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              旧伝集三
目次                  翻刻ページ
301撤退時の惟新公食事       P52
302浜田左衛門の顔色
303後醍院喜兵衛の大黒
304押川強兵衛の陰嚢
305新納忠元の娘
306秀頼公伝説             P53
307押川強兵衛の討納め
308忠久公の生死
309龍伯公雨乞歌
310光久公の中間
311帖佐六七の歌
312川田駿河の呪文          P54 
313義弘公朝鮮遅参
314忠恒(家久)公書状        P57
315五大老の感謝状          P59
316家臣の能見物
317山田有栄の金張脇差
318光久公の正夢            P60
319義昭大僧正の追討
320小幡勘兵衛と綱久公
321中馬大蔵の大力          P61
322貴久公の鷹狩り
323又一郎久保の死因異聞      P62
324中馬大蔵の剣術
325稲津掃部の日向侵攻
326俊寛流刑の跡
327伊勢貞昌の家久公追悼     P63
328龍伯公琉球に協力要請     P64
329琉球の名酒
330龍伯公家臣に諭す        P65
331家久公の琉球処理覚
332押川強兵衛に他家感謝
333義久公の大盤振舞目録     P66
334建武時代の宮中警固
335肝付方討死の社
336高見馬場の昔
337久保田の昔
338税所宅の昔             P68
339高隈鍛冶屋の咄
340川上久国の恩送り
341山田有栄の幼少時
342大山三次の伊達          P69
343中馬大蔵の物頭自薦
344喜入摂津の強弓
345水引の執印由緒          P70
346中馬大蔵、関ヶ原に駆付
347水引に残る秀吉の高札
348中馬大蔵に惟新公手料理    P71
349平佐城の桂夫妻の奮戦
350龍伯公の家康交流覚       P72
351惟新公、歳久を惜しむ       P73


01綱久公はある時山田昌厳を呼出し、惟新公の関ヶ原合戦の咄を聞かせよと
 あったので、昌厳は合戦が終わってから伊勢路を退却する際の話をした。 
 弥九郎(昌厳名)、食物はどうするかと惟新公からあったので、少しばかり
 残っていた馬の足を用意して差上げました、 それから親しい方々が立寄り
 お膳を差上げる時私もお相伴する様に言われました。 その汁に蛸を入れた
 所、惟新公が、なんだ弥九郎、この蛸は硬いなと云われるので、余り旨いので
 具にしましたが確かに硬いですと申上げたところ、 楽も苦もは過ぎてしまえば
 跡もなしと言う事かと云われましたので、その通りで御座いますと云った旨を
 話したところ、綱久公は落涙して聞かれたとの事。 
 近習の人々は他にも咄があると思ったが結局この咄だけだった。
註1.島津綱久は二代薩摩藩主光久長男、惟新(義弘)のひ孫になる。
註2.山田昌厳は貴久・義久時代の武将山田新助有信の子、弥九郎有栄

02浜田民部左衛門は合戦の場で未だ手柄をたてていない内はいつも顔色が
 青いが、手柄を立てると顔色が赤くなる。

03後醍院喜兵衛は常に大黒天を信奉する人で、何時も出陣の時には小さな
 大黒を箱に入て持参したと言う。  惟新公が関ヶ原から撤退の時、伊勢路の
 方に退却するのが良いだろうと云う事になった時も、 喜兵衛が申上げたのは、
 私は兼ねて大黒を信じており、いつも出陣の時には持参しておりますが良い
 方向に必ず大黒が向いて居ります。 今見たところ伊勢路の方に向いており、
 この方角が良いと思いますと云い、伊勢路を通る退却となった。

04いつの時の事だったか、押川強兵衛やその他多数が疲れていた時、
 強兵衛他数人が、良い頃に起して呉れと云い寝てしまった。
 そこで寝なかった人々が寝た人々の陰嚢を触ってみたところ、大方はちぢこまり
 堅くなっていたと言う。 強兵衛も高いびきで寝ているが、兼ねて剛強の人なので
 どうだろうかと触ってみると堅くなかった。 やはり勇強の人だと感じさせた由。

05新納武蔵守忠元の息女は鹿児島一番と云われた悪女であったと言う。 それを
 聞いて有河雅楽介貞世が十七歳の時、忠元に直接貰いに行き妻にした。
 その腹に伊勢平左衛門、同兵部貞昌が出生した。
註1.中世から近世初期の悪は近現代の悪とは異なり、強いと云う意味がある。 
 ここでは賢女、或いは烈女の意味か。
註2.新納忠元は貴久ー義久時代の薩摩一番と云われた武将であり、文も有名
 伊勢貞昌は家久ー光久時代の武将で、江戸家老を勤め教養もあった。

06秀頼公は薩摩へ忍んで下り谷山に住居したとの事で、今でもその跡を
 木之下郷と言い伝えている。
註1.豊臣秀頼の薩摩隠遁説の一つか。 木下は秀吉妻おねの実家姓

07押川強兵衛の人討納めは平田太郎左衛門増宗との事である。
註1.押川強兵衛(公近1571-1629)義弘、家久家臣、水練、剛力、鉄砲名手
 平田増宗は島津家家老だったが、理由不明なるも藩主家久の命で強兵衛が
 1610年に上意討したと云われている。

08忠久公は治承三年十二月晦日(1179)摂津国住吉で誕生し、嘉禄三年
 六月十八日(1227)雨の降る頃鎌倉で病死。 死因は脚気と赤痢と
 言われている。
註1.忠久は島津氏祖で惟宗忠久と云う鎌倉幕府御家人。 薩摩、大隅、
 日向に跨る島津庄の守護を委任され、島津を称する。 以後忠時、久経、
 忠宗、貞久と続くが、4代目迄は殆ど現地定着の記録なく、五代目貞久
 (1269-1363)から現地定着の守護職と云われている。
 
09龍伯公が国分八幡宮で詠んだ雨乞の歌
  なる神の 山めぐりする 麓より あらわれ出る 秋のあま雲
 この歌は中納言(家久公)と云う説もある。

10光久公が登城する時、下馬で挟箱を他所の士が追い越した。 そこで
 この挟箱を持っていた市兵衛と云う者が、この士を引き止めて、失礼では
 ないかと叱りつけた。 騒ぎを聞いた下馬の警備人達が市兵衛を狼藉者と
 思い、取り巻き棒で絡め取ろうとした。 市兵衛は、先ずは聞きなさい、
 この人はこの挟箱を追い越した。 足軽の衣類等が入っているのであれば
 人々が集り込合う下馬なので追い越しも構わぬが、この中には公方様から
 拝領した御紋付の衣装があるので注意したのですと云った。
 警備人達もそれを聞いて、それは当然の事ですと何事もなく収まった。
 光久公はこれを聞いて、中々良くできた行動と誉めて、帰国した暁には
 士に昇格させて働かそうと思っていたが、江戸でこの中間は死去したという。
 市兵衛は出水の出身の者との事である。
註1.大名や旗本が江戸城に登城(勤務)する時、下馬所があり、そこで駕籠や
 馬を下りて玄関迄は徒歩となる。 玄関迄駕籠で乗付けられるのは将軍や
 大御所、朝廷からの大臣のみだった。
註2.挟み箱は主人の着替え衣装など入ったもので中間が担いで御供した。

11帖佐六七は帖佐に住んでいた。 朝鮮へ渡海する時に、
  命あらば またも来て見ぬ 米山や 薬師の堂の 朝葉あくする
 と一首薬師堂に書いた。

12川田駿河守は呪術はたいへん不思議であり、飛ぶ鳥でも止っている鳥でも
 呪文を唱えると地に落ちるとの事。 或時伊集院幸侃宅への殿様の訪問があり
 駿河も御供をした。 幸侃は事前に銅で作った鳶を庭の大木の天辺に打付て
 置き、殿様へ、駿河殿は飛ぶ鳥でも止っている鳥でも呪文を唱えて落とすと
 云います。 あの木の上の鳥を駿河殿に落させてみませんかと申上げた。
 殿様が、やって見せよとの事だったので、幸侃は駿河に御意だから落とす様に
 と云った。 駿河は呪文を唱えたが銅製なので落ちない。 そこで火の印を
 結ぶ事にしたところ銅製の鳶は赤くなり流れ落ちたと言う。
 幸侃は謀反の前、駿河が居ては面倒になると思ったか、接待して毒殺したと
 云う事である。

13義弘公船遅延の書状
  風便に任せて書を送る。 国からの船が全く来ず、私一人だげが遅陣
  となり困ってしまい、こちらで船を雇って四月廿七日に対馬の名宝湊より
  順風に任せ、漸く今月三日朝鮮の釜山浦に渡った。 この地では
  先手の部隊が釜山を始め多くの城を攻め取り、近日都を攻める噂である。
  同四日船で都へ入り河口に停泊し、昼夜先々へ尋ねて行く覚悟である。
 ○毛利岐守殿はこもがひ口と云う所へ着陣したと聞く。 又船の途中で
  聞いたところ、ちゃはんと云う城を取巻き、程なく落城させたので都へ
  向かっている由。 何としても毛利壱岐に追付きたいが、七日八日或は
  十日も隔てており、国も広く道筋も多岐に分かれているので、最後迄
  行逢わないかも知れず、これも遅陣した事による。
 ○今度の朝鮮行きについて、軍の準備を調える事を老中達と相談したのに、
  今に船一艘も来ないとは家や国を傾ける事になる。
 ○龍伯公の為、国の為を思い、命を掛けて名護屋には良い時分に到着
  したが、船が遅れた為に日本一の遅陣となり自他の面目を失った。 
  この先何が起きても覚悟はしているが、何も今出来ぬ事は無念千万である。
 ○この先の事も国元の支援を精一杯行って欲しい。 先手の人々には米や
  その他十分に用意されているが、我々は国元に頼まなくてはならない。
  この心配も遅陣の為に起こる事である。
 ○余りにも酷い遅陣に困り、五枚帆の船を一艘借出して乗船し先月対馬に
  渡った。 実に小者一人と鑓五本しか持たず朝鮮迄渡る事は、情けなく
  で涙も止らない程であり、船が着いても人目を忍ばねばならなかった事、
  国元の情勢を恨む。
 ○安宅殿(石田三成家臣)が色々世話してくれて米等も大方用意してくれた。
  彼の親切は筆に尽くせない程である。 又在国中には時々又八郎(家久)
  とも面談あったようだ。
 ○旅庵(新納)がこの事に苦心してくれた。 精一杯安宅殿と親しくする事が
  重要。
 ○各々が我国の立場を存じている様に、先年秀吉公が薩摩へ下向あった時
  命を助けられ二カ国余りを拝領した。 京都へも一万石下され、諸士中へも
  特に忝い詞があり、名品のかたつきを始め種々の厚恩を頂いている。
  当然ながら何とか御奉公をと心懸けていたが、此度の船が到着しない事で
  日本一の遅参となり、累年の心懸も無に帰した事は口惜しい次第である。
 ○久保は異議なく同意している事は喜ばしい事である。
 ○又八郎(忠恒、後家久)や他の子供達の事は肱枕に頼む。
 ○銀子を少し持参したが米の調達に使い、残金も船賃で全部無くなり手元
  不如意千万である。
 ○山田利安や鎌田出雲にも別書を送るべきだが、急便なので送らないが
  心得て欲しい。
 ○大炊兄弟は特に良く働いている。 船が遅れているので大炊は壱岐島に
  残した。 爰へは久右衛門一人を連れている。 船が不自由なので
  任世なとも壱岐に残した。 追付く供の者もなく実に不興千万である。
 ○重ねて言うが太閤様へ御奉公しようとしたが、此心懸も無になり、遅陣の
  事が糾明された時、どの様な科になるのか予想もつかない。
  龍伯様が知らない所で逆心の者達が企てた事である。 逆心を企てた
  者は後日顕かにする事。
    天正廿年 五月五日 (文禄元1592)           義弘   

      肱枕 (家老川上忠智法号)

   新納武蔵入道、左京は何事もなく奉公していると思う。 鎌田出雲、
   蔵人は恙無くしているだろうか。 白坂美濃、周防、菱刈大膳、蔵人、
   新次郎、軍三郎は堅実に奉公しているだろう。 伊勢弥八、弥九郎,
   任世は元気である。 一つ一つ別紙で云うべき事だが、急便なので
   肱枕から伝えて欲しい。 留守の事は精一杯宜しく頼む。
註1.文禄・慶長の役は天正20年(1592)秀吉の号令で朝鮮侵攻が始り、
   緒戦で勝利を重ねるが、明国の介入を招き長期化する。 
   慶長3年(1598)秀吉の死により、日本軍が撤退し戦争終結する。 
   1592-93の文禄の役と1595-97の慶長の役と合わせ文禄慶長の役
   と呼ぶ。
註2.文禄の役では薩摩軍は四番隊と定められ、秀吉譜代大名の毛利壱岐守
   とで編成。
   一番隊が4月12日釜山上陸、二-四番隊は4月17日に同地上陸した。
   島津隊は義弘のみが5月2日に同地上陸と云っており15日遅れている。
   尚5月2日には朝鮮の王都、漢城府が既に陥落している。
註3.薩摩遅参の原因についてははっきりしない、秀吉に反感を持つ薩摩の
   武士の一部が起した梅北一揆が理由とも言われるが、一揆は6月に
   起こっており、義弘書状の後である。
  
14忠恒公書状
 急ぎ連絡する。 この国(朝鮮国)では大明国から大軍を送り込み、蔚山、
 順天、泗川の三方面に軍勢を分けており、特に当所(泗川)には大勢で
 押寄せた。 いよいよ覚悟し、晋州方面へ配置した部隊も当本城(泗川城)
 へ引き入れた。
 
 この方面の将軍が和睦を熱心に望むので、小西摂津守、寺沢志摩守と
 相談して、日本と大明国と今後しこりを残さぬ様に和平の交渉をしていた
 ところ、 この間に敵方が突然約束を違え大軍を向けて来た。 先月廿七日
 泗川古城に偵察に出していた部隊を敵が取り囲み討果そうとしたが、各々
 必死に切り抜け当城へ(泗川本城)無事に引取った。 ところが少し問題が
 あったか敵も退いたのでそのままにしておいた。 
 先日の和睦の約束を突然破られ、こちらも少し討たれて其鬱憤も晴れない中、
 去る十月一日朝十時頃数十万人が押寄せ、当城を包囲したのは大明国
 からの軍勢であり、その夥しさを推量されたい。  
 
 是迄長々とした籠城で兵も疲れており防戦は困難と議定した。 そこで善悪を
 計らず安否の合戦を遂げ、敵を切崩して数万騎を討取った。 思い掛けない
 勝利を得た事は三国において名誉を得た事は計り知れない。
 兵庫様については今に始った事ではないが、私にとっては初めての事であり、
 この状況は人力だけでは無い感がした。

 そもそも当家では代々信心を行ってきたが、近年は神社も荒果て仏力神力も
 頼りなくなってきた。  しかし龍伯様(義久公)、兵庫様(義弘公)が信心に
 心を砕き、昔の勤めをお忘れにならなかった為か、当国では通常は決して
 見かけない白狐と赤狐が戦場へ走り出した。 奇妙で不思議な力であり、是に
 軍兵は勢いを得て容易に敵を討果たした。 これは偏に神力と諸卒の粉骨で
 あり筆舌では述べる事ができない次第である。 従軍の寺社中へ懇切に祈る
 指示がなされた。
 
 このような我々の大勝利で順天(小西摂津守)、蔚山(加藤清正)を取巻いて
 いた敵は全て引いた。 順天では海陸を取巻いていた敵船を討果し、南海固城
 にいる部隊は寺島志摩守と相談して軍船を調えて押しかけたので敵船は全て
 敗れ、三艘残っていたものも焼き捨てた。 
 今はどこも静かであり、このため在陣の諸大名の使者が礼に来て面目を施した。
 近日亦敵方より差出した使官が無事なので、小西・寺沢と相談して細かく申合せ
 て仕官を返した。 特別な事が無く交渉が済めば間もなく帰国となる。 今少しで
 あるから 留守の人々は良く相談して緩み無い様にする事が肝要である。 謹言
 
  慶長三年十月二十二日(1598)     忠恒(義弘子、後の家久)
     本田六右衛門殿
     鎌田出雲殿
     比志島紀伊守殿
     山田越前入道殿
     新納武蔵入道殿
     平田太郎左衛門殿
     町田出羽入道殿
  追伸 尚々納戸衆は油断なく勤める事、 その他役人衆も少しも気を抜かぬ事。
      旅庵以上鎌田兵部など精一杯やる事。 万一気侭に過す者あれば、後日
      聞き調べ帰朝の時に考慮する。 以上
註1.文禄・慶長の役で島津軍は緒戦には大きく遅れ、義弘書状の様に面目を
  失ったが、最後は大きな勝利を収めて日本軍全体の円滑な撤退に寄与している

15、朝鮮での奮戦に対する感謝状
 今度の朝鮮泗川に於いて、大明と朝鮮人が大軍を催して攻撃して来たところ、
 貴父子が応戦し直ちに敵を切り崩して三万八千七百余を討ち取った事、忠節
 比類なきです。 これを褒賞し、薩摩の内の蔵入り分全てを与える。 目録は
 別紙の通り。 子息又八郎は少将に任じられ、その上太刀長光を、義弘には
 太刀正宗を拝領する事になり、御当家にとり名誉の至りである。 以上
                          安芸中納言輝元判 (毛利輝元)
      慶長四年正月九日(1599)   会津中納言景勝判 (上杉景勝)
                          備前中納言秀家判 (浮田秀家)
                          加賀大納言利家判 (前田利家)
                          江戸内大臣家康判 (徳川家康)
      羽柴薩摩少将殿(島津義弘)
  
  この時の拝領知行は五万石、刀は織田三七が秘蔵していた長光作のもの
  中に三七郎と云う銘がある。 正宗は本城正宗と言う名作である。
註1.慶長の役で再度朝鮮に侵攻したが、秀吉が病死し後事を託された家康
 始め五大老は撤収を進めた。 しかし撤退の状況を知った明軍が大攻勢を
 かけて撤収は困難を極めた。 この明の大軍を薩摩軍が泗川で破り、その間
 に他の日本軍も無事撤収できた。 この事に対する五大老連名の感謝状である
註2.蔵入分とは薩摩が1587年に秀吉軍に敗れて、領地は安堵されたが豊臣
 政府に対する上納一万石が設定されており、此の分が免除されたものと
 思われる。 文禄・慶長の役は秀吉の命で諸国は兵を送ったが見返りはなく
 褒賞を得たのは薩摩だけといわれる。

16徳川秀忠公の代、江戸城で能舞台が催された時、家久公に御供した伊勢
 兵部少輔、敷根中務大輔、渋谷四郎左衛門、伊東仁右衛門、川上式部大輔
 へも見物が許され次の間から見物。 他の大名家の家臣は一人も居なかった。
 この様に御供が見物できたのは二度とないだろう。

17山田弥九郎有栄の脇差の鞘は金で張廻していたと言う。
 朝鮮の晋州の城を責める時だったか諸国部隊が一斉に乗込み、有栄も
 堀を越えて乗込んだ。 その時指宿清左衛門が有栄の与力だったが、
 有栄の具足の揚巻を取って、此方此方と暗い方へ押しやった。 
 其後清左衛門へ有栄が、城に乗込む時、何故此方へと押しやったのか
 尋ねた。 清左衛門は、脇差が金鞘ですから、人々が皆結構な物だと云って
 居りましたので明るい所で働いて万一味方に討たれる事も有り得ると思い、
 暗い方へと云ったのですとの事。
 関ヶ原の撤退時には、兵糧や金子が無く困った時、この金を外して用に
 立てたとの事

18光久公の時代、かうきう長と云う下々の者が軽い罪を犯し牢に数十年
 入っていた。 ところが此の者は兼々地蔵菩薩を信じており、牢に中でも
 水を手向けていたと言う。 そんな時、光久公は毎晩夢に僧侶が出てきて
 枕元でこの者の名前を云い、もう牢から出されるべき者ですから、お出しに
 成るべきと言う。 この夢が気に掛り、調べて見ると案の定この名の者が牢に
 入っていた。 もう出して良い軽い罪の者だと云う事なので出したと言う。
 これは地蔵菩薩のお告げかと人々は云った由。

19将軍義持公の舎弟で大覚寺門跡の義昭大僧正尊宥は兄義教公への
 謀反が露顕し、日向国福島院へ逃下り、野辺氏を頼り隠居していた。
 これが義教公に聞こえたので、日向国守護である忠国公に討つ様に
 指示があり、 早速福島の永徳寺で僧正を討ち首を将軍へ差上げた。
 僧正は山田式部少輔が斬首したと言う。 僧正の役人で別当の讃岐坊も
 討果された由。 これにより褒賞として忠国公は将軍から琉球国を拝領した。
 其時北郷、新納、樺山、本田、肝付等も将軍から感謝状と太刀が下された。
 其後福島に僧正の社を建立して福島大明神として祭った。 又菩提所として 
 鹿児島大興寺を造立して僧正の位牌及び讃岐坊の位牌を安置して、毎年
 琉球国からの貢物が届くと先ずこの寺に納めたとの事。
註1.足利将軍家は三代義光の子、義持(4代)、義持子義量(5代短命)
 義持弟義教(6代)であるが、義持、義教、義昭は兄弟であり、義教から大覚寺
 義昭の殺害を薩摩に命じた(1442年)
註2.島津忠国(1403-1470)島津氏九代当主、薩摩大隅日向守護

20小畑勘兵衛景憲は長命の人だったと云う。 綱久公と親しく、しばしば咄に
 来ていたが、謀反を勧めたとの事。
註1.綱久は薩摩二代藩主光久の嫡男であり、三代藩主を予定された人で
 謀反を起す理由もない筈だが、何に対する謀反か不明。 
 但綱久は早世し、その嫡男綱貴が三代藩主となった。
註2.小幡勘兵衛(1572-1663)武田遺臣、徳川家に仕える。 武将、
 甲州流軍学創始者

21中馬大蔵が出水に居た時、九州一強い相撲取と云う者が薩摩に来て
 誰も相手できる者がなく九州は制覇したので四国に行くと云う事で出水を
 通過すると云う。 大蔵へある人がこの事を話したところ、大蔵は、薩摩に
 相手する人がいないのは口惜しい、自分が相手になると云い待ち構えた。
 この相撲取が来たので、相撲を申し込むと相手しますと云う事だった。
 相撲を取る場所がないので近くの畠で取る事になった。 そこで相撲取は
 裸になり四股を踏み、楽勝できると見た様である。 一方大蔵は周囲
 五-六寸の青竹を一本杖にしてやって来た。 裸になれば下帯だけで
 あるから、この青竹を指で摘み潰して捻じ曲げてそれを腰に巻いた。 
 これを見た相撲取は顔色を変え、もう分りました、今までこんな事をする方を
 見た事がありません、私の負けですと云い相撲を取らなかったと云う。
 
 大蔵は敷居に立てばそれより四-五寸も高い大男で、国一番と云う程の
 大力の人だったと言う。
 朝鮮である時どこかの城の外に大木が横たわって居り、数人集ってこれを
 退かそうとしたが何ともならない。 そこへ大蔵が来て、みな退けと云って
 一人でこの大木を退かした。 それを見た加藤清正はたいへん誉めて、
 薩摩殿は重宝な人をお持ちだと羨ましがったと云う。

22貴久公が或時田布施で鷹狩りを行った時溝に遭遇した。 この溝は
 飛越えるのが難しく、廻り道をすれば場所が悪くなる。 そこで御供の士が
 一人溝に飛入って見ると腰迄水につかり、ぬかっている。 そこで士は
 私の肩を踏んで飛越えて下さいと云う。 貴久公は、士の肩を踏むのは無礼
 になると御意がある。 いや御遠慮なく踏んで下さいと云うと、ゆるせと云い
 草履を脱いで手を取って肩を踏み渡られたとの事。

23伊集院右衛門大夫忠棟は謀反の思いがあったが、又一郎久保が勇将で
 あり成就は難しいと見たのだろうか。 朝鮮滞在中、久保はいつも早朝敵陣
 へ向かった。 そこで久保の道筋にある橋の橋桁を外しておいた。 
 久保はいつもの習性で人に先を越されまいと思い、未だ夜が明けない内に
 出発し真先に馬に鞭を加えて橋を渡ったところ、橋から深い谷川に落ちて
 死んだ。 死骸は著しく損傷していたと言う。 有川雅楽之介貞世は後見
 として久保に付いていたが、無念の至りと云い同地で自害したと云う。
 世間では久保は病死と言う説があるが、実はこの様な訳で死去したのでは
 ないだろうか。 この悪だくみは忠棟の子源次郎が行ったものか。
註1.又一郎久保は島津義弘長男で義久の養子で義久の後の薩摩太守と
 目されていたが、文禄の役の際朝鮮で病死。 久保については天正19年
 (2年前)義久書状にも重い病気で上洛は無理とあり、病気を押しての
 渡海だったと思われる。

24中馬大蔵は刀で人を切る時は大方は只一撃で決着を付けたと云う。
 東郷藤兵衛重位が大蔵に、貴殿は人を多数切った人と云われていますが
 手ごたえはどんなでしたかと尋ねた。 大蔵は、私は大方一打で切倒して
 来ましたと答えた由。 
 大蔵は人を多く討った人だが、一生の間、自身はかすり傷も負わなかったと
 言う。 惟新公の秘蔵の家来だった由。
註1.中馬大蔵(重方1566-1636)、文禄慶長の役、関ヶ原陣等で手柄
 を立てる。 出水郷郷士
註2.東郷重位(1561-1643)島津家臣、示現流元祖

25伊東家家臣で清武の地頭を勤める稲津掃部介と云う者が関ヶ原の戦いの
 時、兵を挙げて島津領の日向を攻めた。 この時倉岡の地頭である
 丹生備前は良く守ったという。 備前の墓は今でも倉岡にあると言う。
 又稲津掃部介は軍学者だと云う事である。
註1.飫肥の伊東家は関ヶ原の戦いの時は東軍に属していた。 
註2、清武、倉岡(現糸原)はいずれも宮崎市

26御舂屋の側にある若宮の前にある池は、昔俊寛が島流しになった時に
 船に乗ったところで、からの湊と唱えたと言う。 大野湊と云う説もある。
註1.俊寛は平安時代後期の真言宗の僧侶、後白河法皇の側近だったが
 1177年平家打倒の密議が漏れて藤原成経、平康頼と共に喜界が島
 (薩摩)に流された。
註2.御舂屋 江戸時代迄は現在鹿児島市内天文館付近がこの名で
 呼ばれていたと言う。

27家久公の葬儀の時に伊勢兵部少輔貞昌が追善に捧げた文
 前の中納言の君、法名花心琴月大居士は薩摩、大隅、日向三国の賢太守
 であり文武に功績を残した天下の名将である。 嗚呼(ああ)天命か病に冒され
 床に就く事三年に至った。 その間神祇による祈祷や医術を尽くしたが、その
 験なく日々重くなった。 私は旧命に従い光久公の膝下にあり、武蔵の江戸
 に遠く離れて居り、快癒を願い思い続けていた。 突然肥前において禁止
 されていた異国の宗教を信ずる輩が徒党を構えて大蜂起した。 この事が将軍
 の耳に達し、ただちに追討の命が隣国に下った。 この時に当り光久公も又
 将軍の命に応じて軍旅に赴いた。 時は寛永拾五年二月万難を排して薩摩の
 鹿児島城で病床の君に面会する。 嗚呼顔色は憔悴し、容貌は枯れはて実に
 危篤状態である。 悲しいかな、その後三日を経ずに死去された。
 嗚呼鏡は壊れて再び照らさず、落花は枝に戻らず、その死に臨んで如何とも
 し難い。  
 尭は舜に譲る事を一言で表した。舜は又禹に譲る事を三言で表した。 
 愛による天下平明の理を上古の聖人は譲った。 子孫に譲るに宝物ではない。
 今の様に居士の遺言は二聖人の物に勝るものである。 文武の誉れ高く
 和歌の道に勝れ、雪、月、花に詫び心を寄せ、人麻呂や赤人の様に春を愛し、
 筵に座り花を賞し、秋の月に酔い、琴を弾いて人を和やかにし、楽に興ずる。
 この琴は舜の製するものであり、凡人の楽器ではない。 深い追悼の余り涙を
 絞り硯をすり悲嘆を書す。
    
28龍伯公琉球へ兵要請
  朝鮮制圧の為に日本の元気な武士は全て渡海した。 これに伴い貴国の
  兵役についても、天下の命に従って一昨年使節を送り説得して半ば達成
  できた事喜ばしい。 そもそもこの戦争は明国から和睦を望み、諸兵は帰国
  したが、九州の軍兵は駐在する様定められている。 そこで薩摩・大隅・琉球が
  協力して在陣する事が重要である。 命令の趣旨は軽くないので、今一度
  考慮して戴き、今後も友好を続ける事を願うものである。 依って拙文ながら
  お伝えする。    恐惶不宜
       文禄二年十二月日(1593)      龍伯(島津義久)
            中山王(琉球王尚寧)
 上に対する返書

  貴書拝見し朝鮮の軍役の事承った。 此度検討させたが、国家衰弱して
  おり、その用意は難しい。 この事の次第は御使節の成就院から細かく
  承ったが止むを得ない。 当方の様子は見られた通り、隠しおおせるもの
  でもなく、聊かも疎意はない。 しかし今後も友好を維持する事は偏に
  こいねがうものである。 当地で出来る物を収め、少しであるが土産を
  差上げ祝儀としたい。 御使僧の報告をお待ちください。 恐惶不縷
                    中山王

29先日は義久から遠島の名酒を戴いた。       
 誠に比べようもない珍味で御親切の段、 短筆では尽くし難い次第である。
 書状に述べられた様に、滋養の為に少しずつ呑む秘蔵のものと推量する。
 早々お礼状と思ったが、何かと遅れた事は決して本意ではない。
 その様にとりなしを頼む。 尚(義久の)上洛を待つ。
                尊朝法親王花押
        八木越後入道殿 (八木嘉竺)
註1.青蓮宮尊朝法親王(1552-1597)、天台宗座主、八木越後入道は
 島津家家臣
註2.島津義久と朝廷の近衛前久(龍山)との往復書簡が多数残されている
   (島津家之文書)

30今度朝鮮への軍兵派遣が命ぜられ、既に兵庫父子(義弘、久保)が渡海
 するが、拙者も又名護屋に来る様にとの事であり直ちに応じる。
 誠に数年京都に詰めており、国家は困苦しているが、各人良く相談して
 朝鮮派遣軍への支援、名護屋の駐在、京都(政府)へ上納、更には船の
 手配等昼夜油断なく管理する事を頼む。 失敗すれば当家に難題が及ぶ
 事は顕かである。 この時に不心得の者があれば、京政府の決定に従い
 成敗する。 しかし各々は親しい人々であり当家を永続させる様に知恵を
 出す事が重要である。 この書状を出す以上、縦令無理があっても国家
 (薩摩)の為ならば善悪問わず心を一つにして遠慮を捨てる事、 以上
註1.この書状は義久から家臣(重臣、家老連名)に天正廿年(文禄元)
 五月四日付で出されたもの。(島津家文書) 国内が何となく纏まりがない
 状態で船の準備も遅れたのではないだろうか。 梅北一揆はこの壱ヶ月後
 に起きている。 五月五日付で朝鮮より送られた義弘書状と比べると
 島津家も混乱していたと思われる。

31家久公琉球に関する覚
 ○琉球に付き言旧した事であるが、日本に対して疎略であったので軍を送り
  攻めさせた。 既に王が日本に渡海している以上、処理は此方次第だが
  住みなれた母国を離れ、困惑している事を肝に銘じてもらい帰国させる
  事にした。 この親切に背かず又忘れない事。
 ○その国の諸式は日本と変らぬ様にする事
 ○王位の為の収入、知行は十分に定めて置くので、今後不服ない様にする
   事が肝要である。
 ○百姓は次第に困窮しているとの事だが、百姓が辛労無い様に指導する事。
 ○毎年の中国への船は、事情が変った事、海路は決して楽でない事故、
  今後は割り振りの船頭を定め、もし時節はずれに渡海又は帰帆するものが
   あれば処罰する事
 ○前からの規則の様に、許可のない商船が着岸した時は、少しも自由に
   させず 監視を付けて此方(鹿児島)へ報告する事。
  上記は堅く守る事、以上
註1.上記は薩摩が琉球へ侵攻した後の慶長18年(1613)の藩主家久の覚
註2.薩摩の琉球への侵攻は慶長13年(1608)、その時尚寧王は日本に
   連行され、慶長15年(1610)には駿府の大御所家康、江戸幕府秀忠将軍
   にも面会している。

32何処の戦いの時であったか、誰かの陣の三十人程が二人の者を追かけて
 いた。 押川強兵衛が偶々通り掛ったところ、その者を討ちとめて下さいと
 依頼があったので、強兵衛は二人共に簡単に討果した。
 そこで三十人程の人々が云うには、この両人は陣中で親の敵と称して抜駆け
 しようとしているので、問詰めたところいきなり二人共駆け出したのです、
 討って戴き感謝しますとの事である。
 その後強兵衛は帰ったが疲れたので報告せずに寝てしまった。 ところが
 他家の陣からこちらの殿様へお礼があったので、殿様から強兵衛へ訳を
 問われると、少し疲れてうっかり寝てしまい報告しませんでしたとの由。

33義久公御代椀飯
 ○青銅三千疋      *30貫文(=30両)
 ○御樽肴十荷 但五十盃入
 ○餅目籠一竿 
 ○猪二丸  但二竿
 ○鯛肴十掛 一竿
 ○雉子十二 一竿
 ○鴨十二  一竿
 ○塩俵   二竿
 ○目籠九辺 二竿
 ○こぶ
 ○のし
 ○くしがき
 ○山いも
 ○栗
 ○里いも
 ○ところ
 ○おやし
 ○代々
 ○かつおぶし
    右の様に伊知地氏より始め、慶賀三頭鹿児島・伊作・田布施椀飯
    田方一段に銭受ツヽ掛
註1.椀飯とは大盤振舞の語源だが、これは義久公が鹿児島、伊作及び
  田布施で大盤振舞をした時の目録か
註2.青銅とは戦国時代に流通していた明から大量に流れ込んだ永楽通宝(銅銭)
  と思われる。 一貫文は金一両に相当した。 江戸時代の鉄銭は時代で変動
  するが四貫文から六貫文で金一両となる。

34内裏の警固を来る三月一日より勤仕する事。薩摩国地頭・御家人各位
  名前順不同、但し当番は鎧甲、直垂(ひたたれ)を着する事。 以上
    大隅二郎三郎       式部孫五郎
    周防蔵人三郎       渋谷小次郎
    矢野左衛門次郎     知覧 四郎
    渋谷彦三郎入道     光留又五郎
    指宿郡司入道       浅岡孫三郎

     建武二年二月晦日(1334)
註1:建武年間は後醍醐天皇の新政時期で幕府、守護はなく、地頭へ直接
 指示があったものか。 新政は鎌倉幕府が1333年に倒れ、足利尊氏の
 室町幕府成立1336年まで2年半の政権。

35今の武屋敷前の田の中に大きな社がある。 この社は昔肝付家の人々が
 この辺で守護方と合戦した時、肝付方の討死した人々の首塚との事である。
 この社はあおきの社とも云っていた。
註1.肝付家は大隅の豪族で島津家としばしば争い、島津貴久の時代に平定
 された。

36鹿児島の高見馬場辺は昔高い所で茅や萩等が生育しており萩原と云い、
 墓などもあるとの事。
註1.鹿児島市街地に高見馬場(電車停留所)がある

37今の鹿児島久保田の諏訪大明神は伊集院大和守忠郎入道孤舟が立てた
 ものだが修理、保守などはなかった。 此辺は昔低い土地の田地で窪田と
 云った。 家久公(初代藩主)の頃から大方は屋敷になった様で、今でも屋敷
 を一丈(3メートル)程掘ると稲の切り株の様なものが出るが、稲株との事である。
註1.伊集院忠朗 島津忠良(日新)-貴久父子に仕え、薩摩大隅統一事業を
 助ける。 1549年肝付家との戦い、1554年岩剣城の戦い等で功績、島津家
 家老

38税所善兵衛の現屋敷は、昔大山稲介とその弟三次が居た屋敷との事で、
 今の門柱は稲介時代の柱の由。
註1.大山稲介兄弟は朝鮮侵攻当時の人と思われ、この作者の時代から200年
 程前の門柱と言う事になる。

39高隈の「つんぼう」と云う鍛冶屋は東与左衛門と云う名前である。 つんぼうに
 なった理由は、この与左衛門は山中で自分で炭を焼いて鍛冶を行なっていた。
 ある時山で過して大木の下に居たところ、夜明け時分木の6メートル程上の
 枝が茂った部分で何かざわめき大きな物が居る様子である。 与左衛門は鉄砲
 に込めて置いた二つ玉で撃ったところ、わあと叫び大きな猿が落ちてきた。 
 射止めた時の声が特に烈しく、その時耳が傷みつんぼうに成ったと言う。
 この猿は何年経たのか分らない程大きな猿だったと言う。
註1.高隈 大隅半島の中央部鹿児島湾側山地

40川上因幡守久国は歳を取ってから蜜柑や九年母等の種を植えていた。 
 ある人が、お歳を取ってからでは一代の内には実に成らず役に立たない
 でしょうと云った。 久国は、もちろん自分の為にはならないでしょうが、
 年取った人々が植えた物を私も食べています。 私も又人に食べさせようと
 思います。 これが浮世の恩送りでしょうと云うので、その人は困ってしまった。
註1.川上久国(1581-1663)島津家臣、武将、家久、光久家老職務める

41山田弥九郎有栄は常に朝早く起き、 手洗いを済ますと、そこで手探りで
 髪をけづり結ったと云う。
 有栄が子供の頃、父の新助有信は寒中に夜物干竿を外に出して置き、
 夜中に急に有栄を引起して、この竿の凍った霜を手でこすり取らせた。
 この為、朝鮮在陣の時、たいへん寒さの厳しい所で皆手足の爪が大方二度
 計り抜け替わったが、有栄の爪は抜け替らなかったと言う。
 有栄は小男で長命だった。 柏原幽静のえぼし親だった由。
註1.柏原幽静 元禄時代の剣客、歌人
註2.烏帽子親 中世の武士の子が元服する時、仮親になってもらい烏帽子
  を被せる。

42大山稲介と同三次は兄弟共に朝鮮在陣で活躍した人である。
 三次は背が高くすらりとした大男で、長刀に長衣装を着て総髪で雪駄を
 履いていたが、いざと言う時のため山草履を壱足宛懐に入れて歩いて
 居た人である。 火事とかなるとこの山草履を履いて尻をからげ、誰よりも
 先に駆け付けたという。 若侍達は彼の格好が気に食わなかった様だが
 誰も言う人はいなかった。
 ある時人を突く牛を壱疋引いて三次宅へ行き、夜中に誘い出した。 
 三次は誘いに応じ大だんびらを差して出て来たところへ牛をけしかけた。
 三次は声を上げ怒ったところ、牛は尻込みして寄り付かなかったと言う。
 又江戸で殿様が急に出かける事になり、御供に出なさいと声が掛ると
 雪駄を脱ぎ捨て山草履を懐から出して履き一番に駆付けた事が多かった。
 或時三次が江戸の八ツ山辺りを白昼通ったところ、大犬が脇から急に出て
 驚かせたので腹を立て、雪駄を脱ぎ捨て袂から山草履を出して履き、
 この犬を壱弐町程追かけて捕まえ捻り殺した。 直ぐに平静に戻り脱ぎ
 捨てた雪駄を履いた由だが、見ていた人は肝を潰したとの事。

43中馬大蔵が出水に住居した時、惟新公へ、私を当所の物頭にして下さい
 そうなれば皆が私の指示に従うので合戦がやり易くなります。 今のままでは
 皆が私の指示に従わないでしょうから合戦はやり難いでしょうと申上げた。
 これを聞き惟新公は則大蔵を物頭に任命した。
註1.物頭は戦闘単位の隊長で30-40人程の兵を指揮した。

44喜入摂津守は特別に強弓を使う人だった。 その弓はいなひざるの様であり
 矢をのせる為だろうか、握りの本に筒が有ったと云う。
 今でも彼の家にあるとの事。 それほど昔でもないがこの弓を或人が見て肝tを
 潰したと云う。

45水引の八幡座主執印は元からこの職にあった者ではないと言う。 執印職は
 上方より交代で派遣されていたが或時空席となる。 そこで鹿児島の多賀山
 城主である鹿児島小太郎が水引に移り執印職を務める事になり、その子孫
 が今でも執印を勤めていると云う。 此執印は氏久公の頃には特に大身だった
 様で、色々な合戦に加勢を頼んでいる事が丁寧な文で氏久公の書状等に
 今でも残っている。
註1.執印(シュウイン)朝廷下賜の金印(八幡宮印)を預かり管理する職、
 執印氏を後々称する。
註2.島津氏久(1328-1387)島津氏6代当主、南北朝時代の薩摩守護職。
 薩摩大隅国内も守護は北朝側だが、地頭や豪族は南朝が多く常に戦だった。

46関ヶ原合戦の時、上方で合戦が起こった事が聞こえ、思い思いに駆上がり
 関ヶ原合戦の御供をした人々が多いが、知らせが届かなかった人もあった。
 中馬大蔵は出水で畠を耕していたが、上方で戦が起こった事を聞きつけ、
 直に駆上がり関ヶ原に御供した。 
 其時大蔵へ惟新公が矢を下さるとの事だった。 大蔵は、私は嗜んだ矢二筋
 持っております。 敵を二人以上射る事はありませんので、有り難い事ですが
 お断りしますと拝領しなかったと言う。 大蔵は五人張の弓を射る人だった由。

47水引の執印氏の所には、秀吉公が薩摩に下向した時八幡に立てた高札が
 今も残っていると云う。
 兵船の軍勢による乱妨・放火・狼藉此三ツの禁止が定められて、九鬼大隅守、
 脇坂中務少輔、加藤左馬介、小西日向守の連名となっている由。 
 古い書体の立派な書であり、今は流行らない書体である由。
註1.水引 現薩摩川内市、大字水引

48中馬大蔵は惟新公が特に親しく使った人であり、時々出水から鹿児島へ出て
 御前に参上した。 惟新公が加治木に隠居したある時、大蔵は御機嫌伺いに
 出水から参上した。 大蔵が来ると何時も惟新公は手料理を振舞った。
 しかしその日は用意されている様子も見えないので御前を下がり、側衆に
 挨拶して帰った。 ところが暫くしてから、大蔵はと御意があったので、側衆が
 いや大蔵は先ほど御暇を申上げ帰りましたと云うと、惟新公は、それ早く
 呼び戻せとあったので側衆は走り役に、急いで参上するようにと伝えたので
 既に道半ば迄帰った所を呼び返した。 何故早く帰ったのかと側衆に問合せ
 があったので側衆が大蔵にその旨伝えると、大蔵は、いつも参上した時は
 御料理を下さるが、今日はその用意も無いように見えたので、これは御暇した
 方が良いと思い帰ったと云った。 これを側衆が伝えると惟新公は、今日は
 ゆっくり咄をしようと思い未だ用意をしていなかった。 それでは料理をして
 食べさせようと云い、自ら料理をしたとの事。

49秀吉公が薩摩へ下向の時、桂山城守忠昉、神祇とも云うが、平佐の
 城に立て籠もり守っていた。 これを小西摂津守、脇坂中務少輔、
 九鬼大隅守等の部隊が攻めたところ、大手は神祇が防ぎ、搦手は神祇の
 妻が鎧を着して、下女大勢を引きつれ駈回り指示して守っていた。 
 敵が城下に攻め寄った時、風が敵の方へ吹いていたので、箕(ざる)に灰
 を入れて振るわせたので、目や口に灰が入り苦戦する。 其上城下は
 沼や湿地で敵も自由に進退ができないところに、城門を開いて神祇の妻
 が討って出る。敵は湿地に追込まれ動けない所を女中たちに襲われ多数
 討取られたとの事。
註1.桂忠昉(1558-1615)平佐(現薩摩川内)城主、1587年の戦で
 最後迄城を守り抜いたが、降伏を決めた太守義久の説得で開城した。
 
50義久公  覚
 ○内府様(徳川家康)へ訪問したのは十一月十日、使は流千と云う人から
  承った。 度々遠慮したが、強く望まれたので柏原殿へ訪ねて面会した。
  特別な事は申上げず又承らなかった。
 ○大納言殿(前田利家)へ訪問したのは十月廿八日、治部少輔殿が
  (石田三成)博多へ下向前に幸侃(伊集院幸侃)に面会させた。
 ○家康が私宅へ訪問の事、前述流千を通じ度々承ったが辞退していた。
  其後十二月朔日、御家門様(近衛前久)・道あミの御両人より又々説得
  されたので、断りきれず十二月六日に訪問を受け入れた。
  付徳善院、増田殿、長束殿へ案内して増田殿からは前日に連絡あった。
 ○種子島鉄砲を所望された。 又此方に鉄砲を注文され、この件で度々
  使者を給わった。
 ○血判を押して誓紙を送り、全く他意がない事を示す。 これ以上糾明
  されるも望む所である。
    慶長四年
      正月三日          龍伯
        又八郎殿
        兵庫頭殿
 
  ○内府様へ訪問した事、又私宅へ訪問受けた事、決して他意ある事を
    申入れず又承らなかった。 
    八幡・春日・愛宕山も御照覧されて偽りはない。 御糺明も望む
    所である。 この趣旨で委しく申上げる。  恐々謹言    
        慶長四年(1599)
           正月三日             龍伯判(島津義久)

        又八郎殿(島津家久)
        兵庫  殿(島津義弘)
註1この時期は秀吉死去直後であり、豊臣政権は五大老筆頭の家康対
  四大老及び五奉行の微妙な対立があり、島津家の中でも家康か、
  反家康かの微妙な雰囲気が伝わる。 結局翌年九月の関ヶ原の戦で
  家康の勝利となる。 島津家では義弘が西軍に加わったが、義久と
  家久が家康との関係を調整し、島津家は安堵される。
註2.豊臣政権の時代は伏見城が政治の中心であり、城内に各大名の
  住居があった。
註3.鉄砲の所望は誰とは明記ないが、文脈から見て家康と思われ、
   関ヶ原戦を想定していると推察される。

51惟新公は加治木から鹿児島へ船路で向い滝カ水の前を通る時、座頭の歌
 を歌い、こだませながら通過した。 その訳は秀吉公が薩摩へ下向の時、
 歳久は降参してはならないと頻りに諌めたが降参した。 歳久は始終その
 積りなくこうなってしまい、その結果歳久は滅亡した。 惜しい器量を失い
 残念な気持を晴らす為だったと言う。
註1.歳久は義弘の弟、薩摩が秀吉に降伏後も何かと秀吉とは合わなかった。
 朝鮮侵攻で秀吉が名護屋在陣中、反秀吉の薩摩人の梅北一揆が起こり、
 このメンバーが歳久の家臣だった事から詰め腹を切らされた。


   旧伝集三終