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          落穂集第十四巻                   第十三巻へ戻る
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           14-1 両御所(大御所、将軍)の大坂出陣
慶長十九(1614)年十一月十五日将軍(秀忠)は伏見を出発し、その夜枚方に宿泊した。
十一月十六日朝十時、大御所は奈良を出発した。 この時本多上野介が、爰から御供の皆に
甲冑を着させましょうかと伺ったところ上意は、以前関ヶ原一戦の時、 江戸から来た人足御用を
勤める金六が具足を着て走り廻るのを村越茂助が見咎めて、町人の身分で具足を着用するとは
けしからんと云った所、今後を見て下さいと云った。 二日程すると道端の松の枝に具足が一領
掛っているので誰の具足か持ち主を探したところ金六のものと分った。 そこで金六を呼出して
調べたが、今まで着用していましたが走り回るのにたいへん邪魔になり、身体も痛くなるので
脱捨てましたと云ったと言う。 此辺より(p435)大坂迄は道のりも遠く、甲冑を着ていては疲れる
ので未だ着用を待つようにとあった。 その夜大御所は法隆寺に泊り、将軍は平岡に泊った。

十七日大御所は住吉へ移り、 将軍は平岡から平野へ陣を移した。 大御所は法隆寺出発に
際し、これ以後は諸軍勢は甲冑を着る様にと指示した。 この時金地院、林道春、興庵寺が甲冑
を着て御前へ出ると、私の幕下でも三人の法師が武装していると笑った。 この日住吉へ着陣
した時、将軍(秀忠)が訪れ対面し、尾張殿(義直)、駿河中将殿(頼宜)も参会したと云う。

十九日午前十一時、大御所は茶臼山へ行く。 此山は元来は荒陵との事で天王寺から五町程
南西に位置し、一般には茶臼山と云っていたが、これを勝山と改めた。 この時将軍も同行し、
尾張殿、駿河殿を始め譜代大名衆が御供をしたと云う。 ここで各軍の配備が決められ、大御所
の左は尾張宰相殿、右は駿河中将殿に横田甚右衛門を加え、軍奉行は永井右近とし、将軍の
左は高木主水組、右は阿部備中組で後には水野隼人、青山伯耆、本多三弥が加えられ軍奉行
は安藤対馬守となった。 この配備の書付を大御所自筆で将軍へ渡した。 大御所は素肌に鷹の
羽のちらし付で花色の羽織を着、帰りがけに堀端を見廻った。 それを見て城中から鉄炮を烈しく
打出したが静かに見分して住吉へ帰った。(p436)

船奉行の向井将監、九鬼大和守、千賀与八郎、小浜民部等は相談して新家村の敵と戦い、夫々
勝利を得て野田、福島、新家村の三ヶ所に陣を構えた。 この辺には大野修理の指示で大安宅船
及び其外番船を数十艘用意していた。 十九日の未明に九鬼の家来達が大安宅へ乗移るのを
見て小浜と千賀の配下が先を越されたと怒って船の矢間から鉄炮を打ち掛けた。 九鬼の配下は
大安宅の上へ乗り上り、船鉤で敵船を引寄せ、鎗や長刀で突き立てるので敵船は皆敗れたので
九鬼の部下は自分達に船印を敵船に掲げた。

その時向井将監は小船で来て敵船へ乗移り、向井将監一番乗りと大声で名乗りを上げた。 九鬼
の家来達はこれを聞いて、是は我々が捕獲した船なのに貴殿が一番と名乗る事は出来ません、
この船に乗せて置く訳に行きませんと云う。 将監は、九鬼は未だ来ていない、私が早く乗った
から一番と名乗ったもので問題ない筈であると云う。 九鬼の配下が尚も納得せず文句を云うと、
将監は刀の柄に手を掛けて無礼者と云って切り捨て様とする。 そこへ小浜や千賀も飛んできて
仲裁するところに九鬼も来た。 小浜、千賀は九鬼に向かい、貴殿の家来が乗っ取った船に将監
も同時に乗移り一番と名乗ったので貴殿の家来と争いになった。 将監が早く乗り移ったのを私
も見たので将監に渡されてはどうかと言う。 九鬼大和守はそれを聞て、船の一艘や二艘はその
通りで良いでしょうと応じて決着したと言う。
註: 安宅船 安土桃山時代から江戸初期の軍艦(全長50メートル程、200-300人乗り)。もっと
  小さくて動きの早い軍船として関船や小早は多数あった。

廿四日大御所は、大野壱岐守経由で前にも連絡あった和談について書状では解決しないので、
織田有楽斎か大野修理の配下で誰か(p437)信頼出来る者を一人宛出す様にと指示し、本多
上野介は与助と申者を使に出した。 有楽斎方からは村田喜蔵、大野方からは米村権右衛門の
両人が大坂城中より来て上野介と面会した。 和睦の条件を細かく説明し、其上今度秀頼卿から
諸大名へ依頼した書状に対する返書の報告が各大名から来ている物を両人に渡した。 これに
依ると大坂城中へ心を寄せている大名は一人もないので、若し諸大名が徳川を裏切る事に期待
しても無駄である、 和談などはタイミングもあるので今決心すべきと伝えた。
其後城中より前述両人が来て、大御所や将軍が来られた以上、外曲輪の矢倉を取払う事を伝えた
が上野介は、外曲輪は当然であるが、二の丸三の丸の曲輪も破却する様に云われていると答え
和談は延期となった。

廿五日大御所が茶臼山へ行くと諸大名も群参し、帰る時将軍が進上した黒粕毛の馬に乗ろうと
引寄せたところ城の方へ向かった嘶いた。 敵陣に向かって嘶く馬は珍しいものだと上意が
あった。 藤堂和泉守は、是は目出度い事の印ですと言えば大御所は機嫌よく近辺を二度程
乗り廻り諸大名は蹲踞してそれ見ていた。 私が若い頃は馬上で鷹を使い、鷹が取った鳥を
馬上で処理したものだが、今は馬に乗るだけでもたいへんだと上意があった。 和泉守は、
お元気な事ですと応じた。
          
             14-2 今福、鴫野の戦い
大阪方は志貴野(鴫野)と今福両所の堤に堀切柵をつけ昼(p438)夜番兵を置いて守らせていた。
この事が報告されると、直ぐに踏破れとの上意があり、上杉方へ佐久間河内と小栗又市、佐竹方
へは安藤治右衛門と屋代越中が検使として派遣された。
廿六日早朝、佐竹義宣旗下の先手の隊長渋江内膳、梅津半右衛門は今福堤の柵を破って押入る
と番兵矢野和泉、飯田左馬、平瀧の文殊院、粉川福常坊、鹿瀬内孫市等が弓鉄炮で防いだが
敵わず矢野和泉、飯田左馬等が討死した。 今福口は破れて城兵は全て敗走し、佐竹勢が片原
町へ押入ったとの報告で城中は動揺した。 

木村長門は銀の瓢箪の馬印で配下の者達を率いて今福へ向かった。 これを秀頼卿は菱矢倉の
上から見ていたが、側に居た後藤又兵衛に、木村は少数に見えるので其方も加勢せよと云う。 
そこで後藤は矢倉を下りて馬に打乗り、部下を宿所に返して組の者達皆今福へ行く様にと触れ、
私の具足も持って来るようにと云いつけた。 組の者達も駆けつけ、京橋の上で具足を着て今福
へ向かうと、木村は既に柵一重を取返し、更に佐竹勢と鉄炮を打ち合っている。 後藤が駆け寄り
木村に、貴殿の部隊は先程からの戦いに疲れているだろうから私が入れ替わります。 これは
秀頼公の指示もその通りですと云うと木村は、貴殿は多年の功労ある人です、私は今日初めての
一戦の機会であり今後の経験としたい。 今敵を圧倒するところをお見せしたいので暫く待って
下さいと云ったが(p439)、その通り機会を見て自身で鎗を取、配下を纏めながら遮二無二突いて
佐竹勢を追いたて、其後は後藤の配下も参加して戦った。

その時佐竹方の渋江内膳は鳥毛の羽織を着て馬を乗廻して味方に指示していたが、只者には
見えないので、木村と後藤配下の者達が我も我もと内膳を目掛けた。 そこで木村の配下の士に
井上甚兵衛と云う者が鉄炮を持っているので木村はこれを呼び、あの鳥毛の羽織を着た馬上の敵
打てと命じた。 甚兵衛は鉄炮を柵の横木に載せて狙い澄まして発砲したところ、渋江の胸板を
打ち貫き、渋江は落馬して絶命した。 その時後藤又兵衛も鉄炮に中ったが、其疵を探って見ると
以外に軽傷だった。 後藤が、未だ秀頼公の運は強いと言うのを聞いて、今度の戦いは後藤一人
が担っている様な言い方と噂した。

佐竹義宣が江戸を出陣する時は秋田からの部隊が到着して居らず、江戸駐在の人数だけ引連れ
この戦いに参加したので第一小部隊である。 其上渋江等が討死したので合戦も危なくなった。
川向こうでは柳原遠江守の先手部隊三百人程が待機していたが、私の指示無く戦いを挑む事
は決してならぬと兼ねて遠江守から命じられているので今福の競り合いを見物していた。 
しかし佐竹方が不利になるのを見て榊原先手の者達は我慢できず、三百計の中から河合三弥、
貴志角之丞、渡辺八郎五郎、清水 久三郎、白井平左衛門、佐野五右衛門、伴五左衛門、村上
九郎兵衛等が真先に川へ乗入れ、残る面々も我も我もと川を越へて掛って来る。 そこで木村も
後藤も今日の戦いは是迄として(p440)部隊を引揚げた。 佐竹勢も押掛け一戦を挑んだが朝昼
二度の戦に疲れ引分けとなった。

榊原勢先手の隊長伊藤忠兵衛が、私が指示しないのに皆が抜け駆けをしましたと報告したところ
遠江守は不機嫌で、人は軽く法は重い必ず処罰すると云ったが、 其日の晩方佐竹義宣方から
使者があり、 今日の一戦で味方が苦労しているところを御家来衆の加勢で運が向いて喜んで
いますと云って来たので抜け駆けの者達もお構いなしなった。
註:榊原遠江守(康勝1590-1615) 榊原式部大輔康政の三男、翌年の大坂夏陣後病死

同廿六日鴫野口へは上杉中納言景勝の部隊が未明に押寄せて柵を破り攻入った。 大坂方の
番兵竹田兵庫、小早川左兵衛、岡村百之助以下防戦したが敵わずに柵の内へ引き退き既に
敗走し始めた時、天満の工事に居合せた秀頼親衛隊七組の青木民部始め速水、中島、野々村
真野、堀田以下の面々が鴫野口へ馳せ向かった。 城中にも是が報告されたので渡辺内蔵助、
木村主計、竹田永翁、大野修理の配下の者達が駆けつけ上杉勢と戦った。 城方の竹田兵庫、
同大助、小早川左兵衛、岡村百之助等が討死をし上杉方が勝利を得た。 城方は敗軍したが
中でも渡辺内蔵助部隊の敗走ぶりは見苦しかった。 合戦詳細は難波戦記等の書にも記述ある。

鴫野と今福における朝昼二度の合戦の状況を秀頼卿は菱矢倉の上から見ていた。 特に今福の
件は後藤が直接秀頼卿に報告した事もあり、以後木村は益々覚え目出度く、一方渡辺は日頃の
大言に反してたいした事もない。 秀頼卿も見限った様だと城中の諸人の態度も木村を誉めて、
渡辺を悪く言う様になった(p441)

廿七日は雨が降り松平陸奥守方より、今日のしめりは幸です、風向きも良く天満、船場辺りに
放火してはどうでしょうかと伺う為山岡志摩と云う者を派遣した。 山岡は大御所陣所へ参上して
猪の着物を門前に置き陣営に入った。 御前にでる時本多上野介が、使者は土足の様子ですと
報告したが其の侭面会した。 山岡を久し振りで御覧になり、たいへん健康そうだと上意があり
湯漬などが振舞われた。 山岡はこの時八十を超えた年齢だった。
註:山岡志摩(重長1553-1626) 松平陸奥守(伊達政宗)の重臣、この時は未だ六十代の筈。
  家康とは関ヶ原戦の前後面会している。 

陣営中に御使番の小栗又市、佐久間河内、山本新五左衛門の三人が集っていたが、小栗が
山本に向って、今度の御使番衆の中に臆病者がいる、 諸大名の陣所へ御使に行っても防弾用
の竹束から外へ出る事もできず諸家の物笑いになっている。 これは同役の我々に取て恥ずべき
事であると云う。 佐久間は聞かぬ振りをしていたが、 山本は日頃小栗と親しい仲であるので
聞咎め、貴殿は良く考えずに人の事を言う、誰が命を惜しんで臆病となる者があるかと苦々しく
云った。 又市は笑って、貴殿の事を言っているのではない、臆病者の咄をしているのだ。 臆病
の覚へが有る者こそ聞咎める筈だと大声で云う。 この時御前には本多佐渡守、同上野介、
西尾丹後守の三人が居たが、上野介が立って次ぎの間に行き何事かと尋ねた。

この人が斯々云々と説明すると上野介は笑いながら三人の前に来て、皆さんの様な古参各位が
武道の事を厳しく云われ、若い者達が発奮する事になれば上の為にも喜ばしい事です。 そんな
穿鑿はどんなにされても(p442)良いでしょうと云った。 其後御前から御酒を戴き、寒くなると老人
は特にたいへんだと思うので諸番の中から若い者を一人宛撰んで御使役とするので、その様に
心得よとの事であった。 但し伍の字の着物は若い者には未だ使用させないとの事である。

大御所が鴫野口を巡見して上杉景勝の陣場を通った時、直江山城守が指揮して城へ向って一斉
射撃を行い、景勝も出て面会した。 その時、其方家中の士は下々に至る迄たいへん骨を折り、
昼夜の勤務御苦労であると上意があった。 景勝は、皆子供の喧嘩の様なものですから、それ程
骨折でもありませんと応じた。 大将が巡見する時に城へ鉄炮を打掛けるという事は故実であるが
さすがに上杉家程の事はあるとの上意があったと云う

             14-3 大坂城攻撃開始
中井大和を召して来月四日(十二月四日)勝山へ陣を移すので、船場辺の町屋を取り壊して
陣営を構築する様に指示があった。
堺や大坂近在の百姓を召出し、年内から真桑瓜の種を多く準備し来夏に諸国の軍勢が食べるに
不足ない様、作付けするよう指示して瓜種を用意して支給した。 これを聞いて寄手(関東方)も
この在陣は長くなると予想し、城中(大坂方)へもこの咄が聞こえて上下共に飽きてきた。
註 中井大和守(正清1565-1619) 家康側近の大工棟梁、畿内近江六国の大工を支配した。

十二月二日、城方の後藤又兵衛は巡回して京橋を始めとして各橋を全て焼き落させたが、本町
一つは残っている。 又兵衛は何故この橋だけ焼かないのだと咎めれば、大野主馬(p443)は、
この辺は私の持場であり貴殿の指図は通用しないと云う。 後藤は、全ての橋を焼くのは私の
一存だけではなく、 上からの指示であるので我侭は許されませんと口論となった。 そこへ
塙(ばん)団右衛門が駈け付けて後藤に向かい、橋については拙者が機会を見て焼かせるので
貴殿は先ず帰られよ、という事で又兵衛が帰ったので其場は治まった。 主馬はその時から是非
一夜討を掛けたい考えがあり橋を確保したものと言う。
註 大野主馬(治房1570-1615) 大野修理亮治長の弟、主戦派の中心人物

両御所(将軍、大御所)共に陣替を行うので、十二月一日二日両日の間に先手の各部隊は城
近くに陣を移す様にとの指示と共に、諸軍勢とも整然と静かに移動せよと使番衆が云い廻った。
そこで諸軍共に物静かに陣替をしていたが、井伊掃部頭部隊だけは陣替すると直ぐに城中へ
一斉射撃を行い勝鬨を上げた。 これにより城中は勿論、寄手の諸軍共に色めき騒いだので
将軍も驚き、 直孝(井伊)は兄の代理で佐和山の部隊を引連れて来たので、目立ちたがって
やったのだろうが大御所の御機嫌が心配だと本多佐渡守を急遽呼び、 掃部の指示ではなく
先手の隊長の不始末ですと報告して井伊家家老の一二名の落度で治まる様に取り計らえとの
事で佐渡守が住吉の大御所本陣へ参上した。 

佐渡守も御前で何と云おうかと思案していると、其方は何の用で来たのか、 多分今朝陣替の時、
掃部の部隊が一斉射撃をして勝鬨を上げさせた事ではないか、 さすが掃部(直孝)は兵部(直政)
の子だけの事はある。 陣替の時城中へ一斉射撃で一味付けた事で将軍も感激して、(p444)
其事を知らせに来たかと上意があった。 そこで佐渡守はにっこり笑い、その事です、親子様の
考えが是ほど同じになるとは不思議な事です。 将軍も掃部の指示をたいへん感心して、報告
の為私を遣わされたのですと申上げた。

真田丸から見て南の方にある伯母瀬の笹山と云う小山があり、ここへ城中から時々足軽を出し
鉄炮を打たせた。 加賀筑前守利常(前田家)の家老本多安房守は配下の部隊と打ち合わせ
十二月四日の夜明け前、伯母瀬山を取巻いて草を分けて探したが人一人も発見できなかった。
その時本多と並列に布陣していた山崎長門入道閑斎はそうとは知らず、本多に先を越されたと
思い急に部隊を進め、伯母瀬山を駆け抜けて真田丸(出丸)へ押寄せた。 それを見た本多は
山崎には負けられぬと未だ暗い内で行く先もよく分らぬまま真田丸堀際に押寄せた。 急な事で
鉄炮の楯とする竹束なども用意もないまま堀際に集った。 それを聞き越前(松平忠直)や佐和山
(井伊直孝)の軍勢も駆けつけたので出丸の堀端は寄手の軍勢で隙間もなかった。
註: 真田丸 真田幸村が大阪城南東(玉造口)の外側に築いた出城、 第十三巻に見える

間もなく東の空が白んでくると、出丸の矢倉の上から雨が降る様に鉄炮が打ちかけられたので、
寄手の軍勢に無数の死傷者が出た。 両御所は機嫌悪く使番衆を派遣し早々引揚げる様触れ
させたが、互いに先に引揚げる事を恥じてぐずぐずしている。 そこで家老安藤帯刀直次を呼び、
其方が行って引揚げさせよと指示があった。 直次は、誰の家中であろうと一番に押寄せた所から
引き上げよと命じたので先ず加賀の部隊が引き、続いて夫々引揚げた。 其後加州利常を始め
越前忠直(p445)、井伊直孝等へ、誰の行動で一番に攻め掛ったのかと調査があったが、皆同じく
家中の若者達がやった事ですと言訳して決着した。 

其時井伊直孝の家老木俣右京は一番に押掛け、其上負傷もした事が将軍に聞こえ、掃部の家中
で模範となるべき者が何と言う事だ、今後外様大名の統制の為にも有ってはならぬ事で掃部頭に
厳しく云うべきと考えた。 この事が大御所に聞こえると安藤直次を通じて、一般に戦場に臨み
身命を惜しまずに人に先駆ける事は中々できぬ事だから放置せよと良く将軍に伝えよとの上意
だった。  木俣右京が特にお咎めも無いと云う事になり、掃部頭も負傷の見舞いに木俣の小屋
を訪れた。

同じ井伊家家老の川手主水は是を聞いて、最初から命令を守っていた私が誉められる事もなく、
軍律を乱した右京が親しくされるのでは私の立場がない。 私の部隊だけで真田丸に押寄せて
討死せぬ訳に行かぬと準備を始めた。 直孝はこれを聞いてたいへん驚いて主水を呼び、私が
間違っていた、堪忍してくれ。 今後何かあれば必ず其方を先手とするからと云う事で収まった。
翌年夏の陣の時、若江で主水が態と討死したのはこの事が原因と皆が言い合った。

この出丸を攻めたとき諸部隊の中で勝れた働きをした人々は多いが、中でも松平出羽守直政は
其頃未だ若年だったがその活躍、及び幡勘兵衛景憲は酒はやしの旗差物を堀底へ落したが、
塀裏からの烈しい鉄炮の中で取って帰った事などがその頃賞賛された。(p446)
註1. 松平出羽守(直政1601-1666) 結城秀康三男、後松江藩主
註2.小幡勘兵衛(景憲1572-1663) 後甲州流軍学者として著名、作者大道寺友山の師

松平肥前守利常の攻城陣地の見分の為、使番の井上外記と安藤治右衛門の両人が訪れた
時玉造り口の辺に城兵十人程見えた。 外記は鉄炮で敵一人を手際よく打倒したので
かなり遠いのにと皆が腕を誉めた。 治右衛門は外記に、貴殿は鉄炮の達人なのに余計な事
をする。 理由は明日から此辺の陣地は難しくなる。 敵兵一人討取った事から敵は間合いを
見る事ができると云った。 果たして翌日大御所が此処を見廻った時、御供の北見長十郎(後
の名前五郎左衛門)の振袖に城中から打った鉄炮の玉が中った。 長十郎は少しも騒がず、
その袖を見せ、此処には鉄炮の玉が来ますと云ったが大御所は退避しなかった。 そこで安藤
治右衛門は、井伊掃部頭の攻城陣地には鉄炮玉が烈しく来ますが少しご見分されますかと
言うと、それでは行こうと馬で立寄ったがそれ程鉄炮玉は来なかった。

大御所が茶臼山へ行きその後城の堀際近く迄馬を乗寄せた所、 城中の者が気付き矢ざまを
開いたり或いは塀の上に乗り鉄炮を烈しく打ち出した。 お供は馬の口にすがり、危険ですと
云ったが聞き入れず皆手に汗握っていた。 そこへ横田甚右衛門が進み出て、生れつけ此殿
はこの様な矢鉄炮の厳しい所がお好きなのだ、皆そこから下がりなさいと云って馬之口に取り
付き、船場方面には城中から大砲を打出しており、味方がたいへん苦戦しています、少し御覧
になりませんかと云い、馬の鼻を西側に向けたので、それでは其辺を見ようかと船場の蜂須賀
阿波守(p447)の陣屋へ入った。

大御所の御前で本多佐渡守が、御前様は頻繁に城廻りを巡見されますが、将軍にも巡見に
お出かけ戴きましょうかと伺った。 大御所は笑いながら、私は若い頃から敵と対峙しており、
陣中に居た記憶はない、 しかし大将の考え次第であると上意があった。 佐渡守は驚いて
早速岡山の本陣へ帰り報告したので、其後は将軍も度々巡見に出馬した。

              14-4 和談の動き
大御所の命令で備前島の菅沼織部の攻め口から大砲百挺を揃えて城中へ打ち込んだ。 又
玉造口の攻口から千畳敷広間を目標に大砲を打ち込んだ。 ある朝城中屋形の三の間という
所に女中が多数集り朝茶を呑んでいたが、そこへ大砲の玉が一つ飛んで来て茶たんすを打ち
砕いた。 女中達は肝を潰して其悲鳴が淀殿の居間へも響いた。 夫以後淀殿も軟化して、
何とか和談に持ち込めないか、秀頼卿の為ならば自身が江戸へ下ることも厭わないと言って
織田有楽斎、大野修理にその旨を伝えた。 しかし秀頼が承知しないので、それでは近習の
幹部に諌言させようと相談した。 しかし渡辺内蔵助は鴫野の一戦以後秀頼の信頼を失い、
薄田隼人も馬喰か渕の出曲輪を取られた事で、日頃の力自慢程でないと城中の人々に
云われているのを恥じて万事控え目である。 木村長門守は後藤が証人として今福での働き
を秀頼に報告したので、従来に倍して信頼されているので木村に言わせ様となった。

有楽斎と修理は木村長門を(p448)閑所へ招いて、和談の上淀殿を江戸へ差出すべきと
秀頼卿に申上げてくれと説得した。 木村は両人へ向かって、今皆さんの言われる事は最初
に片桐が云った事と全く同じです、 今になってその様な事を申上げる事は私はできません、
皆さんに何度でも申上げますが、 今此様になった事もつまる所秀頼様の運が尽きたと歎く
以外ありませんと言うので両人も呆れ果てた。 其後後藤からも強く進言したので秀頼も納得
して和談に向けて動き出した。
著者註: この事は難波戦記等には見えないが、牧尾是休斎が語るのを聞いて書留めた。

城方の大野主馬は道頓堀筋を担当して守り堅めていたが、関東勢が船場を乗越えて土佐堀
阿波座近辺迄占拠したので、兎に角下町筋は捨てて上町だけを堅め様という評議により、
秀頼卿から其旨命ぜられた。 そこで下町方面を守っていた各部隊は了解したが、主馬一人
は同意せず、此主馬一人は捨て殺しにして下さいと云って引払わなかった。 或日主馬を急
な用事と云い城内へ呼寄せ、其留守の間に城中から隠密が出て今福方面から長堀に放火
して焼き上げたところ、折から風が強く道頓堀筋は風下故一気に燃え広がった。 主馬の陣所
へも火が掛ったので武器や馬具等は取り敢えず上町に移した。

塙団右衛門の部隊は武器だけは全て持って本町橋を渡り城内へ入った。 その時この口を
担当している織田左門の家老、今中右馬之助が出入りを検閲しているので団右衛門は彼に、
今宵のやり方は考えの浅い判断で残念な事だと云った。 そこへ織田左門が塙を見付けて、
其方の(p449)差し金で主馬に強く意見をしたと云うが言語道断の失策だと云う。 団右衛門
は怒って、是迄多くの戦いに参加してきたが、陣払いもせぬ内に自分の陣を焼く様な愚かな
事は見た事がない、 さぞ関東方の笑い種になっている事だろう。 しかし此団右衛門の配下
の者は矢一本も残していない、その事は後日明らかになるだろうと返答した。

そんな中蜂須賀阿波守が本町筋御堂辺に陣を構える小屋の前に、主馬の配下が退く時捨てた
旗指物を立て並べて物笑いになっていた。 城中にもこの事が聞こえたので主馬は心外に思い、
塙団右衛門、御宿越前などと密談し、蜂須賀の部隊へ一夜討する事を企てた。 併し色々支障
もあり延び延びになっていると十二月上旬の頃から和談の噂が頻りに出てきた。 明日にも和談
が決まっては残念だと、十二月十六日の夜に決行と決めて内密に伺いを立てたところ、秀頼卿も
賛成し、夜討の時門通行の為に林伊兵衛と云う目付役の侍を一人主馬方へ添えた。

秀頼卿の命として夜討の隊長は主馬組では塙団右衛門とし、夜討に出る部隊は八十人、但し
年齢十六歳より五十歳迄の者だけを撰ぶと云う事だった。 この時若し負傷などした時のため
家来一人宛連れて行く事も了解された。 そこへ米田監物と上条又八の両人が団右衛門方へ
来て、夜討の人数に加りたいと云う。 又八は独身であるから了解したが、他人への配慮から
(p450)その時に望んで参加した事にすると団右衛門が云うので、昼間から団右衛門小屋に
隠れて居り夜皆と一緒に出て行った。 
米田は部下を持つ身だからと参加拒否されたが御宿越前は、本町北の角の池田宮内少の陣
は蜂須賀家の陣所に近いので、夜討を掛けた時池田の部隊が横から攻めて来る事も予想される、
米田の部隊はその押さえとして参加されたいとの評定になり、米田部隊は夜討部隊が出払った
後に付いて出発する手筈となった。 出発の時門の扉に塙団右衛門と御宿越前が鎗の石突を
入れ違いにして一人宛出した。

蜂須賀陣場近くに寄って見たところ 篝を焚いて居る者は何れも眠って油断している。 そこへ
押掛けたのでたいへんな騒動になったが、蜂須賀方の稲田修理及び同九郎兵衛父子を始め
配下の者を手早く纏めて出合った。 中村右近は白い小袖を上着にして鎗を持ち一人で駈出す
のを主馬組の木村喜左衛門が右近に鎗を付けたが、稲田修理が駆けつけて喜左衛門を突倒す
それを見て主馬組の牧野源太、畑角太夫、田屋馬之助等が駆けつけたので修理は引き退いた。
塙団右衛門配下の生駒又右衛門が最初に首を取り、主馬方へ持たせた。 又繰り込んで中村
右近が倒れているので行掛りに首を取ろうとした所に、九郎兵衛十五歳が其辺に控えていたが
是を見つけて、又右衛門を突伏せて則首を取り、右近の死骸を指示して引取らせたと言う。 
其夜団右衛門の配下が討取った首は廿三級だった。 今宵夜討の大将塙団右衛門と書付た札
を多数戦場にばら撒いたので団右衛門の働きは広く知られた。(p451)

稲田修理の老父宗心は嫡孫九郎兵衛の初陣が心配で、隠居の身だったが主人阿波守へ断り
大坂へ来た。 陣中では九郎兵衛と一所に寝ていたが十六日の夜急にに起上って九郎兵衛を
呼起して息子修理方へ使いを送り、今宵城中より夜討を掛けるかも知れない、外の陣に云わず
自分の部隊だけは準備して置く様にと伝えた。 そして自身は九郎兵衛に具足を着けさせた。
稲田修理を始め家来達も、昼も変わらぬ様な月夜に夜討があると宗心は言うが理解できない、
少しボケてきたのでは思ったが程なく城兵が攻めてきた。 修理九郎兵衛父子は勿論、家来達も
全て準備ができていた。 宗心は古老の者だけあって平常を知り、変を知ると云う兵法に通じて
いたのである。

其頃大御所からの指示で、今後各攻口は大砲だけでなく、鉄炮の一斉射撃を行い、時刻に関係
なく鬨の声を揚げる様にと触れた。 全ての寄手がそれを実行したので城中の人々はたいへん
困った。
十二月十八日本多佐渡守に指示して阿茶局を同道して京極若狭守陣所へ行き、若狭守の老母
常高院を城中から呼出して和談の打合せを行い、両人は茶臼山へ帰り常高院は城内へ帰った。
十九日若狭守陣所にて常高院と上野介、阿茶局の会談があった。 関東方の軍勢で城の惣構
を取払い、 城内の軍勢で二三の丸の塀・柵を取払わせ、そこに両御所が出馬して、その上で
誓詞を調える(p452)様にという事で大体決まった。
註1 常高院 浅井長政の三人娘の真中で京極高次の正室、姉は淀、妹は秀忠御台所、於江
註2 阿茶の局(1555-1637) 家康の側室、雲光院

十二月廿日の朝本多上野介より有楽斎と大野修理方への申入れは、 上々様方は一旦は武力
行使に及ばれたが、親子の契約のみならず縁戚関係も色々あり内々では和談も大体済んで
居りますが、表向きに何も動きが無いのは御両所の考えで進めた内々の和談に何か問題がある
のかと疑問も持って居られます。 早々に手続きをとられるべきで、延引すれば内々で済ませた
御両所の立場がありません。 そのため内意を申入れますとの事である。 
有楽修理両人共にたいへん驚いて村田喜蔵と米田権右衛門を送って返答した事は、上々様方
のご内意が済んで居れば、下々がとやかく言う事はありません、我々が尊重する事は後ほど申し
上げますとの事であった。 
註 徳川家と豊臣家の姻戚関係: 秀頼の正室千姫は秀忠娘で家康孫、 淀と秀忠正室は姉妹

仲裁について満足との事で淀殿の方から大御所に常高院、二位局、大蔵局三人を使として時服
三重、緞子三十巻が贈られたた。 これで上の方は通じたという事で其日有楽斎と大野修理から
和談の件に付いては私共は少しも異論ないと云う確認のため、織田武蔵守(有楽斎子)と大野
信濃守(修理亮の子)の両人を証人として差出したので、則本多上野介が預かった。 
秀頼卿の判元を確認するため板倉内膳正が派遣された。
註 大蔵局(?-1615) 大野治長、治房兄弟の母、淀の乳母

廿一日和談が済み誓詞の取替しとなった。 大御所の筆元拝見として大坂方から木村長門守と
郡主馬が派遣された。 誓詞の面に判を押した物を長門守が拝見して、秀頼はこれで何の依存
も無いでしょうが、母公は女性であるので今少し御血判を鮮やかにして下さいませんかと云えば
大御所は、 私は(p453)は年寄りで指に血もないぞと云いながら女中方に手を差出し、針で指を
突き判形の上にたっぷりと血を注いだ。 上野介が取り次ぐと長門守は謹んで受取り上野介に、
この様な和談が調った事は私なぞたいへん目出度い事で恐悦に存じますと云って御前を去った。
この時御前伺公の人々は若輩の長門守は不遜の振舞いで無礼だと思ったが、その後上野介が
御前に出た時、其方は長門の年を知っているかと質問があり、廿三四歳程になると聞いております
と答えたが、美男のせいか夫より若く見える、 彼が年を重ねたらどんな人物になるだろうと上意が
あった。 それ以後上野介家中では長門守の事を皆留意する様になったと五十幡谷泉が語った。
註 木村長門守(重成1593-1615) 秀頼近習

               14-5 大坂城総堀埋め立て
十二月廿二日、大御所は安藤帯刀、成瀬隼人、永井右近を召して大坂城諸口の陣地を引払い
本陣に合流する様に指示し、松平下総守、本多美濃守に佐久間河内、瀧川豊前、山城宮内、
山本新五左衛門等を添えて大坂城四門の警固を行い、 関係者以外の出入りを堅く禁じた。 
同廿三日より総軍勢で城の総構えの堀を埋め立てた。

廿四日織田有楽と大野修理が茶臼山へ御目見に参上して呉服三重宛献上した。 本多佐渡守と
藤堂和泉守が挨拶に出た。 有楽斎と修理は大御所に面会し修理へは特に親しい言葉があった
と言う。 織田有楽は面会終了後、 次の間で近習衆に向い和談が調い平和の世になり、老後を
安楽に(p454)暮らせる事は私としても嬉しいと茶を立てる仕草をしたと言う。 この日今度戦に
参加した諸大名全員が茶臼山の陣営へ参上して、和平の悦びを申上げた。

大御所は蜂須賀至鎮を召して今度の軍功を賞美し、又同家の家来へも面会し、稲田宗心と林
道感の両人には黄金百両宛下された。 稲田修理、同九郎兵衛父子は感状に刀を添えて
下された。 其外山田織部、樋口内膳助、 森甚五兵衛、岩田七左衛門、森甚太夫等には感状
に時服を添えて与えられた。 その時御側衆に、子供の名前を付ける時はよく考えるのが良い、
あの九郎兵衛は当年十五歳と云うのに九郎兵衛等と大人っぽい名前を付けたのは残念である。
何丸とか何若とか名付けて置けば今度の働きも特別に奇特な事と人々が思うだろうにと上意が
あった。

大御所は帰路に付く前、本多上野介正純を召して、当城の総構へは勿論、二の丸、三の丸の
堀も埋めさせよ、埋め方は三歳の子供でも自由に歩行できる位の積りでと指示した。 
大御所が京都へ去った後、 上野介方から城中へ、二三の曲輪は城方で取払う約束ですが、
遠国の軍勢は工事が終わる迄在陣するのはたいへんなので手伝って早く終わる様にと願うので
その意に任せたいと断り堀を埋め始めた。 有楽、修理方よりも奉行人を出して、和談の時に
合意された事は二の丸、三の丸の塀を取払う迄で、堀迄埋めます(p455)と言うのは早合点で、
それは不要として断る様に指示した。 しかし諸家から出した奉行役の侍達は口々に、その様な
お約束と云われても私共は聞いておりません、堀を埋めさせよと主人達から言われておりますと
答え、猶一層精を出して埋め立てた。 有楽、修理は怒って上野介方へ抗議したが、上野介は
昨夜より酷い風邪で寝ておりますと取次の者が云って埒が明かない。 その内堀の埋立はどん
どんと進んだ。

廿五日、大御所は大坂を出発して帰路についた。
廿八日、大御所は大坂在陣中に度々勅使を下されたお礼として朝廷に参内した。
慶長廿年(1615)正月三日、大御所は京都を出発し駿府へ帰城した。
正月十日、将軍の使者として安藤治右衛門と佐久間河内が駿府へ参上して、大坂城の壁を毀し
堀を埋めた事を報告した。

将軍は更に岡山に在陣して、大坂城廻りの破却を指示し、正月十一日蜂須賀阿波守を召して
軍功を賞美し、松平の称号を許すと共に感状及び刀等与えた。 又先日大御所より賞された
家来の面々へも感状と拝領物を下された。 又佐竹義宣の家来梅津半右衛門、大塚九郎兵衛、
黒沢甚兵衛、戸村十太夫等にも感状に呉服御羽織を添えて下された。 上杉景勝の家来杉原
常陸、須田大炊、鉄孫左衛門等にも感状、黄金、呉服等が下された。
正月十九日、将軍は大坂より伏見城へ帰り、廿七日参内(p456)の後、翌廿八日京都を出馬し
江戸へ向かった。

二月廿三日松平左衛門督忠継(池田忠継、家康外孫)は急病で備前の国で卒去、年十七才
此月大御所は駿府に井伊掃部頭直孝を召して、其方の兄右衛門大夫は常に病気で勤務も
侭ならず去年の大坂の陣(冬の陣)でも其方を代理として差出した。 外の事とは違い外様大名
達も知っている事である。 しかし病気では止むを得ないので親兵部(故直政)の跡取りは其方
にさせる。 其方の今の領知である上州安中三万石の所は右衛門大夫に代わりに与えると
言渡された。

掃部頭は安藤対馬守を通して、たいへん有り難い上意ではありますが、兄弟の倫理を乱し弟の
身として其家を継ぐ事は不義の至りですから御請けできませんと言う。 対馬守はその趣意を
報告したが大御所の許容がないので、曲げて御請けするよう説得したが掃部頭もこれは幾重にも
御辞退申上げると云う。 そこで対馬守は直孝に向かって、云う迄もありませんが、大事な事です
から十分考えて下さい。 若し貴殿が辞退したからと云って軍役等の勤めもできない人を其の侭
佐和山の城地に置かれる事はないでしょう。 そうなると故兵部殿の跡に上は貴殿を立てられた
が貴殿の辞退でこれが潰れます。 そうなると大勢の家中が非常に困難に陥る事が気の毒です
と対馬守が言うと直孝もたいへん困惑し、その様な事なら異議なく御請けしますと決着した。

三月五日、京都板倉伊賀守方より注進があり、大坂では再び(p457)反逆の兆しがあり、 米大豆
を買調へて城中へ取入れています。 昨冬埋めた堀の土を上げて浅い所で腰丈、深い所は肩を
越える程です。 浪人達も多数寄集り、京都を焼払うと云う風説も頻りの様ですと報告した。 しかし
大坂城中ではこの情報が大御所に通じているとは知らず、青木民部少輔、大蔵卿、二位尼三人を
駿府へ派遣し、去年は旱魃と兵乱の為、摂津及び河内の耕作は損亡が多く、蔵入りの米は今迄
に無く少なくなりました。 城中が苦しんでおりますので御援助下されたいと云って来た。
大御所は先に伊賀守方からの注進に依って全て承知していたが、何も知らない事にして青木に、
私は隠居の身であるから江戸に行って将軍に頼むなら何か方策もあるだろうと応じた。 青木は
江戸へ向い両女は駿府に留った。
註; 豊臣秀頼の領知は摂津及び河内国の二カ国

四月一日、松平下総守と本多美濃守は京都東寺七条の間に陣取り王城警固を命ぜられた。
大阪城中では織田左門頼長が城中全軍の指揮を任される積りでいたが衆議が纏まらなかった。
左門頼長は、私は信長の甥であるから城中の指揮を任せらるべきであるが、認められないなら
止むを得ない、 籠城する価値なし云って京都へ帰った。 織田有楽斎も正月中に京都へ
退去した。
註:織田有楽斎(長益1547-1622)織田信長弟、 織田左門(頼長1582-1620)有楽斎の二男

            14-6 第二次大坂戦争(大坂夏の陣)の足音
大阪へ出陣として大御所は四月四日駿府を出立、同十八日に京都到着二条城へ入る。 将軍
は四月十日江戸城を出馬し、道中急いだが大軍の事なので編成は捗らなかった。 その時巷
では、大御所は大坂へ着陣次第、畿内と中国だけの軍勢(p458)で攻める考えではと予想も
あった。 将軍はこれを聞いてたいへん驚き、自分が着陣する迄大御所の二条城からの出発を
遅らせる様にと藤堂和泉守と本多上野介の両人へ内々で指示した。

四月廿一日、将軍は伏見へ着陣すると直ぐに二条城に行き大御所と対面した。 大御所は来る
廿八日に大坂へ出馬するとの上意であるので、とも角もお考え通りと云う事にし其後藤堂和泉守
を通して加賀、越前、出羽、奥州の軍勢が参陣するまで一週間程の出陣延期を交渉した。 
大御所の考えは、今度は城廻りの要害がないので、大坂方は籠城して防禦する事は止めて城兵
は城外に出て一戦するという評議になる事は明白である、 遠国軍勢を待つ迄も無い。 仮令敵
の人数がどれ程あっても野合の衆であるから片端から追崩して決着を付けるので、兎に角廿八日
に出陣すると云う。 

将軍は伏見へ帰り翌朝早天に二条城へ参上して、 昨日も申上げた通り、廿八日に出馬なさる
件は延引お願いしますと直接申上げた。 大御所は、前に和泉守にも云った様に野合の衆との
合戦は人数の多少には依らない。 私も老年であり今度が最後の合戦となるので、私が先手を
勤めるので、その積りで居られよとの上意である。 将軍は、お気持ちは分りますが、この様な事は
諸家の記録にも記され末代迄残ります、 御前様が先手で私が後となれば天下の語り草になり
迷惑此上もありません、(p459)これは幾度でも御断わりしますと云うが大御所は聞き入れない。

そこで大御所は本多佐渡守へ向かって、将軍はあの様に云うが、今度の一戦は私の一身に掛け
先へと言うぞと上意があった。 佐渡守は御前に進み出て、その様に親子様同志で水掛論を
為さっては解決しません。 先手は古法の示す通りに為さるのが良いでしょうと言う。 大御所は
佐渡守の古法とは何かと問うと佐渡守は、私なぞが聞いているのは古来より先手は少しでも敵地
に近い方が勤めると云います。 その場合将軍は伏見に在城ですから、先手を勤めるのが当然で
大御所が先手をと言われるのはご無理ですと云う。 大御所は、佐渡守は以外と古法に通じて
いたかと笑い、それなら将軍が先手を勤めるのが良いと決まった。

この後佐渡守がどうしても廿八日に出馬されますかと伺ったところ、遠国の軍勢が到着しない場合
五月一日迄延ばそう、今度は手間が掛らないので、兵糧補給運送などもせず各軍勢は手持ちの
腰兵糧だけで出陣する様にと触れよとのなった。 其後本多上野介が出て陣支度の事を伺うと
全て五日分と指示あったが、その後米五升の積りで全て支度する様に台所方役人へ伝える様に
と上意があった。
著者註 この件は旧記にも概略載っているが、爰に書留めたのは喜多見宗幽が浅野因幡守殿へ
     語った事である(p460)
            
四月廿三日、京極若狭守の母である常高院を通して城内へ和談を勧めたが秀頼卿、母公共に
拒否した。
大阪城中では秀頼が古新の諸侍を呼び集め戦の評議を行った。 皆は天王寺に堀切をして
逆茂木の柵を設けて一戦を行うのが良いとなった。 その時後藤又兵衛の意見として、平地の
合戦で大御所と勝負を争う者がいるだろうか、否とても我々が及ぶものではない。 利の得失は
あるが、国府越、くらかり峠、新条越、立田越等の険阻地へ軍勢を配備して防戦する以外
考えられません。 大軍を平地へ誘い込み一戦をすると云う相談であれば此又兵衛は参加
しませんと云うので、皆後藤に一理あると云う事になった。

それでは大和口の一の先手は又兵衛に任せようとなった。 配備の状況は一の先手後藤又兵衛
に続き、薄田隼人、槙嶋玄蕃、井上小左衛門、山川帯刀、北川次郎兵衛、山本左兵衛、大久保
左兵衛、吉田九郎八郎である。 二の先手は真田左衛門、毛利豊前、明石掃部、長岡与五郎、
小倉佐左衛門、渡辺内蔵助、大谷大学、伊木七郎右衛門、大野修理は此手に加る事になった。

その時大野主馬方から先に間者として送り込んだ北村吉太夫と大野弥五左衛門の両人からの
連絡があり、 紀州方面の一揆は順調で熊野と有田筋、高野山下の者達は皆大坂方の味方
になります。 そこで泉州志達に在陣している浅野但馬守を大坂勢が攻めれば、後から彼等が
押寄せて(p461)前後を挟んで但馬守を討果す事が可能ですとあった。 大野主馬はたいへん
悦び、急に出陣の支度が調い次第出発して阿倍野で勢揃いすると触れた。

浅野但馬守の旗本は泉州志達に陣取り、先手の家老浅野左衛門佐及び浅野右近の両人は
番頭、惣侍、足軽等を率いて佐野村へ進出して陣を構えた。 そこで左衛門佐に知らせた者が
有り、大坂方からの間者二人を捕らえようとした。 大野弥五左衛門は気付き逃げようとしたので
その場で切殺し、北村は生捕り牢に入れておいた。 この事は当分大坂方には知られなかった。
註: 浅野但馬守(長晟1547-1677)兄幸長が嗣子なく病死した為紀州の家督継ぐが、土着勢力
   の一揆に悩まされる。 後に芸州広島に加増所替

廿六日大御所と将軍は今度大坂に出発にあたり水野日向守を二条城内へ呼んで、其方は
大和組の諸部隊を指図する様にと言渡した。 大和組とは松倉豊後守、神保長三郎、別所
孫次郎、桑山伊賀守、同左衛門佐、本多左兵衛、多賀左近、秋山右近、藤堂将監、村越
三十郎、甲斐庄喜右衛門、山岡図書、奥田三郎右衛門等であり、丹羽勘助、堀丹後守なとも
この軍勢に加わった。

廿七日水野日向守は鳥羽を出発して大和路へ向かうが、大坂勢が生駒山を越えて放火をして
いると聞こえたので道を急いだ。 その頃松倉豊後守は五条二見に在城していたが大坂勢が
生駒山を越へて放火をしている聞き、自分の小部隊を率いて五条を出て大坂勢へ馳向った。
道筋に居住する大和小身衆も早々出陣せよと触れたが、皆既に法隆寺へ寄集り不在である。
その中で藤堂将監一人は松倉に加わり、奥田三郎右衛門は奈良より出て松倉に加った。
水野日向守が京都より(p462)、松倉豊後守が南の方から駆けつけたので、大坂勢は両方の旗
を見ると早々引揚げ新条越えをして河内路へ退いた。 松倉は烈しく追詰め六人を生捕、首
一ツ取て京都へ差上げたので両御所は日向守と豊後守の働きを感賞した。

大坂から大野主馬と後藤又兵衛の両旗で大軍を率いて南都攻略を目指し郡山城を攻めたが、
城主筒井主殿助は与力三十六騎と足軽迄を支配する身上だが郡山城を守る事が出来ない。
城を明けて福住へ退いたが、面目ないと云う事でそこで自害した
水野日向守は南都が心配で急遽駆けつけたところ、 南都の奉行中坊左近と藤村市兵衛が
長池迄撤退して来て日向守に出合った。 両奉行が云うには、大坂勢は大軍で奈良般若寺坂迄
乱入しました、中々手強いので此辺に陣取して様子を見てから動かれるのが良いでしょうと言う。

しかし日向守はそれに同意せず、大坂勢に南都を焼せては両御所への私の立場がない、討死
を覚悟して進軍する、 皆さんは南都を預ってるのだから、たいへんとは思うが案内をして欲しいと
云うと、心得ました云って両人共引返して進軍した。 そこへ松倉十左衛門(豊後守舎弟)と奥田
三郎右衛門方から早馬の使が来て、敵は郡山を焼払い陣を取ったが南都は未だ焼けていない、
我々だけでは最後迄持ち応える事は難しいので支給援護されたいとあった。 日向守はそれを
聞き、たいへん喜び益々奮い立ち道を急いだので其日の暮頃には南都へ到着した。 南都を
焼き払う予定で奈良迄来た大坂勢は早々郡山へ引取り、直に大坂へ帰ったという。
註1:筒井主殿助(定慶1556?-1620) 大和郡山城主 

               14-7 樫井の戦い
廿八日紀州へ向う大阪勢の大野主馬部隊の中で塙(p463)団右衛門が先手と指名された事に
対し、同組の岡部大学は心外に思っていた。 そこで大学は自分の部隊を残して、自身は二三
騎で馳出て阿倍野海道を和泉路へ入った。 団右衛門はlこの事を知らずに堺海道を安立へ向け
進軍していた。 そこへ大学の部隊が塙の部隊を押退け先へ行こうとする。 団右衛門が見咎め
押留ると岡部大学の配下達は口々に、隊長の大学が先へ行ったのに、その部隊が後に残る理由
はありませんと言う。 
団右衛門はそれを聞いて、隊長の大学が軍律を破り抜け駆けをしたからと云って、部隊全体が
規則を破ってよいのか。今日の先手は此団右衛門が担当するので先へ一人も通す事はできぬ
と断り、団右衛門の部隊が道を一杯にして進軍した。

其頃岸和田の城主は小出大和守で金森出雲守が加勢として籠り守っていた。 それを押さえる為
に大野修理の家老宮田平七は大津に陣を構えていたが、人数が少ないので堺の警固に当って
いた槙島玄番と赤座内膳の両部隊を宮田隊に加えた。 更にその援護として大野道犬斎が堺の
湊に陣を取り、堺の町を焼かせたので、其火の光で廿八日は闇夜だったが大坂勢は紀州へ向け
楽に進軍できた。

浅野但馬守長晟の先手部隊が佐野に在陣したとき、大坂方間者の北村の白状により紀州の一揆
蜂起計画及び大坂方が大軍で紀州に向かう事が明らかになったので、先手勢も志達へ引取る様
長晟の差図があり、浅野左衛門佐、浅野右近の両部隊は引取り、 亀田大隅守始足軽大将達は
佐野に残った。 大坂方の動きを監視すると(p464)、夜明けに大坂先手が攻めて来たので敵に
八町畷を越させて樫井村へ引入れ、頃合を見て志達より一直線に下って敵を悉く討取ろうとする
但馬守の作戦である。 そこへ岡部大学が塙団右衛門と先を争って金の馬櫛の差物にて一番に
馳来たが紀州勢の放し掛る鉄炮に中り負傷し進めず馬を返した。 大学の部下はそれ以上は進む
事もしなかった

そこへ塙団右衛門が漸く騎馬の侍五六騎を率いて樫井の町へ乗入れた。 ところが上田主水入道
宗古斎が鎗を持って待構えているので、団右衛門も従卒と共に一斉に突いて掛れば上田の家来
高尾小平太、水谷又兵衛、横井平左衛門等が主人の宗古と立並んで鎗を打入れる。 宗古は
団右衛門の家老三懸三郎右衛門と戦うが宗古の鎗が折れてしまい、止む無く組打ちとなり組伏
せられる。 そこへ家来の横井平左衛門、横関新三郎が駆けつけて三郎右衛門を討取った。 
その時宗古も負傷したが軽傷で済んだ。

但馬守の隊長田子助左衛門、安井喜内、浅野左衛門佐の隊長松宮庄助、長田治兵衛、其外
亀田の家来達が寄集り競り合った。亀田大隅も敵を突伏せたところ家来の菅野兵左衛門が駈
付け其首を揚げると、次に掛ってきた敵を大隅は又突伏せ家人の吹田作兵衛に首を取せた。
塙団右衛門は矢で負傷したところ浅野左衛門佐の家人矢来新左衛門が鎗で突伏せ打留めた。
淡輪六郎兵衛も左衛門佐家人永田治兵衛に討たれ大坂勢は悉く敗北した。 

一方大野主馬は先手で合戦が有った事も知らずに貝塚で地元の人の持参した弁当の接待を
受けたいた。 そこへ(p465)淡輪六郎兵衛の下人達が逃げて来て、団右衛門、六郎兵衛其外
主馬部隊の熊谷忠太夫、須藤忠右衛門等が討死した報告を受け、主馬は驚いて急いで樫井に
進軍したが紀州勢は既に引揚けた後だった。 そこで長岡監物、上条又八郎、御宿越前等が馬
を走らせ在所の者達を呼び、引揚げた紀州勢との間はどれ程か訪ねたが、既に一里以上隔たり
があるとの事だった。 又これより先の道は非常に険阻との事であり、其上夕方なったので追討は
やらないと云う相談に決した。 

主馬は大坂へ引揚げるとき家人に命じて、団右衛門の死骸だけは火葬にして樫井の宿の入口に
埋め置いた。 其跡を尋ねた雲居和尚は旧友の因みにより石塔を建てたが今でもあると云う。 
この樫井の一戦で利を失い、大野主馬が大坂に引揚げると聞き、岸和田の押さえとして布陣した
宮田平七を始め、皆が安立町迄引退った。

浅野但馬守は樫井で討取った首に使者を添えて二条城へ差上た。 大御所の悦びは特別であり
感状を下され、二人の使者にも馬が与えられた。 その時塙団右衛門の首を見たいと云われたが
本多上野介が内見したところ季節柄かなり腐食が進み、御覧に入れる状態ではありませんと報告
して上野介の指示でしかるべく処理した。

出羽、奥州、加賀、越前の軍勢が追々京都に到着した。 両御所も近日中に大坂出陣となるので
先手の藤堂高虎は四月廿六日に淀を出発し河内国須南に布陣した。 井伊直孝も伏見を出発し
其外榊原遠江守康勝、本多出雲守忠朝等は(p466)竹田より出発して河内へ行軍した。 
註: 竹田 京都伏見

この時大御所は伏見城に入り、城内の船入の櫓から各軍勢の行列を上覧していたが、井伊掃部頭
直孝の旗奉行孕石豊前と広瀬左馬は打合せて掃部幟を伏せて進軍した。 掃部頭は般若野宮内
を呼んで、両御所の上覧だと云うのに何故幟を伏せるのか早く揚げよ伝えさせたが、旗の事は
旗奉行に任せて下さいと云って揚げない。 掃部頭は怒って再度馬場藤左衛門を使いに出して
是非幟を立てよと云ったがそれでも構わず、肥後殿橋を渡って後初めて幟を押し立てた。 これを
櫓の上で大御所は見て将軍に向かい、 当城へ旗先を向ける事を遠慮して今旗を揚げたのは
流石に信玄の家風に馴れた者達だけの事はあると上意があった。
註: 井伊直孝の父直政は家康の命で武田家の精鋭山県三郎兵衛部隊を引取り配下としたので
   井伊家には信玄流の作法が残っていた。

落穂集第十四巻終

                                         第十五巻(最終)へ