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           落穂集第八巻
       8-1 内府家康の政務始動(p227)

家康公が伏見城に入ってからは向島に滞在した時と比べ格別に威光も増した様である。 其頃
細川忠興へ豊後杵築五万石、堀尾吉晴へ越前の府中五万石、羽柴右近大夫忠政(森忠政)へ
信州に二万五千石の恩賞を与えたが、外の大老、四奉行の面々から特に異議もなかった。
又各種の申請、訴訟事、争い等で放置されていた件も次第に処理が進んだ。中でも宇治の茶師
仲間の茶値段の協定などは数年にわたり未解決だったが、 家康公の裁許により申請通りに
認められた。 九鬼大隅守と稲葉蔵人の揉め事の裁判も決着が付き九鬼の負けとなった。九鬼は
不満だったがその時は抗議しなかったが、この事を遺恨に持ち、翌年の(p228)の関ヶ原一戦の
時は石田方へ付いた。

其頃加藤清正、黒田長政、浅野幸長を始め、七人共同で訴訟を起こした内容は、我々は朝鮮国
において異国人と戦い軍忠を励みましたが、現地へ派遣された目付七人の内、福原、垣見、
熊谷、大田、早川五人の連中が談合して粗略な報告書を上げました。  先公(秀吉)から何の
褒賞も無いので不審に思い帰朝以後色々調べたところ、 先公が病気以後は朝鮮征伐の事に
ついては外の奉行は関らず石田三成一人により処理されていました。 そこで我々の考えを
三成へ、裁判により五人の目付達にそれなりの刑罰を加える様に再三に渡り申入れました。
しかし承諾はなく、寧ろ無礼な回答をしてきました。 そこでこの侭にして置けぬと我々が相談
している事を三成が聞き、大坂を逃出し当地(伏見)へ来て内府卿の御世話で佐和山に蟄居
した由です。 もう三成では相手にならないので、やむを得ず直訴致しますとの事である。

上記により家康公が取上る事になったが、たいへん慎重に四奉行の面々へも内談した。
この争いの原因は、 朝鮮国蔚山の城を明国が大軍で攻撃した時、その城主浅野幸長は勿論、
加勢の加藤清正、黒田長政両人の著しい働きがあった。 この事を報告するのに福原を始め五人
の目付が談合して疎略な報告書を作ったので、同役毛利民部、竹中伊豆両人は同意ぜず、
こんな文書に我々は捺印出来ないので別途報告書を差出すと云った事から垣見、熊谷、大田、
早川四人と両人と口論となり、刃傷沙汰になりかけた(p229)ので福原は色々宥め、報告書の
文言を所々書改めた。 それでも両人は納得しなかったが、原則として報告書は七人の合議で
多数決で決める事が誓文の前書にも書かれているので連判すべきと福原が云うので、仕方なく
両人も捺印したという風説を家康公も聞いていた。

そこで七人の目付衆に付添って渡海した旗本の侍達呼び、寄合所の下役人等に至る迄四奉行
列座の中へ呼出して聞取りを行った。 聞取りの際は控え所から一人づつ出たが何れもが世間
で噂されている事と相違なかったので、奉行は其旨を内府へ報告した。
其頃家康公は藤堂佐渡守高虎を呼んで、貴殿は毛利民部少輔と親しいと聞くがどの様な理由から
かと尋ねると高虎は、私が若い頃秀吉卿が播州姫路の城に入り同国三木の城を攻めた時、民部
が重傷を負ったので私が疵の手当てをしましたが、それを非常に感謝して今でも私を大事にして
呉れますと語った。 それならば貴殿が民部を訪問して、朝鮮の戦いで諸大名の働の甲乙を雑談
で民部から聞いて私に教えて欲しいとの事である。

高虎が毛利の宅を訪れて閑談してこの問題を投げかけたが毛利は、この間七人の大名衆と我々
仲間五人の者との争いが公となり、近く内府卿の裁判があり私も評議の席へ呼ばれるので、その
積もりでと知らせがあり覚悟はしています。 そこで私も訴訟人の立場ですから、いくら日頃親しく
している貴殿と云えども、事前に口上を言う事はできません。 それは内府卿のご判断(p230)に
どうかと思うからです。 しかし不束者の私ですが先公に選ばれ大切な役に任ぜられたので、
朝鮮へ着岸の日より帰帆迄の間の事を全て書留めた日記があります。 貴殿に進上しますので
この内容を内府へ伝えて結構ですが、口上は一言も申しませんと云って日記を高虎に渡した。
高虎が日記を持参すると家康公はたいへん喜び毛利の事を褒めた。

その後いよいよ双方対決の裁判の日が決まった。 故太閤時代に御前公事として度々行われた
形式をとる事になった。 奉行、諸役人列座の前へ七人の目付達は左右に分れる。 一方には
両人の内竹中が病気で欠席故毛利民部一人が出座、 一方は福原を始め五人が出座した。
その時前田玄意は五人の面々に向って、朝鮮の戦いの時蔚山において浅野幸長、加藤清正、
黒田長政の戦功について、各位からの報告書が杜撰であり先公からの御褒賞が無かったのは
心外であると三人を含めて七人の大名衆から直訴があった。 本日この件を糺すものである。 
この報告書で毛利、竹中は内容に納得できぬとして捺印を拒否し、仲間同士で口論になったと
世間で云われているが、どんな事情があったかと尋ねたが、五人の面々は返答がなかった。
その時毛利民部が玄意に向って、報告書の件て私達両人が五人に対して争論したことは世間で
云われている通りですが、福原右馬助が仲裁して少々文言を書改めたので私共も捺印しました。
この上は何も申上げる事もありませんので、七人一同に同罪でご処理願いますと述べた。

又時浅野長政が五人の方へ向って、朝鮮国渡海の前に先公より各位に命ぜられた誓文の前書
にも七人が相談(p231)して検討を加え議論して決定の上報告する様にとあるのは重要な規則
である。 報告書の内容に二人が納得できぬと捺印を拒んで争論となった事を内府卿も不審に
思われ、我々も又同様であるので、この点を聞かして欲しいと云ったが福原を始め五人の面々
から一言の答もなく口を閉ざしていた。 家康公は座を立ち評議は終了した。

その後浅野長政宅へ奉行衆及び大坂目付役の面々が立合う席へ五人の面々を呼出し奉行
からの申渡しがあった。 朝鮮の事は海路遥かに離れた場所であり、 渡海した諸大名の軍忠や
戦功の多寡を詳しく知りたいという先公のお考えで各位をその役に任ぜられた。 其上は正確
且つ公平な報告がなされるべきを依怙贔屓が行われた事は不届きであり、その罪は軽くない。
先公の時代であれば厳しく処断されたであろうが、今は御幼君の代でもあるので罪一等軽くと
云う内府卿の気持ちを入れて、各々の領知を取上げ改易を申し付けるとの事で決着した。
この裁判以後、家康公の威光は旧に倍し、人々は益々尊敬したと言う。

著者註 この争いについて書記した書も多数あるが異説も多い
  裁判の結果、福原一人が豊後府内の城地を取上げられて改易となり、残る四人は領知は
  そのままで蟄居となったと云う説もある。 私が聞いたのは五人一同に改易となり、福原、垣見
  熊谷三人は佐和山へ行き、 中でも福原は石田三成に近い縁者故佐和山の城中に住み、
  垣見と熊谷は三成の世話で佐和山の近辺に隠れた。 翌年の秋家康公が会津へ発向して
  留守になったので、 三成は大坂へ出て奉行衆に頼み四人共に秀頼卿へ帰参させ、福原
  は美濃国(p 232)大垣の城代に任じ、 垣見と熊谷には同城の備中曲輪を預けた。
  又大田飛騨は筑紫へ下ったが、秀頼卿より帰参する様にと奉行からの通知があったので、
  旧領豊後臼杵の城に立て籠もったが、 中川修理大夫秀成が東軍に付いたので同国岡の
  城より軍勢を出して大田一吉(政信)を攻囲んだ。 この時垣見家純の居城である富木城、
  熊谷直陳の安岐城に両人が夫々の家来と共に立て篭もったが、 東軍の黒田如水軒が
  中津の城より攻め込み両城共に攻落しした。 

  この事から垣見、太田、熊谷等は当分の蟄居であり所領はそのままたっだ事に気づき、福原
  一人だけが領知を召上げられたと書記したものと推量する。
  五人の者達は蟄居を申付けられたのであるから、大坂の近辺等に閑居するべきで、三人は
  佐和山、太田は九州へ行くのもおかしい。 あと一人早川主馬は改易になった時、奥州方面へ
  行ったと云う説もあるが、どうした事か翌年七月四人の面々秀頼卿へ属している。
  
  私が若い時、水野如心と云う老人がおり、この人は加藤清正に仕え、 関ヶ原一戦の時は肥後
  国にいた。 如心の物語では関ヶ原一戦について、初めは東軍の勝利は十に一つと西国では
  噂があった。 そこで清正も専ら籠城の支度をしていたが、味方の諸勢が美濃国岐府の城を
  攻落した事が黒田如水より知らされ、清正初め家中の侍達は安心した。 以後は籠城の用意を
  止めて他国へ進発する体制になったと云う。 そうであれば垣見や熊谷の家来達も主人の帰参
  する情報もあり、その上石田方の西軍有利と聞き、(p233)喜び勇んで夫々の破綻した城に籠り
  西軍の色を明確にしたものと思われる。
註1.垣見家純(一直?-1600) 富来城(大分県東国東町富来浦)主、家臣が城代を勤める
註2.熊谷直盛(直陳?-1600) 豊後安岐(国東市安岐町)城主、家臣が城代を勤める
註3 臼杵城 元は大友家の城、 福原が入り、其後太田一吉が入り西軍に属す
註4 福原直高(?-1600) 石田三成妹婿、豊後府内(現大分市)城主、改易、
註5 中川修理大夫(秀成1570-1612)東軍に属す、岡城主(大分県竹田市)
註6 黒田如水軒(孝高1546-1604)勘兵衛、東軍、嫡子長政(1568-1623)東軍
註7 岐阜城 織田秀信(信長孫)西軍に属す。 関ヶ原前哨戦で東軍に攻落される

家康公が伏見城へ移った時、毛利輝元を始め三大老の面々がお祝いとして大坂から訪問した。
しかし家康公からの返礼の訪問が無く、それでなくとも秀頼卿と淀殿等に対面のために時々は
大坂の訪問があるべきだが、一向にその様子が無いので諸人が不審に思っていた。
浅野長政がこれを聞いて、何とか家康公に大坂下向をして頂きたいと、伏見当番の時に本多
佐渡守に伝えた。 しかし下向の様子が無いので長政が大坂へ帰った後、 片桐市正も大坂
より訪問して雑談の中で、このところ久しく秀頼卿や淀殿への御対面も無いので、皆色々心配
しています。 皆の安心の為にも近い内にご下向なされた方が良いと思います。 その時は
昨年と同様に私の宅にお泊り下さいと申上げた。 

家康公は、貴殿の言う通り私も大坂へ下向する積もりで数度にわたり供の人数の検討迄したが、
今年春から持病の寸白(サナダ虫)を発し、気分が勝れないので引延ばしてきた。 今は暑いし
少し先に涼しくなったら下向するので、その時は前と替わらず貴殿宅へ泊まりたいとの事だが
具体的な日程の明示が無いまま片桐も大坂へ帰った。

慶長五年(1599)四月十八日、故太閤秀吉卿の廟社へ豊国大明神と云う社号が勅許となり、
翌十九日遷宮の儀式があった。 秀頼卿からは福島左衛門太夫、北の政所からは青木紀伊守が
名代として社参した。 此日(p234)家康公も豊国神社へ参詣し、明神への奉納は勿論、末々の
神官、僧侶等に至る迄全てに施物をした。 その後直ぐ照高院へ寄って天台宗の論義を聞いた後
伏見へ帰城した。
著者註 この豊国の社号に関して、秀吉卿が在世の時から新八幡宮と云う社号を熱心に
   願ったが、何か支障があるのか新八幡宮の勅許はなかったという説もある。

其頃家康公は伏見当番奉行の外に一名用があると云う事で増田右衛門尉が大坂より登城した。
奉行二名を呼んで、 朝鮮の戦いで彼国へ渡り戦功有った人々に対して、太閤が存命なら夫々
表彰もあったろうが、 今は幼年の秀頼卿の時代なのでそれも出来ない。 せめて休息のために
夫々の国へ帰城してはどうかと思う。 私の考えを外の大老方へ説明し、各々に休暇を通達する
のが良い。 中でも二度の朝鮮の役で働いた人々は来秋中迄休暇を取る様にすれば良い。
毛利輝元、浮田秀家両卿も、朝鮮の役では久しく名護屋に滞在し、その後今迄大坂に詰めて
おり、たいへんご苦労と察するが外の大名と違い私からの指示では遠慮もあるだろうから、
奉行衆で相談して私の考えを語るが良い。 また五人の奉行衆も一人宛帰城して休息する様に
との事である。

増田は大坂へ帰り大老達に報告したところ輝元と秀家が云うには、現在は御幼君故成長される
迄はこの大坂に詰めていなければならぬと思っていたが、 内府卿より奉行衆へその様な内意が
あるなら我々も休暇を頂きたいとの事である。 この事を伏見へ報告した(p235)ところ、それでは
故太閤時代の旧例の通り、大老を始め国々の郡主である面々へ秀頼卿より休暇を給わるので
拝領物等も準備して渡せる様にと大坂の奉行衆へ指示があった。

時に上杉景勝が奉行へ申入れたのは、 私は故太閤の代に会津を拝領した時入部のため休暇
を下さったが、在国する間もなく大坂へ来たので領地の見回りもしていない。 その上内府卿も
ご存知の通り一揆の多い所なので、出来れば帰城して領分の政務なども指示したいとの事である。
同じく加賀の前田利長も、亡父大納言利家の家督を拝領したが未だ入部もしていないので、弟
能登守利政と共に休暇を下されたいとの願いである。
奉行衆は相談してこれら両卿の願いを内府卿へ伝えれば御不興は間違いないと思ったが、放置
もできず伏見へ報告したところ、家康公は全く咎めなく両人も願いの通り都合の良い時出発して
来年三月になり雪も消えた頃参勤する様にと、秀頼卿名による休暇の許可を与える様に奉行に
指示があった。 大老三人も帰城して奉行衆では長束大蔵が帰城の筈だったが、 内府卿が
大坂へ下向する予定もあるので待機のため逗留したという。

         8-2 家康暗殺計画の風聞
慶長4年(1599)八月の初め頃、 家康公は徳善院玄意を呼んで、久しく朝廷に参内していない
ので、貴殿と伝奏衆と相談して調整する様にと指示した。 玄意法印が上京して武家伝奉に連絡
したところ、天皇に伝わり来る十四日に参内される様にと勅宣があった。 
家康公は参内し、禁中より直に高台院が住居する上立売の館を訪れ、その日の夕方伏見へ
帰城した。 翌十五日八幡へ神拝のため行く予定だったが(p236)、その日は祭礼日のため諸人
参詣の妨げにもなるのではとの考えから、一日遅らせ十六日に参詣を済ませた。
註1 伝奉衆 武家伝奉 朝廷の武家に対する担当窓口、 
註2 高台院 秀吉の正妻おねの出家名 伏見城を出た後京都御所の近くの上立売に住居

その後家康公は大坂の奉行衆の一人を呼んで、私は早く大坂に下り秀頼卿成長の程を見て、
淀殿にもお目に掛かりたいと思っていたが、病気のため思う様にならなかった。 最近は気分も
快くなってきたので来る九月初め頃、重陽の祝義を兼て下向するので各位予定願う。
いつもは片桐市正宅に泊まり今回も彼は承諾しているが、亭主の心遣いも大へんと思うので今回
は石田治部少輔の屋敷が今は空家になっており、大坂逗留中は彼宅を宿とするので、その積もり
でいて欲しいとの事である。 奉行は大坂に帰り石田屋敷の修理や掃除等を急遽指示した。

こうして家康公は九月七日に船で淀川を下り、其日の夕方四時頃着岸し直ぐに旅宿へ入った。
その時在大坂の大名小名達が皆挨拶に来たので、門前は馬や駕籠の置場も無いほどだった。
夜に入ると増田長盛、長束正家の奉行両人の訪問があり、やや暫く密談が行われた。

両人が帰宅した後、家康公は井伊直政、榊原康政、本多忠勝三人に本多佐渡守を加え近くに
呼び両人が知らせた事を語るに、加賀の前田利長から浅野長政に内談があり、明後日九日
に私が本丸へ行った時、土方勘兵衛と大野修理の両人に殺害させる由であるが皆どう思うか
との事である。  佐渡守は、両人の奉行衆が事実無根の事を言う訳はありませんから、病気と
云う事にして重陽の訪問を取りやめ、伏見から人数を呼寄せるのが良いでしょうと云う。
直政、康政、忠勝の三人は、 仮病で訪問中止と言うのもどうかと思いますので、その心がけを
(p237)持ってさえ居られれば別状ないでしょうと申上げた。 それはとも角佐渡守の言う通り伏見
の人数は呼ぼうと言う事になり、 伊那図書(昭綱)を呼び、結城秀康公への詳しい口上を伝えた。
図書は早速支度を調えて其夜中に大坂を馳出し、翌朝六時に伏見へ到着して秀康公の屋形へ
参上して口上を伝えた。

秀康公も驚いて早速伏見城本丸へ出勤し、留守を預かっていた諸番頭、諸物頭全員を呼んで、
今度大坂にて急な御用がある旨伊那図書を通して連絡があった、 各自早速支度を調えて
大坂へ行く様に、 当城の留守番は全体私の部下が勤めるので各番所は明けて置き一刻も早く
出発する様にと指示した。

一方大坂では家康公は八日の夜増田右衛門方を訪問し、長束大蔵も後から参加して暫く閑談
して後帰宿した。
翌九日の朝八時に本丸へ出かける時本多正信は留守を守り、井伊、本多、榊原の三人の外に
譜代大名四人、御使番衆五人の合計十二人がお供した。 桜の門の番人が御供衆が多すぎる
ので残られる様にと云ったが無視して、家康公が式台に上がるとお供衆も皆袴の括りを解いて
上がった。 その時増田、長束の両人迎えて挨拶すると先に立って案内をした。 浅野弾正は
どうしたのかと尋ねると、 夜中より急に病気が出て今朝あなた様が来られるが、迎えられる状態
になく申訳ないと私共へ連絡ありましたと言う。

それから千畳敷の廊下へ差掛る時、 井伊直政は後を振返り御使番衆へ向って、皆はここでと
あったので五人の面々は残り、七人の人々は更にお供を続けた。 秀頼卿の目付衆が、ここで
残って下さいと云った時、酒井備後守(p238)はその目付に向かって、今日内府卿は用心せぬ
訳には行かないので我々が付き添うのですと苦々しく云うと、その後は何も言葉が無かった。
井伊、本多、榊原三人の衆は秀頼卿と家康公が対面している座敷とは障子一枚の隣に控えて
いた。 やや暫く挨拶が終わると家康公は立ち上がり、千畳敷廊下の前を右に出て、大台所へ
と指示したので右衛門、大蔵が先に立って案内した。 そこで酒井備後守を呼んで、この大台所
にある二間四方の大行燈は外では見れないものだから、供の者達に見せようとの事で備後守は
中の口へ出て御供衆を連れて来た。 御供衆に見せた後は直に内玄関へ出て、御供衆を連れて
旅宿へ帰った。 

宿では伏見にいた家来衆が秀康公の指示で我も我もと馳下って来たので、石田の大屋敷に入り
きれず、 石田木工頭(正澄=三成兄)の屋敷の中迄入り込んでいた。 これを見て大坂中の
人々は大いに肝を潰し、これは一体何事だろうと騒動になった。 家康公は当初翌十日に伏見へ
帰城の予定だったが十一日迄逗留し、十二日の朝大坂を出発する時、伏見より参じた家来衆も
残らず御供したので四千人余で帰城した。 

逗留中に家康公が増田右衛門、長束大蔵の両人へ語ったのは、 加賀の前田利長が浅野長政と
相談し、土方と大野に指示して私を殺害させる陰謀は各位の通報で今回難を免れた。 この上は
厳しく吟味して、その目的、理由などを問うのが当然とは思うが、それでは世間も騒がしくなり、
公の為にもならぬと思うので今回の事はこの侭にして置く。 しかし土方大野の両人迄その侭
では(p239)今後の為にもどうかと思い厳しい処罰を行いたいが、各位も知っての通り、両人の心
より出た事でもなく、その上公に対する謀反でもない。 随って両人共遠国大名へ御預けはどうか
との事である。 両奉行は極めて寛大なお考えですと云い、その後土方は佐竹義宣へ、大野は
結城晴朝の両家へ預となった。 大野は十月二日、土方は同月三日に大坂を出発しして夫々の
配所へ向かった。

この時浅野長政は増田と長束に、私は各位もご存知の通り先公の代から倅の左京大夫に陣代を
勤めさせよとの事で朝鮮国へも二度渡ってご奉公した。 私としては早く隠居逼塞の身にでも
なり引籠もりたいが、その様な願いを申請する機会もなく日一日と延びてきた。 ところが最近は
かなり老衰して記憶力も薄れてきたので重い役職など勤まる状況で無くなった。 内府卿への
取成しを各位に宜しく御願いし、倅の左京大夫(幸長)への家督相続と私の隠居をお許し願い
たいと云う。
両人からその趣旨を報告すると家康公は、 奉行職と言う重い役に先公が付けられた者を私の
一存で止めさせる事は難しいが、老養のためと云う事なら当分甲州へ行くのは自由であるとの
事で長政も十月五日大坂を発足して甲府に逼塞の形で閑居した。
  
著者註 其頃浅野家に浅野出羽と云う者がいた。 この出羽は武功もあり、其上才智も備わり
    浅野幸長のお気に入りで伽にも加わっていた。 長政の帰国の事が事前に大坂から
    聞こえた時、出羽(p240)は幸長に、今度長政公が御帰国されるのは内府公と折合いが
    悪くなったからだと専らの噂です。 どんな事があったのか心配な事ですと云えば幸長は
    内府卿の事は勿論、私の親ではあるが長政公とても皆ムジナの寄合だから、其方などの
    考えが及ぶ事ではない。 余計な事に気を遣わずほっとけと云ったが、家中では一様に
    心配していた。 しかし長政の帰国後五六日すると江戸中納言(徳川秀忠)より使者が
    あると云う事で甲府の町中を急に掃除し松木と云う町人の家を宿と指定し、浅野父子
    共に使者の接待に取り掛かった。 内府公と秀忠公父子から使者として大久保治部太輔
    が訪れ馬、鷹、其外綿小袖、ほそ頭巾、しかまき様の物に至る迄取り揃えて給わった。
    そこで内府卿との関係は別条無いと分かり家中皆喜んだ。 その後長政より家老の
    浅野孫左衛門を派遣してお礼を申上げた。
    この件はその時代の記録などには見当たらないが、私が若い頃芸州広島に居た時、永原
    兵右衛門と云う老人が居り、彼の親十方院方へ浅野出羽が夜咄に来て雑談しているのを
    直接聞いたと兵右衛門が私に語ったので書記した。

         8-3 家康伏見城より大坂城二の丸に移る
その頃家康公が増田、長束両奉行へ、今は大老の面々も在国しており、各位の同役の中で
石田治部は佐和山へ逼塞しており、 浅野弾正も老衰のため帰国したし、玄意法印は朝廷
関係の連絡のため上京がちである。 そのため各位二人だけで仲間がいないので、長束大蔵
も休暇を許可されているのに領地の水口にも帰城(p241)し難い様である。 大坂に誰も居なく
なる事もあるので、私が西の丸へ移って政務を執行するのはどうだろうか。 両人が賛成なら
大老方へ通知するか、又は今春向島よりこの伏見城へ移る時、 大坂西の丸でも私の心次第
と大老達が各位に云った経緯もあり、 今更報告する必要も無いかも知れないと云った。

両人の返答は、おっしゃる通り今春当御城に移られる時、秀家、景勝両人共に大坂西の丸へ
移るのもそれは内府卿の御心次第と云う事を私共に云われましたので、今度大老方への御相談
は不要ですと事であり早速大坂西の丸へ移る事になった。 その場合伏見の城には結城秀康公
を置き、家中の者は三十日宛の交代と指示し、大坂では石田治部少輔と同主頭両人の屋敷を
下宿にした。 又天満に石田が下屋敷としていた大屋敷があるので、その中に小屋掛けをして
軽輩の家来達は天満から西の丸の番等を勤めた。
著者註 これは小木曽太兵衛が語った事である。 大坂西丸への移動は今世間で流布する記録
   では九月九日(重陽節句)に秀頼卿へ面会した後、直に西の丸へ移ったと書いており、
   その時、増田と長束が相談して、内府卿の御機嫌宜しき様にと西の丸に本丸の様な大広間
   を造作し、その上五重の天守を接待の為に新しく作ったとある。 どちらが実説だろうか。

その頃京都において日蓮宗の僧徒仲間で不受不施の論争があった。 伏見城に双方共強訴
して(p242)来たが、調度大坂奉行仲間が少なくなり、伏見へ呼ぶのを控えたので裁判が遅れて
いた。 そこで今度は家康公が西の丸へ移ったので双方の訴訟人も大坂へ下ってきた。 種々
調査の後、双方を西の丸へ呼出て言渡した事は、大仏供養の時、一つの宗派の中で別れて
出座しないし施物等を受納しないのが宗門の決まりであると云うのはそれは構わない。 しかし
秀吉卿薨去の時に、本寺本山の住職として納経拝礼も勤めず、その上配分した施物を受取らぬ
と云うのは国恩を思わず公儀を軽んじる事であり罪科は軽くない。 その様な者を日本の地に置く
訳に行かぬと全員に遠島を申し付けた。
註1 不受不施 日蓮衆の一派で1595年京都明覚寺日奥が始めた。 法華経信者以外からは
    施しを受けない又施しをしない。 裁判で受布施派と対決し敗れる。 日奥は対馬流罪

          8-4 加賀前田家の苦難
其頃大坂は云うまでもなく、京伏見でも土方と大野の両人が御預けとなった経緯及び浅野長政
が甲府に逼塞となった事が色々噂になった。 しかし段々突き詰めると事件の元は加賀中納言
利長が反逆を企て浅野長政へ内談し、大野土方へ指示して先ず内府卿を殺害致させようとした
事が明らかとなり、細かい調査もすべきだが御幼君の時代に世間の騒動となる事は公儀の為に
良く無いと云う内府卿の考えで、当然死罪となる筈の土方と大野さえも御預けとなった。 浅野
長政は重陽の儀式に病気で登城しなかったが何の咎めもなく、内府卿の手前を憚って自ら身を
退き甲州へ蟄居した状態である。 

残るは前田利長一人の身の上だが、追詰められて止む無く反逆を企て年内にその準備を調え
来春にもその態度を明白にする考えらしいと盛んに噂が(p243)流れた。 遠国迄も噂が流れ、
その頃大方の大名達は在国、在郡だったから、情報収集の飛脚が伏見や大坂の屋敷と頻繁に
往来するので益々世の中は騒がしくなってきた。

その頃増田、長束が所用で西の丸へ参上した時、 家康公は両人に向かって、各位は北国方面
の事に関して何か聞いているかと尋ねた。 両人は、おっしゃる通り、加賀の利長について世間
では何かと云って居りますが、例の根拠ない噂と思いますと答えた。 家康公は曰く、各位の言う
通り虚説と私も思っている。 他の者ならとも角、利長など謀反を起こす理由もない。 しかし是程
世間の噂になっているのだから、虚実の事は調べて置くようにとあった。 

その後暫くして家康公は又両奉行を呼んで、先日も相談したが利長の謀反の企ての噂は未だに
続いている。 これだけ長期に噂があれば北国方面へも流れない筈はなく、利長へも聞えない
事はあるまい。 その時は思いも掛けない無実の噂に困っていると各位に頼んで取消しをする筈
だが今現在それもない。 と言う事は世間の噂通り謀反の企てがあるのは疑いない事であるが、
各位はどう思われるかと云われ、増田と長束は仰の通りですと答えた。
その時家康公は、利長に就いては各位もご存知の通り、先般私の考えで出来るだけ穏便に処理し
土方と大野も死罪を許したのに、その事を考慮せず逆に謀反を企てるとは重ねがさね罪は重い
ので、厳しく軍勢を向けて誅伐が加えられる以外ない。 その場合御名代として私が出馬する
(p244)ので各位も軍勢催促を検討されたい。 但し朝鮮に在陣した諸大名は今回出勢の必要
ない旨を私の指示として通達されると良い。 早速井伊直政と榊原康政へ北国発向を命じたので
是以後加賀陣として世間に触れた。

その頃丹羽宰相長重は大坂に滞在していたが、西の丸を訪れ井伊と榊原両人を呼出して曰く、
近々加州金沢へ軍勢を向けられ、 内府卿が秀頼卿の御名代として出馬されると聞きました。 
それに就き皆さんもご存知の通り、私は小松に在城して利長と領分が接しています。私が先陣と
なるのは云うまでもありませんが、念のため皆さんにお願いしておきますとの事である。 井伊榊原
両人は、お話は分かりました、 それでは今内府に伝えますので暫くお待ち下さいと云い、早速
その事を報告したところ、家康公はすぐ長重と面会した。 そこで家康公は長重に、今程両人へ
云われた事は御忠義の至りで感じ入ります。 今度金沢への先陣に就いては古今の戦の定法
ですから異論はないと菓子、酒などで接待し、その上長先の脇差を与えたので長重は是を頂戴し
喜んで帰宅した。 

以後大坂中が参加しての加賀陣と云う事が言われるので、その頃大阪滞在の諸大名の中でも
利長と親しい人々より加賀家へ内通もあった。 細川忠興は利長と親戚で親しくしているので、
使者を向けて、謀反の噂が事実なら仕方ないが、もし虚説であるなら申し開きをすべきで一刻も
早くした方が良いと連絡した。 利長は舎弟の能登守利政や家老達をを呼集め(p245)相談した
結果、家老の横山山城守長知を使者として、今度御地(大阪)において私に関する種々の雑説
が出ており驚いています。 全て虚説でありますのでお疑いなされぬ様、詳細は使者口上で
申上げますと自筆を認めて渡した。 

山城守大坂へ持参し細川忠興方へ行き、井伊直政に窓口を頼みその旨申上げたところ、早速
面会が許されて西の丸へ参上した。 家康公は上段に座り、井伊榊原の両家老を始め、其外の
人々が左右に着座した中へ呼出された。 山城守は懐中より利長の書状を取り差出したので
井伊直政が受取って御前へ持参したが、手に取らないので御前に置いた。 直政が自席に
戻ると家康公は山城守に向かって、其方は何故登城して来たのかと尋ねれば山城守は謹んで
主人利長は太閤様の御好恩を忘却し、亡父大納言の遺言に背き、 御幼君へ対して別心が
有ると天下に悪名高く云われております。 縦令利長が狂病に侵され謀反等の企てがあっても
家老達が諌め押さえ留めるのは勿論です。 恐れながらこの事をよくよく御高察下さり、お疑い
を散じて下されば、 利長は勿論私共も忝い事ですと申上げた。

家康公は怒った気色で、利長に陰謀の企ては、今春老母芳春院を父大納言の遺言と云って
金沢へ送り、 その後輝元と秀家の両卿に朝鮮在陣の労に報いて御暇を下された時、 利長は
どうしても帰国をしたいと兄弟共に御暇を給わって帰国した。 その上今般謀反の噂が出て以来
随分日が立つのに今頃その言訳をするのも(p246)理解できない事である。 この事から世間
の風説と一致し利長の謀反は疑いない事である。 以上から他人を使者として送っても直ちに
追い返すところだが 其方が来たので面会を許した。 早々帰る様にと云われたが山城守は、
色々申上げても聞いて頂けないのは止むを得ません。 せめて利長からの書状を御覧頂きたいと
云うので直政が上封を取って差出すと一読して、 是は書状だけではないか、誓紙はと尋ねると
山城守は、去年大閣様御他界の時、 末々迄謀反など起こさぬ為と各々が誓約した以上は
今更誓いは致しません。 もし元の誓約を御疑に成られるなら、その以後幾枚の誓紙を差上げても
それは反古同前と思います。 恐れ多い事ですが、利長の平生の人となりから心中の実、不実を
御判断頂きたく存じますと答えた。 

家康公は何も言わなかったが幾らか機嫌を直した感じで、それでは母芳春院に家老職の者を
添えて差出す様にと云えば山城守は、芳春院については利長、利政兄弟が決める事であり、 
私等が軽率にお請けする事ではありませんと答えた。 其方が云うのも当然だ、それでは早々
加賀へ帰り、利長にその件と伝える様にとの事で山城守は御前を退出し其日大坂を出発した。
山城守の御前における態度や言上の次第などをについて、大名の家で家老職を勤める人々の
良い手本だと家中の人々が噂した。
さて山城守は金沢へ帰り、家康公に云われた事(p247)伝えたところ、利長は舎弟利政を始め家老
の面々を呼集めて相談した。 能登守利政は同意出来ない口振りだったが、家老の面々は全員が
内府卿の差図に違背すればどうなるか分からないと云うので、利長はその意見に随って母芳春院
に家老を添へて直ちに差出す事になり加賀陣の咄は無くなった。

その後家康公は増田・長束両奉行へ、 利長が今度母芳春院に家老の子供を添えて差上げると
云う事は私との和睦のしるしである。 それならば大坂に置く事も無いので江戸に置く様にするが
各位はどう思うかと尋ねた。 両人は、今度人質を何処に置くのも自由とは云っても、故太閤時代
より公儀への人質は別として、 私的な人質取交しは先例にありませんので輝元と秀家にも一応
御相談されてはと思いますと答えた。 家康公は、それも一理はあるが今回の事は公儀に逆意が
あるからこそ、先ず内府を亡き者にしようとしたのではないか。 それならば領地を減らすとか人質
を取って世が乱れるのを防ぐ必要がある。 そのため人質は大切なものであるから、この大坂の
様な華やかな場所に置く事は適切ではないので、私の領地へ送り警護も厳しく付ける。 今度
利長から差出す人質を手始めと考えるからであると云う

増田長盛が再び、仰は良く分かりますが、利長と利政はどう思うでしょうか(p248)、又長束も、長盛
が申上げる通り、母親の江戸行には兄弟の納得がせず必ず中止のお願いが出るでしょう、たから
と言って兄弟の言通りにすれば御威光がたちませんので強行する事になると又々天下の騒動と
なり、結局公儀の為にならないと迄は申上げませんが、更に御賢察願いたいと言う
家康公は長束へ向かって、そんな腫れ物に触るような考えでは天下の政治は行えるものだろうか、
元来利長は各位も知っての通りの訳もあるので、母芳春院を関東へ送る事に私に対して不満を
持つなら、その時はその時の事だ。 しかし各位が色々心配するので私から利長へ書状を送り、
その返答の趣旨で私も考えると苦々しく云ったので、其後両人もそれ以上云わず退出した。

その後家康公は利長への書状を認めて加賀の留守居役を呼び、大切な用だから早々伝える
様にと云い書状を渡した。
使者が書状を金沢に伝えると、利長は書状を見て舎弟利政とその外家老達迄集めて相談した。
能登守利政は大いに不満を顕し、この様な事になるとは先日芳春院殿を大坂へ帰す様にと
あった時に考えが及ばなかったのは残念な事で、芳春院殿を東行させる事は当家末代の恥です。
とりわけ輝元、秀家、景勝等の考えを聞く事も心外ですから、十分考えて返答して下さい、この
利政は全く同意できませんとの事である。 その時利長は利政へ云ったのは、(p249) 一般に
細かい事の是非に拘るのは少身武士の事です。 既に国郡の主としての立場なある者にとっては
代々の盛衰や家の興亡を考慮する事が重要ですとの事である。 その後家老達に向かって、
芳春院殿については。私の考えで内府卿に任せて東行させると返答するので各位その積もりで
と言渡し、その後とも角お考え次第にと返答した。

加賀留守居役の者が西の丸へ参上して、芳春院の事は御差図通り江戸へ行かせますと中納言
から私共へ伝えられました。 いつごろ行かせましょうかと伺ったところ家康公は、今の季節寒気
も強いので来春の気候も暖かになった以後がよい。 今迄ゆったりとした住居に住んだ人だと
思うので、不自由が無い様に家作等も指示しているので工事が終わってからと言う事になり、
翌慶長五年の五月九日に芳春院は伏見を出て、六月三日に江戸に到着した。
著者註 この件は世間で流布する旧記にも概要は載っているが、少し違うところもある。 
   私が書留めたのは大野知石が語った事で、これは土井大飯頭殿等からの雑談が語り
   伝えられたと思われ実説と考える。 この件で外にも知石は語ったが、長くなり又余り意味も
   無いの省略した。

           8-5 束の間の平和
慶長四年(1599)十二月の初め頃、 家康公は増田右衛門尉を呼んで、私は貴殿も聞いている
通り若い頃から鷹狩りが趣味だが、 近年は国元を離れているので今では鷹(p250)扱いも
忘れた感じがする。 貴殿も承知の様にこの所世上は物静かであり近辺へ鷹狩りに出かけたいが
自分では鷹の用意もできないので、良い様に貴殿が調整し呉れぬかとの事なので増田は承り
結構な事です鷹狩りについてはご安心下さい、早速用意しましよう。 できれば私も御供したい
のですが長束が水口に帰城しており、玄意と私の二人しかおりませんので留守番をします。
先公の時代には毎回鷹狩りに御供した面々が参加するようにしますと云い、鷹狩の支配人の
佐々淡路守と堀田若狭守へその旨を指示した。

太閤在世の時に鷹狩りに出かけた様な準備を調えて、御伽衆の織田有楽、細川幽斎、有馬法印、
金森法院、青木法院、山岡道阿弥、岡江雪、前波半入、この外家臣の井伊直政、榊原康政、酒井
忠重、同忠利等が輿の後に続いて御供した。 その日は摂津国茨木へ行き一泊し、その地を支配
する川尻肥前守宗久が御膳を差上げた。 翌六日西の丸へ帰城して、佐々と堀田両人へ使者を
遣わして時服と黄金、その外の鷹匠等には関東絹、銀子を与えた。 犬曳。餌さしの下役に至る迄
が白銀や鳥目等を潤沢に拝領した。 この様な事から下々、軽輩の者に至る迄内府様と唱え深く
尊敬し、大坂中が益々物静になり上下とも安楽に慶長四年の歳も暮れた。

明けて慶長五年(1600)正月元日の早朝、 家康公は本丸へ出掛けて秀頼卿、母淀殿へ新年の
祝賀を述べ西の丸へ戻った。 その時大坂在住の大小名が本丸への挨拶の帰りに西の丸に寄り
各々太刀折紙を持参してお礼に参上し、その外秀頼卿旗本の諸番頭、諸役人に至る迄残らず
(p251)参上するので、元旦より五日間西の丸玄関前はたいへんな混雑となった。 
正月中頃を過ぎて在大坂の諸大名、其外諸番頭、諸役人等に迄餐応が行われ、四座の猿楽を
呼んで能興行も催されたので、西の丸は特に賑わい故太閤の威勢に劣る事はなかった。
註1 太刀折紙 太刀を贈る時の数量、品目を書いた目録
註2 四座の猿楽、歌舞伎の前身

          8-6 宇喜田(浮田)家の内紛
その頃備前中納言秀家と家老の浮田左京、戸川肥後、岡越前、花房志摩四人の者達の主従
の争いがあった。 この理由はこの四家老に続いて、長船越中と云う家老が居たが病気のため、
その子又左衛門が家督を継いでいた。 その時岡越前の父に岡豊前と言う者がいたが朝鮮国
在陣中に病気となった。 秀家自身も見舞ったが既に重態なので、何か言残す事はないかと
尋ねたところ豊前は、別に思い残す事もありませんが、長船越中の倅又左衛門は親越中には
劣り、人となりはねじれており重い役職等に就く者では無いとお考え下さいと遺言して死去した。

しかし秀家は豊前の遺言を採用せず例の又左衛門を紀伊守として家老職に任命し、その上この
紀伊守の推薦で中村次郎兵衛と云う歩行侍を取立て近習に使った。 それ以後次郎兵衛を段々
出世させ二千石迄与え全ての事が紀伊守と次郎兵衛両人の取計いで動く様になり、四人の
家老達は不快を抱き紀伊守との関係は悪化した。 そんな中紀伊守は急病を発し突然死去した。
これは四人の家老が紀伊守の出世を妬み毒薬を盛って殺害したそうですと例の次郎兵衛が秀家
に囁いた。 秀家は四人の家老の行いは不届の(p252)至りと思ったが、この四人は親父直家
以来の家老であり、浮田家の四天王と世間で言われる程の武功の者である。 その上宇喜田
左京等は近い親戚でもあるのでその侭にして置いた。 

ところが次郎兵衛は自分と親しい仲間を集めて、長船紀伊守の様な人が不慮の死を遂げ、何の
役にも立たない家老衆だけが集って国政を執行するので、邪で曲がった政治が多く嘆かわしい
状態になった等と云いあった。 四人の家老がこれを聞き、つい最近迄歩行侍だった中村の口
からそんな事を言うとは不届き千万であり、 上に報告する迄もなく誅戮を加えようと相談した。
これが中村方へ聞こえたので次郎兵衛方が一致団結して、御主人が云うならともかく、家老衆等
の判断で私的に誅戮など思いもよらぬとして、家老方と中村方に家中が二つに分れ大きな争いと
なった。

大谷刑部少輔は日頃秀家と親しくしているので、この事を心配して榊原康政と参会した時に
浮田家の争いを語り、 内府卿は常々私等へも、今は御幼君の時代だから世の中は静謐である
様にと考えていると言われますが、 今度の浮田家騒動の様子等を聞かれたら必ず困られる
事と思います。 そこで貴殿と私で相談して彼家の争いを仲介して内々で解決したいものです
と言う。 康政は、良い事に気づかれました。しかし貴殿から頼まれるのもどうかと思いますが
浮田殿からの御頼みなら特別です。 今度の争いが内々で収まらず、 万一公儀のお裁きと
なっては蒲生家の先例(p253)等もありますから、浮田殿の身上に影響があると迄は行かずとも
内々の解決に労を取られるのも良く分かりますと云った。

大谷が秀家へにその状況を報告すると秀家はたいへん当惑し、この上は何とか榊原と相談して
内々で解決する様に頼むとの事である。 そこで大谷と榊原は集って内談して色々仲介したが
解決しない。 その内に交替の時が来て、榊原の代りとして平岩主計頭が大坂に来たが、康政は
帰城せずに宇喜田の家の世話で逗留していた。 或夜御前伺公の面々が皆集っている所で
家康公は、榊原式部は帰城の休暇を与えたのに未だにこちらに逗留して、大谷と相談して浮田家
の騒動に掛り合っているが解決していない様だ。 榊原は皆も知っている通り、私の家中では高禄
を与えており、他の大名の家の世話を焼いて接待に預からなくても済む筈とあった。 これを聞いた
人々で康政と親しい者は翌朝当番帰りの際立寄り、昨夜斯く斯くと話した。 二三の者に言われて
康政は大いに困惑し、急に支度を調えその日の夕方大坂を立つ時大谷に断りの置手紙をした。

大谷は手を回して事の次第を調べたところ、上記の様な穏便でない言葉なので大谷も心外
と思い増田右衛門尉を訪れて是までの事を雑談して、徳川家において榊原は重職の者なのに、
内府卿が皆の前で悪し様に噂するのは、これは私に対してのものとも考えます。 今日より以後
宇喜田の争いに介入しない積もりですと云った。 増田は(p254)、それは貴殿の言葉と思えない
事です。 榊原は内府卿の家臣だから内府卿の心次第です。 貴殿は別ですから何とか内々
に解決するのが良く、それは秀家卿のためと言うばかりでなく第一は公儀の為ですなどと宥めて
大谷を帰した。

一方浮田家の四家老は榊原が急に下向したので、仲裁の手切れと考えて各々居宅に籠り、中村
次郎兵衛を拝領したいと願った。 秀家は中村に内意を伝え、其方が当家を立去れば取り合えず
事が鎮まるのではないかと再三説得するが中村は応じず、ご意見に随い立去れば家老達の威勢
を恐れて逃げたと言われては口惜しいので切腹しますと言う。 そうなると後の収まりが付かなく
なるのでそれは押さえた。 秀家は明石掃部を招いて、其方が中村に意見して一旦立退く様には
出来ないだろうかと相談した。 掃部が云うには、私は四人の者達と同じ考えではありませんが岡
越前守とは由緒もあり控えたいところですが、今回の争いを内々で解決しないとお家の為にどうか
おもいますので中村方へ行き私の考えを言い聞かせます。 但し先に中村へ通知をお願いします
と言う。 そこで秀家は側近の者を通じて次郎兵衛方へ内意を連絡した。

その夜更けに掃部は中村宅へ行き、色々意見したがどうしても切腹すると云って聞かない。 
そこで掃部は、貴殿は少身より段々の御取立に預った厚恩の人でもあり、忠義を第一と心掛ける
以外はない人と思っていたが、それとは違い不忠不義の人だと云う。 掃部に云われて中村は
非常に不機嫌となり、貴殿は私を(p255)不忠不義の者と云うには必ず理由があるでしょうから、 
それを聞かぬ訳には行かぬと言う。 その時掃部は、今度の争いが内々で解決せず公儀の裁き
となれば、秀家卿の御立場はどうなるかと言う事に気付かないのですかと言えば次郎兵衛は、
だからこそです。 今度家老四人が一致して私一人を狙ってとやかく言うのなら、私が切腹して
死ねばそれ以上云う事もないでしょう。 それで事が鎮まり秀家卿の御為にもなるのでは考えて
切腹するのです。 これを不忠不義の者と云う貴殿の論は全く理解できませんと言う。

そこで掃部は、今度の争いは家老四人と貴殿一人との対決ではなく、御家中の近習や外様の
諸士数十人が集り貴殿と一致同意している事でこの様な騒動となっているのです。 そこで貴殿
一人に腹を切らせれば貴殿に肩入れした者達がその侭にせず、貴殿切腹の後に四人を殺害
しようとか、又皆で相談して御家を立退いて家老四人の非を公儀へ訴えるとか、この何れかに
決まっています。 夫ゆえ貴殿の切腹は御主人の為にも差障り、知人仲間の苦労ともなります。 
是を不忠不義と私が云うのです。 それでも猶理屈があるなら云いなさいと顔色を変えて明石は
語った。 次郎兵衛は一言の返答もできず、これ以上はとも角も貴殿の御計らいに任せますと
云う事で落着した。
その後風雨の烈しい中夜陰に紛れて蓑笠を着た人足十人程が次郎兵衛を取囲み屋敷を出た。

その後秀家から前田玄以法印(p256)、増田長盛両奉行の方への申入れがあり、当家家老達に
不届の事がありましたが四人共公儀でご存知の者です。自分仕置を行うのも憚りがありますので
何分にも処理願いますとの事である。 奉行より家康公へその旨報告したところ、西の丸へ四人
共に差出す様にと秀家に伝えた。 当日に至り四人が参上したが何の吟味もなく、浮田左京と
戸川肥後は前田徳善院へ御預け、 岡越前、花房志摩両人は増田右衛門尉へ御預けとなり、
その日西の丸より直接郡山と亀山へ夫々向かった。

著者註 宇喜田家の騒動は色々な本に記してあるが、本説は大坂冬の陣の時、大野修理方に
   明石掃部が夜振舞いに来た時、大野に語ったのを直接聞いた米村権右衛門が浅野
   因幡守殿へ語った事を因幡守殿が覚書に留めたものである。

   榊原康政はこの時の様子からすると下向の後は江戸屋敷か又は領地館林に蟄居して
   いると皆が思っていたが、江戸へ帰着すると直に登城して秀忠公に面会し、大阪城や
   上方筋について尋ねられ、御相伴で料理なども出された。 その後も続いて方々で接待
   を受け、自分でも客に振舞い以前と何も替わらなかった。 この様子が大阪にも聞こえて
   皆不思議に思ったという。
   
   次に大谷吉隆は以前奉行職の時以来家康公とは親しかったが、病気のため職を免除
   となった後は暇になり出入りも頻繁となった。 去春家康公と大坂四大老五奉行衆の争い
   の時も大谷は昼夜を分けず家康公の伏見屋敷に詰めて味方した。 この争い(p257)が
   収まった後は以前にも増して親しくなり、台所へも出入りして良く御相伴にも付き合った。
   しかし石田治部少輔と親しい事が先日浅野弾正から報告があり、その上病気も次第に
   重くなり顔形も日々醜くなり、家康公も内心疎ましく思っている様子が側衆の人々には
   感じられた。 そこへ浮田家の争いの事があったので大谷の方から身を引いて、偶に
   参上しても以前とは違って段々疎遠になった。

   次に御預けになった宇喜田家の四人の家老の内、浮田左京と戸川肥後は家康公の会津
   発向の時、 前田徳善院と内談して備前より家来を呼寄せて、後を追って江戸へ下った。
   それを聞いて岡と花房も共に参加したかったが、その時は既に内府方と石田方に分れて
   騒然としていたので、増田へ相談する事も出来ず密かに郡山を立退いて関東へ下った。
   その後濃州での戦いで徳川方先手に加わり関ヶ原で奉公したので四人共に徳川家の旗本
   に採用された。 その時浮田秀家は敵方の主将でもあるので、 左京は姓名を変えて
   板崎出羽と改めた。

  落穂集第八巻終

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