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落穂集第十一巻(p331)
             
 11-1 毛利家と小早川家の翻意        

九月十四日の晩方長束大蔵と安国寺の両人は大垣城中より南宮山へ帰り、直ぐに毛利宰相
秀元の陣へ行き、 貴殿は我々両人を始め当山に布陣する(p332)諸将と相談して夜中に麓へ
軍勢を下ろし、明朝に先手と戦が始る頃合を見て内府の旗下へ押掛け一戦するのが良いと
しっかり伝える様にと大垣で浮田秀家が言っていましたが、幸い我々が此処に帰ったのでお
伝えしますと秀元に伝えた。
その時秀元は両人へ向って、私は若輩ではあるが輝元の名代として此処に出陣している以上
輝元と同じ様に毛利全軍の指揮をする立場であり、秀家の指示を請けて一戦を行う筋はないと
すげなく突き放した。 

そこで長束、安国寺は側にいる吉川の方に向い、宰相殿があの様に云われては合戦直前に
作戦に違背される事になり、これは秀頼卿の為になりませんので何とか御同意戴く様に貴殿
からも説得されたいと云う。 吉川は聞くや否や安国寺に向って、秀家が云う事を長束殿から
伝えられるのは止むを得ないが、貴殿は当家の仲間なのに秀元に秀家の命令に反する等
と云うとは何を考えているのかと苦々しく云われ、その後は一言も返す言葉もなかった。 
両人は座を立ち帰ったが、さては秀元は吉川等と示し合せて関東方へ味方すると二人共に
推察した。 これは兼重勘入斎物語である。
註: 毛利家当主輝元は西軍総大将に祭り上げられ大坂に在城、関ヶ原は養子秀元、分家
   吉川等が布陣するが、吉川は当初から関東方で秀元に不戦を説得したといわれる。 
   安国寺は毛利家の外交僧で積極的な石田派

筑前中納言秀秋は伏見城攻の時迄は反徒側だったが、関東方(富田信高)の城である伊勢の
安濃津城を攻める時、 秀秋を主将とせず毛利家の諸軍勢等と横並びに扱われ、全ては長束
大蔵一人の指揮となったので秀秋は心外の至りと思っていた。 又秀秋家老の林佐渡、平岡
石見両人は元より反徒側である事に不快に思っていたので、これ幸いと秀秋に進めて病気
と言う事にして伊勢より引返して近江の高宮の(p333) 駅に宿陣した。 

この事を石田三成が聞伝へ、浮田秀家と大谷吉継の両人へ相談した。 大谷は聞て、此前も
度々私が云った様に大事を行う前には小事は慎むべしと昔から言う。 この様な事が起きる
のは貴殿達の油断と私は考える。 それは貴殿方もこちらへ来ており毛利秀元も家中の部隊
だけを津の城へ向けて自身は参加していない。 それであれば中納言秀秋に寄手の主将
として全軍の指揮をとらすべきであった。 ところが同じ奉行職と云っても御存知の通り特別
な理由で出世した長束大蔵等が指揮するのであれば秀秋の気持ちはともかく、 先代隆景
以来の家老達の身になれば満足する訳がない。 秀秋については自身の器量と云い、若年
と云たいした事はないが、 一万に及ぶ大軍と云、特に隆景仕込みの家来も多数居る。  
もしも秀秋が裏切る様な事態になれば、味方にとっては大きな障害となります。 しかし今に
至っては御両人から色々云われても、どうかと思いますから私から思い付く事を一通り伝え
ましょうと大谷は言う。 秀家、三成もそれはありがたいと云う事になった。

大谷は家老の平塚因幡と戸田武蔵の両人を招いて相談の上、秀秋が喜びそうな事を伝えた。
平塚と戸田は高宮へ行き秀秋の宿陣を見舞った。 少々面談したい事があり両人が訪れた
事を伝えると、笹沼兵庫と云う者を通じて秀秋が伝えたの事は、御面談の上お話戴くとの事で
御両人が遠路お出で戴きありがたい事ですが、 私は病で今臥せておりますが、何とか気分
が良くなれば御面談したいものです。 遠方から御出の事ですから先ず休息下さいと接待の
上、林佐渡、平岡石見(p334)両家老が出て秀秋の口上として、御両人お揃いで遠方より御出
下さり、何とかして御目に掛りたいのですが気分が悪くそれもできません。 この両人(二家老)
は皆さんもご存知の者で、秀秋の事に関しては何でもこの両人に隠す事はありません。
委しい事はこの両人にお話戴き、日も既に傾き遠路御帰宅の事ですから御両所は御帰りに
のなるのが良いでしょう、 後ほどお話された事を聞きますとの事である。 

そこで両人は仕方なく大谷から言い含められた口上の趣旨を委しく話したところ、両家老は、
刑部少殿(大谷)には前から秀秋の方へ親しくして戴きましたが、近年は奉行職を辞退された
との事で秀秋を始め我々も残念に思っておりました。 しかし今回御両所からの親切な御口上
があり秀秋へ伝えればさぞ喜ぶ事でしょう。 我々まで忝い次第と思いますので宜しくお願い
します、 秀秋も油断なく病気の保養をして江戸内府着陣前に出馬して、御両所が遠方より
来られ御内意も戴いた上は益々奉公奉公に励む事でしょうと、真顔で述べるので平塚、戸田
両人も秀秋は偽病では無いと考え、今度の一戦に際し御忠節の働きがあれば中納言殿は他の
人とは違い、伏見の城攻と今度の戦功と二度の御奉公ですから、必ず評価が上りますと両人が
堅く請合った。 これに対し両家老がたいへん喜んだ事を帰って報告すると、大谷は聞いて
上出来であると安堵し、筑前家では私も良く知っている林、平岡の両家老さえ同意すれば済む
事であると云った。
著者註 この事について、その時代の事を記した書物では、平塚、戸田の両人が高宮の宿陣へ
    行き、 秀秋が面会に出たら(p335)両人が飛掛り生捕って連れて帰る計画だったが、
    秀秋がそれを予想して面会しなかったので空しく帰ったとなっているが、そうでは無く
    この時は裏切りをしない様意見のため、大谷が策を持って両人を派遣したというのが
    咄斎の物語である
註: 小早川秀秋(筑前中納言、1582-1602) 秀吉の正室高台院の甥、木下姓、秀吉の養子
   を経て小早川隆景の養子となる。 隆景(1533-1597)は毛利元就の三男で毛利の実力者
   であり秀吉の大老も勤めたがこの三年前に死去

             
11-2 大合戦前夜

十四日の夕暮れに黒田長政より報告があり毛屋主水と云う者を使者として家康公本陣へ
遣わした。 御前での口上を聞き終わると、その後敵の総兵力はどれ程と見るかとの質問に
主水は陣屋の縁のかまちに手を掛けながら、私の見積もりでは二三万と思いますと云うので、
それは意外に少ないと不審に思った。 その前に徳川家の武将達の見積もりでは皆十万以上
は確実な総兵力と報告が上っており、 御前にいた人々も主水の口上と大きな違いがあると
思った。 その時再度家康公は、他の者達は十万余りと見積ったが、其方は二三万と云うのは
納得できないが、と云えば主水は、仰る通り総兵力は十一二万でしょうが、その中で実際に
合戦の相手としての敵は二三万を超えないと思いますと云う。 確かに毛利家を始め、小早川
秀秋、鍋島、脇坂等は内通もあり、主水の数字も根拠あると思い当った。

家康公は一段と機嫌よくなり、御前にある饅頭を主水に食べさせよとの事で、側衆が取分けよう
とすると、折ごと全部と云う事で主水はその折を戴き、縁の踏台に腰を掛けてゆっくりと残さず
食べて終わり陣より出て行った。 後であの者の本名を尋ねるべきだったと云われるので、側衆
の中から毛屋(p336)主水ですと言えば、いや彼の本名は毛屋ではない、越前の毛屋と云所で
手柄を立て、それ以後毛屋と名乗っていると聞いているとの事である。  黒田家来の主水程度
の者迄記憶に留めているとは不思議な事と皆感心した。
著者註: 毛屋主水の本名は田原主水と云い、越前国毛やと云う所で大きな手柄を立て、以後
   毛屋と名乗ったと云う。 黒田長政に属し朝鮮でも活躍し、その後毛屋武蔵と名乗った由

十四日の夕暮れになり、明日の一戦の時の全軍の合言葉について、前には山に対し麓、麓に
対し山と決められていたが、山は山、麓は麓とする様にと触れがあり、又全軍上下共に左の
肩先に角を取った紙を張り、味方同士の相討ちが無いようにと触れられた。

十四日の夜、家康公が手洗いの為に座敷の竹椽へ出た時に、小姓衆は皆聞けと言い、集ると
敵陣の山上で燃え続ける篝火を指さし、 あれを見よ、夥しい篝火ではないか、夜が明次第押
掛け敵を踏み潰すので、その時は其方達も親、祖父の顔に糞を塗るなと云った。 小姓達
は次の間に帰り、今の御意を聞けば血の滴る首を下げてお目に掛るか、さては此方の首を敵
に渡すか、二ツに一ツ以外は無いと言い合って夜を明した。

十四日の夕暮れに平塚因幡と戸田武蔵の両人が一緒に大谷刑部少の陣所へ来て云うには。
昨十三日の早朝から秀秋方から人足を大勢入れて松尾山の所々の木を伐らせて道を作り、
昨晩(P337)には総勢が松尾山に登り布陣しています。 こちら(松尾山)に着陣するという知らせ
を当然する筈ですがと尋ねた。 大谷はそれを聞き、秀秋は着陣した事は今始めて聞いたし、
大垣城中でも聞いていないと答えた。 両人は、やはりそうですか、これで秀秋の裏切りは
間違いないと推量します。 理由はこの間両人が高宮へ行った時、早々に秀秋から使者を送り
お礼を申上げますと云うので、多忙の時期ですからその必要はありません、病気が少しでも
快復し此方へ出陣されれば良い、 着陣の時には報告の使者を下さいと云った所、家老達は
その時は云われる迄もありませんと云いましたが、今その報告もありません。

前にも申上げた通り、秀秋自身は不器量な人であっても一万に及ぶ軍勢を持っており、もしも
合戦半ばで裏切などされては味方全体に悪影響が出て重大です。 我々両人は秀秋の陣所
へ行き、 秀秋が面会すれば両人の手で打果し、 秀秋が偽病で出て来ない時には両家老
打果します。 我々の部隊はその侭陣に残しておきますので、我々が彼らと刺し違えて死んだ
場合は、我々の倅庄兵衛と内記を呼ばれ、 秀秋は秀頼公への不忠の者として親達が手に
掛け討取った事をお伝え下さいと云う。 大谷はそれを聞いて大に感激して、委細承知した、
しかし秀秋の両家老以外の者を相手にして諸君の命を失うのは意味がない。 この点十分
思慮する様にと応じた。

平塚と戸田両人は松尾山へ行ったが秀秋は病気と称して出て来ない。 更に両家老は共に
今日の事であり、各部隊の点検の為に出かけており両人共に不在との事であった。(p338)
両人共に手を空くして馳帰り、大谷の前へ来て、秀秋の裏切りは決まりました、味方の布陣は
その積もりで立て直すべきと言上した。 大谷は聞いて、言語道断の憎き若造めと腹を立てたが
湯浅五助を呼寄せて、其方は脇坂の陣へ行き、松尾山に布陣した筑前中納言の行動は理解
できない様子もあり、裏切る事も有り得るので、その辺に布陣する朽木、小川、赤座等と相談し
様子次第では秀秋の先手へ掛って一戦を始められるのが良い、 我々父子(吉継、大学)、
平塚因幡なども同時に押掛けて筑前勢を切崩すであろうと伝えよと指示した。 

五助は脇坂の陣へ馳せ行き趣旨を伝えた処、 脇坂は前から関東方へ内通しており、其上
秀秋の家老とも示し合せているが、そのそぶりは見せず湯浅に向って、大谷殿の御連絡承知
しました、どこで骨を折るのも同じですから、此辺に控えている人々と相談して、十分働く覚悟
ですとお伝え下さいと返答した。 五助もそれを真実と思い馳帰り報告した処、大谷は五助に、
先手へ帰り、大学、山城両人共に若い者であるから十分伝えよ、 又家中の諸侍達には同じ
関東勢と云っても黒田、福島、加藤等は手剛い相手だが、縦令多勢と云へ秀秋の軍勢を踏
潰すのは易しいと、合戦前に皆に伝えて納得させよと指示した。 これも又咄斎の物語である。

            
11-3 合戦の朝

九月十五日の朝、家康公は大垣の岡山を出発して桃配山辺に着陣した時、南宮山の方を見て
本多忠勝に向かって、あの山の上にいる敵の様子はどうかと聞くと忠勝は、吉川が味方する
事は間違いない様で、合戦が近づいても毛利家の軍勢を山から繰り下ろす様子がありません。
其上池田、浅野を始め押えの部隊で堅く備える様に(P339)云われており心配はありませんと
報告した。

十五日の朝家康公が未だ野上の桃配山に布陣している時、旗本から斥候として森勘解由と
沢井左衛門が二騎連れで先手の方へ進むとと、 石田三成の家来沢田小三郎と乾次郎兵衛
と云う二人の偵察に出会った。 石田方両人が森・沢井を目掛て勝負を挑み鑓を構えたので
森と沢井も同じく鑓を取直して互に馬を乗寄せた。 其時福島政則の軍使祖父江法斎が
双方の中へ馬を乗入れ、偵察の武士は夫々主人の用を担っている以上、自身では戦いは
せぬものである、諸君は無益な事をするなと大声で言えば双方物別れとなった。 

祖父江も沢井・森と共に家康公の床机所へ行き、敵の模様を報告した序に森、沢井共に鍋島
は軍勢を山手へ引上げたのか陣場に人は居りませんと云えば家康公は、私が岐阜に着陣した
時内通があったが、さては軍勢を引揚げたか。 それはどれ位前かと尋ねられたので法斎は、
今少し前の事と思われますと云えば、 未だ夜の内でありこれ程霧が深いのに如何してそう思う
のかと尋ねた。 法斎は、鍋島の陣所の馬糞を取って握り砕いて見ましたが、中は暖かでした
から夫ほど時間は立っていませんと答えると家康公は無言でうなづいた。
著者註 この法斎について家康公は前にも何度か会っており、大坂でも政則に会うと可児才蔵
    と祖父江法斎は元気ですかと度々尋ねた。 関ヶ原一戦後法斎は旗本へ採用され 
    青山常陸助組に配属し、常陸助の名乗を与えられ青山石見と改名して奉公した。(p340)

十五日早朝に細川忠興と加藤嘉明の両人が相談して、 内府卿の御出馬前に南宮山の敵が
下りて来て先手との間を遮断されると困るので早々旗本部隊を進められる様に進言しようと、
忠興の家来の沢村才八と嘉明の家来田辺彦兵衛に連絡に行く様に云い付けた。 この二人は、
この様な直前になり後の方へ御使いに行くのは困ります、我々は外して下さいと断った。 忠興
は聞くや否や、内府の御出馬が無い内に私が討死しては何もならないので、急ぎ連絡する為に
其方に命ずるのに同意しないとは、と叱りつけたので才八と彦兵衛は馬で旗本の方へ馳行くと、
垂井の宿で井伊直政に行き逢ったのでその旨を伝えた。

直政は、御両所(細川、加藤)の御心付について承りました。 内府も今出馬すると見えほら貝の
音も聞こえます。 今云われた口上は私から伝えますので、御両人は陣にお戻り下さい。 
南宮山辺を内府が通る時は本多中務と私が後を押さえますので問題ありませんので御心配なく
とお伝え下さいとの事で両人は帰って報告した。 間もなく内府卿の出馬と見え旗先が見えた
との注進があった。
註: 九月十四日の家康本陣である赤坂岡山から中仙道で垂井迄5km、関ヶ原迄迄更に5km

十五日の朝家康公が桃配より関ヶ原へ陣を進める時、井伊直政は手勢を率いて先手の方へ
押通った。 本多中務は徒侍十人計連れて馳せつけ、貴殿は先手の方へ部隊を進める様だが
何故か、小山の会議でも指示された事でもあるが、私への断りもなく貴殿の部隊だけが進む事
は納得できぬ。 私の部下も呼びに行かせるので彼らが来るまで此処で待たれよと云う。
直政は聞くや否や、私は下野守殿(松平忠吉)を(p341)を案内して先手の様子を見せよとの
家康公の指示で来たのである。 貴殿と諸事相談する様にという小山での御意は昨日迄の
事ですと返答した。 忠勝はとんでもないと顔色を変え、小山での指示を昨日迄とは私は
聞いていない。 それはとも角貴殿の部隊だけ先へ行かせる事はできぬと口論となった。
そこで犬山城の加勢に行き、直政を頼って降参した関長門守がこの時も直政と共にあったが
両人の中へ馬を乗入れ、皆さんは内府公の為に専ら忠義を尽すべき方には似合わぬ事
です。 直政は下野守殿を連れて先へ行かれると良い、私は中務殿と共に残りますと仲裁を
したので、直政は先へ行く事ができた。

更に福島政則の陣脇を通ろうとした時、政則の物頭可児才蔵と云う者が馳付けて馬より飛下り、
鍵鑓を横を構え、今日の先手は左衛門大夫(政則)より外には無い。 誰が軍法を破って先へ
出るのかと押し留めた。 直政は、私は井伊兵部です。 敵の様子を見てくる様にと内府から
云われているので通るのですと返答した。 才蔵はそれを聞いて、偵察に行くならご自身で
通られよ、部隊を連れて行く事は成りませんと断る。 そこで部隊は木俣右京に指揮を預けて
下野守を連れ馬上の侍二十騎計り連れて進んだ。 政則の方も一戦の準備で忙しい時であり、
その隙に直政の家中の者も馳せ出し追いついた。

十五日朝の八時頃迄は桃配山に家康公は布陣していたが、 本多三弥が来て、今少し先へ
部隊を進められるのが良いでしょう、是では余りにも敵の間が遠いですと云った。 家康公が、
口脇の黄色い者が余計な事をと言うと(p342)三弥は後ろに廻り、いくら口脇が黄色くとも
遠いものは遠いと独り言を云った。 其後福島政則や黒田長政など始め先手が一戦を始める
ので、早々旗本部隊を先へ詰められるのが良いと云うので、関ヶ原へ旗を進めた。 しかし
敵味方でにらみ合互に鉄炮を放すだけで、どの部隊もこれという戦闘の様子がない。 そこで
旗本のほら貝を合図に旗本全軍が鬨の声を揚げると、同時に福島と黒田両家の先手が突き
掛り合戦が始った。
註: 本多三弥(正重1545-1617) 家康の三河以来の家臣、本多正信(家康家老佐渡守)の弟

著者註 この時の旗本の鬨の声に関して、私が若い頃浅野因幡守の近習で島村清右衛門
   と言う者が私の養父の所に来て、小木曽太兵衛を呼出し関ヶ原合戦の朝の旗本全軍で
   鬨の声を揚げたと云うのは本当か、一声と云う説もあるが実際は如何だったか尋ねた。
   小木曽の答えは、野上(桃配山付近)から関ヶ原に旗本軍が移動すると御徒衆が来て
   私達の頭へ何か伝えて走り通りました。 その後で頭達が側へ与力衆を呼び、旗本で貝
   の音がしたら全軍鬨の声を三度揚げる様にと御触れがあった、 その様に心得よとの
   事で皆その積もりでした。 暫くして貝の音がありその侭鬨の声を揚げましたが、始めの
   声はしどろもどろに聞こえ、二度目は大体揃い、三度目の声は大きく聞こえ渡りました。
   以上三度で、私なども鉄炮組で鬨の声を上げました。
   
   清右衛門は又、其朝合戦前に先手衆の陣が崩れて旗並みも乱れたとも云うが、その様な
   事が有ったかと尋ねた。 小木曽は、確かに先手衆か二三番手でしょうか(p343)誰殿の
   陣か分かりませんが、旗並みが乱れた陣が二つ程見えましたが、程なく又元の様に旗も
   直りました。 後日に聞いた事ですが、福島大夫殿が備前中納言殿の部隊へ切掛かるとの
   事で夜中から急に陣構えを立直すので、これは大夫殿が裏切ったかと思われ,前述の様な
   騒ぎになりました。 しかし福島殿の先手の足軽共が備前軍に烈しく鉄炮を打出したのを
   見て、懸念は解消したそうです。
   福島殿については、とても関東方に味方する人では無いと当時江戸では貴賎共も予想して
   居ましたが、岐阜城攻めで大きな成果を上げられたと聞き諸人の予想とは違いました。と
   小木曽が語るのを清右衛門は覚書にして、これを殿に申上げると云って帰ったのを私は
   覚えている。 酉年の大火の二三年も前の事である。
註1 酉年の大火は1657年で友山が十七歳の時であり、上は十四五歳の頃の記憶となる


          
11-4 合戦諸将の人間模様

其一 小早川家への問い鉄炮

家康公も関ヶ原に陣を進め先手の各部隊は既に合戦を始めたが、筑前中納言秀秋の軍勢は
松尾山に登って静まり返り裏切りなどする様子がない。 家康公もかなり不審に思っている処へ
大保嶋弥兵衛が先手より馳せつけ、筑前中納言は事前の打合せを変更した様子に見えますが
どうした事でしょうと云うので家康公も、さてはせがれめに諮られかと頻りに指を噛むが、
其方行って秀秋の陣がある松尾山の上に鉄炮を放し掛けて見よとの事である。 弥兵衛が馳せ
行き先手の物頭布施弥兵衛へ指示を伝えた。 布施は組の同心を連れて松尾山の麓へ近寄り
鉄炮を打掛けた処、予想通り筑前勢(p344)はそれ以後色めき立ち軍勢を麓に下ろした。
  
同じ頃だろうか、黒田長政から秀秋の陣に付けて置いた大久保猶之助と云う者も、平岡石見の
側へ寄り具足の袖を捕まえ、 既に合戦も始ったのにこの軍勢は裏切りの様子も無いのは如何
した事ですか、 万一黒田甲斐守と約束された事を変える様な事があれば、若宮八幡に賭けて
此処で今貴殿と差し違えをすると云い脇差の柄に手を掛けた。 石見は少しも騒がす、私は今
潮目を見ている所です、甲斐守殿と一度約束した事を変えるものですかと云った時に、布施
弥兵衛が放させた鉄炮の音が聞へると同時に集めて置いた使番役の侍共一度に招き寄せて、
今日の一戦は訳有って裏切りをするので先手の物頭、番頭の面々に確実に触れよ、部隊毎に
進退の様子共に諸君が見分する様にと指示した。 使番の侍等が各部隊へ馳廻り連絡すると
筑前の軍勢は山を下り大坂方の大谷、平塚等の部隊に向けて鉄炮を打掛けて一戦が始った。

其時秀秋の使番村上忠兵衛と言う者が松野主馬の陣へ行き、平岡石見の指示を伝えると主馬は
当軍勢が裏切り等すれば秀秋は不忠不義の悪名を蒙る事になるので私は同意できない、両家老
は知らない筈はないが、この主馬等は外様者と思い知らせなかった事を幸いに何も聞かなかった
事にして私の部隊だけは関東方に一戦して討死する外はないと云う。 忠兵衛は、裏切の事を
知らなかったと有っては私の落度になり、其上主人の非を正されると云う事はもっと前にする事で
今に至っては意味の無い事です、(p345)ご理解下さいと云うと、主馬は納得して自分の部隊を
率いて山を下ったが終始見物していた。 

其後主馬は秀秋に暇を乞い京都へ登り、頭をそり黒谷の傍に柴庵を結んで閑居した。 秀秋が
備前・播磨両国を拝領した時、 知行を加増して呼出して両国の支配に協力する様にとあったが、
堅く断った。 その後田中兵部少輔が筑後の守護になった時一万石を与えて抱えたが、田中
筑後守が無嗣断絶となったので駿河忠長公(秀忠次男)へ採用され鳥居朝倉の両家老中に続く
立場であった。 しかし忠長公が改易された後、又頭を剃り道円と名を改めて近江の大津辺に
閑居していたがそこで死去した。
著者註 黒田家の大久保の事は虚実は分からぬが、事実とすれば感心するので爰に書留る。

其二 大野修理亮の名誉挽回
大野修理亮は十五日の早朝浅野幸長の前へ来て云うには、 小山以来貴殿のお世話で部隊を
借り貴家の家来衆と打合せ、貴配下で相応の働きをしたいと前から思っておりました。 しかし
貴殿のお役目は南宮山の敵を押さえる事ですが、西軍の毛利秀元は既に降参との事であり
最早この場での一戦はないのではと思います。 私は御存知の通りの立場ですから今日一働
しない訳に行きません、 是非とも先手の中へ加わり手柄の機会を得たいものですと云う。 
幸長はそれを聞いて、確かにその通りです、それでは福島左衛門大夫の配下に行かれるのが
良いとの返答した。 大野は大喜びで馬を早めて福島政則の陣へ駆けつけ備前中納言秀家
の軍勢と戦った。 

則敵一人馬上で鑓を持って修理(p346)に向かって来た、 修理も鑓を取って二三度も絡合う
内に修理の家来米村権右衛門が刀を抜いて馬上の敵の股を切ろうとしたが、 具足の胴へ
切付二の太刀を振り上ると敵は馬から飛下り米村を引寄せて組み伏せた。 そこへ修理は馬を
乗廻し敵の具足の透間を目掛けて一鑓突いたので敵の力が弱る。 米村は下からはね返して、
首を取りますと断れば修理より、よろしいとの答えで首を切り落とした。 修理は其首を米村に持せ
本陣へ行き使番衆が取次ぐと内府公が、 通作是へ是へと云われるので自身で首を持ち床机所
へ行けば、ご苦労だった、もう先手に戻る必要ないので此処に居る様にとの事で岡江雪と一所
に居る間に合戦は勝利となった。 そこでお喜びを江雪、修理一緒に申上げた。

著者註:  大野修理亮が討取った首の姓名は当座は分からなかったが、米村権右衛門が首を
    切る時、敵の襟に懸けている数珠の飾りが余りにも美しいので、米村はそれを腰に挟んで
    でいた。 それを見た大野の部下の侍で切支丹の者がいたが、 彼が是非と欲しがるので
    彼に与えた。 その者が関ヶ原陣の後京都へ大野の供として登り、切支丹寺(教会)に参詣
    した時、そこの神父が例の数珠を見て、その数珠は私の物だったが浮田中納言の家来の
    高知七郎左衛門と云う者が熱心な信者でこれを欲しがったので進呈したとの事である。
    そこで初めて大野の手柄の首の姓名が分かった。
    或時内府公より大野へ、其方が関ヶ原で討取った敵は浮田家来の高知七郎左衛門の首
    と聞いた。 それならあの時もっとよく(p347)見て置けばよかったと御意があった。
    大野は首一ツで二度の褒美に預かったと米村右衛門は云った。 世間に流布する旧記に
    高知七郎左衛門と名乗って討死したと有るがそれは違う。

其三 福島政則の奮戦
関ヶ原合戦について私(著者)の大叔父大道寺内蔵助が語るには、福嶋政則は九月十四日の
夜中頃、家老の福島丹波、尾関石見、長尾隼人の三人を始め其外主立った家臣を集めて、明朝
の一戦で是非共石田の陣へ懸かり切り崩したいが夜中霧が深く陣の見分けもできない。そこで
敵の旗の紋さへ見分たら石田の手先へ押掛けるので、夜中に陣を構築する様にと指示し、敵陣
の篝火を見当にして陣を構えた。 しかし夜明け方に見ると政則の陣に近い敵は石田ではなく
備前中納言浮田秀家が二万に及ぶ軍勢を先手と旗本と二手に分けて陣を構えている。

政則はこれを見て家来の福島丹波に、 是まで石田の軍勢へと思っていたのに備前中納言の
軍勢を切崩すのも気持ち良いものではないかと云えば丹波は、手間は取らないでしょうと応じた。
それ以後政則は、内府卿の旗先が見へぬ内は鉄炮を打出さない様先手の物頭達に堅く命じた。
内府卿の旗先が見えたと報告を受けると、その侭馬を乗り先手の部隊の中を乗り廻して自身で
頭達に命じて足軽を繰出させ、競り合いを始めた。 それから侍達の陣を駆け廻り、三人の家老も
同じく命令を伝えている所で内府旗本の鬨の声を聞くと、政則始め三人の家老は馬上で采配を
打ち振って、やれ懸かれ、懸かれとの指示に任せ(p348)、いつもなら一の手、二の手と繰出すが
その区別もなく一斉に突懸る。 

備前勢も同じく掛って来て戦い、勝つ部隊もあり、負ける部隊もある。 浮田方は大人数であり既
に福島方は敗軍になりそうになるのを政則は馬を乗り廻し、卑怯な働きをする者は首を切るぞ、
此処で死ね、返せ、返せと大音声で命令する。 三人の家老は皆馬下り持鑓を構えて、皆の者
見苦しいぞと言葉掛けて押返す様にしたので、忽ち立ち直り一斉に突掛ける。 備前勢は十間
計り後に下がるので又突いて出ると見えたが、如何した事か敗走しはじめたので追討に入った。 
この時浮田軍を政則の一手で切崩した様に福島家中では思っていたが、後々聞けば関東勢の
中で浮田軍へ向かった他家もあった。

大道寺内蔵助は事情があり福島政則方を去って黒田長政方に勤めた時、黒田家の古い人々は、
関ヶ原合戦の時、石田三成の軍勢を当家だけで追崩した云っていた。 これも黒田家だけではなく
加藤、田中、生駒の三家を始め、其他の戸川土佐、竹中丹波、岡田将監等の小身衆迄も石田の
軍勢に切掛った人々は多数いた。 
日本国の東西が二ツに分かれ、双方廿万に及ぶ大軍が関ヶ原に一同に集り九月十五日朝八時
頃だろうか合戦が始り、午後二時頃には勝負が付いたのは前代未聞の大合戦である。 そのため
作法等も特になく我先にと掛り敵を切崩し、追留などもなく四方八方へ敵を追っていった。 その
様な状況であり、自分の前の敵の様子は分かるが、とても脇の方迄目は届かず、たいへん混沌と
していたという。(p349) 大道寺内蔵介が中西与助へ語った事を書留める。

其四 大谷吉継の最期
筑前中納言秀秋は八千の軍勢を三ツに分け、五千を左右の先手とし、三千を旗本と定めて
松尾山から押し下った。 六百挺の鉄炮を打懸けながら大谷刑部の先陣である木下山城、
大谷大学、戸田武蔵、平塚因幡等の部隊に押掛けた。 大谷の先陣四人の部隊が必死に
働くので筑前勢は突立られて二度迄敗走した。 徳川家から検使として派遣されていた奥平
藤兵衛は非常にいらつき、走り廻り指示していたが大谷の先手が打った鉄砲に中り討死した。
その時前から内約していた脇坂中務、朽木、小川、赤座等が急に陣構えを替えて横合いに
突いて掛るのを見て、秀秋の先手の部隊も取って返すと藤堂佐渡守高虎の軍勢も突いて出た。
大谷、平塚の部隊は三方に敵を受けて元来小勢であり終に戦い負て敗走する。 平塚因幡
は小川土佐守の家来桜井太兵衛に討たれ、戸田武蔵は織田河内守長高に討れた。

其時大谷の家臣湯浅五助と云う者が甲首一ツ引下げて先手より馳帰り吉継に向って、秀秋
だけでなく脇坂、朽木、小川なども皆々敵となり裏切りました。 やむなく負け軍となり因幡殿、
武蔵殿も討死と見えます。 今の内に自決される様にと申上げるために戻って来ましたと云う
大谷は五助が取って来た首の甲を撫廻して感賞し、幸い其方が来たので介錯せよと云い脇指
の柄に手を掛けて首を討せた。 五助は泪を流し吉継の近習の者に向い、日頃言われていた
様にせよと言捨て馬で駆出し藤堂佐渡守の部隊へ向かったが、藤堂仁右衛門に討取られた
と云う。 大谷の首は三浦吉太夫と云う者が吉継が着ていた羽織に包み、深田の中へ埋めた。

(p350)
著者註 大谷の最期について、或時浅野因幡守が早水咄斎へ尋ねた事は、関ヶ原合戦の時
    大谷刑部は鳥毛を植た甲を着して馬上で腹を切ったと書いた書物がある、其方の話しの
    中では聞いた事がないがとの事である。  咄斎が云うには、決してそんな事はありません
    大谷はその頃病人で特に病状も重く手足も不自由で、手綱を取る事が出来ず馬に乗る
    事もできません。 ましてや申を着したと云うのは大きな虚説です。 朝の間私も側近くで
    見ておりますが素肌色の白い羽織を着て、朝寒かったのでかわ色の小袖を上着とし裾を
    腰に挟み、浅黄色の頭巾を深々と被り手鑓を杖にして山駕籠に持れ掛っておりました。

    松尾山から秀秋軍が押下った時、若い者達は先手へ行く様指示があり皆駆出しました。
    私も一緒に行き、合戦が終わって大谷大学に付いて吉継の本陣へ帰った時は辺りに人は
    一人も居らず、吉継が乗捨た山駕籠だけが見えました。 私がこの様に存命しているのに
    色々な噂が流れましたから後世に至ってはもっとあると思いますと因幡守に咄斎は語った。
    木下山城と大谷大学は戦場を遁れて敦賀へ帰り、城代蜂谷市兵衛と籠城の積もりだったが
    難しい様子なので両人は忍んで大坂に行き身を隠した。 其後秀頼卿の扶持に預ったが
    山城は死去し、大学は十五年後の大坂の陣で秀頼卿側で死去したとの咄斎物語である。
    
其五 浮田家の崩壊
浮田中納言秀家の先手部隊は全て敗れたが、 旗本は崩れなかったので先手から退き旗本へ
加わる者もあり人数がかなり増えた。 そこで旗本の部隊で内府公の本陣を(p351)目掛けて
押出し一戦を遂げて潔く討死を遂げようと、秀家は床机から立ち上がり馬を引かせて乗ろうと
したが家老の明石掃部が押さえて云うには、云われる事は尤ですが、今度この大義を決断
されたのは秀頼公為の事ではありませんか、 今味方が全て敗軍となった時、討死されても意味
がありません。 先ず此処を引払って急いで備前に下り岡山の城の籠りましょう。 必ず内府卿
が諸大名へ命じて攻落しにくる筈です。 その時寄手の者達に一手際見せ、籠城が難しく
なったら最期の一戦を遂げ潔く自決されてこそ末代迄の名誉となります。 今討死するのは
粗忽の至りですと強く諌めるので秀家も納得した。

明石は譜代の侍廿人計りに細かく云い含めて秀家の供をして岡山の城に帰る様に指示し、
自身は秀家に先立って一時も早く岡山に到着する為、忍んで京都に登り以後大坂に行き船で
備後迄行き備前に戻った。 しかし二日程前に留守居役達は岡山の城を明渡し、城内の蔵に
積貯えた兵糧、馬、大豆に至る迄、 城下の町人や近在の者が入り込み略奪同様持ち去った
事を聞いた。 やむを得ず明石は備中芦森辺の禅僧の寺に行き、翌年三月迄は備中に滞在
した。 その後秀頼卿の呼出しに預り、後藤又兵衛と同格の様子で大坂に籠城した。
その時大野修理方へ来て物語った事を聞いて米村権右衛門が浅野因幡守へ語ったので此処に
書き留めた。
その時明石は、高知七郎左衛門は貴殿の手に掛ったと聞くが、高知は秀家家の物頭の中で
(p353)随一の者でたいへん剛勇の者でした。 多分骨を折られた事と思いますと云えば修理
は、少しも私は骨を折っていません、家来達がした事ですと応じたという。 これも米村の物語
である。

其六 石田三成と小西行長
石田光成の部隊には関東勢が幾手も攻め懸けたが、中でも黒田長政の部隊は前から佐和山軍
(三成居城)を相手にして一戦したいと強く心掛けていた。 そこで黒田家の物頭達は皆で相談し
足軽に命じて鉄炮を烈く打せたので、石田の家老嶋左近がその鉄炮に中り馬より落ちて絶命した。
それ以後佐和山軍は足元が定まらなくなり、長政の部隊は言うまでもなく、細川忠興、加藤嘉明
田中、生駒以下の関東勢が一斉に突き掛った。 更に藤堂高虎、織田有楽父子、脇坂、朽木、
小川等も一同に大谷の先手を切崩した後直ぐこの戦闘に加わったので、石田方の隊長である
蒲生備中、同大膳、小川十郎、嶋左近が嫡子新吉等の随一の者達が多数討死した。 石田の
各先手が崩れて石田の旗本部隊に雪崩掛り、旗本も友崩れとなり全軍が敗軍となり追討された。
三成は戦場を遁れてあちこち隠れ忍んだが終に田中兵部の部隊に生捕られた。

小西攝津守行長は一戦の時軍勢を先手と旗本の二つに分けたが、浮田と石田の先手部隊が
敗れて敗走を始めると小西の先手も動揺した。 そこで行長は大に腹を立て使番の侍を先手に
派遣して現在位置の三町程北へ陣を下げる様伝えた。 これは足軽を一所に集めて筒先を揃へ
鉄炮を放させ、頃合を見計らい侍達が一斉に突掛る体制にして、その後旗本部隊で(p353)勝負
する積もりで指示したものである。 そこで先手の部隊が小西の命令通り陣を引き下げたところ、
関東方諸勢は石田の先手が敗れたのを見て小西の先手も友崩れしたものと思い、 四方八方
から追掛かり、小西が指示した場所で陣を立て直す事ができず、そのまま旗本部隊へ崩掛る。
行長は激怒して馬で乗廻り、味方の奴らでも臆病を構へて旗本へ逃込む者は皆討殺せと
大音声で命令するが聞くものもなく混乱の中で先手、旗本共に一度に崩れてしまった。

この後関ヶ原一戦の時小西の配下で働いた等と云う者が有ってもそれは事実ではない。 私
等も根来法師と相談して数度戦いに出た事があるが、関ヶ原一戦の時程もろく敗軍した事は
覚えがない。 石田三成は軍事は不得手だと世間では言われていたが、予想外に人材を集め
武辺で著名な者なら何を差し置いても抱えたので、 関ヶ原でも先手部隊の者は予想通り良く
働き夫々晴れやかに討死をした。
小西行長は肥後半国を領知して金銀財宝には何の不足も無い筈だが、武功の誉れある侍に
高知行や高禄を与えて抱える事を嫌った。 そのため先手の物頭となり実績を示すような人材
が居らず、多勢にも拘らず見苦しく敗走する事になった。 大名方の宝とは良い人材を多く持つ
のが一番である。 これは淡輪六郎兵衛が私の親忍斎へ雑談したと永原兵右衛門が語った事
を書きとめた。

著者註: 淡輪は根来寺近所の地侍で著名な者であるが、関ヶ原の一戦の時小西方に属した。
     浅野幸長が戦後紀州を拝領した時(p354)から和歌山の浅野家中へ出入し、亀田大隅が
     特に目を掛けた者と言う。 大坂夏の陣では秀頼卿に採用され大野主馬組付となり泉州
     樫井の一戦の時、塙団右衛門等と共に討死した者である。
     次に永原忍(任)斎は加賀の丹羽長重方に仕え、永原十方院と名乗る。その後浅野幸長
     へ仕え知行千五百石を給わり紀州和歌山に住居した。
註:亀田大隅守(高綱 1558-1633)浅野幸長家老7000石

其七 島津の敵中突破撤退
島津兵庫頭義弘の部隊へも関東の諸勢が押掛けて戦うが、中でも井伊直政は松平下野守忠吉
を同道しているので特に粉骨を尽くし、家中の者達も負傷や討死が多かった。 勿論手柄ある
人々も数人いた。 義弘は元来剛将であり、その配下の諸士は云うまでもなく、足軽や中間に
至る迄良く働いた。 しかし上方勢が全て敗軍となり薩摩勢も大半は討れたので、義弘は最期の
一軍(ひといくさ)して討死しようとしたが、甥の島津中務太輔豊久が強く諌めて義弘を立退かせ
自身は僅か十三騎の従士と共に踏み留まり討死を遂げた。 松平下野守は自身手柄も有るが
手疵を負い、井伊直政も鉄炮疵を負ったのも義弘の部隊と戦った時である。 この時義弘家老
の長寿院盛淳と云う者は島津兵庫頭義弘と名乗って討死したと云う。

その間に義弘は戦場を遁れ土岐多良の山中を経て高宮河原へ出た時五十余人が付随っていた。
家臣達は飢えに苦しみ、高宮の宿中を探し求めたが食するものが何もなく、仕方なく牛を殺し其肉
を食べた。又旗や馬印なども無いのでその牛の皮を剥ぎ竹の先に掛けて馬印とした。 甲賀谷へ
掛け退却する途中、所々で土民が常の落ち武者と思い武具や刀脇差を奪い取ろうと手向かったが
全て切り払い首(p355)五ツ討取り道端に掛けて晒し、土民一人を生捕り松の木に縛りつけた。
それから奈良を通り堺へ出て大坂に置いた証人達も引取り、船で無事薩摩へ帰国した。
註1: 土岐多良 現大垣市南部、高宮 現彦根市付近、甲賀谷 現滋賀県南部甲賀市付近
註2: 島津義弘(1535-1619)この時65歳
     
           
11-5 合戦終わって

以上の次第で反徒方の軍勢は全て敗走したので合戦の始めに手柄のない者達も、我も我も
と逃げる敵を追討したので、どの陣も先手は勿論各家の旗本陣まで手薄になった。 その中で
加藤嘉明だけは石田の先手を追い崩し、家中の侍達も多くの手柄を得たが猶も敗軍の敵を追討
に進むので、嘉明自身が馬を乗廻して追討中止を高声に命令したので家中の者皆追留をした。
夫により先手、旗本の総人数が一所に整いたいへん見事だった。 それだけでなく嘉明は朝の
内は非常に美しい甲冑を着ていたが、 敵が敗軍となると目立たぬ威し毛の具足に着替えた。
この二つの事は暫くたった後、 京都二条城で家康公に側衆が雑談として申上げると、全体に
左馬助(嘉明)は全ての事に巧者であると云われた。
著者註  実不実は分からぬが咄を聞いたので書き留める
註: 加藤嘉明(左馬助1563-1631)秀吉子飼、この時伊予松山(六万石)城主、後会津藩主

関ヶ原の合戦で反徒側の死亡者二万八千余、関東方討死の人数三千七百人余と旧記等にも記し
人々の口からも伝えられるが、明確な数字はない。

合戦が終わって後、諸大将は皆床机所へ参集して、今日の戦いに勝利した祝いを口々に述べると
家康公は、私の指揮した合戦と言う事ではなく、偏に皆さんの軍勢で勝利を得たものですと誰にも
一様に応対した。 中でも織田有楽斎が子息河内守を同道して、石田家老の蒲生備中の首を家来
に持たせて御前でその首を請取り、是は三成の家来(p356) 蒲生備中ですと言えば家康公は、
老体らしからぬ働きをされたと応じた。 その時迄は頭巾を被ったままだったが有楽斎に向い、
昔から勝って甲の緒を締めよと伝えられるからと、頭巾の上に甲を被り緒をさつと仮りに結んだ。
註 織田有楽斎長益(1547-1622)信長弟 この時53歳

そこへ村越茂助が筑前中納言秀秋を同道して来たのを家康公は見て、床机より下りて甲は被った
侭で緒の結目だけを解いて中腰になり、貴殿は今日大きな戦功があり以後は遺恨はありません
と云うと黒田長政が色々仲介し秀秋は芝の上に平伏していた。 この時長政は家康公に向かって、
三成の居城佐和山には三成の親族が籠城している様です、もし同城を攻めらる時は私(秀秋)
の部隊で攻落させて下さいと秀秋が願っていますと申上げると、それは更なる満足であると応じた。
秀秋の後に脇坂中務も御前へ出た。

著者註 この咄は世間で流布する記録にもあるが、少し違いがある。 佐和山の城攻は直接秀秋
   へ命じたとなっているが、そうではなく黒田長政が秀秋の願と言う事で申上げた。 その理由
   は秀秋が国元を出陣する時、 黒田如水(長政父)が秀秋の家老平岡石見と相談して、若し
   秀秋が関東方に付くなら、その取計らいをすると様にと如水より長政の方へ事前に連絡した。
   しかし秀秋は伏見城を攻め、その事を後悔して降参する旨を長政へ頼んだ。 長政はそれを
   申上げたたが内府公は納得せず、秀秋は自身の行跡が良くない、一度太閤の勘気を蒙り
   筑前国を取上られ越前北の庄に蟄居の身と成った(p357)。北の政所(秀吉正妻、秀秋叔母)
   より私に善処を頼み大谷刑部と相談して秀吉の怒りを解き再び筑前の守護としたのは皆私が
   世話した事である。 其恩を忘れて反徒側に属して伏見城の寄手幹部となり、私の留守居
   達四人の者を攻殺した。 今頃になり後悔したと云っても許せないので秀家、三成等と同じく
   秀秋も今度打果そうと決めているので放置せよのと事だった。

   長政が色々と詫びを云って漸く家康公に納得してもらったので、明日関ヶ原一戦で裏切る時
   は一角の働きが必要と秀秋の家老達に伝え長政は自分の侍迄も付けて置いた。 しかし行動
   開始は遅れるし、其上大谷や平塚などの小身者の部隊へ掛り二度も追崩されるなど不甲斐
   ない様子である。 見兼ねた内府卿より付けて置れた奥平藤兵衛を討死させてしまった事は
   申分け無いとなった。 長政も気の毒に思い、秀秋の為を思い佐和山城攻めの事を願った。
   そんな訳で翌十六日の佐和山城攻めの時、長政は後藤又兵衛に指示して組の足軽及び侍
   の一隊を秀秋の陣所近くに配置した。 この事は旧記等の書物には無いが大道寺内蔵助が
   中西与助へ語った事を書きとめた。 関ヶ原陣の時内蔵助は福島に属したが、其後黒田長政
   へ属した時に黒田家の古参の者から聞いた咄ではないかと思う。 

   この時の事についてある時土居大炊頭が寺田与左衛門や大野仁兵衛などへ以下語った事が
   ある。 最近ある人から関ヶ原合戦物語と云う書物を借りて若者に読んで聞かせた。 私は
   (p358)台徳院様(秀忠)の御供をしていたので関ヶ原合戦の次第は見ていないが、その場に
   参加した人々から直接話を聞いたので見た事とほぼ同じである。 書の内容をそれと比べて
   見ると少々の違いはあるが大体は相違なく随分よく記してある書である。 しかし中に大きな
   違いと思われる所がある。 その理由はその書物にも書載ている様に、其時の外様大名の中
   で両加藤、福島、浅野、池田、黒田、細川の人々を七人衆と名付けて、三成を始め大坂奉行
   の面々とはたいへん仲が悪く、七人は権現様
(家康)の側にあった。、その当時私もその様に
   聞いていた事である。 

   この七人衆とは分け隔てなく一同に親しくされたが、ある時台徳院様が御年若でもあり
   浅野幸長と細川忠興の両人と特に親しくしていると聞かれ、榊原康政を呼んで御縁者の
   池田輝政を始め七人衆とは同様に親しくするべきなのに、そうではないと聞くがそれは
   宜しくないと云われた。 それゆえ七人衆の中で一人格別に御誉めになり、その仁の手を
   取って、其方の家は子々孫々迄も大事にすると云われて御腰に差した吉光の脇差を手ずから
   其仁の具足の上帯に指されたと云うのは関ヶ原の時では無いと思う。 七人衆の内加藤清正
   一人は在国で残る六人列座の中で一人の事を特別扱いにされる事はあり得ない。 
   古い書物など見ればわかる事だと大炊殿が語ったと大野知石が私に語った。(p359)

   筑前中納言秀秋が内府公へ御目見する様子を其場で見た福島政則は黒田長政に向かい、
   今日の合戦は内府卿の勝利とは云っても、未だ公方将軍になった人でも無いのに、中納言
   と云う官位のある秀秋が中腰の内府卿に芝の上で平伏するとは見苦しい景色ではないかと
   云った。 長政は、そうですね、 鷹と雉子が出会ったと思えば良い事ですと答えた。 政則
   は、それは貴殿の贔屓口上です、鷹と雉子程も違いはなかろうにと政則は云った。
   これは関ヶ原陣以後、浅野幸長が親父長政へ初て会った時、合戦の次第を雑談するのを
   側で聞いたと徳永如雲斎が語った。

宇都宮で上杉家の監視をする結城秀康公から派遣されていた真砂作兵衛と名与次兵衛両人は
関ヶ原では旗本の御徒衆の中に交り勤めていた。 家康公に召し出され、この合戦の詳細は後
ほど連絡するが、勝利した事を急いで帰って秀康公に報告する様にとあったが、両人共に少々
手疵を負っており道中を急ぐ事が難しいと申上げたところ、それでは代りの者を送るので両人は
疵の養生をして帰る様にとの事だった。

御前へ参集した法印衆が口々に、此上は凱旋のお祝いを行いたいものですと言えば内府公は、
勿論一戦には勝ったが、皆さんの人質として大坂に置れている妻子方の安否を確認する迄は
安心できません、 近日上方へ登り妻子方を皆さんに無事引渡した上で勝利の(p360)祝いを
おこないますと挨拶があった。
著者註 この件について織田有楽が三輪大学へ云った事は、 関ヶ原一戦の時誰も妻子の
    事を思い出す者もないところ、 内府公がこの様に云われたので、皆が妻子の事を思い
    出して、さても思いやりのある内府公のお言葉かなと骨髄に染みたと感じたのは私ばかり
    ではなく皆が後々迄語った。 大将の一言と云うのは実に大切な事だと有楽斎が語るのを
    聞いたと三輪大学が浅野因幡守へ語った。

東軍先手として戦う各大名家の陣には夫々に目付が一人配属されたが、 筑前中納言秀秋軍
の検使は奥平藤兵衛だった。 秀秋が反徒方を裏切り大谷軍を攻めた時、大谷、平塚、戸田の
家来が良く働き筑前勢は追立られた。 それを見兼ねて藤兵衛自身が鑓を取り敵を突き、筑前
兵を叱咤して駆け廻ったが終に討死してしまった。 この事が家康公の耳に入り、不憫に思い
藤兵衛の跡を継がせようとしたが子供が無いので、代わりに母に老後の為として近江国の中で
三百石の地を与えた。
註 上記奥平籐兵衛の事は原文では第十一巻の冒頭にあるが、読み易くするため現代文訳は
   「戦い終って」の此処に移した。

          
11-6 佐和山城攻め

慶長五年九月十五日、家康公は関ヶ原戦場を出発した。 藤川に大谷吉継が捨てた陣小屋が
有るのをその侭本陣として用い一泊するので皆無造作な事と申上げた。
翌十六日の早朝に内府公は藤川を出発し、正宝寺山に陣を据え、筑前中納言、黒田甲斐守、
田中兵部、藤堂佐渡守、井伊直政などが摺針、鳥井下からり二手になり佐和山城へ押掛けた。
中納言秀秋の軍勢は大手口から攻め掛けたところ、城兵は鉄炮を放し厳しく防いだので筑前勢
は負傷者や死人も多く出たが、稲葉と平岡両家老を始め、家中の侍も前日もたついた働きを
した事を悔み今日は勇を奮った。 其上黒田長政の家臣の後藤又兵衛が長政の命で部隊を
張出して筑前勢に弛みが出たら代わって一働きしようと構えて秀秋の先手の者達と並んでおり
これも筑前勢の励みとなった。
註 摺鉢=摺鉢峠、鳥井下=鳥居本宿(中仙道) いずれも彦根東側

其日の晩方に至って使番衆を派遣し、今晩は各部隊共引揚げ明十七日(p361)未明より攻撃
すると触れさせたので、 諸部隊共に攻め口を引揚げて城を取り囲んで夜を明かした。
その夜中城兵の頭分の者である山内上野と長谷川左兵衛と云う者が出奔し、其外の城兵も
寄手の大軍を見て辟易しており、華々しい防戦を遂げる様子でもない。 そこで三成の父隠岐守
兄石田木工頭両人方から井伊直政へ使者を出し、城中諸人の命を助けて戴ければ、親族は
残らず腹を切るとの申出があった。 その事を報告すると、願いの通りにせよとなり隠岐守、杢頭、
宇多下野、長田桃雲以下各々切腹し、十七日即刻佐和山城は落去した。

その後直ぐに近江国永原へ陣を移したところ、大垣城への寄手松平丹波守、水野六左衛門両人
より言上があり、 大垣籠城の中で秋月長門守、相良左兵衛、高橋右近太夫の三人より書状で
申入れがあり、 此度敵対した事をお許し願えるなら、本丸に籠る福原右馬之助を始め垣見
熊谷、木村等を全て討果して忠節を示したく存じますと伺ってきましたとの事である。 井伊直政
がこれを報告すると、両人の計らいに任せよとの事だった。 
そこで九月十八日相良、秋月、高橋方より本丸へ使者を立て、福原を招いたが、彼は来ず垣見、
熊谷、木村父子などが来たので、相良と秋月は申合せて彼ら主従共に討取り、松平丹波守、
水野六左衛門、西尾豊後守方へ通知した。 

これに依り寄手三人に中村一学、津軽右京亮の部隊を分け、相良、秋月、高橋等を先手として
本丸を取囲み一斉に攻め込んだ。 しかし福原自身が馳せ廻って指示し、城兵が厳しく防ぐので
津軽の隊長桜場左衛門次郎等始め寄手も多く討死(p362)したと言う。
この時西尾豊後守が計略を廻らしたので同廿三日福原は城を降り、出家して道蘊と名を改めて
伊勢の朝熊へ蟄居した。 大垣寄手の面々から井伊直政へ落城を報告し、道蘊御助命の件を
各々からも願ったが、 福原は三成に近い縁者でもあり、 其上大奸者であると日頃内府公も
良く知っていたので取上げはなく、終には切腹となった。

九月十九日晩方、内府公は草津へ陣を移した所へ勅使が下向してきて宣旨及び勅答の事は
旧記にもあるのでここでは記さない。 その時世間や旗本での噂として、今度の一戦勝利の
お祝いとして初めて勅使を請けた事は、徳川家繁昌の前触れであり目出度い事と云われた。

この草津の駅で内府公は大野修理を呼び、其方は大坂へ行き秀頼の母義淀殿へ伝える事は、
今度秀家や三成を始め悪逆の者が相談して、秀頼の命令として諸大名に呼びかけ私を亡き者
にしようと企て天下の騒動となりましたが、去る十五日濃州関ヶ原にて一戦を遂げて反逆の者
達を全て鎮圧しました。 今度の件について秀頼卿の名判がある書状も有るが、これらは全て
反逆者達の仕業である以上、幼年の秀頼卿へ対して遺恨はないと云う事を尼奥蔵主を始め、
奥向の老女達をを呼出して十分に申し聞かせよとの事である。 大野が大坂城へ行って是を
伝えたところ、淀殿はたいへん喜んだという。

又草津の本陣で内府公は以前から出入りしていた呉服商や猿楽師などを召出して京都の様子
を尋ねた。 彼らの報告は、 多分関ヶ原で(p363)敗れた反徒側の落人でしょうか、この二三日
以来洛中へ入込んで寺中や町屋へ押込み狼藉があり、諸人は困っておりますと口々に訴えた。
そこで奥平美作守に板倉四郎右衛門を添えて所司代の代行を指示した。 其外大身大名の
福島左衛門大夫、黒田甲斐守、池田三左衛門、浅野左京大夫にも洛中守護の部隊を連れて
来るよう指示した。 又その他諸事検討の役人として大久保十兵衛と加藤善右衛門の両人が
任命された。 又旗本の足軽大将である伊那図書、近藤登之助、加藤源太郎の三人は大津の
八町に番所を造り、関東方の諸軍勢を濫りに上方へ通行させない様に言渡した。
著者註 上記は永原の陣所で言渡されたと旧記ではなっているが、草津で言渡されたと米村等
     は云っている
九月廿日大津の城へ陣を移す。
註 大津城は関東方の京極高次の居城

落穂集第十一巻終

落穂集写本第十一巻(p362)
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関ヶ原合戦開始前の東西各軍勢の配置 
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