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  落穂集第二巻

 2-1 金ヶ崎の撤退と姉川の戦い 27才
元亀元年(1570年)正月、浜松城の工事が完成したので家康公は此方に引越し、
岡崎の城は信康公へ譲られた。

同年春、織田信長は越前の守護朝倉義景を攻める為家康公へ加勢の依頼があり、
同意して三月に浜松城より出陣された。  信長と共に越前の手筒山の城を攻め落し、
次に同国金ケ崎の城を攻撃中に、近江小谷の城主浅井備前守が寝返ったとの
知らせがあった。 信長はたいへん驚き金ケ崎城の囲みを解きへ引揚げる時、
一陣は信長、二陣は家康公、殿(しんがり)は木下藤吉郎秀吉が受持った。

漸く若狭の国へ入る頃、朝倉軍が多勢で追迫り、(p31)秀吉の部隊と戦いとなった。
秀吉が無勢で苦戦しているので家康公が部隊を戻して秀吉の部隊に加り戦った。 
その時家康公自身が鉄砲を取り朝倉軍を防いだので、家中の面々は励まされ
力を尽くして戦った。 そのため朝倉勢もそれ以上追う事も出来ず、信長は朽木谷を
過ぎて無事京都へ帰陣した。
是を金ケ崎の撤退戦としその頃有名となり、徳川家の名を挙げた。

この金ケ崎から信長が撤退した時の逸話が一つある。
ある時家康公が信長へ面会した際、末座へ一人座って居る男は一体何者かと
と思っておられたところ、 信長が云うには、家康公は未だ御存知ないだろうが、
あの仁は松永弾正久秀と云い普通の人が出来ない事を三度もした仁である。
一つは主家の三好に謀叛を勧めて十四代将軍の光源院(足利義輝)を攻め殺させ、
二つは三好家に反旗を翻して滅亡させ、 三つ目は奈良の大仏殿を焼いてしまった
仁である、と。
松永は赤面して困惑した様子なので家康公は気の毒に思い、席を立って松永の
側近くに行き、貴殿の事は兼ねて聞いておりましたが私は遠国に居るので御目に
かかれなかったが以後宜しくと挨拶をされた。 

旅館に帰り迎えに出た家老達にこの咄をされたが信長に関しての話しは特になく、
松永が非常に困っている(p32)様子を見て、以前に苦労した時の物語をされた。

信長が金ケ崎から撤退した時の事であるが、浅井の策略により所々で一揆が
起きていると言う情報があり信長も苦慮して朽木谷方面へ撤退しようとしたが、
朽木と云っても佐々木の一族であり、浅井とは同じ仲間とも考えられた。

そこで松永弾正が信長に申出た事は、私が朽木の館へ行き交渉して味方に付く様
説得します。 朽木が同意すれば人質を出させ、その者を連れて迎えに参りますから
暫く此処でお待ち下さい。 若し私が戻らない時は、朽木と刺し違え松永は死んだと
お考えになり、 どちらへでも向って下さいと言い終わると朽木の館へ走り去った。 
やがて松永が人質を連れて戻って来たので、信長も疑いを晴らして朽木谷に入った。

もしこれが本当なら、とその後の事は何も言われなかった。
この咄は古い書物にも見えないが、土井大炊頭殿の咄として大野知石が私(友山)に
したものである

同年六月織田信長は軍勢を調えて浅井備前守が籠る小谷・横山の両城を攻撃したが、
浅井は朝倉に加勢を頼み、 朝倉は小谷城の援兵として朝倉孫三郎に一万の軍勢を
付て加勢した。 その時信長も家康公に加勢を頼んできたので家康公は五千余の軍勢を
率いて浜松城を出発、六月廿六日に信長の陣に参じた。

翌廿七日信長陣所で(p33)の作戦会議では柴田と明智の両部隊が第一陣となり、
家康公の部隊は第二陣として控えるというものだった。 それに対して家康公は、私が
柴田や明智の後陣では加勢として出陣した甲斐がない。 浅井・朝倉の両敵の中で
何れかを私が引受て切崩して見せましょうと言えば、 信長も、それは良い事です、
浅井軍は主敵ですから私自身の部隊で切崩しますから、 貴公は朝倉を押さえて下さい。 
しかし貴公は少数、朝倉は大軍の様なので私の配下の中で人数を持つものを三四人
付けますから誰でも希望して下さいとの事だった。

家康公は私の部隊だけでも大丈夫ですが、どうしても加勢をと云う事であれば稲葉一鉄を
と希望して稲葉が加わる事になった。 一鉄が家康公陣営へ参上して云うには、明日の
一戦で私は何の用にも役立たないと思いますが、先手の中に加えて下さいとの事である。
家康公はそれに対し、貴殿も御存知の通り朝倉は大軍、私の方は少数ですから勝利は
分りません。 そこで貴殿は第二陣に控え、我々の一陣が危なくなってきたら横から
朝倉勢に突掛けて切崩すのが良いとの事で一鉄は後陣となった。

さて翌朝になり朝倉は味方が小勢だと見たので姉川を渡って攻めてきたが、そこへ先手の
本多・大久保・堺・榊原・松平信忠・小笠原などが一斉に掛って朝倉勢を切崩して味方の
勝利と成った。 一方信長の先手坂井・池田の両部隊が浅井の先手である礒野丹波に負け
(p34)敗走し出したので、浅井勢は勝に乗じてこれを追い信長の旗本部隊も浮き足立った。
危なくなってきたので家康公は一鉄の部隊に使いを出し、私の方は敵を切崩したが味方
(信長)の戦況が危ないので私も応援に行くが、ここは貴殿が先手となる場面ですと伝えた。
家康公の旗本部隊は東の方に向かい、先手を勤めた面々には今朝からよく働いたので、
その場を守り休息するようにと命じた。 
さて一鉄の勢と旗本の部隊で横合から攻めたので浅利方も敵わず引き下がるところを、
信長の旗本部隊が切崩して多くの敵を討取り勝利した。

信長は大へん喜び、帰陣した時家康公へ種々の名器を進上し、書状の文言には、
今度の大功は表現できない程であり、過去にも例がなく今後誰も達成できないだろう、
実に徳川家の根本であり武門の頂点であると記した。
この姉川の戦いは場所が場所だけに日本国中に知れ渡り、天下の武士の語り草となり
家康公の武勇を褒め称えた。

同年八月廿八日に三郎君が元服して岡崎次郎三郎信康と称した。 浜松の城中での
お祝いに観世宗雪による能舞台が催された

元亀二(1571)年正月五日、家康公従五位上に叙せられ同十一日侍従に任官した。

註1 浅井備前守(長政1545-1573)北近江の戦国大名、信長の妹婿、
   秀吉側室淀君及び徳川秀忠正室於江の父
註2 小谷城、滋賀県長浜市、
註3 朝倉義景(1533-1573)越前の戦国大名、
註4 金ケ崎城(敦賀城) 福井県敦賀市金ヶ崎町、手筒山城は支城
註5 松永弾正久秀(1510-1577)武将、初め三好長慶に仕え、後信長に仕え茶人として
   有名
註6 朽木元綱(1549-1632)武将、朽木谷城(滋賀県高島市朽木野尻)城主
註7 姉川の戦い 滋賀県長浜市野村町付近で行われた。
註8 朝倉孫三郎(景健1536-1575)朝倉家臣、安居城主
註9 礒野員昌(1523-1590)浅井家臣、近江佐和山城主
註10 稲葉一鉄(1515-1589)始め土岐氏、斉藤道三に仕える、美濃曽根城主。子孫は
    江戸期大名となる

  2-2武田家と衝突、三方ガ原の敗戦 29歳
元亀三年(1572)正月十三日、家康公は出馬して金谷大井川を偵察し、(p35)酒井・
小笠原の部隊が井呂が瀬を渡り島田河原に布陣した。 武田信玄は是を聞き約束違反
であると激怒して、近日中に和睦切れの戦いをすべしと準備を進めた。

同年十二月廿二日、信玄は三万五千の軍勢を率いて遠州三方ケ原へ出陣した。 
その前の夜浜松城での作戦会議の時に、 信長の命令で尾張より応援に来ている
三人が言うには、武田方は三万以上の大軍であり、一方味方は小勢なので平地での
戦いは無理と考える。 先ず籠城すれば武田軍が押寄せて包囲する筈である。 
その内に尾張より援軍が到着し敵の後ろから攻めるので、その様子を見て城内から
一斉に突いて出て敵を切崩すという方法以外は難しいと言う。

家康公はそれを聞いて、皆が云う事も一理があるが信玄の軍勢がどれ程であっても、
敵を城下迄楽々踏込ませた上、防戦もせずに籠城するのは城主としては不本意である。 
私は城外へ繰出して戦うので、城内の侍や足軽を一人でも多く連れて出る。 幸に
尾張より来られた皆さんに城の事は頼みますと言へば、応援の三人も我々も出撃に
加わりましょうと云う事になり尾張勢を合わせて漸く八千余になり大野と言う所に布陣した。

信玄方は始め一戦する積りだったが、尾張からの応援もあり更に追加の尾張の(p36)
軍勢も到着すると云う事を聞き、一戦の計画を止めて後陣は既に山際迄引退った。 
そこで郡内の小山田左兵衛配下の上原能登と言う者がきよいケ谷から勝負をする事を
進言し、その理由が妥当であるため、信玄も同意してその褒美としての気持ちから
小山田にその日の先陣を命じた。 

この頃鳥居四郎左衛門は偵察の為に旗本から先手の部隊に来ていたが、武田方の部隊
配置を見て旗本へ戻って家康公の前へ参上して、今日の一戦は止めた方が良いと
思います、武田方は大軍である上幾重にも備えをして、その配置も万全ですと報告した。
家康公は立腹して今日の一戦を止めるとはお前はいつもと違い臆したかと云われたので、
四郎左衛門は、私が剛毅か臆病かはどうでも良い事で勝負の善悪をお考えの上戦を
進めて下さい。どうしても一戦と云う事であれば、敵が堀田の郷へ進んだ時分に始め
られるのが良いでしょうと申上げた。 渡辺半蔵も偵察から戻り今日の合戦は疑問がある旨
申上げたが全く同意なく、 戦いを始める様にと先手の面々へ命令され夕方になってから
合戦が始った。

武田方の小山田が味方の石川伯耆守と戦い始め、石川家来の外山小作が一番に鎗を
合わせた。酒井左衛門、榊原小兵太、大久保七郎右衛門、柴田七九郎などが攻め掛け、
山家三方衆の作手、段峰、長篠等の三手を切崩した。
山縣三郎兵衛の部隊を旗本部隊で三町程追い立てた所、武田四郎勝頼が山縣の二陣で
として大文字の旗を押(p37)立て横から攻めてきた。 これを見て武田左馬頭、穴山梅雪も
勝頼に続いて押してきた。 信玄の命令により小荷駄奉行の甘利の部隊迄も押掛けた。 

この戦いで信長から応援に来ていた平手監物も討死を遂げた。 浜松方は総敗軍となり
家康公も退却中、武田方の城伊庵とその弟の玉虫が一緒に追いかけて来たので馬を
引返した。 そこへ夏目次郎左衛門が駆けつけ、大将の討死の場ではありません、と云い
馬の口を浜松へ向けて、持っていた鎗の元で馬を叩いたので馬は駆け出した。 夏目は
その場に残り討死を遂げた。
家康公は戦場から撤退して浜松城へ着くと西門より入ったが、味方の敗軍で城内の者が
大将の安否を心配して慌てるのではと思い、わざとお堀端を乗回した後玄関口から入った。

この戦いで家中の戦死した面々は本多肥後守、岩城勘ケ由父子、松平弥右衛門、
加藤次郎九郎、天野藤右衛門、青木叉四郎、渡辺十右衛門、同新九郎、中根平右衛門、
成瀬藤蔵など始として三百余人が討死した。 中でも鳥居四郎左衛門忠広は偵察から帰り、
お前は日頃と違い今日は臆したか、と言われた事を心に刻み、先手の石川伯耆守の
部隊へ駆けつけて合戦が始るや否や武田方の土屋右衛門尉の部隊に切込み討死を
遂げた。
戦いが終り右衛門尉は鳥居の旗指物を取寄せて見たら紺地の布に金で鳥居の紋を付け、
その下に鳥居四郎左衛門尉(p38)忠広と書付てある。 これを信玄に見せたところ、
名のある侍の差物などを悪く扱ってはいけない。 以後其方の家中の番差物に使う様にと
信玄の差図があったので、右衛門尉家中の番差物に用ひた。今でも土屋家の番差物に
使っていると言う。

天正元年(1573)四月浜松城にて家老達が御前へ出て、甲府で武田信玄が死去したと
云う噂がありますと申上げた所、信玄程の武人は現在外に居ると思えず、その上歳も
未だ五十を多くは超えていない筈なのに死去が事実なら惜しい事だと色々思い出を
語られたので一同感じ入った。

同年秋、武田勝頼は武田左馬頭信豊と馬場美濃両人に命じて遠州金谷に台城を築き、
諏訪の原城と名付けた。

天正二年(1574)正月五日 家康公正五位に叙せらる

同年四月八日三河国産目と云う所で後の越前中納言秀康公が誕生したが、何か理由が
あって本多作左衛門へ預けられ、幼名を於義伊丸と云った。

同年天野宮内左衛門を攻める為に犬井城を取囲んだが兵糧の運搬に支障があるので
味方は苦労していた。 そこで三倉の砦へ撤退した所、城主の宮内左衛門が後を追い
戦いを始め兵卒二十四人が討死をした。 そこで水野、大久保、榊原康政等が取て返して
戦い多数討取り、敵を追払い家康公は何事もなく三倉の砦に入った。 この撤退時
大久保七郎(p39)右衛門が馬から下り、負傷した家僕の文蔵にこの馬に乗れと云った。
文蔵はこれを聞いて馬鹿げた馬の下り方をなさる、私の様な者が五人や十人死んでも
大した事はありませんが大将たる人の一命は大切です。 神に誓っても乗りませんと云う。
七郎右衛門はそれを聞いて、乗りたければ乗れ、乗らないならそれも良い、何れにせよ
私はここに馬を捨てると云い歩行した。 児玉甚内が文蔵を抱いて馬に乗せた。 
家康公はこの様子を聞いて、強将の下に弱卒なしとの言葉だった。

註1 三方ケ原  静岡県浜松市北区三方町付近
註2 小山田左兵衛尉(信茂1539-1582)武田家譜代家老衆
註3 山家三方衆 奥三河(信楽郡山間部)の作手、段嶺、長篠を指し、夫々奥平、田峰菅沼、
   長篠菅沼という豪族がいた。 始めは家康に従っていたが武田方に三家共切崩され、
   家康から離反して武田方に付いた
註4 山形三郎兵衛(昌景1529-1575)武田家家臣、武田四天王のひとり。
註5 夏目次郎左衛門(吉信1518-1573)家康家臣、前に一向宗一揆に加担、巻一に出る。
  家康の身代わりとして討死した事で有名
註6 武田信豊(左馬頭1549-1582)武田信玄甥
註7 馬場信春(美濃守1515-1575)武田四天王の一人、
註8 諏訪原城 別名牧野原城、静岡県島田市金谷
註9 天野宮内左衛門(景貫) 武田家の勢力が遠江に及んだ1571年徳川家から離反して
   武田勝頼に付く
註10 犬居城 浜松市天竜区春野町堀之内(山城)天野氏歴代居城
註11 御蔵砦 三倉城 静岡県周智郡森町三倉

  2-3 長篠の戦い 32歳
天正三年(1575)正月十五日浜松城下で鷹狩りの時、井伊万千代を始てご覧になり
誰の子かと尋ねられた。 私は井伊信濃守直満の孫で肥前守直親の子ですと申上げた
ところ、即日家臣に加えられた。
後日に井伊谷が先祖の旧領であるのでこれを万千代に下され、井伊谷三人衆を配下に
加え、更に木俣清左衛門、椋原次右衛門、西郷藤左衛門三人を付人として与えられた。

同月十八日天野三郎兵衛康高の下女が連歌の発句を献上したので披露された。 来る
廿日の鎧の賀の時に多数の連歌を出す様に命ぜられた。 その年の六月長篠の戦いで
勝利したので徳川家代々毎年の祝いとなった。

同年五月、武田勝頼は二万の軍勢を率いて三河国長篠の城を攻めた。 城主の
奥平信富と援兵の松平外記が堅固に守り防ぐので武田勢は中々攻略できない。
しかし城中の兵糧は乏しくなり、その状況を鳥居強右衛門が岡崎へ報告した。
それ以前に家康公より小栗大六を使者として織田信長へ加勢を依頼し、信長・信忠
父子が五万に及ぶ軍勢を率いて出馬し(p40)ており、 家康公も信康公を同道して
近日中に救援に向う旨云われた。

強右衛門は長篠城へ戻って柵を乗越へて城内へ入ろうとしたが武田方の侍で
河原弥太郎と云う者が夜勤番中に強右衛門を見付て縛り上げた。 勝頼の本陣へ
連行したところ、勝頼は鳥居に面会し事の次第を聞いて云うには、長篠城中には多くの
侍が居るのに其方一人が身を捨てて城を抜け出して大事な使いを勤めたのは誠に武勇に
勝れた剛毅な武士云うのは其方の様な人を云うのだろう。 所で一つ言い聞かせる事がある。 
もし同意するなら一命を助け、その上勝頼の旗本直参に採用するがどうかと問われた。

強右衛門は、一命を助けられる事自体たいへんな事なのにましてや直参に採用戴くなど
望外の事です。 どんな事でも必ずやりますと言う。 それでは長篠の柵の近くに行き、
城内の仲間を呼出して、今度の加勢について織田信長が同意しないので徳川殿単独では
救援が難しいとの事である。 此上は直ぐに降参して城を明渡すのが良いと云えとの事である。

鳥居が承知しましたと云うので手の縄を解き胴縄だけ付けて城際近くに行った。 そこで柵の
木に上り、強右衛門が 唯今帰りましたと呼べば、待兼ねた城内の者達が門を開けて走り出て、
どうだったと問えば強右衛門は答て、 私は岡崎より今夕方帰り島原山で時間を調整し夜陰に
紛れて城中へ入ろうとしたが、夜廻り番人に発見され囚人の身となった。 所で岡崎城では
家康公は(p41)勿論の事、織田信長も加勢に五万余の軍勢を率いて岡崎に着陣されたので
近日中にこちらへ着陣するので皆に伝えて欲しいと云う。
武田方侍は鳥居を柵より引おろして縄を掛けて勝頼へこの事を報告したので勝頼は激怒して
城から見える所で強右衛門を磔に掛けた。 

この頃加勢の四大将方が長篠に向けて進軍していた。 家康公と信康公は八剱山と高松山
に布陣、信長と信忠父子は極楽寺山と御堂山に夫々布陣した。 勝頼は兼て鳶巣山に砦を
構えて武田兵庫頭に三千の兵を分与して守らせていた。 この鳶巣山砦を攻めるという酒井
左衛門尉の作戦に信長が同意し加藤市左衛門、金森五郎八、佐藤六左衛門三人が添えられ、
徳川家からは松平主殿頭、其子家忠、本多豊後、松井左近将監、牧野新次郎、菅沼新八郎、
松平玄蕃、西郷孫九郎等が左衛門尉へ加えられた。 これらの部隊は間道を通って鳶巣山の
城へ向った。

十二月廿二日の黎明に至り、勝頼は軍勢を率いて瀧沢川を渡り十三段に陣を敷いた。 家康公
と信長は大軍にも拘らず丈夫な柵を作り其内に鉄砲足軽を配置し、その後ろに兵士を配置して
敵勢が掛かって来るのを待っていた。 勝頼は何の遠慮もなく押掛けて柵の内へ矢玉を放して
柵を破れと命令した。 各部隊は侍達迄柵際へ押掛け遅れを取るまいと柵木を壊して攻込もうと
する処に織田徳川連合方の数千挺の鉄砲が筒先を並べて発射された。

武田方の中では有名な武将達迄全て鉄砲に中り討死をする者無数である。 其後敵味方の
各部隊が一同に合戦を(p42) 始めたが、 武田方は終に戦い負けて総敗軍となった。
武田方で討死した武将は山縣三郎兵衛、内藤修理、馬場美濃、土屋右衛門、真田源太左衛門、
同兵部、甘利備前、原隼人安中右近、望月甚八等で、足軽大将では横田十郎兵衛、多田三八、
小幡叉兵衛等始として信玄が育ててきた強兵が全て戦死した。

其日の早朝鳶巣の砦へも酒井左衛門尉配下の軍勢が押寄せ奇襲攻撃したので、 城将
武田兵庫頭、 三枝勘ケ由左衛門、 飯尾弥四左衛門、五味与三兵衛、 縄無理之助等を
始め数百人が討死した。 徳川方では松平主殿が討死した。

註1 長篠城 愛知県新城市長篠
註2 奥平信昌(1555-1615) 三河国作手の有力国人、今川、武田、徳川と所属が変わる
註3 井伊万千代(直政1561-1602)後の徳川四天王の一人、父井伊谷城主
  直親が謀叛の疑いで今川氏真に誅殺される。 井伊谷城は浜松市北区引佐町
註4 井伊谷三人衆、永禄11(1568)家康が遠州を攻めた時、今川氏真から
  離反した井伊谷の近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時の三人。
   
      2-4 武田方長篠余話   
この長篠の戦いには種々の説が有るが、その中で確かと思われる事を少し詳しく記す
   その1 武将達の水盃
信玄以来の武田家家老である馬場美濃、山縣三郎兵衛、内藤修理、土屋右衛門等は打合せ
長篠の戦いの前に勝頼に異見して、 この戦いは止めた方が良い、敵は信長と家康の連合で
六万以上の大軍であり、陣は柵や逆木で囲っており、 数で劣る味方軍が合戦しても勝ち目
はありません。 大軍の上方勢が武田家の武威に恐れて陣を柵や逆茂木等で囲っているのを
勝として、 今回は奥平を生かして軍を引揚げるのが良いでしょうと云った。 勝頼が承知
しないので手を替え品を替え色々説得した結果大筋同意した。 しかし更に考慮すると云う
事で家老達が退出した後、跡部大炊(p43)長坂釣閑という二人の追従者を呼び出して、
家老異見の趣旨を聞かせて其方達はどう思うかと尋ねた。

両人は、御前の考えで是非とも戦いを進める事に家臣の身分で反対する事などは信玄公の
時代には思いも寄らぬ事でした。 これは御前が若く今跡を継いだばかりなので軽んじる
気持ちがあるのでしょう。 勿論上方勢は大軍の様ですが、合戦の勝負は人数の多少には
関係ないと、信玄公も良く云って居られたのを私達も聞いて居ります。 是非一戦を進められる
のであれば武将達を呼び集めてその旨を言渡し、それでも家老達が反対する様なら武田家の
誓言を聞かせれば、皆覚悟を決めて随う以外ないでしょうと言う。 

勝頼は早速その意見通り家老を呼出し、其方達の意見は熟考したがやはり一戦を行う以外ない
と伝えた。 家老達はそれを聞き、先ほども申上げた通り明日の一戦は難しいので今一つお考え
下さいと云った。 勝頼は不機嫌となり皆が同意しないのであれば見ておれ、私は旗本部隊だけ
で一戦を遂げると誓言をして云う。  

家老達も止むを得ずその座を下り、 明日の一戦の場所を見て置こうと武将達とも相談して
出かけた。  見分が終って四人の家老は清田村と云う(p44)所で清水が湧出ている池の辺に
一同集って床机に腰掛け休んだ。 そこで馬場美濃守が、明日の一戦ではお互いに生死は
どうなるか分らない。 私達は信玄公の代以来一緒に勤めて長く親しくしてきたが、この様に集る
事もこれが最後となるかも知れない。 山野の事で酒盛という訳には行かぬが、あの池の清水を
汲んで今生の名残の盃を交わしてはどうかとあった。 

他の三人の家老もそれが良いとの事だったので、馬場は家来に柄杓で清水を汲取らせ、腰に
挟んだ水呑で、まず私からと一盃呑み、残る三人もこれを飲んだ。 その後あちらこちらで水を
飲み交わしたので、その頃から是を武田家の清田村における水酒盛と伝えている。
主人へ対し忠言を尽し、其事が行れず討死する覚悟を決めた同志の者が水酒盛をして今生の
名残を惜しむ気持ちは世の中に決して多いと思えないのでここに書留める。

   その2 山縣三郎兵衛の最後
この一戦の時、山縣三郎兵衛は家康公の陣に前から掛かってきたが、信長の差図で柵木を
丈夫に構えていたので、柵を破らない限り戦いが出来ない。 武田勢は柵際へ詰めかけて
始め押倒そうとしたが柵木の根が深く倒れない。 刀や脇指で切破って押入ろうとして、我も
我もと柵際へ寄り集るので武田方は味方を傷つける事を恐れ鉄砲は打つ事が出来なかった。

家康公(p45)は事前に各部隊の鉄砲を全て柵内に配置して、大久保治右衛門配下の鉄砲
発射を合図に、柵の木の根際を目標にして各部隊が一斉に入替わり立替り発砲する様にと
伝えてあった。 武田勢は柵を切破りって間もなく押入ろうとする時分、 味方の足軽達は
膝台に鉄砲を乗せて待構えていたが、治右衛門配下が鉄砲を打出したと同時に、各部隊の
足軽達が雨の降るように打ち掛けたので柵際の武田方の負傷者死人が多数出た。

山縣は広瀬郷左衛門を呼び、味方の軍勢を川原へ進めて正楽寺の浅瀬より敵の左へ廻り、
家康の旗本部隊へ押掛けて一戦を遂げようと伝えた。 広瀬は承知しましたと云ったが山縣の
配下の者達も四方へ散り非常に少数だった。 しかし山縣が馬上で集合の采配を振ると、
流石は山縣の配下の者達だけの事はあり直ぐに三四百程集った。 その部隊を率いて川原の
方へ進もうとした所に、大久保配下の鉄砲隊の玉が山縣の右の手に当ったか、采配を左の手
へ持替た。 しかし今度は左手へも鉄砲が中ったのか最後は采配を口にくわえながら駆け
回っていた。三度目の鉄砲が山縣の鞍の前輪をかすめて下腹を打貫いたので、山縣は采配を
口に咥えたまま落馬して絶命した。 

武田家で大身の家老達は数人あったが山縣は家康公も只者ではないと思われていたようで
ある。
一つは本多百介に男の子が生れたが、かたわに生れつき(p46)たいへん残念がっている由を
側衆から家康公が聞いた。 それは如何様のかたわかと尋ねられたので、大きな兎口と云う事
ですと答えた。 家康公は、それは良い事だ、信玄の家老山縣は大きな兎口だったと聞いて
いるが、山縣の魂が移り当家譜代の百助の子に生れ出た事は目出度い事である。 十分大切に
育てる様父百助にくれぐれも伝えよとの事だった。

次には石川伯耆守が徳川家を去って秀吉卿へ仕えた年の翌年十一月六日だったと思うが、
旗本を始め家中一同に、是まで使ってきた当家の軍法一式を今後は全て信玄流に替えるので、
その様に心得よと通達された
その時の事だったか、井伊直政へ預けて置いた山縣配下の侍達を御前へ召出して、直政の
部隊は今後赤色の具足に統一し先手となる事、 直政も山縣に劣らぬよう部下を良く育てる様に
と言われた。これは山縣の事を家康公が惜しまれたためと思われる。

この様に山縣討死の様子など末代迄武士の頭を勤める侍の手本にもなると思い此処に書留めた

   その3 馬場美濃守の忠節
馬場美濃守は柵際で配下の者が皆討死をしたり、負傷したりで部隊が崩壊したので仕方無く
戦場を退いて小山に上り、千鳥鎌の鎗を杖にして、敵を後ろに控え味方の敗軍の方を眺めた。
そこへ真田兵部が来て山の下に馬を留め、そこに居られるのは馬場(p47)殿ではないかと
言葉を掛けた。 馬場は、私は美濃である、貴殿は如何と聞く。 兵部は、兄の源太左衛門は
撤退したと聞いたので、私も撤退しようとした所へ兄が乗っていた馬が引き返してきた。 
その轡取りの者に尋ねたら源太左衛門は討死したと云う。 今朝出発する時に、討死する時は
兄弟一緒と決めて居たので此処まで引き返し来ました。 あなたは源太左衛門の討死の場所を
御存知ないかと聞く。

馬場は、源太殿が討死した場所は柵際近い所ですが、その辺へは最早上方勢で満ちて居る
ので行くのは無利でしょう。 私もここで討死と覚悟しているので一緒にと云うので、兵部も馬場の
側に並んで立っていた。 そこへ上方勢が押掛けてきたので兵部は最期を急ぎ、馬場殿は何を
見合わせているのかと言葉を掛ければ、馬場は今少し待ちなさいと云う。 暫くして馬場が
言うには、唯今勝頼は猿橋を渡ったのでもう安心です、と云い鎗を持ち直して山から下りて
討死を遂げた。

世間では日頃主人に目をかけられ人に勝れて昇進すれば、主人が鷺を鳶と云えばそれに随い、
恩ある主人が落ち目になると日頃の態度を変えて主人の苦労を顧みない類の者も多い。 
この馬場などは主人勝頼の為に忠言を尽したが採用されなかったので、主人が辱められるなら
家臣は死ぬという昔の人の(p48)言葉通り討死の覚悟を決めた。 その上尚主君の安否を
気遣い、勝頼が猿橋を越えたのを見届けて後安心して討死を遂げるのは決して例が多い事
ではないのでここに書き留める。

   その4 高坂弾正の心配り
この一戦の時、武田家家老の一人高坂弾正は上杉家の進出を阻止する為に信州海津の城に
残留していたが、長篠戦について心配し部下の小幡山城に後を頼み川中嶋から出陣した。 
しかし勝頼が利を失い味方が総崩れとなった事を聞いたので、小高場と云う所に宿の陣を張り、
勝頼は云うに及ばず侍達に至る迄全員への料理を用意して待っていた。

勝頼が着陣したので弾正は迎えて、恙なく御帰陣になり目出度い事ですと云い先に立って
座敷へ案内した。 勝頼が弾正へ云った事は、今度長篠では私の思った事と異なる戦いで
後れを取っただけでなく、信玄公が大切にして居られた家老や武将達を全て討死させて
しまった。 私も討死する覚悟であったが穴山梅雪から厳しく留められ、止むを得ずその
意見に随い帰陣し其方などに向って面目次第もないと云えば、弾正は聞いて、その事は
後にしましょう、先ず御膳を召上って下さいと云いながらいつもと違い弾正自身が
立廻って接待した。

食事が終ってから勝頼は弾正を呼び、先程も概略は述べたが返すがえすも私の不見識で
やらなくても良い戦いを進めて負けてしまったと云う。 弾正はそれ聞き、貴方様は未だ若い
ので(p49)是非一戦と思われたでしょうが、この様な時こそ家老達が相談して強く止めるべきで
あるのに、殿の思うままにさせたのは不届きですと言う。 
勝頼は答えて、いやいやそうではない、家老達は無理な戦いと気づき、手を替品を替三度も
戦いを止めるよう進言した。 その意見を取り入れなかったのは私の過ちで家老達には非は
ないと云い、家老たちの意見を詳しく説明した。

弾正はそれを聞き、それでは尚更家老達の判断ミスと私は考えます。 何故なら勝てない戦い
と考える以上、他の武将達も全員を殿の前に集め、明日の戦いは不可能ですから是非一戦と
云われるなら全員で切腹しますと云うべきです。 そうであれば殿一人が一戦と思っても先手
を受持つ武将もないので戦う事は出来ません。 一戦できなければその場は退く以外
ありません。 そうすれば将兵を失う事もなく改めて次の機会を得られたのです。 実に家老達の
思案不足は残念ですと云った後、この討死した者達は信玄公の時代より私も共に勤め
長年親しくした者であり不憫ですと目に涙を浮かべた。 勝頼も落涙に及んだとの事である。

これらの事は横田次郎兵衛殿宅で小幡勘兵衛殿が話された席に私(友山)も居たので(p50)
此処に書き留める。

註1 高坂弾正昌信(1527-1578)  武田家重臣
註2 梅津の城 別名松代城 長野県松代市松代
註3 小幡山城守虎盛(1491-1561)
註4 小幡勘兵衛景憲(1572-1663)甲州流軍学者、大道寺友山の師

   2-5 武田方遠江の諸城攻略 32-34歳
天正三年(1575)六月  家康公は浜松を出馬し遠江国二俣城を攻めた時、城主朝比奈弥兵衛
が打って出て味方の松平彦九郎を討取った。 その時内藤弥次右衛門が弓で弥兵衛を
射倒すと、弥兵衛の弟朝比奈弥蔵が弥次右衛門に打って掛った。 弥次右衛門二の矢で弥蔵を
射殺したが城兵が弥蔵を城内に引き入れようとするので、桜井庄之助が追付き敵を突伏せて
門際で首を取て戻るところ桜井の赤根の指物が城門に引っ掛かった。 桜井の下僕の今若が
これを見て主人桜井に知らせたので早速引き返してこの指物を取て帰った。 この時家康公は
鳥羽山の上から是をみており庄之介の働を高く評価された。 

その翌日二股の城主依田方より内藤が射た矢に札を付、賞賛の言葉を書き添え石川日向守家成
に送ってきた。 この事を報告したところ、 家康公は弥次右衛門が弓術と武勇を兼備へていると
云う事で高く評価し褒美に胴服を与えた。

同年武田方の朝比奈叉太郎が立て籠もる光明城を攻め、本多・榊原の部隊が先鋒で二天門
に攻め上り戦った。 城主朝比奈は防ぐ事が出来ず城を明渡した。
 
同年七月叉出馬し遠州諏訪原の城を攻めた。 城将今福丹波、室賀、小泉等堅く城を守り戦う。
その時は鳥居彦右衛門が先鋒に進み戦ったが、城中より打放した鉄砲に腹を打抜れ落馬した。
しかし従士杉浦藤八と云者がよく元忠を助けて退いた。 その後城兵は力尽て籠城出来ず、
武田方三将(p51)は城を捨てて同国小山の城へ退いた。 以後諏訪の原城名を改め牧野の
城となった。
この城は敵城にも近く領地の境目であるので急に敵が攻めるかも知れず、誰を城代にするか
思案中に、松井左近将監忠次が進み出て、もしお許しがあるなら私が城に残りますと云うので、
家康公は喜んで忠次を城代に任命して一字を与えた。 以後松井は周防守康親となった。

同年九月牧野の城へ家康公は出馬し、武田方小山の城を攻めるかどうか評議した。 
酒井左衛門尉が云うには、小山の城は要害の地ですから、落城したとしても手間を取られます。
こんな所へ敵が大軍で援護すれば緊急に軍を引き上げようとしても道路も険難多くて大変
ですから、今回は攻撃を延期しましょうと云う。 その時周防守(前出)が云うには、勝頼は前の
長篠戦で重臣達が多数討死しており、それ以来武力も衰えていますので強力な援護は
出来ないでしょうから小山を攻めるのがよいと言うので家康公は同意し則小山を攻めさせた。 

この時石川伯耆守、松平周防守、本多平八、松平善四郎、同叉八郎などが先鋒で力戦した。 
そこへ武田勝頼が二万余の軍勢を率いて大井川の辺へ進軍したと云う情報があったので、
小山の城の包囲を解いて牧野の城へ退いた。 勝頼が大軍で押寄せるとの(p52)事なので
味方の者達はどうしようかと思って居た時、榊原康政と大須賀康高の両人が、ここは私達が
先手しますと云い部隊を進めた。 その体制に隙がないので武田方は追う事が出来なかった。

その時まで旗本部隊は先頭に信康公、後方に家康公が続いていたが、信康公が自身の兵
を全て道の脇に寄せ自身も馬を寄せたので、家康公からは何故そこで控えているのか、先に
行って良いとの事である。 信康公は、今までは敵が前にいましたの先に立ちました、最早敵も
後になりましたので、お先に引取り下さいと答えた。 家康公より叉使者が立ち、敵前の遠近は
構わず今まで通りの隊列で馬を進める様にと使者が言う。 信康公が使者に伝えたのは、其方
達の身にとっても心得るべき事だが、敵前近くでは親を後にして子が先に退けるか、 いくら
言われても随えないとの事なので、使者はその通り報告した。 
家康公はこれを聞き、さてさて剛情な奴と言われたが左程立腹ではない様子で牧野の城へ
入られた。

天正四(1576)年犬井へ出陣し楢山の城を攻め、次に勝坂の城攻めに取り掛かったところ
城主の天野宮内左衛門が塩見坂の陣で防戦した。 味方の先鋒が破れ大原大助、大浜
平左衛門等が討死を遂げた。 その時水野忠重や大久保忠世(p53)が力戦したので城兵
は防ぐ事が出来ず、城将天野は城を捨て逃れて鹿鼻の城に籠ったので帰陣した。

此年家康公が岡崎の城へ入られた時、信康公から本多作左衛門方へ内意があり、産目より
作左衛門は於義丸君を連れて岡崎の城へ登城した。 信康公の差図通り座敷の障子を
於義丸君に叩かせた。 家康公がこれ聞き、あの障子を叩くのは誰だと尋ねられたので、
信康公は席を立って次に間へ行き、於義伊君を抱いて戻った。 
これは私の弟於義丸ですと云えば、 家康公も此方へと抱いて膝の上に置かれ、元気に
生れたなと云われるので、信康公もおっしゃる通り丈夫に生まれ育っています。 
この者が健やかに成人すれば私の良い援けと成るでしょうといえば、家康公もご機嫌に
可愛がり来国光の脇指を与えられた。
是以降岡崎は言うまでもなく、浜松城下でも於義伊丸様と云い皆尊敬するようになった。

天正五(1577)年八月、遠江から山梨方面へ進出したところ、武田方穴山梅雪が防禦したが
徳川方の攻撃が急であり、梅雪は終に戦い負けて引退がったので帰陣した。

今年十二月十日頃 家康公は従四位下に叙せられ、同廿九日左近衛権少将に任ぜられた。

天正六(1578)年三月、浜松を出陣し駿河田中城を攻めた時、酒井与九郎、内藤勘左衛門、
熊谷小市郎、小栗叉(p54)市の四人が命令もないのに忍んで城壁に近付いたので、城外に
伏せていた敵兵が急に興って襲った。 上記四人の者達は粉骨を尽して戦い。終に敵を城中
へ追い込んだ。 比類のない働きであったが、命令もないのに抜け駆けをしたことは軍律違反
であり家康公の意に反し四人共に勘気を蒙った。
その翌日味方の諸部隊が田中城の外郭を攻破り敵を多数討取った後、牧野へ帰城された。 
勘気の四人はその後三ヵ年を過ぎて許された。

同月十三日越後の上杉謙信が春日山城中で死去したという知らせがあった。 家康公は、
武田信玄が死去した後では謙信程の武人はいなかったのに、とその死を惜しまれた。

註1 二俣城 浜松市天竜区二俣町二俣
註2 依田信蕃(1548-1583) 武田氏家臣後徳川氏家臣
註3 光明城(別名髙明城) 浜松市天竜区山東字光明山
註4 諏訪原城(牧野城) 静岡県島田市金谷、武田氏築城
註5 小山城 静岡県榛原郡吉田町
註6 犬井城(犬居城) 浜松市天竜区春日町堀之内 室町時代初め以来天野氏居城
註7 勝坂城 犬居城の支城 浜松市天竜区春日町豊岡
註8 於義伊(於義丸) 家康の第二子、後の結城秀康。 懐妊すると女を本多作左衛門に
   預け、この時が父子初対面との事。 母は家康正室築山殿の女中於万
註9 本多作左衛門(重次1529-1596)家康家臣、一筆啓上云々の書翰は長篠戦の時に
    書かれたと言う
註10 穴山梅雪(1541-1582 ) 武田家重臣、(一門)
註11 田中城 静岡県藤枝市田中1 今川家の城、1570年武田家に取られる
註12 上杉謙信(1530-1578) 戦国大名、越後守護代長尾家出身、長尾景虎

    2-6 嫡子信康の自害 36歳
天正七(1579)年四月七日 秀忠公浜松城で誕生され土井甚三郎が七歳で付人になった。

同年九月十五日三河守信康公が遠州二俣の城内で切腹された。 息女が二人あり小笠原
兵部大輔秀政及び本多美濃守忠政へそれぞれ嫁いだ。  信康公切腹について、私
(友山)が若い頃ある老人から聞いた咄がある。

遠州二俣で信康公が切腹を命じられた時、浜松から検使として渡辺半蔵と天方山城守に
御目付衆を添えて派遣された。 科の理由書を両人は持参したので差上げたところ、
信康公は拝見した上で両人へ云われた事は、最早この様に云われる以上言分けがましい
事は云わないが、其方達に言って置きたい事は、子の身として親に(p55)対し謀叛や逆心
などは人の倫理に反する。 然るに私が武田勝頼と同意して当城中へ武田勢を引き入れて
謀叛を企てたなどの一条は、日本国中の神慮にかけて全くの虚言で影も形もない事である、
この一事は私の死後よくよく説明して欲しいと云われた。 

両人は畏まって承り、その件に付いてはご安心下さい、仮令私達が大殿様の御機嫌を損じ
咎めを受けようとも、ご遺言として伝えますと堅く約束した。 信康公は満足され、他にもう一つ
頼みがある、当城下でも浄土一宗の寺は有ると聞くが葬儀は大樹寺の方丈へ頼みたいとの
事である。 両人は、それはお安い御用です他に何でもおっしゃって下さいと云えば、他に
思い残す事は無いとの事だった。 

信康公は渡辺に、其方は私が幼少の頃から馴染んでいたので介錯は其方に頼むとの
事だった。 渡辺は畏まりましたと次の間から自分の刀を持って来て腰脇に置く。 信康公
はそれを見て肌を脱ぎ潔く切腹され、半蔵、半蔵と呼ばれた。 しかし半蔵は信康公が肌を
脱ぐのを見た途端にぶるぶる震えだし何も出来ない状態である。 山城守はこれを見兼ねて
半蔵はあの通りです、 定めて御苦痛でしょうからお許しが(p56)あれば恐れながら私が
介錯をさせて戴きますがと伺えば、其方頼むぞと云われたので是非無く山城守が介錯して
差上げた。

御目付の内一人報告の為に浜松へ返し、両人は暫く鋸って葬儀を執り行なった後浜松へ
帰り登城して詳しく報告した。 次に謀叛に言及する一条に関しては天地神明に誓った
遺言の事を両人が承った事情を涙を流しながら報告した時、家康公は特に何も云われ
なかったが、御前に控えた人々は皆涙を流した。 中でも榊原康政と本多平八郎の両人は
いたたまれなくなり声を揚げて泣き出して下ったので、次の間に控えた人々も暫く落涙に
及んだ。

其後家康公は御側衆に、この度山城守が二俣城へ持参した脇差の銘を尋ねられたので
千子村正作である事を報告した。 家康公はそれを聞き、御前に居た人々に以下云われた
以前に尾張国守山城攻撃中に安倍孫七郎が乱心して清康公を殺害したのも村正作の刀と
聞く。 叉家康公が若い頃駿河国富ケ崎寄留中小刀で手を切り、たいへん痛かった事が
あるが、この小刀の銘も千子村正だった。 今度山城守が思いも寄らず信康公の介錯に
使ったものも同作である。 つまり村正作の刀は徳川家にとって不吉と思われるので村正作
の刀類は全て捨てる様に納戸係り役人に指示された。

一方前述天方山城守は徳川家を立(p57)去り行方が分らなくなったが、暫くして紀州高野山
に閑居しているという噂があった。 日頃天方と親しくしていた友人の一人が有馬温泉入湯の
休暇願いを出し、序に高野山を訪れ天方に出会った。 そこで貴殿はどんな考えで浜松を
去ったのか、と尋ねた。 天方は、貴殿も聞いている通り二俣城で思いがけず若い信康公を
私の手に掛けてしまった。 それ以来世の中が空しくなり、奉公にも身が入らずこの様な状況
になったと云う。 更に言葉を尽くして尋ねたところ、天方が言うには、今更云っても仕方がない
事であるので決して他言無用と言う事で語った。

私が徳川家を去ったのは別儀ではない。 信康公の切腹の際、介錯を半蔵に頼まれたが
切腹に至ると半蔵がぶるぶる震えだして介錯が出来ない状態だった。 信康公は既に腹を
切り苦しんで居られるのを見かねて、私がお許しを得て介錯したのである。 ところが或時、
殿様が近習衆へ雑談の節、渡辺は鎗半蔵と呼れた程の勇者だが、主の子の首を切る時に
なり腰を抜したと云われたのを伝え聞いた。 ならばこの山城は主の子の首切り好きなように
思われたのかと気付き、奉公の身が厭になり世を捨てたのだと語った。

ひょっとしてこの様な事を聞いて不憫の思われたのか、後に結城秀康公が関ヶ原戦以後に
越前一国を拝領の(p58)後、高野山より天方を呼び寄せ高禄で抱えられた。 しかしかなり
昔の事であり真偽は分らないが、私(友山)が聞いた事を書き記す。

註1 秀忠公 後の第二代将軍徳川秀忠
註2 土井甚三郎 後の秀忠、家光時代の老中、大老 土井大炊頭利勝(1573-1644)
註3 松平三河守信康(1559-1579) 妻が信長の娘であるが不仲となり、妻より信長に
   不満の書状が出されたのが発端で、家康は信康を処断せざるを得なかったという説
註4 守山城 名古屋市守山区市場 織田一族(信長の叔父信光)
註5 松平清康(1511-1535) 家康祖父 守山城を攻める最中に家臣に殺害された

    2-7 駿河の武田方諸城攻略 37-38歳
天正八(1580)年正月従四位上に昇進           

同年五月駿河国へ出馬して田中城を攻めるが、武田方城将芦田右衛門佐が防ぐ。 
味方部隊で田中城外の麦作をなぎ払い引揚げるところへ、駿河用宗の城主向井伊賀の
部隊が最後尾の石川伯耆守の部隊に打って懸る。 時に伯耆守を初め酒井河内守、
松平周防守、牧野右馬丞、平岩七之介、内藤弥次右衛門、 鈴木紀伊守等が引き返して
敵兵八十余人討取る

同年九月松平家忠、牧野康成等に用宗の城を攻撃させ、 城主向井及び三浦等戦死した。

天正九(1581)年の春遠州髙天神の城が落城した。 この城は何としても攻め取りたい
と思われ、昨年以来遠江及び三河両国の部隊で攻めたが城兵等が堅く守り中々落ちない。
味方諸部隊に指示された事は決して力攻めにしない事、城を取囲み各陣を堅く守り城中
から夜襲など仕掛けられぬ様に用心する事。 数日立てば城中の兵糧が尽き降参するか、
或はどこか一方を打破って切り抜けようとするか、この二つ以外にない。 もしこの城を
救うために勝頼が出陣すれば、我々も途中迄出かけて武田勢を切崩すので各部隊共
気長に城を取囲むべしとの事。 

その指図通り城中の兵糧が尽きてきたので籠城が困難の旨甲府へ報告したが、(p59) 
勝頼の援護は延び延びになっており、城兵は我慢出来ず一方の囲を切抜けて城を遁れ
出ようと相談していた。 三月廿二日の夜半になり城門を開いて石川長門守が守る
瀧が谷へ切って出た。 味方の各部隊は前からこの事態を待っていたので早速対応し、敵を
瀬が谷へ追い込み悉く討ち取った。 残りは城中へ追返して其勢いに乗って諸部隊が
四方より一斉に攻込んだので城兵は戦い疲れ、城将岡部丹波を始め兵士達も残らず
討死した。 この時信長より加勢として、佐々内鞍助、 野々山三十郎両人が来ており
寄手の中に加っていたが、 彼等による信長への報告では髙天神籠城兵士の首七百余
討取としている。

この城兵の中で唯一人横田甚五郎は味方大須賀康髙と大久保忠世部隊の間の柵を破り
何事なく甲府へ退いた。 勝頼の前へ出て、髙天神の城兵は徳川家康の大軍に取囲れ、
其上兵糧が乏しく籠城を続けられず、城中の者は残らず討死を遂げましたと報告した。
勝頼も特に言葉も無く赤面したが、横田が敵の囲の中を切抜けて帰った事は感心である
として褒美に脇差を与えた。 しかし甚五郎はそれを手にも取らず云うには、私としても城兵と
一緒に討死する所でしたが、それでは髙天神城の事情をお知らせ出来ないので帰りました。
武士たる者が死場を遁れて運よく逃げ帰り御褒美を戴く訳には行きませんので、恐れながら
返上致しますと云い終に受け取らなかった。

後にこの事が家康公の耳に入ったのか、翌年甲府で元武田士卒を数人召出された時の
事であるが、 一条右衛門太夫屋(p60)鋪において夜になり浪人達に面会された時、
横田甚五郎と読み上げられると御前にあった手燭を家康公自身で取られて甚五郎の側へ
行き、昨年髙天神落城の時其方は何歳だったかと尋ねられた。

註1 用宗城(持舟城) 静岡市静岡区用宗城山町 城代武田家臣向井正重、三浦義鏡
註2 髙天神城 静岡県掛川市上土方・下土方
註3 横田甚五郎(尹松1554-1635) 武田家武将原虎胤孫、家康に仕え江戸幕府旗本
註4 一条右衛門太夫(信龍 1539-1582)武田信玄の異母弟
  

 落穂集巻之二終
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