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 薩州旧伝記地   旧伝集四

   目次              翻刻ページへ
401京極家臣薩摩に下る        P2
402島津善左衛門吉永に変名   P3
403伊集院城攻めの咄
404武田家臣薩摩へ下る
405父毛母心              P4
406肝付氏の古館
407島津尚久の謡
408有川休右衛門殉死其後     P6
409宇山無辺介の拝領刀
410白石永仙の墓
411薩摩谷山城由緒         P7
412貴久公に殉死の人々
413義久公に殉死の人々
414義弘公に殉死の人々      P9
415家久公に殉死の人々     
416鹿児島虚空蔵山由緒      P10
417源為朝伝説
418山田大泉坊のほら貝      
419島津尚久は大男
420殉死の禁止
421三原左衛門佐の盛衰      P11
422池田六左衛門の切腹      P12
423伊集院忠棟の妻         P13
424甲州と薩摩の戦いの違い   
425木脇納右衛門の理屈      P14
426木脇納右衛門の大言       P15
427家久公と桜の木        
428島津久逸の討死         P16     
429浜田民部左衛門と猪       P17
430島津勝久の後継争い
431鹿児島城の大手門    
432琉球王は源為朝の末裔か 
433御屋敷の能舞台
434貴久公の女色           P18
435島津家の忌避           
436薩州の大河
437こえ壺薬師
438馬乗り高場
439小幡勘兵衛の関ヶ原談義
440和田源右衛門の歌         P19
441伊瀬知弥四郎の出奔 
442島津善久の横死
443天草の乱に召集
444小夜の中山の住職         P20
445平松中納言の光久公追善
446家康起請文
447義弘公百年忌参加者        P21
448押川強兵衛幼年時代
449浜田民部左衛門の錆び刀     P22
450士踊り             
451光久公と兵庫頭忠朗
452細川三斎の羽織重ね着      P24
453山田有栄の関ヶ原          P25/P26
454山田有信と義久公          
455山田有栄舎弟の事          P27       
456関ヶ原撤退方針決定        
457謡の咄                 
458日本に馬鹿が二人          P28
459五人島津
460佐多家の事
461四代墓誌

01京極黄門高次は関ヶ原合戦の時、近江国大津の城に立籠もっていたが、
 大坂方に烈しく責められた。 家老の隠岐長門守長一入道道清が高次を
 諌め、城を大坂方に明渡し高次は高野山に登った。
 この為家康公はたいへん立腹して、この長門守道清を薩摩に流したと言う。
 道清は龍伯公を頼り薩摩に住居し、川野道意が当国で世話していた。
 道意は其頃茶人で茶湯頭と云われていた。 今の河野八郎左衛門の
 養祖父との事である。 道清は馬の達人であり龍伯公へ猿が桃をもっている
 絵の付いた鞍を進上した由。 其鞍は龍伯公から惟新公へ譲られたとの事。
 たいへん良く出来た鞍で今でも厩にある由。 
 道清は船で加治木に夜な夜な忍んでやって来て維新公へ咄をしたので、
 その頃夜のお客と云ったのは此道清の事だった由。 道清は維新公の向側に
 住んでいたと云う説もある。 又たいへんな大男でいかつい顔だった由。
註1.京極高次は城を明渡したが大坂方を足止めしたので、この城攻め部隊が
 関ヶ原決戦に間に合わず東軍が有利となった。 家康は高次を高く評価し、
 高野山から呼戻し若狭の大名として処遇した。(落穂集)

02島津八郎左衛門実久の一族である島津善左衛門の子孫、泉又太郎忠辰
 の代に出水高城二郡が天領になったため、島津を吉永に変えて吉永
 善左衛門と称して野田に住んだ。 その子孫は今でも野田の郷士として
 続いている。 吉永は吉満との事
註1島津実久は薩州家で、14代当主勝久(奥州家)の跡を廻り、伊作家の
 日新、貴久と争った。
註2.天領とは1587年島津家が秀吉に降伏した時、豊臣領として1万石設定
 されたものと思われる。

03貴久公が伊集院の城を攻めたが、城方は強く落とせない。 その時
 有川雅楽介貞世は伊集院の寺子で十二三歳だったが、毎年歳暮に茶を
 配るので城内に精通していた。 貴久公に伝え、城の塵を出す口から
 滑り込み城に火を掛けた。 夫により落城したと言う

 又一説には城は堅固で三年持堪えた。 ところが城の後ろの尾根続きの
 辺りに夜な夜な蝋燭の火の様なものが多く燈った。 是は不思議な事で、
 恐らく稲荷大明神のお告に違いないと様子を窺い、大手口より強く
 責めたところ、城の人数が大手を防ぎ後ろの方が空になった。 そこで後ろ
 の方へ人数を廻して攻めたら落城した。 其時稲荷大明神の告のお陰だ
 として稲荷社をこの地に祭り今でもある。 
 享保年間の頃だったろうか、伊集院城山の峰が崩れた時、朽木が大量に
 流れ出した。 実の所は分らぬが、これは落城の時に首を吊るした木では
 ないかと噂されたと言う 
註1.別名一宇治城、伊作家島津忠良(日新)が薩州家島津実久と14代当主
 の跡を争った時の戦いと思われる。 城は実久派の武将が守っていたが、
 1536年に日新-貴久が勝取る(薩隅日城由緒-当HP南九州の中世)

04甲斐国の武田典厩の配下に入沢五左衛門と云う天流の鑓の達人が居た。
 甲州崩れの後、当国に来て伊地知宗兵衛、入道してむさんと号して垂水家
 の家臣となった。 子孫は今でも垂水に居り、子孫も鑓の達人と言い、代々
 伊地知宗兵衛と云うとの事
註1. 甲州崩れ: 1582年武田信玄の子勝頼の時代に織田信長により
 甲斐は亡ぼされる。 その年信長横死により国主が曖昧になるが最終的に
 家康が甲斐を手に入れる (落穂集)
註2.武田典厩(信豊1549-1582)、父は信繁(信玄の異母弟) 

05或時義久公が兄弟で馬を引出させて見ていたが、あの馬は良い、あの馬
 は少し悪い、父毛で母心であると義久公が批評した。 その時末弟の
 中務家久が思ったのは、自分の母はそれほどの者でない、 と言う事は
 自分は毛は父に、心は母に似て夫ほどではないのかと思ったのか、悔しく
 思い以後色々な事に熱心に打ちこみ結果が出るように努力した。 
 しかし義久公の思いは違うのではないかと人々は考えた由。
 家久は別腹の子だったそうだ。
註1.島津貴久の子は義久、義弘、歳久、家久と四人いたが、家久の母は
 本田親康娘、上三人の母は入来院重聡娘

06鹿児島下伊敷村の妙国寺は昔肝付家が薩摩の守護だった時の館で、
 伴様の館と云った由
註1.平安時代に伴氏が薩摩掾(国司)として下向した。 その後肝付と改名し
 豪族となり、新たに鎌倉時代初期に守護として下向した島津家としばしば
 争った。
 
07貴久公の時代、蒲生の城を攻めた時、村の城と云う出城があった。
 此城山は矢筈の様であり、矢筈ケ城とも呼んだ。 本城より北に有ったと云う
 これは蒲生の兵糧蔵らしく蒲生一族の兵糧を樽に入れ、夜々川に流して
 蒲生本城へ入れていた。 この事が分ったので川に網を張って樽を留めた。
 この為城中は困難に陥り、北村の山下半太と云う者に内通させ、君に対して
 弓を引く事は本意ではないので、降参するように度々諌めましたが、主は
 納得せず、それどころか私を殺そうとして居りますので味方します。 城中に
 火の手を上げますので、その時軍勢を城に引入れましょうと言わせた。 

 そこで決めた日時に茅に火を付け火の手が上がったので左兵衛尉尚久の
 部隊が北村の城の大手口まで忍び寄ったが、内通とは違った偽りの計略
 であり、尚久は窮地に追い込まれる。 北村の大手口より道が二筋に分れて
 居るが、二筋共一騎しか共通れない道である。 この道を引き返すところに
 蒲生の本城から軍勢を出して道を遮り、挟み討ちにされて究めて苦戦した。
 その時貴久公の部隊も救援に来て漸く切り抜けて城下のたひら川を渡った。
 これは蒲生城下へ兵糧を流している川である。 それより川上の方に谷が
 あり、谷の辺を退却して高牧のいでの山(山の神山で社あり)に籠もった。

 既に尚久は自害を決め側衆が皆で最期の名残に謡を歌うと、それを聞き追手
 はもう自害すると思い引取ったと言う。 それで危難を逃れ吉田の城へ退却
 したが、この時貴久公の部隊も参加したので敵も引取り無事撤収できた。
 此時は尚久は大変苦戦し、配下は大方戦死したと言う。 後に側衆が尚久に、
 いつも謡を歌っておられるのに、あの時何故歌わなかったのですかと聞くと、
 苦戦していたので万一謡の声が震えたりすれば、臆していると見られては
 残念と思い歌わなかったと云った由。

 其後蒲生が落城して、前述山下半太の家を取巻き焼討にしたと言う。 其時
 女子供は助けよとの事で討たれなかったので、半太の子は幼かったが妻が
 抱いて逃れた。 今でも子孫だろうか、山下姓が蒲生郷士の中にあると言う。
 一説には尚久でなく、左衛門督歳久の事で、弓八幡の洞に籠もり自害しようと
 最期の謡を歌い、側衆も一緒に歌ったところ敵は最期と思い引取ったとも云う。
註1.蒲生家は大隅の古い豪族、1557年島津家に降伏、上は一年前
 1556年の戦いと思われる。 (薩隅日城の由緒)
註2.島津尚久は貴久の末弟、宮之城家祖、島津歳久は貴久の第三子、
 上が1556年の戦いとすると、尚久25歳、歳久19歳である。

08有川休右衛門は家久公に殉死したが、一周忌の弔の日休右衛門妻が
 昼寝をしたところ、夢に右休右衛門が出て来て
  年内の ぬれぬれきたる から衣
   ぬれぬれしくも またきたる君
 と歌を詠んだのをうつつに見たと云う。 その歌は今でも休右衛門の位牌の
 裏に刻み付けてある由。

09大隅国横川の住人淵脇一音坊は山伏二人連れで峰入し、戦国の世であり
 ついでに諸国の軍(いくさ)見物したが、甲州の武田信玄公へ直に奉公した
 由、其時は宇山無辺之介と名を変えて穴山梅雪の下に付き、数度戦場を
 廻り、梅雪家中でも指折りの武士だったと云う。
 甲州崩の後 家康公の旗本に採用され長久手の合戦で武功があり、家康公
 から貞宗の刀、無銘弐尺三寸程あるものを拝領した。 その後年老いたので
 暇を貰って当国へ帰ってきて横川に草庵を結んだ。
 地頭の三原備中に色々世話になり親しくなったので、跡取りもない事であり
 例の刀を三原備中に進上した。 今でも備中子孫三原次郎左衛門が所持
 している。 この刀を岩下仁左衛門が見て、志津であろうと云った由。 

 この無辺之介は一院坊と云う説もあり、人を何人も隠し切った事が知れそうに
 なり当国を出奔して甲州で仕事に有りついたとも、又諸国を武者修行中に
 甲州で採用されたとも云う説もある。
註1.志津: 鎌倉時代の刀工、志津三郎兼氏による刀
註2.長久手の合戦: 秀吉が織田信長に替わり天下を取ったが、信長二男
   信雄が家康の助けを求め、秀吉対家康・信雄の戦い(1584)。和睦で終わる。

10今でも蒲生の内下久保村に白石永仙の墓がある。 以前は参詣人が多く
 あったと云う記録もあるようだ。 白石永仙志と銘があり、脇に小字あるが今では
 判読できないとの事。
註1.白石永仙:伊集院忠真の重臣

11薩摩国谷山の城は薩摩守忠範の城だったと言う。 其後谷山次郎右衛門と
 云う人が城主の時、 同坂の上の城主、河野仁右衛門と云う人と合戦した。
 互いにわずかの軍勢で大将同士の戦いとなり、一方は弓一方は長刀で、
 弓で射られたが長刀で切倒し同時に討死したと言う。
註1.平安時代後期の話で薩摩守忠範は平薩摩守忠度か。

12貴久公は元亀二年六月廿三日(1571)逝去、殉死者は
    鹿州浄貞禅伯         平田治部少輔
                      紕貞入道紕喜

13義久公慶長十六年正月廿一日(1611)逝去、殉死者は
    権大僧都仙期法印      林 泉中
                       仙期坊とも云う   年三十四五
      朝鮮国慶尚道霊玉山朴氏である
   友ならで いかでかあとに のこるべき
     とにもかくにも 君のゆく道
   君ははな おしむとすれど 春風に
     ちりてやもとの ねにかへるらん *散りてや元の 根に帰るらん
    昌屋常繁居士             新原藤左衛門   年六十九
    宝山常珍居士         末吉 春田佐渡守
    進歩要精居士             岡本讃岐守
    鏡山栄臨居士             浜田民部左衛門  年七十七
   ふたつなき 命も君に 奉る
     こころの内は すめる月かな
   武士の 取伝たる あつさ弓
     君に引るゝ 後の世までも
    無庵宗作居士             田尻小吉       年三十
    舜岳曇尭居士             染川源之丞     年四十
   十王の うちにも証拠 有ければ
     えんまの帳に 友立はある *友達
   入相の かねのひびきに さそわれて
     ゆめ路をいそぐ 明方の空
   末世より 来世此世に いたるまで
     三世の御供 するは福徳
    月浦春花居士             武 彦左衛門    年四十
   ながらへて かゝる浮世に あふ坂の
     道より きよき わが心かな
    天庵道雲上座             吉井佐渡守     年七十九
    機先道全居士             山口対馬守     年五十 
   道しらず 君の跡をも 見送りて
    乗をくれじと いそきこそすれ   *急ぎこそ
    一山宗将居士             赤塚吉右衛門   年二十二
    花翁道栄居士             肥後権之丞     年五十二
    瑞翁良玉居士             市木清左衛門   年二十六
    月舟守心居士             村岡豊前守     年四十四
   後からの おくれ先たつ 習ひ有
    とは思へども わが事ハうき
   君が為 すつる命は はるのよの
    露ちりやすき 有明の空
     薗室宗馨居士             新納式部少輔    年四十六
  右同年二月廿日也

14義弘公元和五年七月廿一日(1619)逝去、殉死は
   竹翁元林居士       新納式部
   月庭道存居士       原 蔵人
 寛永九年壬申七月六日(1632)
   心叟了伝居士       木脇刑部左衛門
  同和雲菱順居士      入枝五右衛門
  同孝翁永忠居士      池田六右衛門
  同明翁宗精上座      坂本万左衛門
  同真翁宗天居士      藺牟田縫殿
 
  同久山常永居士      梶原与右衛門
  同月窓玄照居士      折田 泉
  同悟安休頓上座      藤井 久助
  同盛岩陵雪居士      山路後藤兵衛
  同梯岳了活居士      桐野治郎左衛門
  同月皎道秋禅定門       伸兵衛

15家久公寛永十五年二月廿三日(1638)逝去、殉死は
   大久昌海庵主       平田大久坊
   傑山常英庵主        鎌田 豊前
   信庵宗友居士       有川休右衛門
   傑翁宗英居士       谷山宮内左衛門
   無二宗友居士       高山 備後
   頓翁宗悟居士       寺原 早助
   虚国了無居士        愛甲次衛門
   泰叟政安安主       渡辺 安房
   権大僧都法印大起家勢弁 山田大泉坊

16鹿児島虚空蔵山を出水崎と唱える。 昔虚空蔵山の後へ伊集院家の一族が
 集院某一城を構えていたが、出水へ山続きだったので出水崎と唱えた
 のではないかとの事。

17鹿児島城は昔鎮西八郎為朝の居城だったと言う。 為朝は催馬楽城の
 矢上氏の婿だったとの事。
註1.平安時代末期に源為朝は源義朝(頼朝、義経の父)の弟、父に
 勘当され九州に追放されたと云う。 大男で強弓の使い手だった由

18山田大泉坊が萩原天神堂でほら貝を吹いている時、 家久公が通り掛り
 耳に留った。 それ以後家久公の側廻りに採用されたが、たいへん有り難く
 思い殉死の約束を申上げたとの事。 貝吹きの達人で貝を二つ加えて
 二つの貝を吹いたと云う。

19左兵衛尉尚久は琉球に行く為に坊ノ津まで来たがそこで病死した。 
 尚久は大変大男であり、座った時の膝の高さは扇を立てた一尺より一二寸
 程高かったと云う。
註1.島津尚久、島津貴久の末弟、宮之城家の祖

20光久公の時代になると、殉死は全国一律に禁止となった。 しかし光久公
 が逝去した時、間もなく木脇某が死んだ。 これは殉死ではないのかと
 世間で言っていた様である。 この木脇某は今の木脇喜左衛門の先祖で
 義弘公に殉死した木脇刑部左衛門の子孫との事。
註1.江戸幕府四代将軍家綱が禁止令を出し、以後は公にはなくなった。

21寛永十四年冬(1637)肥前国島原で一揆が起り近国の大名衆は、何か
 御用があれば御指示下さいと、皆家老一名宛派遣する事になった。
 そこで誰を派遣しようかとなった時、私でなければ役が勤まらないでしょう
 と云う様子が三原左衛門佐に顕れていた。 これにより左衛門佐が島原へ
 派遣される事になり、騎馬与力は野元源左衛門と決まった。

 島原へは将軍の上使として板倉内膳、松平伊豆守、戸田左門が下向した。
 内膳から諸国の家老衆へ相談があった時、左衛門佐からの意見が気に
 入ったとの事である。 更にその後松平伊豆守が下向してきた時、皆へ
 幕府の御條書を披露する事になった。 皆が出仕し左衛門佐も上座近くに
 座ったいた。 伊豆守が、左衛門佐殿此方へと云ったが返事をしない。 
 又三原左衛門佐此方へと、云われたが是にも返事をせず、薩州の
 三原左衛門佐此方へと云われた時、はつと云って出た。 そこで伊豆守より、
 御條書について其方へ頼むので読広める様にと云われた。
 再三辞退したが、是非との事なので御條書を受取って上座に移り、御條書を
 最後迄巻き解いて一度さらっと見通した。 あがらず読めるだろうかと皆が
 危ぶんだが、一気に読み出し一字一句も間違えず水の流れる様に読通した。
 それ以来諸国の家老は、何か申出る時は薩州の三原左衛門佐へ取次ぎ
 を頼むようになり、何度も取次いだ。 
 更に城攻めの時、城から討って出て皆敗走する中、左衛門佐は馬を踏み
 留め、敗走勢とは一線を画している様に見えた。 幕府の目付衆がやって
 来て、どちらの方かと尋ねたので、薩州の三原左衛門佐と答えたと言う。
 
 ところで伊豆守が左衛門佐へ御條書を読広める様指示したのは理由がある。
 以前に江戸の桜田屋敷へ伊豆守が訪問された時、床の間に賛のある掛物が
 あった。 伊豆守より伊勢兵部貞昌へ、何と読むのですかと尋ねられた時
 兵部が、三原左衛門佐は若いですが、この様なものを良く勉強していますので
 読ませますとあり、左衛門佐が出て読んだと云う。 これにより左衛門佐に文才
 ある事を伊豆守は知っており、御條書の読広めを指示したのではないだろうか。

 左衛門佐の島原における活躍は古今稀なりとの事だが、島津家において
 天下に押出して、才知煥発な家老は左衛門佐が一番との事。 しかしながら
 威勢が強く肩を並べる人もなく、奢りが高かった。 後に町田出羽守の子息
 (左衛門佐甥)、13歳の者を佐土原藩の後継にしようとして、作文をして
 家老職を罷免され、指宿の源忠寺に寺預けとなり其処の地で死去したと云う
註1.御條書: 規則、方針等が箇条書きに書かれている
註2.三原左衛門佐罷免の経緯は旧伝集二、現代文目次39
註3.原文では内膳正と伊豆守は踏留まったとあるが、内膳正は伊豆守と
   戸田左門が着任前に討死しているので、左門と伊豆守は留まったと
   すべきか。

22池田六左衛門は始め台所の人足だったが光久公の目に適い、小者草履取
 として使われた。 それから側衆に昇格、更に納戸役に取り立てられた。
 江戸で光久公が病気になり、かなり重かった。 六左衛門は愛宕へ行き、
 御病気よくなられる様と祈願を立て願文を納め、身替りとして切腹した。
 光久公はこれを聞き、身替りになったからと云っても死ぬべき病気なら
 死ぬのに、惜しくも切腹させてしまったと、残念に思い泪を流されたと言う。 
 今の池田仲太夫の祖父との事である。

23伊集院右衛門忠棟が手討された時、忠棟の妻子へは吉利杢右衛門が
 知らせたと云う。 其時忠棟の妻は杢右衛門へ備前長光の刀を与えたとの事。
 忠棟の成敗でその妻もそのままでは済まないだろう、多分討手が送られる
 であろうが、人数も少ないので直ぐには討手も来ないだろうと思った。
 其内に妻は引きこもり音もしなくなったが、衣をひっかけ布団に臥せていた。
 しかし一尺四五寸程の抜身を布団と下に入れて置き、万一討手が来れば
 一人は相手にして切殺そうと覚悟していたと云う。 結局妻はお構いなしと
 云う事になった。 しかし忠棟の屋敷は家久公屋敷の前であり居ずらいので、
 妻子は皆鞍馬方面へ遁れたと言う。
 忠棟の妻は吉利下総の姉で杢右衛門は甥との事である。
註1.伊集院忠棟(幸侃)は伏見の家久茶室で慶長4年3月9日(1599)手打に
 されたと云われるが、幸侃の屋敷も伏見城内にあったものと思われる。

24庄内合戦の時、家康公からの使者として山口勘兵衛が当国へ下って来て
 帖佐を訪れたが、その頃宇山無辺助が甲斐から当国へ帰り住居していた。
 勘兵衛は元甲斐の人で無辺助と四方山咄をし、勘兵衛の合戦見物に
 無辺之介も同行したと言う。 外に当国の人も一緒だったが、此人が甲州の
 軍と此方の軍との違いなど尋ねたところ、勘兵衛も無辺介も知っており、
 甲州の軍は掛れと云えば掛り、引けと云えば引くと云う様に言葉で号令する
 ものであるが、爰の軍は号令がなく大きく異なると言った由。

 勘兵衛が無辺之助の居宅を訪問した時は、裏口より入りたいへん尊敬して
 いる様子だった由。 其時甲斐で数度軍を勤めて信玄公より戴いた感謝状
 を見たいと言ったが見る事が出来なかった。 感謝状は数通あり、居間の上
 の細いこうりに入れて置いたが、その後皆火にくべて焼いてしまった由で、
 土地の百姓にも見せたとの事。
 無辺之助は帖佐に住んで居たと言う説だが、墓は横川にある。
註1.庄内の乱は島津家久に慶長四年三月成敗された伊集院忠棟の
 嫡男源次郎忠真が忠棟の領地都城の城に立て籠もり反意を示し、家久が
 討伐に取り掛かった。 家康の調停(山口勘兵衛派遣)で慶長五年三月に
 終結する。

25或時の青年武士の寄合で東郷重位の剣法の咄が出た。 横川に住居する
 木脇納右衛門は、皆さん重位、重位と言われるが、拙者は重位に負けないと
 思うと憎々しげに言った。 それを聞いた青年の一人が中西長兵衛へ、斯く
 斯く云々と話したところ長兵衛は、納右衛門は言語道断の言い方と大に腹を
 立て、翌朝納右衛門宅を訪れ、昨日青年達の集りで東郷重位の剣法の咄が
 出た時、皆さん重位重位と言うが拙者は重位に負けないと思うと言ったと
 聞いたが、重位は今は殿様にも指南を行い、諸士大方が師と仰ぎ大変尊敬
 している人であるのに、それは不心得であろうと腹を立てて言う。

 納右衛門は、確かに其通り言いました。 大変腹を立てて居られるが考えて
 見て下さい、人に重位が詰込まれる所に、ご自分は詰込まれないですかと
 言う。 長兵衛は、なるほど、自分も詰込むでしょうと云うと、納右衛門は、
 又そこでも重位が詰込まれる所には納右衛門も詰込むでしょう。 どうして
 重位に負けましょうかと言う。 そこで長兵衛も納得して帰った。
 
 納右衛門はたいへん武勇ある人で理詰めに返答した。 納右衛門と長兵衛は
 歳は同じ頃で、前述青年武士の中でも年長者である。 長兵衛は示現流の
 達人で見事な腕前との事。

26木脇納右衛門は、剣法を名人に習い、達人の東郷重位に抜き身を持たせ、
 自分はすりこ木を持って洲崎で追廻して一打喰らわせたいと兼ねて
 ふて腐れて言っていた。
註1、洲崎 洲が長く海中又は河中に突き出し崎となった所

27家久公の時代に琉球の王子が鹿児島の城に登城するので、普請をする
 様指示があった。 手水鉢の脇に桜の木があったが、秘蔵の桜の木だから
 残して置く様にと指示して奥へ入った。 そこで桜の木は残して置いたが
 家老の図書頭忠長が見回りに来てこの桜の木を見て、何故残して置くのか、
 見苦しいから切りなさいと言う。 いや御秘蔵の桜との事ですから残して
 置くのですと答えたが、構わないから根元から切る様に言われ仕方なく
 切倒した。 それから図書頭は仕事場に入った。

 家久公が又出てきて庭を見た所、例の桜の木がないので、桜の木は残せ
 と云ったのに如何したのかと聞かれた。 残して置いたのですが図書頭殿
 が来られて、見苦しいから根元から切る様に言われました。 殿様から残す
 様にと言われた事を申上げましたが、構わないから切れと事で止むを得ず
 切りましたと報告した。 

 家久公は大変腹を立て奥へ入ると図書頭の仕事場に使いを送り、用がある
 から直ぐに来る様にと伝えた。 図書頭の返事は、今急用を処理中ですから
 終り次第伺いますとの事である。 そこで又用があるから直ぐに来る様にと使い
 を送った。 又返事は、殿様も御急用、こちらも急な御用、どちらも急用だが
 こちらの御用は手を離せず今処理中ですから、終り次第行きますと言う。
 御使いが三度になり、ところで何の御用かと御使いに尋ねると、庭の桜の木 
 を切ったので御立腹の様子ですが、その事ではないでしょうかと云った。
 急に図書頭は御使いの人に呟いたのは、にがにがしい事である、三ヶ国の
 主と言われる御方が桜の木一本でその様な事では困った事だ。 あっては
 ならない事だ。 残して置けば明らかに見苦しいから申上げる程の事でも
 ないと思い切倒させた。 桜の木が必要なら、どんな桜でも幾らでもあり、
 又植えれば良い、そうではないか、直ぐに参上しますと返事をした。

 この御使が戻ると殿様は、図書は何用かと尋ねはしなかったと云われるので、
 尋ねられましたと言うと、なんと言ったかと聞かれた。 そこで、桜の木を
 切らせたので御腹立の様ですが、それが御用かと思いますと言いましたら
 図書殿より、こうこうと言われましたと報告した。 
 殿様は無言だったが、間もなく図書頭が参上すると書院へ行こうと云う事で
 書院で、庭普請で疲れているだろうから元気付けの酒を持って来させた。
 呑みなさい、と自分でも呑んで盃を下さったと言う。
註1.島津図書頭忠長(1576-1610)この時家久の筆頭家老。 宮之城家
 (貴久末弟の尚久が祖)出身で忠長は二代目

28河内守久逸は加世田城を攻めて合戦になったが敗れて深田に馬を乗入れて
 しまった。 加世田の百姓が高場よりこれを見て、格好の敵と見て駆けつけて
 来た。 其時下々なら目下より、士ならば目上より討てと言った。 この百姓の
 屋敷後ろに田があるので、首田与五郎と名乗って討取ったと言う。
 今でも子孫は首田某と言い加世田の郷士に居る。 久逸は六十一歳だった。
 其時久逸が乗っていた鞍も与五郎が保管していたが、凄まじい妖気があるので
 加世田山田の大徳寺に納めた。
註1.島津河内守久逸(1441-1500)島津家九代当主忠国の三男で伊作家へ
 養子となる。 忠良(日新)の祖父。 薩州家との戦いで戦死

29或時浜田民部左衛門は鹿児島の吉野を通った時、猪が吼えて庭に居るので
 側の木に上って見物していた。 そこへ青年武士がやって来て猪を取押さえ、
 民部左衛門殿は何故そんなに恐れているのですかと笑った。 民部左衛門は、
 殿の御用に立つための大事な身だから、猪如きを捕まえて怪我でもしては
 残念です。 猪が吼えて庭にいるのは大勢で捕まえるべきですと言った由。
註1.浜田民部左衛門は島津義久に殉死した人の中に名前がある

30志布志の城主新納四郎へ北郷讃岐守忠相と肝付河内守兼続が勝久公に
 味方すべきと説得したが、四郎は忠良へ味方すると言って受付けなかった。
 そこで都城、高山、飫肥の軍勢が志布志を攻めた。 和睦の申出をしたが
 攻撃側は受付けず終に攻め崩した為、四郎は佐土原へ落ちて行った。
 清水治郎兵衛の先祖はこの時四郎に味方して戦死したと言う。 
 是は勝久公の時代であり、 島津八郎左衛門実久が鹿児島に乱入して、
 勝久公は鹿児島を立退く事になった。
註1.島津宗家は奥州家系で続いて来たが10代以降は次第に守護としての
 力が衰え、14代勝久の代で島津分家が有力地頭を巻き込み宗家の地位を
 争う事態になる。 特に薩州家島津実久と伊作家島津忠良の争いが中心で
 最終的には島津忠良が勝利して、息子貴久を宗家後継として島津宗家は
 戦国大名に生まれ変る。 この頃全国的に旧来の守護が消滅し、毛利、
 浅井、朝倉、北条等戦国大名が続々誕生している。 

31今の鹿児島城(鶴丸城)の大手門は国分富隈の城門との事。
註1.国分の富隈城は島津義久が築いた平城、鹿児島城は家久が築いた。

32琉球王は鎮西八郎為朝の子孫であるので為の字を付けたと云う。 
 今は為朝の血筋は絶えたとの事。

33以前は殿様の屋敷で能舞台が催される時は老若男女に見せた。 ところが
 小便をし散らかしたので、それ以後見せなくなったと云う。 
 綱貴公の代に諸人の見物は中止となった。
註1.大玄院 島津綱貴(1650-1704)第三代藩主

34貴久公は兼てから女色を避けていた。 そこで年老いたので気心も弱り、
 もう女色の心も起きないだろうと思い、美女に薄ものを着せて給仕させて
 見た。 そしたらやはり起きなかったので落着かれた由。

35三郎左衛門尉宗久は所々で戦功があり、足利尊氏将軍より感謝状を拝領し、
 その上大夫判官に任ぜられた。 暦応三年正月廿四日(1340))十九歳の時、
 凶徒を退治する為に出陣したが途中で落馬して死去した。 この時は葦毛の
 馬に乗り、鮫鞘の刀だったと言う。 今でも当家でこれを不吉としている。
 家久公も正宗の刀を着けず、桜の紋は付けない筈と言う。 古老が進言した
 と言うが理由は分らず先代からの言い伝えとの事。 
 この事から考えて見ると、宗久が落馬した時刀が抜けて怪我をして死去した
 由。 この時の刀が正宗であり、桜の紋の鞍だった事からこれ等を忌む様に
 なったのではないだろうか。  宗久の御寺はくまの城の称名寺の由
註1.島津宗久(1322-1340) 第五代薩摩・大隅守護島津貞久の嫡男。
 嫡男の若すぎる死去により、弟師久と氏久の家督争いで宗家が総州家と
 奥州家に分裂したと言う。
註2.時は南北朝時代で島津宗家は北朝側だったが、薩摩大隅の有力地頭の
 多くは南朝側に立ち戦乱は絶えなかった様である。 守護側から見て南朝側
 の地頭、有力豪族は全て凶徒と表現している。
註3.隈の城 現薩摩川内市内

36当国で大河として天下に知られているのは日向の去川、薩摩の川内川の由。
註1.去川は大淀川の上流で左流川ともいった。 大淀川は江戸時代迄は夫々
 の地域名で呼ばれ、河口付近は赤江川と云った。川内川は上流の現えびの市
 から下流の薩摩川内迄昔も今も川内川と云った様である。
註2.当国という表現は薩摩国、大隅国、日向国を総称して指している。

37こえ壺薬師の辺は昔こえ壺が多かったので肥壺薬師と言い習わしてきた。 
  この側に今は枯大木があるが、昔は小賀の枯と言われた木との事。 
  今は福薬師と名が改められている。

38下屋敷今諸座の脇、南泉院前の桜や枦(はぜ)等がある所の前は馬に乗る
 高場だった由。 其昔は弐十人屋敷だったと言う。

39小幡勘兵衛景憲が綱久公に咄に来た時、関ヶ原合戦の咄を聞きたいと
 言うと、鑓を出して下さいと言い鑓を杖につき、石突で畳の破れる程に突いて、
 小躍りしながら勇んで話したとの事である。
註1.小幡勘兵衛(1572-1663)武田遺臣で徳川家に仕え兵学者。 
 関ヶ原では井伊直政の部隊に属したという。 勘兵衛は関ヶ原の頃は廿八才
 程で五十年程前の昔話と思われる。

40新屋敷に住居した和田源右衛門が或所に出かけて夜更に帰る途中、
 南林寺の辺りで急に便意を催した。 彼の大溝の側で袴を脱いで用を足して
 いると、溝の水面に月が映り気分良く一首浮かんだ。 覚えている内に
 書付けなければと早々用を済ませ、袴を着る迄もないと急いで帰り書付けた。
 暫く感慨に耽っていたが袴を忘れた事を思い出し、取りに行かせたが既に
 無くなっていた。 大変歌好きの人だったとの事。 歌は
   やどりては 月も心や すますらん 清龍川の 水の流に 
 だが、実はこれは古歌にあると聞いて居る。
註1.古歌:平安時代の古今集や新古今集に載っている歌

41伊瀬知弥四郎と言う人は或時福昌寺へ参拝して、そのまま出家したいと
 住職に頼んだ。 住職は留めたが是非と言う事で出家した。
    ゆるせ君 世のはかなきを 思ひとり そゝろにかくも 捨る我身ぞ 
 と一首短冊に書いて持たせた挟箱に入れて供の者を帰した。
 それ以後行方が分らなくなり、宿元からこの歌をお城に差出したが調査は
 なく、結局行方不明となった由。

42伊作又四郎善久は馬屋で馬の飼い方を見て、飼育が良くないと馬飼を
 強く叱ったところ、腹を立てた馬飼が即座に善久を殺したとの事
註1.島津善久は島津忠良(日新)の父親。 忠良がまだ子供の頃で、教育の
 為忠良は寺に預けられた(第一集の冒頭)

43市木亀之川へ伊集院の士達が放生会に向かう途中で肥前島原で一揆が
 起こった事について語り、島原へ行ったら皆なで斬りにしたいと刀を抜いて
 道端の松の枝を切り落として大口を叩いていた。 
 帰って見ると伊集院の人々が鎮圧に召集されると聞き、彼らの顔は蒼白と
 なり大口をきく人は一人も無かったと言う。
註1.放生会(ほうじょうえ) 仏教の殺生戒めの思想に基づき鳥獣や魚を
 放つ行事。 寺院だけでなく神社でも行われた。

44家久公が参勤の時、折々小夜の中山寺へ立寄り住持と親しくしていた。 
 或時通り掛り立寄って見たところ、何時も主の住持が迎えに出てくるのに
 見えない。 住持は、と尋ねられると、亡くなりましたとの事。
   此寺の あるじをとへば 夏草の 露の跡とふ さよの中山          
 一説に此寺の主も今は夏草のとも、と歌を作り短冊にしたとの事。
 今でも短冊はこの寺の宝物となっている。

45光久公御逝去に対し、平松中納言による追善の歌 
  消(きえ)しこそ あわれ歎の 杜の露 八十またるゝ 年のこなたに
註1.二代藩主島津光久、1695年79歳で逝去
註2.平松中納言 近衛家の家令、公家

46敬白起請文前書の事
 一秀頼公に対して疎略があってはならぬ事は当然である。
 一御父子に対して、両三人疎略は毛頭あってはならない。
   付 言行に裏表があってはならない。
 一へつらう人々が居て、密接な関係を妨げる動きもあるので、直接話し合い
  お互いにわだかまりを晴らす事。
    以上偽りを成せば(神の名)神罰がある。
       慶長四年卯月二日(1599年)
          島津宰相殿(島津義弘)
          同 少将殿(島津家久)
註1.上記は誰の起請文か名前が無いが,別本では家康となっている。
 御父子とは義弘、家久と思われる。 第三集50で義久(龍伯)が家康との
 交流は他意がないと云うものと関連あるか。 前太守義久と現代表者(現太守)
 義弘と次の太守予定の家久の三人はこの時期微妙な関係であり、この頃
 三殿体制と云われていたようである。 家久の次期太守に反対する勢力もあり、
 家久がこの一月前に伊集院幸侃を手討にしたのもそれが原因と言う説もある。 
註2. 義久と家久は家康と親しく、義弘は朝鮮の役で石田三成に非常に
 恩義を感じていたと言う説もある。 この一年半後の関ヶ原で義弘は少数で
 西軍に付き、義久と家久は動かず戦後義久と家久が家康との関係修復に
 努めている。

47義弘公百年忌の法事が伊集院の妙円寺で行われるので、殉死の子孫は
 出席する様通達があり、享保三年戌七月十九日(1718)より出席の人々。
          木脇喜左衛門名代  木脇伊左衛門
          山路後藤兵衛名代  山路小左衛門
                        新納宅右衛門
                        椎原休左衛門
                        池田国右衛門
          桐野七郎左衛門名代 桐野弥五左衛門

          藤井助斎名代     藤井休左衛門
          蒲生           藺牟田次左衛門
          出水           原 休右衛門
                        粂原筑右衛門
          加治木          折田市左衛門
           同            入枝佐五右衛門
           同            色紙 仲兵衛

48押川強兵衛は曽木の人で幼少の時から曽木の瀧で水を浴び、水練が
 達者だったと云う。 強兵衛が六歳位の頃、この瀧で水を浴び側の岩の
 上で裸で胡坐をかき、髪は赤く腹懸けで日向ぼっこしていた。 
 そこへ山人が通りかかり強兵衛を見て多分河童と思ったのか、鉄砲に火
 縄を付けて撃とうとしている様子である。  強兵衛は少しも騒がず、
 軽はずみな事をなさると怪我をしますよと云って火縄を外して通って
 行った由。 強兵衛は若年の頃から力も強く、この滝に素もぐりして大魚を
 沢山取ったとの事

49或人が浜田民部左衛門に刀を拝見したいと望んだら差出して呉れたが
 抜けない。 民部左衛門が自分で抜いて見せて呉れると赤さびだらけ
 である。 それを見て此の人は、随分錆びていますね、この侭ではいざと
 云う時に切れず、勝つ事が出来ないでしょう、 研ぎなされねばと云う。
 民部左衛門は、その通りかもしれません、 しかし戦と云う物は急には
 起こらないものです、廿日とか三十日の間がある物です。 その間に
 研ぎましょう。 又喧嘩等云う物は士はやらない物です。 万一刀が必要な
 事が急に起こったら私は鞘ごとで叩き殺そうと思います。 今はこのままで
 私は不自由はありません。 貴方方はよく研いだ刀が無ければならない
 でしょう、 と云うのでこの人は黙ってしまった。

50惟新公が朝鮮に出陣した時、上の士衆が踊をし、帰朝の時は下の士衆が
 踊ったと云う。 是が士の踊り始めとの事
註1.薩摩の士踊りは現在でも伝統芸能として南九州各地に残っているが
 起源はもっと旧く、日新時代からと云う説もある

51光久公の誕生は舎弟の兵庫頭忠朗よりは少し早かったが、殿様(家久)
 に報告されたのは少し後だったと云う。 しかし光久公は嫡男ではあるが、
 六七才の頃までは特に公表はなかった。 忠朗母は家久公と仲が良いので
 何となく世間では兵庫頭が世継になるのでは、との噂も色々あった。
 
(然処ニ国分ニ而 龍伯様御死去被遊候ニ付、国分
 御上様国分江御忌□ニ御越被成、御忌明候得共御迎不
 参候ニ付、別而御腹立被成、中納言様 寛陽院様
 御同道ニ而国分江御越可成由被仰遣、中納言様は浜之
 市迄被成御座候、 寛陽院様は国分江御越被遊候、然ルニ
 御上様ゟ其方ハ三ヶ国之世継ニ而候とて彼御方江御宝物
 有之候を被進、御供之衆へも色々引手物被下候而御帰被遊
 浜之市ニ而 中納言様と御列立、鹿児島江御帰被成候、)

 それ以後光久公の世継は確定したと人々は云った。 その後年月が立ち、
 光久公の舎弟が都城の北郷家の養子になった。

 式部が或時どこかへ出掛けて夜更けに帰る時、途中の山之口辺で馬に
 乗って来る者が、光久公を呪う者があると大声で告げた。 そこで小姓に
 何か訳の分らぬ事を言っているが良く聞いて見よと云い調べると、馬に
 縛り者を載せて人々が付添っており、この縛り者が光久公を呪う者がある
 と云う。 そこでその縛り者を差仕留めて調べたところ、兵庫頭忠朗の母、
 その親の高陽中左衛門夫婦、福昌寺くかひ和尚が談合して光久公を
 調伏している事が明らかとなった。  そこで高陽夫婦は遠流となり、
 和尚は高陽と深い関係がある者との事。 
 高陽は兼て下々を強く叱る者で、この縛り者を強く叱る事が多かったので
 裏切りはしまいかと疑い、洲崎に連れて行き殺す予定だった由。
 式部に行き逢い、この様になった様である。 一説には光久公が通り掛った
 時と云うのもある。 この縛り者は士に取上げられ、河野喜兵衛と云った由

 これにより忠朗を招いてこの件を聞かせ、其方の母といえどもこの侭にして
 置けぬとの事で忠朗の母は中村で三百石が与えられ隠居を言渡された。
 忠朗は非常に困惑して、この様な事があった以上母とは思いません、一生
 対面は致しませんと神文を光久公へ上げたとの事。 
 この隠居所は今の鉄砲場近辺で榎の老木がある庄屋屋敷の向側である。
 長命で病気で死去したとの事である。 その時、色々あっても母親だから
 見舞いをしたらどうかと忠朗に云われたが、一生対面しないと申上げた
 以上ご免下さいと云い対面しなかったとの事。 

 高陽は何か止むを得ない役割だったとの事である。 その頃は忠朗と
 光久公は対面はなかったが、 年月過ぎて光久公が前の浜へ泊りに
 出掛けた時、忠朗も又泊で出かけ船を寄せあい始めて対面があった由
 其時船に西瓜が乗せてあったが、互いに食しての対面だった。
 調伏した山伏は、今の石原助左衛門の先祖に命じて殺したとの事。
註1.咄の前半の( )部分は文の脈絡が不可解。 上様とは通常将軍を
 指すが、文章をそのまま訳すと、将軍が龍伯の法事に国分を訪れた時、
 家久、光久父子も国分を訪れ、将軍から世継を言われとなる。 しかし
 将軍の国分訪問は有りえず、又史実もない。 又龍伯死去は1611年で
 光久誕生が1616年であり、龍伯葬儀では合わない。
 大名の世子が将軍にお目見えするのは一般的であり、江戸で父家久と
 共にお目見えして、8歳以後の時であれば家光将軍に世継として
 認められたと考えられる。 
註2.後半で突然出る式部とは誰か疑問だが、北郷家養子となった光久弟
 久直が式部大輔を称したので前文を受けて久直と思われる。
註3.家久の子は多数あるが、光久(二男)は後継藩主、忠朗(三男)は
 加治木家の祖、久直(四男)は都城北郷家に養子となる。
 
52細川三斎老は家久公と大変親しく、折々咄に訪れた。
 年老いてからは、冬は綿入れ一つに羽織を何枚も重ね着して上の羽織
 紐は紙を撚って結んで出かける事が多かった。 家久公の側衆の二人が
 三斎老を見て、羽織を沢山着て居られますが人に御支度の用意を
 させましょうかと云うと三斎老は、歳を取ったら体が動かず、綿入れを多く
 着ると重い。 羽織は多く着ても重くないので綿入れは一つで羽織を沢山
 着るようにしていますとの事だった。 
 家久公はこれを聞いて、あの方は嗜みで着て居られるのに粗末に尋ねる
 とは、と云って叱った由。
註1.細川三斎(1563-1646)細川忠興、 豊後小倉藩初代藩主、後肥後
 藩主で家久より10歳上。 江戸では大名同士付合いが多かったと思われる。

53関ヶ原合戦の時、 上方で軍の様だと聞こえて出陣する事になり、山田
 弥九郎有栄は人数三十二三人で上ったが、其時指宿清左衛門が有栄に
 付いていた。 有栄父有信入道利安は清左衛門に、自分は年老いたので
 行かず弥九郎を行かす事にした。 年が若いので万端の事を宜しく頼むとの
 事で、その時有栄十九歳、清左衛門は三十一歳で主従四人で加わった。
 
 しかし関ヶ原では味方は敗軍となり、中務大輔忠豊等も討死した時有栄も
 既に戦死を覚悟した。 それを清左衛門が頻に押しとどめ、運よく当国に
 帰る事ができた。 この合戦の時清左衛門は躓き転んだところを、敵が鑓で
 突き落とした。 もう一人が走ってきて首を取ろうとしたが、清左衛門家来が
 助けて二人の敵を討留め危難を逃れたと云う。 其家来の子孫は今でも
 清左衛門の下人として清左衛門家にその名字で住んでいる。 もう一人の
 子孫は曽於郡に住み今も清左衛門殿下人との事。 安土と云う名字である。
 
 清左衛門は突かれた時の疵は頬に少しあり、今でも兜の緒には血が付いて
 いる由。 其後有栄は清左衛門の諌めで死を遁れて家を相続し、この恩は
 子孫に至っても忘れてはならないと言った由

54山田有信は高城の地頭だったが、秀吉公の九州入りの時、彼の城に立て
 篭り敵を堅固に防いだ。 しかし義久公が降伏して城を出る様に義久公から
 説得されたが下城しなかった。 そこで又義久公が、義久の為を思い下城
 しないのか、それとも自分の意地として下城しないのか、 義久の為を思うなら
 下城すべしと言われて下城したと言う。 
 それにより秀吉公は、褒美として肥後の天草四万三千石を残らず与えようと
 あったが有信は、有り難い事ですが、義久の領分として下さるのですか、もし
 そうであればお受けします。 又領分外で直接私に下さるのでしたら御断り
 しますと言って拝領しなかったと云う。

 この様な次第で忠節が勝れた人だからか、有信が死去の時義久公が彼家に
 焼香に訪れたと云う。 この時子息有栄から余りにも恐れ多い事ですからと
 再三断ったが、考えがあるからと焼香された由。 且又出棺の際には知らせて
 城門前を通る様にと云われた。 是も如何かと申上げたが、構わぬからとの
 事で城門前に差し掛かると、門から出て見送られたとの事である。
 有信は高城に移る前は日置の城主として八千石の知行だった由で其後次第
 次第に加増されたと云う。
 
55有栄の舎弟土佐守は今の山田弥右衛門の先祖であり、代々弓の事に関し
 今でも扶持を戴いている。

56惟新公は関ヶ原の合戦で味方敗軍となった時、戦死すると決めたが色々と
 諌められ落ち延びる事になったと云う。 それではどの方向へ切通すかと云
 事になった時、後醍院喜兵衛は、いずれ内府公は陣場を移すでしょうから、
 其陣頭を切破り伊勢路を通り落ちましょうと進言した。 予想通りに内府公は
 陣場を大谷刑部の陣跡へ移した。 その移動で乱れている陣頭を切り通して
 伊勢へ向けて撤退したという。

57或人が夜咄に行き中西長門と連立って帰った。 途中で向こうより謡を歌い
 ながら来る者があった。 連れの人が長門に、あの謡はどんな謡い手だろうか
 と尋ねた。 長門は、是は下手です、私が謡えば止む筈です云って謡えば
 案の定止んだ。 又向こうから謡いながら来る者がいる。 是はどうかと
 尋ねると、 是は謡を知らない者です私が謡っても止めないでしょうと云い、
 長門が謡ったが止まなかった。 
 長門は能の事で家久公に召抱えられた人の由。

58秀吉公が九州での軍が終り帰京の時、日本には馬鹿が二人居ると云った由
 一人は先ず秀吉である、この遠国迄大軍を率いて地の利も得ない敵国に来る
 事は不覚である。 今少し難しくなれば兵糧が尽きて生きては帰れなかった
 だろうに。 それに付けてもう一人の馬鹿は義久である。 遠国迄大軍で来た
 秀吉に対し、地の利を得ているのだから今少し持ち堪えれば、秀吉は兵糧が
 尽きて敗軍となる事間違いないのに。 いずれ是は秀吉の天運だと云った由。
 其時伊集院右衛門大夫忠棟は早々降参して、日向の敵軍へ兵糧を送った
 との事である。

59久豊公の子忠国公の舎弟達、薩摩守用久入道道存は長禄二年二月廿九日
 (1459)歳五十で死去、薩摩家の元祖、豊後守季久は豊州家の元祖、出羽守
 有久は長禄三年七月三日(1460)日向の三保院小山で戦死し大嶋家の元祖、
 豊久文明十年十一月廿二日(1478)日向国飫肥逆谷で討死し義岡家の元祖、
 此四人に忠国公を加えて五人島津と唱えた
註1.上記大嶋家、義岡家になる前、それぞれ羽州(出羽)家、伯州(伯耆)家と
 云う文書もある。応仁の乱に続く戦国時代の始まりの時代であり、薩隅日でも
 戦乱の記録が多い。

60佐多家の十代常陸守久政は天正十五年三月十四日(1587)豊後田北で
 戦死
註1.佐多家は島津家三代当主忠宗の三男忠光が大隅の佐多(現南大隅町)
 に地を与えられ佐多氏となる。

61四代墓誌
 一日新公は日新寺(現南薩摩市加世田)に葬す、七世住持梅安欟桂大和尚
 一貴久公は南林寺(鹿児島市南林寺)に葬す、代賢大和尚
 一義久公は国分で死去、福昌寺(鹿児島市)に葬す、南嶺和尚
 一義弘公は加治木で死去、福昌寺に葬す、笑梅和尚
 一家久公は福昌寺に葬す、天室和尚
 一久保公は福昌寺に葬す、天海和尚

旧伝集四終