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 薩州旧伝記  旧伝集七 現代文

    
目次                        翻刻ページ
701 光久公怪我と家老の心配り            P27
702 遊行上人と家久公和歌交換           P29            
703 遊行尊通、光久公追善
704 福島正則の犬と逆瀬川奉膳兵衛
705 中務追善の家久公和歌              P30
706 佐土原藩成立の経緯
707 新納忠元古希の歌                 P31
708 竹内門跡、家久公追善和歌
709 福島正則からの借金返済
710 細川幽斎、なつみの瀧で一首
711 義久公の名句、木すえより
712 奉膳兵衛、碁の賭けを返す
713 家久公、比志島紀伊の追善五首         P32
714 藩借財を貿易益で返済               P33
715 丹後局八十二歳で没
716 元久公在京は将軍義持時代
717 家宣公嫡子誕生への祝儀物            P34
718 義弘公官名の疑問                  P37
719 大山三次の切腹
720 旗本島津八郎左衛門の系図            P38
721 光久公の医道趣味
722 綱貴公、我子への教訓
723 庄内合戦の評判                   P41
724 伊達政宗の酒好き
725 島津家宝物血吸の剱                P42
726 龍伯公、家老図書忠長追善
727 山之口地蔵堂の咄
728 鎌田政近墓誌                    P43
729 柴氏由緒
730 伊集院忠真都城に籠城
731 島津忠豊の偽者                   P44
732 大島出羽、朝鮮出陣和歌
733 町田勘解由の出世                 P45
734 小倉源左衛門の托鉢
735 琉球関係経緯上申
736 腰より下に人格なし                 P49
737 忠恒公の庄内関係書状
738 義久公書状
739 勝久公と小倉武蔵守                P50
740 喜入摂津守の評定
741 当国の名所、名産
742 伊集院忠真死の予兆
743 高隈の刀鍛冶の銘
744 徳田太兵衛馬鹿を尽くす             P51
745 伊集院忠真家来の白骨
746 島津忠辰戦線離脱で改易
747 新納忠元の夢の縁起合わせ
748 徳田太兵衛歌で縁起合わせ           P52
749 伊集院忠真息女の寄付

01島津下野守久元と島津助之丞忠広は光久公の家老だった。
 忠広は後に万山と云い、久元より若かったが特に親しくしていたと言う。
 この助之丞は人を多数切殺した人で、人切助之丞と云われていた由。
 ある時光久公から理由は述べられていないが、この両人に面会遠慮する旨
 が通達された。

 一年程経ってから助之丞は久元に相談して、現在の面会遠慮は何の覚えも
 ないのに不可解です、そこで讒言でもあったのではと思い色々聞き合せた
 ところ、間違いなく我々両人を何某が讒言したとの事先日聞き出しました。
 口惜しい事で、この者を討果そうと思いお知らせしますと言う。
 久元も、私もそんな事ではと思っていたが、やはりそうでしたか。 しかし
 討果すのは手荒い事です。 家老職を勤めていれば特別の事が無くとも
 報告したい事があれば御前に出て直接報告できるし、又側用人を通す事も
 できます。 面会遠慮と云われても特に困る事はありません。 それを色々
 聞き出して討果す事は、毛を吹いて疵を探すのと同じで余計な事と殿様も
 思われるでしょうからお止めになった方が良いと、強く説得したので助之丞も
 少しは納得した。

 其後光久公の上洛となり、途中出水脇の仮屋で手洗いを使った時、脇差が
 抜けて腿(もも)に怪我をした。 決して疵も浅くないと云うことで鹿児島に
 連絡があった。
 これにより家老達も早々に御機嫌伺いとして参上すべきとの事で、助之丞は
 久元と連立って行こうと云ったが、久元は仕事が急いでも終わらないので、
 貴殿は先に行ってくれとの事である。 助之丞は御目通り遠慮と云われて
 いるのに御前に出て大丈夫だろうかと言うが、久元が問題ないでしょうと云うと
 助之丞は先に行き直接御前に出た。 お怪我が重いと伺ったので早速参上
 致しましたが思ったより軽いようですねと助之丞が云えば、光久公は、もう気分
 も良い、其方も来ると思っていたが早々来た事は感心であるとの事だった。
 
 一方久元は若い家老に色々な手配を打ち合わせて二日程遅れて参上した。
 光久公は不機嫌で、何故参上が遅れたのかと聞く。 久元は、早速参上
 したく思ったのですが、重傷と承ったので万一の場合に備えて私が江戸
 (幕府)へ跡職の手続きをお願いする覚悟でしたが、他の家老達は皆若く
 鹿児島の事が心配なので、平佐へ行き北郷佐渡へ鹿児島の事を頼みました。
 万一跡職が認められない場合は鹿児島に籠城する事を相談した後、佐渡と
 一緒に平佐を出発したので只今参上致しましたと申上げた。

 光久公は、そこ迄考えていたのかと大変感心したと云う。 しかし御目通遠慮
 は許されなかった。
 この怪我で少し腰が引けた様である。 是は忠朗の母の調伏ではないかと
 世間で云ったとの説もある。 北郷佐渡はこの時七十二才だった。
註1.島津久元(1581-1643)宮之城家三代目、1618家久家老1637光久家老。
註2.久元は一集29話に金山開発を進めたが、藩の財政を悪化させたと讒言
 されている
註3.毛を吹いて疵を求める: (原典韓非子)
 毛を吹き分けて肌に疵がないか探す=細かいあらをわざわざ探す。 

02遊行上人が尼を連れて国に廻って来た時、家久公は
   上人は 霞の衣 霧の数珠 あさけはなれん そうひじり哉
 と詠めば上人は 
   水鳥の 水にすめども 羽はぬれず 潮の魚の 塩の味なし
 と返歌で答えた由。

03薩州前(さき)の太守左近衛中将源光久公は、其徳三ヶ国を覆い、政道
 正しくして国を治め、民を憐れみ、志は浅くなかったが七十九歳になった
 冬の半ば、八十の春を待たずに世を去られた。 国中悲しみの折に、この
 国に修行して弔う。 常でない世の習いを思いて
                            遊行尊通
  春をまたで 雪間に匂ふ 此花の ちり行きし世の 習いかなしき *待たず

04関ヶ原合戦後、家康公への謝罪も順調に進み忠恒公が上洛する時、
 福島左衛門大夫正則と途中で出会い一緒に登城し家康公への面会も
 首尾よく終わった。 
 其時左衛門大夫は関ヶ原合戦の褒美として安芸と備後国を拝領したので
 国入りとして下る途中だった。 兵庫で落合ったが左衛門大夫正則が私が
 案内しますと云い、京都へ戻り一緒に登城したとの事。
 
 其御礼として逆瀬川奉膳兵衛が正則へ御使として派遣され面会した。
 其時正則は家来達に、奉膳兵衛と云う者は聞くところでは大武辺者との
 事だ。 口上の挨拶の時に例の人喰犬をけし掛けて見よと指示した。 
 そこで奉膳兵衛が挨拶の口上を正則に述べている時、例の犬を放し掛けると
 則吠え掛かった。 しかし奉膳兵衛は口上も滞らず犬を気にしない様子で、
 右手で犬の口を掴み後ろへ引き回し押さえつけていた。 口上が終わると
 犬をつまみ二三間後ろへ投げると犬はそのまま死んでしまったと言う。

 この事から正則は奉膳兵衛を欲しいと思い、其旨家久公に所望あったが
 与えられなかった。
 この奉膳兵衛は上髭を立て下髭も立てていたので、両上髭と口と下髭の
 形で八一ちょぼりとあだ名が付けられていた。 たいへんいかつい様子の
 人で薩州に逆瀬川奉膳兵衛、日州に市木奉膳兵衛と云、両人共武功に
 勝れた人との事。 奉膳兵衛と云名は、甲州で原美濃の濃と云う名を美濃
 存命の時は付ける人が居なかったからとの事。 市木も大男だったと言う。
註1、関ヶ原の戦いで福島正則は豊臣大名ながら真先に家康に付き東軍で
 活躍して最大の褒賞を得た。 一方島津家は義弘が西軍に付いたため、
 義久、家久が戦後家康に謝罪と修復に当った。

05中務が阿多で死去した。 悲しみの余り嘲りを省みず三首を作って追善の
 手向けとするものである。
                        中納言家久
  思いきや 跡問う法の ことの葉の 手向はあさし 昨日今日とは
  みじか夜の 夢のたらちの 郭公(ほととぎす) 現にかゑる ひと声もがな
  常ならん 世のはかなきや 面影の むかへはかわか うつし絵のまへ
註1、家久が中納言に昇進したのは1615年(元和元)以降であり、中務とは
 誰の事か? 家久の叔父中務家久は1587年病死、その子中務豊久は
 1600年関ヶ原撤退時戦死、家久家老にも該当者が見当たらない。

06 島津中務太輔忠豊は関ヶ原で戦死し、特に子息が幼稚だった為、日向
 佐土原は召上げられ、家康公から庄田三太夫と云う人を派遣して暫く管理
 していた。 其後忠豊に叛意が無かったと言う事が上聞に達し、佐土原の
 地は薩摩の殿様に預け、誰か近親者を選び管理する様にと達せられた。
 そこで慶長六年右馬頭征久入道宗恕は隠居の身だったが、二男右馬頭
 忠興を連れて佐土原に派遣し管理させた。 更に龍伯公と忠恒公から
 佐土原之地は征久が拝領する事を願い、宗恕からも御目見を願い出て、
 同八年十月征久に佐土原の拝領が認められ直参となった。 征久は
 義久公の従弟になるので弟分として処遇されたと言う。 
 一方忠豊の子息は薩摩の臣となり、子孫は今の島津主殿である。
註1.佐土原は本来伊東家が支配していたが、秀吉の九州経営で、伊東家に
 飫肥を与え、佐土原は島津中務家久(義久弟)の所領となり、その子豊久
 (忠豊)が継いだが上の事情で垂水家の島津征久が初代藩主となった。

07新納武蔵入道拙斎は歳が七拾を越えた時の一首
  今こんと 別れ行くとも 七十の 齢(よわい)の名残 おもいやりなん
註1.拙斎は新納忠元の入道名

08中納言家久公の追善に竹内門跡が経を書いて送って来たが其奥に:  
  花に愛(め)で 紅葉になれし その人も うつればむなし 夢の世の中
註1.竹内門跡 天台宗の京都曼殊院の門跡で代々住職は皇族か貴族の
 子弟が勤める。

09中納言家久公の時財政が逼迫し、福島左衛門大夫正則から三千両を借用
 した。 その後返済の時に書付と共に元金三千両を返済した。 その書付は
 伊勢兵部貞昌の考えで書かれたもので、この文章の趣旨は、お借りした三千両
 を此度全額返済します、 元金だけでなく利息も差上げたいと思いますが、
 殿様同士の合意でありますから、町人等の様に利息を付けず元金だけ返済
 しますのでお受取下さい、大変ありがとうございましたと書いた。 
 正則の返事は、たいへんご叮嚀な事で喜んで受取ますとの事だった。 
 正則はその頃日本国中で並びない程利口で且すね者であり、利息を付けたと
 しても受取らず却って悪感情を持ったに違いない。 又利息を付けるのが
 当然の事にこの様な兵部貞昌の処理で巧く収束した。

10鹿児島吉野近辺になつみの瀧と云う瀧があり、細川幽斎が此処を訪れた時:
  こゝも又 よし野に近き なつミ川 流て瀧の 名にや落(おつ)らん
註1.細川幽斎は太閤秀吉の命で文禄年間に薩摩・大隅の検地を行った。

11義久公が紹巴主催の連歌の会で作った発句は古来稀に見る名句との事。
  木すえより 下枝もはなの あふちかな  *樗(あうち)栴檀の古名
註1.里村紹巴(1525-1602) 多くの戦国武将(信長、秀吉、三好長慶、幽斎
 明智光秀)などと交流があった連歌師の第一人者。 1590年前後義久が
 京都滞在中の時の事と思われる。

12貴久公は逆瀬川奉膳兵衛と折々碁を競っていた。 或時賭けになり、
 奉膳兵衛が勝ったら貴久公秘蔵の金の鍔(刀の)を下さいますかと云うと、
 宜しい呉れてやろう、しかし俺が勝ったらお前の妻を貰うぞと言う事で碁を
 打ったが、 貴久公が勝ってしまった。 奉膳兵衛は妻を取上げるのは
 勘弁して下さい、 その代わりに数年攻めても落とせない南郷の城を
 攻落として差上げますと云い、約束を果そうと機会をねらった。 

 この南郷の城は島津実久の一派で城は強く手に余っていた。 そこで正月
 の頃、南郷の城主桑波田孫六が狩に出かけるのを奉膳兵衛は察知し、兼て
 合図を決めて置いたので早速火の手を上げ、其煙を合図として貴久公の部隊
 が大勢駆けつけた。 その合間に牛を一頭殺して菰(こも)に包んで人夫に
 持たせて、狩人の服装をして奉膳兵衛を始め六七人が今日の狩で猪が
 取れたと云い城中に運び込んだ。 門番は城の味方と思い何の疑いもなく
 城内に入れた。 直ちに走り回り城内各所に火を付けて騒動した。
 
 城主も帰って来たが早くも貴久公の軍勢が押寄て散々に詰入ったので終に
 落城した。 是は偏に奉膳兵衛の働きに依るものである。 城方は此時狩で
 歩き廻り鉄砲も打ったので火薬も少なく、直ぐには用意も出来ず疲れていた。
 此時より正月に初狩と云うのを始めたと云う。 其後南郷は永吉と改められ
 今の外城である永吉の事である。
註1.薩隅日城由緒によれば南郷城の落城は1533年、日新公時代に謀り事に
 依るとあるが、もし此処で奉膳兵衛が登場するなら若くとも20歳位になり、
 1602年に家久の使者として福島正則への面会が90歳位となり同一人物では
 無理がある。 又南郷城攻めの頃は貴久は22歳位でむしろ父日新主導。
 
13今年元和六年4月の頃、比志島紀伊守が死去し、悲しい事此の上ない。
 朝夕の暇もなく仕え、忠義の心を持って70歳を越える迄慣れ親しんできた
 思いを基に五首を連ねて手向けるものである。
                            宰相家久
  かぎりなき 袖の泪や たらちねの 別も今に かわしざりけり
  七十の なれしは夢と うち覚めて うつゝに帰る 暁もかな
  忘れしな 道々ある世の ことの葉の 露に袂は 朽はつるとも
  なに人と なれもわすれし ほとゝぎす 心くらへの 啼もかなしき
  ありがたや 弥陀のおしえに この道の 泥のちまたを のがれなるかな
註1.比志島国貞(1550-1620) 紀伊守、宮内少輔、島津家家老

14中納言家久公の時、借銀が二万貫目(33万両)あった。 たいへん財政が
 逼迫したので家老達が集り、何を如何すればお金が出来るかと色々相談
 したが、江戸や国元で節約しても大きな金額は出来ない。 大金を出せば
 国の痛みにもなるし方策に窮した。 その時家老へ川上又左衛門が云うには
 小魚は煎じても多くなしと言う事があります、私一人にお任せくだされば近年
 の内に借銀全て返済しますと自信を持って伝えた。

 これによりそれではと又左衛門一人に財政向を任せた。 すると下屋敷の
 方へ座を構えて輸入品販売を企て、是でお金を作り十年の内に借銀全てを
 返済した。 又左衛門は後に因幡守久国と云った。 輸入品販売の始めは
 この時からと云う。
 其後肥前島原の乱が起きた時、家久公の病気は重く、将軍から医師を派遣し
 又光久公も帰国となり三方多忙を極めたが、因幡守は水が流れる様に
 処理した事は今でも語り継がれている。
註1.川上因幡守久国 家久ー光久時代家老 号は入道商山
註2.小魚は煎じても・・原典不明だが少々の事では解決できないの意味か?
註3、唐物買 琉球を経由して中国からの輸入品の売買を行う。 幕末の家老
 調所笑左衛門は貿易で藩財政を大幅改善したが、それより200年程前の事
註4.銀弐万貫目 現在価値に直し約330億円(金一両=10万円として)

15丹後局は嘉禄三年(1227)丁亥十二月十二日、八拾弐歳で市木において
 逝去し郡山厚地村に葬ったとの事。
註1.丹後の局は島津家元祖、惟宗忠久の母と云われている。 

16元久公の在京は将軍義持公の時代である。
註1.島津元久(1363-1411)父氏久より奥州家と大隅、日向守護職引継ぎ、
 後薩摩守護職を従弟の総州家伊久から引継ぐ。 島津本家第七代当主
註2、足利義持 :足利第四代将軍、在任1394-1423

17将軍家宣公の嫡君家千代様誕生の時、島津家から進上した物。
 家千代様へ檀紙壱枚堅
    進上
    刀           一腰 備前長光
    脇差          一腰 左文字
    産着          銀三十枚
    干鯛           一箱
    昆布           一箱
    御樽代          千疋     *=10貫文 約百万円
    御樽代は小折包にして御樽代千疋と上書

      図(略)

    檀紙押て鯛一枚
    刀備前国長光代金三十枚    折紙有
    鎺(はばき)切羽、鶆目金
    三所物赤銅色絵御紋葵彫    *目貫、笄、小柄
    鍔縁赤銅七子
    柄白鮫
    鞘黒塗
    柄糸御下緒紅
    小刀 寿命
     以上               名(松平薩摩守)
                     
    脇差左文字代金弐拾枚      折紙付
    鎺(はばき)鶆目金
    二所物赤銅色絵御紋葵彫   *目貫、小柄
    柄白鮫
    鞘黒塗
    目打金
    下緒 紅
    小刀 寿命
      以上              名
 大納言様へ内証より折紙   
     進上
     純子              三十巻
     干鯛              一 箱
      以上               名 名乗  
     
     進上
     屏風              五双
        内松竹          一双
        寿老人福禄寿     一双
        西王母東方翔     一双
        花鳥           一双
        若松           一双
     干鯛              一箱
        以上            名 実名
  御簾中様へ御内室より檀紙二枚竪   
     しん上
     繻子             二十まき
     ひだい            一 箱
        以上            名 名乗
  公方様と大納言様へ御七夜の時、表より檀紙一枚
      二種一荷        御樽代弐千匹
  御台様御簾中様へ表より檀紙一重ツヽ
      二種一荷        御樽代千疋
  御産婦様へ大奉書二枚  此の如く表目の外に張紙
                       まつ平さつまの守
     白かね            二十まい *白銀 20枚
     大奉書一枚 おほゑ
     一白かね三まい     御かひそへ
     一同   五まい     御乳人
     一同   弐枚      御さし
     一同   三十まい   総女中
       以上             まつ平さつまの守
註1.家千代:第六代将軍となる徳川家宣の二男宝永四(1707)年一月
   生まれ。 但し同年十月夭折。
註2.この時点では五代将軍綱吉が生存(1709没)故、公方様であり、
  養子で甥の家宣が大納言となる。
註3.第七代将軍家継はこの後家宣の四男として生まれるが、将軍職に
  就いたものの九歳で死去。 徳川本家は此処で絶えて紀州家から
  吉宗が立つ。
註4.此の時点の島津家当主は第四代藩主吉貴と思われる(第三代
  綱貴は1704年死去)  
註5.白銀 贈答用で43匁、現代価値約7万円
註6.疋 100疋=一貫文(永一貫文=金一両)
註7.檀紙 楮を原料として作られた縮緬状のしわがある高級和紙

18義弘公は宰相の官位だったと言う説があるが、宰相に任官したとの記録
 は見えない。 家康公の関ヶ原合戦後の誓紙に薩摩宰相殿とあるので
 その様に伝えられたのではないだろうか。
註1.関ヶ原合戦前の慶長四年4月22日付で徳川家康の起請文の宛名
 が島津宰相殿(義弘)、島津少将殿(家久)となっている。 第四集46に
 載せる。

19大山三次は江戸で人を多数切った由、しかも白昼に多く切るので或大名
 の長屋から見た人が、何処の者かと三次の帰る後を付けさせた。 すると
 薩摩の屋敷に入って行った。 そこで江戸中の人が、薩摩の大山三次と
 云う者だと噂が流れた。 そこで薩摩と親しい或大名が家久公に、現在
 此方に召連れた御家来に大山三次と云う者が居りますかと尋ねた。 
 家久公は、どの様な事でしょうかと問えば、町で人を大勢隠れて切っている
 との事。  家久公は、いや今は此方に召連れた者で、その様な者は
 おりませんと返答したが、 これは置く訳には行かぬから直ぐに大廻船で
 帰国させよと指示した。

 一方三次は何も知らされずに鉄砲洲にきたが、武士が貨物船で帰国する
 事は顔が立たないと船着場で切腹して死んでしまった。
 この事を家久公が聞いて、これは惜しい事をした、帰国の理由を聞かせて
 置けば切腹はしなかっただろうに。 説明しなかったのは悔やまれる、大事
 な者を失ってしまったと惜しんだ。
 又一説には伏見における事とも云う。 三次を伏見に置くのに差支える事が
 あり大坂川口で切腹させたと云うが、この説は有りえないとの事。
註1.家康の政策で大名が安宅船と呼ばれる大形の軍船を持つ事は禁止
 されたが、70挺立前後の関船が参勤交代に使われた。 廻船は弁財船と
 呼ばれ、関船より大形もあったが物資輸送用だった。 

20光久公の時代に、江戸に住む旗本島津八郎左衛門から、島津家の支族
 であるとの事で系図を提出してきて、島津の苗字をご許可願いたいとの
 事である。 島津本家の系図には見当たらないが、八郎左衛門系図では
 島津相模守運久の子が出家して長徳軒と名乗り、その子孫と見える。
 これに付いては古老の申し伝えもあるので、島津姓を名乗るのは自由にと
 許可された。 これにより島津家へ折々挨拶がある。
註1.島津運久(相州家)は、日新斎(島津忠良)が幼少の時父善久が殺され、
 母が再嫁した相手で忠良は運久の養子となった。

21光久公は医道の趣味があり、膏薬等を練り側廻りの人々に付けてやって
 いた。 家老の下野守久元は、医者が居るのにその様な事は不要の事です
 と折々申上げていた。 
 或時奥の女中から薬を付けて下さいと頼まれたので道具等出して付けよう
 とした時、丁度下野守が参上した。 光久公は、そうあろうと思い、付けないと
 云ったところだと云い急いで道具を片付けた。 その時は殿様方と云えども
 家老を恐れていた。
    
22 教訓条々
 ○一国の守護として一郡の主として、国政を行い士民を撫育する為には
  文武の道を知らなければ達成は出来ない。 文武は車の両輪であり、
  鳥の両翼の様な物で欠いてはならない。
 ○志は全ての道の根本である。  基本方針が無いと全ての事が巧く行かぬ
  ものであるから、先ず志を堅く固める事
 ○遊び道具は志を弱める。 是は聖人の格言である。 況や専ら遊興し、
  勝負事を好み楽しんで酒色に耽る事など、此等は決してやってはならない。
 ○忠孝愛敬は人として当然の事である。 順調な時、栄達の時など慎みを
  忘れる事があるので忠孝愛敬に戻る事。
 ○一日たりとも空しく過さぬ事。 若い時に学ばずに老いてから悔やむ様な
  事があってはならない。
 ○良く聞いて練って則実行する、 良将はこの三つ請る・練る・採るが肝要。
  実に是を思う事。
 ○家来を見てその主君の人柄を知り、肩書を見てその人を察するものである
  故に臣下の善悪を判別が出来ぬ者は暗将と云う。 従って先ずは家来の
  正邪を語り、正直の者は是を賞し、邪な考えの者には是を教えて正道に
  戻す。 これが君師の道である。 この様にすればどうして邪悪の者の謀に
  落ちる事があろうか。 よくよく心がけが重要である。
 
 これらの条々は数も少なく詞も短いが内容は広遠である。 常に是をを身辺に
 置いて読んで味わう事。 悪い心掛けや反対の事に馴染むと却って忠言は
 耳障りなものである。 良薬は口に苦しと云うが十分納得してこれを取入れる
 事。 其方は今年十六歳であり去年元服して益々成長している私の二男で
 ある。 修理大夫に次ぐ弟であり家中一門の中でも諸士の崇敬は第一である。
 
 従って兄の修理大夫が治める時代になれば、自ずからその政道を補佐し
 其方が無くてはならぬ存在になるか、場合に依っては守護代迄も勤める事に
 なれば国人の上に立ち非常な才力が必要になろう。 その事は遠い周の世
 では周公旦が聖徳により成王を補佐して天下を治めた。 近く我家では
 日新斎が賢徳により陸奥守貴久を補佐して島津正統中興の君主とした。
 是等は聖徳賢才のたま物である。 随って普通の心掛けでは却って人々の
 笑いを招き、先祖を辱しめる事になる。 

 武門においては珍しい事ではないが、朝夕に四書五経を読んで道を学び、
 弓馬武芸の事は勿論、よく軍法を学習し、文字等も拙くない様に書を嗜み
 詩を賦し、和歌を詠み、琴を弾くは風流の事だが、皆是は左に文、右に武の
 基であり、欠ければ車の一輪が壊れたか、鳥の一翼を折った事に等しい。
 光陰は矢の如し、時は人を待たず、勉強するのは今である。 ぼんやりして
 いたずらに日を過す事があってはならない。 

 我島津家の先祖である豊後守忠久は右大将頼朝公の長庶子に生まれ、
 文武の達人だった。 其文徳及び武功は東鑑(あずまかがみ)にも載る。 
 文治二年の春、八歳で島津の庄がある薩隅日三州に封を受け、同五年
 奥州の藤原泰衡退治の時、先陣の大将に命ぜられて、無事逆賊を討亡して
 領国に帰り、仁義を以って民を治めた。 その偉大な栄光の余禄は五百年に
 なり、私迄二十代続き三州を領している。 これは代々の先祖達の志が武将の
 家として文武に決して疎く無かったからである。

 近代においては修理大夫義久は近衛関白前久公を師範として古今和歌集
 の奥儀を伝えられ、青蓮院尊朝親王に付いて入木の道を学んだ。 九州全土
 を討通して太守と仰がれたが、文武の徳を兼備して旗下の諸士を正しく指揮
 したからではないか。 義久の舎弟である兵庫頭義弘は始めは守護代として
 政道を補佐し、幾度か大敵を討亡した。 中でも朝鮮国で大勝しその名は異国
 迄も隠れ無いものである。 是も又文武の徳であり、賢い志の成せる所である。

 中納言家久は始めは又八郎忠恒と云ったが、秀吉公の命令で朝鮮国へ渡り
 義弘に協力して戦場にあり、或風景に出逢い和歌を詠み、或いは陣営の中で
 灯を燈して照高院如霊の書を習い学んだと言う。 軍中でも文を怠らない志、
 偏に是は元祖忠久、頼朝公の長庶子で日本一の武将の後胤である島津の
 家風を穢すまいとする志である。 夫ゆえ朝鮮国泗川の新城に押寄せた明国
 兵二十万騎を義弘と共に一挙に切崩して、敵三万八千七百余を討取り、異国
 本朝共に並びない大勝利を得た。 是は偏に文武の道に身を投じて勉学した
 証拠である。
 其方は此処に記す条々の趣旨を真剣に考え、文武の道を学び名を後代に
 残せる様に志をしっかり定めて、親を愛し兄を敬う事を忘れなければ則忠孝
 の道、武将の器となるだろう。 敢て油断あってはならない。 仍って教訓は
 この様である。
     元禄十五年(1702)午六月廿五日          綱貴
           島津又ハ郎殿
註1.島津綱貴(1650-1704) 島津家20代当主、第三代鹿児島藩主、
 初代藩主中納言家久の曾孫。
註2.入木道(じゅぼくどう) 書道の事、 王義之の筆は木の板に墨が三分
 染込んだとの事から云われる。 日本では青蓮院流、持明院流等の書
註3.昭高院道澄(1544-1608) 和歌や書を良くした門跡
註4.綱貴から又八郎(二男)への教訓であるが、当然長男(嫡男、第四代藩主
 吉貴)への教訓もあったのではないだろうか。 尚この二男の業績は記録に
 見えない。

23庄内合戦は近国の大名衆が加勢するとの事で皆々準備していたが、
 薩摩守護方としては僅かな敵に対して、数日もかかるとはと続けさまに
 攻め、余り急いだ為に伏兵等に掛り、負け合戦も多く大分人数も損蒙した。
 庄内軍記を見ると他国から応援して貰うのは見苦しいとして、味方の
 負合戦が多かったと云う説もある。
註1.庄内合戦: 島津家筆頭家老伊集院忠棟(幸侃)が家久(忠恒)に
 惨殺された為、嫡子忠真が都城に立て籠もり、家久側がこれを攻めた。
 豊臣政権の筆頭大老徳川家康の調停で忠真が降伏した。(1599年)

24江戸において家久公へ伊達政宗が咄に訪れた。 酒好きの人で三日
 三晩酒盛りが続いた。 そこで政宗家老の茂庭周防が来て伊勢貞昌に
 面会し、陸奥守(政宗)が出て来て思わず長居をして面目ない次第です。
 我々迄たいへん御世話になっています、帰る様に云って下さいと云う。
 貞昌は、いや御世話と思わないで下さい、お話しに来られて楽しんで
 居られるのですから、どうして困る事がありましょうと云えば、周防は、樽酒が
 好きなので長居するのです。 大盃は好きでないのでお出し下されば則
 立上ると思いますので大盃を早くお出し下さいと頻りに云う。 
 
 そこで大盃を出したところ、政宗は、これは恐らく周防が来たと思いますと
 則立上った。 玄関の次の間に周防が控えているのを見て政宗は腹をたて、
 おのれ何を云ったのかと扇でしたたか周防の頭を打ったとの事。 
 そこで周防が貞昌に云うには、私は小者だった頃から絶えず頭を叩かれて
 来ましたが、今も続いて叩かれて面目ない事ですと云って帰って行った。
 周防は武功の勝れた者で段々出世し家老迄になった人との事。

25当家の宝物の中で血吸の剱は藤野氏から差上げたと宝物帖にはあるが
 実は亀山氏から差上げたとの事。

26慶長十五年(1610)十一月九日、島津図書頭忠長が六拾歳で死去した。
 同月廿六日龍伯公の追善としての手向けは、既成宗切庵主は若い頃から
 国家の法律など整備し、究めて忠節の人である。 軍事に於いても立派な
 働きをした。 世の中の楽しみ事として好きな歌や連歌にも熱心だったが
 無常の定めで、さらぬ別れの余り教書孤村見夜燈という句の心を一首連ねて
 霊前に手向けるものである。
   山寺の木の葉は風にさそわれて五時(ごとき)を過る夜半の燈火*夜8時
註1.島津図書頭忠長(1551-1610) 宮之城島津家、家老、義久従弟
  二男下野守久元も家久、光久の家老

27山之口地蔵は、最初は加治木の細掛川で網に掛ったので引上げて
 その橋の辺に置いた。 しかし祈願の験が有ったので下町の札之辻辺に
 移動し、僅かな人数の町人が講をして小堂を造った。 それから郡元萑宮
 辺に移動して浄光明寺の脇寺放光院から支配する様になり、小僧を一人
 配置していたとの事。 

 朝鮮出征の時に参詣の人が多数あったが、その後二本松馬場下へ移した。
 前述小僧が死んだので長右衛門と云う者が此の地蔵屋敷に住み花香代を
 取って管理していた。 しかし賽銭を支配寺に納めずに着服しているとの
 悪い評判が立ち、長右衛門は牢へ入れられた。
 この牢からの出所の経緯は第三集で光久公夢にかうきう長の事を書付けた。
 その後この地蔵は現在の場所に移り今でも浄光明寺から支配している。
註1.かうきう長の事は第三集16光久公正夢にある

28我先祖の玄朗法印は薩摩の人であり、戒名は明義道、俗名は鎌田出雲守
 正近で、其先の鎌田権頭通清の十九世の嫡孫である。 事跡は薩・隅・日
 三州の大守である島津修理大夫義久入道龍伯斎の家老として、東西奔走し
 しばしば軍務に働いたが慶長十年九月朔日伏見で病死した。 享年六十一
 でこの寺山に葬った。 ああ悲しいかな、子孫は散り拝掃が出来ず、墓は荒廃
 して倒壊する恐れもある。 後に子孫がこの武士の事跡が不明とならぬ様に
 茲に石塔を修復し、姓名を彫りつけ不朽のものとする。 時に正徳元年(1711)
                 薩摩国鹿児島 鎌田藤四郎政武謹んで記す
註1:鎌田政近(1545-1605) 関ヶ原陣の後、島津家は改易の危機に
 あったが1602年家老として家康の家老本田佐渡守と実務交渉し、薩摩
 旧領安堵を引出した。1605年伏見滞在中病死し同地泉融寺に葬られた。
註2:鎌田道清 平治の乱で敗れた源義朝と共に尾張で殺された。道清の孫、
 政佐が島津忠久に伴い薩摩へ来たと言う。(ウィキペディア)
  
29江戸の旗本伊奈半左衛門の二男家である芝氏は、昔江戸芝を領知しており
 芝はその家の号である。 光久公の時代に伊奈の二男が芝と名乗ったが
 嫡甥が幼稚だったので後見のため伊奈の本家に戻ったが、企みがバレて
 追放になり浪人していた。 そこで光久公が彼を召抱えて子孫は今も当国
 に住み、今は柴と書く。 五百石で召抱えたので余りにも高知だと云う人
 も有ったが、彼は宝物も多く持って居り、よいだろうと云う事で収まった由。
 伊奈本家の珍器やその他後藤目貫等を多数持参しており、今でも珍しい品
 を多数所持している由。 今の人の祖父の代の事だと云う。
註1.伊奈半左衛門 徳川家康の関東移封に伴い、三河から移り、家康の下
 で関東開拓に貢献する。 代々半左衛門を称号、関東郡代、幕臣

30伊集院右衛門太夫忠棟(入道幸侃)が成敗されたが、幸侃の息子である
 源次郎忠真は父の罪科には関与していないと云うことで赦免され本領も
 その侭となった。 しかし領地都城に立て籠もり、十二の砦に兵を配置し
 叛逆の姿勢が明らかになったので、新納武蔵入道拙斎と山田越前入道利安
 に軍勢を指揮させて源次郎を押さえて置き、京都伏見へ注進した。

 伏見で家康公に報告すると、早速忠恒公に暇を与えて、帰国して源次郎を
 鎮定する様にとの事である。 惟新公も国元へ下り鎮定すべきと家康公より
 云われたが、せめて壱人は伏見に詰めて奉公しますと申上げて帰国は
 しなかった。 
 その後都城の乱が収束した事は入木院又六重時から報告した。
註1庄内の乱 慶長5年3月(1600)徳川家康の調停で収束
註2.十二の砦(外城) 梅北、志和池、安永、野々美谷、山之口、
  月山日和、山田、梶山、勝岡、財部、末吉、恒吉

31関ヶ原合戦の後、島津中務忠豊と全く変らない人物が来て数ヶ月彼の
 家にいた。 忠豊の内室を始め家来達も本物の中務と思っていた。 ところが
 湯を浴びる時、中務の乳母が背中の垢を流したが中務にはあざがあったのに
 この男には無い。 討死は本当の様であるので是は如何した事かと疑念が
 わき、色々注意を払っていたが本物の中務ではないと分り、密かに殺して
 南林寺の地蔵の脇に埋めた。 栴檀の木がその男の塚印である。

 是は根来坊主だったとの事である。 中務の足軽壱人と小者壱人が関ヶ原で
 討洩らされて帰る時、中務によく似た者が居たので、あなたは島津中務大夫
 忠豊にそっくりです、私は中務家来ですが薩摩に下り中務になりすませば
 私達が良いように取計らいますと説得して連れて来たと言う。 

 こうして薩摩に来て、討死はせずに出家して忍んでいると云い、内室を始め
 奥詰めの家来達は本物の中務と思った様である。 中務の内室もたいへん
 不覚の事である。 例の小者達も密かに殺して内室は自害した。 
 例の坊主を討果した者は宇田津某との事である。 又宇田津は中務の守役
 であり、脇の下にあざが無いので実の中務では無いと見たと言う説もある。
 今の鹿児島荒田辺にある外城の郷士宇田津彦七の先祖である。
註1.島津中務中豊(豊久、1570-1670)関ヶ原から撤退の際、東軍の
 追跡を食止めてその間に義弘達を逃れさせ彼自身は討死、義弘甥
註2.根来坊主: 紀伊国北部の根来寺を根拠とした僧の集団、鉄砲で武装
 しており戦国時代に傭兵として活躍した。 根来衆

32朝鮮国出陣で大島出羽守忠泰が大隅国馬越を出発する時、或人が
   君にしも つかうる道に なくなくば 旅立袖を 留さらめやは
 と云えば、忠泰の返歌は
   もろこしに 行身は われに限らぬを いだくな詫(わび)ぞ 今帰りこん
 と言った由

33惟新公の時代、栗野の士で町田勘解由と言う人は関ヶ原合戦前、関東で
 乱が起こるらしいと知り、五匁玉で朱の台を持つ鉄砲を下人壱人に持たせ
 国分の富隈城へ参上して龍伯公と面会した。 私は関東で戦があると
 聞きましたので上方に行き惟新様に御供したいと思います。 しかし老母が
 一人居り、是が気懸かりです、どうか老母を養ってくだされば則走り上ります
 と言えば、龍伯公が了解したので富隈から直接関ヶ原合戦の前日到着し、
 惟新公に面会して合戦のお供をした由。 その後暫くしてこの勘解由は
 家老役迄勤めたとの事。
註1.慶長五年春、五大老の一人上杉景勝が会津に戻ったまま大坂に参勤
 しないのは謀反の兆しと言う事で、五大老筆頭の家康が多数の武将を率い
 上杉退治として関東に向かった。 関東の乱とはこの事を指すと思われる。 
註2.この家康留守の間に石田三成が反家康の旗を揚げて、家康の留守を
 守る伏見城を攻め落とし関ヶ原の前哨戦となる。 義弘も伏見城攻めに
 参加している(落穂集)。

34小倉源左衛門の先祖は関ヶ原合戦後、後から帰って来た人で托鉢を
 しながら戻ったと言い、今でも其時の器がある。 今は小倉仲之丞家に
 あるが如何なる理由か、仲之丞家は源左衛門家から其後分かれた二男家
 である。
註1.関ヶ原撤退時、義弘の主力からはぐれて三々五々帰国した人々も
 あり、源左衛門もその一人と思われる。

35鹿児島藩第四代藩主吉貴公の指示で島津帯刀が正徳四年(1714)に
 報告した琉球国の由緒
 ○琉球国は五常の道は備わっているが、昔は唐にも日本にも随わず
  単独で浪に暮らしていた。 千百年前隋の煬帝の時から中国に随い
  始めたとの事である。 いつの頃からかあや船と云う絹巻物等を積載
  した船が琉球から薩摩へ毎年来る様になり、時の太守へ挨拶した。 
  その後吉貴公より十二代の先祖、陸奥守忠国公が永享年中に将軍
  普広院義教公から琉球国を拝領し、其以来当家に随ってきた。
  永享年間から正徳四年頃迄は二百七十年程当家の領国となる。
  琉球の王号を中山王と云う。
 ○東照宮(家康)代の始めに、中山王は東照宮へ挨拶すべきであると
  吉貴公より三代前の先祖である中納言家久公から指示があった。
  しかし琉球が了承しないので、 慶長十四年(1609)三月琉球への
  渡航の湊である山川まで家久公が出張して琉球攻めを命じた。
  先手を琉球へ派遣し段々に責め潰し、同四月に中山王の居城首里城
  を攻撃したところ中山王尚寧が降参したので、先手の者共は中山王を
  確保し同五月薩摩に連れて来た。  
  早速東照宮及び台徳院へ報告したところ、たいへん喜ばれ、感状と
  共に琉球国は家久様へ与えられた。
  家久公養父三位入道龍伯公、実父の宰相入道惟新公も両御所から
  給わった正式文書には薩摩・大隅並びに日向諸県郡・琉球国全て
  領地とすべしと記されている。
 ○翌年慶長十五年五月家久公は中山王を連れて、同八月六日駿府へ
  到着した。 この時の接待饗応はたいへん結構なもので、同八日には
  家康公が歓待し、同十八日に又登城して饗応酒宴の上、貞宗の刀
  大小を家久公が拝領した。 同廿日中山王を連れて駿府を出発した。
 ○同廿五日江戸に参府する途中色々将軍の使者が派遣され、同廿七日
  又使いがあり拝領物があった。 同廿八日家久公は中山王を連れて
  登城した。 台徳院(秀忠公)は大歓迎である、同九月二日家久公を
  お城へ呼び饗応、又同七日には台徳院自ら茶に招待、 同十二日又
  呼ばれ、、同十六日にも饗応の上加賀貞宗の刀と馬を拝領した。
  且又其日に桜田の屋敷拝領し、暇が与えられた。 同廿日家久公は
  中山王を連れて江戸を出発。 それ以来将軍代替わり、若君誕生又は
  中山王自身の後継の節は中山王から江戸へ使者を派遣した。 
  初めて尚寧を召連れてから当正徳四年迄に琉球人は八度参府している。
 ○中山王の死去及び後継に付いては江戸へ伺う必要なく、鹿児島藩主
  から結果を江戸へ報告する事。
 ○中山王が死去して三年の喪に服した後、中華より上下六百人の勅使を
  琉球へ派遣し、前王の廟所へ勅使が参拝後城へ上り新王に封ずる旨の
  勅定を述べて冠と衣服を渡す。 
  通常は中山王から隔年に中国の都へ使者を派遣し、上表と云って中華
  の王に書状を捧げ、中華の王からも直接返翰を給わる。 使者は中華の
  王に面会して使者及び末々の者迄多くの拝領物があり、旅宿及び道中
  の船中共に大変結構な待遇である。
 ○琉球から織物等を持って来る理由は琉球国には金銀が無いが、中華の
  王及び役人には銀を進物とする。 その為琉球人は薩摩に来て商人から
  銀を借りるのである。 商人の銀だけでは不足する時は、藩の蔵銀を拝借
  して中華に持渡り進物とすると共に糸巻物を買い、鹿児島や京都に
  持込む。 その販売代銀で前年の借銀を弁済する。 そして又借銀して
  中華に持参し、これを年々繰り返す。 従って鹿児島に糸織物等があり、
  藩の蔵銀の返済はこの織物で払うので蔵には唐織物がある。
 ○中山王は部屋住時代に一度薩摩を訪問して藩主に面会する。
 ○薩摩から中山王の城下迄二百八十里又は三百里と言い伝える。 
  船路の為正確な道のりは分らない。 薩摩からは春は二月か三月、又
  九月か十月に琉球へ渡る。 琉球からは五月末から七月中に渡来する。
  琉球よりは年に一度、薩摩からは春と秋二度の渡航でないと円滑に
  経営できない。
註1.隋の煬帝: 中国南北朝を統一、治世604-618
註2.島津忠国の琉球拝領: 足利将軍義持より弟大覚寺が謀反を起し日向に
 潜んでいるので追討令が時の守護忠国に下り、これに応えた恩賞。
 第一集38に載せる

36島津下野守久元は大坂へ人質に出されていたお下様を引取り、帰国する
 途中船中で彼女と戯れた。 それ以来妻を離縁してお下を妻にする様に
 殿様から言われた。 久元は特に勝れた人格者だったが、それ以来腰の下
 には人格がないと云う事が云われ始めた。 このお下様は義弘公の姫君で
 始めは伊集院源次郎忠真の正室で女子一人を生んでいる。 この女子は
 伊予松山城主である松平隠岐守定行に嫁いだ。
註1.伊集院忠真は慶長七年(1602)に藩主家久に註殺され、御下は家久の
 妹だが未亡人となっていた。 家久が無理やり家老の久元に押し付けたか。
註2.下半身には人格なしとは現在も使われる言葉だが、昔も有ったか。
  各生年 家久1576年、忠真1576年、御下1586年、久元1581年

37忠恒公書状、庄内問題
 重ねて書状下され、特に小袖十拝領し誠に忝い次第です。 抑(そもそも)
 庄内の件に付いては山口勘兵衛殿からの暖かい配慮で、源次郎も異議なく
 了承して諸城を明渡し始めました。 去る廿八日九日の間に必ず出頭する旨
 勘兵衛殿へ相談したようですが、どうした事か一夜の間に状況変り、連絡が
 無くなっております。 この状況は勘兵衛殿へ申上げるべきですから、此処
 には書載せません。 宜しくお願いします。
                          恐々謹言
     三月朔日   忠恒        *慶長五年か
     伊奈図書頭殿  
註1.庄内の乱では家康の指示で山口勘兵衛が下向して調停に当っている。

38義久公書状
 御家門様より御書を下され謹んで頂戴致します。 抑(そもそも)今度御一門
 に加えて戴き、ご紋、裏書をお許しの件、誠に今後の面目は感激に堪えません。
 殊に御太刀一腰及び御馬壱疋は忝く拝領致します。 仍って御祝儀として
 御太刀一腰と御馬鹿毛を進上致します。 この旨宜しく貴聞に達せられたく。
                                  恐々謹言
     六月三日  義久
     伊勢因幡守殿
註1.御家門様: 島津家の外の書状から見て近衛前久(前関白)と思われる。
    義久が一門に加えらたとは何の事かよく分からない。

39勝久の重臣に小倉武蔵守と云う人が居り、久の字迄貰ったとの事。 その
 弟は小倉隠岐守と云ったが番頭だったと言い伝えられている。

40喜入摂津守季久は義弘公の家老である。 此季久は臆病な人で、朝鮮
 泗川の大合戦でも敗れ、その外でも合戦の時は数度敗れたと云う。 
 しかし軍評定やその外の評定の時は、季久が居ないと会議が纏まらないと
 云う程の人の由。

41当国で有名で目立つ名所とは、薩摩出水の隼人の瀬、同川辺の郡内の
 沖の小島、同坊津の唐湊、大隅国分のなげきの森、同所気色の森等である。
 そして又国内で目立つ名物とは野駒茶入、茶碗類、桜島蜜柑、七島鰹ぶし、
 赤貝、塩辛、小蟹、海鼠(なまこ)、硫黄、樟脳、生蝋(きろう)、菜種子、
 桴松、国分たばこ、錫、燻鮎、鉄等である。

42伊集院源次郎忠真が野尻で誅殺される日の朝、飯の上に血が浮かんで
 いた。 しかし気にせず、不吉の兆候とは思っていなかった。 不思議な
 事だが、この様に云う説もあるので書付けて置く。 忠真の墓は一本松の根元に
 石碑があると言う。
註1.慶長七年家久が上洛する途中、野尻(現小林市)で狩をするからと忠真を
 誘い、忠真を家久の家来が獲物と間違って撃ったとして射殺したと云われる。

43高隅のつんぼうと云う刀鍛冶は東与左衛門祐巴と銘を打っていた。 其後又
 東与左衛門忠久と打った。 或人が忠久は当家の御元祖の名前だから、別に
 付ける様に云ったら、それ以後東与左衛門とだけしか打たなくなったとの事。

44徳田太兵衛は日当山の地頭だった。 日当山の人々は馬鹿な事をすると云う
 噂があった。 太兵衛が殿様の御前で咄をする時、咄が尽きると、私の地頭所
 日当山の人々はこれこれの馬鹿な事をしますと云う。 それ程でない事でも
 馬鹿をした様にして咄を続けたと云う。 それ故それ程馬鹿な事をしなくとも、
 馬鹿な事をしたと言い習わした由。

45伊集院源次郎忠真家来の小川半助、内村半平兄弟の塚が、柳川原にある。
 貞享年中(1684)に新田開発で排水溝を掘った時、この塚を掘り崩し白骨が
 出たが、誰も処理せず放置していた。 その他古い刀や鑓等も多数出土した
 と言う。
 ところが掘出した人は日を置かずノイローゼに陥った。 巫女が祈った処
 その病人は、我は小川半助である、身は土中で朽ちたが名は此世に留まって
 いる。 古い骨だからと捨て置くとは恨み憤るものであると云った由。

46泉又太郎忠辰は朝鮮で在陣中、許可も得ずに陣を外れ帰国したので
 秀吉公の怒りを買い改易になった。 
 忠辰は梅北宮内左衛門国兼に同調して事を起そうとこっそりで帰ってきた。 
 どんな理由で帰国したのかと尋ねられたが答え様がなく、長い在陣で家が
 恋しくて帰った由申上げたら改易になったとの事。
註1.島津薩州家第七代(1565-1593)秀吉の九州平定の時早く降伏して本領
 出水が安堵された。 朝鮮の役で戦線離脱で秀吉の怒りを買い、領地没収し
 石田三成と細川幽斎に与えられたという。

47家久公は庄内の乱で在陣の時、 財部の日光神社へ参拝して戦の勝利を
 祈った。 その夜自分が乗っている馬が足を傷めた夢を見たので、不吉の
 兆候ではと気分が宜しくないと側勤めの人々へ話した。  
 新納武蔵守が御前へ出て、是は目出度い夢です、馬が足を傷めたのは
 殿が出馬せずとも勝つと云う事ですと云えば、家久公も機嫌を直し、武蔵は
 文武の道だけでなく、よくも合わせて云うものだとあった。

48家久公が江戸参勤の時、有馬温泉に湯治に立寄った。 この所に梨の木が
 あり、花が散る時節だったので其歌を詠めと徳田太兵衛に云った。 
 則太兵衛は
   此度は 快気有馬の 湯に入て 病はなしの 花とこそ散
 と詠めば御機嫌宜しかった由。
 又湯治に行く途中の通り道に梨の花が咲いており、殿様へ花が散掛るので
 不吉だと機嫌が悪かった。 太兵衛はお供していたが、歌を詠みましょうと
 云い、右の歌を詠めば御機嫌宜しくなったと言う説もある。

49大隅国帖佐の寺に伊集院源次郎忠真の位牌がある。
 伊予松山の城主松平隠岐守の内室から忠真の菩提のためとして、所領を
 寄付し、自身の筆で一通の書を書いてこの寺に与え、今でも其書付があると
 言う。 この内室とは忠真の息女である。
註1.伊集院忠真と家久妹お下の間に生まれた息女は千鶴と云ったが、
 忠真死後、家久の養女となり隠岐守に嫁いだ。

 旧伝集最終