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(文書表紙)
慶応二年寅八月これを写して置く

薩隅日琉球国支配定ならび御答書

        持主
          永濵万兵衛
(本文)
御向条書
     宝永七年(1710)幕府使節小田切・永井・土屋の三氏が
     巡回の時、薩摩では市来早左衛門と吉井伊兵衛に質疑応答を
     用意させた。
  
   ○公式石高及び藩庫及び士、寺社に配分した給地分
  領国(鹿児島藩)合計石高 七十二万九千五百六十三石六斗三升壱合
    内訳 薩摩国   三十一万五千五石六斗      
       大隅国   一七万八百三十三石四斗五升一合
       日向諸県郡 十二万二十四石五斗八升  
       琉球国   十二万三千七百石余       

   上記合計より 庫入り分給地   二十三万四千石余   
          諸士・寺社給地 四十九万五千五百石余      
      
   ○領国郡郷内訳
 薩摩国十三郡
  伊佐郡十ヶ所 大口 山野 羽月 佐志 黒木 鶴田 宮之城 山崎 大村 蘭牟田
  薩摩郡九ヶ所 百次 山田 隈之城 平佐 高郷 中郷 東郷 樋脇 入木
  鹿児島郡二ヶ所 鹿児島 吉田
  日置郡七ヶ所 日置 吉利 永吉 伊集院 郡山 市木 串木野
  阿多郡三ヶ所 阿多 田布施 伊作
  川辺郡七ヶ所 川辺 加世田 山田 鹿籠 坊泊 久志 秋目
  甑島郡一ヶ所 甑島
  頴娃郡一ヶ所 頴娃
  指宿郡二ヶ所 指宿 山川
  給黎郡二ヶ所 給黎 知覧   
  谷山郡一ヶ所 谷山
  出水郡五ヶ所 阿久根 長嶋 野田 高尾野 出水
  高城之郡二ヶ所 高城 水引
 大隅国八郡    
  菱刈郡四ヶ所 曽木 馬越 本城 湯之尾
  桑原郡五ヶ所 吉松 栗野 横川 日当山 踊
  姶羅郡五ヶ所 蒲生 山田 帖佐 加治木 溝辺
  曽於郡九ヶ所 曽於郡 清水 国分 敷根 福山 財部 末吉 市成 恒吉
  肝属郡八ヶ所 内之浦 高山 姶良 大姶良 串良 鹿屋 高隈 百引
  大隅郡八ヶ所 牛根 桜島 垂水 大根占 小根占 田代 佐多 新城
  熊毛郡一ヶ所 種子島  
  馭謨郡一ヶ所 屋久島  *ごまぐん
 日向国諸県郡廿ヶ所 吉田 馬関田 加久藤 飯野 小林 高原 高崎
           野尻 綾 高岡 穆佐 倉岡 高城 山之口 都城
           勝岡 松山 志布志 大崎 須木
   
   ○領内人口
  男女十五万五千百九十七人
    内 武士一万六千三百十三人 (城下士、郷士)
      武士家内男七万五百四十五人
        但し私領士、武士家来含む
      上記家女六万八千三百三十九人
        但上に同じ
  外男十五万九千百二十七人 寺社、町人、在郷百姓
   女十一万八千百三十一人
    合計人数四十三万二千百五十五人 但琉球及び道の島除く
   
   ○薩摩、大隅、日向諸県の周囲長さ
 大隅国周囲   百五十五里十一町四十間四尺
 薩摩国周囲   百三十里二十六町一六間三尺
 日向国諸県郡  九十五里七町十間半が此方領地
 領国総周囲   二百二六里四町六尺
  内五十三里二十九町六間二尺  海岸周囲
   百七十二里十町四間四尺   陸地周囲

   ○領国の広さ道程
・北の出水(肥後境)から南東の佐多岬迄 四十里(内海路十八里)
・北東の高岡(諸県郡境)より南西の泊津迄 四十四里(内海路十里)
  
   ○鹿児島より諸所境目迄の道程及び山川から同海路の距離
・此方城下より高鍋境迄の道程廿七里、此方は田尻村、彼方は嵐田村
・佐土原領、大道筋は公領境で此方は田尻村、彼方は本城村
・出水境の谷より牛の峠迄合計道程七拾里
   内海上三里半但山川より大根占の鳥浜迄
・山川より小根占迄三里程、谷山と喜入の間より垂水迄六里程
・山川より鹿児島迄十三里、山川より福山迄二十一里
・鹿児島より
  出水・肥後境迄二十五六里程、加久藤球磨境迄十七八里程
  高岡・高鍋境迄二十六七里程、寺柱・仮肥境迄二十四里程
  志布志・福島境迄二十一里程
   
   ○他国(他領)へ通路の検問番所
 野間之原(出水)小川内(大口)球磨(日向加久藤)紙屋(日向野尻)
 吉川(日向高岡)樺山(都城)寺柱(都城)八御ケ野 
 夏井(以上日向志布志)

   ○異国船監視所
 米之津 脇本 長嶋 (以上出水の内)  
 上甑嶋里村 中甑 下甑手打 (以上甑島の内) 
 倉津(阿久根の内) 景泊(水引の内)
 片浦 坊津 (以上加世田の内) 山川 泊尻〈以上山川の内)
 川尻(頴娃の内)渡(指宿の内)大泊 内之浦(以上佐多の内)
 波見(大隅高山の内)志布志(日向)川口番所(倉岡の内)口之永良部嶋(屋久島)
 得之嶋(屋久島の内)中之嶋 宝島(以上七島の内)屋久島(大隅)
  これらの津口番所には城下より士両人配置し交代勤務します。
   
   ○遠見番所十一ヶ所
 長嶋 多田崎(出水) 阿久根 羽島(串木野)
 脇本(出水)市木 片浦(加世田)春日嶽〈坊の内)
 石垣(頴娃)立目崎(佐多)火崎(内の浦)
   
   ○火立番所十二ヶ所 *のろしを上げる番所
 里村 中甑(以上上甑)手打(下甑)西方(高城の内)
 京泊(水引)寄田(高取) 羽島 唐船ケ尾(以上串木野)   
 湯田(市来)飯牟礼嶽(伊集院)横井 草牟田(以上鹿児島)
  これらの遠見番所や火立番所には二人配置しているかとお尋ねになったら
 番人を三人宛配置しています。遠見番所については年中空白が無いように
 勤めています。 上記以外にも二月から九月迄は島々、浦々の海上が見える
 山々へ昼夜遠見番を配置しております。
 更に上記以外に琉球国嶋々にも番所を二十三ヶ所設置しています。

    ○湊数十四ヶ所
  山川(薩摩 船検問所あり)秋目(加世田 検問所)片浦(薩摩)知覧角之浦
  坊津(薩摩 検問所有)京泊(水引)倉津(阿久根 検問所)脇本(出水 検問所)
  米之津(出水 検問所)長崎景のうら 長崎倉戸  内之浦
  佐多大泊(検問所有り)加世とう せきなん浦 火之浦
  すそ里 ふた浦 大和田 脇崎 垣追 から嶋   
   以上九ヶ所は薩摩長嶋にあり、通常は大船出入ありませんが、
   日和により大船が碇泊する所です。
 
    ○湊数八ヶ所
 ・京泊(水引)川添水上三里廿町潮入
  湊口広サ二町、干潮時の深サ四尺、満潮時 二尋二尺
   西風南風の時船出入は不自由、洪水時は碇泊できない。
   大船三百艘程碇泊可能
  京泊より片浦迄海上二十三里
  船数五拾八艘
   内漁船八艘、五端帆以下四十六艘、六端以上四艘
 ・片浦(薩摩)
  湊口広サ四町五十間、奥行十三町、深サ十九尋
  西風南風で船繫ぎ自由、北風東風船繫ぎ不自由
  片浦より坊之津迄海上八里
  船数四拾弐艘
   内漁船三十七艘、五端帆以下五艘
 ・坊津(薩摩)湊口広サ三町四十間、奥行十二町、深サ三拾六尋
  大船三十艘程繫げる
  何風でも船繫ぎ自由、湊口になれ瀬が多い
  坊津より山川迄海上十三里
  船数八十艘、
   内漁船四十五艘、五端帆以下九艘、六端帆以上十六艘
 ・山川(薩摩)湊口広サ四町四十弐間、奥行七町四十八間、深サ三十尋
  大船二百四五十艘繫げる
  何風でも碇泊自由
  山川より鹿児島迄海上十三里
  船数百十八艘
   内漁船三十七艘、五端帆以下七十三艘、六端帆以上八艘
 ・大泊(大隅)湊口広サ三町四十間、奥行三町四十間、深サ七尋一尺
  大船三十艘程繫げる
  東風西風の時は碇泊不自由
  大泊より内之浦迄海上十八里
  船数十九艘
   内漁船十一艘、五端帆以下八艘
 ・内之浦(大隅)湊口広サ十七町入三十町、深サ三尋
  大船五十艘程繫げる
  南風西風の時船繫ぎ自由、東風北風の時船繫ぎ不自由
  内之浦より柏原迄海上五里
  船数百一艘、
   内漁船七十艘、五端帆以下廿三艘、六端帆以上八艘
 ・柏原(大隅)湊口広サ十四間、深サ三尺、満潮時は広サ四十間余、深サ七尺
  干潮時は水底一尺、但川添水上三十町程潮入
  湊口一町程に浅瀬有り
  大船五六艘程繫げる
  東風北風の時船の出入が不自由
  柏原より志布志迄海上五里
  船数数百五艘
   内漁船六十三艘、五端帆以下三十艘、六端帆以上十二艘
 ・志布志(日向諸県郡)
  小川有、大船出入不可
  片浜、但し西風の時船繋げる
  志布志より高鍋領福嶋迄海上三里
  船数百十七艘
   内漁船五十二艘、五端帆以下五十六艘、六端帆以上九艘
   以上の外には船の碇泊場所はありません。 尚小湊は除いています。
     註:一尋=六尺=1.8メートル 水深表示によく使う
       一里=三十六町=約4キロ 一町=約110m

    ○船数及び運賃
 ・四枚帆以上の船数四百三十二艘 
   内八十九艘         薩摩守供立の関船(軍船)
     十七艘         薩摩守所属荷船
    三百二十六艘       商売荷物運送船
      内東目(大隅、日向)  百三十九艘  
       西目(薩摩)     百十九艘
       諸嶋         六十八艘  
  船運送賃:大坂迄は米の場合一石につき二分、小船の場合は
  帆一反に五分。 薩摩半島小松原より大坂迄は一石につき、
  一分と飯米三合五夕。同所より江戸へは二分と四合五夕。
  此外場所により高下があります。
    註1:四枚帆=四端帆=四反帆と思われ、荷船なら50石積程度
       大型荷船千石船の帆は20反‐25反、船全長は16m程
           500石積船の帆は16-19反、船全長は約13m
    註2:米一石=150㎏  銀二分 現代価値約200円

    ○牧場十八ヶ所
 ・吉野(薩摩) 馬四百八十三疋 ・福山野(大隅)馬二千二百六十三疋
 ・寄田野(高江)馬三百三十三疋 ・瀬崎野(出水)馬四百二十五疋
 ・伊作野(薩摩)馬百九十二疋  ・春山野(大隅)馬四百五十六疋
 ・高牧野(鹿屋)馬三百八十五疋 ・長嶋野(薩摩)馬七百九十二疋
 ・笠松野(東郷)馬七十五疋   ・市来野(薩摩)馬三百五疋 
 ・頴娃野(薩摩)馬二百六十一疋 ・野間野(加世田)馬百六十七疋
 ・下甑野(薩摩)馬百二十一疋  ・末吉野(大隅)馬五百疋
 ・馬牧野(大隅)馬三十八疋   ・青色野    馬四十疋
   
    ○名所
 ・隼人の瀬戸(大隅国の内) ・沖の小島(薩摩川辺郡の内)
 ・唐の湊 (同川辺郡の内) ・奈毛気木(なげき)の森(大隅国分郷)
 ・気色(けしき)の森(同国分)

    ○島嶼の事
 ・薩摩川辺郡の島
  硫黄島 黒島 竹島 七島 口之嶋 中之嶋 平島 臥蛇嶋
  悪石嶋 諏訪野瀬嶋 宝島
 ・薩摩甑島郡の島
  上甑 下甑
 ・大隅国の島
  桜島(大隅郡)種子島(熊毛郡)屋久島(馭謨郡)永良部嶋(同)
  
    ○山岳の事
・開聞嶽(薩摩頴娃郡) ・野間山(同川辺郡加世田)・冠嶽(薩摩串木野)
・金峯山(阿多郡田布施)・矢筈嶽(薩摩出水)   ・上宮嶽(伊佐郡鶴田)
・高隈嶽(肝属郡高隈) ・霧島嶽(日向諸県郡)  ・白鳥山(日向飯野)
・法花嶽(日向高岡)
   
    ○領国中産物
・野駒  ・茶入  ・硫黄    ・茶碗及び皿の類
・樟脳  ・生蠟  ・樫子    ・桜嶋蜜柑 ・稗(ひえ)
・米   ・栗   ・黍(きび) ・七島鰹節 ・麦
・大豆  ・赤貝塩辛・小麦    ・蕎麦   ・胡麻
・唐芋  ・芋   ・酒     ・塩(但不足、上方より購入)
・桑 少々・漆少々 ・八重成   ・熬海鼠(いりこ)  ・茶
・柿   ・菜種子 ・大角豆   ・紙    ・木綿 
 但し木綿は少しはできるが、品質悪く上方より購入して国用に供する
・鉄   ・棕櫚(しゅろ)
 上記の内場所により植えない物もあります。上方及び長崎で売り払い、
 江戸屋敷の費用にする物としては米・菜種子・生蠟・樟脳です。
 此の他は領内から出る事はありません。
・呉服品々 ・木綿 ・紙木綿 ・布類 ・薬種  
・鍋釜、少々は当国で揃います。・銅 ・椀・折敷の類
・塩物、その外品々
  これらは上方や他国より買入れて商売にします。

     ○延喜式神名帳(927年成立)に載る神社     
・加紫久利神社
 延喜式に載る薩摩国二座の内で出水郡小加紫久利神社とあるのは
 この神社の事です。
・枚聞神社(ひらきき)
 延喜式の載る薩摩国二座の内で頴娃郡小枚聞神社とあるのは
 此神社です。此れは天智天皇后の霊廟です。
 枚聞を俗に開聞とも書きます。
・鹿児島神社
 延喜式に載る大隅国五座の内で桑原郡一座大鹿児島神社とあるのは
 今国分郷にある正八幡と云う大社です。
・大穴持神社(おおなむじ)   国分郷にあり。
・宮浦神社           福山郷にあり
・韓国宇豆峯神社(からくにうずみね) 国分郷にあり
 これらは延喜式で大隅国曾於郡三座、並・小とある三社です。
・益救神社(やく)       屋久島にあり
 これは延喜式で大隅国馭謨(ごま)郡一座小と有るのは此神社です。
 延喜式では益救を「スク」とカナが振ってありますが、馭謨郡屋久島に
 あった益救神社の事です。昔は屋久島を益救と書いた事が本朝文粋でも
 確認できます。
・西霧島神社 別当大隅国曽於郡 霧島山花林寺
 これは延喜式で日向国四社並小の内として諸県郡一座、霧島神社は
 この社です。地神三代の瓊瓊杵尊降臨の地で日本最初の峯と云われて
 います。 社領五百四拾四石
 これ以外の三社は此方の領地にはありません。但し別当寺は大隅に
 あります。
   
     ○延喜式以外の神社(延喜式神名帳にない神社)
・八幡新田宮    薩摩国水引郷
 これは地神三代瓊瓊杵尊の霊廟である可愛の陵です。
 高城千臺であるから郡の名を高城郡とし、この辺を千臺と
 云いました。ところが千臺の字を後には千代・川内等と書誤り
 ました。昔の宮中、将軍、探題、国主からの文書が多数此神社にあります。
 社領八百十七石
・日吉山王 (大隅国清水)真言宗 衆集院 別当 臺明寺
 これは上代の霊地で綸旨、その他文書等多数あります。
 天智天皇の時代より青葉の笛の竹を貢納する所と定めた証文等が
 あります。
・住吉三所大明神
 日向国諸県郡に有りますが大隅国との境目であり、今は
 大隅国内に霊跡があり曽於郡末吉郷に所属します。
 これは住吉明神の本社で、檍ケ原にある檍明神の社です。
 此処が霊跡である事は日本紀、神社考及び釈日本紀にも
 筑紫日向国檍原に出現したとの趣旨が見えます。小戸池、橘嶽の
 高跡は慥にあり、上津・中津・下津の神社があります。これらは全て
 前述の神書にある霊跡で此地より神功皇后が摂津国墨の江に
 遷宮なされた事が見えます。 これによって神祇官の吉田兼連朝臣は
 此住吉明神の縁起を天和三年(1683)に書記し、当所を本社と
 極めております。
・山口大明神
 天智天皇が下向の際此地で崩御されたので山口大明神に崇めたとの事です。
・飯熊山新熊野三社大権現 日向国大崎 別当飯熊山 飯福寺 慈信院
 これは古い院家で、別当は代々本山流山伏が勤めており、聖護院宮様より
 薩摩大隅日向諸県郡の年行司職に補任されています。正式文書も頂戴して
 おり年々宮中で御札守を献上する勅願所で今も続いております。
 勅願所の由緒については前の住持である遷光院が中院(なかのいん)
 内大臣の猶子になり、その子である今の住持蓮光院は中院大納言の
 猶子になり、聖護院宮より木蘭色袈裟の免許を得て着用しています。
 社領高四百三十石余
    
      ○寺院について
・御朱印寺(徳川家朱印寺社領の寺)が有るかとお尋ねがあったら、
 薩摩守領内には御朱印寺社は有りません。然しながら国分宮内五山流
 霊鷲山正興寺は十刹の内です。先の住職玄昌西堂とは文之和尚の事です。
 権現様(家康)の印のある住職任命書を三通頂いております。
 近年では先代住職、守芳西堂は常憲院様(五代将軍綱吉)印のある
 任命書二通を頂いておりますが、御朱印寺という事ではありません。。
・真言宗 医王山 正智院 泰平寺 薩摩水引
 元明帝が手づから薬師の像を彫刻され、和銅元年(708)当寺を建立とあり、
 叡山の本堂、京都因幡堂と並び当寺は本尊合三薬師との言伝があります。
 暦応三年(1340)源直義朝臣(足利直義)が院宣を承り、一国一基の
 塔婆を立てて仏舎利を一粒ツヽ奉納され、直義卿のご証文があります。
 天正十五年(1587)太閤秀吉公が当国へ攻め入られた時、此寺を本陣に
 され、義久入道龍伯は当寺でお目見えしました。 今の寺領は二十石余です。
・以前は泰平寺薬師堂に医王宝殿の額を掛けていたとの事だが、今は
 見当たらないとお尋ねがあったら、薩摩伊佐郡に大願寺と云う天台宗の
 古跡がありました。
 此寺の薬師堂に足利将軍鹿苑院義満公の筆による医王宝殿の額が寄附
 されました。ところが此大巌寺はかなり以前に壊れたので額を当寺へ
 預けました。幸いに当寺の本堂は薬師ですから当額を掛けて置いたものです。
 その後当国三代前の国主(嶋津光久)の時、大願寺を城下へ移して
 再建したので同額を大願寺へ返したものです。依って泰平寺には額は無いと
 の事ですと答える事。
・律宗 秘山 密教院 宝満寺  日向志布志
 正和五年(1317)開基 花園院法皇の勅願所である奈良の西天寺の末寺です。
 暦応三年(1340)源直義朝臣家に院宣が下り、一国一基の塔婆を立てて
 仏舎利を奉納した寺です。寄進状は今でも所蔵しています。 
 寺領高三十石
 前述仙洞御所の勅願所ですから、天皇の譲位とか住職の拝命の時は
 院に参上して御札を献上してきました。
・臨済宗 関山流 龍興山 大慈寺  日向志布志
 暦応三年(1340)勅願により創建の寺です。
 寺領高は四百四十六石で、当住職は菖安和尚と云う紫衣の僧です。
・真言宗 如意珠山 一乗院 西海金剛密寺   薩摩坊津
 後奈良院の勅願で西海金剛峯の宸筆による勅額があります。
 敏達天皇の時代、百済国日羅居士が来朝した時に開闢の寺です。
 寺領は二百五十六石です。
・臨済宗 南禅寺流 泰定山 広済寺  薩摩伊集院
 この宗派では古い寺です。 寺領三十石です。
・曹洞宗 法智山 妙円寺       薩摩伊集院
 古いお寺ですが、薩摩守の先祖である兵庫頭義弘入道惟新
 が菩提所にして寺領三百七十五石を寄付しました。
・曹洞宗 龍護山 日漸寺  薩摩加世田 
 これは薩摩守先祖、相模守忠良入道日新の菩提所で
 寺領は二百三十三石です。
  
      ○東照宮及び将軍家位牌所
・権現様(徳川家康)の御宮及び代々将軍の位牌を置く所が
 があるかとお尋ねがあったら、
 当地城の続きに崇めています。これは鹿府と答える
 城下で崇めております。これは諸郷と答える
・将軍家を祀る別当寺はあるかとお尋ねになったら、南泉院と云う
 別当寺がありますと答える事。
・何時頃から別当寺を指定したかとお尋ねになったら、当薩摩守祖父
 大隅守(光久)の代と申し上げ、遷宮遷座致しましたと答える事。
・その別当寺の寺領をお尋ねになったら五百石寄附と答える事
・その寺領は前々から寄附されたかとお尋ねになったら、以前は蔵米
 で諸事賄っていました。 近年になり知行高で寄附致しました。
・その別当寺は前々から有ったのか、それとも今度指定したのかと
 お尋ねになったら、大願寺と云う天台宗の古い寺を大隅守の代に
 城下に引き移しました。近年に上野准后様へ願って南泉院と
 改名して戴きましたと答える事。
・その寺の山号に付いてお尋ねがあったら、大雄山と云う由ですと
 申し上げる事
・住持についてお尋ねがあったら、昨年頃准后様が大和吉野山の
 願玉院権僧正を南泉院兼任の住持に任命されました。
・その前の住職は何方の人かとお尋ねがあったら、当領では天台宗は
 昔は繁昌していましたが中古には衰えて少くなり別当寺として
 住職が永住する程でありません。 そこで薩摩守の菩提所である
 福昌寺から禅宗の僧が兼職で勤めており、年廻りの法事等は
 禅宗で勤め、又は日向の領分中にある神徳院と云う天台宗僧も来て
 法事を勤めておりました。これでは十分でないと薩摩守が知り、
 近年准后様にお願いして天台宗の住職を定めました。
  註:准后様とは公弁法親王(1669-1716)後西天皇皇子、天台宗座主


    ○鹿児島城下の祈願所および菩提所
 鹿児島中の祈願所及び菩提所の石高のお尋ねがあったら、薩摩守の
 先祖代に方々に菩提所を立てました。 城下に有る分以下の通りです。
・真言宗 経囲山 宝成就寺 大乗院  寺領八百八十二石程
・曹洞宗 玉龍山 菩提所  福昌寺  寺領千三百五十石。   
・曹洞宗 松原山 菩提所  南林寺  寺領四百六石
・曹洞宗 貴照山 菩提所  妙谷寺  香積三百八十石
・曹洞宗 太平山 菩提所  興国寺  香積二百石他仏飯米現米六石
・曹洞宗          恵燈院 香積百七十石他仏飯米現米十二石
・時衆宗 松峯山無量寿院 菩提所 浄光明寺 香積四百石
  以上は城下にある祈願所及び薩摩守の先祖菩提所であり相応に寺領高
 を寄附して居ります。
・臨済宗 五山流 瑞雲山 大龍寺   寺領現米三十石
・浄土宗 泰泉山 無量寺 不断光院  寺領二十石
 上記二ヶ所は薩摩守の菩提所ではありませんが、城下における一宗の
 触頭です。
   註1:香積こうしゃく=寺禄か?
   註2:触頭とは寺院統制機構の一つ、寺社奉行の下で宗派本山の
     上意下達を仲介する役目を持つ。
   
    ○平佐城及び秀吉公の本陣の事
・平佐城(薩摩国平佐、現川内)
 修理太夫義久の代、天正十五年四月廿八日に秀吉公の京都軍
 が当国を攻め、先手は小西摂津守・脇坂中務少輔殿・九鬼
 大隅守殿等でした。この時平佐城は義久家来の桂神祇忠時と云う
 者が堅く守っており落城しません。 
 一方日向国高城の自白では同月十七日の一戦後、高野山の木食商人や
 安芸の安国寺恵瓊等の調停で和睦が成立しました。 そこで義久より
 神祇に下城する様に指示しました。平佐の城を明け渡した後、
 秀吉公は神祇を召して刀を与えました。
 日向口の攻手の大将は羽柴美濃守秀長殿で先手は黒田官兵衛、
 後詰は宮部善祥坊等が高城の近く自白に陣を作っていました。
 義久の弟兵庫頭義弘、中務少輔家久等が自白の京都軍を攻めましたが、
 先に布陣していた美濃守軍に義久軍は敗れたものです。
 この高城の城は義久の家臣、山田越前有信と云う者が守って居りました。
・猫嶽(薩摩国高城郡の内)
 ここは京都軍が平佐城を攻めるために陣を置いた所で、秀吉公の
 本陣は水引の泰平寺にありました。
・天堂ケ尾(大隅国曽木)秀吉公陣所
 秀吉公が右陣所に滞在した時、此地では義久家来の新納武蔵忠元と
 云う者が大口城に立籠もり堅く守っており、京都軍は兵糧確保に
 大変困っていました。しかし義久が秀吉公と和睦したので其事を武藏に
 伝え下城を命じました。 
 武藏が天堂カ尾の秀吉公陣所へ出ると、秀吉公は武藏に面会し長刀と
 羽織を与えました。 その後秀吉公が肥後の方へ帰陣する際、途中の
 卯月薗田と云う所で武藏が見送ったところ、秀吉公は扇子を武藏に
 与えました。 
 この時拝領した長刀、羽織、扇子は今でも武藏の子孫が所持しています。
 これ以外京都軍と対峙した古城や古戦場が多数ありますが際限がないので
 書き記しません。
・建昌(大隅国帖佐の内)  旧名 瓜生田
 これは兵庫頭義弘入道惟新の代に居城としたものです。
・新城(大隅国国分の内)  旧名 隼人
 これは義久入道龍伯が城下に屋敷を作らせ住んでいました。
 中納言家久の代にも居住する事を願い許可されたものです。
   
     ○石高、年貢の事
・当国では独自検地により一石は籾九斗六升としている由だが、
 これは何故かとご質問が有ったら、太閤検地以後長い年月
 が過ぎて地質も変わっております。 独自検地を施し、御朱印高に
 引き直すため、籾九斗六升を高壱石として何とか御朱印高近づける
 様にしたのですが、まだ御朱印高には届いておりません。
  註:御朱印高(太閤検地で薩摩に定められた石高)は過大で
   生産実態に合っていない事を示している。公儀(幕府)から
   課せられる軍役、手伝い等は御朱印高に基づく。薩摩が秀吉に
   敗れた直後の太閤検地で敢て石高が実態より高く定められたと
   云われる。 通常一石は玄米換算
・当国の年貢は米の高壱石に対し三割五分(三斗五升)です。
 干害、水害等の時は特別に査定し三割五分以下にする事もあります。 
 尚豊年の時でも三割五分以上の年貢を課す事はありません。
・役米、口米についてお尋ねがあった時は、役米は城内の塀や囲い
 或いは諸道具破損の修復に使うものです。 労役は百姓が勤めて
 いましたが遠方からの勤務が難しいので、一石に付米二升宛供出して
 普請者を雇う事に使用します。 
 口米は納米一斗に付き二合宛用意します。 是は納米の途中の目減り
 の替り及び納米の時の飯米の分として以前から賦課していると
 申上げる事
・殿役米の事を尋ねられた時は、当国は国の端であり他国への
 通行は稀ですから宿馬や雇者は有りません。
、家中士の公用国内往来に百姓伝馬を課しますと、道筋の百姓だけが
 伝馬を勤める事になり、辺地の百姓は伝馬をする必要がありません。
 国中平等に負担させたいと持高の石数に応じた出米をさせて、伝馬の
 百姓への賃金としております。この出米は持高一石につき一升程です。
・用夫銀はどの様な理由で掛けているのかとお尋ねがあったら、
 領主に対し、百姓は一人年に六日労働奉仕を決めております。
 これに付いても遠方から勤める事は難しい為、一日に一人銀五分宛
 積立て年に銀三匁を以前から納めています。但し近くの百姓で自身が
 勤める事は出来、この場合には用夫銀は納めません。
 この場合蔵入の方も六日の仕事をしたと云う事で用夫銀も用意します
 と申上げる事。

・新竿(検地)の事をお尋ねになったら、新竿はありませんが以前からの
 御朱印高(公式石高)が多いので実態は不足しております。少しでも
 田畑が出来る様にと考えて新田開発を奨励しています。
 これらの田にも甲乙がありまして、百姓達も気にしているので、検地を
 行い、その所の善悪、運送の遠近を考慮して、四分―六分又は半納にして
 百姓の生活も出来る様に段階的に年貢を納めさせる様にしております。
 この様に新田を奨励して徐々に増えていますが、いまだに御朱印高には
 届いておりません。
・新田に付いて詳細のお尋ねがあったら、前中納言の時から地不足があり、
 基準を下げても御朱印高に及ばないので新田を開く事を奨励してきました。
 段々新田も出来てきましたが、未だに満たされない状況です。
・新田を開けば出来た所もあるのでは、とお尋ねがあったら、当国は百姓
 が不足しており、新田もなかなか難しいです。
・昨今どれ程の新田があるかとお尋ねになったら、長年の間に少しづつは
 開き、凡そ三万五千石余程ありますが、現高に結びつくものはありません。
、古田の方で是迄二万石の損地が有りますので、損地を新田で埋合わせても
 御朱印高の不足分を解決できません。
  註:御朱印高と実態がかけ離れた原因と思われる文が薩州旧伝集にある。
   「当国は細川幽斎老等が派遣され検地をした時、大名は石高の数字が
    多い方が良いとの事で、野も山も検地の竿を打ち込みんだという。
    これは考えがあっての事と云う。当国は石高の数字は地面広さに
    対応している由」。 これによると、検地された野山を全て開拓
    しない限り実態に合わない事になる。 一般に太閤検地では田、畠、
    屋敷等に限り広さを計り生産可能石高で表示した筈である。
   

    ○嶋津家の由緒概要
・当家嶋津の元祖は豊後守忠久と云います。源頼朝の長庶子で
 八才の時、文治二年頼朝より文書で薩摩、大隅、日向国を
 拝領しました。 忠久公の子である大隅守忠時、孫の下野守久経
 の三代は東鑑(吾妻鏡)に載っております。
 元祖より今の薩摩守吉貴迄二十一代目となります。
・太平記に嶋津上総入道とあるのは忠久から五代目上総介貞久の
 事です。その外で太平記に見える嶋津姓の者は庶流です。
 ところが新田義貞に降参した嶋津四郎と云う者が本にありますが
 これは嶋津家の者ではありません。その証拠に参考太平記でも
 曽我奥太郎時久であり、島津家所蔵の太平記でも曽我奥太郎時久
 とあります。

・日向国新納院高城で大友家と合戦があり、大友家が敗れたのは
 天正六年(1578)十一月十二日です。今の薩摩守吉貴の六代前の
 先祖修理太夫義久入道龍伯の時代です。
・肥前国嶋原で龍造寺山城守隆信と合戦をしたのも前述龍伯です。
 その時大将分として派遣されたのは三番目の弟嶋津中務家久
 と云う者です。 隆信を討取った者は川上左京久堅と云う者で、
 天正十年(1582)三月廿四日の事ですが、今でも久堅の子孫は
 おります。
・豊後国で大友家と合戦し、天正十四年(1586)三月十二日に勝利
 したのも前述の中務家久です。
・太閤秀吉公が薩摩へ入られたのは天正十五年(1587)四月廿五日
 の事です。 泰平寺へ着陣されたのは同月廿八日です。 先手は
 小西摂津守殿、九鬼大隅守殿、脇坂中務少輔殿で薩摩平佐の城を
 攻めました。この城を預かっていたのは桂神祇忠時と云う者で今も
 子孫が居ります。日向国方面からの総大将は羽柴美濃守殿で、先手
 は黒田官兵衛、宮部善祥坊で日向自白と云う所へ押し入り陣を築き
 ました。その後安国寺恵瓊、高野山の木食上人等の調停で和睦になり、
 同五月廿日龍伯が泰平寺へ行き秀吉公にお目見えしました。

・高麗(朝鮮)へは義久入道龍伯の弟兵庫頭義弘と嫡子又市郎久保が
 共に参加し、文禄元年(1592)一月廿七日に大隅国栗野と云う所から
 出発しました。薩摩国出水から出船し、肥前国の内名護屋へ渡り
 ました。同四月十二日名護屋を出船し、同五月三日高麗の釜山浦へ
 着船しました。引率した軍士壱万余騎、久保は文禄二年(1593)
 九月八日唐嶋で病死しました。この為久保の弟である中納言家久、
 その時は又八朗忠恒と云いましたが、同三年八月伏見より高麗へ
 渡海しました。
・朝鮮において諸将と共に晋州城を攻落とし、其後白瀬で敵方の香船
 (甲船か)破る時も激闘し敵の舟百六十四艘を沈め、唐人(明)
 数千人の首を取りました。更に南原城を攻め落した時も義弘の薩摩軍
 は手柄を立て、敵の首四百余討取り数通の感謝状を頂きました。
 とりわけ慶長三年(1598)十月朔日には義弘父子が守っていた泗川塞館
 城へ明兵二十万余が押寄せた時、戦いに勝利し敵の首三万八千七百余
 討取り、其外切り捨てた数は数え切れません。
 この頃日本総軍が朝鮮より撤収し帰朝する事になっていました。
 ところが同十一月十八日順天在城の諸将は小西摂津守行長を始、
 敵方の軍船に取り囲まれて撤収出来ない状況でしたが、泗川で勝利
 した義弘父子が立花左近将監殿、宋対馬守、寺沢志摩守殿、高橋主膳殿
 と協力して敵の軍船を打ち破ったので順天の諸将は無事に撤収する事が
 できました。この時は多数が戦死したと伝えられています。
 泗川に於ける軍功により帰朝後父子は官位、知行、刀を拝領しました。
 これは太閤の薨御後であったため、五大老連名による感謝状があります。
・義弘父子帰朝は慶長三年(1598)です。
・義久は高麗へは渡航していません。

・嶋津淡路守の家筋は当薩摩守七代前の先祖陸奥守貴久の次弟の
 嶋津右馬頭忠将の二男家です。嫡家は此方に居ります嶋津玄番と
 いう者です。淡路守の居城は日向国佐土原城で前代より嶋津家
 領内で慶長年間始めの頃は義久龍伯の甥である嶋津中務大補豊久
 居城でした。 しかし豊久が関ヶ原の一戦で戦死した後
 家康公のお考えの下で山口勘兵衛殿から庄田三太夫と云う人
 が送り込まれ暫らく御城番をいて居りました。しかし豊久は
 家康公に叛意は無かったと云う事が理解され、佐土原については
 龍伯及び家久の親類の中で城番をする様にとありました。そこで
 慶長六年(1601)龍伯の従弟である嶋津右馬頭征久入道宗如
 が既に家督を嫡子に譲り隠居していましたが、龍伯父子からの
 要請で、隠居の身ながら二男を連れて佐土原の城番を勤めました。
 其後龍伯父子より宗如に佐土原を拝領させたいと願いがあり、
 宗如も家康公に御目見を願い、願が聞き届けられて慶長八年(1603)
 十月宗如に佐土原拝領が許可され直参に成りました。宋如二男
 右馬頭忠貞は淡路守の曽祖父です。

・嶋津八郎右衛門氏の家は当薩摩守の曽祖父である大隅守光久の代に
 嶋津家の氏族だと云う系図を提出して嶋津の称号を許されたと
 云います。大隅守の系図にある嶋津相模守運久の子が出家して
 長徳軒と云う者の子孫と思われます。これに付いては家老の言伝え
 もあるので嶋津の号を名乗るのは自由にと伝えられた由です。

・鹿児島城には何頃から居城されているかと尋ねられたら、中納言
 家久の代、慶長七年(1602)より当城に居ると聞きます。其前は
 当地の大龍寺のある辺りに屋敷を構えて居たとの事です。
 若し城構えが麁末(防備が薄い)の様だがと云われたら、前代から
 居城に構をして居りません。龍伯の代には築地があるだけの屋敷に
 居住して九州全土にも手を構える状態でした。
・当家先祖忠久は頼朝の長庶子で、母は比企判官義員妹の丹波局です。
 忠久は薩摩日置郡満家院厚地村に建保六年(1218)花尾社を建立
 して父母の像を安置して崇めました。平等院と云う別当寺を建立
 して祭詞等怠りません。平等院住職は城下の祈願所大乗院と兼職
 させています。

・犬追者については忠久が鎌倉で稽古し、此道は専ら武士の作法と
 して当家では代々伝承しました。修熟に努め家督相続の際には
 始めの犬追物と云い正式の犬追物が催されました。
 大隅守光久の代、正保三年(1546)四月十三日には江戸王子村
 で犬追物が催され、大猷院様(三代家光)がご覧になりました。
 ところが御先代(五代綱吉)が生類憐みの令を発せられて以来、
 開催は行われなくなりましたが、此の道は武士の心得として
 稽古だけはしております。
・関狩野は当家古来からのしきたりで毎年正月に催し、薩摩守が
 参加できない時は名代が送られます。城下の武士及び諸所に配属の
 武士が大勢集まり、山野を取り囲み鉄砲を打ちます。それには
 作法があり猟師の狩りとは異なるものです。
 これについても御先代より生類憐み令を発せられたので、殺生に
 ついては頻繁に指示しておりますが、此の狩りは特別ですから
 鹿や猪は打たない様にしながら昔からのしきたりを続けて居ります。

・当国の騎馬数についてお尋ねが有った時は以下お答えする事。
 士は沢山居りますが騎馬はそれ程居りません。薩摩守の滞在所
 (城下、江戸屋敷)他在郷の侍でも騎馬の者もおります。
 多くないと云っても軍役に事欠く事はありませんと答える事。
   註:中納言家久が子を北郷家(三万石、後の都城嶋津家)に
     出す時の覚に一万石に付出陣時は馬廿頭出す事になって
     いるから、家中全体で六十頭出す必要があるので家臣が
     出す馬数を決めて置く事とある
・薩摩守が江戸への参勤時に供の諸士に対する手当のお尋ねが有ったら、
 家老持高一万石以上は上下六十人余、一万石以下は五十人程の費用で
 其外役目により費用がかかります。諸士の持高は模相銀で江戸詰中
 は上下関係なく一ヶ月一人に付銀廿三匁宛渡し、船中、道中の費用
 駄賃、旅籠賃等相応の費用を以て船、小屋の畳、道具等は旦那より
 渡します。
・一向宗を禁止している事をお尋ねになったら、当国の一向宗は
 上方方面の宗旨とは違い新宗と云い邪法に等しく、障害をなし
 同宗の親に強く徒党を結び、君子の礼に背き父子の分もなく無作法に
 仇をなします。
     
     ○他国(他領)との往来
・使用人を当国で抱えるには、永代或いは十年、七年、五年と当事者
 同士で決めて採用します。一般的に禁制の宗旨でない事を主人或いは
 その支配頭による証文と本人の宗門手形を添えて召し抱えます。
・上方や他国の者を抱える事があるか、とお尋ねになったら、
 江戸・京・大坂に置く留守居役の者に請人の居所迄見届させ
 請書を持たせて送り込みます。 年季、永代共に現抱え主と
 離別した者を抱える事は禁止して居ります。
・他国者の当領内への出入についてお尋ねに於いては、湊口又は陸地境に
 番所を設けております。他国より入る者は往来切手を確認し、宗旨に
 疑いなければ通過させます。 
 領内何方へかの商売、その他用事で来訪者は月限、日限を決めておき
 通過させます。 此方の領分は異国口でもあるので他国人は念を入れて
 検問する由を申上げる事。
  註 異国とは琉球を指すと思われる。琉球との取引は薩摩に
    限られていた。

・男女一分銀を賦課しているのは何故かとお尋ねがあったら、先祖代々を
 祀る神社仏閣寺院で太守の先祖菩提所修造は蔵方より出費しますが、
 それ以外の神社仏閣はこの一分銀で修復する様にしています。
  註:一分銀は銀一匁の十分の一で現代価値換算凡そ百円に相当する。

    ○借銀(金)の事
・金 三十四万五千両      *現代価値換算 凡そ二百億円余
  内 十二万七千九百両  江戸
    六万八千五百両程  国元
    十三万六千両    京都 
    十万七千両     大阪
    一万一千五百両   長崎
   
    ○屋久島へ異国人上陸の事
・屋久島へ異国人が来た事についてお尋ねがあったら、細かい事は
 分かりませんので、ご質問があれば担当したものに尋ねた上で
 申上げますと伝えて以下申し上げる事。
 屋久島は陸地より十、二十里余の海中にあります。此島の尾野村と
 云う所で去る子年(宝永5、1708)八月廿八日に唐船とは異なる様子の
 帆を多く張る船が東の方へ移動していました。漂着する事もあるかも
 知れないので地元の者達は油断してはならぬと役人から言いつけて
 おりました。翌日に前記尾野村に近接する湯田村と云う村の沖に前日
 見えた様な船が航行していました。北風が強く程なく帆影も見えなく
 なる沖へ去りました。 
 その日湯田村の近くの恋田村の百姓藤兵衛と云う者が松下と云う所へ
 炭焼きに行ったところ、刀だけ差して言葉の通じない怪しい風体の
 者を一人見かけました。早速藤兵衛は帰って百姓二名を連れて元の
 場所に戻り此怪しい人物を藤兵衛の家に連れて行き、其旨村役人に
 伝えました。
 役人達も集まってきて色々質問しても言語も文字も通じず、眼の色
 其外異国人に見えるが、何故か日本人の様に月代を剃り、日本染めの
 衣服をを着ています。 島の事であり、此様な者は島外から来るより
 外は考えられません。前日沖に見えた異船から夜中に下したのでは
 ないかと推量し、囲いを厳重にして鹿児島城下より長崎奉行所へ報告
 して此の異人を長崎へ送りました。
・此異人を発見した時は城下より役人が行ったのかとお尋ねが有ったら
 以下申し上げる事。
 彼の島に駐在する役人は居りますが、用人・目付・物頭始兵卒が
 鹿児島より渡海して、島中の者及び他国から島に滞在中の者全て
 差留めて人別を調査し、前述異人の仲間の者が山中に隠れていないか
 険阻な山中、人の居る所全て探索しましたが不審な者はおりません。
 又月代をして呉れた者、刀や衣服を取り揃えた者が居ないかと島中、
 旅人も含め調査しましたが不審な者は居りませんでした。
・本件に付いて阿波国の漁師及び屋久島の百姓を長崎迄送られた様だが、
 とお尋ねになったら、阿波国から屋久島に来ていた漁師六人が此年
 八月廿八日、沖へ漁に出た時異船を見掛けましたが此船から端船に
 異人達が沢山乗組んで近く迄漕ぎ寄せました。手真似するので法律で
 禁じられているので、ならんならんと手真似したところ楫を切った
 ので漁船も帆を上げ急いで帰り役人に報告しました。此事も長崎へ
 報告したので此六人の漁師及び発見者藤兵衛と彼の仲間二名の百姓
 共に長崎へ送る様に指示ありました。全員吟味がありましたが、
 不審な事もないので帰島を許されました。 阿波国の者達は阿波へ
 返しました。
  註:この異国人はイタリア人司祭ジョバンニ・シドッチと云、
    ローマ法王の指示で布教目的で屋久島へ上陸、スペイン船で
    フィリピン経由で渡海し、刀衣裳、装束はマニラで用意した
    と云う。 
    長崎奉行から更に江戸に送られ、家宣将軍の御用人新井白石の
    尋問を受ける。 五年後江戸で病死。 
    白石は西洋紀聞と云う書を著す。→屋久島に来たローマ人
     
       ○唐船漂着時の処置
・領内に唐船が漂着した時は如何様な処置をされるかとお尋ねがあったら、
 沖に唐船を遠見番が発見すると近辺の浦々には油断せぬように指示します。
 碇を卸ても湊へ引入れて番船を付けた上で中国語通訳を送り、乗組員の
 人数、積荷を記録して城下へ報告すると警固を指揮する役人が到着します。
 勿論江戸や長崎へも飛脚便で報告します。
 その後人数、宗旨等を調査し、唐人二人を質に取り別船に宰領の足軽
 添えて載せ、唐船は浦々の挽船で長崎へ送り唐人より聞き取った書物
 を添えて提出し受取も戴きます。長崎での受け渡し首尾は江戸へも
 報告します。
・更に詳しい事をお尋ねになったら、
 曳船の水夫の賃金は長崎で唐人方より支払われます。警固船一艘、
 質の唐人を乗せた船一艘及び警固宰領、足軽等皆薩摩守の蔵方から
 出費です。 年間に唐船五艘から十艘余りも漂着する事もあります。
 帰唐の節に漂着した場合、破損等なければ飯米・水薪等与えて
 即帰帆させます。帆柱、船具等損傷している場合は帆柱その他用材を
 無償で提供し、修理など終わらせて帰唐させます。長崎を送って
 呉れる様頼まれれば挽船を付けて長崎へ送ります。勿論これらは
 全て江戸、長崎へ報告しています。
 帰船は殆どが銀子の持合せがなく雑費として蔵方より払って
 居り、警固の船や唐人を乗せる船の用意等思わぬ出費が重なります。
・琉球へ唐船が漂着する事はないかとお尋ねがあったら、度々
 漂着しています。甚だしい破損出なければ琉球から帰帆させ、
 その旨鹿児島へ報告し、江戸、長崎へも報告します。
 中山王からの願により、漂着の唐船は破損していても其の侭送り
 返す 事が元禄九年に公儀より許可頂いております。
 切支丹宗門が疑わしい異国船が漂着し、若し破損していれば
 乗組員及び荷物等長崎へ送るように公儀より指示されております。
    
      ○鹿児島城下埋立て拡張の事
・新しい埋立についてのお尋ねに対しては、鹿児島城下の拡張に
 当り海岸五町程埋立て町屋を構築します。
 又船の係留場も作りたく、元禄十四年(1701)江戸でお願いし
 許可されました。 徐々に普請を進め、先ず上町の浜手に石垣を
 築き少し土を盛りました。 しかし土取場が遠く急な完成は
 難しく徐々に進めており未だ完成しておりません。
 尚、石垣は出来ましたので船を川筋に係留する事が出来、風波の
 強い時も係留が自由にできる様になり、船主達はが有難い事と
 感謝していると申し上げる事。

      ○琉球国の事
・琉球国は嶋津家九代太守の陸奥守忠国の時に室町幕府に忠節を
 示した事により、普門院(足利六代将軍義教)より拝領したもの
 です。 永享年中(1429―1441)以来将軍の配下として貢物等
 途切れず送って来て居りました。慶長年中に約束を違えた事
 により、家康公へ藩主中納言家久がお伺いを立てた上で軍勢を
 送り、慶長十四年(1609)夏に改めて薩摩の属国としたものです。
・琉球から中級の官吏一名と上下廿名が毎年鹿児島に在勤していると
 聞くが何方に住まわせて居られるかと聞かれたら、城下に屋敷を
 与えていると報告する事。又屋敷外を出て徘徊する事があるのかと
 尋ねられたら、城下に限り徘徊していると申上げる事。
・琉球人の高位高官
 王子 按司官 三司官 親方 親雲上 施光□
 紫官 黄菅 赤官とあります。
 今年は将軍の代替りでご挨拶として琉球から江戸へ上らせた
 使節は正使美里按司、副使冨森親方、官人十九人を含み総勢
 百人余です。 又琉球の中山王の継ぎ目の年に、お礼として
 江戸に上らせた使者は、正使の豊見城按司、副使の宮平親方
 他官人九人を含む総勢六十人余です。
  註:琉球からは江戸の将軍代替わりに慶賀使、琉球王の新任時に
    謝恩使を江戸に送った。偶々この宝永七年には双方の
    代替りが重なった。
・琉球から唐(清国)へ進貢する品物を尋ねられたら銅・鉄ですと
 申上げる事
・琉球から清国への商売は従来通り続けてよいと云う公儀の書面が
 あり金額が決まっています。
 進貢の年は金一万三千四百両、挨拶伺いだけの年はこの半分です。
 以前はこれより多かったのですが、徐々に減らす様に公儀より
 指示があり、以上の様になったものです。
・琉球へ薩摩より派遣している駐在役人は目付役の者達です。
 与力四人を含む総人数は百人程で三年毎に交代勤務します。
 駐在場所は那覇と云う所で琉球国主の居る首里と云う所から
 一里程です。琉球人とは用事以外では濫りに交わりません。
・琉球の国主も日本を訪問する事があるのかとお尋ねがあったら、
 国主の嫡子が部屋住の時、以前から一度は参勤しますが、
 国主になってからの参勤はありませんと答える事。
・琉球国へは春と秋に一度宛行き、琉球から当地へは夏六―七月
 に一度来帆します。
・琉球国からの年貢は三割五分から四割五分とその年の状況の
 応じて収納しますと申上げる事。
       琉球産物
 ・黒砂糖  ・泡盛酒  ・八重山熬海鼠(いりこ)・やこ貝 
 ・ほら貝  ・芭蕉布  ・細布     ・太平布
 ・下布   ・綟子布(麻)・縮布    ・真綿
 ・青貝道具 ・蘇鉄   ・ヅク     ・畳表
 上の外に何か無いかとお尋ねが有ったら、花の類、鶏肉の類
 又は清国よりの輸入品が少々有りますと答える事。
・鹿児島から琉球国内波照間迄海上四百五里
 鹿児島より琉球本島の那覇迄海上二百四十九里 
 那覇から波照間迄海上百五十六里
・琉球人が江戸へ参勤する時には伝馬の提供を公儀より受けるか
 お尋ねがあったら、大坂迄は薩摩守の自前船で行き、大坂川口から
 御地の御座船で伏見迄行き、以後道中はご伝馬の提供を受けました
 と申上げる事。
・江戸では公儀による接待があったかとお尋ねがあったら、
 以前は薩摩へ御米二千俵下さいました。 これが琉球人への公儀の
 ご接待と思われますと答える事。


 以上此一冊は宝永七年(1710)ご上使の小田切・永井・土屋
 三氏が巡国時の質問に対する応答を市来早左衛門、吉井伊兵衛殿へ
 指示があり検討の上準備したものである。
   慶応二年(1866)寅八月これを写す   持主 永濵万兵衛