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       薩州旧伝記人   旧伝集六

目次                   翻刻ぺーじへ
601介錯人の気持              P2
602新納忠元の筆跡
603町田出羽の鑓              P3
604新納忠元の矢文
605大隅国青葉の笛竹
606雪に埋もれた連絡役
607貴久公と矢上一族           P4
608義弘公への刺客
609鎌田家由緒               P5
610浮田家重臣明石掃部の子
611埋められた金作り脇差         P6 
612光久公狂詩玉門に題す
613綱貴公と河野道意
614綱久公と魚の骨             P7
615綱貴公と鎌田後藤兵衛
616薩摩の切支丹阻止
617水戸光圀卿と鎌田後藤兵衛      P8
618「こつ」と言う寄合             P9
619中務家久の武者修行
620新納忠元、太平記に奮起
621泰平に中馬大蔵退屈          P10
622関ヶ原陣の後処理
623諸国産物あれこれ            P11
624勝久公娘の孫娘             P12
625三原左衛門の眼力
626文之和尚の学力             P13
627龍雲、琉球攻め軍師
628殿様の示現流               P14
629琉球と弁才天               P15/P16
630阿蘇玄与とその系譜
631頴娃の開聞山伝説            P17
632享保元(1716)霧島噴火被害
633亀山三郎兵衛長歌            P18
634左衛門督歳久の鎮魂
635志岐氏の事                 P19
636狐に騙された和尚
637女中安良の鎮魂              P20
638中馬大蔵庭石を置き直す         P21
639朝鮮出陣を遠矢で元気つける
640伊勢兵部の細工依頼
641関ヶ原退路案内人は明王化身     P22
642北郷屋敷の場所
643伊集院家六代の興廃
644伊勢兵部、有職故実伝授        P23/P24
645福昌寺大仙和尚の祟りか
646楠元長作の鳥刺し
647大山三次の僥倖              P25


01大口の士寺原早助とは同地小苗代原供養塚で供養されているが、家久公
 を追い切腹した者である。 その時同所の士黒木三右衛門は暇乞の為そこへ
 来ていたが介錯と同時に良く成されたと大声で声をかけた。 この時介錯を
 した人が後に三右衛門を訪ね、先般早助の介錯の時は言葉を掛けて戴き
 大変ありがたい事でした、如何だったかと心配したのですが御言葉で安心
 しましたと礼を述べたと言う。 この場所は大口の麓から半道計もあるとの事。
註1.鹿児島藩初代藩主家久に殉死したもの9名、第四集十五話に記す

02新納刑部大輔忠元が大口下の城に居城の時、敵対する相良頼房やその
 同盟者との合戦がしばしばあった。 ある時忠元が出陣した時、大口白坂の
 小苗代薬師に参詣して堂に落書をしていた。 その時敵が攻めて来たので
 部下が忠元に報告したが、彼は堂の桟に上り心静かに落書きに熱中していた。
 止むを得ず忠元を引きずりおろして敵と合戦した。 その時八代の住人である
 的場五藤と云う者と忠元自身は鑓を合わせて薬師堂二王門の六地蔵の下で
 五藤を討取ったと云う。 この時の忠元の落書は引下ろされた時の筆跡が
 かすれていた。 其後堂の補修の時、この字のある板を同所永福寺に移した
 が永福寺が火事に遭い焼けてしまったと言う。

03大口下の城は町田出羽守が配置されていたが、その後新納忠元に替わった。
 出羽守は伊集院の石谷へ配置替となったが出羽の墓は大口永福寺が菩提所
 だったのでそこに有る。 又出羽守の鑓が今も永福寺にあるが、是は出羽守が
 まだ下の城にいた時大口の士達と争い、有田源四郎と云う者と鑓を合せて出羽
 が突殺した鑓と伝えられている。 
 その後永福寺と云う寺を石谷に建立した様で今でもある。
註1大口の永福寺は焼けて石谷に永福寺と号する寺を後に建立したのか。

04新納武蔵忠元が大口に居住中に合戦が度々あった。 さき陣と称する砦を
 築き、相良頼房の加勢が陣を構へて争った。 そこで武蔵は
     無用かな 人の弓矢に よりふさの 首をごふきに
     さからして見ん
 と一首書付けて矢文にして頼房の陣へ射込んだ。 それ以後頼房による
 大口侵入は無くなったと伝えられ。
註1.大口城は元来菱刈家の支配する地域であり、球磨の相良家と組み、
 島津家に対抗していた。 数度の合戦をへて1569年新納忠元が地頭に
 任命されている(薩隅日城の由緒)
註2、相良頼房(1544-1587)肥後南部領主、足利将軍から義を貰い義陽
 と改名

05大隅国清水の青葉山台明寺は天台宗で尊円親王孫の僧正の開基だが、
 格の高い勅願所であり、綸旨も百余通有ると云う。 この山は全て竹山で、
 此竹は笛竹に勝れている。 それ故百余通の綸旨も過半は笛竹の用命では
 ないだろうか。
 この辺の武士も昔(平安時代)役人として勤めた人々の子孫で、家に笛竹
 御用の綸旨があるかも知れない。 平敦盛が持っていた青葉の笛も此山から
 切り出したものである。 世間で台明竹と云うのは此山の竹の末との事。
註1.尊円法親王(1298-1356)伏見天皇第六皇子、青蓮院17世、
 1331年天台宗座主
註2.平家物語の悲劇のヒーロー平敦盛(平清盛甥で熊谷次郎直実に
 討たれた)の青葉の笛は天皇から賜ったものと云われている。

06光久公逝去の時、大口から出水へ殿様死去を知らせる為、淵辺の稲助と云う
 者が遣わされた。 ところが途中雪に降込められ、出水と大口の間の高鼻越で
 七日間堪えていた。 出水から大口に飛脚で来た者が雪の中に穴があり、
 人の衣類が見えたので不審に思い掘り起こしたところ稲助だった。
 養生していたが足の指は切れてしまった。 その後稲助が語ったのは、毎日
 山伏が一人来て食べ物を呉れたとの事である。 何か信仰しているかと
 尋ねられたので霧島を信仰していると答えると食事は呉れたが祈祷はなかった
 との事である。
 この時の雪は七八尺積った。 稲助は島津中務家来の宮原元孝と云う医者
 が治療した。

07島津八郎左衛門実久は我子義虎を勝久公の養子にしてもらおうと日々
 願ったが叶わず、貴久公が勝久公の養子になり鹿児島に移った。 
 実久は勝久公に色々讒言をして貴久公を討とうとしたので、貴久公は北野の
 苗田清左衛門の館に忍んで隠れていた。 館の後ろの山中の野の宮に隠れて
 いた時、実久の兵が馳せつけて探しまわった。 彼宮を探そうとした時、この宮
 より山鳩が二羽社頭の軒より飛出し、又社頭の下から狐が弐疋駆け出たので、
 追手の者達は此の中に人は居ないだろうと捨て置いた。 
 清左衛門は矢上氏の嫡流であり、数代彼地に住居したと言う。

08忠平公が飯野に在城した時、上江死苦村の藤崎丹波の所へ乞食が一人
 やって来たので食べ物を与えた。 ところがその者の様子を良く見ると只者
 とは見えない。 そこで丹波は家に入れ、哀れな事だ酒でも飲めと、娘に
 酌をさせて数盃飲ませると彼は酔い伏した。 夜になり刺し殺して懐を探ると
 一通の書付があった。
 その文の趣旨は、忠平を討とうと数年謀ったが成功しない、ところが其方が
 忠平が飯野より加久藤へ通う道中で姿を変えて討とうとする事は感心である。 
 忠平を討取ったら、彼の地を奪い取り其方に与えようと云う伊東義佑入道の
 お墨付であり、彼は伊東家で名のある家老との事である。
 
 これにより丹波は此書付を忠平公に差上げ委しく報告した。 忠平公は
 泪を流し、此の様に姿を変えて迄敵国に忍入り命を落とすとは誠に
 得がたい忠臣であると云った。 又丹波には褒美があったと云う。
註1.真幸院(現えびの、小林市)は中世以降北原氏が200年程支配したが、
 一向宗の流行と内訌で弱体化し、薩摩の島津、日向の伊東、球磨の相良の
 狙う所となり、薩摩の太守義久は弟義弘(忠平)を飯野城に送り込み、直接
 支配を目論む。 西部(現えびの)は島津、東部(現小林)は伊東家の支配と
 なり睨みあう。 数度の合戦があり1572年木崎原陣で島津方の勝利となる。

09鎌田加賀守政貞は初めは治部左衛門と名乗った。 ある時貴久公が病気
 になったので、日本国中を修行して六十六部の大乗妙典を各大社に寄進
 して快気を祈った。 やがて貴久公は快癒した由。
 
 政貞は常に椋花を植えて毎朝愛でて楽しんだ。 ある時椋花の傍に立って
 歌を一首
  姿おば 余所に見ずとも 植置し 我には見えよ ○花の顔 *○椋か?
 と詠んだところ、何処から来たのか容顔麗しい女性が木の下に佇み微笑んで
 一首
  色かへて 咲まされ共 はかなきは たゝ秋毎に 露の朝顔
 と返歌したと云う。 
 不思議な事だが此処に記す。 政貞は鎌田与兵衛政清の子孫で、忠久公
 が初めて当国に下向した時、 頼朝公が本田を後見として酒匂猿渡を長臣、
 鎌田を補佐として万善を先頭に百廿騎従えて下って来たと言う。 その後
 鎌田家は政貞迄で九代との事。

10土持大右衛門宅へ大坂落城以後鹿児島上町呉服屋の手代が夜々しげく
 咄に来た。 その頃切支丹宗門は厳しい禁制下だったが、この手代は切支丹
 宗門である事が知れて、藩主の命で捕縛して京都へ送られる事になった。
 その時大右衛門は暇乞いに行くと彼手代は大右衛門に是迄色々御世話に
 成ったと礼を言ったので、大右衛門も叮嚀に返答した。
 この手代はどの様な者かと疑問に思っていたが、明石掃部の子の明石左近と
 云う者で秀頼の家来だった。大坂落城の後、当国に忍んでいたが大右衛門は
 その前からの知人だったので、夜々咄に来たものの由。
 此人物は大変利発な素質が見えて、幕府からもしばしば調査があり只者では
 ないと、それ以後藩に採用されたと云う説もある。
註1.明石掃部全登は豊臣政権の五大老の一人浮田秀家の重臣、関ヶ原陣で
 主家没落後も浪人して秀頼に抱えられた。 1614、15の大坂冬夏陣で活躍
 するが討取られたと云う証拠もない様である。

11日向国曽於郡の士である馬場六郎右衛門の子、馬場休左衛門は十五歳
 の時、元禄七年正月廿七日大雪の中、山に入り木を取て帰ろうとしたが、
 大山に入れず、帯田山と言う小山に入った。 凍える手で崖の葛の根を
 掴み上に上がろうと引いたところ、葛の根の土の中に光るものが見えた。
 何だろうと思い取り出して見ると金作りの脇差である。
 鞘は全て金で長さ壱尺弐寸、柄は赤銅に金を被せて三口巻鮫は金で打ち、
 鍔は金を被せ、廻りに浪と水の彫り物がある。 幅木は全て金で彫り物が
 ある。 柄頭も総金で目貫も総金松の彫り物、貝口も金である。 刀は九寸
 五分で朽ちて銘は分らない。 
 是を家に持帰って地頭の市木次郎左衛門へ報告して披露したと言う。

12光久公の狂詩、玉門に題す
  両脚山頭有小池  東西南北草茫々
  無風平地白浪発  盲目紫龍出入時   
註1漢詩の七言絶句の形をとる。 解釈は憚る

13綱貴公が江戸への道中で赤坂の宿に泊った時、夜中で人々が静まった頃
 障子に人影が映った。 河野道意が外に出て見ると大きな男がおり人相も
 悪く則討果し、庭に埋めて何事も無かった様にした。
 綱貴公はたいへんこれを誉め、江戸へ着くと道意に五百石を下された。
 これについて家老衆は何故こんな高い知行を下されるのかと尋ねると
 綱貴公は、自分としては千石位呉れたいと思うのだと、理由不明で下された。
 これは恐らく赤坂宿での行動に対してだろうか、その後道中の道具として
 鍬が加えられたと言う説もある。
註1.宿場は幕府の管轄であり、幾ら正統な理由があっても人を切れば取調べ
 があり足止めで日数を取られる。 そのために証拠隠滅したものと思われ、
 又死体を埋める穴を掘る道具(鍬)がなく苦労したものか。
註2.河野道意は名前から見ると側用人の茶坊主か。

14ある時綱久公が江戸滞在中、魚の骨が咽に刺さり色々治療試みたが取れる
 気配がない。 人の爪を弐匁程煎じて呑めば、どんな骨も抜けると云う話
 を聞き、詰めていた諸士の爪を切らせて煎じて呑んだところ即座に抜けた。
 これは何処から来たも分らぬ托鉢の僧が語ったとの事である。 不思議な
 事である。 尚爪を呑んだ副作用は無かったと言う。

15綱貴公が江戸への道中で、ある時宿の人々が静まった頃、居間の襖を
 引開けて大きな山伏が入ってくるのが長押障子の透間から見えた。 この時
 側用人の鎌田五藤兵衛が居間に居たが起き上がり、切るまでもないので
 組付いて倒したが、綱貴公は既に刀を取り切殺した。
 それから後藤兵衛はこの死骸を皮籠に入れて荷物の様にし、灯を打消して
 火鉢に火が有るのをけり出して水を持って来い、と云うと桶に水を入れて
 来たので座敷の血を洗い流して全て完了した。 
 それから例の死骸は荷物の様にして旅を続け途中の川に流した。
 これ以後襖などは人が入らぬ様に締め切ったとの事
註1.12話と同じ様な咄だが何かうそ臭い。 血の付いた畳を短時間に水で
 洗うなどして跡が残らないとは思えない。

16龍伯公の時代に薩摩国山川に中鮫島円成坊と云う山伏がいた。 
 此頃は南蛮人が多く来て、山川から喜入辺迄の浜辺の葦原で使わない土地
 幅一町長さ三里程を借地出来れば礼銀として弐百貫目進上致しますと云う。
 この時の弐百貫目は今の三千貫目以上の価値があり、皆請け入れようと云う
 意見だったが、島津図書は、是は突然の幸いで予定外の利益である、予定外
 の事は予定外の禍が有ると云うではないか、と云って請入れなかった。
 
 そんな中、日本国中に彼宗旨が広がり、不思議な事も多く実にありがたい
 宗門と評判が立った。 当国でも布教を許すかどうか評議があり、善悪を確認
 する為、 龍伯公の特命により前述円成坊が他国に行き、切支丹バテレン
 などと言う宗旨の弟子になり、多額の金銀を払って学び三年の間に宗門
 の極意を残す所なく伝授して帰国した。 
 龍伯公の前で極意の伝授を全て報告し、七へりと云われる術として座敷を
 忽ち野原や松山としたり、地獄、極楽の様子、或いは壇上に生首を落とし、
 空から花を降らせたり音楽を流すなどの事を行い、是は邪術であり彼是の
 薬を混ぜて香に焼いたり燈したりして人をたぶらかすものである事を報告し、
 この宗門の書物を焼き捨て本尊を踏み砕いた。
 
 それ以後薩摩では禁制となったが、暫くして天下(豊臣政府)からも日本
 国中全て厳禁との通達が出された。 その後切支丹の宗門帳に薩摩の
 山伏円成坊と云う者が切支丹の真加路という達人であるとの事で幕府の
 問合せがあったが、既に龍伯公も逝去、其時の関係者も大方亡くなって
 いた。 しかし公の近習を勤めていた八十余歳の人が事の次第を報告し
 これにより長崎へも連絡あり切支丹帳面から円成坊の名も消えた。
 円成坊の子は円清坊と云い、これも有名な山伏でその孫に鮫島弥兵衛
 と言う人もいたが、今の子孫は誰だろうか。

17綱貴公の時代、鎌田後藤兵衛が水戸黄門光圀卿へ使者として派遣
 された。 光圀卿と対面して御前で素麺を下さった。 後藤兵衛に、からしは
 必要かなと有ったので、下さいと云うと給仕の小姓が持ってきた。 
 自国のからしの様に多く入れて食べたところ、たいへん辛くむせて吹き
 散らした。 給仕の小姓達は笑ったが、後藤兵衛は十杯余り食べた。
 帰った後で光圀卿は、大隅殿はあの様な者を別には持っていないだろう、
 私の面前でむせても少しも構わず数杯食べるとは大胆で器量ある者だ
 と誉めたと言う。
註1.島津綱貴、第三代薩摩藩主、薩摩守、 第二代藩主光久(綱貴祖父)
 は大隅守を称した。

18世間で「こつ」と云い、色々食物をを持ち寄る事がある。 これは今の
 薬丸長左衛門居宅の道奥、川の端に以前伊集院某と云う人が居た。
 ある時この家に若い衆が大勢集まり鶴を煮て食べたが、その時骨にかぶり
 ついて食べたので「ほね」と言う様になったとの事。 武元喜老が若い時
 の事で彼もその仲間だった由。

19島津中務大輔家久は十六歳の時十六人連れで諸国武者修行に旅行
 したと言う。
註1.中務家久は義久、義弘、歳久兄弟の末弟

20新納武蔵守忠元は若い頃太平記を読んだが、島津四郎が降参する下り
 を見て全身に汗を流して悔しく思った。 それ以来武道を学んだと言う。
 島津四郎と太平記に記述されているのは七人島津の中の新納四郎左衛門
 の事である。 しかし肥後の国の住人曽我四郎と云う説もあると高野山の
 毛利本等には見られると云う。 太平記が編纂された頃は諸国の人々が
 色々あれこれ書き載せられた家もあるという。
 島津家も色々戦いに参加したと思われるが知られていない。特にないので
 やむを得ず載せたと云う説もある。

 東鑑は頼朝公以来代々の日記であり正史と思われるが、それでさえ後に
 編集したものであり欠落した事も多いと云う説もある。 忠久公が頼朝公の
 子であると云う事は載っていない。 
 丹後局を頼朝公が寵愛した事は確かな様であり、頼朝公より畠山重忠
 への書状にある三郎と言うのは忠久公の事で我子三郎となっている由。
註1.太平記では新田義貞軍が鎌倉を攻めた時、敗色明らかの北条方から
 武士が単騎新田軍に向かったので敵味方感心していたが、新田軍の前
 に着くと馬を下りて降参したので皆唖然とした。 この武士が島津四郎。
註2.我子三郎が島津家祖、忠久の頼朝落胤説が出る根拠か。

21中馬大蔵は出水の物頭であり、惟新公へ時々面会して咄をしていた。
 ある時出水から加治木の惟新公を訪問した。 近習衆が惟新公へ、
 中馬大蔵が参上した事を伝えたが、公は何か取乱しており聞き流して
 ああ大蔵との事である。 いや中馬大蔵が参上しましたと言うと、あゝ大蔵
 それ呼べとの事でたいへん慌てた様子で急いで片付けをして大蔵に面会
 して色々咄をした。 咄に没頭し互いに膝組、歳は取ったが未だ腕の肉は
 細らないぞ、見よと腕をまくりをした。 大蔵も、私も未だ負けはしませんと
 腕を出すと、腕押しをしようと腕押、すね押が始った。 脇から見ていると
 おかしいので小姓達は笑った。 初めは耳に入らなかった様だが度々
 笑うので耳に入り、御機嫌斜めとなり小姓達に何がおかしいかと叱ったので
 小姓達は皆引っ込んだ。
 
 大蔵は下がって云った事は、さて私も不覚でした、朝鮮在陣の頃を思い出し
 心ならずも麁相にお話しました。 お小姓達が笑うのも当然で私の誤りです。
 お小姓達を赦してあげて下さいと云い小姓達も赦された。
 大蔵が云うには、最近は戦もなく、物頭の仕事だけで腹が減ってどうにも
 なりません。 加藤(清正)などが頭をだせば潰してやろうと弓を張り準備して
 いるのですが、私を恐れてか出て来ませんと、たいへん強気な咄だった。
 脇よりも、そうだろうなと言う事だった。
註1.出水は肥後への備えの地であり、剛強の中馬大蔵が配置されていた。
 関ヶ原の戦いも終り、武将達にとっては泰平の日々が物足りないか。

22関ヶ原合戦後、西軍に組みした惟新公が帰郷したので、皆今後どうなるか
 と思っていたが内府公(家康)の側から、早々上洛する様にと云って来た。
 色々議論したがなかなか纏まらない中、帖佐に城を構え東軍が攻めて来れば
 籠城して戦う準備も進めていた。
 その後議論も定まり、島津図書頭が先ず上洛する事になった。 伏見に着くと
 町人の宅へ宿を取り、薩摩の使者島津図書が来た事をこの宿の主から本田
 佐渡守へ連絡した。 すると人夫が大勢来て路地を掃除して図書頭の旅宿
 の辺迄終わると皆引揚げた。 これはどんな重要人物の御通りかと思っていると
 間もなく山籠が一つ見えた。 この籠は少ない護衛で図書宿の前に来て、薩摩
 の使者宿はこちらかと言うと、籠の中から本田佐渡守が出て来た。 直に中に
 入ると図書に逢い、御意を得てから暫く立ちます、どうして薩摩殿の上洛は
 遅れたのか、私等は心待ちしておりました。 内府の機嫌はよく薩摩の安堵に
 付いての使者とは目出度い事です、明日登城して下さいと云い佐渡守は去った。

 そこで翌朝佐渡守より登城の事が連絡あり図書頭は登城した。 佐渡守へ面会
 すると佐渡守の案内で、内府公の前の立物控えに控えていた。 内府公からは
 誰にもはっきり聞こえる様に、薩摩から使者を派遣した事は評価する。 何の
 特別な事はないので早々上洛する様に、又納得する為にも誓紙を渡す様にと
 佐渡守へ指示があった。
 これにより佐渡守から図書頭へその旨通知あり、誓紙は直ちに図書家来
 図師太兵衛に早々先に持たせたと言う。 
 其後鎌田出雲守も参上して内府公から短刀と羽織が与えれた。 出雲守も
 色々働き高三千石が与えられた。 それから家久公も上洛した。
註1.関ヶ原陣後の薩摩と家康幕下との交渉は慶長六(1600)年十一月に始まり、
 鎌田は同六年正月に伏見に派遣、同七年正月島津図書、同年十二月家久が
 龍伯代理ととして家康に面会となる。 (西藩野史)  
 島津図書守忠長(1551-1610) 家老、宮之城家
 鎌田出雲守政近(1545-1605) 家老、指宿地頭

23西条柿とは安芸国の西条の産物の由で伊予国の西条ではない。 しかし
 献上品は伊予国から安芸に来て買い求めて上納されると言う。
 薩摩の七島鰹節を紀伊国の商人が買上げ、紀伊の鰹ふしとして献上する。
 明名縞と云うのは豊前小倉の織物との事、諸士の妻女等は小倉縞等を家業
 とする。 昔小笠原家が明石を領地とした時、名を得たので今でもその名で
 通しているのか。
 御所柿は京都御所の庭に有るので御所柿と云う由。 皮が薄く味に勝れて
 いる由。 この柿の直接の種を諸方に植て御所柿と云うけれど、皮が厚く味も
 今ひとつ。 伏見や大坂等の柿でさえも皮が厚いとの事。
 八幡牛蒡(ごぼう)はひげが多いが風味に勝れている。 
 北国は寒気が強いので桃の木は有るが実がないと云う。
 琉球国は南方で冬でも雪や霜がなく寒くない。 その為か梅の木は有るが
 花が咲かないとの事。 薩摩からつぼみ梅の鉢植を持って行っても花は
 咲くが実にならないとの事。 琉球では西風が吹く時は寒くて薩摩と同じだが
 通常の冬は給子又は帷子で過せる由。
註1小笠原家(譜代大名)は1617-1632まで明石藩主、以後幕末迄小倉藩主

24勝久公娘の孫娘が龍伯公へ奉公しており御客様と云われていた由。 
 その後国分の士伊瀬知某の妻として下された。 これにより彼の家には今でも
 思いがけない宝物がある由。 今もこの伊瀬知氏の子孫は国分郷士である。

25家久公の時代、時々城内で能をさせ、諸人にも見物させた。 老若男女が
 来て能見物を楽しんだ。 ある時能が催されるので城門の櫓には門堅めの
 家老である三原左衛門が居た。 そこへ渋帷子を着た者が城門を通るの
 を櫓から見ていたが、あの者は見慣れない者だから入れては成らぬと指示し、
 引き留めて入れなかった。

 それから三年程過ぎて伊勢兵部貞昌が江戸屋敷勤務の時、ある旗本が
 訪ねてきた。 兵部が出迎え挨拶した時その旗本が言うには、三年程前に
 鹿児島の御城で能をさせて諸人に見物を許れた時、私も鹿児島に行き
 合わせたので見物させて戴こうと思い城門を通りました。 その時門櫓に
 三原左衛門が居り、見慣れない者が来たがその者は入れるなと云う事で
 私を入れませんでした。 左衛門は目性の厳しい人ですねと咄があった由。 

26京都明寿院の惶窩先生は渡唐の希望を持って薩摩山川の湊で順風を待つ
 間、この地の正龍寺と云う寺に入り略書を読んでいた。 先生はこの漢文の
 点者は誰かと問うと、当国の国分と言う所の文之和尚の訓点ですと云う答えで
 ある。そこで先生はその書を求めて渡唐は止めた。 
 
 屋久島の本仏寺(日蓮宗)の如弁上人は初め京都本能寺で学んだが、
 その時にこの事を聞いて薩摩は四書新註の点源であると思い、本能寺を
 辞して薩摩に下り文之和尚の門人となった。 数年儒を学んだ人の由。
註1.文之和尚 南浦文之 (1555-1620) 日向国飫肥出身の禅僧で島津家と
 明や琉球との外交文書も作成した。 従来の四書の註を改めた四書新註は
 高く評価されている。

27日向国志布志の大慈寺住持の龍雲和尚は新納氏の一族で、勇気力量は
 人に勝れ、臨済宗の大家である。 京都に上り海流を汲んで達磨の骨を
 得ようとしていた頃、甲州で千僧による武田信玄公の供養に行き、そのまま
 暫く彼国に住み、甲州軍学にも通じた。 甲州崩れで武田勝頼が亡び、その
 妻子が菩提所(恵林寺)で自殺する時、信長の兵が寺に火を掛けて攻めた
 ので、住持は勝頼公の幼息を抱いて火の中に飛込んで焼死した。 その他
 女中僧侶に至る迄一人残らず焼け死んだ。
 龍雲は手頃の柱を引き剥がして大勢の中に駈入り、左右に追廻し追い散らし
 必死で難を遁れた。 そのまま上方に上って開山流に入って法を嗣ぎ、妙心寺
 で紫衣の大和尚となり、当国に下り大慈寺の住持と成った人である。
 
 ところで琉球国は忠国公の時代に大学寺殿を討った褒美として将軍家から
 拝領したもので、年々怠らず当家に進貢してきた。 しかし貴久公の代になると
 諸国に大乱が起こり進貢が途絶えていた。 その後平和になったので
 将軍家に現状を報告し、家康公の了解を得て琉球が昔の様に来貢を促す
 為、龍雲が使者として派遣されたが琉球は従わなかった。 龍雲は彼らの企て
 を察し、その上国王が信じていた浪の上の弁才天は大隅国国分の日秀上人作
 だが是を奪取り、簀板を棚として安置して帰帆し家久公に委しく報告した。

 その結果、平田太郎左衛門、樺山権左衛門を両大将、龍雲和尚を軍師、
 山川の住人である紀某を船主、そして七島郡司を案内とし、其勢都合三千人余
 渡海した。 先ず大島、徳之島、鬼界ケ島、永良部島を攻め従えて大島から
 船を発して夜に琉球運天の長浜に着船した。 那覇の湊には敵の要害があると
 見たからである。 予想通り那覇の湊口には城郭を構えて数千の兵を待機させ、
 海中には乱杭や大縄を張って用心していた。 しかし予想外の島裏口の運天の
 長浜から攻め入り王城に押寄せ一昼夜息付く暇もなく攻め入ったので、終に
 降参した。  琉球王は彼人々に従い薩摩に来航した。

 この琉球攻めに先立ち、奪ってきた弁才天を鹿児島の諏訪大明神の神主
 宇宿某に頼んで神前に安置し、日本国中の大小の神祇及び琉球国の諸神を
 勘請して、七日七夜の神楽を奏して、船中無事、軍卒平安、琉球国降伏の
 神事を催したが果たして思う通りになった。 この此弁才天は諏訪大明神の
 近くに池があるがこの中に小島を築いて安置し、例の簀板も納めて池の王と
 した由。 この事は龍雲和尚の従僕だった助左衛門と云う者が常に語った由。
 この助左衛門は幼少より和尚の草履取で朝鮮にも琉球にも供して長命で
 九十余迄生存した。
註1.龍雲和尚の事は第二集2話にも出ており、秀吉の九州攻めの際に働く
註2.琉球王尚寧は1609年5月鹿児島へ連行、翌年8月家康、秀忠に面会、
 同年末琉球へ帰国

28綱貴公は示現流に熱心だったが、薩摩の江戸屋敷に出入りする旗本の
 小野次郎右衛門と言う人が一刀流の達人であると云う事を聞いた。 
 ある時次郎右衛門が屋敷を訪問すると、流義の達人と聞いたが立合を
 願いたいと申入れた。 次郎右衛門は固く辞退したが、小姓に棒を持って
 来させ、さあと云って一つを次郎右衛門へ投げ渡し、一つは自分で取った。
 次郎右衛門は平然としていたが、公が棒を取って飛び掛るや否や公の
 首元へ次郎右衛門が打込んだので脇差を抜こうとすると、そうはさせぬと是も
 奪取った由。 それ以後綱貴公は弟子になり彼の流儀を熱心に学んだと言う。
註1.小野派一刀流の元祖は忠明(1628没)、二代目忠常(1655没)は何れも
 将軍の指南役であり、綱貴の頃は三代目か四代目と思われる。

29琉球入の時、雨で良く見えない海上波間に荘厳美麗の女性が船に乗って
 来て樺山権左衛門の船に乗移り、我はこの琉球国の守護神弁才天である、
 この度攻めるに当り人民を殺したり国を悩まさぬ様に、我が案内して琉球を
 手に入れさせようと云い終ると座った。 それを見ると木造の弁才天であり、
 船と見えたのは簀の板だった。 権左衛門は是を安置して帰陣の後この事
 を披露し、池の中の島に安置した。 池は今では東坊等の居屋敷になった
 ので、東福城の坂の下に移したと言う。

30阿蘇は肥後の国の人だが島津家に仕えていた。 秀吉公が九州平定に
 動いた時、九州の領主達は大方は秀吉公に従った。 秀吉公から阿蘇へも
 声が掛り、従えば肥後国半分の領地を宛がうとあったが従わなかった。 
 肥後には一子を残し、玄与自身は当国へ来て義久公を頼り高一千石を
 拝領して住居した。 その後玄与の役人を務める高崎仙左衛門と云う者が
 伊集院幸侃の謀反に加担していたが、事が露見し肥後の国に逃れようと
 妻子を先に肥後に行かせた。 自身は故郷である大隅に行き、自分が肥後へ
 遁れれば玄与の身上に影響するので逃げられない事を書付けて故郷で
 自害した。 このため玄与にも疑いが掛り千石の知行は召上げられ、霧島へ
 七年程寺入りが命ぜられた。 その後玄与から七枚の起請文を差上げた由。
 
 玄与から当源右衛門殿迄は六代になり、玄与子主殿、其子新九郎、
 其子女子は国分の士に嫁ぎ、その子新九郎が養子にしたのが主膳兵衛
 との事で当源右衛門の祖父の由。 玄与が肥後に残した一子は阿蘇は
 肥後では生かして置けぬと即刻殺されたと云う。 この阿蘇は阿蘇宮の
 神主や阿蘇が嶽の大宮司など勤めた有力な家柄だったと言う。

31薩摩国頴娃の開聞山は豊玉姫を此山に葬ったと云う事で崇められていた。
 星霜を経て崇める人も無かったが、その後天智天皇が寵愛した内侍が
 讒言により頴娃郡に流された。 此内侍の死去後開聞山に葬り、九ツの
 社を建て神と崇めたと言う。 九社大明神と云うのは一社は内侍で八社は
 内侍の八人の王子を崇めたものとの事。 この王子の子孫は民となり薩摩の
 頴娃・肝付・北原の三家は是であると云う。 この内侍の装束や具足、調度品
 は今でも社内にある宝物との事。
 又内侍が生きている時、天皇は恋しく思い当国に下られたとの事。 その時
 肥後の国で、秋の田の・・の歌を詠まれたと伝えられる。
註1.豊玉姫は神話の世界で登場し海神大綿津見神の娘。 天孫の邇々芸命
 と大山津見神の娘、木花佐久夜姫の間に出来た火遠理命と結婚し、
 鵜茅不合葺命(神武天皇の祖父)を生む。
註2.天智天皇(626-672)、三八代天皇(在位668-672)中大兄皇子として
 大化の改新で有名
註3. 「秋の田の 仮庵(かりほ)の庵(いほ)の苫(とま)をあらみ
 わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ」 は天智天皇歌として百人集に載る

32享保元年九月廿三日(1716)の夜半頃、霧島の西嶽が震動して、噴火で
 焼出し、三里以内の所々を焼き、藩材木用地である鹿倉の梅や樅等残らず
 焼けた。 坊中権現宮、本光坊権現の社、高原神徳院、佐野権現の社迄
 残らず炎上した。 その夜より続いて噴火があった。
 翌年正月十一日迄の間の被害記録。
  一石や砂が降った郷、十二ヶ所
  一焼失家屋六百四軒
  一怪我人三拾壱人
  一死んだ牛馬 四百五疋
  一田畠六千弐百四拾町八反六畝拾九歩
  石高にして総額六万六千百八拾弐石余の損失
註1.霧島西嶽:他の享保噴火記録から新燃岳の事と思われる。

33亀山三郎兵衛が遠島になった時、自宅へ長歌をつづり送ったと云う。
 亀山の岩様にさわくもろ葉草もこゝろにて かわらじと
 契りしなるのひたち帯かけて 思ひの程まさる こひしさ
 と道の遠さと 身のほとを 思ひつゝけて 泪川 身の思ひに
 しつむとも 替り有なよ たとへ色ます花の有とも 云し
 こと葉の末はかわらし 古ハ風に木の葉のちるがごとくに浮
 名はたてと うれしやな せめて君ゆへに立名と思へは むら
 さけの ひともとゆへに あらハれて 今はなかなか むさし野の
 あたりの草まてなつかしや 心ほと心に 物を思ハせて身をくる
 しむる わが身哉 浪のよるよる わりとりねて 其いにしへを
 思ひあわせば 床も泪にうくハかり かへし昨日をけふにおし
 うつし なけき候得と 今おもしらん入相のかね
 此歌を自宅に向けた歌と言うが、三郎兵衛内室がつゝって島に
 送ったと云う説もある。
註1.別本によれば亀山三郎兵衛は14代太守勝久の子孫(娘の家系か)で
 大事にされていたが、家久と折合い悪く島流しになった人とある。

34左衛門督歳久入道晴箕は秀吉公の命に従わず、天正年中に滝ケ水で
 自害した。 此の場所に一棟の禅寺を建立して観世音として崇められて
 済度菩薩となった。 その後吉野村の住民達は病が多いので諏訪の社人
 を頼み祈ったところ新しい託宣があり、此村の鎮守の宮の側に石を割り
 勧請して長年崇めてきた。 やがて神徳が顕れて八十余年後の元禄
 十四年の春より利生済度、国中誰でも此処を訪れた人は必ず利益が
 あったと云う。
註1.済度=菩薩が救済する事  利生=菩薩が利益を人々に与える事

35志岐は肥後国の人で天草の中に四万石程領地する志岐の城主だった
 との事である。 ところが秀吉公が肥後国を小西行長と加藤清正に与えた
 ので志岐は加藤清正預りとなり、その中で朝鮮陣にも参加した。
 加藤家が没落してからも彼土に居たが、島津弾正が肥後へ使者として
 行った時、弾正と親しくなり、志岐は薩摩に行きたいと願うので参上させた。
 
 高千石を下されたいと弾正は云うが、家老同役の三原左衛門は弾正と
 不仲であり、新参者へ今すぐ千石を与えるのは如何とあり実現できなかった。 
 其後大分すぎてから高三百石を下された由。

36薩摩国阿久根に法福庵と言う禅寺があった。 慶長から寛永年間の事だが、
 住持の僧が百丈野狐の話を会得して邪崇(じゃすい)の患者に祈祷すると
 治らぬと云う事はなかった。 次第に評判が立ち村中は勿論、近郷、他郡まで
 邪崇の病があれば皆頼ったが、一人として治らぬ者はなかった。 これに依り
 有験(うげん)の高僧、達徳の和尚であると諸人の尊敬を集めた。
 
 そんな或る日、和尚が朝の勤めを終えて客殿へ出て見ると、狐が来て庭前の
 蓮池で水浴びをした後堤の上に人の様に立っている。 それから水鏡を
 見ながら忽ち男に化けて玄関に来て、たのもうと呼ぶ。 小僧が出て聞くと
 土地の諸役人衆が言うには、今日は皆暇で退屈しているので、風呂を焚いて
 軽い料理を戴けないかとの事。 和尚はそれを聞き、云われる通り風呂を
 焚かせ、料理なども差上げましょうと返事をした。 
 和尚は、これは狐共が来て馳走に有りつこうとしているに違いないと思い、
 風呂をたかせて置いた。

 例の狐が又麓へ下りて来て小僧に化けて住持住持斯く斯くと云い、お連立ち
 お出で下さいと云うと役人衆大勢連立ってやって来た。 和尚は狐と思って
 いるので風呂に入れたら、強く焚けと云付けて置き、皆が風呂に入ったら
 戸口を閉めて強く焚いた。 熱いと云ったが和尚は指示して、それゆで殺せ、
 物を言わすなと言う声に驚き、皆が風呂から飛び出して戸を押し破って外に
 出て刀を取って寺中の者を追い散らした。 直ちに詮議があり、和尚は追放
 寺は没落し断絶した。
註1.邪崇(じゃすい)今で言う精神病の一種で”もの憑き”或いは”狐憑き”

37昔大隅国横川の地頭、横川某の家にやすらと言う下女が居た。 この父母は
 近郷の裕福な村人だったが、子供が出来ない事を悲しみ、日向国霧島に
 行き祈ると間もなく懐妊して一人の女の子を産んだ。 直ぐに安良姫と名付け、
 霧島山の本体である十一面観音を刻んで朝夕拝んでいた。 ところが両親が
 死去すると安良の家は日々貧しくなったの横川某へ奉公する事になった。

 12月の末、主人が初春に着る狩衣を洗う様に安良に言いつけたので安良
 は狩衣を携えて前にある大川に行き洗っていた。 折しも白鷺が一羽川の
 上を飛舞っているのを眺めていると、その隙に狩衣を流してしまい片袖を
 失った。 安良は悲しんだが仕方なく主人にその旨を語ると主人は大変怒って
 座敷に押込めて責めた。 それども横川某は収まらず、門松の姫小松に安良を
 縛りつけ、乞食穢多の頭に言いつけ炭火による火責めにした。 三日三晩
 責めて見ると人ではなく十一面観音の尊像ではないか。 主人は大いに
 驚くが安良は本の座敷に居た。 この事で安良を赦免した。

 安良は事の次第を聞いて、自分の罪に対し是ほど迄に仏に救って戴いた事
 はありがたいが、この侭浮世に永らえて苦しむよりは、と思いこの地の深山に
 登り断食して餓死してしまった。
 彼女が祟ったか横川氏の家は皆断絶して跡形も無くなったとか。 又死霊は
 猶も此の地の人を悩ましたので、その後の地頭北原は事の経緯を委しく聞き
 彼深山の麓に一社を造営し安良大明神として崇めた。 本尊は十一面観世音
 で彼山は安良嶽と名付け、今でも季節の祭礼を行い此郷の鎮守であると云う。
 これにより此郷では癩病を煩う者はなく、正月に門松を立てず、炭火は使わず、
 白鷺が来る事もない。 白鷺が来た時は神楽を奏し祈ると云う。 
 不思議な咄だが此処に書付ける。

38ある時出水に住む中馬大蔵は加治木へ惟新公の御機嫌伺に参上した。
 調度その時庭普請と見え、人足が大勢集まり大きな石を据えたが、据え方が
 気に入らない。 そこで大蔵が、私が据え直しましょうと云って、下に敷いてある
 木等も押して問題なく直した。 これを見て御機嫌宜しかったとの事。
註1.中馬大蔵は大力だった様で三集21話にも逸話がある

39島津守右衛門尉彰久の家来は垂水から朝鮮陣に出発する時、 垂水と
 牛根の境にある「をせの上せ」と云う坂がある。 「ヲゼ越え」とも云う所迄来ると、
 もう垂水を見るのも最後だと、人々の様子が替る様である。 その時川上
 六郎兵衛忠実と言う垂水の家老は人々の気を引立てようと、この坂を登りきると
 広い野原にでるが、そこで遠矢を射始め誰もが射ながら行く。 此原は
 「をせの原」と云う由。 又「をせの坂」はさつくわ平とも云う。
註1.島津彰久は垂水家の祖、朝鮮陣の最中、文禄4年巨済島で病死。

40伊勢兵部貞昌が江戸へ行く途中、京都伏見で文殊四郎包光の所へ立寄り、
 包光に金細工を頼み、そへごを打って呉れと云った。 包光は心得ました
 とは云ったが、貞昌が色々話しかけていたが急に行ってしまったので、そへご
 とは何か分らない。 色々考えたが分らないので薩摩屋敷に行き貞昌に
 面会して尋ねた。 貞昌は、未だ分らないのか、古歌に
    ひなづかの 脇にそへごを 引連れて なミ間なミ間を けづる小刀
 と教えると納得して帰り、小刀を打って進上した。

 その後文殊四郎は京都の公家衆が細工を頼む時この咄をしたが、彼公家も
 直ぐには思いつかないと云い書物を調べると古今集にあったと云う。
 これに依り、流石大国の家老を務める程の事はあるとたいへん感心した由。

41惟新公が関ヶ原から退去する時、醍醐越に一人の老人が出て案内した由、
 実はこの老人は醍醐の大元明王であり、此明王堂は理性院の近辺にあり
 この寺から支配していると言う。 理性院は公家衆からも崇められており、
 一年に一度は殿様へ御守礼を差上げている。 不思議な事だがここに書付る。
註1、理性院(りしょういん) 真言宗醍醐派、本尊 大元明王

42今の北郷作左衛門の居屋敷は先祖佐渡守の代に家久公の指示で御城
 守護のため、近くに住まわせられたとの事で代々住んでいる。

43伊集院大和守忠倉は義久公に、倅の右衛門大夫は重い役には就けないで
 下さいと言っていた由。 ところが家老に就けられたが果たして悪謀を企む
 事になった。 伊集院家六代は、弾正少弼頼久の四男大和守信久を初代
 とし、二代大和守忠公、三代大和守忠朗、四代忠倉である。 忠朗と忠倉は
 家老役を勤めて並び無き忠臣だったが、五代右衛門大夫忠棟に至って謀反
 を起し、その子源次郎忠真迄六代に至て嫡家は断絶した。 忠棟は始め
 源太忠金と称した由。

44伊勢兵部貞昌は有職故実を旗本の伊勢因幡守から伝授されていた。
 将軍家光公が京都へ参内するに当り、有職故実について聞こうとしたが、
 因幡守の病気が重く、又子息は幼少だった。 そこで因幡守は薩摩の伊勢
 兵部と云う者へ伝授して置きましたので、彼者へお尋ね下さいと申上げた。
 それ以来貞昌が御前へ呼ばれ、七五三の配膳その他にも聞かれたと言う。
 七五三の配膳は三度の祝いにつき聞かれるので、幕府老中の末席にも都度
 出席したと由。 この由緒により貞昌の子孫は今でも一代に一度づつは
 将軍にお目見えする由。
 ある時貞昌が老中末席に出席していると、大老の土井大炊頭が兵部、兵部と
 呼ばれたが返事をしなかった。 そこで大炊頭は目から鼻に抜けるような気の
 付く人であるから、薩摩の伊勢兵部と呼ぶ。 はつと返事をすると、爰にと
 云われて御前に出るとの事だった。

45福昌寺の家久公木造の顔は額左に疵が出来るとの事、幾度作り替えても
 出来るので、これは福昌寺住持だった大川和尚の法問に答えなかった
 為に朱杖で打たれた疵だと言い伝える。 大川(大仙)の事は別巻に記す。
註1.大仙和尚の自害の事は第一集32話、その後噂は第二集1話に記す

46光久公の時代に国分の士に楠元長作と云う鳥刺しの達人が居たと言う。
 ある時国分の浜辺で船の舳先に鳫が一羽とまっていたので、これを光久公
 長作に刺させて見た。 長作は竿を持っていたが、向より土地の人が魚を
 入れる籠を担いで来たのでそれを借りて自分を籠で覆い、片手に竿を持ち
 何食わぬ風で雁に近づき簡単に差し留めて見せた由。

 長作流鳥さし竿はきん竹の立枯にしたもので、それをためて長さ三尋に目を
 潰し、根を削りためて、壱尺五寸か壱尺にねりを付けるとの事。 竿は立枯の
 ものでなければ良くない。 大鳥を刺すにはぬけ目つぶしと云って大形すゝき
 で切形を多く付けて糸で繋いで刺せば、鳥に当り目つぶしは抜け留り
 羽ばたきするので、この切形から彼方此方にくっ付いて、糸の繋ぎがあるので
 巻きつくとの事。
註1.鳥刺し: 竿の先に鳥もちを付けて鳥を取る方法、西洋でも行われた由
註2.きん竹(きんちく)原産中国、高級な筆軸等に使う細い竹

47大山三次は家久公の常勤小姓で公が上洛の時も御供して伏見に滞在した。
 その時京都見物したければ一日休暇を与えようとの事だったので、同役
 の小姓に頼み許可も出たので早朝から京都見物に出かけた。
 もう見物も終り午後四時頃になったので茶屋へ寄って食事をしてから帰ろうと
 思い、あちらこちら物色していた。 すると或茶屋から歳の頃二十八程と見える
 女中が一人走り出て、私の主人が御用がありますので此茶屋へ少しお立ち寄り
 下さいと言う。 そこで三次も何れかの茶屋に寄る積りなので、これで良いかと
 その女中の案内で二階へ上がった。

 そこには歳の頃二十程と見える美女が一人居り、彼女が云うには、私は茶屋
 入りしている者ですが、あなた様がお通りになるのを此処から見て居り、不躾
 ながら盃を交わしたく思い、 御迷惑とは思いますがお招きしましたと。
 三次は答えて、それは忝い事ですと云うと則盃が出、吸物や取肴など沢山
 出て来た。 互いに盃を取り交わす中、二人いた下女を脇へ退けて美女が
 云うには、私は京都で宮仕していますが今日は休暇を取りあちこち見物に出て
 此処に茶屋入しました。 そこであなた様を見かけ心を染めてお招きしました
 と云って寄添い、互いに枕を並べあれこれ委しく話し数時間が過ぎた。

 そこで美女は、この事は一生忘れる事ができません、是は父から貰い秘蔵して
 いたものですが他に差上げる物もありませんので、志にこれを差上げます、
 と云って七寸程ある立派な拵えの守り刀を出した。 三次は色々辞退したが
 断りきれず受取って見ると、正宗ではないかと見えた。 それでは此方からは
 何を贈ろうかと思ったが該当する物も無い。 そこで家久公が最近、男たる
 者は嗜みとして持って置けと云い、島津家十文字と言う名香を十焼程、一生
 秘蔵せよと下さった物を持合せていた。 是以外無いと思い、此香は国元に
 おいて十文字と云う香です、旦那から貰って秘蔵していたが他に贈る物も
 旅行中なので何も持合せません。 是を志し迄に差上げますと云えば、
 それはそれは忝い事です、 音に聞こえた十文字の香とは是でございますか、
 これは禁中方も大変大切にしている香ですと云い、沢山あるからと一焼して
 感心したという。 それから三次は暇乞いして帰った。

 同役の人々も三次の帰りが遅いので如何なものか思っていたが、家久公も
 三次は未だ帰らないのかと大変立腹で、帰ったら直ぐ報告せよの事である。
 三次が大変遅く夜更けに帰って来たので則報告すると直ぐに出よとの事
 である。 そこで三次は御前へ出ると家久公はだんびらを差し、三次何故
 遅かったか委しく説明せよとの事である。 三次は斯く斯くの次第で恐れ
 ながら帰りが遅れましたと云う。 御側衆も殿様のあの立腹ではお手討ちに
 なるのではと固唾を呑んでいた。
 
 ところでその守刀は、と云われるので差出して御目に掛けると、さて是は
 正宗だろうか、結構な宝物ではないか、 お前は何を替りに贈ったのかと
 尋ねられた。 三次は、大変申上げ難い事ですが、何も持合せもないので
 以前戴いた十文字香を全て与えましたと云うと、 それ見よ男たる者は嗜み
 に持って居る物じゃと言聞かせて呉れてやったが用に立ったではないか
 とご機嫌も良い様子に見えた。 御側衆も御手討もなさそうだと見て三次を
 下げますと云うと、下がって良いとの事で三次は何のお咎めも無かった。

    旧伝集六終