我星旗をして恭致せしむるにあり、加之、政府に於て
 亜墨利加人民及び其正直の交易を警固する事西方
 より東方の地に至らしめ、諸海に及ぼすを勤労とす、
   但シ記録中の説なり
     (以下再びパルマー書翰引用)
 パルマー氏曰く、前の財務長官ウオーカー氏は
この著書(前述)を一見して、米国の通商拡大が
必要と認識した。 此著に東洋の未知の国々の
産物等述べているが、これらに地域に領事や公使
が滞在していないにも拘わらず、詳しく調査した労
を讃えてくれた。
そこでウオーカー氏はこの著述に更に他国の新説
も加え、地図や測量情報も具備して、政府の基本
方針とすべく政府部内に計ったが、最終的に
取上げられなかった事は実に残念である。

1848年12月11日のウオーカー長官の財務報告
では合衆国政府は東洋の独立国家と交渉し、過去
に無かった通商を樹立する事が合衆国の税収に
有益であるとした。 
東洋の国民は人口凡そ10億を数え、この地域に
蒸気船で航海すればウオーカー氏の考え通り、
米国の商業は大きく変わり、国家の安寧と長期繁栄
を享受する事ができるだろう。

貴職に送ったニューヨーク市とボルチモア市の新聞
記事を熟覧し、これを大統領及び閣僚に知って貰い
たいと思い、 昨年2月24日新に大統領に任命され
たテイラー氏にこのニューヨークの記事を送った。
この記事には合衆国政府より使節を中国におくり、
彼に相当の軍隊を付け、東北アジア、東印度諸島
と通商の道を開く。 又その途中東アフリカのアビシ
ニアやアラビアの主要な港に立寄り、米国の
足りない物を補う目的で、其地の産物を調査する事
を命令して欲しい。 この要望書には中国や東印度
各地と通商する大任を受けるニューヨークの銀行、
保険会社、船主、造船会社等が名前を連ねている。

尚この要望書に合衆国の代議員、裁判官、
ニューヨーク市の議員等全て賛成であり、加えて
副大統領のフィルモア氏、上院議員のシュワルト氏
はこの要望書の趣旨を貫徹する事を唱えている。

この様にして議会に提出する要望書に地位ある
人々が署名し、1846年6月1日テイクスより議会に
提出した。 尚外交委員会にも同時に諮った。

 バルチモア市の新聞によれば、其地の有力な事業
家達が名を連ねて、東洋の諸国と貿易協定を結ぶ
為に合衆国政府が使節を送る事を督促した。

 発展するアメリカ合衆国の国力は急速に備わり
是迄航海貿易で最も繁栄した国と比べても少しも
そん色がない。 今は当に政府を挙げて他国の
産物、地理、政治、風俗を研究し、我国の交易を
世界に広げ、諸国と友好を結ぶ事が重要である

 合衆国政府の法則は、単に東洋の諸国民と国交
貿易の道を緊急に開く事だけではなく、 自由貿易
及び航海自由の保証を北太平洋から南太平洋迄
確立し、即ち我星条旗を各国民に尊敬せしめる
事である。 加えて合衆国政府はアメリカ国民が
行う真面目な交易を警固し、西洋から東洋に至る
迄カバーする事である。
 (但しこれは新聞中の主張である)


1.ワルキル:Robert Walker 11代ジェームス・ポーク
 大統領1845-49の財務長官、 貿易拡大で関税を
 増やし国家財政を立て直す事を図った
2.テイロル: Zachary Taylor 12代アメリカ大統領
 1849年3月4日就任、1850年7月病死

3.
フィセプレシデント Vicepresident  副大統領
 Millard Fillmoreは1850年7月 Taylor 大統領
 死去により 第13代大統領となる
4.要望書の議会提出が1846年6月1日とあるが
 フィルモアが副大統領になったのは1849年であり
 日付が合わない。 1849年6月1日の間違いか。

一此公顕の告牒中、日本に携る説のミ抜粋して左ニ出ス
 
一日本と通商の道を開き、以て高麗と貿易の好を結ぶ
  期に至れり、元来朝鮮及び其他湊港は高麗南東の
  海岸なり、其地の住民フュンフュンの港を経て日本と
  交易す、扨日本対馬島及フュンシャンの海街は高麗
  裏面の海岸也、其交易ハ聊他に免す事なく、唯対馬
  の国王麾下のみに限るなり、対馬ハ高麗の海口に
  ありて日本と高麗の交易便宜の地なり、此地をして
  亜墨利加人等志望する所のサンフランスコ
地名
  上海・広東の通路に供する石炭囲所たらしめ、
  究意の土地とす、世人説に日本に境界するの土地、
  石炭潤沢なりといへり
 
(以下アメリカの雑誌・新聞掲載日本記事抜粋)
 米国で公に出版された新聞、雑誌中で日本に
関する記事のみ抜粋して以下に示す

 日本と通商の道を開き、更に朝鮮と貿易する時期
にきた。 元来朝鮮国の港は半島南東に位置し、
その地の住民は半島の裏側に当る釜山港を経て
日本と交易を行う。 この交易は対馬藩主だけに
幕府より許可されている。 対馬は日本と朝鮮の
交易に便利な場所である。 
此地はサンフランシスコから上海・広東に向う船舶に
供給する石炭を貯蔵するのに良い場所である。 
又日本のこの近辺に石炭が潤沢に出るという情報も
ある。


1.釜山には倭館がおかれ対馬より役人が駐在した
2.九州の筑豊炭田は明治以降日本の有数の炭田
となったが、 この頃すでに着目されてたとも思える
           
一日本ハ独立にして其人性偏慝の質あり、此国暦数
  千六百三十年来唐和蘭の外外民の貿易を断絶せり
  雖然、暴策或ハ時勢によって世上一般盛なる貿易の
  志念を以て其偏慝の意を折くの期に至らん、今西方
  に於て貌利太尼亜の盛なるが如く、必一度ハ東方
  にて是に等しき威を振ふの国とならん


一日本人之精神頗ル敏盛にして、其性質亜細亜人と
  比較すれハヤヽ欧羅巴人に近し、且諸品発明するを
  旨とし、其接対廉直にして、頻に外民の礼節習風を
  探索し、世上の興廃動静を明らめ、西洋人の学術を
  知るを要事とす、又日本人ハ才能多く節倹を守り、
  行作正潔にして、友人の交応甚敦厚なり
  蓋一たび恨を含めハ其念解けず是を和する事至て
  かたし、長者を敬恭し是に伏従慎謹する事、普く
  諸民日本人に対揚するもの少し、其性意高貴
  なるを以て東方人民の類にあらずして、盗窃或は
  什物の為に罪科を犯す事稀なり、偖日本ハ二百
  五十年来国を鎖し、人民一統して独立特行し、政
  度法令一定して国語も古に同じ、宗旨只一信にして
  唐国の制令に従わず、いまだ曽て外民に降伏せず
  将外国の所属たらざるものなり


一日本語は文字の連綴数多く、仮名は四十八字を数ふ
  語音静清にして東亜細亜州に於て頗る整備た
  り、又此語唐音にもあらず、又亜細亜州他邦の部類
  にあらざる也、偖日本人ハ自国の文字備り、其数最
  多し、学校ありて若輩の男女貴賎、始学の教示を
  うけ、大学館にハ高貴の学術、則測量・天文・地理
  亜細亜欧羅巴州の名たゝる国語の学識あり、又
  江戸に書庫あり、世人の説に此書庫に書冊丁数
  十五万備へあるといへり、将日本人ハ都て学問法律
  に長じたること、唐人に勝れり、又諸件に頗秀する
  の性あり
    (日本人の性質・文化)
 日本は独立した帝国で不思議な国である。 この
国は1630年以来オランダと中国以外の外国との貿易
を断絶してきた。 しかし、世界的に貿易が盛んに
なっている今、この閉鎖性を打ち砕く時がきている。
現在西洋では英国が隆盛である様に、必ず一度は
此国は東洋で英国に等しい地位を占めるだろう。

 日本人の精神は非常に軒昂で、その性質はアジア
の他民族と比較すればややヨーロッパ人に近い。
常に新しい物を作り出す事に努力し、応対は廉直で
外国の礼節や風習を研究し、 世界の動静を知り
西洋人の学術を学ぶ事に熱心である。 
又日本人は有能で節度、礼節を守り、友人との
付合いも誠実で人情に厚い。
しかし一旦裏切られるとその無念は解けず、中々
和解するのが難しい。
年長者を敬い、これに遵う事について日本人に比較
できる国民は少ない。
気位が高い事は東洋人らしくなく、金品の盗みで罪
を犯すものは稀である。

日本は250年来国を閉ざし、人民全体独立一体で
政治法律は安定しており、国語も昔のままで宗教も
只一つである。 いまだかって中国の政令には
従った事なく、又外国に属した事もない。

  日本語は文字の連続が多く、仮名は48文字から
なる。 発音は清音で東アジアではよく整っており、
中国式でもなく、アジア諸国のどの言語にも属さない
 日本には自国の文字があり、その数は非常に多い
学校があって若い男女、貴賎に拘わらず学習の指導
を受け、高等教育機関には高度の測量、天文地理、
アジア・ヨーロッパ各国語の学識者がいる。 
 江戸には図書館があり蔵書は15万冊に及ぶという
又日本人は全て学問、法律に関して中国人に勝り、
あらゆる観点から極めて優れた性質をもっている。


1.只一信: 仏教の事か
2.これらの日本人観はシーボルトの「日本」や
 ケンペルの「日本」によると思われる
3.江戸の書庫: 江戸城内の紅葉山文庫を指すと
 思われる。 将軍のみならず各役人、幕臣、学者
 も書物奉行の管理の下で借り出せたと云う
4.性偏慝の質; オランダ語原本はgeheimzinnig
(=mysterious, 不思議な性質)となっている

一此国の貿易航海を営む輩は外民と交親の厳禁緩綽
  ならん事を庶幾するの意甚し、蓋外民は当今
  唐・和蘭人長崎に来着するのミなり、雖然国政法度
  の擾乱を畏怖して鎖国の法弥厳なり


一九州薩摩領鹿児島港の商民ナバキャン海名を経琉
  球海上ニ於てフェンシャン人と貿易す、其売物ニ
  亜墨利加産の木綿織等あるなり、此貿易世人の説に
  薩摩国主の免許に依て遂るといへり、但し其国主
  日本帝族にして、琉球及び鹿児島の太主なり、
  偖日本政府に於て厳禁ありといへとも、其国属地の
  商民世人欲する意のごとく、密かに唐及び魯西亜人
  と貿易す


一日本国中大都会の市店にハ農工の諸産物ありて
  遠近の人民群集す、将タ国中の商業農作江戸・京都
  大坂・下関・鹿児島・サンカル
島名・小倉・長崎・土佐
  松前の市街に於て商買の品物の値牒を作るとあり、
  又産業を励すの法令あり

一大阪は外国産物の大市なり、此街民生頗る夥く、
  土地淀川口にありて住民、商業繁栄を以て他所に
  勝るもの也


一日本と和蘭通商は舶数二艘を限として、年々第六月
  交留巴より発す、四年を経使節貢を齎して江戸に
  赴向す、
  将又唐国と貿易は乍浦より長崎に来るを限り、年々
  舶数十二艘を定む、其搬齎する品物に亜墨利加産
  木綿織夥くあり、是を対馬国主の商館より高麗に送る
  なり

一和蘭売物の員数定限ありて甚少し、其運賃は又甚
  多し、爰を以て考ふるに此国一度外民の為湊港を
  開かハ舶齎の品物を請ひ求る事疑なし  

一此国より搬送する品物に就て疑問あり、日本銅坑
  外国諸州の物に対揚する事ある歟、就中近頃豪斯
  太刺里州に銅坑の発明あり、雖然日本と貿易せハ
  其利潤弘大なる事更に疑なし


一日本にハ貴重金類の坑夥くあり、爰を以て暦数千
  六百十一年より千七百六年頃数多金銀銅日本より
  外国に出せり、此儀日本政事館の記録にありと公
  の説にあり、我其事を翻伝するに四十一億三百三万
  六千八百ドルラルス
銭名の高なり、大日本島に黄金
  潤沢也、故に坑業に限際の法あり、然らざるに於て
  ハ通用の貨過多なるに及ぶを以てなり、蓋此国
  通用の貨は金銅銀なり
    (日本の交易、商業の現状)
 この国の貿易・航海を業とするものは外国人との
交際厳禁が緩和される事を望んでいる。 しかし
今のところ外国人は中国とオランダ人が長崎に来る
だけである。 緩慢化する事により政治や法の乱れを
畏れて鎖国の法は益々厳しくなっている。

 九州薩摩藩では鹿児島港の商人達が東シナ海を
経て琉球海上で福建省人と貿易を行っている。 
この商品にアメリカ産の木綿などがある。 この貿易
は噂では薩摩藩主の許可で行っているというが、此
藩主は江戸の将軍の親戚で、琉球及び薩摩の太守
である。 
 幕府では密貿易を厳禁するといっても、この藩主の
国に属する商人は好きな様に中国や魯西亜人と
密貿易を行っている。

 日本国中、都会の商店には農工産物が並べられ
遠近の人々が集る。 国中の商品、農作物は江戸
京都・大坂・下関・鹿児島・サンガル・小倉・長崎・
土佐・松前の市街で商品が売られている。 
又産業を促進する法令もある。

 大坂は外国産物の大市場である。 此街は非常に
人口も多く、土地は淀川の川口にあり、商業の繁栄
は他の街に勝るものである。

 日本とオランダの通商は一年に船二艘を限度とし
毎年6月にバタビアを出港する。 4年毎に使節
(出島商館長)が貢物を伴い江戸の将軍に拝謁する
尚中国との貿易は乍浦より長崎に来る事に限り、年
12艘と決めている。 此時持込む商品にアメリカ産
木綿が大量にあり、これを日本は対馬藩経由で朝鮮
に送る。

 オランダから売るものは数量制限があり、その運賃
は非常に高い。 この事からすると、日本が一度
開港すれば、舶来品を買い求める事間違いない

 此国から輸出する商品についてはどうだろうか、
日本の銅は諸国の物に匹敵するか、特に最近は
オーストラリアの銅が発見されている。 しかし日本
と貿易すれば利益は多い事間違いない

 日本には貴金属の産出が多く1611年から1706年
迄大量の金銀銅を日本から外国に出荷した。 是は
は幕府の記録にあるという。 これを試算すると41億
3百3万6千8百ドルになる。 日本は黄金が潤沢だが
産出を制限している。 もしそうしなければ通用する
貨幣が多くなりすぎる為である。 尚この国の通用
貨幣は金銀銅である。


1.薩摩は琉球を経由して中国と貿易する事が認め
 られていたが、このルートを利用した密貿易は有名
2.江戸幕府将軍で最長記録を持つ11代徳川家斉
 の正室は薩摩藩主の島津家から出ていた。
3. サンガル: 津軽 サンガル海峡=津軽海峡で
 商業都市として何れを指すか不明だが、函館か
4.日本銅坑:オランダからの商品購入を棹銅で決済
してきた事が過大に語られ、総じて日本からに
輸出品に関しては極めて曖昧である
 
一亜墨利加鯨漁民去年キュルリレン島北方港湊海岸
  にいたり漁業を始めり、衆民夫の為に大幸を得たる
  を以て、大抵此年々漁船の航通増益するならん
  抑此海辺遠隔不知案内にして精密の地図備へざる
  を以て既に数多船舶難破の患災あり、説に聞く是
  抔の災害に罹りしもの、ローーレンス
船号・ラゴダ同上
  デフイットヘットトック
同上なり、爰を以て懸念するに
  向後かゝる災厄に逢ふ者多からん


一ローレンス船号難船の時に当て助命の者ありて、
 日本キュルリレン島に哀情に堪へ難き形状にて上陸し
 たるに、一七月の間囚れの様に行ハれ警固厳く、其
 接対甚だ人道に戻れり、蓋其一人囚厄を免れんが為
 走るものあり、是を捕ふに日本番兵理不尽の業作
 あり、此条評定官の命に依て、暦数千八百四十八年
 第三月四日の記誌あり、是我手牒に異ならず

一ラゴダ船号の乗組も亦上陸場所の長より幽囚せられ
 滞在中尚如斯なり、偖デフィットベットトック
船号
 乗組はエニハ港に上陸せり、此地は則テラベー島の
 南西の方にありて日本領なり、此漂民温和に遇接せ
 られ、値を責さずして食住を得たり、雖然常ニ番兵の
 警固厳重なり、既に三日を経て米水を恵与し、其地
 の吏役漂民をして自己の端舟に遂退せり、其後暫々
 を経て、松前近海に於て亜墨利加鯨漁船主デコロ
 ーフ
人名に救助せられたり

一要用品物・水等の欠乏、或は烈風強雨の時に当り、
  鯨漁民・商売の輩止むを得ずして屡日本港内に来り
  破船の患を避る事あり、只唐・和蘭人に限りて長崎
  港内に其館を設け、其他日本に来る外民ハ災厄に
  逢ひ不得止して其期に及びし者も忽囹囚せられ、
  而して番兵警固ありて長崎津に送らる、其地に於て
  再び囹囚せられ、日々に与ふる所の食物は僅に
  米魚水のみ、加之幾多無恕の辱をうけ、既ニ絵板を
  踏せ、是に吐唾せしめり、実に艱難に逢ひし
  我窮民斯の如く暴戻に接対せられ如何して片時も
  忍ぶべけんや


一斯る患情を以て我政府須臾も堪る事を得ず日本
  ショーグン
前に訳すに書翰を贈り、以て其政府に
  我民鯨漁航海通商を営むものゝ為、患を除かん事
  を請ひ、暴風雨剛雨の時、其港内に来り危難を凌ぐ
  事を得、欠乏の諸品を当時の値を以て購ひ、将タ
  破船の時は其接遇賓客の饗応ありて、急速咬留巴
  在住の共和政治コンシュル
官名に回帰せん事を
  庶幾す、蓋其費用はコンシュル直に弁すべし


一此道理正実の冀望若しショーグン拒むに於てハ
 我政府廉直の旨意に本つき、人倫徹適の誉光を
 輝し、日本政府に対し強威を振ひ、此冀望の道を
 開ん、蓋江戸港・松前津の閉鎖を開くに僅二艘の
 フレガット艦を以て事足るへし、而して騎夸の日本
 政府をして速に我本意に伏従するに至らしめん

 (アメリカ鯨漁船の日本漂着とその取扱不満)
 アメリカの鯨漁民は昨今千島列島の北方海岸で
漁業を始、実入りも良い為年々漁船の操業が増え
つつある。 ところがこの海域は遠方で不案内で、又
精密な海図もなく、多くの船が難破する患いがある。
 聞くところによると、この難に遭遇した船として
ローレンス号、ラゴダ号、デフィットベットドック号が
ある。 今後も此災難に逢う船が多いと懸念する。

 ローレンス号が難破した時、助かった者たちは惨め
な状態で日本の千島列島(エトロフ島)に上陸した
ところ、17ヶ月の間囚人の様に扱われ、警固も厳しく
人道にもとるものだった。 
更にその内の一人が逃げようとしたところ、これを
捕らえる番兵に理不尽な行いがあった。 この件が
1848年3月4日の記録にある。 

 ラゴダ号の乗組員も上陸場所(松前近郊)の役人に
幽囚され滞在中は上記と同様である。
デフィットベットドック号の乗組員はエニハ港に上陸
した。 此地はテラベー島南西にあり日本領である
この漂民は温かく扱われ、食事住居を与えられた。
しかし番兵の警固は厳しく、三日後米、水を与えられ
上陸した自分達の捕鯨ボートで出て行く様云われた
其後暫くして松前近海でアメリカ鯨漁船のデコローフ
船長に救助された。
    
 必要な物品水等の欠乏時、或は強風や豪雨の際
鯨漁民あるいは商船の者達が止むを得ず、しばしば
日本の港内に避難する事がある。 中国オランダ人
に限り長崎港内に自分達の館を設けているが、他
の外国人は災難に遭遇し、日本の港内に非難すれ
ば忽ち囚われ、厳しい警固の下長崎に送られる。 

長崎でも又囚われの身で食物と云えば、米魚水だけ
で、其上思いやりのない辱めを受け、踏み絵や是に
唾棄させる等の苦しみを受ける。 かかるわが国民
に対する仕打ちをどうして片時も堪えられようか。

 この切実な願いを日本の将軍が拒むなら、わが
政府は正当な趣意である人道主義の御旗を立て、
日本政府の対し武力を以て、この願いを通すべきで
ある。 江戸港、松前の閉鎖を開かせるには僅か
二艘のフリゲート艦で事たりるはずである。 こうして
驕り高ぶる日本政府に速やかに我々の本意を認め
させよう。


1.ローレンス号: 1846年6月アメリカ鯨漁船乗組7名
 がエトロフ島に漂着、同島より松前経由長崎に
 護送、1847年秋に帰国するオランダ船に引渡
2.ラゴダ号:1848年6月松前近辺にアメリカ漁民15人
 が漂着。 長崎に護送され1849年4月プレブル号
 に引渡。 この間脱走を繰返し牢に入れられる
 15名の内2名病死
3.デフィットベッドドック号: この記述以外には全く
 日本側記録には見えない。 エニハ、テラベーの
 場所不明。  カラフト南端にアニワ湾というのは
 あるが、テラベーをカラフトとする資料はない。
一外民日本海通帆繁盛し、亜墨吏加鯨漁民・商売の
 輩其他西邦の人民商売航海を事とし、或は地理或ハ
 学術に志し、発明を旨とするの輩、其地ニ来るを以て
 日本政府力に及はず、終に鎖国之法を全する事
 得ざるべし


一地理に拠れハ日本は島なり、港湊碇場最良之住民
 満々して頗勉励の性あり、其人丁五千万に過ぐべし
 国産無量にして貿易品物界際なし
 王侯貴人聡明英知実に国民の博識工材志望最甚し
 爰を以て他亜細亜人に比すれハ其質遥に勝れり、
 此国偏屈の政度賢良の緩改により天然人作無量の
 有益を以て、共和政治と貿易の因を結び大幸を
 得べし、蓋其国の権盛及宗門に聊損害なし


一亜墨利加鯨漁船マンハッタン船号船司メルカトル人名
  
暦数千八百四十五年江戸港に至り、日本漂民二拾
  二人回帰せり、但し此漂民は海中に於て沈船に在し
  を、島に在しを救助せしもの也、
  其後千八百四十六年第七月、共和政治一手の水師
  提督ビットル
人名、其他士官等江戸港に到り其大度
  厚意懇雅を以て、日本政府及其民に我国風の高貴
  なるを示せり


一暦数千八百四十七年貌利太尼亜人、高麗諸島の内
 最大のクウエルハールト
島名及唐国北方、日本南方
 の海岸に境界するマルタ
島名此二島開興の企あり、
 蓋しクウエルハールトは軍艦其他船舶の繋場、
 マルタは唐国海測量研究のため供する所なり、是必
 英吉利長崎に渡来の志念ある萌にして、此年唐人 
 魯西亜人に満州大河アミユル
河名の出入を免許し
 北東亜細亜の国は、其港湊及び近隣の島を外民
 通商のため開たるを以てなり、是果して日本政道
 一変し、外国と通親開発の道となり、帝国たる日本に
 亜墨利加通商の基となるべし


一日本亜墨利加両国の交接意の如く整ひ、唐国に亜
 墨利加蒸気船通路之企、蝦夷都府サンガル
地名海門
 に接する松前及対馬の属島フェンフェンク
島名の湊に
 石炭場を設け、以て成就するに於てハ日本人のため
 其政務・商業に益ある事夥し、而して日本人蒸気船
 製作・運用、当今発明改革したる陸戦海軍の法則を
 現在習学すべし、是即日本人性頗勇なるに因り、其
 政府をして外民の襲来を防ぎ、国家の危難を除き、
 東方第一の水師強盛・通商繁栄の国たらしむる為
 要務なるべし、加之我蒸気船来着の便宜により、其
 政府に外国諸州の政事・商法・学術の告知速なる事
 咬留巴より発する蘭船、乍浦より来る唐船に勝るべし

一当今和蘭人は往昔の如く日本と外民の交接を妨る
 の意更になし、彼其所領印度の商法を緩改するを
 良策とせり、抑去年第三月十七日死去の和蘭前国王
 日本に外国通商開興の説を伝へたる事世人の知る
 所なり、思ふに其嗣子第三世ウィルレム
人名若我政府
 彼に日本開興の為公に願ふ時は是を不佳とせず
 して日本政府に信告し、以て亜墨利加通商の為、
 日本港湊を開くの理を説くべけ

 (日本と取巻く外部要因と鎖国の継続困難)
外国人の航行が日本近海で活発になり、アメリカ
鯨漁民や商人、その他西洋の諸国民による商売や
航海を行い、或は地理・学術を志し、開発を行う者
達が日本に来るようになれば、日本政府の力尽きて
鎖国を続ける事は出来ないだろう 

 地理的に日本は島国であり、港に適した場所多く
住民は多く極めて勤勉である。 人口は5千万人を
超える筈である。 産物も大量にあり貿易する商品
も限りなくある。 王侯貴族は英邁で国民も博識で
生産志向も高い。 これは他のアジア人に比べ
著しく勝れている。 この国が鎖国制度を弛めれば
天然資源と勤勉な国民が作り出す価値により
合衆国と貿易を行う事で大きな利益を生み出す
だろう。 それでも此国の政治、宗教には少しも
損害はない。

 アメリカの鯨漁船マンハッタン号の船長メルカトル
は1845年江戸港(浦賀)に到着し、日本の漂流民
22名を引渡した。 彼らは海中で沈没する船から、
又無人島(鳥島)に漂着した者達を救助した。 
其後1846年7月には合衆国の一翼の海軍提督
ビッドル及び其士官等が浦賀に到着し、堂々と
厚意と懇親を示し、日本政府及び同国民に米国
が高貴である事をしめした。

 1847年イギリス人は朝鮮の島の中で最大の
クエルハールト及び中国の北、日本の南にある
マルタ島の二島の開発計画を持っている。
クエルハールトは軍艦その他船舶の繋留場、
マルタは中国海域の測量研究な為に使う目的で
ある。 これはイギリスが必ず長崎に渡来する意志
がある兆しである。 此年清国はロシアに満州の
大河アムール河の出入りを許可し、北東アジアの
国は其港及び近隣の島を外国通商の為に開いた。
これらの事で日本の政策が一変し、外国と親善を
開く道となり、日本とアメリカの通商の基本となる
だろう。

日米両国の交渉が成立し、中国へのアメリカの
蒸気船の航路の計画は、蝦夷地の津軽海峡に
接する松前及び、対馬の属島フェンフェングに石炭
貯蔵所を設ける。 これが完成すれば日本の為に
も政治経済において有益である事が多い。 
こうして日本人は蒸気船の製造、運航、又最近開発
の陸戦や海軍の制度などを習熟できる。 この事で
日本人は元々勇敢な人種なので、日本政府は外国
からの攻撃を防ぎ国家の危難を避ける事が可能と
なる。 これは日本が洋一の強力な海軍国となり、
通商で繁栄する国とする為に必要な事である。

加えて蒸気船の到来により政府は諸外国の政治
経済、学術をいち早く知る事になり、これは現在
バタビアからのオランダ船や、乍浦からの中国船に
勝るだろう。

現在のオランダ人は昔のように日本が外国と交際
する事を妨げる事はなく、自身の東印度領を充実
させる事に重きを置いている。
昨年(1489年)3月17日死去の前オランダ国王は
日本に外国と通商を開く事を勧めた事は有名で
ある。 従ってその後継であるウィルレム三世も日本
の開国につきアメリカ政府から依頼すれば、同王も
快く日本政府に働きかけ、開国の利を説くだろう


1.マンハッタン号は当HP「日米初出会」参照
2.ビッドル提督は当HP「日米一触即発」参照
3. クエルハールト 蘭Quelpaad 済州島の事
4.マルタ 不明
5.アメリカ蒸気船通路: 米国の西海岸からの
 太平洋航路の開設の一環に日本が必要である事
 を言っている。
6.オランダ国王の開国進言: ウィルレム二世の
 開国進言は当HP「和蘭告密」で解説している
一使節賢良ニして事を遂るに何の難き事かあらん、唯
 世法統領たるショーグン、神法統令たるミカドをして
 此意を明悟せしむるのミなり、我趣意日本宗門・政事
 ニ関係するの念なし、日本と和順し双方有益の貿易
 を庶幾するのみにして其国家城郭商館所領ニ望なし
 又其国を政抜する意更に無し、只我民日本通商免さ
 るゝに於ては、其法度を守るに甚だ慎ミ、貿易の運上
 を納め、其宗門・政事に関係するを厳禁し、其国の
 君長・法則を敬恭すべし、是を日本帝国政府免許
 せハ速に共和政治の使節江戸に到り、通商の条目
 を定むべし、但日本政府の其港内に於て、亜墨利加
 通商安全を計る所ニ従ふべし、将又日本国民彼港
 内に来り貿易するものあらハ、これを衛護するの誓約
 を立て、日本・共和政治両国の和親をして不易なら
 しめん、 但し公顕告牒の説なり

一記者の説に此使節の旨趣ハ琉球及び其他島々に到
 り、其独立して国王ある地は是を誓約し亜墨利加
 国民防禦のため蒸気船印度・唐国・日本海往来する
 の希望を遂んとなり、其語にいわく
 亜墨利加人の権威を顕して、以て彼独立国王誓約
 違背する時ハ是を征んが為忽ち発興し、将タ廉直の
 商業を営む亜墨利加人民の為其危急を除拒するの
 意を示すへし


一此録誌に日本坑或は林ニ産する貨財の著標を付属
 せり、是貿易・蒸気船等のため専要なり、尚是を
 ヒュンボルト
人名の説を以て増補せり、其説を抜粋し
 左に出す

一名誉ヒュンボルト
人名の説に欧羅巴と日本の交接の道
 を開く期は、パナマ
地名の穿地を漕路とし両大洋接合
 の時に先じ難し、此企成就せハ亜墨利加・唐国・日本
 の西方北西海岸の産物行程六千里を減じ、欧羅巴
 州及亜墨利加共和政治に運送せられ、東方亜細亜
 の国政大に変ずべし、此国は数百年の間唐・日本の
 楯となるが故也


一亜墨利加人の智謀巧才によりて、当今パナマ
地名
  穿地に轍路を開くの企あり、これをニウガラナータ
国名
  の政府よりエスピルワルト
人名・スティフンス人名
  ショーンシー
人名に免許し亜墨利加商売の為設けん
  とニウヨルク
地名に於て評決せり、既に其道程測定し
  不日に是を始起すべし、世人の考に此轍路、暦数
  八百五十一年第一月成就すべきなり


一爰に漕路鉄道・マグネティーセテレガラーフ磁石の気を
  以て事を告知する
を以て交接するの企あり、其説を左に
 出す


一カリホルニ
地名オレゴン同上の海岸広大にして亜墨利
 加州益盛なり、我民印度・唐国海通帆弥増し、南海の
 通商・漁業繁栄し、去年日本及び其所領の海岸蝦夷
 オホツカ
地名の渚カムシカツトカ地名・ベーリングスタ
 ラート
同上及び氷海を通航するに至れり、北辺発向の
 船数凡千二百箇、水主人丁三万五千に過ぬ、爰を
 以て我民通商航海を司り、海上の権柄を大貌利太尼
 亜の手より我国に譲り治平にして是を掌握するの期
 ならん

一サンフランシスコ
地名商業に利益ある事著明なり、其
 港南海に於て遠隔東方通商の都会となるべきの説
 あり、左に出す
 (アメリカの東洋貿易拡大と日本の必要性)
有能な使節であれば何も難しい事ではない。 唯
世俗の皇帝である将軍と、宗門の皇帝であるミカド
に理解させるだけである。 アメリカの趣旨は日本の
政治や宗教に干渉する積りはない。 日本と国交し
双方に有益な貿易を願うだけであり、国土や城郭
商館など所有する気もない。 勿論日本を攻撃する
意図等全くない。 
アメリカ人が日本との通商を許可されれば、その
法律を慎み守り、貿易に関る関税を納め、宗教や
政治に介入する事を厳禁する共に日本の役人、
法律を尊重するだろう。

日本政府が是を許可するならアメリカは速やかに
合衆国使節が江戸に至り、通商の条目を定める
だろう。 但し日本政府はその港内においてアメリカ
人の通商安全を計る事、 又日本国民がアメリカの
港に貿易に来ればアメリカはこれを守る誓約を行い
両国の和親を堅いものにする。
   以上は一般に公開された意見である
 
 記事の中でこの使節の目的は琉球及びその他の
島に至り、国王のある地域では約定を行い、蒸気船
がインド、中国、日本を往来する際に、アメリカ国民
を保護する事を希望する。 その中の記述では、
アメリカ人の権威を示し、独立の国王が約定に違反
すれば、直ぐに軍を派遣する。 又正当な商売を
行うアメリカ人が危険に晒されれば、それを防ぐ
意思を示すべきである。

 この記録には日本の鉱山や森林資源の状況も
載せている。 貿易や蒸気船の為に重要である。 
更にこれをフンボルトの説で補強している。 その
説を以下示す

 フンボルト教授の説ではヨーロッパと日本が交渉を
始めるのは、パナマの地峡を通路として両大洋が
接合しないと難しい。 この計画が達成されれば
アメリカ、中国、日本の産物の行程が6000里も短く
なり、ヨーロッパ諸国と、アメリカ合衆国に運ばれ
東洋・アジアの国々に大きな変化をもたらすだろう

 アメリカ人の英知を傾け、現在パナマの地峡に
鉄道を敷設する計画がある。 ニューグラナダ国の
政府はアスピンワール、ステイフンス、ショーンシー
に免許を与え、アメリカ商業の為に設置しようと
ニューヨークで議決した。 既に道程の測量が始まり
近日中に起工するだろう。 情報ではこの鉄道は
1851年1月に完成するという。

 ここに地峡鉄道、電信機の利用で交通する計画
がある。 これを以下示す

 カリホルニア州及びオレゴン州の海岸は広大で
アメリカは益々繁栄する。 我々はインド、中国近海
への航行は益々増加し、太平様の通商、漁業は
繁栄する。 日本及びその領地の蝦夷、オホーツク
海岸のカムチャッカ、ベーリング海峡及び北極海
を通航するようになり、昨年のこの地域への船は
1200艘、船員35000人を超える。 これを見ても
アメリカが通商・航海の主導権を握り、海上の覇権
を大英帝国から譲られ、これを支配する時期に来て
いる。

 サンフランシスコは商業都市として繁栄する事は
明白であり、太平洋を跨ぎ東洋貿易の中心となる
説がある。 是を以下示す、



1.ショウグン、ミカド: 1850年頃既に米国では将軍
 と天皇の関係をある程度正確に把握している
2.琉球国: 東洋貿易の蒸気船寄港地として利用
 すべきとの意見と思われる。 ペリーは日本に
 来る途中、琉球にも立寄っている

3.ヒュンボルト:Alexander von Humboldt
 1769-1859、 ドイツの博物学者、世界地理学書
 の「コスモス」を著す。

一(使節日本発向の時、ショウグンに贈物を致すの
 説あり左にしるす)
 亜米利加海岸及び都府の地図・プレシテンド
国司より
 遣したる使節の事に拘る政録・アタラ洋・南太平海
 蒸気船通路の誓約記録・轍道漕路・マグネテイセ
 テレガラーフ
前に訳すの図稿、但オレゴン地名カリホル
 ニ
同上両大洋接合ニ拘るもの也
 亜墨利加州海河用蒸気船の図識、亜墨利加陸戦
 海軍の絵図・大工道具・治療道具一式・全完の外
 治内療書・窮理書・測量天文航海兵学書・工農の
 品物・草木・煙草・綿の種苗・農作抗業轍路に拘る
 亜墨利加の目録
 ねウヨルク
地名ボストン同上等の雑記其他商売品物の
 値録、プレシデント
国司及び長官の画像 但ダケウロ
 写真鏡の一種
を以て写したるもの也、暦数千八百四十
 九年の亜墨利加国産木綿・毛織の様式、マグネティー
 セテレガラーフ
前に訳すの図式なり
 
一此数品求るに応し、東印度備一手の軍艦を以て
 唐国詰の水師執権より長崎に送るべし、思ふに此
 贈物悉く受納すべし、是我政府より日本政府に贈る
 意厚く、共和政治の地理・国語・農工商抗業、国中
 豊饒強盛、法律至整の告知にして、日本港湊を
 亜墨利加通商の為開き、日本に幾許の益あらん事
 を示さんが為なり、 但し記録中の語なり

一黄金豊饒のカリフォルニ
地名益発興するを以て、暦数
 千八百五十年・千八百五十一年北亜墨利加州ニ於て
 ヘルミル
人名の指意を専とし、既に千八百五十一年の
 秋日本発興の企あるを聞けり

一暦数千八百五十二年第二月ねウヨルク
地名の告牒を
 左に出す
 
一近来海軍の威勢益盛なるを以て、政府意を決し東印
 度海に挺兵一手を遣し、日本赴向を旨とし水師提督
 オーリッキ
人名老年ニ因て其任を辞せしと也
 蒸気フレガット船シュスケヘンね船号を以て発し、若
 使節の意遂ざる時は彼挺兵専要たるへきとなり

一是等の告牒、共和政治及び欧羅巴州に夥し、其
 些少を左ニ出す
   
  亜墨利加使節日本発向の事
   但し千八百五十二年第三月ねウヨルク
地名の記録
一我政府意を決し、強勇海軍亜墨利加州東方海岸に
 於て我商法の憂患除防の為、発向するの説を以て
 誌記するもの夥し

一此発向に供したる海軍大勢なる事尋常ならず、且
 我水師将士の名誉提督ペルリ東印度備一手の海軍
 将の任に当れり、是必趣意あらん或人の説に此船装
 闘戦の萌あるとなり、将た世人一般帝国たる日本を
 襲ふの企と思へり、我輩是を伺ふに和親の指意ある
 説を聞甚快し


 我思ふ処又斯の如し、万民のため志望を懐き是を
 遂んとの意ある時は、礼儀温和を旨とすべし
 次に著す所の共和政治司フィルモール
人名の書翰の
 意唯通商の事を述るのミにて、他事更になし
 然といへとも其威勢緩ミさるハ、志望を遂げ日本を
 して好良の政度に伏せしむるの計策なり

     (使節派遣の具体化)
 使節が日本に赴く際に将軍への贈物をするとの
説があり以下に示す
 アメリカ海岸及び都府の地図
 大統領より発行する使節の信任状
 大西洋、太平洋の蒸気船航路に契約書
 鉄道、電信機の図、但しオレゴン、カリフォルニア
 を含み両大洋に跨るもの
 アメリカの海河用蒸気船の図
 アメリカの陸戦海軍の図
 大工道具、治療道具一式、医療書
 物理学書、測量・天文・航海書、兵学書
 農工の品物、煙草、草木、綿の種苗、
 農作,鉱業 鉄道に関するアメリカの目録
 ニューリョーク、ボストン等の雑記、
 その他商品の値段、
 大統領及び長官の肖像画(但し写真)
 1849年のアメリカ暦、
 国産木綿・毛織物の様式
 電信機図面

 この数品は必要に応じて東インド艦隊の軍艦で
中国在勤の司令官より長崎に送るだろう。
これらの贈物全ては受納されるだろう。 これは我
政府(合衆国)より日本政府に贈るもので、合衆国
地理、国語、農工商鉱業全てに渡り豊富であり、且
法律が整備されている事の証である。 日本の港を
アメリカとの通商の為に開けば、日本に大きな利益
が生じる事を示す為である。
 但し 公表記録の内容である
      
 ゴールドラッシュに沸くカリフォルニアが益々発展
するに伴い、1850年から1851年にかけ、アメリカ
合衆国ではパルマー氏の意見が広がり、1851年
秋には日本に向け遠征するという計画を聞いた。

1852年2月のニューヨークの新聞記事を次に示す
 
 近頃海軍力が益々強化されたので、政府は意を
決して東インド海域に艦隊を派遣した。 日本に
赴かせる為に老年のオーリック提督を辞めさせた。
蒸気フリゲート艦のサスケハンナを派遣し、若し使節
の主張が通らない場合、武力行使も辞さない為
である

このような公論が合衆国及びヨーロッパ各国で極
めて盛んである。 その幾つかを以下示す
 
  アメリカ使節の日本派遣の事
  但し1852年3月のニューヨークの新聞記事
 我合衆国政府は意を決して東洋における商業の
妨げを除去するために 強力な海軍を派遣する事
を載せている新聞が多い

 この為に派遣される海軍の規模は大変な大きさ
である。 且つこの提督ペリーが東インド艦隊の
総指揮官に任命された。 これは必ず何かあると
徴で、或る人は戦闘の兆しがあると言い、又世間
では帝国である日本を襲撃する計画と思った。
私(記者)が確認した所、和親の方針であると聞き
安心した。

 私(レフィソン)の考えでは、 万民の為を 考え
これを成就させようと思うなら、礼儀を尽くし温和に
接するべきである。 
 後に述べる合衆国大統領フィルモアの書翰も
通商の事を述べるだけで、他意はない。
そうは云っても、威勢に緩みが無いのは要求を
日本に入れさせ、米国にとり良い政策をとらせる
作戦である。
 
一帝国たる日本ハ地方百万里に越へ、北緯三十度より
 四十三度東経百廿九度より百四十三度にあり、此国
 恒地の北方にあるを以て、其気候我国に異ならず
 即ちニーウオレアス
地名とねウヨルク地名の間の風土に
 等し、民丁凡三千万あり
 此国元来連島なるを以て、其海岸広大なる事、共和
 政治アタラ海渚に勝れり、此国我所領南海に接する
 地に対す、蓋日本・蝦夷の両大島を以て、サンガル

 地名
の海門をなし、数百の我鯨漁船毎歳通帆す、
 然して其危難に逢しもの、薪水食料を得んが為に
 上陸し、或は暴風強雨の時これを凌ん為其地に来る
 船破壊せられ、人民殺害せらるゝに至れり



 案ずるに災厄に罹りし船破砕せられ、人民殺害せ
 られたる事絶てなし、反て憐情を以て食料を与へ
 其値を請さる例なり、其両条を左ニ出す
一暦数千八百四五年サマランタ
船号の船司其証を
  得たり
    但弘化二巳年長崎津に来りしエゲレス軍艦なり
一亜墨利加コルヘット船プレブル
船号の船司キリン人名
 食糧を値を以て求めんと欲せしに日本人これを聞か
 ずして恵まんとせり
一我其船司に食糧を贈りたるに彼是を受けず、其意
 を暦数千八百四十九年我に送る書翰に因て考るに
 彼此食糧を日本人の贈物と疑索せし故なるべし
  但嘉永二酉年長崎津に来りし亜墨利加軍艦なり

一テイリデンス船号の漂民只扶助せられしのみにあらず
 所持の衣食類砲一門出島に護送せられたり、是正しく
 以て破船の時、毀伐せざるの証とするに足れり
   但テイリデントは誤歟、嘉永三戌年松前より送越さ
   れたる漂民三十一人の船イーモント船号なるべし

一我誓ていふ、日本に於て漂民殺害セらるゝ事なく
 又籠を以て荷運セらるゝ事なし、世人の説是に
 反セり、蓋漂民を住所に送るに運具を用ゆ、是を
 カゴと名づく、其証人則我なり
      但著者の註なり
 (漂着船に関する世論へレフィソンの反論)
 帝国である日本は陸地は数百里を超え、北緯
30度から43度、 東経129度から143度の間に位置
する。 日本は北半球にあり気候は米国と変らず、
ニューオリンスからニューヨークの間の風土に同じ
であり、人口は3千万人が住む。
 元来日本は連島であり海岸線が長く、これは
合衆国の大西洋に接する海岸線以上である。 
この国は太平洋に接する米国の領土と相対する。
日本(本州)と蝦夷(北海道)の大きな島の間の
津軽海峡は米国の鯨漁漁船が数百艘通航する。
従って危難に逢った船が薪水や食料を得るために
上陸したり、或は暴風雨を避ける為に港に入れば
船は破壊され、乗組員は殺害される事になる

      (以下レフィソンの反論)
 考えてみても危難に遭遇した船が破壊されたり
その乗組員が殺害された事など全く無い、却って
哀れみ食料を与え、その対価を受取らないのが
通常である。 この具体例を以下示す
1.1845年にサマランダ号の艦長はその証拠を得た
  但し弘化2年長崎に渡来したイギリスの軍艦
  
2. アメリカのコルベット軍艦、プレブル号の艦長
 キリンは食料を買おうとしたが、日本人は金を取ら
 ずに与えようとした。  私がその艦長に食糧を
 贈ったのに彼は受取らなかった。 
 1849年に私に送った書翰によれば彼はこの食糧
 を日本人の贈物と疑った為の様である
 但し嘉永2年長崎に来た軍艦である

3.トライデント号の漂着民は、救助のみならず
 所持の衣食類、大砲一門も出島に護送された。
 これは難破した船を粉砕されなかった証拠である
  但しトライデントは誤りか、嘉永3年に松前より
  長崎へ送致の漂民31人の船はイーモント号。

 私は誓って云うが、日本で漂着民が殺害された
事はなく、又漂民が駕籠で荷物扱いされた事もない
米国世論の説は間違っている。 日本では人の
乗り物をカゴという。 証人は私である
  但し著者(レフィソン)の説である

1.サマランダ号: 1845年琉球、朝鮮を経由して
 長崎に渡来、薪水と食糧を乞い、日本は与える
2.プレブル号: ラゴダ号漂着民を引取りに長崎
 へ1849年渡来
3.トライデント号: アメリカ鯨漁船乗組員三人が 
 カラフトに置去りにされ、日本で保護して長崎
 送る。 オランダ船で帰国。 同じ頃イギリス鯨
 漁船イーモント号がが釧路沖で難破し、32人を
 日本船が助けるが1名溺死、31人を長崎経由
 オランダ船で送還する 
上記は全てレフィソンが商館長の時に彼自身が
対応している。
 日本ハ外民通商を免さず、是道理に当らず、此国
 海岸広大なるに其港を災厄に逢し船々の為開かず、
 却て其海浜近く来るものにハ砦を構へ焔砲を発す、
 将タ暴風の時漂ひ来る船あらハ其水主を捕縛し、籠を
 以て荷運し或は是を傷殺す、今我等海岸を領する
 居民に示諭し、外民通商断絶の政度を停止せしめん
 法律至整の国民かゝる政度を捨置かハ、唯万民の
 商業に妨となりたる間のみなり、

 我等法律至整キリステン
切支丹宗たる民の政度に因り
 如斯暴戻の所為を征し、以て人道に随ハしめ万民の
 肯とする諸州海岸港湊の出入自在の証を得、危難の
 時に当て港湊海岸を領する国民、是を扶助し賓客の
 饗応あらしめん
 是諸州港湊に於て万民の掟とする所なり、若其掟に
 逆ふものあらハ、其害を除き通商の道を開く事商売の
 為専要なり
 

 思ふに何の故を以て亜墨利加、日本ニ往時の憂患の
 報答あるへき歟、何事を以て彼斯く感激の及ぶ歟、
 観者其事情を明弁し、以て其虚実を正すべし、是漂
 民の故を以て歟、

 暦数千八百四十五年第七月より千八百五十年第
 十一月の間、我、日本に在し時 漂民五十三人、
 日本政府我に託し、其自国に回帰セしめり、
 日本政府是を撫育する事厚く、衣服を与へ患者ニハ
 医薬を施セり、唯乱妨をなセし徒のミ獄中に戒られ、
 其他ハ住居を寺院に定め、其周囲を囲ミ、蘭人の
 出島にあるが如く、是に携る吏役の外他人の交接を
 断れり、是他事にあらず、不慮の確執を避んが為なり

 当今亜墨利加水主囹囚となりて、日本にあるものを
 知らず又是を信せず、我知る所を以てするに、外民
 観見のため国人禍を生ずる事欧羅巴に於ても例あれ
 ハ、其患を除んが為、漂民を長崎に送るに常に船路
 を良とす
 但著者の注なり
  (同様米国世論へレフィソンの反論)
日本は外国との通商を許さないのは道理に
合わない。 此国は長い海岸線を持っているのに
危難に逢った船の入港を許さない。 却って海浜
に近づく船があれば砦から砲撃する。 又暴風雨の
時に非難して来る船があれば、乗組員を捕縛し籠
に入れて荷物扱いするかこれを殺傷する。 今我々
はこの海岸を領する日本に抗議し、外国との通商
断絶の政策を止めさせなければならない。 法治国
の国民がこのような制度を放置すれば、これは万民
の商業の妨げとなるだけである。

我々法を尊ぶキリスト主義の国民の法によって
斯かる暴力を糺し、人道に基き万民が望む諸国
海岸港の自由な出入りの保証を得て、危難の時は
海岸港を領有する国民は是を扶助して親切な
もてなしをすべきである。
これは諸国の港の規則であり、この規則の背くもの
は此害を取除き、通商にの道を開く事が商売に
肝要である。

     (以下レフィソンの反論
 考えて見れば何故米国は日本の過去の問題を
持出して報復しようとするのか、何故斯くも激する
のか。 私は実際に日本に滞在したものとして
その状況を明らかにし、虚実を正しくしなければ
ならない。 これは漂着民に関しての事か

1845年7月から1850年11月迄の間、日本に滞在中
日本政府は私に漂流民53人を託し、自国に帰国
させた。 日本政府は彼らを親切に扱い、衣服を
与え、病人があれば医薬を施した。 唯乱暴する
者があり、この者達だけ獄に入れらた。 その他の
者は住居を寺院に定められ、その周囲を囲んだ。
これはオランダ人が出島に居るのと同じである。 
理由は担当役人以外の人々との接触を避ける為で
これは不慮の確執を防ぐ以外何者でもない。

現在アメリカの水夫で日本と囚われて居るものは
私の知る限り皆無であり、囚われているとの情報を
信じない。
私が思うに、外国人を見るために人々が問題を起す
事がヨーロッパでもある事であり、その心配を避ける
為に漂流民を長崎に送るには常に海路を使った。
      但し著者の注である

1.砦を構え砲撃: 異国船打払い令の時期(1825-
 1842)の間津軽海峡通過の鯨漁船が陸に近づくと
 砲撃した記録は多い。 又1837年モリソン号に対
 する砲撃があった。
2. レフィソンが託された漂流民
 ローレンス号6名、ラゴダ号13名、トライデント3名
 マクドナルド1 以上アメリカ23名 イーモント31名 
一日本ハ法律至整の政度を知らず、数百の亜墨利加
 鯨漁船毎年サンガル
地名の海門を通帆し、或ハ暴風
 に逢ひ其旅店なき海岸に漂着するものあれば、是を
 殺害す、実に災厄に罹りし船々慈悲ある港に到れば
 破損補理するの免除あるへきに、然らず却て海上に
 追遂し、是をして際期を待に至らしむ、かかる所為
 ある事既に久し、然して亜墨利加鯨漁益盛なるにより
 其暴戻無恕の土地に到り、艱難に逢ふ事又弥多し、
 爰を以て我政府思慮を廻し、日本人をして其政度を
 外民のため改革セしむるの発起あり

一去年亜墨利加鯨漁船百二十一箇サンドウィス島の
 港内に到れり、此地鯨漁場より甚遠隔なり、然して
 日本海岸に船々補理の為赴くへき港湊なきを以てなり
 是我国其辺の通商繁昌し、黄海とオホツカ海の通商
 を遮止する徒の暴戻無道を制するの専要たるを示す


一我政府此地商売の催促によりて其旨意を発するに
 あらず、是賢良法政、我農工商衛護の故を以て日本を
 往時憂患のため糾明し、自後法律正直国民航海を営
 む者、もし天変に罹り日本海岸に漂着し、或ハ暴風ニ
 逢ひ是を凌んが為其港内に入来る時、其接遇温和に
 して饗応厚からしめん


 前に自注あり、就て見るべし、提督ペルリ人名の旨意
 日本港湊を開き、万国諸州の人民暴風の時、其出入
 自由ならしめんとの事、我是を信せず、既に蘭人累代
 日本に居住し来曾て此証を得ず、殊にイスパニヤ及
 ポルトガル国は日本厳禁なる故を以て弥信セず、其
 往昔の記録を按ずるに、日本彼両国を忌む事最甚し

 今ペルリ
人名旨意遂さる時は如何せん、殺伐に及ぶ
 へき歟、然る時は血戦に及び、其怨念止すして自後
 日本海岸に漂着する窮民に其報答あらん、爰に於て
 我暦数千八百五十二年第三月著す所の商法雑説
 中日本記考に同意せん、尚センシグニ
人名の説も是
 に等し

一縦令其旨意只自己の為にのミ遂る事あるとも、普く
 諸民の弁利となる事難し、既ニ和蘭人も諸民の為
 日本ニ冀希せしに是又然り、素より総国中就中
 江戸・京都の出入、当今の国政に於て免すを得
 べからず、シーボルト
人名日本記考凡例中ニ述る
 所を考ふべし、其語に曰く
  爰ニ見よ、是幸福の国なり、既に幾百年太平の旭輝
  を冠、其国長の徳沢尊大により擁護せられ、政道は
  王侯の柄権により威と慎とを以てす、不熟の新法を
  忌ミ、此民世国家安泰の和に浴し。其習風旧古に
  因り、既に是を法則とし日々を送り、年々歳々万事
  法規に因りて行ふものなり
    但著者の注に他人の説を載せしものなり
 斯るを如何んしてか外民通商の故を以て、其法度を
 変ずへけんや

一名誉のラウツ
人名暦数千八百四十七年著述の日本
 記考これニ同じ、其語ニ曰く
  此民世知勇信義備ハり、術芸に通じ常に学識を専
  とす、然して王侯立る所の鎖国法に伏し是を仰ぎ
  天幸とし、其意宛も鉄石の如し、是を如何
    但著者の注に他人の説を載せしもの也
 (使節派遣に関する世論とレフィソンの意見)
 日本は万国公法の制度を知らない。数百の
アメリカ鯨漁船が毎年津軽海峡を通航するが暴風
雨に逢い、海岸に漂着するものがあれば是を殺害
する。 実際に災難に逢い親切な港に到着すれば
破損修理等を強力すべきなのに、却って海上に
追い立て、沈没するに任せる。 斯かる行為が長年
続いている。 一方アメリカの鯨漁業は益々繁盛
するので、この無慈悲な海岸に到着し、苦難に逢う
船も多くなる。 このために我政府は良く考え、
日本にその政策を外国民の為に改革させるべき
である。

 昨年一年間にアメリカの鯨漁船が121艘ハワイの
港に入った。 此処は鯨漁場から極めて遠いが
日本の海岸には船の修理・補充の為行く所が無い
為である。 
又我国の東洋貿易が繁盛し、黄海(中国)とオホー
ツク海(ロシア)との通商の妨げとなる行為を抑える
事が肝要である。

 我政府は日本との通商を強要する為に云うのでは
無い。 我国の農工商産業の保護の為、日本に
過去の問題を糺し、今後法律を守る国民が航海
する際、天災の為日本海岸に漂着したり、或は
暴風雨を避ける為に入港した時、温和に対応し
親切を尽くして欲しいのである。


    (以下レフィソンの主張)
 前に述べた事を見て欲しい。 ペリー提督の目的が
日本の港を開き、万国の人々が暴風雨の時に出入り
自由としようと云う事、私はこれを信じない。 既に
オランダ人は代々日本に居住しているが、 未だに
その保証を得ていない。 特にスペインとポルトガル
は日本では厳禁である。 過去の記録を見ても日本
はこの両国を嫌う事甚だしい。

 今ペリーが目的を達成出来なかった時はどうする
のか、 武力に訴えるか、 そうなれば戦争となり
その恨みは消えず、後々日本海岸に漂着する哀れ
な者達へ報復があるだろう。 (以下不明)

 仮令アメリカの為だけに日本を開国させたとしても
他国民にも便利となる事は難しい。 既にオランダ人
日本に望んできた事は同じである。 全国、特に
江戸や京都の出入りは許されないだろう。
シーボルトが著書日本記考の中で述べて居る事
を考えて見よう。 彼曰く
 見なさい、この幸福の国を。 既に数百年平和を
輝かせ、為政者の徳により保護されている。 政治
は支配者の権力と威勢と慎みで行われる。 新奇な
法を嫌い、国民は国家安泰に浴し、その風習は
旧来からの法に従い日々を送る。 年々歳々全てが
法によって廻る。
  但し著者の注に他人の説を載せている。

 ラウツ教授の1847年著述の日本記考もこれと
同じである。 彼曰く
 この民は智勇、信義が備わっており、諸芸に通じ
常に学識を向上させる。 しかし為政者が定めた
鎖国の法を尊守し、幸いと感じる事極めて堅固
である。 これをどうするか。
  但し著者の注に他人の説を載せたもの


ラウツ: G. Lauts オランダの大学教授
 オランダ東インド政庁の資料に基き、日本の国家
 機能と産業についての著作「日本を1847年刊行
一此指趣を以て提督ペルリ人名選まれ発向総督の司令
 官となれり、是智謀聡敏、大強剛の器量備ハらざれば
 其任に当りかたし、ペルリ
人名の行ふ所屡其器量顕
 ハる、 爰を以てペルリ
人名、前に令命を受けし快然
 たる地中海巡行を廃せられ、今万民の安危、東方に
 於て亜墨利加通商の興廃を決する大任に臨めり、
 是に供する軍艦は蒸気船シュスクヘンね
船号・ミスシス
 シッピ
同上・プリンシトン同上・その他フレガット船・
 運送船等にして其シュスクヘンね
船号記旗船なるべし
 一説に陸軍の予備ありて、往昔の憂患を報ひ、当今
 日本滞在する亜墨利加水主を回帰せしむるに緊要
 せる兵器を備ふと聞けり



一我等歓喜に堪さるは今政府緊要大志を発するの期
 に臨めり、唯費す所ハ遠隔に赴く蒸気船に適用たる
 石炭のみなり、且此兵勢其手を他方に備へたる内より
 出すハ智謀の致す所なり

一此指趣只亜墨利加州の為のミにあらず、万国諸州の
 幸福とならん事実に歓喜の至なり、我等聞く所を以て
 するに提督ペルリ
人名日本をして往時じ我等になせし
 暴戻を購ハしめ、今囲囚となりて其地に在るアメリカ人
 を免しめ、尚獄中にある外民を悉く回帰せしめんとなり
 此輩都て天災に罹り日本海岸に漂着せしものなれハ
 獄中ニ戒らる故なきを以てなり、将又提督ペルリ
人名
 志す所、万国諸民をして自後暴風の時、日本港内に
 到り危難を凌ぎ破損を補ひ、必用の品物を購ひ、
 賓客の饗応あるの証を得せしめんとなり、是正しく
 窮民殺害せられしと表裏の差あり


一此旨意達するの期に至らハ自から通商の道開けん
 但提督ペルリ
人名通商を事とする所唯亜墨利加州
 のみの事を以てし、危難の時に当て日本港内も到、
 其政府をして衛護せしめんとの事ハ、敢て自国のみ
 にあらず、普く諸民の為にせん事、論を待ずして明ら
 かなり、我等察するに、提督ペルリ
人名迫劫し以て
 日本国中政事の弊をなさず、将タ通商の故を以て
 其軍勢常に日本国中に備置の証を求さるへし、

 偖正法至律の万国、一度此国湊内に至る事あらハ
 日本国速に世に出へし、是貿易を開く道となるべし、
 其貿易ハ人道を興すの重具なり、
 我等其国の都府、江戸出入自由ならざるの年爰に
 久し、然して剛情のヤンケー
亜墨利加人の譏たる綽号
 我等に告るに、江戸の住民人丁二百万、或ハ
 纔五万、此可否を知るの日近きにあり
 

 キューレン地名の日戴雑記の放言甚し、是按ずるに
  カールキットル
人名其他名誉の地理家著す所の書、
  全備を待ずして版せしものなり、
  尚土地案内し、国々の記考といへとも其政度等の
  事悉く実説なるや否を知らず
 
一江戸の地方大小を論ずるは只疑察のミにして、歩兵
 の多少、又然る兵士たるものゝ外に、国帝の臣たる
 吏役は戦争の時に当りて、各士卒となるを以て、其
 員数極めがたし
     但著者の注なり

(ペリー提督派遣決定に対するレフィソン意見)

 この目的の為にペリー提督が派遣軍の司令官に
選ばれた。 この仕事は智謀と度量が備わらねば
勤まらない。 ペリーは過去しばしば器量を見せて
きた。 ゆえに既に命令を受けていた地中海艦隊
勤務から、この万民の期待する為に東洋における
アメリカ通商の興廃をかけた大任に臨む事になった

この派遣に使用する軍艦は蒸気船サスケハンナ号
ミシシッピー号、プリンストン号、その他フリゲート艦
輸送船等で、サスケハンナ号が旗艦となるだろう。
一説では陸軍も備え、過去の患いに報い現在も
日本に拘留されているアメリカ水夫を帰還させる
必要な兵器も備えると聞く。

 我々は政府が重要な政策を決定した事を大歓迎
する。 これに必要な経費は遠方に赴く蒸気船に
使う石炭だけである。 またこの軍隊は他に備えて
在ったものから回すだけで、これは賢明である。

 この目的はアメリカの為だけではない。 万国諸国
の幸福となるだろう事に喜びを感じる。 我々が聞く
処では、ペリー提督は日本に過去我々に対して
行った暴挙の償いをさせ、現在囚われて日本に
居るアメリカ人を開放し、又獄中の外国人全てを
帰国させる事である。 この者達は全く天災で日本
海岸に漂着したもので、牢獄に入れられる謂れは
ない。 
又ペリーが目指すところは、今後万国の国民が暴風
の時には日本の港内で危険を凌ぎ、又船が破損
した場合は修理が出来、必要な品物を購入でき、
客人扱いをするという約束を取り付ける事である
これは正しく困窮した人々が殺害された事とは全く
雲泥の差がある。

 この趣旨が通れば自然に通商も開けるだろう。
但ペリーの通商に関する目標はアメリカの事だけで
あり、危難に際して日本港内でその政府が保護する
対象は万国の為である事は言う迄もない。 
我々が予想する事は、ペリーは圧力を加えて日本
の鎖国政策を変更させ、 又通商の為に軍隊を
日本国内に駐在させる約束は求めるべきでない。
 
 法整備がなされた諸国がこの国の港に至れば
日本は速やかに世界に仲間入りし貿易が興るで
だろう。 貿易は人道を守るための重要な道具で
ある。 
我々は日本の首都である江戸に長い間出入り
できなかったが、 剛情なヤンキーが我々に江戸
の人口が200万なのか50万なのか明らかにする日
が近い。

     (以下レフィソンの注)
 ケルンの新聞の放言は甚だしい。 是は思う
にカール・リットル教授やその他の地理学者の著す
書物の完成を待たずに発表したものである
 夫々の国の風土などを紹介しているが、その政治
体制などは実説かどうか疑わしい。

 江戸の土地の大小を論じているのは疑わしい内容
であり、歩兵の多少、また兵士の外に将軍の臣で
ある役人は戦争になれば兵卒となるので、其人数
は決めがたい。
  

1.ペリーの選任と派遣決定: この情報は嘉永5年
 (1852)のオランダ別段風説書で日本に到着
カールキットル Carl Ritter 1779-1859 地理学者
 ベルリン大学教授、近代地理学の父と言われる
 然る時は我等忽ち国帝の兵士人丁五十二万五千、
 其六万ハ騎兵なる歟、又員数百万にして其十万
 ハ騎兵なるや否を弁知すべし、
 我等知る所を以てするニ日本に小麦・裸麦産する
 事夥し、是を債物金銀銅に易へ唐国海岸に送る、
 且国中の年貢一億四千万ドルラルス
銭名の高に
 及ぶ、此国の街港都て防禦厳く我鯨漁民サンガル
 
地名の海門通帆する頃に、凡二里海岸に近く時ハ
 砦に要害の設をなす、若其鯨漁船危難に逢ひ
 漂着する時は、是を捕へ獄に戒め、自国に帰る事
 を得さらしむ、斯る所為、在位のハイプレシデント
 
亜墨利加国司をいふの世に於て存し難き事必せり、
 尚外国の事に関る長官デニルウェブストル
人名
 海軍大元帥たるゲレヘム
人名あるを以て弥然り、
 察るに賢良法政の故を以て、不日に我国産の綿・鉄
 等夥しく日本に送り、是を金銀樟脳に易へ我国に運ん
 此時に当て日本港内に於て万国の通商盛なるを
 見るべし



 我等も又万国諸州の通商を願ふの意あり、案ず
 るに日本に於て小麦・裸麦は自国の食料にして外国
 に出すの有余なし、只小麦を僅和蘭貿易の替品 
 として咬留巴に運送セし事ありて唐国に運搬す
 るも亦然り

一金銀を外国に出すハ厳禁ニして其料斬罪に当る也

一国中の年貢一億四千万ドルラルス
銭名の高に及ぶ歟
 既に国中政道等の事未審なるを憂ふ、如何して其
 年貢の員数を知る事あらん
 (日本の兵力商品に関する認識とレフィ意見)
 その時には我々は日本の兵力が52万5千、その内
6万が騎兵か、或は100万でその内10万が騎兵か
分る。
 我々は知る所では日本では大量の小麦や裸麦を
生産すると言う。 これを金銀銅に換え中国に送る
且つ日本の年貢は1億4千万ドルに及ぶ。

 日本の街や港は全て防禦が堅く、我々の鯨漁民
が津軽海峡を通航する時、凡そ二里海岸に近づく
と砦は警備体制に入る。 若し其鯨漁船が危難に
逢って漂着すれば、是を捕えて牢に繋ぎ帰国を
許さない。 このような行為は合衆国大統領の立場
から見て有り得ない事である。 外交に関る国務
長官、ダニエル・ウェブスター、海軍長官グラハムに
しても同じである。
 察するところ、賢明な政策により近々我国の綿や
鉄等を大量に日本に送り、金銀樟脳に換えて我国
に持込む。 その時こそ日本の港は諸国との貿易
が盛んになるだろう
 
  (以下レフィソン意見)
 我々も又世界諸国の貿易の望むものである。 唯
日本では小麦や裸麦は自国の食糧であり、外国に
輸出する余剰はない。 小麦に関して僅かであるが
オランダ貿易の交換品としてバタビアに送った事は
ある。 中国への輸出も同じ様なものである。

 金銀を外国に出すことは厳禁されており、犯せば
死罪である。
  
 日本全体の年貢が1億4千万ドルと云うが、 日本
の政策は分らない事多いのに、どうしてその年貢の
高が分ろうか


ハイプレシデント :合衆国大統領。 M. Fillmore
デニルウェブストル :Daniel Webster 1782-1852
   Fillmore内閣の国務長官
ゲレヘム:  William Graham 1804-1875
   Fillmore内閣の海軍長官
出典:力石雑記三十四巻(北大北方資料館)、視聴草 続七集之七巻(国立公文書館) 写本

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