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薩州旧伝記地    旧伝集五
    目次                    翻刻ページ
501 中西長門の博学              P29
502 伊勢貞昌の主人昇進運動        P30/31
503 家久公、将軍参内の御供
504 家久公、昇殿の栄誉            P32
505 東郷九右衛門の教育
506 白坂大学坊の関ヶ原参加
507 新納忠元の即興和歌
508 勝久公、系図芳宥院に与える       P33
509 四元縫殿の島原の乱
510 島原乱の戦死は鉄砲、弓疵
511 綱貴公の便利屋近習
512 綱貴公の鷹狩                P34/35
513 歳久と殉死者辞世
514 家久公、東郷伊予を悼む
515 光久公代の狩に子供見物         P36
516 風紀粛正通達、天和年間
517 福昌寺住職漢文               P37
518 天吹の達人と虚無僧
519 義久公、日新公を追悼歌          P38
520 日新公歌 みのほどをしれ        
521 貴久公、日新公を追悼           P39
522 出水龍光寺墓誌               P40
523 狩野探幽と徽宗皇帝画
524 貴久公毒殺を逃れる            P41
525 日新公の加世田城攻め
526 龍伯公の能振舞
527 塩焼人、貴久公を救う
528 徳田太兵衛、餅で死ぬ
529 勝久公は桜島で死去             P42/43
530 貴久公 椿趣味を止める
531 丹後局の法名不明
532 肥前龍造寺との戦
533 龍伯公から家久公迄の警固
534 細川三斎と家久公の漬物          P44
535 逆瀬川奉膳兵衛と白坂七左衛門
536 日新公和歌 大悲権現
537 維新公最初の内室の悲劇          P45
538 阿多盛淳墓誌
539 荒田八幡寺社領取上げ            P49
540 光久公、行司に切腹を申付
541 新納忠元、大口城を歌で守る
542 末弘伯耆守の暗殺              P50
543 山田弥九郎と多田七郎一騎打異説
544 鹿児島は昔鹿児島太郎の地
545 藤山彦左衛門と押川強兵衛
546 市木稲荷大明神由緒             P51
547 丹後局墓不明
548 市木大日寺阿弥陀由緒
549 琉球の制圧と尚寧王家康へ紹介
550 島津中務家久家系図             P53
551 義久公は九州太守
552 細川幽斎の検地のやり方
553 示現流達人墓誌
554 兵道家と戦死者幽霊              P54
555 小西行長の子孫、小を取り西某
556 宇山無辺介甲州軍学は薩摩で不用
557 光久公弟忠朗の母
558 島津久胤の内室は家久公娘
559 歳久養子忠隣戦死と宮部善祥坊

01中西長門は能以外の物事も良く知る人で、家久公に呼び出されて折々咄
 をした。 そんな或時家久公が中納言に任官した証書を長門に見せたところ、
 その証書には匂当内侍の文が無かった。 長門は、証書に匂当内侍の文が
 付いて居りましたでしょうかと言う。 これ以外には無いがと云われると、 いや
 内侍の文が附属するもので文が付いていない物は証書ではありません。
 私を使って戴けば京都へ上り、心当たりがありますので取得できると思います
 と言うので長門は京都へ遣わされた。

 長門は京都へ上り知り合いの内儀官を訪ね、私の主人である陸奥守の件
 ですが最近中納言に昇進しましたが、此方で紛失したのでしょうか、証書に
 匂当内侍の文が付いて居りませんと話した。 この公家も、そうですか、
 此方にも見当たりませんが、今となっては手落ちかも知れませんと云って
 内侍の文を用意して呉れて証書は完全な物となったと言う。
 この様に大事な用に役立ち、その他にも色々有用な人だった由。 この時も
 島津家から中納言の位になった人は今までなく、家臣達も経験がなく又詳細を
 知る人も居なかったので、内侍の文が付いているかどうか注意を払わなかった。
註1.匂当内侍(こうとうないし)天皇への奏請を取次き勅旨の伝達をする女官
 四人(掌侍)の中の第一位の者
註2、陸奥守 島津家本家は奥州家であり、伊作家だった貴久が奥州家勝久の
 養子となり、その孫である家久も奥州家を引継ぎ陸奥守を称している。 

02忠恒公が中納言の官位に昇った事は伊勢兵部少輔貞昌の働きに因る所が
 大きい。 其頃伊達公が中納言の官位に昇進したが、当家の主は昇進
 しなかった。 兵部貞昌はこれを残念に思い、幕府老中の本田佐渡守へ
 面会して、伊達殿が中納言に任ぜられました。 忠恒については家筋は
 伊達殿に勝りこそすれ劣る事はありません。 間もなく御案内があるでしょうが
 伊達殿に劣る座席となり、私達は非常に残念です。 中納言に任ぜられる
 様に宜しく御配慮お願いしますと言えば、佐渡守も、それはそうですねと
 言ったが間もなく死去した。 そこで土井大炊頭へ頼んだが、伊達殿は大坂の
 二度の陣に出た事に対する御褒美との事で埒が明かない。

 そこで佐渡守子息の本田上野介へ熱心にお願いして上野介が取成して
 中納言昇進になったと云う。 此時貞昌は色々彼方此方駈け回り手を尽くした
 様である。 その頃将軍家が参上するという咄があり、それ迄に任官となれば
 御供もできると陳情したが、無事任官となり家光公の参内に御供した。 
 三位中納言の官位以上だと騎馬で御供ができるが、以下では出来ない。

03忠恒公は中納言に昇進し、家光公の御所参内に騎馬で御供した。 その時
 二条の桜門で将軍家が御供の行列を謁見したが、何れの御供の諸大名は
 城門に掛ると持鑓を傾けて通り過ぎると又起していた。  薩摩の殿は持鑓を
 前もって傾けて城門前で起し、鑓の穂先が将軍の方へ向けない様にした。
 将軍は大変誉めて、薩州は故実に明るいとあった由。 是は全て兵部貞昌
 の指示だった。 其時から対の毛鑓を持たせたが今より壱尺程柄が長かったが
 その後切らせたとの事。
 
04参内の御供で昇殿を許されない人々は何れも白砂に座し、許された人々は
 皆殿にあがった。 今昇殿を許されなくとも先祖に許された人はその家格に
 より殿に上がれた。  この時忠恒公は中納言であるから言う迄もなく殿に
 上がれた。 細川越中守忠興は白砂であるため、昇殿は五拾万石にも
 代え難いと大変羨ましがったと云う。 彼家は細川と云う立派な家筋であるが
 昔の細川一族で家臣であり、近臣でもなく又三位中納言でもない為昇殿
 は許されず殿に上がる事はできない。 この時佐竹氏は昇殿は許されない
 身分だが、先祖の家格で殿に上がったと云う。
註1.佐竹氏は源氏の名族で関東の守護から戦国大名となり、近世以後
  出羽藩主となった。
  細川忠興は室町幕府管領の細川家の一族であるが本家は絶え、父幽斎が
  信長、秀吉の重臣となり戦国大名として出発した

05東郷九右衛門は兼てから若い人々に、大喰などはしてはならない、無作法に
 見える。 又人々が大髯にするなら大鬢にせよ、今流行の様にするのが良いと
 云った由。

06白坂大学坊は峰入していたが、関ヶ原合戦あると聞くと直ちに懸け付けて
 惟新公の合戦に御供して帰った。 この時身に着けていた鎧や太刀が今でも
 残っている由。 子孫は今大口小路に住んでいる。
註1.峰入 : 山伏が役(えん)行者(7世紀末の大和葛城に居た呪術者)の
 跡を慕って奈良県大峰山に上るという修験道の行事。

07ある時惟新公が新納武蔵の手をちよつと取り、こんな時でも歌ができるかと
 尋ねると、武蔵は則
  ひかりなき 深谷かくれの 夏草は 高根の松に 身こそおよばぬ
註1.新納武蔵守忠元、薩摩一の武将。 夏草が自分で松が惟新(義弘)か。

08島津薩摩守義虎の内室は球磨の相良の娘で菱刈の山野に弐千石程の
 化粧領があるので、年を取ってからは山野に住居した。 法名勧貞芳宥大姉
 の位牌が今も山野のある寺に残っている。 
 勝久公が没落して桜島西堂に住居し、踊に湯治に行った事がある。 その時
 芳宥大姉が勝久公に見舞いに行ったところ、勝久公はこんな状態になり見舞い
 をしてもらう事は思いも寄らなかったと大喜びで、誰に譲る当てもないのでと
 云い、系図を芳宥へ与えた。 この系図は薩州家が没落した後、鹿児島へ
 納入された。
 山野の寺は芳宥軒と云い高弐石が付いている。 寺の側に芳宥大姉が住居
 した敷地が今もあるが、竹等が生い茂り跡形もないとの事。
註1.島津義虎(1536-1585)薩州家6代目、五代目実久子。島津本家14代
 勝久の後継を廻り、実久と伊作家日新-貴久が争い最終的に貴久が15代
 当主となる。
註2.相良家 鎌倉時代の地頭から発展し肥後南部を支配した戦国大名、
 江戸時代は人吉藩主として存続
 
09肥前の島原一揆で城責めの時、伊集院の士四本縫殿は干潟にある岩陰を
 楯にして鉄砲を撃った。 矢玉の烈しい所で一回で十六発以上撃つ事は
 難しかった由。

10島原一揆を責める時に討死した原因は鉄砲、弓、鑓の三つの武器によ
 る疵が元で、外に深い疵はなく手等が切れている者さえ無かった。 刀による
 討死はなかった。 これは大口の士黒木三右衛門が若くして島原に戦い、
 長命で咄をしたものとの事。

11綱貴公がある時串良広田で鹿狩をして彼方此方寄歩いた。 ところがかなり
 遠く離れた場所に忘れ物をした事に気付き、側の武士に急いで取って来る様に
 云った。 この武士は畏まりましたと云い、田の中を厭わずぬかりながら取りに
 行って来た。 公はその士を大変誉めた時、 ある側の利口の士が言うには、
 良くお役に立つ者ですねと云うと、少し機嫌悪い様子で、あの者は此の様な
 時は役に立つ者で、その辺の事を誉めれば良くやるのだと云った由。 この士は
 殿様の御機嫌取りだったとの事。
註1.島津綱貴(1650-1704)第三代薩摩藩主、光久孫、大玄院

12ある時綱貴公が加世田辺で鷹狩りをした時、鷹が雁を取ったがバタついて
 逃げようとする。 そこで側の武士が脇差を抜いて走りより仕留めた。 殿様は
 それを見て、麁相な事をすると云った。 ところが又雁を捕らえたが逃げようと
 する。 そこで殿様は腰のさすこを抜いて走り掛り仕留めて、ああ麁相麁相と
 云われた由。
註1.麁相:粗相 粗略、軽はずみ

13左衛門督歳久入道晴蓑の辞世
   晴蓑(せいら)めが 玉のありかを 人問わば いざ白雲の 上とこたへよ 
      文禄元年七月十八日、 以下殉死の御供の人々の辞世歌 
   古歌ながら 思ひ出るまゝ        本田四郎左衛門
   終に行 道とハ兼て 聞しかど 昨日今日とは 思はざりけり
                             成合城之介
   うちむすぶ そのことばかり 思へただ かへらぬむかし しらん行すゑ
                             木脇民部
   極楽は すずしき道と 聞しかど あつき此の世に いたくこそあれ
                             御供の人読人不知
   世の中は 風に木の葉の 散ごとく となりかくなり となりかくなり
註1.島津歳久((1527-1592) 義久、義弘の弟。 文禄元(1592)の
 梅北一揆の責任を取らされ、太守義久の追討を受け自害。  
 晴蓑は歳久の隠居名、玉は魂

14生は死の始めと言うが、彼東郷伊予守には弓の師と頼み、朝な夕なに
 慣れ親しんできたので別れの思いは特別である。 諸々の道を学んだ
 人であり、空飛ぶ雁の声を聞いて夜中に矢をはなち、柳の葉をも百度
 いつへきものであるが、唐土の文の心も深く伝え、春は花の下で詩を詠み、
 秋は真如の月に心を澄ました。 しかし病に罹り慶長廿年三月の末に
 世を去った。 手向けに一首連ねるものである。
   ふれふれて 見し夜の春も かきつはた うつろう花の 跡のかなしさ
   あつさ弓 弥生の空に 鳴雁も さらぬ別れの 跡慕うらん
                             少将家久
註1.東郷伊予守義則は浮田秀家の家臣で関ヶ原陣の後秀家に従って
  薩摩に来た。 藩主家久に弓の師匠として仕えたが慶長廿年(1615)
  死去。 第二集現代文27に石碑訳を載せる。

15ある時光久公は鹿児島不動山で狩をした。 その時彼の山の大へこ原に
 猪がほえていた。 殿様は田の中に駕籠を置いて鉄砲で撃とうとしたが、
 士の子供達が大勢見物に付いて廻っており、それは出来なかった。 
 その時大山常陸が猪を追いへこ原を上へ下へと走り廻り、下の小溝へ
 落として猪を取り押さえたが、腰を痛く打ち殿様から竹の杖を戴いた。 
 其頃はまき餌を指示されたので、遠くの山から鹿や猪が沢山鹿児島へ
 集ってきた。 狩が頻繁に行われ士の子供達が狩と云えば殿様の跡に
 付いて廻り見物した。 しかしこの不動山の狩の後は子供の参加は禁止と
 なった。

16毎度通達されているが、今だに緩みがあるので又々通達が出た。 
 当所の若者達の最近の風俗は好ましくない。 月代のやり様、額の取り様
 は特に見苦しく、又白頭巾に文字を書き散らし或いは異様な頭巾を皆
 被り連立ち、或いは衣類の着方、刀の差し様など総体的に行儀が悪い。
 或いは路地、屋敷と云わず竹鉄砲を打込み大声を上げ、用もないのに
 夜分うろつく等不届と思われている。 特に代替わりの時であり、この様な
 事が聞こえるのは良くない事である。 以後全ての行動や言葉に注意し
 学問や武芸に励み、仲間同士丁寧に交わり風儀を改める様厳しく通達する。
 この事は夫々所属の所で集めて頻繁に注意する事。 当然ながら違反する
 者は処罰の対象になる事が通達された。
     天和二年戌二月五日(1681)
註1.江戸時代の平和な時代が続き、最後の戦である島原天草の乱から
 半世紀近く過ぎ、鹿児島でも尚武の気風がやや落ちて来たのか。
註2.月代(さかやき) 頭の前頭部を剃る、武士の一般的のスタイル

17武門豪傑祖門賢 玅悟無端常有禅
 得冠千周天暦数 紫藤枝曼億千年
  九州太守 貫明存忠庵主寿像謹応当府
  君明旨謾題一褐以而讃之
 天正歳重光卯歳単閼仲秋如意殊日
   福昌現住天海野納書
  これは天正十九年(1589)作と聞く。
註1.福昌寺は島津家代々の菩提寺だったが明治の廃仏毀釈で廃寺と
 なった。 住職天海和尚(?-1603)が島津家を称えた漢詩。
 九州太守は1586年義久の時代豊後一部を除く九州全土を制覇し、九州の
 太守と呼ばれた事がある 

18光久公の時代、田向喜兵衛は天吹の達人であり光久公から天吹を拝領し、
 今も子孫がその天吹を所持している。 ある時喜兵衛が江戸へ行く時、
 大坂に滞留して2-3人連れで彼方此方見物し、ある茶屋に寄って食事を
 していた。 その茶屋で一間程離れたところで虚無僧が二人、これも食事を
 して尺八を鳴らした。 喜兵衛の連れの者が、巧く吹くものだと云ったところ
 喜兵衛は、あの様には尻でも吹けると少し声高に虚無僧に聞こえる程に云う。
 そこで虚無僧は則尺八を止めて、二人共喜兵衛達の席に来て、ぶしつけ
 ですが、只今尺八を吹いたところ、貴方方の中からあの様に吹くなら尻でも
 吹けると承りましたが、その様に云われましたかと云う。 喜兵衛は、その通り
 ですと答えた。 虚無僧は、たいへん痛み入るお言葉ですと、そのままには
 しない様子である。

 喜兵衛は、いや私も吹くのでその様に云ったのですと云えば、虚無僧は、
 吹いてお聞かせ下さいと云い尺八を差出した。 喜兵衛の連れの人々は
 失礼な事を言うと大きな声で言ったが、喜兵衛は平気で、それでは吹いて
 聞かせましょう、しかし尺八は傷みますが宜しいかなと云うと、虚無僧は宜しい
 と云う。 則小刀を抜いて、尺八の尻を穿り穴を開けて忽ち天吹の様にして
 吹けば誠の天吹を吹いている様である。 虚無僧達も納得して挨拶に困らず
 又上手に吹くのでたいへん感心し、互いに近づきになり虚無僧達は酒を
 注文し盃を交わした。

 その時虚無僧は、これは何処の関所でも誰でもが使える通行手形ですが、
 これを寸志として差上げたいと言う。 喜兵衛の返事は、お志は忝いが私達
 国の者は彼方此方諸国を徘徊する事もありませんから、それ程の手形は
 必要ありません、貴方にとり役立つもの戴く訳には行きませんと云って返した。
 喜兵衛は年を取ってから人々に、あの手形を印に貰って置けば良かったと
 云った由
註1.天吹(てんぷく)尺八に似ているが、長さ30cmで尺八より音が高い。 
 今は鹿児島県にだけ伝承されている。
 
19梅岳常潤在家菩薩は祖父相模守忠良公であり、文武二道を究め、
 薩摩大隅日向を掌握して治世の風を吹せ長期の繁栄を築いた。 内には
 志しは真直ぐで諸禅道心日新斎と号し和尚の位は世に有名である。 
 私は幼かった時から夏冬薫陶を受け、朝に学問、夕べに武道の教えを
 受けた事等皆夢の様である。 肥後の国境で戦いの最中に遠路を隔てて
 聞くに、この秋の暮から病床に伏せられ十一月十三日に加世田で灯火が
 消える様に果てられたと聞き呆然となった。  
 思い出は筆では言い尽くせないので一首を手向けるものとする。
                          修理大夫義久
  今朝は日の あらたなりつる 影も屋々 西なる空に 雲かくれつつ
                   永禄十一歳十二月二十一日(1568)

20日新公詠歌七首 身の程を知れ
 ミ 見聞こと 人の上とて そしるなよ 後は我身に むくひこそすれ
 ノ のがれ得ん 命をおしむ 人はただ 誠の道を しらんゆえなり
 ホ ほしきとて 無理をいひとる 人の身ハ 只霜枯の 草のごとくに
 ト 友立(友達)と 思ひながらも 敵と見よ 親子ならでハ 心ゆるすな
 ヲ おこたらず 我道々を 知る人は 何につけても たのもしきかな
 シ 知らんこと 物いひ立を する人ハ 後は我身の あだとこそなれ
 レ 連々に 主人親子の 間には 只忠孝の 道をあんぜよ

21梅岳常潤在家菩薩は永禄十一年十二月十三日(1568)に亡くなった。
 年が改まった正月末の頃、四拾九日となるので南無地蔵菩薩を句の
 上に置いて差上げる。
                 前陸奥守入道白囿(島津貴久)
 ナ 泪こそ ことはり知らん 世の中に さらん別れの なからましやは
 ム むかし見し 面影はただ 夫なから それといわんも さすが成けり
 チ 千代とては いのりし親の 別れより 何を我が身の よするならまし
 ソ 扨も春も□ かけてつれなく 白雲の 残るを見ても なきぞ悲しき
 ウ 移り行く 跡の日数に あさからん 親のめぐみぞ 猶しられけり
 ホ ほともなき きのふ今日はと 思へとも 三十四十に あまりぬる哉
 サ 更にだに そこともあらず 終(つい)もなき けふも人の 行くすへの空
 ツ つくづくと 思うにすこし なぐさむは みたれん人の 終り成けり
註1.前陸奥守入道白囿(はくゆう)は日新の子島津貴久の法号
 この時(永禄11年)貴久は54歳、その子義久は35歳

22出水龍光寺墓誌
 ○大旦那は薩摩守用久 
      八代当主島津久豊二男、薩州家祖、出水城主、1459年没  
 ○昌厳松繁庵主      *山田有栄戒名 島津家重臣、出水地頭
     寛文八年九月二日(1672)死去、出水龍光寺に葬る
 ○喜翁清歓庵主
  寛文十五年正月二日(1674)肥前島原で戦死、出水龍光寺に葬る
     以下墓に彫付け: 鹿児島の住人野元源左衛門、肥前島原
     で戦死、死骸は此処へ運び葬る。

23江戸の御屋敷へ狩野探幽が訪れた時、光久公は側坊主に指示し、
 徽宗皇帝の筆と云われている鷹の絵が此方にあるが、これを探幽に見せて
 その通りか否か見極めさせ、徽宗皇帝の筆と確認させよとの事だった。
 探幽はじっくりと絵を見て、是は見事に見え徽宗皇帝の絵と伝えられて
 いるのであればその通りでしょう。 誰の筆とは云えませんとの事である。
 坊主がそれでは徽宗皇帝の絵に間違いありませんかと云えば、いや徽宗
 皇帝の絵と決定付ける所が見えないので決められません、 しかしながら
 此方様でお持ちですから、恐らくその通りの筈です、皇帝の絵を誰も見た
 人が居ないので、これがそうだと云われればそうなるでしょうと云う。 
 それでは皇帝の絵であると云う書付を望むと、なるほど書付ましょうと
 云い、この絵は見事で徽宗皇帝の筆に間違いないと言う切紙を添えた由。
註1狩野探幽(1602-1674)狩野永徳の孫、10歳で家康にも謁見した
 天才絵師、鍛冶橋狩野家を興す。
註2徽宗皇帝 中国北宋の皇帝(在位1100-1126)芸術家皇帝として有名
 で自らも達人だったと言う。 中国の名画、清明上河図が書かれた時代

24勝久公は島津実久の告げ口を真実と思い、養子にした貴久公を亡き者
 にする為、毒殺を企んだ。 しかし貴久公の食事掛りの者が知らせ、他にも
 色々噂もあったので伊作へ逃げた。 その途中伊作の中に鬢石と云う所が
 あり、これは鬢地の様な穴石があるので其処を鬢石と唱えた。 
 此処で貴久公は髪をその穴の水で洗った。 今でも雨天晴天に拘らず
 何時でもこの石穴には水が絶えないと言う。 貴久公が十四歳の時の事
 である。
註1.島津家14代当主の養子として伊作島津家の忠良が子息貴久を養子
 として送込んだが、薩州家島津実久の横槍で養子縁組が解消された。
 その後伊作家、薩州家の争いの結果、伊作家が力で当主の座を得た。
  
25日新公が加世田の城を責める為に出馬した時、命野の峰の上に月が出て
 それが永泉庵の側にある池の水に映っていた。 大変え(よ)い天気だった
 ので、夫以後永泉庵をえい天庵と唱えた由。 この城攻めの時相模守入道
 一瓢も間の瀬川の端まで馬に乗り日新公に加勢に出たとの事
註1.日新(島津忠良)は伊作家であるが、父善久横死後母が相州家島津運久
 に再嫁し、相州家も引き継いだ。 入道一瓢は義父運久の隠居名
註2.加世田の城は島津実久の城だが、1536年日新側が勝ち取った。

26龍伯公は舎弟達が戦場へ出発する時は、国分茶伯カ城で幕を張り能を
 見物させたと伝えられる。
註1.龍伯(義久)の弟は義弘(兵庫頭、惟新)、歳久(左衛門督、晴蓑)及び
 家久(中務大輔)が居る。

27貴久公が前の浜に釣に出掛けた時、肝付勢が急に漕いで襲って来た。
 僅かばかりの供の人数では対抗し難く、瀬上の浜辺に上がったが難を
 避けられないと見えた。 しかし其処の塩焼の者が貴久公をちり溜に入れて
 雑物で覆い隠したので敵は発見できなかった。 危うく命が助かったので、
 この塩焼を士に取り立て、塩津という名字を与えた。 今でも子孫は
 上之塩津氏との事。

28帖佐に夫婦山と言う二つの山が並んでいる。 家久公がある時船でこの
 付近を通過し、徳田太兵衛も御供で同乗していた。 家久公が太兵衛に、
 あの山を夫婦山と云っているが、どちらが男かと尋ねた。 太兵衛は則西の
 方の山が男と思いますと答えた。 何故そう云えるかとお尋ねがあったので、
 いや昔から妻の事を此の方と云いますから北の山が女かと思いますと
 申上げたら、大変御機嫌だったとの事。
 太兵衛は五十歳過ぎの頃、都城の北郷宅で餅を食べたのが咽に詰まり
 即死去した由。
註1.徳田太兵衛は踊の地頭職で第一集にも登場する

29勝久公は豊後で死去と伝えられるが実は桜島で死去された由。
註1.十四代当主勝久は薩州家と伊作家の後継争いの中最期は追放される。

30貴久公は椿の木が趣味で色々植えさせていた。 ある時僅かばかりの
 側衆と椿の接木をしていたところ、肝付勢が押寄せ側衆の屈強の士が
 戦死し非常に危険な戦いだった。 夫以後椿の趣味は止め、今でも南林寺
 の仏前に椿の花は生けないとの事。 貴久公はきのこに当って死去の由。
註1.島津貴久 島津家十五代当主、南林寺に葬す(第四集)

31丹後局の仏名は桃源妙梧大姉と云うが、実は不明。 頼朝卿五百年忌
 の時調べたが分らないので、丹後局と仏壇に書付けたとの事
註1.島津家祖の忠久について頼朝落胤説があり、その場合母親が丹後局と
 云う伝承がある。

32九州を北進し龍造寺隆信と合戦の時、敵は猛勢、味方は小勢だったが、
 川田駿河は味方を鼓舞する為、呪術を使い明日の合戦で味方勝利なら
 夜中にほら貝を吹けば温泉岳から答えの貝が聞こえ、負けならば答えの貝
 は無い筈と云った。 そこで呪術を行い夜中に貝を吹いたところ、云った通り
 に温泉岳から答えがあった。 これにより士卒は勇気凛々となり終に切り勝ち
 大将隆信を討取った。
 温泉岳の貝は実は宵の口に密かに人を送り、答えの貝を吹く様に言い
 含めた結果の答えであった。
註1.龍造寺隆信(1529-1584)龍造寺氏は九州西北部で急速に成長した
 戦国大名で、1570-80頃は南の島津、東の大友、西の龍造寺と九州を
 三分していた。 1584年の島津・有馬連合軍との戦いで敗れ、隆信も
 戦死する(沖田畷の戦)。

33龍伯公の代から家久公の代迄御かうの番と言う側近くに詰めて居る人が
 いた。 是は特に武功の勝れた人が選ばれ、その時の役位は今の六人扶持
 だった由。
註1.御かうの番: かうの文字不明だが身辺警固の武士と思われる。

34細川三斎と家久公はたいへん親しく、屋敷も家久公の江戸桜田の屋敷と
 向合わせだった。 三斎が塩漬を作ったからと、させん豆なとを小さな茶碗に
 入れ小箱で側の小坊主に、是を前の人へ持って行けと云えば取次なしで
 勝手口から入り座敷に届けた。 又家久公も塩漬を作った時など小姓等に、
 前の坊主に持って行けと取次なしで三斎へ差上げたと言う。 その頃三斎は
 少し普請をして屋敷前に三斎庵を作り住居し、本屋敷ではないとの事。
註1.細川越中守忠興、肥後熊本藩主

35新納武蔵は加世田に住居していたが大口に城を構えた。 移動に当り
 白坂七左衛門と逆瀬川奉膳兵衛が武蔵の与力として参加した。 両人共
 加世田の住人であり、武蔵が大口城へ移った後に奉膳兵衛は加世田へ
 帰ったが七左衛門は大口に住んだ。 奉膳兵衛が大口に居る時、肝付方
 牛根城を攻め、城中に礫を打ち込んだのは奉膳兵衛、七左衛門等である。
註1.牛根城攻め 天正元(1573)年に島津方が肝付兼続の家臣安楽備前守
 が守っている牛根城を攻め落とした。(薩隅日城の由緒)

36日新公の和歌七首、大悲権現の文字を頭においた自筆の物で田布施の
 金蔵院にある。 其和歌は
   タ 唯たのめ うき世なればや 神心 かたじくなくも ちりにましけん
   イ いのれ猶 すくなる道は さぞあらん 迷へる世をば 神や守れば
   ヒ 光をば よにやはらけて おろかなる 心のやみを てらすとぞしれ
   コ こここそは 極楽なれと ミくまのゝ 神の光も あひにあひつゝ
   ン 村雲に やどりてこそは 月の名の 清くものぼれ 此神も神
   ケ 気にさそと たうとく思へ 世の為に た□はける 神の御心
   ン むかしとは 遠くはあらじ ちはやぶる 神のひかりも あひにあひつゝ

37惟新公最初の御前は相良義陽の娘で辺川殿と云った。 ところが祖父の
 日新公が逝去した知らせがあり惟新公は加世田へ出かけたが、その留守に
 義陽は菱刈と組んで敵対する事になった。 惟新公は腹を立て辺川御前を
 山駕籠に載せて須木の深山に捨てさせた。 供の女中が十六人程居たが
 主従全員が餓死したと言う。 此の為か辺川殿の祟りが非常に強く出たので
 飯野の稲荷山にある保寿院に高三拾七石余寄付をすると共に、辺川殿祈願
 の阿弥陀を安置して菩提所としたとの事。 又加治木の能仁寺の脇にも
 ほふけん大明神と言う辺川殿堂もあると言う。
註1.惟新公(島津義弘)は永禄7年(1564)に日向の伊東氏、球磨の相良氏
 大隅の菱刈氏等が影響力を競う旧北原氏領の真幸院(現小林市、えびの市
 高原町)経営の為、同地飯野城(現えび野市)に派遣され、天正17年(1589)
 年迄滞在する。 (薩隅日城の由緒)
註2.須木:現小林市北東部
 
38阿多長寿院盛淳の石碑
   畠山氏墓碑
 昔の偉丈夫字(あざな)は長寿院、諱(いみな)盛淳は薩摩国鹿児島の人である。
 元は河内の太守で紀州と泉州も管轄した畠山源氏で、管領として細川と
 供に勤めた。 光源院足利義輝の時大乱があり、老父畠山頼国は三好長慶の
 為に亡ぼされ、薩摩の太守義久公に仕えた。 姓名を隠して橘隠軒として
 太守に同席した。 彼に二子があったが、財産を阿多甚左衛門に預け阿多姓
 を名乗る。 淳は二男で大乗院盛久法印の下で仏門に入り、成長すると紀州
 根来寺で朝に夕に修行する事八年、その後高野山の木食上人の下で三年修行
 した。 その後五年苦行に堪えて覚□上人の手になる愛染明王像を持帰り
 太守に献上する。 太守は喜び是は国宝である、子孫に伝えると今も鹿児島の
 念誦堂に有る。 安養院の住持となり太守の相談相手となる。
 
 天正の頃、義久公の武威は奮い九州の内豊後を除く八州を征服したが、この
 事が秀吉公に聞こえた。 薩摩方から淳と鎌田刑部左衛門政広が上洛すると、
 石田治部少輔三成は和親を勧め、秀吉公は、薩隅二国と此外に日向、肥後、
 筑後三国の各半分を与えよう、若し此れに随わぬなら来年軍を発すると言う事を
 承り帰国する。 此の事で天正十五年秀吉公が薩摩に侵攻し、薩摩は戦ったが
 利無く降伏する。 薩摩川内の泰平寺において両将が面会した時太守に随い
 会談に臨んだ者は七人で淳もその一人だった。
 
 義久公が上京して秀吉公に面会した時、 三成は義久公に、淳は才能が
 あるので還俗して行政を担当するのが良いと云い、断る事も出来ず還俗して
 義久公からは鹿児島城の整備を命ぜられた。
 天正十八年には小田原の北条攻め、文禄の初めには朝鮮に従軍した。
 慶長四年には庄内の乱に新納武蔵忠元と共に山田城を攻落としたが淳の
 家来の杉元帯刀、安田仲蔵が戦死した。 伏兵が我軍を破り、中神石見が
 兵を率いて闘い、淳の家臣大山与吉左衛門と木佐貫少内の二人戦死、淳も
 負傷し馬も疵を負った。馬は惜しいが老いているので原山に放した。 又
 球磨の兵が真幸城を侵したので義弘公が此れを征伐し、淳は先手を勤めた
 
 慶長五年の関ヶ原陣に義弘公が出陣した時、 淳は蒲生の地頭だったが
 蒲生の士卒を率いて後を追った。 子は幼く妻に、不幸にして討死したら
 私の所持する阿弥陀像を大興寺に納めよと言い残した。
 兵庫の湊に着くと山陽道を進み漸くの事で関ヶ原に着いた。 義弘公は
 大喜びで迎え、三成も又喜んで金紙の大団扇を贈り、戦功を立て勝利せよと
 言う。 

 しかし戦いは不利で大将も危うくなり、撤退する事になった。 そこで淳は
 義弘公の代わりに死ぬ事を願い、公の名を語り大将旗や大将の錦を着て
 奮戦するので、その間に公は戦場から去る事を進言したところ、公はそれを
 許し旗と錦を授けた。 家来の玉林坊には、私と一緒に死ぬな、お前は力も
 人一倍あるから公を助けて海陸の苦難を凌ぎ国に帰れと云い残すと、士卒
 三百余人で戦いに臨み、我は島津兵庫頭と名乗り前に進んだ。 
 敵軍は雲の様に集り忽ちその首を取った。 淳の家来森二郎三郎、里木
 仲一等十余人が共に戦死した。 時は慶長五年九月十五日の事である。

 太守義久公はこれを聞いて国分の城下で精舎を開き淳を哀悼した。 
 彼妻は遺言通りに阿弥陀像を大興寺に納めた。 また子忠栄は出家し
 大興寺に入った。
 六十年余が過ぎたがこの不朽の事を後世に残すため筆を取るものである。
 節彼南山 赫兮衝天 天産英士
 □育倒□ 干城宝国 民具胆焉
 輔上愛下 旱霖水船 賜公之諱
 樹大将旗 武威奮世 錦袖燦然
 存則衆喜 没却君全 州郡聞訃
 将水塞咽 孝孫追思 顕揚其先 
 懿茲高趾 及為做篇 碍子硣□
 可磨可鐫 喜声永響 何千万歳
         寛文第七丁未秋八月釈覚山謹記
註1.漢詩は関ヶ原で大将義弘の身替りとして戦死した事を詠んだ物

39荒田の八幡には昔は高千石が付いていたとの事だが、細川幽斎の
 九州検地の時に取上げられたと云う。
註1.豊臣秀吉が文禄三年(1594)から薩摩・大隅・日向の検地を行い、
 石田三成と細川幽斎が担当を命じられた。

40光久公の時代、或行司が鉄砲を持って獲物を求めて吉野山に入り
 彼方此方移動していたが、誤って深谷にすべり落ちた。 途中の柴木に
 ひっか掛り下迄は落ちなかったが、上にも下にも動けなかった。 その時
 大きな猿が上から葛縄を下げて来たので引いて見ると手ごたえがある。
 そこで綱を手繰って上に首尾よく上がって見ると数十匹の猿がかずら縄
 を引いてききーと啼いて並んでいた。 この行司は鉄砲でその中の大猿を
 射殺して持って帰ったと言う。
 光久公は狩が趣味だったので此行司を時々呼んで色々な咄を聞いたが、
 行司が此の咄をしたところ非常に機嫌が悪くなり行司に切腹を命じた
 との事である。

41関が原合戦の時、加藤主計頭清正は当国へ攻め入ろうとしたが、
 新納武蔵守忠元が大口の城を守って居り、
   肥後の加藤がくるならば、塩硝肴でだご会釈、
   だごは何だご 鉛だご、それでも聞かずに来るならば 首に刀を引手もの
 と歌を作り、諸人に歌わせ堅く用心していたので攻入なかったと言う。
註1.肥後の太守加藤清正は関ヶ原陣には参加していないが、反石田、
 親家康であり、 西軍に属した薩摩を攻める大義名分はあった。
註2.だご は薩摩弁で団子の事

42末弘伯耆守は勝久公の家老であり、阿多に城を持つ人との事。 しかし国を
 乱す侫人であると云う事で、川上大和守が谷山の皇徳寺権現堂に騙して
 誘い出して伯耆守を殺したと云う。 末弘は伊地知家の一族の由。

43山田弥九郎と多田七郎が戦った事は第一集に記したが、その時七郎の首を
 取り青木の社で首実検をしたと言う説もある。
註1.第一集現36では一騎打ちで引分けた事になっている

44鹿児島は昔鹿児島太郎と云う人の領地だった由。
註1.平安時代の事

45藤山彦左衛門は押川強兵衛の姉の子で甥になる。 彦左衛門と強兵衛は 
 屋籠があった時は互いに相談して捕らえようと誓紙にして堅く約束していた。
 そんな時に市木湊で屋籠があり手に余るので鹿児島に報告があった。 
 検討の上、押川強兵衛以外には無理だろうと云う事で、内密の内に出張して
 捕らえるべしと強兵衛に命令が下った。  そこで彦左衛門に伝える迄もなく
 直に市木湊へ強兵衛は向かい、夜になったので隣家で休んでいた。
 
 一方彦左衛門は強兵衛が出発した後に此事を知り、既に夕方五時になって
 いたが晩食も食べずに速足で追い、夜八時過ぎに強兵衛の居所に着いた。 
 そして互いに約束していた事をお忘れか、けしからん事と大変腹を立て抗義
 するので、 強兵衛はこの事は内密で云う命令だったので、止むを得ず連絡
 できなかったのだと漸くなだめた。
 
 彦左衛門は、それなら自分は直ぐに捕らえに行くと云い松明に火を付けた。
 強兵衛は休んでから行く様にと強く留めたが聞かずに行くので、仕方なく
 強兵衛も後に続いた。 屋籠が篭っている下の戸口を引明け、屋籠出よ
 捕らえるぞと飛び込んだ。 余り雑に行くので強兵衛も支援の為に飛び込んだが
 屋籠の姿は無い。 上の小部屋を見たら屋籠が縮こまっていたので彦左衛門は
 簡単に取り押さえたと云う

 この彦左衛門はでしゃばりで皆嫌っていたが、江戸で毒殺され三十一歳で
 死去した。 今でも墓は泉岳寺にあると言う。 彦左衛門は今の藤山藤兵衛の
 六代の祖であり、藤山摂津介嫡子で彦左衛門は五代の祖である由

46市木湯田村の稲荷大明神は丹後局の造建の由で、鹿児島の稲荷は市木の
 稲荷を勘請したとの事。 それでは本稲荷は市木稲荷と言う事になるが、この
 稲荷には唐猫があり、片唐猫は鹿児島稲荷にある。 あうんの両唐猫の内うんの
 猫が鹿児島にあると云う。 
 この両方の猫は五色だったが色は取れてしまった。 彼稲荷山の由緒書は
 稲荷社人の塚田某が焼失し、今では由緒書は無い。 
 串良樋脇の内やその他市木にも稲荷社領があったが、今では市木に少し
 計り社領地があると言う。

47丹後局は市木で死去したと言う。 局の墓及び八文字屋民部大輔広言の
 墓は市木大黒村らいこう寺にある。 広言の墓は今でも分っているが、局に
 付添った人々の墓だろうか、多数あるが古くて字は分らず局の墓も分らない。
註1.丹後局は島津家祖忠久の母とする説が一般的だが、惟宗広言の妻は
 丹後局。 但忠久は頼朝落胤説もあり、広言の養子と言う説が有力。
 惟宗(八文字民部大輔)広言は平安時代後期の官人

48市木大日寺の「おすうほう」は近頃では大日阿弥陀と云っている。 正体は
 阿弥陀ではあるが丹後局の肝いりでこの所に造立したとの事。
 言伝えでは丹後局の水夫が局に、松の縁に夜々光る物があり不思議ですと
 報告したので局が見ると其通りであったので其場所に造立したと言う。
 
49琉球王は忠国公の時から島津家に随って来たが、謝那と云う者が鹿児島
 に来て内偵をして密かに一人で小船に乗って帰った。 以後服従を止めて
 那覇の湊に城を構へ、湊口に隠れた鉄の鎖を張り、鎖に船が掛れば城の
 上から見下ろして射る様な用意をして待構えていると云う情報があった。 
 そこで家久公は家康公の許可を得て慶長十四年(1609)数船で出軍する事
 なり、大将に樺山権左衛門、副将に平田太郎左衛門が任ぜられ諸軍勢が
 乗船準備した。 

 その時新納拙斎老が酒樽と肴を持込み壮行会を催し、外にも酒を送った人が
 多かった。 諸軍勢が揃っている時、権左衛門が挨拶をしたので拙斎老は、
 此の度琉球征伐の大将に任ぜられて渡海される事は家久公の名代です、 
 早く大将の座に移りなさいと云うので異論なく上座に移った。
 権左衛門が大将である事を諸軍勢は不満で侮る空気があったが、拙斎老の
 言葉を聞くと皆納得した。 

 ぞの後乗船して山川湊から順風に帆を揚げ、大島に着船した。 この島は
 広いところだが問題なく攻め取り、鬼界ケ島も手に入れ徳之島に着船した。
 徳之島の者達は防戦したので鉄砲を打掛けると、棒の先から火が出て人を
 殺すと言い逃げ去った。 手向かいする者は討取り、構えた所は踏つぶして
 沖之永良部と与論島も攻め取った。 運天の湊に着船すると諸勢を揃えて
 この所を抑え、伊野波名護請谷山の城を攻落とし北谷へ向かい、王の居城
 である首里城に取懸かる。 琉球の諸勢は首里から一里程離れた那覇の
 湊口の城に全員が立て籠もっているので、首里城には防戦する者も無く
 簡単に落城し王は降参した。 那覇の城では矢尻を揃へて待構えていたが
 薩摩の船は見えず後ろから押寄せられ、しかも王城が落城しているので
 一戦も交える事なく落城した。 

 完全に琉球を手に入れたので直ちに早船で鹿児島へ報告した。 其年は
 順風が遅れたので諸軍勢は首里と那覇滞留し、翌年尚寧王を連れ鹿児島へ
 帰陣した。 
 それから家久公は尚寧王を連れて上洛したが、家康公は異国を手に入れた
 事を大変喜び、家久公は褒美として太刀及び琉球国を拝領した。 又尚寧も
 色々拝領して帰国した。 尚寧王の鹿児島の仮屋前に池と梅の木があったが、
 王はそれを大変愛したとの事で、今でも王の池、王の梅と云う。
註1.薩摩の琉球侵攻は慶長14(1609)、尚寧王が大御所家康、将軍秀忠に
 面会したのは慶長15(1610)。 原文は上洛となっているが、この頃は既に
 政治の中心は京都ではなく、江戸(将軍)と駿府(大御所)に移っている。
註2.樺山権左衛門久高(1560-1634)家老、出水地頭 この時は49歳
 拙斎は新納武蔵守忠元の隠居名で、この時は80歳位 

50島津中務大輔家久は天正十五年六月五日(1587)四十一歳で死去、
 法名梅天長策大禅伯。 其子中務大輔豊久は慶長五年九月十五日(1600)
 三十一歳で死去、 法名天真昌運居士。 其子中務忠栄、其養子安芸久雄
 それより中務久輝、中務久貫、当主殿迄七代である。 豊久の弟である源七郎
 の娘が忠栄の妻である。 諸右衛門、樺山家養子九右衛門東郷家養子後
 変更して清左衛門、此子源五左衛門は相良内蔵丞養子源五左衛門の弟
 源四郎は本城と号する。 清左衛門弟市左衛門は東郷家養子で今の
 惣左衛門祖父である。
 中務大輔家久は天正六年十二月日(1578)日向国佐土原に居住した。
註1.中務家久は島津義久、義弘、歳久の末弟。 豊久は関ヶ原撤退時
 戦死

51天正十四年(1586)から義久公を九州太守と云った。
註1.日向の伊東氏を1572木崎原、豊後の大友氏を1578耳川、1584年に肥前の
  竜造寺氏を沖田畷で破り、1586年には豊後に侵攻した。 その後関白秀吉の
  九州征伐で1587年に破れるが一時期九州全土を席捲した。

52細川幽斎の検地
 ○向之島は細川幽斎老の飛地との事である。 大姶良は昔は阿比良と
  云った由
 ○当国は細川幽斎老等が派遣され検地をした時、大名は高の数字が多い
  方が良いとの事で、野も山も検地の竿を打込んだと云う。 これは考えが
  有っての事と云う。 他国の場合公表の高は実際の高より広いとの事。 
  当国は高の数字は地面の広さに対応している由。

53示現流達人墓誌
 ○寛永廿一年五月廿七日 能学俊芸庵主 東郷肥前守*1644 東郷重位
 ○寛永十六年         徳室龍隠居士 本田伊賀守*1639 本田親純
 ○万治二年己亥八月七日 雄山州英庵主 東郷肥前 *1659 重位子重利
 ○延宝六年戊午七月三日 了山龍心庵主 東郷善助 *1678 東郷重利弟
 ○宝永三年四月十四日   即安活心大居士 東郷与助 1706 重位弟子

54大隅国帖佐の郷の住吉の惣宮、町田越中入道は兵道家である。 そこで
 天正二年六月廿九日(1574)夕方六時に伊東家の戦死した人々三拾騎計り、
 伊東加賀守と同新三郎が大将として名乗り、時間も過ぎず彼の家に切込んで
 きた。 家内の男女は驚いて方々へ逃げ散ったが、此幽霊の形は膝よりも
 上だけが見えた由。
註1伊東家の加賀守、新三郎を大将として島津方飯野城を攻めたが、元亀
 三年五月四日(1572)、島津軍に木崎原で大敗した。
註2.兵道家 武士の山伏で薩摩大隅特有の職業、呪術を行う事で知られる。
 解読が難しいが、何故この兵道家の家に幽霊が現れたのか良く分らない。
 
55今の西彦太郎家は小西摂津守行長の一族で、小を除き西と名乗った由
註1.小西摂津守行長は関ヶ原西軍方武将で石田三成等と共に斬首となる。

56宇山無辺之助は踊の住人で甲州へ行き、武田家に仕えたが其後当国へ
 帰って来たと言う。 詳細は別巻に記したので此処では略す。
 甲州に滞在して同国の軍法(戦のやり方)を習得して、此方でも無辺助に
 習った人もあると言う。 しかし当国は当国の軍法で済むので彼の軍法は
 必要ないとの事。

57光久公の舎弟兵庫頭忠朗の母は鎌田播磨政重の娘との事。

58島津又五郎久胤の内室jは先山八右衛門の娘の腹に出来た家久公の
 娘との事。
註1.島津久胤は宮之城家第五代、図書頭

59島津義虎の二男、次郎三郎忠隣は左衛門督歳久の養子になったが、
 秀吉公が九州平定を進めた時、日向の国根白坂で羽柴美濃守秀長先手の
 宮部善祥坊との戦いで戦死した。天正十五年四月十七日(1587)の事である。
 法名桂山昌久大禅定門。
 此善祥坊は勇将だったそうで今でも子供達が口ずさんで、ぜんしょうぼうが
 どうしたと等と言う。 これは善祥坊が色々と謀を得意としたので、その時より
 始ったとの事。
 尚忠隣の子又吉は後に下総守常久と云い歳久の跡継ぎとなった。
註1.宮部継潤(1528-1599)通称 善祥坊、浅井家臣から秀吉家臣になり
 多くの戦役で活躍している。 秀吉重臣
註2.左衛門歳久は義弘弟、日置家の祖、 島津義虎は歳久の父貴久と
 争った薩州家実久の嫡男

  旧伝集五終