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落穂集第十二巻(p364)                           第十一巻に戻る 
           12-1 秀忠の合流と北陸の戦後処理
慶長五(1600)年九月廿三日、秀忠公は信州木曽路を通って直に大津へ到着したが、内府公は
持病が起こったとの事で面会が無かった。 供の人々にも面会は無いので秀忠公は夜に草津の
宿に帰った。
著者註 この件に付いて旧記では、秀忠公が真田攻めで時間を取られ関ヶ原の戦いに間に合
なかった事で、内府公の機嫌が悪く面会出来なかった。 そのため大津には泊る訳にも行かず
草津へ帰ったとなっているが、そうではない。 京極高次が大津城に籠ったとき、大津の町屋を
焼いてしまい宿泊する宿や下宿もなかった。 そこで本多上野介が世話して本陣だけでなく供の
人々の宿まで草津近辺の村々に(p365)割り当てて草津へ帰ったのである。

その日の夜中本多上野介方より、内府公の持病も快復し面会されるので明朝大津へ来て下さい、
その時今度御供した面々にも面会されますとの事である。  翌朝大津の城へ上り、面会の節、
供の人々にも目通りがあった。 秀忠公が、私は此度関ヶ原の陣に遅れ、大切な一戦にお役に
立たずたいへん御迷惑を掛けましたと申上げると内府公は、参陣の時を伝えた使いの口上が
違っていたのは致し方ない、 一般に天下分け目の合戦等と云うものは囲碁の勝負と同じ事で、
その碁にさへ勝てば、たとへ相手の方に目を持つ場所が幾つあってもそれは役に立たない物で
ある。 関ヶ原の一戦にさへ勝てば、真田の様な小さな大名がどんなに城を固く守っても自然と
城を明渡して降参するしかないのだが、向こうに控える供の中でその様な事を貴殿に言った者は
居ないかと内府公は尋ねた。

秀忠公はそれを聞いて、その事は戸田左門が云いましたと云えば、 彼はどの様に云ったかと
再度質問があったので上田において左門が言上した事を細かく報告した。 内府公は、控えて
いる人々に向い、左門と声を掛けたが遠くて聞こえないので返事もなかった。 そこで秀忠公が
大声で、左門御呼びであると云ったので左門は出て来た。 左門が内府公の側に行くと、御前に
ある菓子を両手ですくって左門に与え、 小身では口もきけないだろうが、やがて口が利かれる
様にしてやるぞと云われた。 左門は余りの感激で有り難い事ですと云う事も出来ずに(p366)
いると 秀忠公が代って、左門は有り難いお言葉で感謝しておりますと代弁した。

著者註 この咄は世間に流布する旧記等では見当たらないが確実な事と伝えられ、慶長六年
    に左門は大津の城在番としていたが、現在の大津の城の場所が良く無いので膳所へ移す
    ため城地の選定、城の設計などについて左門に提案させた。 財力のない小身者であり
    普請中は奉行並に扱われ費用等は全て上から出された。 左門は夫までは武蔵国川越
    の鯨井五千石だったが、膳所近辺で三万石が与えられ城主に任命された。 これは大津
    での言葉が実現したものと思われたので書記した。

内府公が大津城に逗留している間に加賀中納言利長が土方勘兵衛と共に参上して、一戦勝利
の賀詞を申上げると共に北陸方面の状況を委しく報告した。 その中で大聖寺の城を攻落し反徒
側の山口父子を討果した事は喜ばれた。 又前田利長が述べたのは、 不肖の弟である能登守
は大聖寺城を攻める時迄は私の忠実な味方として目覚しく働きましたが、その後反徒側に誘われ
自分の領地に籠りました。 不届な事と思い勘兵衛に頼み、二度に渡り能登国へ行き色々異見を
させましたましたが承引せず、敵対する様子を見せ困っておりますと云う。 土方勘兵衛も同じく
私も二度行って色々説得しましたが納得せず、利長も御前への申し訳が立たないと非常に悩んで
おりますと述べた。 内府公が、人はそれぞれの考えがあるので止むを得ないと云うと土方は、
能登守については確かに(p367)反徒の一味では有りますが、 家来達は全員利長に属して行く
様にと指示しておりますと云えば、それ以上の言葉はなかった。

此時利長が申上げたのは、小松宰相(丹羽長重)は初めは反徒側の仲間でしたが浮田秀家や
石田三成の邪な謀と知り、前の非を悔んで土方も知る通り私の方に降参して、越前に出陣する時
は先手を受持ち忠義を励むとの事なので和議を結び面会しました。 その時関ヶ原の一戦御勝利
となり忠節を尽す場もなくなり、私の方へひたすら恭順を願っています。 関ヶ原一戦以前に降参
している事でもありますから恩赦を戴きたく存じますと云う。

内府公は利長に、貴殿が言われるのは尤ではあるが宰相を赦す事は決して出来ない。 理由は
宰相の親丹羽長秀が死去した時、武将の態度では無かったと云う。 その事が秀吉の不興を買い
領知を取上られ今の長重が苦労していた。 私は親の長秀と親しかった関係もあり、色々面倒を
見て秀吉にも取り成し、小松の城主にもなり官位も宰相迄昇進した。 この恩を忘れて反徒側に
なり、其上貴殿に弓を引いた事は重罪であり死罪に相当するものであると云う。

利長が色々詫びていた時秀忠公が出座したのを幸に、秀忠公にも何とか長重助命をお願いして
戴きたいとの事で秀忠公も取り成し、土方も頻りに御詫びを言うので漸く内府公も、利長の達ての
願いであれば助命しようと云う事になった。 そこで城は利長の家来に明渡し、長重自身は早々
加賀の地を立退かせる様にと土方勘兵衛へ指示があった。
註:丹羽長秀は信長の重臣だったが、信長死後秀吉に付く。 癌を患い自分で癌の内臓を取出し
  それを秀吉に送って死んだという説がある

利長は更に、越前北の庄城主青木紀伊守もご赦免願いたいと私の方に願いが来ておりますと
云った所、青木の(p368)類は外にもあるだろうが、死罪は赦しても反徒の一味である以上は、どの
道城を明渡して退散するべきであると内府公は言う。 土方は、紀伊守は病身なので倅の右衛門佐
を今度利長に添えて上らせました、何とかお許しの方向が出ますれば忝い次第ですがと云ったが、
全く同意がなかったので、右衛門佐も止む無く越前へ帰った。
著者註 これらの次第は旧記にも載っているが少し宛違っている。 此書に記したのは内藤善斎が
     浅野因幡守へ語った事を書留めた。
            
松平丹波守、水野六左衛門及び西尾豊後守は大垣城を在番の松平周防守へ引渡し、大津へ
参上して同城の落去の次第を直に報告し喜ばれた。 その時お尋ねが有ったのは、前の報告に
津軽勢の働きが見られたが、津軽右京からの報告が無いのは何故かとの事である。 丹波守は、
仰る様に私共も右京の参陣がないので不可解に思っておりましたが、彼等の頭分の者に尋ねた
ところ、右京亮も出発予定でしたが急に領内で一揆が起こり、その処理を行った後出発するので
先発の部隊は一時も早く出る様にとの事で私達のみで参りましたとの事です。 侍達は言うまでも
なく、足軽や長柄の者に至る迄良く働き、本丸を責める時桜場左衛門次郎と云う頭の侍一人が
討死しましたと報告した。 

それでは其者達は今何処にいるのかとお尋ねがあったので、大垣落城以後は私共の方へも連絡
がありませんので、国許へ帰ったか或いは未だ此辺に居るのか不明ですと答えた。 内府公は、
遠国者の事であり、全てに不案内だろうから其者達の居所を尋ねて、早く津軽へ帰国させるのが
宜しいと云われたので六左衛門は答えて、津軽者の持参した長柄鑓の鞘は金の錫杖ですから、
直ぐに分かると思いますと申上げた。 内府公、居所が分かったら彼等が津軽から大垣へ何処を
通って来たのか、越後辺一揆の様子に付いて知る事があれば尋ねよとの事である。

そこで方々尋ねたところ、草津の宿より一里計り隔てた村の寺を借りて津軽者が止宿しているのが
分かった。水野六左衛門が彼等を呼びに行かせたところ、一町田何某と云う者が出張してきたので
越後辺の一揆の様子が分からぬか尋ねたところ一町田が云うには、上杉殿からの扇動で一揆が
起りましたが、越後の堀殿を初め其外溝口殿、村上殿等の軍勢で一揆を鎮圧したと旅行者から
聞きましたとの事だった。 水野はその旨を報告すると共に書状を添えて彼等を津軽へ帰した。
著者註 この件は旧記等の表現では大垣寄手衆の中に津軽右京と記してあるが、右京亮自身は
    出陣していない。 私が若い頃安芸国広島で兼重勘九郎と云う浪人がいたが、 彼は小幡
    勘兵衛殿の門弟であり水野日向守(勝成)方に属して島原の乱にもお供をした者である。 
    その当時彼の刈谷以来の仲間が生存しており雑談した由を私に語ったので爰に書記す。
            
内府公が永原に着陣した時田中兵部大輔へ、石田三成を何とか生捕にする様にと指示したが、
田中は家来達を方々へ派遣し終に三成を探し出して囚人として大津城へ差出した。 内府公は
大変喜び、直ぐに鳥居久五郎を呼んで、其方の親の仇であるから預けるとの事で、その夜は鳥居
の宿所に留置し衣類や食物等不自由なく世話した。 翌日鳥居は本多上野介を介して、私の親
彦右衛門は御奉公の為に死んだものです。 (p370)石田は今度反徒の親玉であり天下の罪人
であり大切な囚人です。 私の親の仇であるからと御預けになったので、有りがたく一晩は私の
手元に置きましたが、何とかして外の方に御預け頂きたいと願った。 
内府公も了解して本多上野介へ預け替えた。

籐堂佐渡守高虎が大津で夜話の会に出た時、大垣城に立て籠もった垣見や熊谷等の話題が
出た序に内府公は、其方の親友の毛利民部はどうしているかと尋ねた。 高虎は、関ヶ原で
敗れた連中は今頃九州方面に逃げているでしょうから、関東方の勝利は九州でも聞いている事
でしょう。 日頃仲の悪かった石田を初め福原や垣見などの様子を聞き毛利は嘸喜んでいると
思います。必ず彼は近日中に御勝利の祝賀に参上すると思いますと答えた。 内府公は、今頃
九州の様子は如何だろうか、民部の様な小身者は軍勢も少ないので心配な事だと云った。
著者註 この事からすると今世間で流布する旧記等に、秀家、三成等に味方して大坂へ上った
    九州勢の中に毛利民部と記載されているのは間違いと思われる。
註 毛利民部高政(1559-1628)此時は豊後日隈城主、 朝鮮へ目付として秀吉に派遣されるが
  石田派の同役福原、垣見などと意見が合わなかった。

大津八町の新番所において伊那図書が当番の日、京都より福島政則が伺う必要のある用事で、
佐久間佐左衛門と云う侍を内府公へ使者として派遣した。 その時新番所を守っている足軽が、
何方の家来がこの大切な御番所の前を馬に乗って通るのかと咎めた。 佐左衛門は、私は福島
左衛門大夫の使者である、 この関所は何方の関所で乗馬で通過するのを咎めるかと互いに
(p371)云い争いとなり、番人の中で粗忽な者が棒を持出して、こいつにものを言わぜぬと掛って
来たので佐左衛門は下馬して通過して使者の役を勤めた。 その時伊那は少々気分が悪く
番所で臥せていたが、番人共の大声を聞いて戸を明けて番人達を叱るのを、佐左衛門は伊那
自身の指示で番人が此様な態度をとると誤解した。

京都へ帰ると佐左衛門は政則の家老福島丹波に逢って事情を委しく報告し、その場で番人達
を討果そうと思いましたが、大切の御使に行く途中なので曲げて我慢しました。 しかし大津の
番所で棒で脅されては男が立ちませんので切腹しますと云う。 丹波は直ぐにその事を政則に
報告すると、政則は番人が伊那の指示であると言う佐左衛門の報告に大変立腹し、我慢ならぬ
と言う事であれば、その通りに切腹させよ、下手人は三日以内に取ってやるから安心せよ、との
事で佐久間は切腹した。 

政則はその後委しく書状に認め井伊直政へ使者を送った。 直政も驚いて関係者と相談し、政則
と日頃親しくしている者二名を京都へ派遣し、伊那図書配下の足軽の中で対応した者二名を死罪
に処す事で解決できないか打診した。 しかし政則は納得せず、全く私にとやかく言わず我慢せよ
と云うなら別だが、侍の下手人の代りに足軽程度の首を取っても済むものか 皆さんも良く考えて
欲しい。 直政の方からの返事次第では私は高野に住居する覚悟を決めているとの事である。 

政則の口上を大津へ帰り報告すると直政は御前へ出で報告した。 その時左衛門大夫は今度
関ヶ原の戦功に誇って我侭(p372)を云っていると思われますと側の人々が言えば内府公は気色
を変えて、たとえ戦功が有ろうが無かろうが人の主人たる者の身となれば、自分の家来の侍が他家
の足軽等に棒であしらわれたら我慢する事は出来ない。 其上あの番所は我々父子の上洛前に
諸人が勝手に京都へ入込まぬ様にするためだけの番所である。 私が今度の一戦に勝利した
と云って伊那図書配下の足軽風情の者迄が権力を振るい、私が言いつけもしない下馬咎めを
するとはとんでもない事である。 つまりこれは頭達の指示が徹底していないからであると言われ
下手人の事には言及がなかった。 しかしこの事が伊那図書に伝わると図書が自害したので
問題は解決した。
著者註: この事は世間流布の記録では、内府公が政則の言い分は不届と腹を立てたと記し、
    並びに図書にも切腹を命じたとあるが、そうではないと、八木但馬守が浅野因幡守へ
    語った事を書留めた。

          12-2 家康大坂に入城真田家の処置
九月廿四日、毛利輝元は大坂城西の丸を出て木津の下屋敷へ閑居したので、池田輝政、
福島政則、浅野幸長、黒田長政、有馬豊氏、藤堂高虎などが立合って大坂城を受取った。
同廿五日 秀頼は拓榴大炊助に大野修理亮を添えて使者として、今度の反乱については秀頼
は幼年故、全く意図は知らず全ては石田治部少輔三成の悪意から起こった事であると述べた。
此日に増田右衛門尉長盛は一命を助けられ、郡山の城は池田輝政に渡して高野山へ住居
する様へ伝えられた。(p373

廿八日 勅使が大坂城へ下向し、内府卿が当城に帰られたことを賀した。

十月朔日、今度の反徒側の主導者である石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の三人は洛中
大路を引回された後、 六条河原で首を刎られた。 奥平美作守信昌の従士が警固した。

加賀中納言利長は大坂の屋敷に移っていたところ、 内府公より榊原式部大輔を使者として、
今度の北陸方面における軍功を賞して廿万石余の加増の地が与えられ、 自由に帰国して良い
旨伝えられた。 又舎弟の能登守利政は領知は取上げられたが、孫四郎と名を改めて京都に
登り、其後は東坂本に居住し一生安楽に過した。

丹波国福知山の城に小野木佐渡介が立て籠もっているのを、細川越中守忠興単独の軍勢で
攻めたいと願ったが許可が出て出軍した。 この理由は老父長岡(細川)幽斎が丹後田辺で
籠城した時、小野木が寄手の主将として攻殺そうとした事に対する遺恨からである。 そこで
山岡道阿弥が彼地へ行き小野木を説得して城を渡させ、其後山岡より小野木助命の願いが
出されたが赦免がなく、小野木は東山浄土寺にて切腹した。

伊勢国鳥羽の城に籠った九鬼大隅守嘉隆は、 盟友の紀州堀内安房守が関ヶ原で反徒側と
して敗軍となったので城を明けて退散した。 東軍に属した子息九鬼長門守守隆は父嘉隆が
去った鳥羽に帰城すると直ぐに大坂へ行き、池田輝政を頼って父大隅守の助命を願ったが
赦免がでない。 そこで更に福島政則にも協力を得て漸く赦され、其上二万石の(p374)加増が
下され守隆は忝い次第と喜んだ。
その頃大隅守嘉隆は豊田五郎右衛門と云う者の所に蟄居していたが、豊田が謀って殺害して
其首を大坂へ持たせて送った使者と、大隅守赦免の書状を持参した使者と伊勢の牛崎の茶屋
で行き違った。 子息長門守は非常にがっかりし、豊田を早速斬罪とした。
註: 九鬼嘉隆は1593年に家督を守隆に譲った立場だが、父子で夫々西、東軍に分かれ、鳥羽
   城主守隆が家康の会津攻めに従軍した留守に鳥羽城を堀内と共に攻取り籠城した。

京極宰相高次は大津の城を反徒側に和談の上明渡したところ、関ヶ原合戦での関東方勝利が
聞こえ、もう一日籠城を続ければ更に忠節が尽せたのに残念な事だと家中後悔したが、既に城
を出た以上どうにもならず紀州高野山へ登った。
内府公は大津に滞在中井伊直政に指示して、高次に早々山を下りて関ヶ原勝利を賀する様にと
言わせたが高次は、 籠城を完遂せずに城を明けて退いたのに、何の面目で内府公へお目に
掛る事が出来ようかと答えて下山しない。 直政から再三書状を送り、内府公が大坂に入城した
事も高野山に聞こえてきたので、お祝いと且又井伊直政からの度々の連絡のお礼を兼ねて
多賀善兵衛と言う者を使者として高野から送ってきた。

多賀は早速御前へ呼ばれ、久しく面会していないので懐かしく思うので、早々下山を待っている旨
直接に伝えられた。 多賀は御前を去ると次ぎの間で井伊、榊原、本多三人衆と面談し、宰相殿が
良い場所で籠城されたので、関ヶ原へ来るべきかなりの軍勢を喰留められたので、我々の合戦も
楽になりました、 これも偏に宰相殿のお力と思いますので早速御目に掛かりお礼を言いたい
(p375)ので、近々下山される様にお伝えされる様にと井伊等が云う。 その時多賀は、皆さんも
ご理解下さい、大津城への寄手は目に余る程の大軍であり、近くに味方もないので加勢や後詰め
も期待できません。 内府様が美濃方面へご出陣と聞いても、世間で言う雪道を草履で歩く様な
もので破れ行灯の様な大津の城で高次であればこそ一日も長く籠城しましたと語った、 三人の
老中達も、確かに貴殿の言う通りですと笑いながら応じた。 
其後内府公は井伊直政を高野へ派遣し、必ず連れて帰る様にと指示を出したので高次は直政と
連立ち大坂へ参上すると、懇ろな言葉と共に若狭国を拝領し直に小浜の城へ入部した。

内府公が大坂城西の丸に在城の間、本多忠勝は井伊直政と榊原康政の両人へ相談したのは、
信州上田の真田安房并左衛門佐父子は大罪の者ですが何とか助命される様に取持って欲しい
と真田伊豆守が相談してきましたが、私は伊豆守とは縁者の立場であり遠慮があります。 そこで
両殿様(家康、秀忠)にお願いして貰えないかとの事である。 両人も、貴殿が言う通り彼等父子は
大罪の者だが、親子だから伊豆守の身にしてみれば当然の願いだから、両殿様に申上げて見る
となった。 其趣旨を内府公へ申上げたところ、秀忠公が納得すれば良い、恐らく了解しないと
思うが先ずは相談して見よとの事だった。

これで内府公の方は大丈夫と見て両人は秀忠公に話したところ、たいへん不機嫌となり、伊豆守
は父子であるから助命を願うのは分かる。 たとえ内府公が承諾しても安房守は忝いと云う様な者
でない。 今頃になり助命を願う位なら榊原式部も知る通り、上田へ私が出陣した時に早速降参
しなければならなかった。 その時私に手向かい、その安房守に掛りあった為に私が関ヶ原一戦を
見届け出来なかった事は心外である。 たとえ内府様が赦すと云われても私からお願いして成敗
する程の者である。 再度云って来ても無駄であると云う事でこの状況を両人は忠勝に伝えた。

其後伊豆守は三老中列座の前へ出て、此間は老父安房守の件で何かと御苦労を掛けた事を中務
(本多)から委しく聞かされ、たいへん忝く思います。 秀忠公のご意見も極めて当然と思い、兎角
は申上げません。 榊原殿も御存知ですが、上田では毎日の様に説得しましたが同意なかった
ので止むを得ません。 もう助命の御取持ちは結構ですが、私からお願いがあります。 皆様に
お世話頂いた安房守が処刑になる時、私へ切腹を命じて頂きたく存じます。 謀反人の倅ですから
其様になっても人々は納得し、裁きの障害にはならないと存じます。 親安房守が生きている間に
私が絶命するのを見せた後で処刑して戴きたいと述べた。 その詞に康政は、貴殿のお願いは
良く理解できます、安房守助命は我々が請合いますから心配せぬよう、 貴殿は昔の源義朝にも
勝る人ですと応じ(p377)、 この事を両殿様に報告したところ、伊豆守の願いの通り安房守父子
は助命されて高野へ入山となった。 その時落髪黒衣になる必要はなく、その侭安房守で良いと
云う事になった。

著者註 この事は世間流布の書物には載っていないが、土井大炊頭が子息達へ毎度話し
    聞かせるのを側で聞いたと大野知石が私に語ったので書留めた。
註: 真田伊豆守は安房守の長男で本多忠勝の娘婿となる。 西軍に付く父と弟に反対し
   始めから東軍に属した

十月廿八日、後の尾州大納言義直公が誕生し、幼名を五郎太丸、右兵衛督と言った。
十一月十八日 秀忠公が参内
今度の反徒側の大名で国を失った者の地を関ヶ原で功績の有った外様大名達に分け与えられた。
結城三河守殿へ越前国、松平下野守忠吉公へ尾張国が与えられたが、譜代の人々には未だ誰に
も所替や加増はなかった。

              12-3 家康の論功褒賞
慶長六年元旦 大坂城では内府公の体調不良の為に参賀はなかったが、間もなく快復あり同月
十五日、列候以下全てが登城して新年の慶賀を申上げた。
二月三日 秀忠公は池田輝政の宅へ茶会に行った。 これは先月十八日に輝政が内府公より
飛騨肩衝の茶入を拝領したお礼である。 この饗応の様子は以前とは異なり、将軍が訪問する
儀式と殆ど変わりないものだった。 関ヶ原勝利後外様大名の居宅を訪問するのは初めてである。

此月井伊直政は上州蓑輪より近江国佐和山の城へ十八万石で所替となり、 本多忠勝は上総の
大瀧から同じ石高(十万石)で桑名の城へ所替となった。 その後大多喜で本多忠朝(忠勝二男)
が五万石を与えられた。(p378)
其外譜代の人々が何人か及び外様大名達へも加増による所替があるか、或いは元の石高で城地
が替わる事もあった。

三月廿七日秀頼は権大納言に任ぜられた(八歳)
同月同廿八日 秀忠公は権大納言に任ぜらた。(廿一歳)
同月廿九日 秀忠公が参内
五月十一日 羽柴利光が元服(十三歳)し侍従に任ぜられ、 内府公より松平の称号が許され
松平筑前守と号した。 利光は前田利家の四男(1594年生)で利長の異母弟である。
六月廿八日 利光は養父前田利長の家督を継ぐ。 利光は後に利常と称する。
同月に内府公は戸田左門を呼び大津の城地を膳所へ移転する様指示し、采地三万石を与えた。

七月廿四日、上杉中納言景勝は会津より上京した。 これは昨年以来結城秀康公を頼り赦免を
願っていたが、秀康公が種々取持ってその罪が赦されたものである。
八月廿四日、上杉家が是まで領知していた百万石を減らし、米沢三十万石が与えられた。
  
上杉家から上納させた城地は近国の大名へ代官や役人立合で受取らせたが、最上出羽守義光
が受取る筈の須田と云う城では上杉家侍の河村兵蔵及び志田修理が在城しており、出羽守へ
城を渡すのを拒んで立て篭もった。 最上義光の方より色々説得したが同意しないので義光も
不快となり、 義光三男の清水大蔵太夫を武将として楢岡甲斐、本居豊前、鮭延越前、里見越後、
志村伊豆等の頭分を始め総人数一万余りを須田の城へ向けた。 城主志田河村、須田の城より
(p379)出て最上川を前にして対峙したが、川が増水して最上軍も渡る事ができない。 

そこへ昨年降参した下治右衛門と言う者が十町(約千百メートル)余りも川下から猟船に乗て川を
渡り須田勢に突いて掛った。 城兵も鉄炮を厳しく打掛けるので下の部下達に負傷者や死人が
多数出るのを見た清水大蔵は川を乗渡って治右衛門を援護した。 城兵も持ちこたえられず敗走
すると治右衛門は城際まて追打して多数の首を討取った。 これを見て最上軍も全て川を渡り、
戸沢九郎五郎従士の戸沢相模は城下の家屋に火を付けて攻め入れば城兵は防ぐ事が出来ず、
志田と河村が降参したので清水大蔵太夫は赦して両人を囚人として最上へ軍勢を引揚げた。
八月廿五日上杉景勝の旧領会津六十万石を蒲生藤三郎秀行へ下された。

九月晦日、秀忠公の姫君(この時三歳)が加賀松平利光〔前田利常、七歳)へ輿入れとなる。
大久保相模守忠隣、青山常陸介忠成、安藤帯刀、伊丹喜之助、鵜殿兵庫、久志本左馬助等が
送り、 越前国金津の宿で大久保相模守が輿を渡し前田対馬守が是を受取る。 青山常陸助が
貝桶を渡し長九郎左衛門が是を受取る。
此秋比叡山へ寺領三千石、豊国の廟へ社領一万石を寄付する事が発表された。
註 貝桶: 貝合わせの貝を入れる蓋付きの桶で嫁入り道具の一つ

十月十二日、内府公は伏見城より東国へ出発、 翌十三日佐和山城へ到着した。 井伊直政の
物頭役の侍達が城門の番所の前へ出て、駕籠が近づくと頭、同心共に皆平伏して(p380)いたが
番人の足軽の中の一人が内府公の御目通りの時、何か云った者があった。 物頭達は調査した
ところ一人が出て、お調べになる事もありません、それは私ですと云う。 其上司の頭は驚いて、
何と云ったのかと尋ねると、私は久しぶりにお目に掛ったので、久々に御目にかかりますと申上げ
ましたと答えた。言語同断のうつけ者めと頭もあきれ果て外の番所に詰める同役達を呼んで、
如何したものか相談していると、中の門の番頭は急いで本丸へ来るようにとの事である。 これは
きっと例のうつけ者の事に違いない、先ず彼の刀を取上げ番人を付けて置く様にと言残すと
急いで本丸へ出頭した。

直政は傍へ呼んで、先ほど中門をお通りの時其方の組の番人の中で、御久しくと云った者がある
由だが、其方は聞いていないかと尋ねた。 仰る通り私も聞いて居ります、お通りの後調査しその
者も判りました、 恐らく乱心したものと思われますので先ず刀を取上げ、番人をつけておりますと
答えた。 直政はそれ聞いて、いやそんな事ではない、その足軽に知行を与えて侍に取り立てて
やれを云われたので、新たな知行を百石とする。 有りがたく思う様にと云って宿所に帰す様にと
直政が云うので頭もホッとしてその旨言渡した。

さて直政が御前へ出ると内府公は、先程の足軽には知行を何程与えたのかとお尋ねがあり、百石
与えましたと申上げると、髪を掻きながらよくよく役にたたぬ奴だろうと云われた。
著者註 直政が若い時代井伊万千代と云った時、内府公お気に入りの児小姓の部屋が庭続きに
    有ったので、内府公が庭ずたいに部屋に入る時、例の足軽が髪結の草(p381)履取として
    直政へ奉公しており時々目通りへも出た事があった。 内府公が佐和山の城に入る時、
    物頭始め組の足軽達が皆頭を地に付けている中、その足軽一人だけ頭高にして目障りに
    なり、 不審に思っていると前述の様な事を直政が申上げ内府公も昔の事を思い出した。
    虚実は不明だが私が若い時、或老人が語ったので書留めた。

              12-4 東北地方の東西対決と戦後処理
去年九月十五日の美濃国関ヶ原の一戦の時、譜代大名の中には合戦に参加しなかった人々も
多数あった。 その一は江戸城留守居の人々、その二は秀忠公のお供で中山道を上った人々、
その三は上杉景勝の監視の為に宇都宮に残った結城秀康公に付添った人々、 その四は美濃
迄の道筋にある所々の城で在番を命じられた人々である。 年数も隔たっているので人々の記憶
のために爰に記す。

又外様大名の中関ヶ原に出陣しなかった味方の多くは東北の大名衆で、大身では伊達陸奥守
正宗、最上出羽守義光、越後の堀久太郎である。 この三人は上杉景勝退治として内府公が
下向した時、最寄の攻口を担当する事になり、内府公が白川口を攻める日程に合わせ待機して
いた。 しかし上方の反徒退治が優先となり下野小山から引揚げる時、これら東北の人々も軍勢
を一端引揚げた後油断なく上杉の行動を監視する様指示されていた。 そのため関ヶ原一戦
勝利の情報が入った後迄も上杉家の押えとして南部、戸沢、六郷、本堂などは最上近辺に
陣取り、最上義光へ相談しながら監視したので間違いない味方と認められた。 その中で赤高津
孫次郎など始め小山からの情報で上方(p382)の大老及び奉行達が一致して内府公へ敵対する
と云う事に驚き、義光に断りなく陣を引払う人々もあり、心からの敵対行為ではないが義光の強い
不興を買い反徒側と見なされた。

その頃越後は景勝が過去支配した領知であり、其上上杉家代々持ち伝えた事でもあり、景勝が
支配した頃郷村の役についていた郡奉行や代官手代などを撰び密に越後の国の村々で一揆を
起こし、小倉主膳が守る下倉の城を取囲み攻めた。 堀丹後守直寄は坂戸の城でこの事を聞き、
応援のため下倉へ馳行き、城外の山へ着陣した。 そこから城内へ使を送り、内外手筈を定めて
一揆の勢を鎮圧しようとしたが、小倉は何を考えたたかその返答もせず城門も開いて突いて出て
敵陣へ切込み討死をした。 丹後守は小倉の軽挙に怒り、一揆の勢へ向って自身鑓を取て突掛り
家来達も粉骨を尽したので、忽ち一揆勢を追崩して多数の首を討取った。 これを報告したところ
感状を下された。

又溝口伯耆守秀勝の居城新発田は会津領と川一筋を隔て究めて近くであり、 景勝方からも
何とかして攻め取りたいと色々手段を廻らし、一揆勢を集めて押寄せるとの情報が入った。
そこで秀勝は軍勢を率いて新発田を出発し、阿賀野の大河を渡り逆に攻めて一揆の兵と戦い
忽ち勝利を得た。一揆勢の首を幾つか討取り見せしめの為に数ヶ所で獄門にさらした後、
新発田へ引揚げた。 ところが越後三条の城は丹後守の兄堀監物の居城だが、爰でも一揆が
蜂起して城を取囲んだと云う事が新発田(p383)へ知らされた。 

秀勝は三条の城の応援に出陣しようと軍勢も揃えたが有力な家来達が押し留め、三条城に加勢と
言う事も重要ですが、当城は会津領との境でもあるので出陣は見合わせましょうと云う。 秀勝は、
諸君が言う事に一理はあるが、上杉軍が攻めて来るのではないかと恐れて応援を止めた場合、
一揆勢が三条城を攻落せば監物を見捨てた事になる。 其上若しも上杉軍が攻めて来なければ
私の軍事の失策となるだけでなく、内府卿への申し訳も立たないので応援には行かざるを得ない、
もし私の留守を見かけて津川(上杉方)の城兵が一揆勢と呼応して当城へ押寄せた場合、城門を
堅く閉じ、弓鉄炮で厳しく敵を防げ、 其内には私が取って返して追い払うので、城門を開き
突いて出る様にと作戦を残して三条に出陣した。 その事が三条城の寄手に聞こえると急に
囲みを解いて一揆勢が退散する、これ幸と監物は城内より突て出て一揆の兵多数討取った。 

結局新発田勢は応援には間に合わなかったが、秀勝は城内へ使者を送り、今回出勢した証拠に
と一揆勢の村々を焼き払って新発田へ引揚げた。 二度の出勢を報告書に纏め、加治丹右衛門
と云う侍を使者として注進したところ感状を下された。 しかし丹右衛門は帰りの道中で一揆勢に
取囲まれ主従共に打果された。(p384)
著者註: この事は其時代の事を書記した旧記の書面にもあらましは載っている。 爰で書留めた
     内容は、徳永下総守が新発田へ御預けになった時、 私の養父徳永四郎左衛門が
     その頃は曽我市太夫と名乗っていたが、下総守の供をして新発田に滞在中、溝口家
     の侍中に関ヶ原合戦時代の老人が数人居り、下総守方へ出入りして語るのを聞いた
     由で養父が私へ聞かせた事である。

今年秋田城介は古来よりの領知を召上げられた。 理由は関ヶ原へ出陣する様に内府公から
云われた時、初めは承知しましたと請けていながら其後使者を送り、自分領内で浅利与市郎と
云う者が一揆を企てました、浅利は誅殺しましたが其残党が居り領内が鎮まらないので今度の
出勢は難しいとの断りを入れた。 内府公からは、勝手次第で宜しいとの返答は得たが、大身の
秋田家が一揆程度を押さえる人もいないのかと咎められた事による。 しかし右大将源頼朝
時代から続く旧家であり、本領は全て召上げるが別に五万石の地が与えられた。
註:秋田城介 鎌倉時代から出羽秋田城を管理する官名、此時常陸に所替となり生駒を名乗る

慶長七年正月六日 内府公は従一位に昇進した。
同月十九日 上京の為内府公は江戸を出発。
二月一日井伊直政が死去、四十一歳  註:関ヶ原戦における鉄炮疵が原因と云われている。
四月十一日島津修理大夫義久入道龍伯へ薩摩及び大隅を安堵する書状が出された。
五月八日佐竹義宣の領地である水戸八十万石を召上げ、代わりに秋田廿万石を下される。
松平周防守、松平五左衛門、由良信濃守、菅沼与五郎、藤田能登が水戸城在番を命ぜられる。
(p385) 六月十一日本多上野介、大久保石見守へ命じて、奈良東大寺の宝蔵(正倉院)を開き
蘭奢待を切らせる。 その時の勅使は勧修寺右大弁光豊、広橋右中弁総光との事。
註1: 佐竹家は上杉家との密約も有ったと云われ、会津征討にも関ヶ原にも出陣していない。
註2: 蘭奢待は正倉院にある香木で特別な権力者に切り取る事が許された、足利義満、義政、
    義教、織田信長等が知られている。

七月水戸で車丹波、其子所左衛門、馬場和泉、其子新助、大窪兵蔵等の浪人者が佐竹家の
元軽輩などを集めて一揆を企てた。 大窪の家人が城に忍び入ったので松平五左衛門が番所
で捕らえて糾明したところ全て白状して企てが露見した。 城番の者達が相談して取調べようと
したところ、その夜中急に一揆の勢が攻めて来て三の丸を取囲んだ。 城番達は弓鉄炮で厳しく
防いだので一揆勢は戦えず全て敗走した。 その翌日主導者の車丹波を捕へて其外の者も
召捕り江戸へ報告した。 江戸からは安藤五左衛門と久保甚右衛門の両人が検使として出張して
一揆の幹部五人を江戸へ連行した。 江戸で奉行が立合い詮議した後五人は水戸へ戻され、
そこで処刑された。

八月廿九日、伝通院殿逝去、七十五歳   註;家康生母於大 (1528-1602)
十月十八日、金吾中納言小早川秀秋死去(廿二歳)、嗣子がなく同家断絶となる。 註: 病死
十一月八日、松平三郎四郎(十一歳)が遠州掛川より江戸へ参上した。 本多佐渡守の報告で
内府公は新城(二の丸)へ呼び、寒い時によく来たとねぎらい、 本丸の者は誰か居ないかと
尋ねると青山七郎右衛門が本丸より参上していますと側衆が言えば御前に呼び出し、是は
隠岐守の三男で遠州より(p386)来た者である、秀忠へ仕えたいとの願い故、私の寄子だと
よくよく伝える様にとの事で、茶坊主の吾阿弥を付添わせ七郎右衛門と共に本丸へ上ると
大久保相模守忠隣を通じて秀忠公が面会した。
十一月廿六日 内府公は上京のため江戸出発
同月、武田万千代公へ常陸水戸を与える(前下総国佐倉)
註1;松平隠岐守(定勝1560-1624) 家康の同母弟(家康母於大は久松家に再嫁)寄子=仮親
註2:武田万千代 家康五男 武田信吉(1583-1603) 病死

              12-5 浮田秀家のその後 
十二月、京都東山の大仏殿焼失
この大仏殿は秀吉卿が建立した時の本尊は土仏であったため、文禄の大地震の時崩壊した。
その時秀吉卿は、 地震に遭遇して崩壊する様な不甲斐なさでは三界の導師が勤る筈も無いと
弓に矢をつがえて崩れた仏像に向って打ち放し、皆河原へ捨ててしまえとなった。
其後信濃国善光寺の如来を迎へて大仏殿の本尊としたところ、間もなく秀吉卿が病気となり、
北の政所や淀殿などから、大仏の本尊を早々善光寺へ送り返す様にとあった。 その後は本尊
なしとなったが、外国に迄聞こえた大仏殿に本尊がないのも如何したものかと相談も色々したが、
其時代迄は仏師達も不勉強だったのか木仏に造る事を請負う仏師は無かった。

一方鋳物師達は仏殿は其侭で、本尊だけを金仏に鋳たてる事を請負ったので、それは喜ばしい
と大坂の奉行は金仏を発注した。 本尊の下地を材木で組立て、その上に塀を作る時の様に土を
塗って鋳形を拵える。 本堂の後ろに山を築いてその上に溶鉱炉を築いて、仏像の頭上より溶けた
鋳物を流しかけると云う事であり、見物(p387)の貴賎は群集して見ていた。 そこで銅湯を流し
掛けたところ、どうした事か銅湯が土形の中に流れ込み、下地の材木に火が付き一度に燃上がり
仏殿迄全て焼失した。 この時大坂から見分に来ていた薄田隼人正から委しく聞いたと牧野
是休斎が語った。
註: 本件は豊臣家の事業
                
十二月廿八日、島津忠恒が伏見へ参上し、浮田秀家が薩州へ逃下り私の領内どこでも良いから
置いて呉れとの頼みがありその様子を聞いた所、近藤三左衛門と黒田勘十郎と云う家来の侍が
付いておりますが両人共無刀の状態です。 勿論秀家も目の当てられぬ程の風情だと報告を
受けております。 彼は特別な罪人ではありますが、何とか恩赦をお願いしたいと訴えたところ、
窮鳥が懐に入れば猟師も是を殺さずと云う詞もある様に、貴殿が秀家の助命を願うのも当然では
あるが、今度の天下騒動の根元は全て秀家一人の所行である。 その仲間の石田や小西なども
死刑に処した以上、棟梁の秀家の助命は難しいとあったが、忠恒が熱心に色々御詫びするので
貴殿がそれ程言われるなら助命も考えよう、先ずは薩摩から呼寄せられよとの事であった。

暫くして秀家父子と両人の家来が大坂へ到着したので、その事を忠恒より申上げたところ両人の
家来を召出し、秀家が関ヶ原から敗走する様子や両人共刀をなくした次第など委しく尋ねられた。
両人が言うには、中山の郷と云う所で村人が多数出て、刀を渡さねば一人もここを通さぬと
云うので主人の為と思い、私共刀を片目の村人に渡しましたとの事である。 調べてみると確かに
この刀も脇指も出てきた。 そこで三左衛門は徳川家に採用され、黒田(p388)勘十郎はハ島津家
に採用となり、浮田父子は一命を助けられ八丈島へ流罪となった。

後世秀家の消息について、或時江戸の町人で八丈島から帰った者があると花房志摩守が聞き
其者を呼寄せ、 八丈嶋で浮田八郎と言う人に会わなかったか、まだ無事に居られるか等尋ねた。
その町人は、 確かにお元気です、私は時々参上してお話相手をしておりましたが殿様でしたか、
八郎様が私に云われた事は、私もこの島を赦され今一度日本の地を踏み、花房の家で米の飯の
白いのを腹一杯食べて死にたいと常々云って居られましたと語れば、志摩守は老眼に泪を浮べ、
彼には目録など与えて帰した。 志摩守は其日の夕方土井大炊頭を訪ねて彼の話を語り、願わく
ば白米廿俵宛浮田が存命の間、協力したいので御許し下さる様に取成して下さいと頼んだ。

大炊頭も当然の事と思い、同役達へも相談して見ると言えば志摩守は重ねて、御存知の通り私は
老人で明日をも判らぬ身ですから、何とかして一刻も早く御相談下さいとの事だった。 翌日の夜
御用があるので来る様にと大炊頭から連絡があり参上すると、 貴殿の願い通り今日同役とも
相談して上の許可も出たので、早速勘定頭へ通達して浮田八郎が存命の間白米廿俵宛伊豆の
代官から頼む様にと通知したとの事である。
虚実は判らないが著者が若い頃聞いた話であり書留めた。(p389)家光公代の始め頃と言う
註1 浮田秀家(1572-1655) 備前中納言で反徒側の看板
註2 花房正成(1555-1623) 元浮田家家老だったが秀家の代にお家騒動で追い出され、
   家康の旗本となった。 
註3 土井大炊頭、秀忠、家光代の筆頭老中、家光在位(1623-1651)

伏見城で討死した四人の留守居衆の子息達へこの年元の知行のと同じだけ加増となった。 
中でも鳥居左京亮は元の三倍になる加増で十万石下され、其上岩城へ入部するに当り、亡父
彦右衛門を追善するための一寺を建立する様にとの事である。 仏具料については公義より寄付
されると言渡されたので、岩城へ入部すると直ぐ寺を建立したところ知行百石の寺領も下され、則
彦右衛門の戒名を寺号として長源寺とした。

             12-6 家康征夷大将軍を拝命
慶長八年二月十二日、内府公は征夷大将軍として牛車兵杖を給り、同じく淳和・奨学両院別当、
源氏長者右大臣に任ぜられた。
同日越前中納言秀康公は参議に任ぜられ、従三位に叙せられた
今年板倉四郎左衛門勝重は従五位に叙せられ、伊賀守に任じ京都所司代の本職に任命された。
四月廿二日、秀頼卿(十一歳)内大臣に任ぜられた。

七月廿八日、秀忠公の姫君(七歳)は秀頼卿〔十一歳)に輿入れした。 此時家康公(将軍)は伏見
に在城し秀忠公は江戸に在城した。 秀忠公の御台所は姫君見送りのため上京し、逗留中に女子
が誕生した。 この姫君は成長後京極忠高の室となる)。 姫君〔千姫)は船で大坂城へ入り大久保
相模守忠隣が輿に付、その時応接の為西国大名が川辺を警固した。 黒田長政は弓鉄炮長柄等
を備え、堀尾信濃守は人足三百人に鋤を持たせ船の通れない所は土砂を掘除く様に指示した。
船が到着すると大久保忠隣が輿を渡し、浅野(p390)幸長が受取った。
この輿入れ時、大坂城の大手門より玄関迄の間の通路に畳を敷き、其上に白綾を敷くという事で
準備したが、片桐市正がその様な美麗は将軍の好む所では無いと強く言って止める事になった。
八月十日、 後の水戸中納言頼房公が誕生し、幼名は鶴松丸と云った。  註: 家康十一男

慶長九年
二月四日、 江戸より諸方への道中筋に一理塚を築かせた。 大久保石見守が監督し、
同年の五月下旬には全て完了した。 石見守は一里塚の上に何か木を植えては如何でしょうかと
伺ったところ、それは良い事とあったので、何の木にしましょうかと伺ったところ、よい木を植えよとの
事だったが石見守は、榎を植えよと聞き違い、熱心に榎を植えさせたと言う。
四月廿日、参議秀康公が越前国拝領以後初て江戸へ参向したので秀忠公は品川迄出迎えた。
二の丸の御殿に滞在されよとの事で、大手門前の大久保相模守の屋敷を明けて、秀康公の供衆
の宿として渡した。
七月十七日、江戸城内で家光公誕生(秀忠長男)
此日伏見では将軍〔家康)が宰相秀康公の亭を訪問し、能興行などの接待があると諸人は思って
いたが、以外にも相撲見物となった。 加賀の力士順礼と越前の力士追手の三番勝負だが、追手
が三番共勝て勝名乗りを上げた。

今年十二月、松平伯耆守忠一が家老の横田内膳を成敗した。 理由はこの頃忠一の行いが乱れ
何かにつけ手荒い事を(p391)を好み、亡父式部少輔(一氏)の代から勤める古老の者達を役から
はずし近習も遠ざけ、役に立たぬ者ばかりを側近として使い出世させた。 内膳はこれを歎いて
直接又は書状により意見したが忠一はそれを憎み、 出世させた安井清太郎、近藤善右衛門、
天野宗葉、道家長右衛門等と相談し横田を殺害しようとした。 しかし四人の中近藤善右衛門
だけは同意せず色々反対したが、 忠一は承諾せず残る三人と打ち合わせて横田を城中へ招き
料理を食べさせ酒も出し、その隙を見て忠一が刀を抜いて横田に斬り付けた。

横田は疵を負いながら席を立って次の間に退くのを、 忠一と三人の者達も横田を追って次の間
に出た。 そこで横田が刀を持せて置いた小童が主人の刀を引抜いて忠一に切付けるのを宗葉が
右の手で是を受止め疵を負った。
近藤善右衛門は前から忠一を諌めたが聞く耳持たず、その日横田の訪問に三人の者が出ると聞き
これはもしや前からの計画で若輩の忠一が武功の横田を殺害するのではないか、 と気を付けて
近くで聞耳を立てていた。 案の定騒々しくなり、やはりそうかと長刀を持って出て横田を切殺し、
例の小童は安井や道家などが切り殺した。 

内膳の嫡子である横田主馬は是を聞て居城である飯山の城に取籠ると、忠一の家来の中にも
柳生五郎右衛門など始め数人が主馬に味方して飯山城に立て篭もり大きな騒動となった。
隣の出雲辺にも聞こえ、堀尾帯刀と同信濃守父子が軍勢を引連れ伯耆へ向い、 忠一の部隊と
共に飯山の城を取囲み急襲すると(p392)城兵も鉄炮を放して厳しく防ぐので寄手の中でも死傷者
が多数出た。 しかし多勢に無勢であり防ぎきれず、城将主馬は従卒と共に自殺して終わった。

この事が江戸に聞こえると将軍は機嫌悪く、 前述四人の者及びその外数名呼付けて詮議が
あった。 横田内膳は将軍も御存知の者であり、最近家老も勤める者であるが何か不似合いな
所行でもあったのか、その点を明白に言上する様にとあった。 三人の者達は事前に相談して
若しお尋ねがあれば横田の行いが良く無い事など取繕って答える予定だったが、近藤善右衛門も
その場に居るので作り話をする事もできず、内膳の行いが悪いとは思いませんと答えた。

重ねて詮議があり、横田は式部少以来の家臣でもあり其上公義で御存知の者であるが、伯耆守が
若気の至りで成敗すると云った時、誰も相談して止めさせようとしなかったか、又は止めたが伯耆守
が承知しなかったのかとお尋ねがあった。 近藤が同席に居るので、止めましたとも言えず三人は
無言で赤面したので詮議も終わった。 暫くしてから三人共死罪となったが近藤善右衛門だけは
何のお咎めもなかった。 
翌年の春伯耆守が参勤の時、 品川より内へ入る事を遠慮する様にと云われ、品川内に寺を借り
蟄居していた。 身上を失うか又は知行高を減らし所替なともあるのでは、と江戸中で噂されたが
以外に暫くして御許しが出た。(p393)
註: 中村式部少輔一氏は豊臣政権の三中老の一人であり家康よりの立場で東軍味方だったが
   関ヶ原合戦直前に病死した。 中村一忠(又は忠一)は一氏嫡子で、父の功績により米子
   十七万石当主(1590-1609)となり、この時十四歳 。

             12-7 徳川家の隆盛と世代交代
今年松平三郎四郎定綱に下総国山川領内の内五千石が与えられる。
慶長十年正月九日 将軍(家康)は上洛のため江戸城を出発
二月廿四日、秀忠公が江戸を出発し、京都に向かう
四月十日、 将軍が朝廷に参内する
四月十二日、秀頼卿が右大臣に任せられる(元内大臣)   註十二歳
四月十六日、秀忠公は征夷大将軍源氏長者淳和奨学両院別当を勅許され、内大臣に任ぜられ
正二位に昇進     
同日結城三河守秀康公は権中納言に任ぜられ、松平下野守忠吉公は左中将に任ぜられ従三位
に叙せられる、 上総介忠輝公は左近衛権少将に任ぜられる
註1.松平定綱 家康異父弟(久松)定勝の三男 1592-1652
註2.秀忠は家康三男 二十六歳、 結城秀康は家康二男三十一歳、松平忠吉は四男二十五歳、
    松平忠輝は六男十三歳

今年大御所(家康)は榊原式部大輔康政の娘を養女とし池田輝政息男右衛門督利隆に嫁がす。
輝政の室は大御所の姫君であるが、利隆は別腹で中川瀬兵衛清秀の娘の腹に出生した。
輿入れの日は青山播磨守忠成が輿を運び、土井大炊頭が貝桶を渡す。 安藤対馬守、鵜殿
兵庫、伊丹喜之助などが輿に従う。 浅野弾正、黒田長政が餐膳の相伴をして加藤清正、浅野
幸長、蜂須賀至鎮、加藤嘉明など接待役で前代未聞の婚礼だと話題になった。

慶長十一年四月榊原康政病気の由が将軍家(秀忠)に報告されたので、酒井雅楽頭、土井
大炊頭を館林の城へ見舞いとして派遣した。 医師の延寿院玄朝も上意により館林に詰めて
(p394)治療に当った。 度々上使により病状を尋ねた。
同年五月四日榊原康政が死去した(五十九歳)。 阿部備中守正次を上使として喪を尋ねた。
同年九月昨日島津忠恒が伏見城へ呼ばれ、大御所の指示で松平の姓が下され家久と号する

今年浅野弾正長政は常陸国真壁に五万石、近江の愛知郡で五千石を下さると上意があるのに
請けなかった事が大御所の耳に入り弾正に、其方は真壁城地を辞退したそうだが其方一代の
問題ではない。 紀伊守(長男幸長)は国主であるが、他にも右兵衛と采女の二人の子供が居る
のに余計な辞退である。 将軍(秀忠)が呉れると云うのは幾らでも貰って貯めて子供達に譲る
心掛けが必要だ、との御意があり翌日になって請けた。 後日紀伊守が病気で死去したが子供
が無く、 舎弟の右兵衛長晟が始め秀頼に仕え其後北の政所に付いていたのが紀伊守幸長の
家督を継ぎ、三男采女(長重)が弾正隠居跡の真壁を拝領した。

慶長十二年三月五日、松平薩摩守忠吉公は江戸で病気となり、快復したとの事で尾張に戻る
途中、 品川の駅で死去した(廿八歳)ので遺躰を増上寺に移し葬送した。
遺体を増上寺に移した時、尾張犬山の城主小笠原和泉守が葬儀の役人を呼んで、殉死の面々
が入る棺四人前準備する様にと指示した。 役人は了解しましたと席を立ち聞合わすと石川主馬、
稲垣将監、中川清九郎の三人の外には居ない。 これは和泉守の思い違いではと(p395)再度、
お供の人々の棺を貴殿は四ツ必要と云われますが三人の様です。 他の事と違い棺を余分に
準備するのは如何なものでしょうと云えば和泉守は、私の云い付けに余計な気を遣うなと人前で
言われて役人も不快に思い、殉死三人は誰々と判っていますが、今一ツの棺には誰が入るの
ですかと尋ねた。

和泉守は、其棺が必要な事は私に考えがあり準備をするのだ、万一其棺へ入る人が無ければ
此和泉守が皺腹を切て棺を塞ごう、心配せずに早々準備せよと云うので棺の数四ツを用意したが
三ツは塞がったが残る一ツは不要である。 方丈の片隅に押込んであるので、例の役人が仲間に
向かって、棺の余分は不要と私が云うのに余計な事を言うなと、うつけ者の様に和泉守に言われ
たが今でも棺は余っている。 人前で私に云った口上の手前、たとへ御家老であれ皺腹を戴き
たいものだと広言した。

この時和泉守息子の監物は、薩摩守忠吉公の機嫌を損ねて奥州松島に蟄居していたが、薩摩守
の死去を父和泉守が早飛脚で知らせたので殉死する覚悟増上寺に駆けつけた。 和泉守は
この事を方丈へ伝え、監物は落髪して長上下(出家の服装)を着して太刀の折紙を持参し、存応
和尚の位牌に向って、小笠原監物は御勘気を赦されお供にお連れ戴き忝い次第と披露した。
その後で親の和泉守が出て(p396)同じく存応和尚の仏前へ向って、和泉守の倅監物は御勘気
を赦されお供に連れて戴き忝く思いますと云った。 其夕方監物は切腹し例の棺も塞がった。 
又監物の家来の佐々喜蔵と云う者も監物の為に殉死した由である。

同年閏四月八日中納言秀康公が越前北の庄の城で逝去(三十四歳)し、その家臣土屋左馬助、
永見右衛門等が殉死した。
秀康公は病中に於佐の局と云う大御所も御存知の女中を駿河へ派遣して口上に、去三月五日に
尾張の薩摩守殿が死去され、私も病気がはっきりせず快気に見通しも立ちません。 在世の内に
この事を申上げたく思い局を派遣いたしましたとある。 局が駿府へ上りこの事を申上げると家康公
は驚いて、私には子供は多いが中でも秀康は惣領に生れ、其上度々私の為役に立った者なのに
越前一国だけを与えて置いた事は今更悔まれる。 今度病気の快気の祝儀として廿五万石の地を
加増して百万石にするので其方も急いで帰りこれを報告せよと上意があり、近江と下野の中で
廿五万石とある書付を局に渡した。

局は喜び急いで帰る途中、岡崎の宿で秀康公が逝去した事を聞き、駿府へ取て返し直に御城へ
上った所、大御所は囲碁を打っていた。 そこへ局が参上して中納言は養生叶わず逝去した事を
伝えると大変悲しまれた。 局は例の加増の書付を取出して、大切の御書付ですからと差上ますと
云えば、女性の身で気配りが良いと受取られた。
此事を越前の家中の人々が伝え聞き、局の余計な機転の利き過ぎと言い合った。

慶長十三年四月廿四日、右兵衛義直公へ尾張国を与えられる(其前甲斐国を領す)*家康九男
同年十月四日 秀忠公に女子(後の後水尾天皇中宮、東福門院)江戸城で誕生

慶長十四年二月廿一日、島津家久は琉球国征伐の件で両御御所(家康、秀忠)へ伺いを立てた
ところ、その様に任せるとの事だった。
同年九月、西国(九州、四国、中国)の諸大名が所持する五百石以上の軍船は以後禁止となり、
全て召上げ駿河や江戸へ回航する事が命ぜられた。 その責任者として九鬼長門守重隆に向井
将監と久永源兵衛の両人を添えて、三人が淡路国へ渡海して調査した。 これら大船の内
一艘(紀伊国のものと云)は池田輝政に下され、翌年に二艘は九鬼重隆に下された。
同年十二月駿河、遠江の両国を頼宣公へ与える。 註: 家康十男、後の紀州家
此年江戸城本丸と西の丸の間に新に舞台が出来、能興行があり両御所が桟敷で上覧し譜代
及び外様の諸大名も見物も招かれ料理も出された。
 
落穂集第十二巻終