戻る

落穂集          前編 自一至三
 
落穂集第一巻

1-1 竹千代、岡崎で出生、尾張熱田に幽閉 (0-7歳)

東照大権現は松平廣忠の息男として天文十一年(1543)十二月廿六日三河国岡崎城で誕生され
幼名を竹千代君と云い、母君は同じ三河国刈屋城主である水野右衛門大夫忠政の息女である。
この誕生の儀式には酒井雅楽頭正親が胞刀、石川安芸守清兼に蟇目役をそれぞれ務めた。

同十二年右衛門大夫忠政が死去し子息下野守信元の代になると、今迄の駿河国今川義元の
傘下を離れ、尾張国の織田弾正信秀と盟約を結んだ。  その為親戚である廣忠公も尾張の
織田家と盟約を結んではどうかと再三誘いがあったが廣忠公は同意しなかった。 そのため信元
と関係が悪化し、爰に至っては親戚の縁を切ると云う事で(p3)竹千代君が三歳の時、母君を
刈屋へ返された。 

信元は益々立腹し近隣の諸城主を説得して織田家へ協力させた上、尾張の軍勢を引入れて
岡崎の城を攻める事を企てた。 この為今川家と盟約のある城は三河の国内では岡崎一城だけ
になり、廣忠公はこの状況を駿府の義元に伝え加勢願いたい旨頼んだ。  
義元も早速同意して近々軍勢を調え尾張へ進軍しようと云う事になった。 然し刈屋の水野と
いえば、最近迄廣忠公の親戚であり、叉他の親戚にも尾張側の城主達も居るので、間違いない
人質を今川家に出さなければと言う事で、当時六歳の竹千代君に金田某を付け駿府へ送った。

ところが駿府への途中塩見坂辺で田原の戸田五郎が待ち構えており、竹千代君を奪い取り
尾張の織田信秀に引渡した。信秀は大へん喜び竹千代君を同国熱田の住人である加藤
図書に預けて家人一同竹千代君を大切に扱うように申し渡した。
その後信秀は岡崎へ使者を送り、御息男の竹千代殿を思いもかけず当方に奪い、今は熱田の
住人加藤図書と云う者へ預けてあるが元気なので安心されたい。 就いては水野下野守殿と
相談して当家に味方されるなら竹千代殿は直ぐに貴殿へ送るが、もし同意無いなら竹千代殿
を殺害し岡崎へ軍勢を送り戦う事になると云わせた。

(p4)廣忠公が其使者に面会し直々に返答した内容は、今川家と当家との盟約は然るべき由緒
があり、今更これを破る事は全く考えられない。 その為竹千代についての事は了解したので
信秀の好きな様にされたい。 一子の愛に溺れて武士の盟約を破る事はあり得ないので、
再度この様な趣旨で使者を送れば、その使者を無事に帰す事はないと口上した。
其使者は尾張へ帰り廣忠公の返答の一部始終を報告した所、信秀はたいへん感心して早速
熱田へ飛脚を送り、竹千代君を益々大切に扱う様にと加藤図書を初め関係者に指示した。

叉阿古屋の久松佐渡方へ再嫁した母君方が熱田に滞在する竹千代君と接触して安否も
訊ねる事を許可したが面会は追って指示すると云う事だった。 母君はこれを喜び以後平野
久蔵及び竹内久六と云う者を代わる代わる熱田へ訪問させ、竹千代君の安否を尋ねると共に
衣服や菓子等を送った。

其後天文十七年(1547)三月になると織田信秀が岡崎の城を責取る為軍勢を調え尾張を出発
すると云う情報が駿府へも聞こえた。 義元は廣忠公への加勢として雪斉和尚を首将として
両朝比奈及び岡部五郎兵衛等を添えて千余の軍勢を三河に向けて送った。 その部隊が
既に藤川に達した事を聞き、織田信秀も安祥の城を出て矢作川の下流の瀬を渡り上和田の
砦に陣取った。 時に廣忠公も岡崎を出陣して(p5)今川勢に合流した。

今川方岡部五郎兵衛は先発して上和田の砦に兵を進めたところ、織田三郎五郎信広は藤川へ
押寄せ戦うべく兵を進めたので両軍は思いがけず小豆坂で鉢合わせし互いに慌て隊が乱れた。
今川勢の中より朝比奈藤三郎進み出て一番に鑓を合せば、岡崎衆の中から酒井雅楽頭正親が
進み、織田家の侍鳴海大学を討取る。 尾張勢が敵わず退く処を今川・松平両家の者達はに
乗って追った。 そこで織田三郎五郎が引き返して、追って来る敵に立向うのを見て織田造酒丞・
下方左近、岡田助右衛門・佐々隼人・同孫助・中野久兵衛等、信広と共に踏み止まって
力戦した。 是を世間では小豆坂の七本鑓と言い伝えた。 
ここで尾張勢全体が引き返して勇敢に戦うので今川勢は利を失い敗色濃くなって行く。
その時廣忠公の軍勢が今川勢を援護して突き掛り、北村源之介・林藤五郎等始め数十人が
討死を遂た。 今川勢既に総崩れと見えたが岡部五郎兵衛が計略により部隊を建て直し、
横合に突掛て尾張勢を追崩した。 今川方の小倉倉之介が尾張方の勇士鑓三位を組打にした
のも此時の事である。かくして信秀は安祥の城に信広を残し、尾張へ帰って行った。 

其後叉義元は安祥城を攻めるため雪斉和尚に朝比奈備中を副えて三河に軍勢を出した。 
その時先ず岡崎の城へ立寄り廣忠公と内談し時、最初に岡の城を攻取り、それから安祥の城
へ取掛るのが良いと云う廣忠公の意見に随い、先ず岡崎勢が岡の城を取巻いた。 
岡城の(p6)
城主松平蔵人信孝は去年の菅生河原の戦いで討死しており家来達ばかりでは守る事も出来ず
早々に城を明渡した。 

廣忠公は人数を少々割いて留守番に置き、今川勢と共に安祥の城を攻めに押寄せる。 これが
尾張にも聞こえたので安祥の城の援兵として、信秀は平手某に五千余の軍勢を付けて信広の
援護に出軍させ、平手も道中を急いで安祥の城下近く迄押寄せ陣を張った。
その夜甚だしい雨に紛れて岡崎勢が平手の陣所へ押寄せ烈しく攻め込んだので尾張勢は防ぎ
切れず敗退する。 その混乱の中、安祥の城へも押寄せて二三の曲輪を占拠した。 
尾張勢も奮闘し、岡崎方の本多平八郎・榊原藤兵衛等が討死を遂げた。 しかし城兵は終に
追詰められ、外郭を捨てて本丸へ取籠る。 
斯して城将信広は切腹するか降伏して囚人となるか二つに一つとなったが、尾張から応援に来た
平手某は城外に居り和睦を申入れてきた。 
信広を助命し尾張へ返して呉れれば熱田に留めている竹千代君を岡崎の城へ返す条件である。
廣忠公はこれを聞き、その件は一応駿府へ報告し義元の指示次第とした。 しかし雪斉和尚を
始め他の武将達も、竹千代君の事は義元も日頃心配しているので、駿府へ報告する迄も無く早速
約諾されよ、との意見であった。 その結果竹千代君は熱田より岡崎へ帰ったので安祥の城の
囲みを解いて信広を尾張へ返した。 その時の護送役は(p7)大久保一族の人々が当った。

註1 東照大権現  徳川家康神号 1543-1616

註2 松平廣忠 (1526-1549) 三河国岡崎市城主 松平宗家8代、主君は今川義元、家康父
註3 岡崎城 現愛知県岡崎市康生町
註4 刈谷城 現愛知県刈谷市城町
註5 蟇目役 貴人の誕生に際して鏑矢を打ち邪気を払う
註6 戸田五郎 田原城主戸田康光 今川傘下から織田陣営へ寝返る。
註7 織田信秀(1510-1551) 尾張国守護代一族 信長父
註8 熱田 加藤図書介順盛
註9 大原雪斉 今川義元の参謀
註10 安祥城 現愛知県安城市
註11 織田三郎五郎信広(?-1574) 織田信長庶兄
註12 上和田砦  岡崎市上和田。
註13 小豆坂 岡崎市戸崎町  藤川 同藤川町
註14 岡城 岡崎市岡町

1-2 竹千代、今川家に寄寓(8-17歳)

竹千代君は天文十六年(1548)より同十八年に至る迄尾張熱田に幽閉されていたが、思いがけなく
今度岡崎へ帰城する事になった。 廣忠公もたいへん是を喜び、家中の上下臣達も皆目出度い
事だと喜び一入だった。
しかし廣忠公にして見れば今川義元との約束もあり、此度敵方より竹千代君が帰参できたのも
今川家の面々の武功によっての事である。 そんな訳で竹千代君をそのまま自分の手元に置く
訳に行かぬと考え駿府へ送る事に決めた。 お供には酒井雅楽頭・天野三郎兵衛・平岩七之介・
同吉十郎・渥美太郎兵衛・阿部善九郎・同新四郎等七人を添えた。 その他に道中護衛として
数人を付け、旅立の時は廣忠公も一行が城内を出る迄見送った。 
阿部善九郎は未だ幼少の者だが、道中の話し相手として竹千代君と同じ輿でお供する様にと
廣忠公が直々に指示した。 

さて駿府へ到着すると義元はたいへん歓迎し、宮ケ崎という所に新に屋敷の造作を指示した。 
叉久島土佐と云う今川家譜代の侍を竹千代君の世話役に付け、不自由をない様にと指示した。

天文十八年(1549)三月六日岡崎城内で廣忠公が逝去したので、義元は岡崎の家中を駿府へ招き
言渡した事は、竹千代君が成長し自身で統治ができるまで岡崎の支配は義元が預るので、
家老の面々始め家中上下共に妻子を連れて駿府へ滞在すること。 
岡崎城の本丸と二の丸は
今川家の侍大将が手勢を引き連れ代わる代わる警備する。 鳥居伊賀守は郷村の用事を行う掛り
役人を指揮し、三の丸に居住し廣忠公時代に定めた規定通り諸事を遂行し、年の諸勘定収支は
伊賀守が毎春駿府へ出頭し直に義元に報告する様申渡した。

叉今後の宮ケ崎諸経費については岡崎で負担する様との事であり、岡崎の城には鳥居伊賀守と
下級役人だけが残り、その他の侍一同は大身小身共に駿府へ引越して今川家の諸士と一緒に
軍役等を勤める事になった。 このため以前からの岡崎譜代の侍達は困惑して、廣忠公の
早世を悔み竹千代君の成長を待ち焦がれた。

やがて竹千代君が成長し、十三歳の時始て具足を付け、名前も松平次郎三郎元信公となった。
弘治三年(1557)正月十五日、義元の取計で元服、 名前を蔵人元康公と改め、義元の伯母婿
の刑部太輔親永の息女との婚義も調ったので、岡崎譜代の侍上下一同は集まり喜んだ。

永禄元年(1558)の春三河国寺部の城主鈴木日向守が今川家に叛いて尾張の織田上総介信長
の旗下となったので、元康公が手勢のみを率いて攻める様にと義元より云われた。  元康公は
当年十七歳の初陣であり是をたいへん喜んだ。
家中の人々もまちわびた主人成長後の 初ての出陣であったので、上下共に喜び勇んで
寺部の城へ押寄せ外曲輪を焼払い、鈴木の家人百余人を討取って帰陣した。 義元も大いに
喜び初陣の祝義として大刀一腰を与えた。

同年 元康公は義元と相談して広瀬・挙母・梅坪・伊保の各城へ攻撃を加えた。
同年 元康公は石ケ瀬へ出陣し、水野下野守信元の兵と戦った。 その時渡邊半蔵が軍功あり
目通りして労った

永禄二年(1559)三月駿河で三郎信康公が誕生した。
この年、元康公は岡崎の城へ帰り成長後初めて領地を見て廻った。 鳥居伊賀守が城内の
金蔵を開いて見せた時、鳥目(穴明銭)が縦に積んであるのを見て、駿府の商家では鳥目を横に
積んでいたが、ここでは縦に積んであるのは何故かと尋ねられた。 伊賀守は、少ない鳥目を
積むのは縦でも横でも問題ありませんが、多くの鳥目を横に積んでは繋いである縄が早く腐って
しまうのでこの様に縦に積むのですと答えた。 金銀が大切な事は勿論ですが、軍用には
鳥目が一番ですから数年掛けてこの様に貯えて置いたのですと言上したので、元康公が
たいへん感じ入ったと伝えられるのはこの時の事である。
同年元康公は再び寺部・梅坪・広瀬・挙母・伊保等の城々を攻撃し、各地の戦いで勝利し駿府へ
帰ったので義元もたいへん満足していた。

註1 今川義元(1516-1560) 駿河国、遠江国守護大名、三河国、尾張一部迄拡大、桶狭間で戦死
註2 天文18年(1549年) 松平廣忠 病死
註3 弘治3年(1557年) 家康元服
註4 永禄元(1858年) 家康初陣

註5 寺部、広瀬、挙母、梅坪、伊保 何れも織田方に属していた城
    現在豊田市寺部、同広瀬、同金谷、□、同保見町付近。
註6 永禄2年(1559年) 家康嫡男 信康誕生
註7 鳥目 (チョウモク) 銭の異称、穴が開いているので鳥の目に似ている事からいう。

1-3 今川義元横死と松平元康の自立(17-18歳)

その頃義元は駿河、遠江、三河の三国を手中に収め、甲斐の武田信玄とも和平を保っていた。 
更に相模国小田原の北條氏康も和睦し子息の助五郎と云う者を駿府へ人質として提供していた。 
叉近国の諸城主は皆今川家に随って居り、義元は軍事力を誇りこの上は尾張の織田信長を
倒して京都へ攻上ろうという気持ちで一杯だった。

その手始めに大高・星崎の両城を攻取り、大高の城は妹婿鵜殿長照に守らせた。 今後
尾張への進撃の為大高の城へ兵糧を十分に貯えようとの考えだったが、織田家側もこの
計画を見抜き、大高近くの鷲津と丸根の両城に兵を置き、若し大高の城へ兵糧を入れる
動きがあれば直ぐにほら貝を吹く事、その音を聞き次第寺部・梅坪の両城を初め、その外の
城兵も直ぐに鷲津・丸根へ加勢する様に信長から命じられていた。 

その為今川家は兵糧を入れる事が出来ず、大高城中の兵糧が乏しくなり、苦労している事が
駿府へ報告された。 元康公に何か工夫して大高城中へ兵糧を入れる様にして欲しいと、
義元から依頼があったので心得た旨返答した。 家中の侍達は相談の結果、今度大高城へ
兵糧を入れる件はたいへんな事である。 何故なら織田家もこれに備え、大高近辺の数ヶ所
の城に準備をさせ、合図を決めて兵糧入を防ぐ用意が出来ていると聞くので、手持の
兵だけでは難しいのではないか、との意見だった。

しかし元康公は、今度の大高の兵糧入に就いては自分の一存に任せよ、色々意見を挟むな
と厳しく言われた。 そこで元康公の指図は部隊を二つに分け、先手の松平右馬助・
酒井与四郎・石川与七郎は四千余の兵を率い、手前にある鷲津と丸根の両城を素通りし、
遥か奥にある寺部の城を攻める事とし、元康公は旗本勢八百余の兵に兵糧を荷駄千弐百疋に
積込ませ、大高の城より廿町程の外に待機させた。 先手の軍勢は命令通り寺部の城へ
押寄せ烈しく攻めた。 
城内では予想していない事であり上を下への騒動となり、しかも四月九日午前二時頃の
事なので、敵味方の見さかい無く同士討を行い大混乱となる。 味方の兵は一の木戸を
押破って火を付けて早々引揚げ、次に梅か坪の城を攻め、二の丸、三の丸迄押入って
火を付けた。

両城の火の手を見て鷲津と丸根両城に待機していた飯尾近江・同隠岐・佐久間大学など
大に肝を潰し、取物も取あへず寺部・梅坪の両城へ加勢に行く。 元康公は事前に両城に
間諜を入れておいたので、早速この報告があると直ぐに自身命令して大高の城の各入口に
荷駄を入れ、思う存分兵糧を入れさせた。 鷲津と丸根の城中からこれが見えたが、壮健な
兵は皆寺部と梅坪へ加勢に行った後で、残って居る者は老弱の兵ばかりで何も出来ない。

その内に先手の三部隊の軍勢が戻ってきたので、元康公は、夜中に働き骨を折った者達
だから先に連帰る様にと言われた。(
p12) しかし三人の頭達はそれを聞き、
いやそれはなりません。 先ず旗本の部隊を先に帰すのが良いでしょう、と云ったが、
元康公は大に立腹して、今回の兵糧入れ作戦は他の意見は聞かないと出陣前に堅く
念押ししたのを忘れたか、と云われた。  これ以上はとやかく言わず三人の頭が部隊を
帰した後で元康公も帰陣した。 後にこれを大高の兵糧入と云い名作戦と伝えている。

さて義元はいよいよ尾張へ進出し織田信長と一戦を遂げる事に決め、
永禄三年(1560)五月に元康公も駿河勢に先立って丸根の城へ軍勢を向け烈しく攻撃した。
城将佐久間大学も必死に防戦したが、味方の諸軍はひるまず終に城を破り、城将大学介を
討取った。五月十八日の晩方に義元よりの差図によって元康公は大高の城を守っていた
鵜殿長照と交代して大高で義元の着陣を待っていた。

翌十九日未明より駿河勢は鷲津の城を取囲んで攻撃した。城将飯尾近江・織田玄蕃は
防戦したが今川家は多勢によって終に城を責落した。 これで義元の軍は大に勢いが
付いて桶狭間に到着したところ、近辺の領民達は酒肴を捧けて勝ち戦を祝った。 
義元は機嫌よく将兵を招いて酒宴を開いていた。 

その油断を伺っていた織田信長は三千余の手勢を率いて笠寺の東にある間道を通って
善照寺辺から部隊を二手に分けて、旗を巻き長道具を横にして義元の陣所の後にある
山手に待機していた。
(p13)
その頃黒雲が辺りを蔽い、霧が深くて
前後を見分る事も出来ず義元は敵の襲来に
気付かなかった。 その時信長は一斉に旗を揚げ、鬨の声を挙げながら義元の本陣を
目掛けて突っ込んだ。

今川勢にとっては思いがけない事で大に慌てたが、義元は幔幕の内の座を退かず
近習の侍達に命じて戦はせていた。
その時信長の徒士服部小平太が進み出て鎗で義元を突いた。  義元は大刀を抜いて
小平太の膝を切った所に毛利新助が服部を助に来て終に義元を討ってその首を得た。
大将が既に討死した為駿河兵は総崩れとなる。信長軍は勢いに乗ってこれを追討、
今川家の家士三浦左馬之助・斉藤掃部・広原左近太夫等を初め二千五百余人を
討取った。

その頃元康公は大高の城に待機していたが、水野下野守信元家臣の浅井六之助が
主人の使として伝えた事は、今川義元は桶狭間にて信長の為に命を落とした。 その為
今川家の所持する城は全て明渡す事になったが、貴殿は未だ大高城中に逗留されて
いると聞く。 急いで岡崎の城へ帰るのが良い。 本来なら知らせないのだが、親戚の
よしみで伝えるとの事である。
元康公の家中の者達は、下野守殿の云われるように早々に退去するべきですと、
口々に諌めた。しかし元康公はこれを聞き入れず、本来私と信元は伯父甥の関係では
あるが、今彼は織田家に随っているので敵である。  これは彼が私を欺く為の謀である
可能性もある。 もし信元の謀であり真実でない場合、この城を明渡せば武門の恥辱で
天下のもの笑いになるだろう。(p14)
 使者の浅井を虜にして留めておき、確実な
味方からの情報を確認してから岡崎へ退去すると云われた。 

それ迄義元の為に本丸を空けて元康公は二の丸に居られたが、急遽本丸に座を
移動し、家中の人々にも夫々持ち場を決め籠城の覚悟と見えた。
その夜中岡崎の留守居役鳥居伊賀守より義元討死の次第を詳しく言上あった。
今川方の岡崎城駐在役三浦上野や飯尾等も義元の横死により、皆駿府へ帰らざるを
得ない状況である事も合せて報告があった。 ここに至ってはと元康公も大高の城を
出発し、浅井六之助を案内者として同行させ岡崎へ向った。 

途中所々一揆勢に遭遇したが先頭部隊が追払ながら撤退した。 池鯉鮒(知立)の
駅迄来た所、刈屋の城より水野信元の家来が一揆勢に交り帰路を妨げるので
浅井が馬を乗掛て、水野下野守使者浅井六之助と大声で一喝したので一揆勢は
手出しせず、その夜無事大樹寺まで到着した。 

翌廿三日岡崎へ帰城したので今川家より駐在していた者達は駿府へ帰るため
暇の挨拶にきた。
元康公は三浦や飯尾等頭分の人々を召し出し、氏真の方への伝言として、義元の
横死の事は驚いている。信長が大勝利で油断している中に、奇襲を掛ければ
味方の勝利は間違いないと考える。 一刻も早く弔合戦を遂行されるのが良い。
その情報を戴き次第私も出陣して一戦の上、信長を討果し義元追善に備へるので
氏真を始め家老の面々へ十分伝えて欲しいと言い含められた
p15)

しかし氏真は義元討死の後途方に暮れて弔合戦どころでは無かったが、元康公は
早速出陣を布告して岡崎を出発し、信長に属する挙母・梅坪の両城を攻撃した。
外曲輪を攻めて火を付けて撤収した後、駿府へ使者を送り義元の弔合戦の事を
催促した。 しかし氏真を始め家老の面々も全くその気は無く、ひたすらに義元の
追善を営むだけである、と言う報告に元康公はたいへん不満だった。 

以後は氏真には構わず、単独で岡崎を出陣して広瀬の城主三宅右衛門尉を
攻めた。 しかし先手の勢が勝利出来ないので、旗本勢を進めて戦ったところ、
敵兵は忽ち敗走した。
夫より直に沓掛の城へ攻撃を掛け、城下の民家を全て焼き軍勢を引揚げようとした
時、信長の命で当城を守っていた織田玄蕃丞が城より討って出て元康公を追ったが、
大久保新八郎がしんがりをしっかりと勤め、引揚げは完了した。

その後叉岡崎を出陣して水野信元が所有する刈屋の城外十八町と云う所で、
刈屋勢と戦ったが敵味方共に日頃知り合った関係なので、互いに負けられず
力戦して、双方引き分けとして元康公は岡崎へ帰城した。
今川家は義元死去の以後は途方に暮れているのに、元康公だけは義元存命時の
盟約の方針を少しも変えずに単独で信長側の城を次々攻め、今川方の旗色を
鮮明にする
p16)非常に奇特な大将であると、織田家側でも感心していた。

註1 大高、星崎城 名古屋市南区本星崎・同市緑区大高町
註2 鵜殿長持 長照の誤りか 長照は長持の子
註3 鷲津、丸根砦 名古屋市大高町鷲津・同町丸根
註4 沓掛城 豊明市沓掛


1-4 元康 織田信長と和睦(18歳-21歳)

同年叉岡崎から出陣し、水野信元と石ケ瀬で戦った時、家中の鳥居四郎左衛門・
大原右近右衛門・矢田作十郎・高木九助・筧平三郎等特に軍功があった。
その後直ぐに叉出陣し、寺部と挙母の両城を攻めた。 

その後叉三河山中にある腎王山の砦を攻めた時、久松佐渡守俊勝が初めて
味方に加わり、先頭に進んで城へ乗込もうとした時、城兵が鎗で俊勝の
具足綿嚙を突いた。 久松はその鎗の柄を切り折り終に城へ乗込み火を付けて
城内屋敷を焼いたので城は終に落ちた。 次ぎに長沢の鳥屋の城を取囲み
、城外の民家を焼いて引揚げた。      

永禄四年(1561)二月七日石ケ瀬へ出陣し、水野信元の兵と戦った。家中では石川
伯耆守数正・高木善四郎・本多肥後・上村庄右衛門・松井左近等が特に手柄を立てた。
同年叉出陣し広瀬・伊保等の城を攻めた。 松平大炊助好景へ命じて中島の城を
攻めさせた時、城主板倉弾正は防戦できず、城を撤退して岡の城に籠ったが、
元康公自身が岡の城を攻めたので板倉は叉城を捨て東三河へ逃れ去った。

この年織田信長も元康公の武略に感心して、水野下野守信元を仲介として和睦を
申込んできた。 
p17) それ以前に度々義元の弔合戦を氏真へ催促したが
同意なく、その上義元時代から勤めていた古い家老達の意見を聞かず、三浦右衛門と
言う若輩の愚か者を諸事の相談相手にしているので、今川家の伝統は全て失われ
取るに足らぬ規則ばかりを作っている。 其上氏真の不行跡は目に余るものである。
これらは駿府に逗留する三郎信康殿に付けた侍達からも逐次報告があり、元康公も
今川家滅亡の時節が到来するのも止むを得ないと考えていた。

こんな時に信長より和睦の提案があったので気持ちが動き、先ず元親戚である
水野信元と和睦し、その後信長との和睦が成立した。 今川氏真はこれを聞いて
大に立腹し岡崎へ使者を送り、貴殿は旧来の盟約を破り織田家と和睦する以上、
駿府に居る内室と子息は殺害し、近日中に大軍を起こして岡崎を攻める事になると云う。 
岡崎の家老達が相談した案に基き、元康公は氏真の使者と面会し直接返答した事は、
私の親廣忠の時代より義元の厚恩によって当城が安堵されている。 これは偏に
今川家のお蔭であり、 今も少しもこの事を忘れていない。しかしながら尾張は
隣国であり、今ここと和平を保たなければ領国を維持する事は難しいので謀としての
和睦である。 決して真の和睦ではない事を丁寧に氏真へ伝える様にと言い含めた。
使者は帰って詳しく報告したので以後氏真の疑いは止んだ。

同年八月今川家の侍糟谷善兵衛と小原藤五郎と(p18)云う者が、三河国長沢の城に
立て籠もり近郷を侵掠している事を元康公は聞いて、石川日向守家成と松平勘四郎
信一の両人に命じて長沢の城を攻めさせた。 しかし糟谷と小原は堅く防ぎ城が
落ちない旨の報告があり、元康公は岡崎を出陣し長沢の城へ向い攻撃した。
城将小原藤五郎自身が城から討って出たので防戦し、渡辺半蔵が藤五郎を鎗で突き
則首を取った。 この為糟谷も終に防ぐ事が出来ず退去したので、味方は勝利を得て
岡崎へ帰陣した。

永禄五年(1562)今川氏真は鵜殿長照に命じ三河国西の郡城を守らせた。 元康公は
久松佐渡と松井左近忠次の両人へ命じ西の郡城を攻めさせた。 左近が城中の隙を
突いて 久松と打ち合わせ素早く城中へ攻め込んだので鵜殿は防ぐ事が出来ず
和睦して城を明渡し駿河へ帰る事を願うので忠次はこれを許可した。

鵜殿達が城を出て帰路に付いた時、忠次は伏兵を置いて鵜殿の二人の子供を生捕り、
岡崎へ護送し元康公に差上げて喜ばれた。
今川氏真はこれ聞いて元康公が織田家の味方になった事を怒り、御台所と息男を殺害
して大軍を揃え岡崎へ進撃し、手切れの戦いを遂行しようとした。
この為石川伯耆守数正急いで駿府へ行き、御台所の親父関口刑部大輔と相談し、
この度御台所と息男を間違いなく岡崎へ返して頂ければ、鵜殿の二子と交換する
と伝えた。 鵜殿の二子と云うのも今川家の親族であり、その上氏真は鵜殿長照を
贔屓している事もあり早速同意があった。 交換が成立し鵜殿の二子は駿府へ
帰り、御台所と三郎君は(p19) 岡崎へ帰った。

その後も元康公が織田家に味方したので、氏真は大に怒り関口刑部大輔を殺害した。
九月十一日の夜に入って氏真は軍を発し三河国西の郡の弾正左衛門正勝の城を
攻撃した。正勝は是を防ぎ嫡子元正は戦死したが、次男孫九郎が父に力を合せて
防戦して何とか城を持ち応える事を岡崎に注進した。
元康公が援軍を送ったので正勝は是に力を得て益々力戦して終に今川勢を追払った。
これが今川家と当家(徳川家)との手切れの一戦である。

同月廿九日 元康公は軍勢を率いて二連木・牛窪・佐脇・八幡の敵と赤坂で戦ったが、
先手の酒井忠次が大に苦戦して従士十八人が討死をした。 これに依って敵兵は勝に
乗じて攻めてきたが渡辺半蔵が十度程敵と渡り合い、その中二度は馬から下りて鎗で
戦った。この時以来俗に鑓半蔵と言われる様になった。
時に元康公自身も敵に向った為、旗本の面々は特に力戦して敵を破った。近藤伝次郎
は敵方の首将松倉弾正を討ってその首を得た。

永禄六年(1563)正月十五日 元康公は岡崎の城を出発し山中に陣取、同廿一日牛窪の
城を攻めた。この時本多平八郎は十六歳で牧野方の武勇の侍牧野宗次郎と鑓を合わせた。
牧野の家来稲垣平右衛門は牧野を説得し酒井左衛門・石川日向守を頼り投降した。
これにより牧野右馬之丞は酒井左衛門尉の婿になり譜代衆に負けじと奉公した。
この戦迄元康公は馬印に厭離穢土の小旗を持たせていたが、牧野の金の扇が( p20)
見事だと云う事で所望し、以後の馬印となったと伝えられている。

この年織田信長の息女と三郎信康君の婚約が決まった。 叉この年元康公は岡崎を出発し
吉田の城兵と小坂井で戦った。 渡辺半蔵や蜂屋半之丞等が敵と鎗を合せて力戦した。 
味方の兵が戦い労れたと見て敵兵が競って進軍して来た時に、松平久内が鉄砲でこれを
防いだ。 更に平岩七之助親吉が兵を率いて来て戦ったので敵兵は吉田の城へ退いた。


註1 三河山中 岡崎市山中
註2 長沢 豊川市長沢 鳥屋の城 登屋ケ根城
註3 永禄四年 1561年

註4 上之郡城 蒲郡市神の郷町
註5 牛窪城 牧野氏居城、豊川市

1-5 家康、三河一向一揆の鎮圧、三河の統一(21-25歳)

同年九月 元康公は菅沼藤十郎に命じて三河国佐々木の辺に砦を構へさせた時、人夫の
兵糧が不足したので同郡の上宮寺領の米を押収して菅沼の館へ運び込み、工事人夫の
飯料にした。 これを上宮寺の僧徒等が大に怒り国中の宗徒代表を招集して評議した。
開山上人以来、当国三ケ寺に関しては特別扱いで守護の権限が及ばない地と決まって
いるのに、 此度の菅沼の行為は非道此上なく、叉宗門を侮辱するものである。 決して
成すがままにはさせないと衆議一決し、野寺と針崎の両寺を始め諸寺の屈強な僧達が集結し、
甲冑や兵杖で武装して突然菅沼の館に押入った。 菅沼の家来達も少しは防禦したが、
僧達は大勢乱入して終に例の兵糧を奪い返して上宮寺へ運び込んだ。

菅沼は大に怒ってこの事を酒井雅楽頭正親へ報告し、正親は事の次第を元康公に報告した。
元康公は大変立腹し、雅楽頭に命じて上宮寺の暴動僧徒の指導者を斬罪にした。(p21)
その結果三河国中の一向宗の僧徒及びその支援者が憤激して戦を企て、今川氏真へ
同調する土豪達を巻込み一揆を起そうとした。

当家譜代の侍中も宗門信仰の者達は一揆方に組し敵対する一族もあった。中でも吉良義照
が敵対する事になり、元康公妹婿の荒川甲斐守も義照に同調した。 その他櫻井の松平監物や
上野の酒井将監、大草の松平七郎等なども一揆方に組した。その他譜代の侍達で宗門側と
なった者は野寺と佐々木の寺内に立籠もり、敵対者は凡そ三百人余に上った。

その頃鵜殿藤太郎が今川氏真に味方して三河の上の郷城に籠っていた。 同国竹谷の城主
松平備後守清善は藤太郎とは同母兄弟だったが常日頃元康公に味方をしているので、
早速竹谷より兵を発して上の郷の城を攻めた。 初日は清善が勝利を得て城兵七十余人を
討取ったが、次の日は負け戦となり多数の兵が討たれた。 この事が岡崎に聞へたので
元康公は早速軍勢を出して名取山に陣取った。甲賀流の忍者兵を使い、上の郷の城を
襲わせた処、城将の鵜殿藤太郎・同鹿助を始め城兵も皆討死し、城も終に落ちたので
岡崎へ帰陣した。

この年の秋、元康公は名前を改め家康公と云った。

同年十月廿五日、針崎の反徒が上和田の城を攻るという知らせが岡崎へ有ったので
直ぐに軍勢を出し、上和田へ向った。 その時上村庄右衛門は一揆方の勇兵蜂屋半之丞と
鎗を合せて戦った。蜂屋が少し退いたので水野藤十郎忠重が言葉を掛けて(p21)蜂屋を
追ったので蜂屋は戻って忠重と戦った。 その時家康公が忠重を援護する為、自身蜂屋に
向ったので蜂屋は恐れ入って逃げた。 松平金助が追討ちをかけた処、蜂屋叉戻って来て、
家康公は主君であるから刃向いしないが、お前達は別だと鎗で金助と渡り合い、
終に金助を突倒して蜂屋が乗掛て首を取ろうとするのを家康公が見て、叉蜂屋に向かへば、
蜂屋は金助を捨てて逃げ去った。 その後一揆も退散したので帰陣した。

同年叉岡崎を出馬、大久保一党に針崎の一揆の鎮圧を命じ、自身は小豆坂に登ったところ
一揆の兵が岡や大平から引揚げてきた。そこで味方の先頭勢と坂の途中で戦いとなり、
一揆方の佐橋甚五郎を始め、数人を討取り勝利して岡崎へ帰城した。

永禄七年(1564)正月、一揆勢と小豆坂で戦った時、一揆方の鉄砲が家康公の馬の手綱に
中った。 支障なかったが立腹して敵軍の中へ馬を乗入れたので 一揆勢は敗走した。
同月十一日 針崎と野寺の一揆方は上和田の砦及び岡の城へ押掛けたので大久保一党が
これに対処した。城代の大久保五郎左衛門、同七郎右衛門共に軽傷を負い籠城が難しい旨
報告があり家康公は即刻出馬した。 その時一揆方の鉄砲が鎧に中ったが支障なかった。

この戦いで中根喜蔵が一揆方の渡辺半蔵と鎗を合せたが互いに鎗を捨て太刀で戦ったが
勝負がつかない。 そこで鵜殿十郎三郎が渡辺半蔵(p23)を討とうと攻め寄ったが、半蔵の父
渡辺源五左衛門が半蔵を助けに来て終に鵜殿を討取った。 そこへ川澄大輔が源五左衛門に
討て掛るが、源五左衛門は川澄に取合わず家康公を目掛けて突き掛ったが、甥の内藤甚四郎
が弓で源五左衛門の両股を射貫いた。彼は即座に倒れ、疵が重く終に死んだ。
主君の為に伯父を射た事を家康公は感激し、人皆これを賞賛した。

一揆方の侍の夏目治郎左衛門は武功も有り親族も多く、自身の知行所内の屋敷に城の様な
要害を構へて住んでいた。 近接の松平主殿助は様子を見ていたが、 ある時主殿助は手勢を
率いて突然押掛け木戸を打破り烈しく押入ったので夏目は大に慌て防禦も間に合わず、
妻子を連れて土蔵の中へ籠った。
主殿は多人数で厳重に屋敷を取囲み、その旨を岡崎へ報告して命令次第夏目を成敗しようと
構えていた。 ところが家康公はこれを聞いて主殿助の忠節は感心だが、夏目は既に土蔵の
中へ逃込んで居り、これを殺害しては籠中の鳥を殺す様な事なので、その侭にして命を助けよ、
との事だった。 主殿はこれを聞き、始め打殺して差上げようとしたのに何と慈悲に過ぎた
扱いと思ったが、既に赦免とある以上は是非もなく引揚げた。 

夏目は蔵の中から出て岡崎の方を伏拝んで、さてさてこんな慈悲深い主人を疎かにして
敵対した事が悔いられると涙を流した。 その日以来宗門の勤として持仏堂で本尊に向って
(p24) なにとぞ主人の為に死ねる様に御守り下さい、と声高らかに祈った。 
その後念願通りに遠江国の三方が原で武田軍との戦の時、家康公の身代わりとして
働き討死を遂げた。

さて叉一揆の鎮静化に尽くした人は誰彼とあるが、最初は蜂屋半之丞である。 半之丞が
大久保治左衛門及び同新八郎両人に出合って云うには、私を始他の人々も殿様に対しては
何の恨みも持っていない。 元は菅沼の理不尽な処置と、その上家老の酒井殿の片手落な
処理より起こった事である。 譜代の家臣達が主人へ対し謀反人と言われる事は今更後悔
している。
できる事なら土呂・針崎・野寺の三ケ寺共従来通り認めて戴き、この度敵対した人々も
何事も無く全員赦免して戴く様にと云う。 大久保両人が返答したのは、ご意見は尤で
あるが、その様に色々願い事が有っては中々ご理解が得られるとは思わないが
先ずはその旨お伺いして見ると、両人は岡崎の城へ上った。

蜂屋の言い分を聞いて家康公は大方同意したが、三ケ寺をその侭にする事は認めず、
三ケ寺共に破却して更地にし、敵対者の中でも罪の軽重に応じて夫々に処置すると言う。
大久保両人もそれ以上何も言えずにいたが、両人と共に御前に控えていた大久保淨玄が
これを聞いて、ご意見は尤ですが、(p25) その様に言われては問題が解決しません。
檀家達の願い通り三ケ寺を先ず認め、此度敵対した者も罪の軽重によらず一同に恩赦を
行い、 一致団結して少しでも早く敵地へ進出して領地を拡大するのが良いと思います。
領地が大きくなれば如何様にも政治ができます。 私事ですが今回の騒動で多くの親族が
謀叛人共の為に犠牲となり、その恨みは決して少なく在りませんが、殿様の為には替え
難い事ですと、言上するのを家康公は聞いて、そちの様な老人の考えを拒否する訳にも
行かないので、良き様に取り計らえとの事となった。

その趣旨が言渡され、敵対していた侍達も皆、忝い事と云って喜びあった。
しかし吉良殿や荒川殿も居城を出て降参したが赦免は無かった。 吉良殿は上方へ行き
近江国の佐々木義頼を頼ったが芥川で討死した。
荒川殿は妹婿にも拘らず二度も謀叛を起したので許されず、その後河内の国で病死した。
上野の城主酒井将監は家老の身で有りながら一揆方で敵対したので特に憎まれ、侘び言
も通用せず今川氏真を頼って駿府へ去った。 親族の中では松平監物殿だけが許された。

その後この度敵対した侍の中で主な者百人余りを岡崎の城へ呼び一同に面会した。その時
(p26)直接皆に言い聞かせた事は、今度其方共は三ケ寺に荷担して敵対したのは
不届である。しかしよくよく考えれば人は貴賎に拘らず、この世は仮の宿で来世は永遠と
いう事である。 それならば私を仮の主人と思い、弥陀如来こそが永い世の主人と考える事が
宗門にとり大切と思うのも一理はあると考える。 赦免する以上は毛頭心に留めないので、皆も 
敵対した事を忘れて以前の心に立帰り、少も隔てなく勤めを励むのが最善と思う。 
此趣旨を其方共の部下達にも聞かせて、誰もが安心する様と言われたので、謹んで是を
承った人々は老若共に歓喜して御前を立った。
  
   右の事はその時代の事を述べた書物にも見当たらないが、永井日向守殿が若い頃
   古老から聞いた話として、浅野因幡守殿へ語ったと言う事である。 実話と思うので
   爰に書き載せたものである。

同年五月岡崎を出馬し、野田・牛窪の両城を攻撃した。それから直ぐ吉田の城を攻めた処、
城将の小原肥前が城外へ討って出て防ぐので、無理せず兵を引揚げて帰陣した。

同年吉田の城を守る小原肥前を援護する為、今川氏真が一万余騎を率いて三河に進軍し、五千
余の軍勢で本多百助が守る一宮の砦を取囲んだ。 氏真は五(p27)千程の軍勢で佐脇八幡に
陣取る。百助はその状況を岡崎へ報告したので、家康公は三千程の軍勢で一宮へ出陣した。
今川方でも必ず岡崎から出陣が有ると予想して武田信虎へ二千程の兵を付け岡崎勢へ備えた。
しかし岡崎方が隙なく進軍して来るので信虎はこれを喰留る事が出来ず、岡崎勢は信虎の
近くを押通り一宮の砦近くに押寄せた。 これは敵わぬと見て駿河勢は囲みを解いて牛窪の方へ
引退る処へ城将の百助が城中より討って出て今川勢を追討したので家康公は難なく一宮の城
へ入る事が出来た。

この夜今川家の作戦会議で、家康公の手勢と城兵を合せても五千を超える事は無い。 味方の
全軍で明日早朝より城を取巻き、岡崎勢は一騎一人と言えども生きて帰すべきでないと、専ら
その準備をした。
そんな中家康公は湯漬など食べ、一宮の城を出て夜中に退去したので、今川家の評議は
無意味となった。 この事を世間では一宮の後詰と云って家康公の大きな誉となった。

同年六月小原肥前が吉田の城を当家へ明渡したので三河国全体が家康公の領知となった由。

永禄九年(1566)十二月廿九日家康公は従五位下に昇進し、名前も三河守となった。

同十年(1567)五月三郎君へ信長の息女の輿入れがあった。

註1 三ケ寺 土呂本宗寺、 針崎勝曼寺、野寺
註2 吉田城 城主小原鎮実(今川方) 愛知県豊橋市

1-6 家康遠江へ進出(25-26歳)
同十一年(1568)三月堀川と宇津山の城を落とした。(p28)
同四月二股の久野城を落とした。
同年十二月井の谷城を攻落とし、本坂に進み刑部の城を落した。

同十二年(1569)正月北條氏康と氏政の父子が四万五千余の軍を率い、今川氏真を援護
するため駿河へ出陣した。大軍であるので薩埵山から八幡平迄陣を構えた。
武田信玄は山縣三郎兵衛に駿府の城を守らせ、自身は一万八千余の軍勢で興津河原に
布陣して北條父子と対戦する。 

時に家康公は掛川へ出陣して天王山に陣を敷いた。 今川氏真は掛川城内より久野一家の
者達へ使いを送り、自分は家康と戦うので、其方一家の者は打ち合せて良い折りに岡崎勢の
後ろを攻めよと伝えた。 久野一家の者達はその命令に随ったが、久野三郎左衛門宗能と
同八左衛門両人は相談して氏真の密謀を家康公に知らせた。 
家康公は宗能に加勢したので宗能は是に力を得て同姓淡路守を殺害し、采女正を追払った。
氏真側では未だこの事を知らずに家康公の陣へ押寄せた。 前述宗能の情報に基き岡崎方は
既に予定していたので大須賀・大久保・本多・水野・松平康重・同家忠の面々が兵を伏せて待、
一斉に起って突進んだので氏真の軍勢は忽ちにして敗れた。 其夜中より直に掛川の城を
攻撃し多くの城兵を討取った後、家康公は見付の城へ帰陣した。
  
同年三月家康公は出陣し掛川の城を攻撃した。 城兵朝比奈備中、三浦監物は抵抗したが
勝利はできない。 此時(p29)氏真の家臣小倉内蔵介を呼び、これから氏真と和睦して
北條氏康と協力して信玄が占領している駿府の城を取返して、氏真に再び駿河の守護に
なってもらうべきであると家康公は云った。
小倉は大に喜び、その趣旨を氏真へ伝えたところ、氏真も納得したので、小倉が陣中へ参上して
誓約を成し終に和睦が成立した。 氏真は掛川の城を家康公へ渡し相模国の小田原へ移転する
ので、石川日向守に掛川の城を守らせた。 

その頃北条氏康は薩揺山に布陣して武田信玄と戦っていた。 そこで家康公が出陣して
山縣三郎兵衛が守る駿府の城を攻撃したので、山縣も城を守る事が出来ず撤退した。 
信玄も北條と徳川の軍勢を前後に受けての勝利は難しいと判断して、早々甲府へ引揚げた。
これで氏真は再び駿府の城へ帰り、これは偏に家康公のお蔭と大に喜んだ。
しかし城内の家屋が兵火で焼失して居住は出来ないので、 氏真は伊豆の戸倉城へ移り
駿府の修復を命じた。 
 
同年六月家康公は出陣して遠江国天方の城を攻め、 城主山内山城守が降参したので、それより
直ぐに飯田の城を攻めて、城主山内大和守を始め城兵残らず攻め殺しにして帰陣した。  

註1 堀川城 浜松市北区細江町
註2 宇津山城 静岡県湖西市宇津山
註3 久野城 袋井
註4 興津 清水・由井の間                            
註5 伊豆の戸倉城 静岡県駿東郡清水町
註6 天方城  城主山内通興  静岡県周智郡森町
註7 飯田城  城主山内通泰 静岡県周智郡森町
註8 見付端城 静岡県磐田市見付字古城
註9 駿府城 現静岡市葵区、 今村家居城
註10 北條氏康(1515-1571) 後北条家三代目当主、相模の戦国大名

 落穂集巻之一終 

              第二巻へ