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落穂集第十五巻(p467)                   第十四巻へ戻る

           15-1 道明寺の戦い
慶長二十年(1615)五月二日に大御所、将軍は京都を出発して大坂に向かう予定だった。 
ところが四月廿六日に近江国の代官鈴木左馬助が戸田八郎右衛門と云う浪人に兄の仇との事
で日の岡で討たれた。 戸田は山城の三井寺の方へ立退いたが、その時左馬助が持っていた
書類箱を京都所司代の板倉伊賀守へ差出した。 その中に大坂城内からの密書があり、一揆を
企てる廻状である。 調査の結果左馬助の舅である古田織部、茶道の木村宗喜を始め仲間
廿四人が連座しており、糾明の結果の白状によれば両御所が京都を出発した後、帝を擁して
二条城を攻め取り京都を焼き払う計画である。 この為二日の出発予定は延期され、木村宗喜
を始め仲間廿余人は日の岡で磔罪に(p468)処せられ、古田織部にも切腹を命ぜられた。
この様な事もあり京都の事も心配であるので、 上杉景勝は大坂への出陣を中止して代わりに
八幡辺に在陣して京都を警固する様に指示された。

五月五日朝十時に大御所は京都を出発し、尾張宰相義直、駿河宰相頼宣が御供したと言う。
将軍は大御所の出発に先立ち伏見城から出馬した。 その出立は山鳥の尾の羽織、羅紗の
唐人笠の甲を着け、本多上野介が献上した桜野と云う馬に乗り、銀の天衝の馬印、金の扇の纏、
二重ふくべの小印、五十振の中巻等、其外行列は昨年の冬の陣の通りだった。

同日関東方の水野日向守勝成は大和国の少大名達の総司令として国分に布陣し、本多美濃守、
菅沼織部正、松平下総守。徳永左馬助、遠山久兵衛等が続いて布陣した。
大坂方は後藤又兵が平野に陣を取った。 毛利豊前守と真田左衛門佐の両人も平野に来て、
明六日の戦の時は深夜に軍勢を出して未明に国分山を越えて、何としても両将軍(現将軍秀忠、
前将軍家康)の旗本を目掛けて戦おうと打合せて帰った。

後藤は宵から支度を調えて五日の夜半に平野を出発して松明を数多く燈して大和路に向って
進軍した。 藤井寺に着いて後続部隊を待ったが遅いので、そのまま進み誉田の八幡辺で夜明
近くなったので松明を消させて道明寺へ押掛けた。 後藤の軍勢の中、 両先手の古沢四郎兵衛
は左り巴の紋の付いた旗、山田外記は釘貫の紋の付いた旗を押立て片山の上へ上り、左右に
分れて布陣した。 

関東方大和勢の中で奥田三郎右衛門は三千石の知行高だが、著名な浪人を五人養っており
(p469)彼等を率いて片山へ向った。 この浪人の中で岡本加助は金の琵琶へらの指物を立て
真先に進む、 桑山左近は奥田に向って、水野日向守が到着するまで待って一緒に攻め掛る
べきと云うが岡本は、それでは時間が無いと云って片山の上に駆け上がるが後藤の先手組の
打出す鉄炮に中り討死した。 これを見て奥田を始め残る四人の浪人及び奥田の従士が同時
に鎗先を揃へて突掛る、

後藤の先手の者達数名と戦い、奥田方山田外記の配下の士が後藤方の佐伯次郎太夫等を
討取った。 しかし大坂方は多勢であり、奥田は終に戦い負けとなり三郎右衛門を始め神子田
井上下野、阿波仁兵衛等枕を並べて討死をした。 その時大和衆の松倉豊後守は後藤の左り
部隊を追って本道を南へ進むが、 その後後藤の部隊が引返し松倉の部隊に突きかかる。
松倉方の天野半之助が留まり一番に鎗を合せ、其外の者も懸命に働いたが後藤方は多勢であり
松倉の配下は皆討たれてしまうかに見えた。

その時堀丹後守が自身で鎗を取て真先へ進み横から後藤の部隊を突き立てたので、天野を始め
松倉の部隊も丹後守部隊と一所に後藤勢を追い崩した。 その頃大和組、美濃組を始め奥州勢
の片倉の部隊迄一斉に掛ったので後藤の左右の部隊は一挙に崩れる。 後藤の家老の古沢
四郎兵衛を始め組の大方は討死し、其上後藤も鉄炮に中り歩行も出来なくなった。 後藤は其場
を去らずに甲を脱いで家人の金森平右衛門と云う者に首を討たせ、遺言で首を具足羽織に包み
深田に埋めさせたと言う。 

薄田隼人は後藤に続いて自分の部隊を率いていたが、五月六日の早朝家来に向い、私は後藤と
(p470)相談する事があるから先へ行くが、合戦前であるから直ぐに帰るからその積りでと云って馬
を出した。 近習の若侍や歩行士など一人も不要と言い、 鎗持一人だけ連れて出発し自陣へは
再び戻らなかった。 薄田は後藤に面談した後、戦い半ば頃の片山へ乗出し、水野日向守の軍勢
に乗りかけた。 水野方河村新八郎が相手して互に鎗で争ったが勝負が付かず組打となった。 
隼人は評判の大力で新八郎を組伏せたが、水野の家来中川嶋之助と寺島助九郎の両人が
間合いを見て薄田を討取ったと言う。

薄田隼人の討死の様子は牧尾又兵衛によるもので、牧尾は其日も隼人の供をしており、隼人が先
に行くと云った時、お供したいといった六七人の内の一人との事である。 隼人は直ぐに帰るからと
馬を乗り出したが帰りが遅く家中の者達は待ち兼ねていた。 その時道明寺方面で鬨の声や鉄炮
の音が烈しくなり、 皆心配となり迎えに行こうと七人で相談したが外の侍達が我も我もと申し出た。
そうなっては隼人が事前に定めた部隊の手筈も成り立たなくなるのでどうしたものか思っていた。

そこへ友軍の部隊長の山川帯刀が乗馬で隼人に用があるとの事で尋ねてきたので、薄田は今朝
夜明前に、後藤殿に相談があり出かけるが鎗持一人以外は供は不要との事で、直ぐに帰るからと
云っておりました。先手の方では合戦も始った様に思えるので、近習の者が迎えに行こうとしたが
外の侍も行きたいと云います、それでは部隊も乱れるのでどうかと結論が出ません。 幸あなた様
が来られたので指図をして下さいと言った。 山川帯刀はそれを聞くと、当然(p471)帰る頃だが
それは不審です。 隼人殿は二の手だから先手の勝負を見て間合いを図っているとも思えます。
何れにせよ合戦直前ですから陣を堅くする事が肝要ですと云う。  

その時歩行士を預る権平と云う者が進み出て、私の預かる歩行士達は陣堅めに役立つ者達では
無いので旦那を迎に行きたいと言う。 成程そうだと帯刀も言うので歩行の者は廿人程だが歩行士
に準ずる者迄合わせ三十人余、茜の羽織を着ている者達を権平が引率して出かけた。 途中で
旦那の馬を引いて帰る中間に合い、旦那は討死で鎗持も切殺され後藤殿も討死し、先手の部隊
は全て破れたと聞いた。 薄田家中一同が力を落していると、 道明寺で敗れた部隊が大坂の方
へ引揚げるのが見える。 この後に続く他の部隊の旗指物等も急に動きが出る様子もなく全体に
敗軍となった。

薄田隼人は昨冬の陣で馬喰か渕の出丸を乗取られた時、大坂城中に用事があったが近所の
町屋で遊女を愛し酒に酔っていた等が知られ、今度の陣では合戦初日と同時に討死しようと
極めていたと云う。 これは牧尾意休斎が語った事である。

毛利豊前守は前日後藤と打合せた通りに天王寺を出軍して藤井寺辺迄進軍したところ、後藤が
早くも討死したとの事で敗軍が崩れて来たので、打合せの作戦と異なる以上は真田を待つ事に
したが真田も来ないので力と落としていた(p472)。 関東勢は片山の一戦で勝利を得て勇み
進んできたが、 真田左衛門佐(幸村)が七八千計の軍勢で押して来たので毛利も力を得た。 
真田と同じく福島伊予守、同武蔵、渡辺内蔵助、大谷大学、伊木七郎右衛門等も来たが毛利の
部隊と一所には成らず誉田の方へ進軍して伊達政宗の先手に向かって対陣した。 

大坂方が足軽を進めて鉄炮を打掛け後伊達方の片倉小十郎部隊と接戦が始るが、片倉勢が
不利となり誉田の方へ崩れたが、片倉が指揮して軍勢を盛り返して真田の軍勢を押返す。此時
城方の渡辺内蔵助が負傷した。 真田は池が有る場所に留まり金の蠅取の馬印を押立て、再び
伊達方を追い立て奥州勢を誉田の町中迄追込んだ。 この時片倉小十郎と真木野大蔵が働き
が目覚しかったと言う。 真田は毛利豊前と一手に成った。

この一戦の時真田の嫡子大助は十六歳の初陣だったが組討をして相手の首を取った。 股に
鎗疵を負いながらも討取った首を鞍の塩手に結んで乗り付けた。 馬から下りると毛利豊前守
や槙嶋玄蕃の両人が大助の側へ立寄り、 二人共扇を開いて大助を扇ぎ、良くやったと感心
し、父の左衛門佐も嬉しそうに笑いながら、疵は浅いかと尋ねると大助は、軽傷ですと答えた。

この時左衛門佐は豊前に向って、私が時間を間違えて遅くなり又兵衛(後藤)、隼人(薄田)
其外も討死と聞き、此上は作戦も考えず責めてもの申訳と思い一戦を行いました、何事も予定
が狂った事で秀頼卿の運も尽きるか思いますと悔んだ。 豊前守は真田に、もはやこの後は
分っているので此処で討死して(p473)決着しましようと云う。 真田も、私もそう思いますと云った
所へ、大野修理方より秀頼卿の命令との事で連絡役の侍達がやって来て、関東勢が段々押して
来るので、早々此処を引払って城に帰る様にとの事である。 それでは其通りにしようと言う事に
なったが、若江や八尾方面の戦いの状況不明なので、真田も毛利も暫く帰城を見合せた。

           15-2 八尾・若江の戦い
五月六日の朝、藤堂高虎は千塚に布陣したが、五日の夜半に家老達を呼集め、明朝は何処へ
軍勢を向けるか相談した。 その時渡辺勘兵衛が進み出て、此処から八尾、久宝寺の方は地形
が宜しくありませんので道明寺口へ進発するのが良いでしょう云い、其通り議決した。
翌朝になり勘兵衛は、私は先に行って道明寺辺を見通せる場所があるので見て来ますと馬を
乗出し、例の小山の上から見渡そうと思い馬を早めた。 そこで偵察に出ていた浦井与右衛門に
出会ったので様子を尋ねたところ、道明寺では大坂方の後藤又兵衛が進出し片山の上へ上り
味方の大和衆と対峙して鉄炮を打ち合っている様ですと報告があった。

勘兵衛はそれを聞くと、今から道明寺口迄進軍している内に決着が付き戦いには間に合わぬと
思いますがと報告する様に云うと山の上へ馬を乗り上げた。 すると片山の方角で鉄炮の音や
人声が盛んに聞こえるので、帰ろうと思って西の方を見ると木村長門の軍勢が若江村から八尾堤
迄一面に見えた。 急いで帰る途中で藤堂仁右衛門の部隊が道明寺を目指して進軍してくるのを
勘兵衛が押留めると仁右衛門は、一時でも早く道明寺へ急いでいる軍勢を何故押留めるのかと
咎めた。 勘兵衛は、その事ですが、(p474)道明寺では既に一戦が始っています。 ここから
一里程の道を行くので間に合いません。 幸に近い所に敵の軍勢が居りますから、こちらで一戦
する方が良いでしょうと指さして幟の先を見せると、仁右衛門も納得して部隊を留めて西向きに
進撃する支度をした。

勘兵衛は高虎の前で考える通りを述べたが高虎は、それはどうかなと疑問を持った。 勘兵衛
は重ねて、この案は正しいと思います、敵方から仕掛けた一戦であれば御思案される事も無い
でしょうと云えば高虎も納得して、先手の家老達へ使番を送り触れさせた。 勘兵衛が云うには
此辺はたいへん足場が悪く、以前から戦いをする場所ではありません、 田の中の四筋の道を
整然として静かに行軍し、横堤で到着する各部隊を待合わせて軍勢が揃ったところで攻掛る様
にしたく思いますと云えば高虎も了解して是も諸部隊に通達した。

勘兵衛は自分の部隊へ帰ると具足羽織を脱捨て、糸たての指物で自分の旗を後の方に下げる
様指示し南二筋の道を進んだ。 藤堂仁右衛門、同宮内、桑名弥次兵衛、渡辺掃部等の部隊を
横堤で勘兵衛が押留めたが北二筋の道を進んだ。 藤堂玄番、同新七、同与右衛門の部隊も
横堤では留まらず村々へ押掛けた。 これを見て南二筋の部隊も留まらずに進軍し、仁右衛門、
弥次兵衛、宮内、掃部等は八尾の地蔵堂を目掛けて進撃し、勘兵衛はさんとあの村へ向って
四筋に別れて進軍した。 高虎の軍勢は一所に纏まる事が出来ず、夫々の部隊が単独で戦う
様になってしまった。

木村長門守重成は若江へ進出したが友軍の長宗我部盛親は未だ八尾におり、早くも藤堂の
部隊が押掛けてきたので若江に行く事(p475)が出来ない。 長宗我部は陣立を東向に変えて
家老の吉田内匠方へ使を出し、ここで一戦が始るが旗本が少数なので急いで集合して合体
する様にと云ったが、吉田の前には渡辺勘兵衛が向かって来るので此方も手を放せず、夫々
単独で戦うしかない旨返答する。

藤堂仁右衛門、弥次兵衛、宮内、掃部は各部隊の旗を押立先を争って進み、中でも仁右衛門
は只一人先を急ぐので弥次兵衛が追付き、何故そんなに急がれるか、余りにもに軽々しい行為
は貴殿らしくないと云えば、我々にとって勘兵衛の云う事など聞いておれるかと云い脇目も振らず
駈けて行く。 弥次兵衛も捨てても置けず乗り込み、両部隊の侍、従者二百人程がやみくもに
進む。 長宗我部は三百余の軍兵を左右に立て自身が指揮を取、敵は非常に競い立っている
様だから、十分近く迄引寄せて上から真下に落とし掛けて討取れと下知をした。 その命に随い
甲を傾けて鑓ふすまを作って待って居た。

そこへ仁右衛門と弥次兵衛は馬を乗放して鎗を引さげ夫々名乗りを上げて突掛る。 長宗我部
は弥次兵衛か名乗るのを聞付け、やあ桑名めが来たぞ、逃さず討取れと下知すると三百余の者
が一斉に立ち上がり、えいやと声を上げて突掛けたので、藤堂仁右衛門、桑名弥次兵衛、其外
頭分の侍八九人討死した。 残る者達は八尾の方へ崩れたが、長宗我部は勝に乗って追掛け
藤堂の軍勢を小池の中へ追込み、 此処で藤堂方兵士六十三騎、雑兵二百余討死したと云う。
註1. 八尾市千塚

木村長門守は友軍長宗我部の部隊が合戦を始めたとは知らず、若江村に入り食事を取り暫く
休息していた。 その時佐久間(p476)蔵人が馬で急いで乗帰り、今敵が間近く寄せて来ますと
言うので南の方を見ると藤堂新七、同玄番が銀の牛の舌の差物を立て進軍して来る。 長門守
は組の者に、皆静かに掛る様に下知して平塚五郎兵衛を添えた。 藤堂方はこれを見て掛って
きたが木村長門守配下の青木七右衛門が一番に乗入れて手柄を立てる。 藤堂新七は白縅子
の羽織に金の御幣の腰差で名乗り掛けると木村の配下数名が立向かい新七を討取る。 藤堂
玄番も重傷を負い首を取られそうになったが、玄番の家来鷺川某が駈付けて上になった敵を
討取り、主人玄番を肩に担いで一町程も引下ったが深手の為死去した。 藤堂の軍勢が敗走
するのを城兵が追ったが平塚五郎兵衛が采配を振って追い留め軍勢を引揚げた。

藤堂家の家老達が前述の様な状況で討死した事は理由がある。 主人高虎は渡辺勘兵衛に
一万石の知行を与えて召抱え寵愛していた。 昨冬陣の時誉田で城方の紀州侍新宮左馬助
が城中へ引退く時藤堂家古参の侍は何れも追掛けて打留めようと云ったが、勘兵衛の強い反対
で新宮を討留めなかった事を残念がった。 高虎が是を聞いて、高知行を出して比丘尼を抱えた
と呟いたとの事が伝わった。 勘兵衛はこれを気にして冬陣が終わった後で暇を願って出仕して
いなかった。 又この夏陣が起り止むを得ず出仕したところが、高虎が相変わらず寵愛して軍事
迄相談するので、古参の家老達は空しくなり討死の(p477)覚悟を極めたという。 
万一これが事実なら其家の重臣達としては聊か短慮と言うべきものである。即ち己を潔くしようと
して大事を乱すと古人の詞にも見える通りである。
註1 古人の詞 論語 微子十八より 其の身を潔(きよ)くせんと欲して大倫(たいりん)を乱る

井伊掃部頭も道明寺口へと目指していたが時間に遅れ、其上間近い所に木村長門守の旗先
が見えたので部隊を西に向けて若江村へ進軍した。 庵原助右衛門、長坂十左衛門、三浦
与惣右衛門等に下知して部隊を配置して攻掛る。 木村の先手の足軽達が堤の上から鉄炮を
打掛けたが、程なく引下ったので掃部頭配下が横堤を占拠した。 掃部頭の家老川手主水は
前から討死しようと覚悟していたので同役達と同じ様に下知する様子で馬を乗出し敵勢の中へ
駈入る。 これを見て組下の満座七左衛門を始め、山口伊兵衛、向坂弥五郎、遠山甚次郎の
四人が主水に続いて突掛った。

しかし城方にも河崎和泉、牟礼彦三郎、佐久間蔵人、平塚熊之助、根来知徳院等と言う勇猛な
者もおり、木村方の侍が鎗の穂先を並べているので川手を始五人共に討死した。 それを見て
庵原助右衛門が采配を打振り、大音声で総攻撃の下知をして自身も鎗を取って真先に進む。
更に八田金十郎が走出し味方五人の討れた死骸の上を踏越えて一番と名乗って鎗を討ち込む。
木村配下の者達も善戦したが八千人以上の井伊の佐和山軍勢が一斉に押掛けたので終には
敗軍となる。 

城方の青木四郎左衛門、早川茂太夫は木村長門守に撤退を勧めたが同意しない。 そこへ庵原
助右衛門が十文字の鎗に木村の縨を掛けて(p478)引いたので木村は田の中へ倒れたところを
助右衛門家来の侍が三四人寄集り木村を切殺して首を揚げようとした。 その時安藤長三郎が
走寄り庵原に、私は未だ手ぶらです此首を下されと云えば、安い事だ持って行かれよと言うので
長三郎は木村の首を取り母衣絹を施して包む。 庵原の小姓が傍に居たが、此首は人手に渡す
首では無いのにと云って
幌の出しの白態と金の出し串共にこの小姓取って置いた。

木村長門守の左翼部隊である木村主計の向い側に榊原遠江守の部隊があった。 遠江守は
若年だが弓矢指南のため上杉浪人藤田能登と言う武功の者が付いて居り、又榊原家中には
父康政以来の勇者が多数いた。 井伊掃部頭の部隊が攻め掛けたのを見て、同じ様に主計の
部隊に突掛るべきと云ったが、藤田は、掃部頭部隊は今追崩されているので今少し様子を見て
からで良い云うので、 家老の伊藤忠兵衛も合意して部隊前線に出て自分の鎗を横にして、
下知が無い限り一人も飛び出してはいけないと押し留めた。 

その内に掃部頭の先手が敵を突崩し、木村長門の主力が敗軍になり木村主計の部隊も夫を
見て皆敗走した。 その為に榊原家中の者達は相手が居なくなり遠江守も無念がった。
榊原家中の一同は、三河以来井伊(先代直政)、榊原(先代康政)と並んで家康公に奉公して
来たのに、今日初めてこの様になったのは偏に家老の忠兵衛の器量が無いためと悪口を云った
忠兵衛もこれを聞いて、止むを得ない覚悟を極めて翌七日の一戦では無理を押して討死した。

若江における合戦では井伊家の佐和山勢が木村軍に勝利し、井伊直孝は家中の後方部隊で
見物(p479)していた。 又藤堂家の渡辺勘兵衛は益々力を付け、其上藤堂家の先手で討死の
家老達配下の侍五騎六騎宛が渡辺の配下に加わったので人数も増え、長宗我部部隊へ押掛け
多数の首を取った。 更に戦場に留まっていたが主人高虎から使者が来て、必ず引揚げる様に
とあり勘兵衛も引取った。

越後少将忠輝公は大和口総軍の主将として向かったが、其日道明寺口は勿論、八尾・若江の
一戦にも間に合わず全てが終わった後着陣した。 朝から昼迄の戦いの様子を聞いて家中一同
皆残念がった。 そこで溝口伯耆守と村上周防守の両人が忠輝公の前で、私共両人は貴殿の
進軍中、その後か先を一日交替で進む様にと江戸からの指令を守った結果、今日の一戦に間に
逢わず残念です。恐らく貴方様もそう思われている事でしょう。 ところで此辺から見渡すと大坂勢
と思われる旗先が見えます。 周防守と私は旗を巻いて長道具を伏せて急に馳付けて敵を喰留
ますので早急に旗本部隊で押寄せて一戦なさるのが良いと思いますと言う。 
 
忠輝公も大いに納得し、これを玉虫対馬や其外の家老達へも早速相談する様にと云い、花井
主水を始め家老の玉虫対馬や林平之丞等を呼び集め相談した。 ところが玉虫は全く賛成せず
林もなんとなく賛成とい云う感じで外の家老も似た様な状況で意を決しない。 溝口と村上両人
は興ざめして帰る途中、忠輝公の小姓が聞いている前で、外の大名達は仕方がないが、堀丹後
が合戦に間に合ったのは非常に無念だと云った。(p480)

著者註 此件は旧記等には見えないが、翌七日大坂落城の時、茶臼山へ忠輝公が参上した時
    大御所は見ぬ振りをしていた。 本多上野介が、上総殿(忠輝)参上ですと二三度報告した
    後初めて振り向き、其方は親の死に目に逢う術を知らないなと苦々しく上意が有ったと云う。
    この事を家中の者達が伝え聞いて皆気の毒に思い、昨日伯耆守(溝口)が云う一戦を
    すれば、こんな上意は無かったろうにと悔んだ。 その時迄は毛利と真田の両部隊も城から
    かなり遠くに在陣しており、中でも長宗我部父子は其日は城中へ帰らず、合戦場より直に
    立退き、更に一戦を行える体制で日が暮れるのを城外で待っていた位であり、一戦の機会
    は残っていた。 その頃上総介方に居た大道寺久右衛門入道道白が語った事である
    玉虫も相談の時の判断が宜しくなかったと云う事で将軍から改易され、その頃世間では
    逃虫対馬と云った。
          
この八尾の一戦の時、増田右衛門尉長盛の嫡子増田兵太夫は長宗我部部隊に属し大坂城中
から出陣したが、渡辺勘兵衛の部隊と戦い潔くよくく討死をした。 右兵太夫は昨冬の陣の時は
将軍の旗本へ参加して、在陣中に城方に良い情報に悦び、悪い噂を聞くと悔んだ。 和談後
この事が大御所の耳に入ったが、兵太夫らしい事だと上意で何も咎めはなかった。今度は木村
長門守を頼って秀頼の家人となり討死した(p481)。

             15-3 最後の決戦前夜と翌朝
此度の幕府側先手の井伊掃部頭部隊でも川手主水を始め討死、負傷者は出たが、先手役継続
が勤まらぬ程では無かった。 しかし同じ先手役の藤堂高虎の部隊では戦死の人数も多く、其上
先手の隊長達が大方討死した。 この事が両将軍に報告されたので 双方共に翌七日の先手
役は外されるのではとの見通しとなった。 そこで越前少将忠直(松平忠直)は家老の両本多を
将軍の陣営へ派遣し、本多佐渡守に逢い様子を聞きながら明日七日には総先手を越前へ命じて
戴きたいと言上して貰おうと佐渡守を呼出して相談していた。

そこへ急に大御所が見えたので佐渡守が迎えに出、大御所は入る時両本多が手を突いて居ると
佐渡守に、あそこに居るのは誰だと尋ねた。 越前の両本多で御座いますと云えば大御所は両人
に向い、今日越前の家中の者達は昼寝をしていたのかと云い佐渡守に、彼等は何用で来たのか
と尋ねられたので佐渡守は、明日の部隊配置についてですと答えた。 大御所は両人に向かい、
明日の先手は加賀に命じたと云っただけで、後は将軍と雑談しながら通り過ぎたので両人は成す
術なく帰ってその旨報告した。

三河守忠直は報告を聞いて、此戦いも明日中には決着するので、その後は越前の国を返上して
高野山に住居する外は無いと云う。 本多伊豆守が、それはどんなお考えからですかと聞けば
忠直は、其方達が尋る迄も無い、三河守は加賀の前田利常に劣ると両御所が見限った以上男が
立つかと言う。 伊豆守は聞いて、それ程のお考えであれば、明日の合戦で(p482)なさりたい様
にして命令違反の廉でお上から越前国を召上げられてはどうでしょうかと言う。 三河守はそれを
聞き大いに喜び、出来ればそう有りたいとの事である。 それでは吉田修理をお呼になって明日
の一戦の事を頼まれるのが良いでしょうと云う事になった。

三河守は吉田修理を呼出して状況を説明すると修理は、その様にお考えなら夜も短いので今から
支度をして下さいと云うと両本多に、私は帰って支度出来次第出発しますので御両所(両本多)
も私の部隊に続き部隊を出し、その後に三河守旗本部隊が進むようにして下さいと云い帰った。
程なく修理の部隊及び手勢で進軍すると加賀の先手の者達は、今日の先手は加賀へ命ぜられた
ので誰も先へは通さないと云う。 修理は馬を乗寄せて、私は吉田修理と云う筑前殿(前田利常)も
御存知の者です。 此度命令は岡山筋の先手は加賀へ、天王寺口の先手は越前へ命じられた事
を筑前殿から皆さんへ連絡は無かったのですか、公儀からの軍事命令は大切な物なのに扱いが
疎略です、我々は場所が違いますと言捨てて押し通った。

越前勢は其後に続いて続々と部隊を進めて茶臼山の近所迄進軍した。 未だ夜の内だったが
修理が下知して越前の部隊配備も略出来た。 そして各部隊の頭や奉行達に向かい、昨晩
大御所は此方の家老衆へ、今日の合戦の時、越前家の者達は昼寝をしていたのかと上意が
有ったと言う、 今日は目の覚める様な働きが無くてはならない、皆その積り居る様にと自身で
触れ廻った。 後で考えれば修理はこの時から討死と覚悟を極めていた様子だったと云う。(p483)
註1 松平忠直、通称三河守又は越前少将: 結城秀康(家康二男)の嫡子
註2 越前の両本多 家老の本多成重(飛騨守1572-1647)と本多富正(伊豆守1572-1649)

六日の晩本多上野介は大御所の前へ出て、明日の晩の台所支度の場所は何処となりましょうか
と伺ったところ、茶臼山でと上意があった。 未だ味方が占拠した場所でも無いがと疑問ながら
その旨通達したが、果して翌七日の夜は茶臼山が本陣となった、 たいへん御明察な事だと
本多上野介が後に語ったと云う。
註: 茶臼山は冬の陣では本陣だったが、夏の陣では合戦前に真田幸村が本陣としていた

本多出雲守は昨冬の陣の時、攻城持場で失策があり大御所の機嫌を損じ、親中務ならこんな
事はないだろうにと云われた。 これを深く心に留め、冬陣が終わった後は地行所の大多喜に
帰っても不機嫌だった。 ところが二月頃から大坂で又戦争かと風聞があり、次第に現実らしく
なった。 昨冬の様に両御所が出陣となれば是非討死を遂げようと決めていたが、再度御供する
様にと通知が来たので本望が遂げられると思っていた。 

大坂へ着陣し六日の暮方に舎兄の美濃守が勤める道明寺の陣所へ訪問した。 美濃守へ面会
しなかったが甥の平八郎、甲斐守、能登守三人を芝堤の上へ呼出し、今日城方の毛利や真田を
どうして美濃守の部隊で討留めなかったのか本多家の名折れと思う、今後も武勇の祖父中務殿
の武道を学ぶ事が重要であると云って美濃守の陣場より酒筒を取寄せ、何となく三人の甥と盃
を取交し八尾の陣所へ帰った。 そこへ本陣から召集があり急いで参上すると、岡山筋の先手は
加賀筑前守へ命じた、其方は天王寺口へ行きその辺に退陣する面々へ指図する様云われた。
畏まりましたと云い陣所へ帰ると家老小野勘解由を(p484)を始め幹部達は皆上意を聞き喜んだ。

その時勘解由は、明日の一戦に付いて、私の考えは三ツあります。 一つには討死、 二つには
一番鎗、三つには高野の住居する事ですと言えば出雲守は黙って頷いていた。 その夜も更けて
きたので同じ持場の秋田城之助、真田河内、松下石見、六郷兵庫、浅野采女、植村主膳正等方
へ間もなく出陣する様に伝えて出雲守も支度を調え八尾を出発した。 その夜の内に四里程の
道程を進軍し、夜明けには越前家の者達の部隊と並んで配備に就いた。
註1 本多出雲守(忠朝1582-1615) 井伊、榊原と共に徳川三傑と云われた本多中務忠勝二男

其日城中の人々の考えでは、寄手の軍勢は城の夫々の出入り口前に持場を決めて部隊を配備し
合戦は八日にある筈と打ち合わせ、七日の朝迄は具足等を着けていた者は十人中一人有るか
無いかと云う状態だった。 ところが関東勢は全軍が夜中より総出陣し、夜明け前には野も山も
軍勢だけの様に見へ渡ったので城中は急にうろたえ騒いだ。 今考えると油断千万な事だったと
高桑七左衛門が私(作者)に語った。

城方の真田左衛門佐は茶臼山の上より続く庚申堂の前迄、段々と部隊を配置する。大谷大学、
渡辺内蔵助、伊木七郎右衛門、真田采女、福島武蔵、同伊与、吉田玄蕃、石川肥後、津田
左京、結城権之助等は真田の部隊に属すると言う。 天王寺の鳥居の南には江原石見、填島
玄蕃、藤堂土佐、本江右近、早川主馬、福島平三郎、細川讃岐守、長岡与五郎等が部隊を置く。
勝曼院の前には郡主馬、野々村伊予守、其外寄合組の部隊がある。 
天王寺南門筋は毛利豊前守が配備し、浅井周防、竹田永翁等が従う。毘沙門院の南の方には
大野修理の部隊が、昨日討死した後藤、(p485)薄田、木村、山本等の配下の敗兵等が是に
随ったと言う。秀頼卿の金の瓢箪の馬印を津川左近に持せて岡山辺に立てた。 大野主馬の
部隊は大部隊であり、岡山口の一の先手と決まっており配下には新宮左馬、岡田縫殿、布施
伝右衛門、岡部大学、中瀬掃部、二ノ宮与三右衛門、御宿越前、根来三十騎等が一所に配備し、
将軍の先手と一戦を遂げようという積りである。

大御所は使番衆を派遣して合戦を急がない様にと触れ廻った。 各陣何れも畏まりましたと云う
もあり、異見を云う者もあった。 水野日向守勝成等は使番衆へ向って、今日はもう十時になるが
早く合戦を始めさせるのが良い、手間は取らないでしょうと進言したと言う。
其後又久世三四郎、坂部三十郎、小栗又市、佐久間河内等が全軍に乗廻り、合戦を早まらない
様に触れて廻った。 その時将軍から安藤対馬守、佐久間将監、安藤治右衛門を派遣して、合戦
を始める様に命ずるので、ご了承願いますとの事なので、夫より大御所も急いだが、何しろ旗本が
大軍なので進軍がままならない。 

そこへ又将軍の使番が来て、城中より大軍が出ましたので早く旗を御進め下さいと云う。 大御所
は非常に不機嫌となり、城中の者が残らず出ても七万を超える事は無い筈である、 それを大軍と
言う様な不調法で将軍の使番か勤るのかと烈しく叱った。 その時安藤対馬守が来て、もう合戦
を始めて良いと思います、将軍もそのお考えです(p486)と申上げる大御所は駕籠から出て馬に
乗り、尾張殿と駿河殿にも早く進む様に指示した。

真田左衛門佐幸村は茶臼山の上の先端から寄手の軍勢を見ていたが、息子の大助を呼び寄せ、
其方は昨日の一戦で負傷しており、今日は果々しい働きは出来ないだろう、 其上私が思う事も
あるので今すぐ城中に帰り、秀頼公の側に居り行動を共にしなさいと云う。 大助は、この合戦の
直前になり、城中へ帰る事は不本意です、 どんな場合でも父上と一所と決めておりますと断り
再三の説得にも応じなかった。 幸村は大助を近くに引寄せ、何か暫く言含めると大助は親の側
を離れ、馬に乗る様子だが幸村の方を見て佇んでいる。 幸村は近習の者に早く行かせよと催促
すると大助も馬を進めたが幾度となく親を見返り、それから坂を乗り下り城中へ入ったと言う。

稲垣与右衛門と云う者が其時真田の配下におり、直接これを見たと語るので書留めた。与右衛門
の話では、 大助が城中へ帰らぬと断った時、近くにj引き寄せて云い含めた内容は聞いては
いないが、 幸村自身が寝返るのではないかという危惧が秀頼にあったので、決してその様な事は
なく戦死と決めている事を秀頼卿に知らせる証人として大助を城中に帰したと思うとの事である。

加藤左馬助嘉明、黒田筑前守長政、細川越中守忠興等は昨冬の陣の時は江戸又は国元に滞在
を指示されたが、今度は小勢でお供するように指示があった。 加藤と黒田は一所に本多大隅守
の部隊と同じ持場で今日も出陣したところ、 将軍が来られると(p487)騒いでいるので両人も
御目見に出た。 将軍は甲は着けず黒い具足の上に山鳥の羽織を着、桜野と云う馬に乗り歩行
の小十人衆二三十人のお供が居るだけである。 各部隊を視察する為の巡回だが、黒田長政は
一の谷の甲、加藤嘉明は富士山の甲を家来に持たせ目通りに出た。 将軍が両人の方へ馬を乗
寄せると、両人は馬の口に付いて、昨日は城兵が遠く迄出たのに打漏して引揚げさせたのは残念
に思いましたが今日又多人数を出して来るようです、 御武運に恵まれていますと云えば将軍
は機嫌よく、もう間もなくであると上意があった。 両人も少しお供したが、 もう是迄でと云われる
ので控えた。 そこへ本多佐渡守(この時77歳)が山駕籠に乗り渋帷子に甲だけを着し、大きな
渋団扇で蠅を打払いながらお供していた。

其時長政は嘉明に向かって、将軍はいつもと替わらず軽装ですねと云えば嘉明は、そうです、
一般にこんな時に軽装なのは親父様以来の癖ですと答えた。 長政は随分良い癖ですと応じ、
近辺を見回して、私達の部隊は此辺で一所に守っていれば良いのだろうが前に沼があるのも
どうかなと云えば嘉明は、良いと思います、貴殿や私は今日は戦わないのも奉公です、 私達の
好きな様にと云われている。
註1: 黒田長政、加藤嘉明は厚恩の主(秀吉)の子(秀頼)との戦いで表立つ事は遠慮もあり、 
   又幕府側もそれを配慮したものと思われる。 
註2:本多大隅守(忠純1586-1632) 本多佐渡守正信三男

             15-4 天王寺・岡山の決戦
敵味方各部隊が揃い互いに睨み合っていたが、本多出雲守の部隊がから鉄炮を打初めると
同時に越前の部隊から七八百挺の鉄炮を一頻り敵方へ打ち掛けた。 その後一の手とか二の手
の区別もなく(p488)二万に及ぶ軍勢が一斉に押掛ければ、 城方真田の部隊も掛ってくる。
越前松平忠直の舎弟伊予守忠昌は自身で十文字の鎗を取て城兵一人を突伏せ、家人に
命じて其首を取らせたところ、城方の倉流左太夫と云う剣術名人として有名な者が忠昌を目掛て
突掛ける。 忠昌は倉流も鎗で突き其首を取り旗本迄持たせ更に忠直の部隊で城兵と戦った。

この時、吉田修理は自分の家来や部隊を率い、やれ死ね、やれ死ねと号令を発し真先に進む。
それを見て越前家の各部隊の兵達も、我劣らずと突掛るので流石の真田も手に負いかね終に
戦い負けて敗走した。 その時幸村は越前家の侍西尾仁左衛門に討たれた。
吉田修理は天満の方へ逃げる敵を追討すると云って、天満川の深みに馬を乗入、其身は馬共に
水底に沈んで落命した。 一方忠昌は本多伊豆守の部隊で真先に進み、城大手の門へ押入り
旗を城中へ一番に入れた。

忠昌は其頃十九歳で将軍の側で奉公していたので本多佐渡守と同じ部隊に配属された。 六日
の晩に舎兄忠直が先手の志がある旨を聞くと本陣で佐渡守に、私は今晩より兄の三河守の陣へ
行き、明七日の一戦では彼の部隊で相応の奉公がしたいと願った。 佐渡守がその事を将軍に
申上げると暫くの間返答がなかったが、少し間をおいて、それ程言うなら、好きな様にして良い
と許可があった。 その事を伝えると忠昌は、それでは今御目見えしたいと云うので佐渡守は夫は
必要ない(p489)のではと云うと忠昌は、いやそうではありません、これがお暇乞いになるかも知れ
ませんからと言う。 佐渡守は大いに感心して将軍に取り次ぐと忠昌は御目見えした後忠直の陣に
駆けつけた。

丁度その時越前家では明七日の先陣の打合せの最中であり、忠昌は其様子を聞くと吉田修理の
部隊に続いて出陣し、越前家の左翼より四五十間計前に出て布陣した。 
舎兄忠直も大御所の両本多への詞からも是非討死と覚悟を心に決めて居たと言う。 合戦が始る
少し前に湯漬を食べると云い、真子平馬と云う近習の侍に膳を持たせ立ちながら食した。 そして
食べるものも食べたし、もう餓鬼道へは落ちないぞ、死出の山を楽々と越えて真直に閻魔の庁へ
着くぞと云いながら馬に乗った。 其顔色は普段とは違って見えたと言う。

此時岡山天王寺辺では本多出雲守と城方毛利豊前守との一戦が始まり、互に鉄炮を打合の後
豊前守の部隊が鬨の声を揚げて一斉に突掛ってきた。 出雲守の侍達も粉骨を尽して戦ったが
毛利の部隊は出雲守と同じ持場の秋田城介、植村主膳、松下六郷、浅野采女等の部隊とも戦い
越前軍の部隊右脇の方へ雪崩れ込んだ。 この時小笠原兵部大輔父子、保品弾正、内藤帯刀、
松平安房、同甲斐、水谷伊勢、松平丹波、酒井左衛門、榊原遠江、稲垣摂津の夫々が鬨の声を
揚げて一斉に突いて掛る。 城方浅井周防、大野修理の部隊、竹田永翁其外寄合組の者達も
掛りに掛って(p490)混戦となり双方が戦った。 

此時小笠原兵部、同信濃守父子共に鎗で戦い、兵部は重傷で其場を引下ったが終に落命し、
信濃守も討死した。 兵部の末子大学は十八歳だったが、父兄が討死と聞き其場へ駆けつけて
命を惜しまず戦い、数ヶ所の疵を負い討死かと見えたが家来が駆けつけ大学を連れ退いた。 
彼は後に右近太夫と名乗って長生きしたと言う。 この時本多出雲守も深手を二三ヶ所に蒙ったが
左手で馬の手綱を引き、右手に刀を振上げて逃げる敵を追いかけていたが、溝の中へ倒れこみ
負傷しているので起き上がれない。 そこへ敵が立帰り首を取って帰ったが、 出雲守の首は紅の
腕ぬきで括り鼻を削いで田の中へ捨ててあった。 其日の晩方、出雲守家中の陪臣が取上げ
持帰った。 

この時保科弾正等も自ら戦い負傷した。 水谷伊勢守は十七歳で出陣したが家中の者達が城兵
に突立てられて敗走する。 その時家老の水谷太郎左衛門が伊勢守の側へ馬を乗寄せ、今敗走
する者達を良く見て置き何れ解雇するべきです、私はせめてもの討死をしますと云って敵中に
突込んで討死した。

岡山筋では天王寺と茶臼山両所の合戦が始った後、加賀の先手本多、山崎、村井伊八郎、安見
右近、篠原織部等を始め其外一斉に鬨の声を揚げて突き掛った。 将軍旗本組では水野隼人、
青山伯耆守、松平越中守、高木主水の部隊が何れも力戦した。 この時岡山筋で地中の爆発が
起り、皆是に驚き動揺した。 これを見て将軍自身が鎗を取って進むところ、安藤対馬守が一番
に馳付て馬より飛下り、勿躰ない事と馬の口に取付いて押し留めた。 そこへ本多大隅守、加藤
嘉明、黒田長政が馳せ付けて将軍の馬の廻りを堅めた。 この時三枝平右衛門の旗捌きが見事
で旗本軍勢が立直ったと言う。 

城方大野主馬、同修理の配下や其外の城兵等も暫く防戦していたが、加賀勢の大軍が正面に
居り、其上右翼に本多豊後守、遠藤但馬守、本多越後、片桐兄弟、宮城、蒔田、石川等が横から
突掛けたので、 主馬は終に戦い負けて城の方へ引下がる。 寄手の各部隊は勝ちに乗じて逃る
敵を数十町負い掛けた。 稲荷の前で城兵は踏止って防戦したが、崩れて玉造口より城内へ逃げ
込んだ。 

この時藤堂高虎と井伊直孝両部隊は味方の本多出雲守の部隊が敗軍の様子に見えたので横合
に突掛けたところ、大野修理の配下が烈しく鉄炮を打掛けた。 夫にも構わず毛利豊前の部隊へ
押掛けて突き立てるので毛利も敵わずに引き下がる。 そこで井伊、藤堂の部隊は勝ちに乗って
追い掛けると、 天王寺の東北に配備する秀頼旗本の七組の青木駿河、真野豊前の配下の侍達
が鎗の穂先を揃へて突掛けるので、井伊と藤堂の配下は敗れる。

此時安藤帯刀の嫡男彦四郎が討死をした。 父の帯刀はこの一戦の纏め役を将軍から指示され
諸部隊の間を走り回り下知していた。 家人が駆け付け、彦四郎様が討死されました、死骸を如何
致しましょうと尋ねると帯刀は、犬に喰せよと云捨てて馬で乗廻っていた。 家人達も余りなる事と
思っていたが、其晩方陣所へ帰ってから帯刀はたいへん悲しんでいたと言う。 
井伊掃部頭の旗奉行である孕石主水と広瀬左馬の両人も討死し、井桁の紋が付いた茜の四半の
纏も金の蠅取の馬(p492)印二本共に打捨てられていたが、八田金十郎と菅沼郷左衛門の両人が
持帰り、天王寺の丸山で家老庵原助右衛門へ渡したと言う。
同じ時藤堂高虎の部隊も崩れたが、九鬼四郎兵衛と言う旗奉行の捌きが良く、幟三本を押し立て
陣容を堅めたので家中の者皆が踏止った言う。

細川越中守忠興は天王寺毘沙門池の辺に配備していたが、城方七組の内堀田図書、真野豊前、
野々村伊予守、伊東丹後等と鉄炮を打合い、其後接近戦で追ったり追返されたり暫く揉みあうが
越中守側か勝利し七組の部隊は城の方へ引退った。

水野日向守は天王寺の西から船場へ進撃した。 一方城方の明石掃部は大野修理からの申送り
に随い天王寺の西の岸蔭から寄手の脇へ廻り横から突掛ける作戦だった。 ところが早くも天王寺
の城方は戦い負けて撤退しているの予定が違った。 明石は討死と覚悟を究めて率いた足軽達に
下知して鉄炮を打掛させ、其侭馬を走らせ突っ込んで来たので前に立ちはだかる水野の部隊は
敗走し始める。 水野は馬上で乗り廻り、卑怯者、日向守は此処に居り皆見ているぞ、返せと呼ぶ
声で踏留まる者もあるが夫でも逃げ散る者も多い。 そこへ日向守家来の広田図書、尾関佐次
右衛門等が踏留まる。 明石の兵は鎗を合わせて日向守を目掛て討ってて掛かるが、日向守自身
で突払う。 終に水野側は勝利し、明石掃部を日向守の侍汀三右衛門が討取った。(p493)と言う。

城方の者達は全ての戦いに負けて城内へ逃げ込んだ者もあるが、大方は夫々に落ちて行った。
大野主馬、大野道犬斎、仙石宗也等は戦い半ばで立退いたとの事である。 主馬の部隊に属して
いた御宿越前は何故か只一騎で越前勢の中へ乗付けて、野本右近に討たれた。

            15-5 大坂城炎上と千姫の出城
秀頼は桜門に部隊を置き、真田からの情報次第で出陣すると言うことで床机に腰を掛けていたが、
速見甲斐守が天王寺より馳せ帰り、 城外の合戦で味方の諸部隊共に勝利を失ったので、御馬を
出されて意味がありません。 此上は本丸へお入りになり様子を見られるのが良いでしょうと云い
本丸へ入ったが、 誰一人の防禦を手配する者もなく皆落ち支度をしているので千畳敷へ引取る。
七組の頭の一人郡主馬も乗り付けたが、佐々弥助と言う者が裏切り大台所へ火を付けたのが次第
に燃え広がり、郡主馬、真野豊前、中島式部、堀田図書、野々村伊予、渡辺内蔵助等があちこち
で自殺した。

秀頼卿はひとまず天守へ上り程なく下りて月見の矢倉から芦田曲輪の矢倉へ入った。 その時
御台所(奥方、千姫)も同道していたが、大野修理が世話して女中に向って、もう此様な状況と
なった以上、奥方様は城外へ出て大御所に御願いして秀頼様父子の生命の保証を取計らうのが
良いと言う。 お供の女中も口々に、修理が言う通りになさるのが良いと言う事で城外へ出た。
其時大台所が炎上して城兵達もうろたへ騒いで抜身の長道具を携へて走り廻っており、お供の
女中達も身を縮め歩行も難しく、高石(p494)垣の下へ寄り集り姫君を中に包む様にしていた。

そこへ紀州熊野の侍堀内主水と云う者が通りかかった。 彼は新宮左馬助等と一所に昨冬の陣
の頃から城中にいた。 石垣の方を見ると廿人計りの女中の中に白地に葵の丸ちらしが付いた
かつぎを着た女性がいるのに主水は気付き走りより、誰かと尋ねると、是は関東の御姫様です
ご用で城外へ出られますが御供して下さいと云う。 それではと主水が先に立ち人を払いながら
行くと関東方の坂崎出羽守と出会ったので以後坂崎が御供した云う。

其時大野修理の家老米村権右衛門は修理の側を離れずに供していたが、御台が立退いた後で
修理は権右衛門を招き寄せ、其方は急いで御台様へ追付いて私の娘から申上げさせるのが
良い、先程も申上げたが今日の夜中迄の間にお願いが通る様にして戴きたい。 御両所へ直接
お願いすれば良いと云うものでもなく、本多佐渡守へ頼んで申上げて貰う様良く頼んで欲しいと
云う。 権右衛門は、今の時に臨んで城外へ出てお供するのは心外ですと云うと修理は不機嫌
に、私の命令に逆らい仮令私と共に死んだとしてもそれに満足するのか、秀頼様父子の助命は
重要な事ではないのかと叱り付けた。

それ以後権右衛門走り出し、大手門の堀端で追付いたところ坂崎の部隊が女中方を取囲んで
いる。 権右衛門は坂崎の側へ寄り其趣旨と伝えると、貴殿の事は兼ねて聞いています、調度
良いので女中方に交ってお供されよと坂崎が指示したと言う。 そんな訳で坂崎は本多佐渡守の
陣所を聞き合わすと茶臼山と天王寺の間に佐渡守が家来達と一所に集っている事が判った。 
そこで近所に百姓の家があったのを幸にそこを姫の御座所として四方を坂崎の兵が警固した。 

茶臼山に佐渡守を迎えに行くと早速山駕籠に乗って来て、お願いの趣旨を聞くと直ぐに茶臼山
に参上して申上げた。 大御所は、姫が願うのも当然だ、秀頼父子を助け置いたからとて特に
如何と云う事もない、将軍へ其旨を申上げよとの上意があった。 佐渡守は早速岡山の陣営へ
参上し、姫の願いと大御所の見解を申上げたところ将軍はたいへん機嫌悪く、余計な事をして
くれた、秀頼と一所に死ぬべきなのにと言うだけだった。 佐渡守は、兎に角大御所のお考え通り
にされるのが良いと思いますと云い直に陣所へ帰り、両御所様が御聞届けの上は安心して食事を
されるようにと、お付の女中達にその準備をする様にと云うと女中方も皆喜んだ。

権右衛門については、此処には誰も男が居ないので其夜は詰める様にとの事で百姓家の片脇
にある牛小屋に泊った。 お膳と酒迄下され少しの間休息と伏せたところ、 数日の辛労の為か
只一眠したら目が覚めたのは翌日の昼前だった。 修理の娘に付けている自分の娘に様子を
尋ねると、行き違いがあり御城内では上々様方は残らず亡くなった事を聞き、御台様もたいへん
お歎きという、修理娘も出て来て泣き泣き報告するので権右衛門大いに驚き聞き合わすと、城門
は昨晩方より将軍旗本の諸部隊(p496)に勤番が命じられ、出入りが出来ず其の侭姫様の側に
居たとの事である。

著者註: 千姫余談
天樹院(千姫)が大坂城中から出た経緯は前記の通りに間違いないが、今時世間流布の旧記等
では未練の為淀殿や秀頼と一緒に滅亡を嫌って城中から出た様に書いている。 勿論女性でも
あればその様な事が一般的ではあるが、彼女には未練がましい事は無かったのに後世迄その
様に語られるのは本意ではないと思うので、私の聞いた事を此処に書記す。

前述米村は主人大野修理の娘が天樹院に奉公していた関係で、自身が浪人になった時も時々
御座敷を訪れたが、大坂以来の知り合いであり天樹院も親切にして呉れて、お金や衣服等を
拝領する事もあった。 しかし修理の娘が病気となり色々養生もして貰ったが良くはならない。 
そこで生きている内に親の眠る寺詣でをしてから死にたいと云う願いで天樹院から暇を戴いた。
その時権右衛門が呼ばれ、其方が連れて行き十分養生するようにとあり、関所手形や道中費用
等潤沢に下さった。そこで自分の娘も一緒に連れて上方に向かい、色々保養をしたが病気快気
せず終に修理娘は死去した。

京都の妙心寺で火葬にしている間権右衛門は用事のため方丈へ行ったが、その後自分の
娘が火葬の火の中へ飛込み主人の棺に抱き付いて焼死んでしまった。 灰よせをする時主従
の骨の見分けが付かないので、一所にして高野山へ持って行き骨堂へ納めた。 権右衛門は
直ちに頭を剃って権入と名を付けて京都妙心寺の嶺南和尚に随身して江戸へ帰り、芝東禅寺
の寺寮に住込み寺内の掃除等をしていた。

或日東海寺の沢庵和尚と嶺南和尚が同道して浅野因幡守殿の振舞に招かれた時、沢庵和尚
が因幡守に、御亭主はたいへんな人好きですが、嶺南和尚が持たれている様な人は御持では
無いでしょうと云うので因幡守は、夫は何と云う者ですかと尋ねる。 沢庵和尚は、大野修理の
家老で米村権右衛門と云う者です。 彼は修理が御預けになった配所への供も勤め、関ヶ原
合戦の時、浮田中納言の家来で高知七郎左衛門と云う者と組打しました。 其後大坂冬の陣
における和談の時、 城中の織田有楽と大野修理方より良く分る侍一人宛差出す様にとの事で
有楽方からは村田喜蔵、大野方からは米村権右衛門の両人が使節で度々城中から出ました。
和談に先立ち、 茶臼山陣所で両人共に御目見した時、権右衛門は御前を遠慮せず堂々と
意見を述べて、退出した後で大御所が米村をたいへん誉められたとの事です。 その権右衛門
が今程は出家して嶺南和尚方に居るのですと沢庵和尚が語る。

その時因幡守が、其権右衛門は世間に隠れなき者です、拙者が召抱えたいのですが修理
の所での知行は御存知ですかと問う。 両和尚は、前の知行は二百石と聞いていますと云えば
因幡守は、それでは四百石出しましょうと云う。 沢庵和尚が、いっその事五百石おやりなさいと
云うと、 五百石の知行高は少し差し障りがありますので代りに足軽を預け、又出家なら刀など
無いでしょうから、当年も残り少ないので当年分を残らず支度料として出しましょうと云う事になり
権右衛門の身分が決まった。(p498)因幡守家来となり八十有余の年齢まで無病息災で物頭役
を勤めた。

因幡守家中に槇尾又兵衛と云う者が居り三次藩の町奉行をしていた。 彼は以前薄田隼人正の
近習を勤めて居り、これと言う武功は無かったが利口な者であり因幡守も目を掛けていた。
或時この又兵衛が町方の用事で因幡守の御前に出た時、大坂の夏の陣で落城の日に天樹院
が城中から出た事について尋ねられた。 又兵衛は、世間で言われている様に淀殿や秀頼と
共になさるべきなのに、御女中とは云いながら不甲斐ない事ですと、その頃言われたいた事を
語った。 

暫くして権右衛門が是を聞いてたいへん腹を立て、 家財や諸道具迄も全て取片付けた上で
申出た事は、 槇尾又兵衛が前に御前で天樹院の事を語ったと聞きましたが、それを其の侭に
はして置けません。 天樹院が城中を出たのは秀頼御父子の助命を御願いする様にと大野修理
が強く申上げたからです。 又兵衛が云う趣旨では天樹院に悪名を立てる事になり、それは修理
にして見れば迷惑な事です。 この様な片田舎で又兵衛を相手に裁許されても世間の話題には
なりませんので私はお暇を戴き江戸に行き、公儀へお願いして天樹院の御恥辱を晴らさずには
旧主大野修理に対して私の立場がありませんと言う。

浅野因幡守家老の山田監物や八島若狭も大へん苦労して何とか内輪で済ませる様に色々説得
したが米村は納得しない。 因幡守にその事を報告すると、因幡守から又兵衛へ内意があり、其方
の旧主薄田は(p499)五月六日の道明寺の戦いで後藤又兵衛と一所に討死した事に為、 薄田の
配下の者達は城中へ引退いたが六日の晩方に城中を立退いたと云う。 一方天樹院が城中より
出たのは七日であるから直接に知る術は無い筈である。 恐らく世間一般に流布された通りを聞く
侭に述べたものであろう。 それゆえ其方の不手際だろうから権右衛門へその旨謝り納得させる
のが良い。 又この件は内々で解決する様にしたい、それが私の為でもあるとの因幡守の言葉に
又兵衛は納得し、権右衛門に、たいへん失礼な事をしてしまったと謝り権右衛門も堪忍したと云う。

以上の事から考えても天樹院が未練故に城中を出られたと言う説は事実と相違するものである。
これは堀内主水が旗本へ採用となり、私(作者)が若い頃迄無事で私の親類水野如心斎と云う者
の方で折々出会い物語るのを聞いた。 主水子孫は今も旗本に居られる。
註1:千姫(1597-1666)徳川秀忠娘、家康孫、7歳で豊臣秀頼と結婚、18歳で死別、其後
  本多忠刻(桑名藩主、本多忠勝孫)と結婚、1626年忠刻と死別、以後天樹院と号して江戸城
  に戻り北の丸の屋敷に住む。 家光の姉でもあり幕府から丁重に保護される
註2:浅野因幡守(長治1614-1675)安芸浅野家の支藩備後三次藩主(5万石) 作者が子供の
  頃養父が仕えた。

            15-6 豊臣家の滅亡
慶長廿年五月七日大御所が茶臼山へ陣を移す時、中井大和が前から準備していた切組小屋を
人夫に運ばせて組立の時本多上野介が大和を呼び、その様な広い陣は上のお考えにそぐわぬ
と思い確認すると、九尺の竪に二間で六畳敷よりも広くは不必要との事でその通りに組み立て、
上三畳下三畳の間を布の内幕を張り、外帯を引廻しただけの事で直ぐに完成した。 早速大御所
は中に入り、諸大名で御目見に出た人々は表の三畳敷の所へ出て面会した。(p500)
著者註: 今時世間に流布する記録の中には、夏の陣の時黒本尊の阿弥陀を携え、茶臼山陣営
     の内の持仏堂に置いたとか、 其外奇特の事を記した物もあるが、どれも信用できない事
     である。 この六畳敷の陣営は慥に見た云う者が私が若い頃迄は幾人も居た。

大御所が茶臼山へ上った時、城方の者と思われる四五百人が一所にかたまって居るの見て尾張
と駿河の両殿へ攻撃させよとの上意で、尾張殿と駿河殿の部隊へ山上弥四郎、内藤長助の両人
を使いに出し、急いで来る様にと伝えさせたが其内に城兵達は退散してしまった。 両殿が茶臼山
へ来るのが遅かった為に間に合わなかったと上意があった。

その時駿河殿の返答は、私共へも先手を命じて下されば間に合ったのにと残念な様子で落涙
した。 その時御前に居た松平右衛門大夫が駿河殿に向かって、御前様はお若いから今後幾度も
機会がありますと慰めれば駿河殿は、やあ右衛門大夫、私の十四歳の時が再びあるものか、
間抜けた事を言うと叱った。 大御所は駿河殿へ向かって、其方のその言分は血に滴る鎗に立ち
向かうのと同じだぞと云う上意で喜びが見える様だった。

大阪城大台所の火事が焼け広がり千畳敷其外の家屋へも延焼して大火となった。 諸大名方も
茶臼山へ参上し(p501)勝利の賀を述べた時、小出淡路守が御目通の芝の上に居るを見られ、
淡路と呼ばれたが、召されると思って居なかったので返事をしなかった。 そこで再び、小出淡路
と大声の上意があったので淡路守は御前へ出た。 大御所は大坂城の方を指差して、あれを見よ
と云われ、 淡路守も大坂の方を一目見返り両手を付き、たいへんお気の毒な事ですと申上げた。
大御所は、其方の立場でその様に思う事は当然だと上意があった。 それ以後親しくされ、鷹狩の
鳥などを拝領したと言う。

同じ時大御所から、夏目を呼んで来るようにと上意があり、それを側衆が使番に伝えた。 併し
夏目次郎左衛門は少身であり旗や馬印等も無いので何処にいるか見当が付かない。 そこで
諸番の番頭が寄集っている所で夏目は誰の配下で何処にいるのか尋ねた。 或番頭が自分の組
におり、私の旗馬印は斯々云々と言うのでそこに駆けつけ夏目を同道して戻った。 早速御前に
召出され、以前三方原の一戦の時、其方の親次郎左衛門が奇特の討死をしたと上意があった。
事情を伝え聞いていない若い人々は諺に言う藪から棒の様な上意と思ったが、 事情を知る人々
はその通りだと深く感心する者もあった。
註:家康が浜松城主の頃、武田信玄と三方が原で戦い徹底的に敗れて討死となるところを家臣
  の夏目次郎左衛門が身代わりとなり家康は生き延びて今日がある。 

翌八日の早朝井伊掃部頭へ命じ、城中の芦田曲輪に居る女中の中で二位の局に用があると
言う事で片桐市正を通じて(p502)茶臼山へ呼んだ。 本多上野介が御前へ案内すると、秀頼
の装束はどんなであるかとか、芦田曲輪に籠る男女の人数等細かく聞かれた。 尚二位の局は
城中へ返す必要はないと云う事になった。

其朝芦田曲輪に籠る秀頼付きの人々は、秀頼卿の命は赦されるのではないかと待っていたが
何の知らせも無い内に、井伊掃部頭と安藤対馬守両部隊の足軽が芦田曲輪へ向って頻りに
鉄炮を打掛けた。 これは最早御台所のお願いも叶わなかったと皆覚悟を決め、秀頼、淀殿を
始め男女三十余人自害したと言う。 其姓名は旧記に載っているので此処では略す。

著者註: 此時井伊掃部頭を通じて大御所から秀頼は助命する様にとの口上の趣旨を記した
     旧記もある。 又出城する様にと伝えると城方の速見甲斐守が、では乗物一挺と担ぐ者
     を給わりたいと云うと近藤石見は、こんな時にそれはできません、乗馬で出られる様に
     と応じた。 甲斐守は腹を立て、いかに此様になったからと云っても秀頼、淀殿母子が
     乗馬で出る訳には行かぬと云い門を閉じ、淀殿、秀頼へも甲斐守が自害を勧めたと
     言う説もある。 混乱した中の事であるから何が真実か判らない。 つまり行違いと思う
     次第である。

大御所より越前少将忠直の配下が討取った真田左衛門佐幸村の首を見たいとの上意がありで
西尾仁左衛門が茶臼山本陣へ(p503)持参した。 大御所は真田が生きている間は終に会う事
がなく顔は分らない。首持参の西尾に向かって、其首の前歯が欠けているかと尋ね、口を開いて
見て、欠けておりますと答えた。 仁左衛門に向かって、勝負はと尋ねられたが仁左衛門は答え
られず平伏していると、良い首を取ったと上意があった。 仁左左衛門が立去った後で側衆へ、
抵抗は無かった様だと上意があった。

次に野本右近が討取った御宿越前の首を御覧になり、 なんと御宿めは年寄になったものだと
あり右近に向い、勝負はと尋ねられた。 右近は、御宿は天王寺で只一騎の乗付ましたが、
馬の側に茜の羽織を着た歩行士二人を呼んで何か云いますと二人とも走り帰りました。 其後
私の方を見て鎗を取、馬より下りましたので走り寄り鎗を突付けましたが手向かいしませんでした
と申上げた。 大御所より、良い手柄を挙げたと上意があった。 右近が御前を立去った後で側衆
へ、 御宿めが若い時なら中々あの者等に首を取られる事は無かったと上意があった。
著者註: これは高木伊勢守から其時直接聞いた話であると丸毛五郎右衛門が私に語り書留た。
      御宿勘兵衛は若い頃徳川家に奉公していたとの事

大御所は秀頼の自害した事を聞くと、乗物に乗り板倉内膳正だけをお供にして穏便に茶臼山を
出た。 城内の焼跡を廻り京橋へ出て帰路の途中で、この様な大合戦の後は雨が降るものだと
上意があったが、(p504)其日は晴天で中々雨の降りそうな様子もなかった。 ところが守口辺から
南の大風と烈しい雨になり、お供中が苦労した。 漸く淀へ到着した時、与三右衛門がたいへん
良く働き御供中へ雨具等を提供した。 それから二条城に到着したところ、大手の門番は還御の
知らせなど無く、所司代からの指示も無いので門を開けない。 そこで板倉内膳が気付き父親の
伊賀守が預かる門から走り入り大手の門を開き大御所も帰城した。 将軍は翌九日に岡山を
出発し、其日の夕方伏見城へ入った。

二条城へ越前の家老の両本多を召出して、今度大坂での先手は加賀筑前守(前田)へ命じた
のに越前勢が夜の内に出軍して加賀勢を押抜いた事は如何なる理由か言上せよと云われた。
この時本多伊豆守の答えは、 此方の家中に御上も御存知の吉田修理と云う大名並みの者が
居り一万四千石を領知しています。 自分の人数もかなり持っており、その上組の侍も管理して
おります。 この修理がどの様な考えからか、去る六日の夜中に自身の部隊を纏めて城の方へ
進撃しました。 これを家中の者達が知り、修理の配下に先を越されてはと我も我もと駆け出し、
私共両人も心配になり後を追って出ました。 三河守(松平忠直)の旗本も残り様もなく出陣した
次第で、家中の者全てが修理に続き茶臼山の近所迄出陣しました。 夜が明けてからの事は
申上げる迄も無いかと存じます。 

此事は後日に必ずお尋ねがあると思い、修理の考えを聞いて(p505)置かねばと私共両人は
相談していました。 其日一戦の時、 修理の部隊が追崩した城方の者達が天満の方へ敗走
するのを追討すると云い、 修理は天満川へ乗入れ其身は馬共に沈み落命しました。
従って私共は何も聞いて居らず、たいへんな粗忽な事で恐れ入りますと申上げた。 其後は何
の御尋もなかった。

其頃榊原遠江守の家老伊藤忠兵衛の倅采女と云う者から直訴があり、去る六日若江における
一戦の時、木村長門の左翼木村主計の部隊が遠江守部隊に近いので家中の者皆が攻撃
して討取ろうと云う思いでした。 しかし御旗本からの御検使藤田能登が私の親忠兵衛に向い
攻撃の間合いを見るので、 私(藤田)の指示があるまで一騎一人でも飛び出しては其方
(忠兵衛)の落度になると堅く言付けました。 その為親忠兵衛も其旨を守り一人も出ぬ様下知
して押留めている内に城兵は崩れて敗走しました。 家中の者達が一戦の機会を逸したのは
偏に忠兵衛の下知が良くなかったからと結論つけました。 その為忠兵衛は立場を失い、翌七日
天王寺一戦の時忠兵衛は多勢の敵中へ馳入り討死をしました。 この件を御吟味願いますとの
事である。

そこで藤田能登及び願人の采女共に出頭する様とあり、 采女は漸く十六歳になった計りであり
同家中伊奈主水と云う者が出頭し藤田能登と対決した。 その結果主水に利があり能登は改易
となった。

大坂に出陣した諸大名は京都へ上り、集った人々が二条城へ召されて大御所に御目見した時、
着座の書付を持った目付衆が列座を案内した。 此時松平(p506)伊予守忠昌は上総国姉ヶ崎
と云う所で一万石の身分なので表通りからは三番目程も後の方に着座していた。 そこへ大御所
の出座があり皆へ夫々上意があった。 皆頭を下げている後ろで忠昌が頭を上げ、松平伊予守
が此処に居りますと声高に申上げた。 大御所はそれを見て、其方は自身の手柄も立てたと感賞
の上意があったとの事である

大坂方の落人長宗我部盛親の嫡子右衛門太夫、大野道犬等が生捕りとなり、秀頼公の嫡子
国松丸は城中を免れたが伏見で誅殺された。
今度の大坂における戦いで幕府側が討取った総首数調査は伊東右馬助、永田善右衛門両名に
命じられたが、一万三千五百三十余である。
この内岡山の先手である加賀(前田)利常の所が三千余、越前(松平)忠直の所が三千六百余
其外は省略する。

慶長廿年六月十六日、大御所は朝廷に参内した。 年号も当七月より元和元年と改められ
天下泰平の御代となった。

  子や孫の為とばかりにしなしをく          *子や孫の為と計りに仕なし置く
         稗ましりの落穂なれとも              稗(ひえ)混じりの落穂(*稲穂)なれども

享保十二(1727年)丁未歳冬至日                大道寺知足軒(友山)
                                       八十九歳で是を認める

落穂集第十五巻 終(完了)

写本作成について
第一巻から第十二巻迄は天保三(1832年)十一月から天保四(1833年)四月迄時習館(熊本藩
藩校)の蔵書より写す。 第十二巻から最終十五巻迄は天保四四月廿八日から同五月十八日迄
横田氏家蔵本より益城下郡砥用郷柏川村山中で写す。 *熊本県下益城郡砥用町
                                          中村万喜直道

現代文訳について
早稲田大学図書館蔵の上記中村直道写本に基づき、平成廿七年三月ー十二月訳す。
                                             大船庵

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