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    むさしあぶみ 上
   
     序
 世すて人ではないが、世に捨てられて今は何もする事もなく、髪を剃り
衣を墨に染めて楽斎房と名付けて、心の侭、足に任せて京の都に上り、
彼方こちら拝んで廻る。有名な北野の御社にも参拝して、こちらは
吾故郷の湯島天神と御神体は同じであるとの事なので伏して拝む。 
 
 その後偶然に以前江戸で商いをしていた出入りの小間物売りに出会う。 
この男はたいへん驚き、どうしてこんな姿になられたかと聞く。そこで
楽斎房が云うには、実はたいへん面目ない事をしてしまい、身の置き所が
なく斯かる姿になったという。 
 それは一体どんな恥をかかれたのかと男が問えば、実は話すのもたいへん
辛いことだが、以前明暦三年丁酉の正月の火災の事は聞いて居られるかと云う。
男は、それは都でもよく知られている事で其時に江戸に出張していた商人や
若い者が遭遇して犠牲になり今でも歎き悲しむ親子の事をしばしば聞き伝えて
いる事が多々あります。 
 それではお坊さん、慙愧、懺悔の為その時の様子を是非お聞かせ下さいと
云う。楽斎房は、憂鬱な又悲しい記憶が自分の身に一度に迫ってきます。
この様な事は問わないのも辛く、又問うのも煩わしい。とりわけ人には
話すまいと思っていたが、ひとつ懺悔の為と思いあらましをお話しましょう。
注 武蔵鐙さすがにかけて頼むには とはぬもつらし 
     とふもうるさし  (伊勢物語)


     絵:京都北野天神

   本郷より出火
 時は明暦三(1657)年酉の正月十八日朝の八時頃、北西方向から風が吹き    P4
次第に大風となって塵埃を空中に吹上げた。それが空にたなびく様子は雲か、
煙りの渦巻くか、それとも春の霞かと区別もできない中で江戸中の貴人庶民
皆門戸を開く事ができなかった。夜は明けた筈なのにまだ暗闇の状態で人の
往来も全くない。

 漸く午後二時頃になった頃、本郷四丁目西口にある本妙寺と云う日蓮宗の寺
から急に火が燃え出し、黒煙が天に上がり寺全体が燃え上がった。 その時
風が縦横斜め上下と吹き廻り、直ちに湯島方面に焼け出した。
 火は旅籠屋町からかなり離れた堀(現神田川)を飛び越えて、駿河台の      P5
永井信濃守、戸田采女正、内藤飛騨守、松平下総守、津軽殿其外数ヶ所、
及び佐竹よしのぶ邸を初め鷹匠町の大名小路数百の屋敷が忽ち灰燼となった。 
 
 それ以後町屋、鎌倉河岸(現内神田二丁目)へ焼け通り、夕方六時頃に
なると風は西に廻り激しく吹き、神田橋に火が移るらずに遥か六七百メートル隔てた
一石橋の近所鞘町(現日本橋本石町一丁目)へ飛び移った。 牧野佐渡守、
鳥井主膳正、小浜民部少輔、其外町奉行の同心屋敷、八町堀の御舟蔵、御舟
奉行所の建物数ヶ所、海辺に位置する松平越前守の大きく整備された建物群は
風に乗った煙に包まれて焼け上り、猛火は勢いよく雲の上迄も登るのではないか
と思われた。

     霊岸寺焼失
 そこで数万の男女が煙から逃れようと風下を指して避難したが、向うは
行止まりで霊岸寺へ駆け込んだ。墓地の周囲が大変広いので格好の場所として
多くの人が此処に集まった。 ところが当寺の本堂に火が懸り、更に数ヶ所の
寺内建物が一斉に燃え上がった。一
 黒煙は天を焦がして車輪程の大きさの炎が飛び散り、それが風で細かく分離    P6
されて、まるで雨の様に群がった大勢の人々の上に降りかかった。頭髪に火が
付き、或いは袂の内側から燃え出し実に耐え難いものだった。人々は皆慌て
ふためき、火から逃れようと我先にと霊岸寺の海辺を目指して走り泥の中に
駆け込んだ。
 寒い中で食べる物も食べず水に浸って立ちすくみ、火からは逃れたが精力
尽きて多くの人が凍死した。 又その場所迄も逃げ切れなかった人々は炎に
五体を焼かれ殆ど焦がれ死んだ。呻き叫ぶ声は凄まじく、実に世の無常を感じ
させるものだった。
 水と火の二つの災難で死んだ人は九千六百余人である。火は霊岸島の海辺迄
塵も残さず焼き尽くし、更に五百メートル西の佃島内の石川大隅守の屋敷及び
周囲の民家も一軒残らず全て焼失した。
P7
 
     絵: 火に追われ車長持を押す人々

    伝馬町、横山町へ延焼
 その日の暮れがたになると西風は益々激しく吹き海上は波が高い。更に昨年の     P8
十一月より雨が降らず空気は乾ききっていた。そこにこの風であるから風に乗って
飛び散る炎は一キロ二キロ隔てた所でも燃え移り焼けあがった。
 神田明神の社頭や仏閣は勿論の事、堀丹波守、太田備中守、村松町、材木町に
至る迄多くの家屋敷は悉く焼き尽くし、柳原(現神田須田町三丁目)より
和泉殿橋(現岩本町三丁目付近)を経て焼けた。 この駿河台の火は直ちに
須田町方面に燃え出し、一筋は真直に町屋に沿って焼けて行く。今一筋は誓願寺
を廻り込み押して来るので江戸中の町屋の老若の人々は、これはどうした事かと
驚き叫びながら、我も我もと家財雑具を持ち出し西本願寺(現横山町付近)の
門前に下して休んでいた。
 ところが凄まじい旋風が起こり、当寺の本堂始め数ヶ所の寺内建物が同時に
どっと燃え上がり、山の様に積み上げた道具に火が付いた。 集まっていた人々は
慌てふためき命だけは助かろうと井戸や溝の中に駆け込んだ。そこで下になった
人は水に溺れ、中程の人は人に潰され、上の人は火に焼かれ、此処で死んだ人は
四百五十人余だった。

 又はじめ通り町を焼いた火は伝馬町に焼け延びてきた。数万の貴賤は此様子を     P9
見て、避難に便利と云う事で車長持を持ち出し浅草を目指して退避するもの幾万
と数え切れない。 人の泣く声、車軸の音、建物が焼け崩れる音が一緒になり、
まるで無数の落雷が同時にあったかの様に思われた
。混乱の中で親は子を失い、子は親にはぐれて押し合いもみ合う中で人に踏み
殺され、或いは車に轢かれて疵を負う者、半死半生で呻き叫ぶ者は数え切れない。


   絵: 燃え上がる本願寺
注: 本願寺は火災当時は日本橋横山町付近にあり、火事後築地に
   移転する

      火事場泥棒の話
 こんな火急の中でも盗人は居るものである。放置された車長持を盗んで      P10
方々へ逃げて行く。 中には滑稽な咄もある。
 ある位牌屋が自分の一族はこれぞとばかりに作った大位牌、小位牌、朱塗、
金銀箔の彩色物各種を車長持に詰めて引き出した。しかし火が間近に迫り、
逃げるためこの車長持を放置した。何時の間にかこれを盗人が取り浅草の野辺で
錠を捻じ切り開いた所、何の役にも立たぬ位牌が出てきた。 
 この火事を幸いと盗人は糠俵を米俵と思い、或いは藁草履の入った箱を小袖
かと思い盗って逃げる者もいた。そんな中にこの所重病で寝たきりの人が居たが、
火事に驚き家族はどうして良いか分からず、病人を半長持に押し込み担ぎ出した。
辻に下して置いたところ、何者かがこれを盗み取り、行方不明になってしまった。

 火事の中で家財一切焼き捨てた人もあり、或いは我が子を見失い、他人の子を
我が子と思って手を引き、脊に負い遠く逃げた者もある。年老いた親、幼子、足の
弱い妻を肩に掛け、手を引き、泣く泣く避難するものもある。
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   絵: 避難する人々(上段)と盗人の戦利品(下段)

     囚人の一時放免
 この時に伝馬町の牢屋奉行は石出帯刀だった。迫り来る猛火が牢屋に近付と    
帯刀は囚人達に向い、お前達はこのままでは焼き殺される事は間違いなく実に
不憫の事である。この侭焼き殺されるのは無惨であるから暫らくは放免する。
足に任せて何処へでも逃げのびよ。運よく命も助かり火も鎮まったなら一人
残らず下谷の蓮慶寺に戻る事。約束を守れば我が身に代えてもお前達の命は
助けよう。若し此約束を破り戻らなかったら徹底的に探し出す。
 そして本人は勿論一族皆誅伐すると言い、牢の門を開き数百人の囚人を放免    P12
した。囚人達は手を合わせて涕を流し、有難いお恵みですと云い思い思いに逃げて
行った。やがて火が鎮まると囚人達は約束通り皆下谷に集まって来たので帯刀は
大へん喜び、お前達は誠に義理堅い、仮令重罪であれ義を守る者をどうして殺す
事が出来ようかと、老中方へ報告して罪が許された。

 これは道義のある世の証拠であり、政治が正しく行われ、多くの罪人達も
義を守り命を助けられたのは有難い事である。此事を聞いた人々が云った事は、
帯刀に情けがあり、罪人に又義があり、老中方に仁があり命をお助けになった。
これは政治が行届いている証拠と人々は感じた。
 しかしこの囚人達の中の一人は大変罪の重い者がいたが、是幸いと遠く
逃げて自分の故郷に戻った。 そこの人々は、此者は助かる筈のない罪人で
あるのに逃げて帰って来たのは怪しいと江戸へ連行した。 奉行方はたいへん
これを憎み死刑にした。


   絵: 牢屋の囚人の仮釈放

     浅草橋門の悲劇
 ところで火に追われ浅草門(現浅草橋付近を目指して逃げる人々は武家、   P13
町民幾万と数え切れない。門の向こうは河原であり、門を通り枡形を出さえ
すれば混雑はない筈である。ところが何の間違いか、牢屋の囚人達が牢を
破って逃げるぞ、逃すな捕えよと云う指示がでて浅草の枡形の門を閉めて
しまった。この事は思いも依らない事で、避難する人々は誰もその事は知らず
後から後からと門を目指して車を牽いて押しかけた。
P14
 伝馬町より浅草門迄の道筋一キロ程に人と車長持がびっしりと詰り錐を
立てる程の空地もない状態である。 後からは数万の人が押して来る。門の
際に居る人々は何とかかんぬきを外そうとするが、家財道具をこれでもかと
積み重ねているので、これが邪魔して扉を開ける事が出来ない。
 前へ進もうと思っても門は開けず、後に下がるには大勢の人が押して来る。
進退ここに窮まり、手に汗を握り身を揉み茫然としていた。

 そんな中、北の方で焼け止まっていた柳原辺の火が再び燃え出し、誓願寺前の
大名小路に火が移り、立花左近、松浦肥前、細川帯刀、丹羽式部少輔、安藤但馬、
加藤出羽守、同遠江守、山名禅閣、一色宮内少輔等都合三十五ヶ所、寺では日輪寺
勘善寺を始め、知足院、金剛院に至る迄百二十ケ寺が一同に炎上した。この火が
伝馬町の火とひとつになって燃え上った。炎は空に満ちて風に乗って飛び散り
浅草門を目指し押合い揉み合う人々の上に火の粉が降りかかる。

 集まった数万の男女は騒然となり、炎に堪え兼ね、或いは人の肩を踏んで走るもの、P15
屋根の上に上って逃げる者あり、更に高さ十丈程の切り立った石垣の上から堀に
飛び込む。 これで命は助かる思った人々も途中の石垣で頭を打砕いたり、腕を
折ったり半死半生になるものもある。下迄落ちても腰を痛めて立ち上がる事も出来ない。 
 そこへ次々と人々が飛び込むので、人で重なり、踏み殺され、押し殺され深い浅草の
堀が死人で埋まり、其数二万三千余人、三百メートルに渉り平地になる程であった。
                                       P16

      絵: 閉じた浅草橋門の混乱

 後から飛び込んだ者は前の人の死骸の上に飛ぶので、疵を負わずに河向こうへ上がり  P17
助かった者も多い。とかくする間に重厚に作られた監視矢倉に猛火が燃え掛り、崩れ
落ちて死人の上に落ちかかる。逃げ遅れた人々は前に進もうと思っても既に火が廻り、
後からは火の粉が雨の様に降りかかる。人々が夫々に念仏を唱えている内に前後を猛火に
取りまかれ、悲鳴は天迄届き、地の底迄も聞こえる程で身の毛もよだつようである。 
 翌日に見れば馬喰町、横山町の東西南北に重なる死人の様子は眼もあてられない。

 その夜は十時頃になっても悪風は尚鎮まらず、火は海手を指して焼け延び、そこに位置
する武家の下屋敷以上十九ヶ所がひとつも残らず炎上した。此時御蔵の後の方に逃げ遅れた
人々が七百三十余人あったが、御蔵に火が懸り、貯蔵の米俵が燃えたので、人々はこの煙に
むせび、倒れて転げまわり或いは川中に転げ込んで死んだ。

 更に炎は七八百メートルも隔てた大河(隅田川)を飛越え、牛島新田(現両国辺)に  P18
至った。そこにあった家々を全て焼き払い午前四時頃に鎮火した。


    絵: 浅草橋門の炎上
注: 両国橋は大火後に出来た

     翌朝の悲喜劇
 夜が明けると各方面に散りじりに逃げ延びた人々は、親は子を探し、夫は妻を
見失い涕ながら声を張り上げて何処其処の誰々と名を呼ぶ。漸く探し当て互いに
喜ぶ人が居る一方、死に失せて巡り合う事なく力を落して歎く人もある。 
 当てもないまま、彼方此方に焼けて重なり合う死骸を片付けながら、親子兄弟
夫婦の屍を尋ね求めた。 或いは頭髪が全て焼失してまるで尼法師の様になったもの、
黒く焼け焦がれたもの、或いは小袖他着ているものが全て焼失し、五体が焼けて肉が
縦横に裂け、炙った魚の様になっているものもある。顔がすっかり変わってしまい、
あれこれ見間違いも多くあった。

 この混乱に紛れて盗人共が死人の腰や肌に付けた金銀を外し取り、焼けた金銀を
売り捌いた。これを又買取ろうとする者も集って来て市の様である。この他町中の
辻や小路に落し、或いは捨てた家財道具等も数多くあったが、これを拾って売りに
出し、俄に金儲けをしたものも多い。

 楽斎房が語るには、自身の母も行方知れずになったと云う。もう生きては       P20
いないと思い、夜が明けると死人の重なっている場所を方々探し回ったところ
母に似た人が焼け死んでいた。これだとばかりに葬礼、仏事を行わねばと
戸板に載せて家に戻った。 
 家では孫、子、兄弟が枕辺に集い歎いていた時、門から本物の母が帰って
来た。人々は、これは如何した事か、早くも亡霊になって来られたか。日頃
念仏を唱えて居られたのは何のためか、妄念を醒まして早く極楽の最上席へ
行こうと思われた筈なのに、未だ此娑婆に執心を残して亡霊になって来られたか。
残念な事だ、早く帰りなさい。跡は懇ろに弔いますから、特に六道の辻では
天上への道に迷わない様にして下さい、と云った。

 母はたいへん驚いて、私は芝口(現新橋駅付近)迄逃げ延び命が助かった。
死なずに帰って来たのに、それを喜ばずに何と云う事を言われるかと云う。
 人々は、いやご死骸が此処に在りますから死んでいないと言われても納得       P21
できません、と云って持ち帰った屍をよくよく見れば母とは違う屍である。
人違いは世によくある事だが全く不快な中にも可笑しい事である。

 まず何事もなく帰って来られたのは嬉しい事だと急いで例の屍をこっそりと
担ぎだして捨てたのは云う迄もない。それでは一家は何事もなく皆助かったの
だから祝おうと酒肴を買求めて宴を催し喜び合った。


      楽斎房の母生還

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