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              落穂集第九巻(p258)
      
       9−1 上杉景勝の反逆容疑と会津進発
慶長五年(1600)春頃、 会津中納言景勝が謀反を企んでいると云う噂が出たが、懸け離れた地
であり又虚説だろうとの話もあった。 しかし江戸からも噂の報告があり、更に会津近辺の国主や
郡主からも夫々の屋敷に報告があったので、これは実説ではないか思われた。 そこへ越後の
守護である堀久太郎の家老の堀監物が参上して詳しい報告があったので、内府卿(家康)は
増田右衛門尉、大谷刑部両人の両人を呼んで、各位も聞いていると思うが、上杉景勝が陰謀を
企てていると専ら噂が飛び交っている。 真実かどうか不明だが世間の噂も不穏なので放置する
訳にも行かぬ。 そこで各位より上方筋の噂を知らせる為に人を派遣して状況を調べて報告する
様にとの事だった。 そこで増田長盛(p259)が家来の河村長門と云う者を使者として増田、大谷
両奉行連署の書状を持たせて派遣した。

これに対して景勝の答は、当春早々上洛予定でしたが病気の為不本意ながら延びております。
当地は未だ寒気厳しく気分も勝れないので、いま少し保養して快気次第登城しますとさりげない
返事である。 しかし色々の噂が続くので内府卿は伊那図書を派遣して真意を聞いたところ、
景勝から伊那図書への返答には少し反逆の様子も感じられた。 其頃京都の相国寺に豊光寺
充長老と云う僧が景勝の家老直江山城守兼続と親しい事から、内府公の内意をこの僧が兼続へ
書状で伝えた。 

その文言は
わざわざ使者便でお知らせします。 景勝卿の上洛が遅れており内府卿は疑念をお持ちです。
上方での噂は穏便でなく、此件で伊那図書や河村長門が派遣されたので使者から伝えられたと
思います。 貴殿と長年の付合いですが愚僧が心配しているのは次の事です。 それは香指原に
新たに築城している事及び越後の津川口に道路を作っている事です。 これは絶対に良く無い
事で中納言殿(景勝)の考えが違っていたら貴殿が止めなければなりません。 内府卿が疑念を
持たれる理由です。
一景勝に謀反の気持ちが無いなら、 霊社の起請文で申開きすべきと内府卿は思っている。
一景勝の律義な性格は太閤様以来内府卿も知っているので、遅延理由が立てば異存はない。
一隣国の堀監物から細かい報告があるので、堅く陳謝をしないと申開きが立たない事を十分
 認識されたい。
一去る冬加賀の前田利長の問題が起きた時、内府卿の公正な考えで処理され、特に何もなく
 (p260)収まりました。 これは参考になりますのでその事を覚悟されるのが良いでしょう。
一京都で増田右衛門尉、大谷刑部少輔は全て内府卿へ相談しているので、この両人に連絡して
 下さい。 又榊原式部太輔にも連絡して下さい。
一全ては中納言殿の上洛が遅れているため、この様になっているのですから一刻も早く上洛
  される様貴殿より計らって下さい。
一上方で専ら噂されている事は会津では武具を集め道路や橋を造っている由です。 内府卿
 が強く中納言殿の上洛をお待ちの理由は、又朝鮮へ使者を送り、若し彼らが降参しなければ
 来年かその次の年に軍勢を向ける予定です。 その打合せのためにも上洛は早くと云う事です。
 疑念を解く為にも早く上洛されるのが良いでしょう。
一愚僧は貴殿と数ヵ年絶える事なく交際しており、たいへん心配しています。 会津の存亡及び
 上杉家の興廃の境目ですから十分考慮して事に専念して下さい。 全て使者口上に含めます。
   (慶長五)四月朔日            豊光寺  義充
   直江山城守殿
         

この書状が会津へ到着すると、直江兼続より豊光寺へ返礼があり、文言は関ヶ原記等にも記して
あるので略す。 豊光寺が直江の返書を差上げたのを内府卿は披見して非常に機嫌を損なった。
其後景勝の家来である藤田能登と云う者が上杉家を立去り江戸へ出て、景勝の所行について
細かく秀忠公に報告した。 更に大坂に上り報告したので、上杉の反逆は確かな物と認識され
会津の討伐方針が出された。 其頃前田玄意法印は京都に滞在していたが大坂へ来て(p261)
増田右衛門尉と相談して会津への進発は留まる様に進言したが内府公は聞き入れない。 
そこで在国の長束大蔵を始め中村式部、生駒雅楽と相談して、各々の考えを整理して五ケ条に
に認めて連判して関東下向は延期すべきとした。 これを五月七日に家康公に提出したが全く
聞入れず、先公(秀吉)の代にも島津や北条等召令に応じず上洛しなかった為に征伐された
例もあるので彼是云わず出軍すると決まった。

会津討伐の作戦が決定し、先仙道口からは佐竹義宣、信夫口から伊達政宗、米沢口からは
最上出羽守義光、 越後津川口からは加賀中納言利長、越後の堀久太郎秀治、同国村上
周防守頼明、溝口伯耆守秀勝等が加賀勢に先行して進発する事になった。 そこで白川口
からは内府公と秀忠公父子が受持ち、那須七人衆、相馬、蒲生藤三郎以下の人々が先手
として此口へ向かった。 各軍が命令を守り一斉に攻込む事となった。
大坂西の丸の留守居として佐野肥後守を配置した。 家康公は六月十五日、本丸にて秀頼卿
と母淀殿へ挨拶をして、翌十六日大坂を進発した。 その時増田長盛、玄意法印を始め其外
秀頼卿の近臣達が見送りとして大手門迄出た。

其夕方(十六日)伏見へ到着し、本丸の留守居に鳥居彦右衛門元忠、松の丸に内藤弥次右衛門
家長、三の丸に松平主殿頭家忠と松平五左衛門近正を配し夫々守る様に指示した。 中一日
逗留して十八日に伏見を出発した。
著者註 この後道中及び下野国小山に在陣中の事、其後上方の凶徒追討の手筈、又美濃国
    岐阜城攻撃の様子及び九月十五日(p262)の関ヶ原一戦の次第等は関ヶ原記又は松平
    隼人正殿が書記した家忠記等に載っているので略す。 これらの書に載っていない事とか
    旧記とは違っている事を書記す。

会津進発が決まった時、 石田三成は末木権太夫と云う者を使者として、今度上杉景勝退治
の為進発される事を承りましたので私も是非人並に参加したいと云う願いがあった。 家康公は、
気持ちは分かるが、其方は現在逼塞の立場であるので参加は控え、子息隼人正に人数を少々
添えて参加するのが良いとの返答だった。 そこで石田家中の者は会津討伐参加と云い出陣
準備を進めた。 以前加賀の前田利長反逆の噂があった時は、内府公から三成方へ柴田左近を
派遣し用事の内容は不明だが、 三成は大へん喜び使の柴田を接待して貴重な道具等も
与えたと云う。 今度は何故か内府公からは連絡なかったところ、三成の方から使いを出した。
これは会津参加の名目で軍備(謀反の)を遠慮なく行う為の謀計ではないかとその後噂された。

伏見城へ入った十六日の夜、鳥居彦右衛門は本丸で勤番する供の人々に接待としてぼた餅と
煎茶を用意した。 夜に入り歩行困難のため座敷でも杖を付いて台所の方へ行くので、お供の
人が、これは御城代とも思えぬ振舞いだと云うのを彦右衛門聞いて、ぼた餅嫌いの人は来るなと
答えた。 余ほど沢山作ったと見え、翌朝大半切内に残っているぼた餅を夫々手に取り、(p263)
懐中にしまい馬上で食べたと、その時お供した年若の坊主衆で生存している人が語った。
今時では御供する人々にはもっと御馳走がある筈だが、時代柄と云い万事手軽だった様だと
桜井宗伝が浅野因幡守殿へ語った。

この十七日の夜に入り鳥居元忠は用があり御前へ出た。 用が終わってから家康公は、今度
当城の留守居人数が少なくて苦労をかけると云った。 元忠は、恐れながら私はそうは思いません
今度の会津進発は大切な事ですから一騎一人でも人数多くお連れになるべきと考えます。随い
弥次右衛門及び主殿もお供に加えられ、当城は私が本丸の留守を勤め、五左衛門が外曲輪の
警固をすれば解決しますと申上げた。 家康公は重ねて、今度四人の面々を留守居とする事
さへ人が少ないと思うのに其方は人が多いと言うのはどの様な理由かと尋ねた。 
元忠は、今度会津へ進発される留守居としては、世の中何もなければ私と五左衛門だけで用が
足ります。 もしご出発の後で異変があり当城が敵方に囲まれた場合は、近国に加勢を頼める
味方は無く、今の人数の五倍や七倍の人数を残されても城を堅固に守る事は出来ない事です。
それ故必要な人数を当城に残されるのは無益と私なぞは思いますと申上げた。

その後は特に議論もなく、昔家康公が駿府の宮ケ崎に今川家への証人として奇遇しており、
家康公が十一歳で始めて岡崎を訪問した時、元忠は十五歳だった時の話(p264)などで夜も
更けた。 元忠は、明日は朝早くご出発です。 夜も短いので御休み下さい、と立上る前に
先程も申上げた様に、会津へご出発後の御留守中に上方筋に別条なければ又お目に懸かる
事でしょう、 万一の事があればこれが今生のお別れですと立上ろうとするが、長く座っていた
為立てないので、児小姓を呼び手を引かせた。 その時納戸役の者が御前へ出ようとしたが、
家康公は袖で泪を拭っていたので暫く出るのを控えた。
 
著者註 この事は土井大炊頭殿が常々雑談していた由で、大野知石が私(作者)に話した事を
    書留めた。 この事から考えると、現在世の中に流布する記録では、伏見城で留守居四人
    の面々を呼んで、今度関東下向の後に石田とその仲間が反逆し、この城を攻めると思う
    ので其方達を留守居として配置すると記しているのには同意できない。 理由は上方逆徒
    蜂起の情報は、会津進発として江戸を出発した日の夜の越谷か次の夜の岩槻で、御供中
    誰一人知らない時に家康公は知ったが、小山の本陣到着後伏見の御留守居衆からの
    注進を受ける迄は聞かなかった立場だった。 其上伏見御留守居衆四人は皆若輩の頃
    から所々の合戦場へお供して身命をかけて忠義を尽し戦功のある人々だから、留守を
    頼むとさへあれば外に彼是指示する必要もない。 依てこれは知石の物語に随う。

伏見を出発したその日の昼時頃大津へ到着した。 京極宰相(p265)高次の城に入り昼食を取り
その後奥向で高次の内室と対面した。 この人は秀忠公正室の姉であり家康公は前にも逢った。
高次の妹松の丸殿(秀吉側室)には伏見城中では終に逢う事もなかったが、今回当城で始めて
面会した。 表では高次の家臣黒田伊予、佐々加賀、多賀越中、瀧野図書、山田三右衛門、
同大炊、赤尾伊豆、安養寺聞斎、今井掃部、岡村新兵衛等日頃から知己の人々を呼んで懇談
した。 其外にも頭役の人々に逢いたいと家康公の希望で、高次が指名して聞斎が連れてきた。
その姓名が紹介される中に浅見藤兵衛と云う名を家康公は聞いて、賎ケ岳の時の者かと問えば
高次は、おっしゃる通り、前は柴田勝家方に居た者ですと答えた。 彼の事は私も聞いている、
全般に貴殿は人好きで良い家来を多くお持ちだ、これなら当家は特に頼もしいと云う言葉が
京極家中の大小侍に伝えられ、後の籠城の時も勇気を励ましたそうだと中西伊賀守が常に
語っていたと中西与助が私(作者)に語った。
註 京極高次1563−1609)近江源氏の名門、正室は浅井長政娘で淀、江(秀忠正室)と姉妹
   高次の妹松の丸は秀吉側室

其日大津で時間と掛けたので日暮になってから石部へ到着した。 そこへ長束大蔵父子が参上
して、明朝は水口の城で朝食を上がって下さいとの事で、そうしようと言う事になったが何故か
その夜中に石部を出発し、水口の城へは大塚平右衛門を使いに出して、夜前の約束した明朝
の立寄りは道中を急ぐので出来なくなったと断った。 (p266)長束はその日の旅館土山迄後を
追いかけ、お名残惜しいと挨拶に参上したので家康公は、遠い所来られ満足であると云い、
来国光の刀を与えて帰した。

            9−2 上方反徒蜂起と小山会議の開催
江戸城へ到着すると、その後から味方の諸大名方が続々参陣してきたので、二之丸で盛大な
接待が行われた。 その上で会津進発に関する軍律十五ヶ条が各々に言渡された。
内府公は白川口より会津へ攻入る事になっており、 秀忠公は先に出発して下野国宇都宮城に
在陣しており、旗本の先陣としては結城三河守秀康公に先例が良いと言う事で榊原式部太輔
康政を添えられた。 康政は味方の諸勢に先んじて下野国那須へ部隊を率い、那須七人衆
と相談して、上杉家の老臣安田上総介が立て籠もる白川城を最初に攻落す事になった。
秀康公は水谷左京、山川民部、多賀谷左近等を始め、全部隊を榊原と同じく那須へ配置し、
手廻り計にて結城に待機し、内府公が小山へ着陣され次第に出馬するとの事である。

佐竹修理大夫義宣は仙道口より会津へ進発する様に指令されていたが、上方逆徒蜂起の事件
以後は、今度当家は出陣は取り止めたので戦の準備は不要と家中に触れて静かにしている由が
江戸に聞こえてきたので、島田治兵衛を使者として出陣の催促をした。 義宣の返答は、今迄は
会津進発の積もりで準備をして内府公の下向を待って(p267)いましたが上方筋騒動の事を聞き、
御存知の通り大坂に妻子等を置いて居るので、今少し事の推移を見極めます。 勿論貴殿へ敵対
する事は、縦令輝元や秀家が何を云って来ても同調しませんので、その点はご心配いりません。
との事である。 確かにその言に違わず、家中の侍が持つ良馬等も売り払っている情報を治兵衛
は確認して帰った。  しかし秀忠公の下へ派遣された結城軍の中で水谷左京と上州衆の皆川
山城守両人は水戸口の押へを指令されているので鍋掛に在陣していた。

其頃佐竹義宣と結城晴朝から申上げ、昨年御預けになった土方勘兵衛と大野修理をお許しに
なり今度の会津出陣に加えて頂く様にと願いが出たので両人共則許された。
土方は分からぬが、大野は侍分の者八十人計もあるが小者中間が居なくて困ったいた。 そこで
浅野弾正に大野修理が頼んだところ、武蔵府中村の者十人計りが早速派遣された。結城晴朝より
は鞍置馬一疋、馬具各種を添えて送ってくれ、三河守秀康公からは結構な具足一領と其外武具
等も送られたので、配流前の身分と夫ほど替わらない様になったと米村権右衛門が語った。
         
七月廿一日、内府公は江戸城を出発し其日越谷に宿泊、廿二日岩槻、廿三日古河到着の夜に
なると誰もが上方方面の異変の噂を聞いたが、正式には何の発表もなかった。 廿四日家康公が
小山に着陣すると、秀忠公からの待請として宇都宮から本多佐渡守が派遣されており、秀康公は
結城より(p268)小山へ出て本陣で待機した。 其日は池鯉鮒の宿場で堀尾帯刀、水野和泉、
加賀野井弥八郎の三人が喧嘩をした様子も広く流布していた。

其日の暮方に至り伏見の城代鳥居彦右衛門からの飛脚が到着した。 その風体は小者か中間の
様子で書状箱も持たず本陣へ来て、本多上野介殿へ御目に掛りたいと云う。 歩行目付衆が対応
して、其方は鳥居殿方でどんな奉公をしている者か、書状も持たず上野介殿へ直接口上するとは
理解しがたい。 大体どんな用事で来たのかと尋ねれば飛脚は考えて、拙者姓名は上野介殿は
御存知だが、お尋ねの上は名乗りましょう。 私は浜嶋無手右衛門と云う者で鳥居彦右衛門方で
一騎役を勤める者ですが少し事情があってこの様な格好をしています。 彦右衛門から云われた
事は皆さん等に言う事が出来ませんと言う。 その事を上野介殿へ報告したところ、無手右衛門を
閑所へ呼寄せ暫く対面し、其後家康公の前で本多佐渡守・上野介父子のみ立会い無手右衛門
の口上を直に聞いた。 色々尋ねられ、用が済むと無手右衛門は彦右衛門の居城である下総国
矢作へ向かった。 その夜十時頃内藤弥次衛門からの飛脚使者も到着し、これも又上野介が
面会して御前で披露した。 用が済んだ後は弥次右衛門居城の上総国佐貫へ向かった。

伏見留守居両人からの注進で上方の逆徒蜂起が明確になり、其夜中本多上野介を宇都宮へ
夜通しの使に送った。 用件はこの時は分からなかったが後日に明らかになった(p269)事は、
上方騒動が起こったので秀忠公は勿論先手を担う面々を急用で召集するが、御機嫌伺い等で
小山へ参陣は堅く禁じる事だった。結城秀康公は昼間は小山の本陣に詰めていたが翌廿五日
那須へ出発するので、その夜は結城へ帰っていた。 しかし本多佐渡守に指示して急遽呼戻し
夜中に小山へ戻ったところ、伏見からの注進の内容を家康公が説明した。 そこで家康公は
会津進発を中止して先ず上方へ軍勢を向けるか、又はやりかけでもあるので上杉を片付けて後
上方へ軍を向けるべきか、 二つのどちらが良いと貴殿は思うかと尋ねた。 秀康公はお考えの
程は分かりませんが、私は一時も早く上方へ軍勢を向けるのが良いと思います。 但し上杉は
単独とは云いながら手強い敵ですから、 確実な押さえの部隊を残して置くのが良いと思います
とあり、これは家康公の考えとも一致した。 早々結城へ戻り休息し明朝参陣する様にとの事で
秀康公は結城に帰り、翌朝那須への出発は延期となった。

本多上野介は宇都宮へ使者として行く時、供廻り二十人程連れていたが、往復とも馬の側を
離れずに職務を全うしたのは歩行士一人、鑓持一人、馬の口取一人の三人だけだった。
廿四日の夜に小山を出て宇都宮で暫く打合せ、直ぐに取って返し廿五日の早朝に小山に帰り
秀忠公からの返答の趣旨を報告したところ、道中を急いだと見え早く帰ったと感賞された。 又
元気な三人の供廻りの中で歩行士は知行百石の侍に取立てられ、鑓持と口取は従士に(p270)
に昇格した。 その時上野介が乗った馬は芦野鹿毛と云ったが、秀忠公が聞き是非と所望あった
ので献上した。 これは五十幡谷泉の話である。
註: 小山と宇都宮間約25km程を5−6時間で往復した事になるので時速8−10kmか。
   結城と小山間は約10km程度

廿五日には今度の会津進発の為に内府公に随って関東へ下った諸大名方を小山の本陣に
呼集めた。 井伊兵部少輔直政と本多中務忠勝の両人が家康公に代わり、昨晩到着した伏見
城に残した留守居両人からの注進を細かく発表した。 そして皆さんは大坂に妻子を置かれて
いる方もあり、たいへん御心配と思います。 この戦線を引払って帰られる事は自由です。 又
当家領分を通過の際は、旅宿、人馬等は少しも問題ない様に指示しますで、その点は心配御
無用です。 又今後上方衆と歩調を揃えるとしても、毛頭遺恨は残しませんのでその旨御承知
下さいと内府が申しておりますと両人が述べた。

その時参加列座の中から福島左衛門太夫政則が進み出て、内府公が云われる通り私達は妻子
を大坂に残しているが、この様な時に妻子等の事を気にしても仕方がない。 他人はとも角
この政則は身命を擲って内府卿に味方しますと発言あった。 それに続き黒田長政、浅野幸長、
細川忠興、加藤嘉明、池田輝政の五人は勿論、其外一座の人々は皆一同に味方すると述べた。
そこで井伊、本多の両人は皆に向かって、皆様の言われる通りを聞けば内府は大慶に思う事
でしょう、 私共も憚りながら皆様の頼もしいお言葉を聞き忝き次第です、と座を立って家康公に
報告した。 程なく家康公は表へ出て、皆に向かい礼を述べてから岡江雪を呼び、もう時間だから
皆さんに料理をと指示して、座を立ち(p271)有馬法印、徳永法印、山岡道阿弥此三人を座前へ
呼び使を頼んだ。

それは列座の大名衆は大坂に残している妻子方の事に関わらず、一筋に当家へ味方されるとの
事で厚く恩義を感じます。 それについて会津の処置を終わってから上方へ進発するのが良いか、
又は景勝の退治は暫く中止し、先ず上方の凶徒の追討を急ぐのが良いのか、今日参会の各位
に評議してもらい、皆の相談の結果に随うと云う事にする。 そこで三法印が座中へ出る時井伊
兵部と本多中務も添える様にとの事である。 
三法印と兵部、中務が座中に出て内府公の考えを述べると、福島政則を始め六人の大名衆は
勿論、其外の人々も一同に会津の事は中止し一刻も早く上方へ出陣するのが良いとの意見で
上方出陣が決定した。

岡江雪の座敷手配で料理、酒が出てきた時福島政則は、今日は特別な日だから皆さんも精
を出して飲みましょう私も先ず一杯と大盃で呑始めたから、たいへんな量の酒である。 中でも
政則は数盃飲んで上機嫌で黒田長政の膝を叩き、いつも言っている通り石田と小西両人の首
を切って又一盃と大口を叩いて酒が終わらない。 内府は膳が終わってから表座敷に出る予定
だが中々膳が終わらない。 漸く有馬法印と徳永寿昌が相談して膳を皆に取らせた。 間もなく
内府公が出座し、上方に近い領分の面々は何時でも当所を引払い一刻も早く帰城される(p272)
されるのが良い。 私父子も早々後から出陣しますが、井伊兵部と本多中務が皆さんと一緒に
先に出発します。 清須と吉田の両城は敵地に近いので、福島左衛門太夫殿と池田三左衛門殿
が先陣を取られる様にと事だった。
著者註: この事は関ヶ原記等にも記されているが少々相違がある。 私はここに書留めたのは
    小山で徳永法印が当日座に参加して、本陣より帰り徳永掃部、稲葉外記と云う両家老を
    呼出し語った事を河村所右衛門と云う者が聞いて覚書にしたものである。
註1 福島政則(左衛門太夫1561−1624) この時は尾張国清須城主24万石
註2 池田輝政(三左衛門1564−1613) この時は三河吉田城主15万石

小山で在陣の諸大名との会合が終わった後家康公は結城秀康公を呼び、本多佐渡守一人を
側に置いて曰く、会津進発は暫く中止となり近い内に上方へ進発する事になった。 そこで
上杉の押さえとして残すのは貴殿より外にはないので、その様に心得られよとの事である。 
秀康公は佐渡守の方に向かって、これは思いも掛けない事を言われ困りました。 今度上方
での一戦は重要ですから、味方の諸大名衆と相談して先手で軍忠を励む覚悟でいたのですが
上杉家の押へとして留守をせよとの仰は、縦令御機嫌を損なっても御断わりしたいと告げた。
内府公は、一般に今度の様な重要な合戦を計画して他国に進発する場合、留守居の将を選び
残すのは昔からの軍事の常識である。 其上今度私に味方する諸大名方から今後証人等も
出す事になれば、その人質を請取って江戸又は小田原の両城の中に置く事になる(p273)
その場合皆が安心する為には信頼できる留守居でなければならないので貴殿に頼むぞと言う

秀康公は再度申上げたのは、諸人安心の為の信頼できる留守居を置かれると云うお考えなら
幸いに松平下野守(忠吉)が居りますの彼をその役に任じられ、私は上方へお供させて下さい
と云えば、 内府公はかなり機嫌を損じ、皆が安心と言うだけなら其方が云う様に下野守でも
用は足りるが、私が出陣した後で何か異変がないとも限らず、又上杉景勝が私の留守を見て
大軍を率いて攻めて来るかも知れぬ時若輩の下野守で大丈夫と思うか。昨夜其方は佐渡守も
聞いていたが、今度上方へ進発する時、会津の上杉は手強い相手だから強固な押さえを
置くのが良いと云ったではないか、その手強い景勝を押さえるのを嫌われるかと。
これには秀康公も困って、今度上方の一戦の計画に参加出来ないのは残念ですが、 今の
お言葉に対し、これ以上申上げる事もありませんのでご指示に随います。 私が斯く云う以上
は後は御安心下さい。 白川の関より此方へ景勝等を進出させる事はありませんと言切った
これを聞いて佐渡守は秀康公の側へ這いよって膝を叩いて、よくも殿は言われたと涙を流して
泣いた。 内府公も涙ぐみ納戸係を呼んで具足一領を持参させ、この具足は私が若い頃から
度々戦場へ着て行ったが、一度も敵に不覚を取った事が無い秘蔵の具足である。今度大切
の留守を頼むので其方へ譲ると云い秀康公へ与えた。(p274)

著者註: この事は旧記等にも概略は記してあるが詳しくない。 私がここに書記したのは本多
    佐渡守が土井大炊頭殿へ語った由を、度々大炊頭殿が守田与左衛門や大野仁兵衛
    等へ雑談したとの事で大知石が語るのを書留めた。
註:結城秀康(1574−1607)家康次男、秀吉養子を経て結城家を継ぐ。 松平下野守(忠吉
  1580−1607)家康四男、松平家養子でこの時忍城主、20歳 。 何れも1607年病死

          9−3 東西決戦に向けて、武将達の去就
小山在陣の時、加賀中納言利長は使者を派遣して、私は会津へ出陣する覚悟でしたが安芸
中納言(毛利輝元)や備前中納言(浮田秀家)、その外大坂の奉行の面々から色々云って
来ました。 しかし同意はしませんでしたが、益々強硬になり反逆の企てを起こし上方は騒動と
なっておりますので会津出陣は暫く見合わせます。 小松の丹羽大聖寺の山口は逆徒一味の
由なので確認し、幸い近所ですから弟の能登守と共に両城を攻めて早速落とし、それから越前
に攻入る予定です。 貴方でもその心積もりで近々上方へ出陣されるのが良いでしょうと報告
あった。 家康公からも、此方も上方の逆徒の事は聞いているので、景勝退治は暫く中止して
今度関東へ参陣あった面々と相談して近々上方へ進発する予定です。 その時は何分にも
宜しく頼みます。幸い土方勘兵衛と当地で会いましたので、彼に委細頼みましたので御相談
下さいとの返答で使者に勘兵衛を加賀に同道させた。。
著者註: 土方は前田利長、利政の従兄弟であり、利長の家老太田但馬と云う者の兄と言う事
   を家康公が聞き、委細を含めて加賀へ行かせた。

其頃伊達政宗、最上義光、越後衆では堀久太郎、村上周防、溝口伯耆等へ向けて、今度上方
の逆徒退治のため軍勢を向けるので(p275) 会津進発は暫く延期する。 各位もその心得で
今後も景勝の行動は監視する事が肝要と伝えた。

小山に上方騒動の知らせがあった頃、山内対馬守は本陣へ参上して本多上野介を通して、今度
大坂に置いた妻が配下の侍を下人に仕立て私に使いとして送り、 書状を切裂いてその断片を
笠の緒にひねりこみ道中の関所改めで書状が露見しない様にしていましたが、案の定関所で
細かく調べられましたが菅笠には番人も気付かず無事に到着しました、とこの笠の緒を持参した
ので、上野介がその笠の緒を持出してその事を申上げると、すぐ対馬守を召して笠の緒を手に取り
、其方の内室は女性ながら近来稀に立派な志であると、又書中を見ずに其の侭で差上げた事も
満足であると披見した。 内容は是までの情報と同じであり、則対馬守に返した。

これより少し前、本陣で上方進発の評議の時対馬守は申上げた事は、今度上方での一戦は
間違いなく大合戦になると考えられますので、侍や足軽の一騎一人も多く連れて行きたいので
私の掛川の居城は差上げます。 御家中から城番を出して頂ければ、城番に残す予定の家来
迄残らず連れて出陣できますからお願いしますとの事である。 それは良い提案だと云う事で
対馬守の願いを認めた。 其外の道筋の城は掛川同様となり、徳川家譜代大名の少身に居城を
明渡したので、 当家在番の城の様になり、駿河、遠江、三河、美濃、尾張迄手に入(p276)ったも
同じとなった。
この二つの功績で天下統一後、対馬守は遠州掛川六万石の領知だったが土佐一国の守護に
任命された。

著者註 この対馬守が土佐国を拝領した後入国して、暫く在国後参上し二条城で月見の時
     内府公が土佐国の年貢の状況を尋ね、それに答えようとした時本多佐渡守が並んで
     いたが対馬守の尻を突いたので気が付き、廿万石内外かと思いますと申上げた。 
     すると、多分その程度はある筈である、以前に長曽我部が太閤を招待した時、家の作り、
     その外全てが十万石取りの振舞いとは思えず、廿万石以上の身上で無ければできないと
     皆が噂していた。そこで今度美作の国も明けてあったが、土佐の方が美作より多いと思い
     其方に与えたとの事なので、若しも十万石内外などと云ったらたいへんな事になると思った
     と、本多佐渡守が子息上野介へ内々に雑談したという五十幡谷泉物語を書留めた。
  
信州上田の城主真田安房守は内府公の傘下に加わり、会津に進発する予定で子息伊豆守と共に
下野国佐野に着陣し、安房守は天明に伊豆守は犬伏に陣を構えたところ、石田治部少輔からの
飛脚書状が来て、今度秀頼公の味方となれば信州一国の守護職間違いなしと告げた。 そこで
息男伊豆守を呼寄せて相談(p277)したが、伊豆守は全く同意せず逆に父を諌めた。 安房守
は非常に不興を催し、私は年寄だから立身栄達の望は毛頭ないが、第一は海野の家の再興の
ためを思い、次に其方並びに左衛門佐等を世に出したい為だけである。 其方は内府家来の
本多中務と縁戚だからと言って、当家を興すのも親の命をも省みず内府のためを第一とするとは
不届この上ない事である。 と立腹甚だしいので伊豆守は、仰の通り私はこのところ内府と懇意に
しておるため一旦は思いを申述べましたが、是非上方に味方するとお考えならばそのお心に随う
外はありませんと答えた。 安房守はたいへん喜び、其方が同意すれば相談して秀頼卿に忠節を
尽す様な行動を考えるのがよいと言った。 伊豆守は成るほど分かりましたと座を立ち勝手へ出て
直に馬に乗て犬伏の陣所へ帰った。 その後で安房守が家来を呼んで、伊豆守はと尋ねれば、
先ほど勝手へ出てその侭犬伏へ帰られましたと云う。

安房守大へん驚いて、次男左衛門佐並びに家老達を呼集め暫く相談していたが急に支度をして
夜中に佐野を引払い上田の城へ引返した。 その時伊豆守は犬伏の陣所へ帰ると家人を召寄せ
私は房州公(安房守昌幸)の顔を潰す事をした、 万一討手などが差向けられ事もあるので天明に
人を張付け、軍勢が押してきたら早々当陣を引払って逃げるつもりで居る様にと言渡した。 しかし
安房守も左衛門佐と共に急に陣を引払ったと注進があったので、伊(p278)豆守は其侭犬伏に
留まり、小山の本多中務方へ使者に書状を持たせ、親安房守に石田方より書状の送付があり、
上方の逆徒蜂起は事実である旨注進した。 内府公たいへん喜び則伊豆守へ書状を送った。
著者註 この件は旧記等にも概要は書記してあるが細かくない。 其上安房守、伊豆守父子共に
    宇都宮辺に陣取した所へ石田より飛脚が到来したとあるが、そうでは無いとの事である
    私が書留めたのは稲垣与左衛門と云う老人が真田左衛門佐方居り、大坂城へも籠って
    夏陣の時少し負傷したが存命であり、その者の語った事である。
註 真田信之(伊豆守1566−1658)本多中務忠勝の娘婿で沼田城主、後初代上田藩主

内府公が江戸へ帰城しようとする時、秀忠公は榊原式部太輔を連れて宇都宮から小山を訪れ
結構長く打合せを行い、その夜は結城に宿泊して翌朝宇都宮へ帰った。 宇都宮で城の外回りの
工事を指示すると共に蒲生家の家老を呼んで、今度父子共に上方へ進発するので留守中は
全般を結城秀康公へ任せるので、何時でも秀康公がこの辺の村を廻る時は当城本丸に逗留して
戴く様にとの事である。 その時の秀康公の威勢は秀忠公と同じ位であったという。 この事は旧記
には見えないが、その時蒲生家に仕えていた結解勘介が浅野因幡守殿へ語った事を書留めた。

秀忠公が宇都宮を出発した後、 結城より秀康公が宇都宮へ逗留し、芦野、太田原辺を巡回した。
その時上杉景勝も領分順見のため会津を出て、白川の城に逗留している事が宇都宮へ聞えた。
秀康公より白(p279)川へ使者を送り口上は、 この間は会津へ出陣の事は御聞きでしょう、内府
父子は上方の逆徒等誅伐のため出陣したので、私は留守を預り残っているので当然ながら退屈
しています。 そこで貴殿が白川辺迄来られたと聞いたので、幸いに此方に出陣されませんか、
その場合当方もこの城から出陣し下野の野間で一戦を遂げましょうと伝えた。 景勝の返答は、
今度内府御父子が上方へ出陣され、貴殿が留守居で残られ退屈にお過ごしの事承知しました。
私も諸方の寄手が引揚てしまったので相手が無くなり手も透いています。 縦令貴殿から申込
まれずとも出陣したいところですが、 亡父謙信より人の留守を狙って攻める様な事は決して
やってはならぬと家法にも定められており、私の思う様に行かず残念な事ですと口上が有った。

著者註 この事は旧記等の中にも見られず、越前家の言伝えにもないが、敵方の上杉家では
    良く知られていたと、景勝方に居た石坂与五郎と云う者が浪人して散々に零落れ、石坂
    与斎と名乗り紙子一重の貧乏をしたが、畠山下総守殿の世話で浅野因幡守殿に三百石
    取りの浪人として抱えられた。 以後暇を取り阿部豊後守殿に六百石で召し出された。 
    この与斎が因幡守殿へ語った事を書留めた覚書の中に秀康公の口上、景勝の返答の
    様子が書かれているので載せた。

内府公は八月五日小山の陣所引払いを通告したが(p280)、その時洪水で栗橋の船橋が切れて
流れた。 掛直しをすべきか代官衆から伺ったところ、栗橋の船橋は会津進発の為の後方部隊
が往来するために掛けさせた物だから、上方へ進発する以上は不要故、掛直す必要ないと云う事
で乙女川岸より船で西葛西へ着岸して江戸城へ入った。 秀忠公の御供で中山道を上る部隊は
宇都宮近辺に其侭在陣した。
上記の様に江戸へ帰城後、近日中に上方へ進発があるので御供の面々は支度をする様にと
有り、皆用意して待ったが九月朔日迄出発は延びた。

著者註 この事に付いて私が若い頃、米村権右衛門が江戸詰の当番で詰めて居た時、養父の所
    へ夜話に来て小木曽太兵衛を呼出し尋ねた事は、以前の関ヶ原戦の時、私は主人修理
    の共をして小山から上り、尾張国清須城下の寺を借宿としていた。 関東から先発で上った
    諸大名衆及び其外の諸軍勢共に内府様の着陣を今か今かと待ったが、江戸出発の日時
    も分からない。 内府様は毎度鷹狩に出かけられたとか、又城内で能等ゆっくり見物とか
    皆退屈して色々噂していた。 その時の江戸の様子など話して欲しいとの事だった。
    
    小木曽が米村へ話した事は、 小山より江戸へ入られると其侭出発されるものと、皆が
    思っていましたが実際には廿日余りも出陣は延びました。 しかしその間に鷹狩りなどには
    一度もお出かけで(p281)は無いので、全て清須辺での雑説と云うものでしょう。 私共は頭
    から云われて何時でも急に出陣となるかも知れないので、お城番に当たった時は番所から
    直に御供できる支度として、草鞋や路銭なと迄腰に付けて勤務しておりました。 其上
    二日か三日毎に頭の宅へ呼付けられ、御供の心掛けなど手落ちが無い様聞かされ、これは
    頭同志が皆相談して行ったと聞いております。 御城でも玄関前扉の門の内に鑓立のため
    の柵木が出来て虎の皮の長柄鑓を飾り並べ、 書院の床上には御馬印も並べてありました。
    今直ぐに出陣かと思われる様子でしたが、九月朔日の出発と触れられたのは八月廿七八日
    頃だったと思います。 日時が発表された時侍衆は勿論、私共の様な軽輩の者迄たいへん
    喜び勇んで御供したものですと、小木曽が米村に語るのを側で私は聞いた。
註: 作者の大道寺友山は1633年生れで3歳の頃父を失い、養父は浅野因幡守の江戸屋敷家来
   の様である。 関ヶ原戦時(1600年)に小木曽は20歳と仮定すると友山が15歳の頃は小木曽
   は68歳の老人。 友山の他書でも小木曽太兵衛による江戸初期の話は所々に引用される。

家康公の出陣前、増上寺の方丈である存応和尚が登城して話の中で申上げた事は、今度上方に
おける一戦はたいへん重要なものと云われております。 勿論ご勝利されると思いますが、大事に
臨み仏神の加護を祈る事は古今より日本の習慣でもあります。 御領分の中の有力な神社仏閣で
御祈祷等を執り行われるのが良いと思いますとあれば内府公は、それは良い事です、私の領内
の寺社の中では何処の寺社が良いだろうかと尋ねた。 存応は、先ず鎌倉の若宮八幡等が(p282)
良いのではないでしょうかと答えると内府公は、八幡宮には私は若い頃から朝夕念願しているので
今度に限って祈祷を行う必要はない。 幸い武社では神なら鹿島神宮、仏なら私の祈祷所でもある
浅草の観音で祈祷しようと云う事になった。 そこで鹿島大宮司、浅草寺別当観音院の両人へ祈祷
を頼み、右大将源頼朝が平家を追討する時両所で祈祷した旧例に倣い祈祷を執行した。

著者註 この鹿島、浅草寺両所での祈祷は九月朔日出陣の後十七日に満すとの事で、大宮司と
    浅草寺は打合せて名代の使者使僧を立て、十七日の祈祷に添える御札守などを差上る
    ため、両所の使者が道中を急ぎ同十四日の晩方に岡山の陣所近く迄来た。 本陣へ持参
    しようと支度をしたが、大垣の城へ軍勢を出して中村、有馬の両部隊が一戦すると云うので
    明朝参上しようと相談したが、 明十五日は早朝よりの合戦があり控えていた。 其日の夜
    藤川の陣所へ参上して御札守を差上たところ家康公はたいへん喜んだ。 両人は早々帰り
    合戦勝利の事を伝えた。 もう恐敵退散の祈祷は止めて、天下安全の祈祷を行った。
      
           9−4 大谷吉継の義理と友情
越前敦賀の城主大谷刑部少輔吉継は会津進発のため軍勢を揃えて敦賀を出発し、木の本に
着陣して石田光成方へ飛脚便を送り、前から度々云った様に今度の会津進発に子息の隼人正
を名代として行かせる様にと内府卿から云われているが、父子同道で行かれたら良い。 私が
同道する以上内府卿への取り成しは何とか(p283)すると伝えた。 
三成は事前に家来の柏原彦右衛門と云う者を使いに出していたが、大谷の宿陣木の本へ来て、
今度会津進発として出陣される時は佐和山の城へ立寄って頂きたい、面談したい事がある
との事である。 大谷は病身なので紙帳を釣らせてその中に柏原を呼寄せ、私に佐和山の城へ
寄れ云われる事は理解しがたい。 今は会津進発の外に用事も無い筈である、 其方は外の者
とは違い大体の事は知っていると思うので話して欲しい。 それは貴殿主人三成のためでもある
と云ったが柏原は、それが私共も聞かされていないので知りようもありませんが、何か会津進発
以外で御相談したい事が有るので是非御立寄戴く様にと私を使いに出したのですと云う。

それ程迄云われるならと大谷は佐和山の城へ立寄ったが、石田は大へん喜び大谷を閑所へ
誘って今度の構想を一つ一つ説明した。 大谷はそれを聞いて、それはとんでもない考え違い
です、江戸の内府等を常人と思われるか。 この事は私が云うまでもなく貴殿も良く御存知の筈
です。 それは故太閤が常々我々に言われた事ですが、家康は智勇共に備わった人であり、
私のよき相談相手と思い接待するのであり、誰もが分かるものでもないと毎度言われた事である。
それなのにその内府を相手に戦を仕掛けるとは無謀である。 無益な事は止めて私と一緒に
会津進発する以外無いと制止したが三成は、貴殿の意見通り思い留まりたいが、もう戻れない。
その訳は上杉景勝家老の直江山城守と堅く約束し、この春より主人景勝に進め旗を揚させた。
その(p284)結果、 内府父子を始め諸軍勢が景勝退治で会津進発する中で、夫までの約束
を違えて景勝一人を謀反人として見殺しては武士の面目が成り立たない。 合戦の勝負はどう
であれ今に至り思い留まる事は決して出来ないのです、 貴殿が同意されぬ事は止むを得ない
事ですから関東に参加されて良いと云う。

その時大谷は、貴殿自身に一大事を語らせて夫を聞捨にして私だけ関東へ行く訳に行かない。
その上是まで約束した事もあり、私の身命は貴方に預けるしか無い。 それにして上杉家来の
直江等にさえ相談した事を私の方に今日まで相談なかった事は不満に思うが其事は今更云い
ますまい。 この様な大きな事を実行する以上、貴殿に申入れたい事が二つありますと云う。
三成はそれこそ知りたい事です、どんな事でも聞かせて欲しいと云うので大谷が語るには
全体に貴殿は人々に対して時と場合、作法全てに傲慢であると云う事で諸大名を始め末々
の者から悪い評判を得ています。 江戸の内府などは家柄、官位、其上国内最大の大身です
が、諸大名は勿論、少身や軽輩に逢っても丁寧に対応し、夫々言葉を掛け親しみがあるので
人々の尊敬も特別に見えます。 人々の上に立って事を行うには下の協力が無くては成功は
難しいでしょう。 貴殿も以前は一介の少身者でしたが、 故太閤の御取立により大身になった
事は皆が知っている事です。 公儀の御威光があるから尊敬されている様に見えるが人々の
本心はそうでは無い事をよくよく知って置く事です。 今度の事も毛利輝元と浮田秀家両人を
上に立て、貴殿はその下で(p285)事を進める心得が必要と納得される事です。

外一つ云いたい事がありますが、これはいかに親しい間柄でも云い難い事で遠慮しますと
大谷は言う。 光成は、中々人が云い難い事を言い聞かしてこそ親友ではないか、少しも
遠慮せずに聞かせて欲しいと云うので大谷は続け、先程も云った通り武家に大切な事は智勇
の二ツです。 貴殿の智恵才覚に付いては並ぶ人も無い位ですが、勇気は不足しているかに
思います。 最近の例で云えば、今度の大事に関して輝元、秀家を始め其外一味の諸大名と
云っても皆便乗組であり、根源は貴殿一人の構想から起こった事ですから人より先に身命を
擲つ覚悟が無ければなりません。 幸いに貴殿は他人の力を借りなくとも一万の軍勢を持つの
ですから水口の長束等と打合せ、 内府が関東へ向かう途中石部に旅宿している時、夜中に
押掛けて焼討をすれば間違いなく勝利を得た筈です。 そんな大切な機会を見送り内府を
容易に関東へ行かせた事は、 虎を千里の野原に放したも同じで大失敗と云うものです。
今後も四本柱の礎石を埋める様な安定ばかり考え、確実な勝ちだけを好む様では宜しくないと、
大谷に意見され三成は大いに赤面しながら、良く言って呉れたと述べた。 以後大谷は関東へ
行くのを止め大坂へ上った。
著者註 この事は旧記等には見えないが、大谷の親類である早水拙斎が語るのを載せた。

             9−5 上方反徒大坂に集結(p286)
内府公は大坂を出発して関東へ向かい、味方の諸大名衆も後から追々出発した。 その頃三成
は長束大蔵と打合せて共に大坂へ向かい、前から連絡を取っていた反徒の面々、毛利輝元、
浮田秀家、筑前中納言(小早川秀秋)、島津兵庫(義弘)、同中務(豊久)、小西摂津守(行長)、
立花飛騨、長曽我部宮内少輔、鍋島信濃、毛利豊前、安国寺等を始めとして、其外少身の
面々が夫々の国元では会津進発の名目で軍勢を調えて、様子を見ながら大坂に寄集り反逆の
色を明確にした。 其頃反徒の諸将は輝元宅で会合すべきところ、皆浮田秀家の屋形に寄合い
全てを相談したので、今度の総大将は秀家一人の様に言われていた。

或日の会合の席で西の丸を取り返そうと決まった。 西の丸の留守居佐野肥後方へ使者を立て、
その御殿は公儀で使う事になったので早々明渡す様にと急に催促をした。 肥後守も口惜しい
と思ったが、自身は西の丸に計り居て反逆等の世間の様子も知らず、仕方なく預かっていた
女中達を連れて城を出た。 その後今回の陰謀が分かり、こんな事なら奉行からの使者を切って
御殿に火を掛け自身は切腹するのだったと後悔したが手遅れである。 止むを得ず女中達の身
の振方を見極め、その後伏見の城を攻めると聞いたのでせめて申訳の為にもと伏見へ向かった。

其頃反徒側の諸将が毛利輝元の宅で協議していた時三成が云ったのは、数万の諸軍勢がこの様
に大坂に集り空しく日を送るのは無駄です。 当地(大坂)には輝元に増田右衛門尉を添えて残る
事で十分です。 輝元の御息男宰相殿を主将として吉川以下の家来を伊勢に向けて内府側の城
を攻め抜き、それ(p287)から直接美濃と尾張の間へ出陣されるのが良いでしょう。 私は浮田
中納言殿と打合せて直接に美濃と尾張の国中へ出て、内府側の面々の居城を攻め取って自軍を
籠らせ、内府が上方へ出て来れば宜しき場所で待構えて一戦を遂げます。 もし攻めて来ぬなら
江戸への道筋にある内府側の城を片端から攻め取り、次第に江戸迄攻め入りますと、手に取る
様に講じれば輝元、秀家を始め誰もがそれが良いと同意した。 三成は重ねて、今回出陣の諸
軍勢の通り道でもあるので、山城の伏見城を攻めて内府が留守居として置いた鳥居以下の者を
全て攻殺して御城を取返す事にしたい。 その時の寄手軍勢に加わりたいが、私の居城である
佐和山は敵地の境にもあるので、色々準備をする為に帰城します。 私の代理として高野越中と
大山伯耆両人に二千余の部隊を添えて残しますので、どのようにでも使って下さいと云残して
自身は佐和山に向かった。 
註 毛利秀元(1579−1650)輝元の従兄弟で養子となる、安芸宰相

三成は佐和山へ帰る途中、大津の城主京極宰相高次方へ面会を申し込み立寄った。 この時
小雨が降っていたので三成は羅紗の合羽を着て蓑笠を被り、大手の門外に家来達を暫く残し
上田源蔵と云う剛力の侍只一人を連れて城内へ入った。 高次は三の丸の客屋へ出向き、本丸
へ案内するべきですが、この節道中お急ぎと思いましたので是へ出て来ましたと挨拶した。
三成は何時もと違って慇懃な様子で高次に向かい、 秀頼様御治世の時節が到来して貴殿は
喜んで居られると察します。 先日は関東の一味の様な噂が出て、家来筋の私としてはお気の
毒な事と思っていましたが早速証人等も出され全て収まり(p288)、私事の様に喜んでいます。
今後も益々忠節を尽される事が肝要です。 公辺の事は私にお任せ置き下さい等と云う。

高次が先頃大坂方の呼びかけに不参の時三成一人が不満を云い、他の人の見せしめの為にも
早速軍勢を向けて高次に腹を切らせよう云ったが、大谷刑部少輔がそれを制止した事など前に
聞いていた。 さても不届きな奴と高次は思ったが何気ない様子で相手した。 この時京極家譜代
の侍安養寺三郎右衛門入道聞斎と云う者が家老の黒田伊予を閑所へ誘って云った事は、今度
の逆徒頭目の石田が今日当城に来たのは天の与えたものです。 三成を生捕って城門を塞ぎ
関東側である事を明確にされるのは今ですと言葉を尽して説得した。 しかし黒田は同意せず
門斎は其外の家老山田三左衛門、多賀越中、赤尾伊豆等を呼んで相談している内に、 三成
は高次との対談を終わり帰ってしまい安養寺の計略は空振りに終わった。
黒田伊予は京極家の長臣だったが、後に高次が若狭の国を拝領した時京極家を去り筑紫へ
行きそこで病死したと言う。
註: 石田三成の家は近江の土豪で、京極家が近江の守護だった頃代々京極家に仕えた。

          9−6 敵地に孤立した伏見城
其頃大坂城西の丸に反徒の諸将が集り伏見の城を攻抜こうと相談した。 その時増田長盛は、
伏見の城は故太閤の御隠居所として日本国中から人夫を寄せ集めて堅固に作ったものであり
兵糧、矢玉、武器等に至る迄十分備わっており、 其上留守居の四人は城代の鳥居を始め皆
内府の若い頃から仕えている武勇に勝れた者達です。 第一は近くに内府側の城も無いので
侍は言うまでもなく下々雑人に(p289)至る迄逃げる事が出来ず、各々が必死の覚悟を決めて
防ぐでしょうから簡単には落城しないと思います。 そこで私に案があります、幸い城代の鳥居
とは長年の付合いもありますから使者を送り意見をして城を明渡しを交渉して見ますと言う。
一座の面々もそれが良いと云う事になった。

長盛は家来の山川半平と云う者に詳細を言含めて伏見へ行かせたところ、鳥居彦右衛門は山川
を本丸へ呼入れて面会した。 この時山川は主人の右衛門尉(長盛)から密かに云われた事として
今度毛利輝元、浮田秀家、上杉景勝の三大老と内府卿の争いに付いて、筑前中納言秀秋を始め
島津、鍋島、小西等の大名衆や其外九州、中国の諸大名は全て三大老と打合せ、大軍を動かし
近く関東へ進発する際に最初に此方へ押寄せて御城を受取ると云う評議になっています。
右衛門尉は以前より内府卿と懇意にしており、其上秀頼公御幼年の時節この様な騒動はあっては
ならないと思っていますが、長盛の考えだけではどうにもならず心外に思っています。 

この件で私から申上げます、元来伏見の御城は故太閤御隠居所として築かれたものですが、
秀頼公が大坂城に移られた為内府卿御預りの様になりました。 今度会津御進発に付いて皆さん
を当分の御留守居とされました。 元来内府卿御持の城ではありませんので公儀へ明渡された
としても御留守居衆の落度には成らない筈のものです。 其上世の中がこの様な状況ですから
皆さんが内府卿へ御忠節を尽される場面は今後幾らでもあると思いますので、ご考慮戴き無事
明渡しをお願いします。 御同意戴けるなら私を始め家老達の子供数人を証人として伊勢国の
渡海される地点迄(p290)見送らせて戴く旨よくよくお伝えする様にと長盛から云われております。

その時彦右衛門は半平に向かって直ぐに返答しますと云った事は、先ずご口上の趣旨は承知
しました。 色々御気遣い忝い次第です。 云われる通り当城は公儀の城である事が私の様な
者でも承知しております。 しかし内府が関東へ下る時、留守の間当城を堅く守る様にと預け
られたものです。 今でも内府方より明渡す様にとあれば別ですが、大坂方から内意で明渡す
様にとあっても決して渡せませんから御自由に軍勢を向けて戴き結構です。 城中は小勢ですが
厳しく防いでみせます。 又右衛門尉殿からの御口上では内府を今でも粗略にせず、私も昔
から良く知っているから内意を伝えるのだと云う事は全く理解できません。 理由は本当に内府の
ためとお考えなら、万一私が当城を明けて退く事を申入れたら、城を枕にするのが良いと云う
内意等を云われるべき所を、早々明渡して立退く様にとの内意は、内府の為と云う口上とは相違
があり、 右衛門尉殿らしくないとこの彦右衛門は思います。 よくよくお伝えする様にとの返答
だった。 

半平が帰って鳥居の返答を右衛門尉へ報告した時、中村家の渡辺勘兵衛が居合わせていた。
勘兵衛はその時は印斎と名乗っており、右衛門尉方より一万俵宛の援助を受けて浪人分で
抱えられ、大和国郡山の城を預かっていたが用事で大坂に来ていた。 長盛は印斎に向かって、
今半平が報告した鳥居彦右衛門の口上を聞かれたかと問えば印斎は、先程から聞いていましたが
余りにも感心していましたと答えた。 長盛は、その通りです、鳥居(p291)の様な侍を失うのは
たいへん惜しい事ですと頻りに落涙した。 この事は関ヶ原戦の後、 郡山の城を明渡す時印斎の
対応が良かったと藤堂高虎が聞いて、知行一万石で召抱へて家老並の待遇をした。 大坂冬夏の
両度合戦の時も先手役を与えられたが、何故か藤堂家を去り椎庵と名を改めて大津に居住した。 
その後江戸へ出たが堀丹後守殿が内証で過分の援助をして家来同様に出入した。 その時鳥居の
口上等を丹後守殿に椎庵が語るのを直接聞いたと云う中西与助の話をここに書留めた。
著者註 この事は旧記の中にも記してあるが、石田治部方よりの使者と云っても使者の名は見えず
    其上この使者を留めて外の留守居衆を呼んで協議し、四人が相談して返答した事になって
    いる。 しかしこの様な時の為の城代であるから、自身の一存で断りの返答をするのも当然
    と思うので椎庵が語った事を採用した。

其頃伏見城への寄手は備前中納言(浮田)秀家、筑前中納言(小早川)秀秋、五奉行の中では
長束大蔵等を主将として、近日大坂を出発する事が聞こえてきた。 そこで四人の留守居衆は
相談して西の丸に居住する若狭の少将(木下)勝俊の方へ使を立て、今度当城への寄手として
御舎弟秀秋が向かっているので、貴殿が当城中に居られるのは城兵達が皆納得しないので、
早々西の丸を明渡す様にとの口上である。 そこで勝俊は西の丸を退去して京都へ登り、北の
政所の屋敷の守護をした。
註: 木下勝俊(1579−1650) 若狭城主八万石、弟小早川秀秋、叔母北の政所(秀吉正室)

鳥居彦右衛門方より増田右衛門尉方へ断りの返答をした後、今生の別れと云う事で留守居四人
互いに接待をして、其座で(p292)籠城の相談等もした。 或日内藤弥次身衛門宅に集った時
大坂城西の丸の留守居役だった佐野肥後守が来て、皆さんが籠城を決め大坂から軍勢が来る
と聞きました。 私も籠城に加えて頂きたいと云う。 留守居四人の中で弥次右衛門が云うには、
貴殿は大坂西の丸の御留守居として残された以上、ともかく大坂で何かやり方もあるでしょうが
当城へ来られ、私達と一所に籠城すると云われても全く受け入れられません。 ここで仮令
どんな武功を尽されても持ち場が違う働きとなり、上の評価は得られないと断った。

その時肥後は、大坂奉行から西の丸を明渡す様に云ってきた時、その使者の首を刎ね、御殿
に火をかけて切腹をしようかとも考えました。 しかし大勢の女中も居たため西の丸を明渡し、
全ての女中をそのまま残し、御側近くで仕えた女中方を夫々に片付けました。 せめて当城に
籠り皆さんと一所に成りたいと思って来ました。 大坂西の丸を彼地の奉行に追出され、当城
で皆さんに追出されたのでは御咎に逢って苦労するのは存命した時の事です。 預けられた
西の丸を追出され何の面目があって再び内府公にお目に掛かれましょうか、 敵が寄せて来たら
則討死と覚悟を決めて来たものですと述べた。 留守居衆四人共に感心して、それでは幸い
名護屋丸が無人でもあるので、総責任者として貴殿が籠られよと決まった。

著者註  佐野肥後守と云う人は元来徳川家の家人ではなかった。 以前(p293)京都聚楽の
     中に内府公が秀吉卿より屋敷を進上され、その後度々上洛の際に表立った用は藤堂
     与右衛門(高虎)が承る様にと秀吉卿が指示し、細々した用事承りとして平勘定役人の
     中から佐野肥後と岩間兵庫の両人が任命され、 内府公が上洛在京の時は日々の
     経費管理をした。 その後家康公が在国(当時は駿府)の時も上方筋の用事はこの両人
     が担当した。 更に近江の国内で馬の飼料のためと秀吉卿から家康公に知行が進上
     された時、関東から代官を送らずこの両人が知行所を預り知行200石が与えられた。
     それ以後自然に御家人の様になり肥後守は認められ立身した。 上記近江内の代官
     を勤めている時、近くに国友村がありそこで大砲の打ち方を習った。 伏見籠城の時も
     大砲を指揮し、自身でも打つと云い火薬を詰めた。 しかし既に火薬が詰めてあるのに
     気付かず二重込めとなり、 点火したところ砲筒が裂けて肥後守は大怪我をして死去した。
     この話は国友八左衛門と云う者が若い頃肥後守に目をかけられ、大坂西の丸、伏見
     籠城にも付添ったので良く覚えており、私の兄半午へ常に話していたのを聞いたと寺沢
     角右衛門が語ったのを書留た。

落穂集第九巻終