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薩摩風土記1 現代文訳注

     鹿児島城下
〇鹿児島(府内)の地は西に山を抱え、東南は海である。 北は日本の地続きで、殿様の
 館は山の前にあり、その前の通りには大身の武家方が住居する。 
 上町六町は館の北にあり、武家屋敷を中にして南を下町と云い十二町がある。

  屋形(鹿児島城)全景、中央は大手門、下馬所、後方は城山  右上 時ノ鐘 右下 下馬札。馬屋
  左上:高麗町、西田町、谷山等武家屋敷 左下:下町  中央:城、武家屋敷 右:上町  下:前の浜

〇此他山の西側に西田町があり、西目道中(薩摩半島内)の入口があり、その南に荒田町、
 高麗町、東いき村があり、そんたいしき不動、谷山観音、田ノ浦等風景の良い所である。
 天王の社、金比羅、天神宮の社、聖王宮、殿様の別荘がある。 
 この近辺には一帯桜があり、山々に桜が咲き、前は桜の磯浜である。 
 春は芸子を引き連れた花見客が多く集まる。

     
年間催し
〇正月には咄初めで酒盛りがある。
〇二月廿五日は天神祭り、初午では下町大門口で雛市があり、三日より廿三日迄開く。
〇三月は雛の台開きと云い、酒肴を持って磯に出て花見をするが、四日間と決まっている。
〇四月八日は初のぼりと云い、男子があれば此月より五月迄立てる。 
〇五月には田植踊、棒踊がある。
〇六月には舟あそび、祇園祭りが朔日から十六日迄、六月七日には弁天祭、八日に薬師、
 十日は金比羅様がある。 
 廿三日には大中公祭があり多数の人が集まり、武家町からは切りこ燈篭を上げる。
〇七月は盆で十五日十六日は墓祭りで、石塔へ家毎に燈篭を五ツから七ツ、裕福な家では
 十から二十も燈す。 全てきりこ定紋付で色々作り、白い布を貼り綺麗である。 
 墓に詰めて酒盛りもするので多くの人が集まり、まるで市の様である。
〇八月は氏神祭、九月には高麗町、あらた町のほうさい(豊祭か)は十九日から廿二日、
〇十月内祭り。
〇十一月三日より廿三日迄上町武家屋敷町で市があり、古道具、刀、脇差、衣類等である。
 又此三日正午に稲荷様で流鏑馬がある。 飴にネギみそを食べる。
〇十二月は年忘れを祝い酒盛、餅つき。
〇正月は雑煮、献立は車エビ、もやし、大根、菜、餅、向付は塩引の刺身である。
 その他七月十四日の朝ざこにと云うものを祝う。 
 又年越には夕方六時過ぎると戸を閉めて、家毎に屋根の窓から銭を蒔く。

    
祭礼について
〇六月には天王神輿が一年ぶりの此十五日に木社へ戻る。 通常は町々を廻り廻っている。
 この時は家毎にやいの酒と云い、江戸の濁り酒の様なものを神に奉る。 祭礼は山鉾で
 京の山鉾に似たものである。十五日は「たちまち」と云って新しい衣類上下で浜に出て
 月を海面に映して歌を詠む。十五才の男女が舟遊に大勢出る。
〇六月廿三日の大中公御祭礼では鹿児島中の町の家毎にてんがく行燈を出す。 町々の

てんがく行燈

 入口の木戸に向け、此方の屋根迄の大行灯を懸ける。絵師に頼んで色々な絵を描かせる。
 此日は昼に狼煙(のろし)、夜は花火が上り人々が多数集まる。 

キリコ灯籠  左上松原山南林寺、大中公社全景  右下は大中公社

〇毎朝塩替と云って海の塩を汲み神に供える。 家内の中二夫婦も三夫婦も一つに居る。
〇疱瘡踊 六十才の老女でも十七八の女の姿に造り、踊る者は御幣を持って十人程である。
 残りは三味線、太鼓、鼓、鐘を持つ。 流行病があれば女子が三味線、太鼓で夜中に
 囃し歩く。 是をときと云う。
   ほうそう歌
  かう台町のとんかめ女、ほうそも軽い、あれはよい、これはよい、
    かるいぞ、かるいぞ、軽いぞ、と囃す。

〇六月には明神祭があり、褌をして裸体に冠を被り相撲をとる。
〇大福昌寺は四月十一日が開山忌で、本堂の前で田植踊がある。
〇盆祭りでは七月十五日に墓所へ灯籠を燈し昼の様である。 暮の浅草の市に似ており、
 人声は蚊が沸く様である。墓所は一ヶ所で三白メート余続くので往来の端は松原の中
 から磯浜迄ある。 此日は町々でにわか踊や、色々の物まねなどして囃す。 
 三味線や太鼓等で種々のおどけものが有るので店で酒盛りをして見物する。
   
   
衣食住
〇いまだに昔の風俗が残っており、女の姿は丈の短い衣類、木綿惣模様、紋付ふり袖、
 下着は縮緬紅板〆の類である。木綿上着を礼服とする。 大方の女は洗い髪を好む。
〇毎月仏の忌日には墓掃除に行く。その時家内より手桶、箒、花等色々召使の男女に
 限らず持って行く。
〇薩摩の酒はみりんの様に甘い。 焼酎は京都、大坂の焼酎と違い大変飲みやすい。 
 酒の時、畳の縁に酒を浸し家中酒浸しとなる。
〇夏の生り物野菜では一尺程の長さのなすび、唐辛子、とうがん、きゅうりがある。 
〇亀の卵を好む。 鶴の卵程の大きさで亀は一度に三百六十個産むと云う。 亀は月夜に
 海より浜へ上り砂を掘り、産むと砂をかけて海へ帰る。亀の大きさは畳二畳敷程である。
 卵は少し丸く、たいへん脂っこいものである。
〇町中を毎朝、犬を捕えて歩く。 この犬を馬に乗る者の前を走らせて弓の稽古をする。
 又鉄砲を好む者もいる。
〇六月中には琉球船を待つと南風に乗り入って来る。 夏の風物は琉球からの塩漬けの
 豚で、風味がよく皆が喜ぶ。
〇鰻も最近食べる様になったが、すっぽんを食べる人は少ない。魚が多く鳥の消費は
 少ない。 かも一羽二百文(二千円)程である。

〇人の性質は律儀であるが、飲食や大酒を好み、女は妬みの強い国である。 
 此処は日本の端であり片寄っているので偏屈な所である。
〇武士は江戸と少しも変わらず鎌倉の遺風がある。 武士は鉄砲を好む。 琉球人は
 国君を指して大和の殿様と云う。
〇日本一の要害の地で入口の番所は全て難所にあり、人一人が漸く通れる程である。
 旅人の多くは東より入る。 往来手形を番所で改めて送り状を持たせる。 この送り状を
 目的地の町役所へ上げて是を役人会所で改めた上、あらため問屋に逗留する。 
 不行跡があれば、役人が付添で国境迄送り出す。 もし死罪以上に当たる罪を犯した
 旅人は国境迄送り出し、其辺の若侍達大勢で試し切りにする。
 
〇疱瘡が流行る時、女が図の姿になり、米を貰い、疱瘡前の小児に与える。 町内の家々で
 疱瘡に罹っていない母や姉が集まり紅衣類を着して三味線、太鼓で踊り歩く。
〇流行病が有る時、唐から渡ったヒョウチャクと云う物を燈す。 玉花火の様なもので
 戸口で燈す。

左 薩摩の男     中 最近の薩摩女   右 従来からの装束 疱瘡踊で米を貰い歩く装束

〇芝居は江戸の芝居より大きく、松本武十郎が来て、座頭役者として大坂の役者と狂言
 興行をする
〇大坂の竹細工の見せ物も来て大当たりである。
〇蕎麦は非常によくザルに入れて出す。 つゆは甘いので江戸の人は食べにくい。
〇元結(髷を結ぶ紐)は麻を入れて撚るので大変良い
〇此国の戯れ歌は六調子のじょんが節で琉球の歌である。
〇盲目の多い国である。 米を土砂の様に粗末にするが、これが為か。
 
注1 松本武十郎 三代目市川染五郎の後の名で文化文政頃(1800年代前半)の役者
 
注2 米を粗末にすると云う説の根拠不明

〇芸子遊びには貸座敷を買い、接待も貸座敷で行う。 料理の仕出しは他にある。 
 座敷代は小さな部屋で五六百文(五六千円)、 大座敷は一貫弐百文(一万二千円)
 から金二百疋(五万円)程である。
 下町の内に新納屋町と云う所があり、此処には昔からはりたごと云う女が居り、
 一晩六百文(六千円)との事。
〇芝居の入場料は六十文(六百円)、場十六文(百六十円)、土間代四匁(四千円)から
 七八匁(七八千円)、二階桟敷壱貫弐百文(八千円)、風呂銭八文(八十円)、
 朝六時より始り大風呂で蒸し風呂もある。
 
注1 金額の現代価値換算に定説はないが、金一両が現代価値で六万円と仮定して目安を表示。
    金銀銅の換算も時代により変動するが江戸時代中期で金一両=銀六十匁=銭(銅)六千文が平均

〇朝鮮の戦に勝利して帰国した時、近郷廿四ケ村百姓歓びの祭りである。 
 使う太鼓は順番に村々に受け継がれる。 此外に上町下町から子供の踊りや、即興の
 芝居が出る。 吉原のにわかの様なものである。
  文政四年の村順  *廿四ケ村は隔年に廻る
   小山田村、荒田村、西田村
   郡之村、中村、木のひい村
   犬廻村、皆房村、上伊敷村
   下田村、小野村、原良村
   永吉村、谷山村、桜島
〇棒踊り歌に間合いの掛け声があるが流儀があり、一衣立流、心義流と色々いやいより
 出る。 近郷の若者の寄合又は鹿児島町に勤める奉公人達が踊るもので昔から続いて
 いるものである。

 朝鮮帰国祝い 下町の南林寺に行く  大太鼓直径5尺、中太鼓三尺        棒踊

     琉球人の事
〇琉球人の上官を親方と云う。 頭に簪を付、上官は金、中官は銀、下官は真鍮である。 
〇屋久島、永良部島、大島、徳之島、硫黄島、喜界島等も琉球人と同じ様だが、人品は
 大きく異なる。 薩摩風と云い、今でも下級武士に残っているが髪を詰め、丈の短い
 衣類で肘を張り、樫の杖に金の輪をはめ通行する。 此様な荒々しい風俗は近年では
 禁止されている。

〇琉球商船は国君(藩主)に願えば来る事ができるが、住宅を持つ事、島へ行く事は、
 禁止されている。 又他国の者は琉球人と談話する事は禁止されている。
〇琉球人は館内に住居し、外の島へ漂着の唐人は町問屋に滞在する。 琉球人は町での
 芸子遊びは禁止されており、唐物や琉球物の私的な取引は禁止されている。
 又密輸は幕府により厳しく禁止されている。
 

左端:新橋 左上: 幕府高札  右上:種子島家 右下:都城家  右中央が琉球館で上町の入口にある


〇琉球人が話す時、唐人(中国人)に会えば外国語、日本人に話す時は日本語である。 
 薩摩の言葉より分りやすい。 日本語は琉球で習うとの事、人物はたいへん柔和である。
 彼等は薩摩の人を指して口大和、京都、大坂、江戸の人を奥大和と云う
〇琉球とは日本の金銀で取引をするが、外の島における取引は物々交換で砂糖五斤に
 対して米一升で交易する。
〇琉球船は南風に乗り日本へ来て、北風で母国へ帰る。

〇琉球の長歌は唐音で分からないが、鹿児島で歌うのは船歌である。
  その歌
 旅の出で立ち観音堂、千手観音伏し拝み、小金さくとて立別れ
 親子兄弟連れて別るる旅衣、袖と袖の連れ涙、袖に降る露押し払い、
 おおと松原歩み行く、行けば八すん宗泉寺、碇巻き上げやほ参らせて、
 むまやしちどにようようと、船の艫綱解く解くに舟子勇んで真帆を引けば、
 風やまともに午未、西に見えしはヤク、エラブ、煙立つのが硫黄ケ島、
 御開聞、富士に見まごう桜島、菊のさかづき巡らすか、山川湊ばかりくむ、
 人の心かあさましや
 大和新橋唐金擬宝珠、波に映して桜島、やがてお暇下さるる、ししや(使者か?)の面々
 皆揃え、弁財天臥拝み、よしやと立なミおしそろい、道の島々見渡せば、
 しちどとなりとなさやすし
    囃し
     せんぞろ しそろに そろりとせい
 
  はやり歌
 やまとんてうがとちならバ、ばらすなよ
 あれはしんくだりでもたもなよ
       へややれへややれ
 いしてふのたしてふのおんちよんが
 としや四十になるまで、としやかまへのせうで
 わらんへんてうで へややれへややれ
 とうだりもだりあんどんかんとん
          うすむいうすむいうすむい

 松の小枝に月夜烏がねんねか枕で月を眺める。
         はいややれ はいややれ はいややれ
〇三月、田の浦で花の節、琉球人が二十人程車座に並び、酒盛りをする踊である。 
 江戸の辻目の様に人が集まり見物する。

 琉球人 左:親方 右:下官        鹿児島田の浦で踊る琉球人

       
    
琉球国の経緯
〇嘉吉元(1441)年三月十五日、室町将軍義教の舎弟大覚寺大僧正尊応上人が謀反を
 企てたが、露顕したので日向に下った。 京都より上人を追討するように日向守護職を
 兼ねる島津家に度々指示があり、止むを得ず樺山美濃守を大将として上人を討った。 
 その時の褒賞として将軍から琉球を永久に島津に下さるとあった。 
 慶長時代に薩摩は琉球を征伐したが、これは彼地に侫人が居り色々齟齬があり、此方が
 立腹して攻入ったものである。
〇琉球国へ発向時の大将は樺山権左衛門殿、平田太郎左衛門殿で、伊集院長左衛門、
 蒲地備中守、野木源左衛門、山鹿越左衛門、外御家人武士二百五十四人、総数二千三百人
 余で慶長十四(1609)閏二月、先ず大島へ占拠し琉球へ攻め上った。 
 国王、大臣、佞人を生け捕り、鹿児島へ連行して厳しく詮議後、江戸へ連行して将軍にも
 面会させた。
〇この結果薩摩に随う様になった事はかなり前の事であり、江戸参勤もこの時に始まった
 との事。 琉球の先祖は源為朝の孫と云う。 江戸政府でも御客の待遇であり、
 唐(清国政府)でも外国からの客人として重く扱われていると聞く。

   
 琉球産物
〇朱塗の器類、島紬(つむぎ)、砂糖、泡もり酒、上布、芭蕉布、木綿紺かすり 
 ・大島産物 砂糖、島紬、どの島でも砂糖は多い。
 ・永良部(えらぶ)嶋 うなぎ、砂糖 
〇えらぶうなぎは日本の青大将蛇に似ている。 長さ四五尺で醤油と酒で煎り付ける。 
 脂濃くて食べられないが、琉球王より唐へ献上する物の第一は此えらぶうなぎと云う。
 精根の薬、強壮薬との事。永良部の沖の海底に生息し、琉球三味線の皮は此皮を
 用いる。 大きなものは一丈二尺(三・六メートル)もある。

〇薩摩人が商売で琉球に行き、ゾリと云う遊女と馴染みゾリに子供が出来ると国へ連れて
 帰る。 これを島子と云う。
 商売は通常此ゾリが行い、どんな金額でも帳面に付けず胸勘定で間違った事がない。 
 一般に琉球では女子が商売する所である。  
〇唐からの商人と日本との打合せの場所でもあり、諸方から商船が来ると思われる。
〇琉球の木綿は大木で、梯子を掛けて実を取る。
 日本からは綿、木綿、絹、麻、縮緬、羽二重、緞子、紙類、京扇、松前昆布、諸道具等
 を送り、特に昆布は大船で幾艘も持ち込まれる。 彼地から又外国へ売ると思われる。

 えらぶうなぎ 右:町家の婦人、左:ゾリと云う遊女    ヒョウチャクの図


〇種島家の国は鹿児島から海上六七十里(二百キロ)にある。たいへん暖かく、
 松や杉が良く米もよく育つ。人物は薩摩とは異なり中国地方(日本)の風俗で、
 人の話し方、物腰は備前国(岡山)に似ている。 凡そ四、五万石程である。
   
   
寺社、見どころ
〇島津真岳寺社 島津金吾を祀る
 昔島津義久殿、金吾殿が大坂の秀吉と合戦をした時、此金吾殿は兄殿を諫言し、
 秀吉と合戦をする事と止めた。 家中の人々は金吾殿が側室の子であり、殊に二男
 だからと蔑んが、合戦に負け大坂に従う事になった。 
 金吾殿はあれほど止めたのに合戦して降参した事を憤り、此処に引き籠り腹を掻き
 切った。 この金吾殿の霊魂を祀り霊験あらたかと云う。
 最後に秀吉公へ鉄砲を打ち掛けて火花を散らしたのは此金吾殿唯一人と云う。
  注1 金吾殿とは島津歳久の通称で島津義久、義弘の弟で三男。秀吉に疎んじられ、兄義久の
   追討を受けこの場所で自害したと云われる。

〇水道の高枡(高さ三・六メートル程)が所々に石で造ってあり墓の様である。 
 この水は御城から流れて来て町中の呑水とする。 水を汲んで売り歩く。
〇石灯籠の下を人が潜れる様に造ったものが、何処の宮社の前にもよくある。

〇大中公社は松原山南林寺本堂の南に有る。 島津貴久公は源頼朝公の子孫である。 
 大中公のふとん石と呼ばれるものが社前にある。 
  注1 大中公 島津貴久(1514‐1571)は島津家十五代当主で薩摩を統一し、島津家を
   守護大名から戦国大名に再興した。 島津四兄弟、義久、義弘、歳久、家久の父。

上 石灯籠 下:水道高枡  上: 真岳寺、 下:千地蔵堂


〇島津忠久公の生母(丹後局)は花尾大権現として、鹿児島の西三里の場所に祀られて
 いる。 九月に祭礼がある。
  注1 島津忠久 島津家初代。 惟宗忠久が近衛家の島津庄管理人として下向し、後守護職となり、
    島津姓を称する。 頼朝落胤説がある


〇八月廿五日には国分寺正八幡宮祭礼、九月十九日には霧島西社東社の祭礼がある。 
 霧島の麓に湯治場があり、湯の滝が三十二ある。
〇霧島山には伊弉諾、伊弉冉の両神が立てたと言われる天逆鉾がある。 高さ八尺程で
 一辺四寸程の四角で揺らぐ。 青さびが付いており唐かね(青銅)の様で、打てば
 鐘の様に鳴る。 山上には麓から二里程登るが大難所があり、硫黄谷では年中火が燃え、
 馬の背越えは風が強い時は歩けない。周囲の小石は参詣の時持ち上がり積んだ物である。
 又山上に木は無い。
  注1 天逆鉾は誰が立てたか定説はないが、伊東家と島津家と領有を争った戦国時代にどちらかが立てさせた
    とか、江戸時代中期に修験僧が立てたとか言われている。 矛の柄は四角ではなく円柱である。

〇鵜戸山大権現堂は鵜茅葺不合尊の内裏の跡と云い、此神迄此処に内裏が有ったと云う。
 岩穴の中に宮を造り込んだものである。 工事の時は岩が上ったと云う。 
 霊験あらかたな場所である。
 注1 鵜戸神宮の記述と思われるが、この地は薩摩ではなく本書の頃は日向飫肥藩の地である。
 注2 記紀によれば鵜茅葺不合尊(うがやふきあえず)は神武天皇の父になる。 
    神話日向三代(瓊瓊杵尊、火々出見尊、鵜茅葺不合尊)の最後の神


〇山川に花瀬と云う所がある。 海砂嘴(うみさし)の石に牡丹の様な花が咲くと云い、
 船に乗って側に寄れば萎むと云う。実際に行って見れば花ではなく牡蛎の様な貝である。
 太陽の光を受けて海中で薄赤、紅、金銀の色があり美しい。
 大きさは六寸(約十八センチ)もある。

 霧島山の図 絶頂に逆鉾   鵜戸山の図   山川の花瀬


    
須磨琴の事
〇江戸木挽町の宗五郎夫婦に小松と云う十一才の娘があった。不幸にして此娘は盲目
 だったが三味線を弾けば一流だった。三味線を横に寝かし両撥で弾くとその音色は
 何とも言いようの無い素晴らしいものだった。 
 他に須磨琴と云うものを弾く。一弦で曲は何でも合わせて弾く。この琴は行平中納言が
 須磨に滞在した時に弾き始めたものと云う。 今は京都でも弾く人は全くないが、
 不思議にこの女児が弾き出した。 宗五郎夫婦はこの盲目の娘を連れて国々を廻り、
 此度は薩摩を訪れ各所に招かれた。 前に長崎で清(中国)人に頼まれて此一弦琴を
 弾いた処、唐四百余州にも見聞した事がないと感激して次の詩を作り贈った。
   三尺鳳枝繭好将新製訴新聞書
   夜月誰相識寂々高山一水流
            庚辰桂月  (庚辰八月)
          為碧峰先生嘱 劉悟厚
  注1 在原行平(818‐893)平安時代前期の貴族、平城天皇の孫歌人、業平の兄
   
    
トンタブの事
〇とり肴屋にとんたぶの看板が有る。 これは琉球朱塗りの台に仕切を幾つも作り、
 その中に色々の取り肴を並べて酒の肴に出す。 是をとんたぶと云い中には刺身も盛る。
 此国のものは何を煮ても甘い。 猪、豚、鹿肉は少なく余程の客でなければこれらは
 出さない。 しかし山奉行を接待する時は村々から猪や豚を大量に献上する。

 須磨琴の図  一弦の琴、 撥及び糸巻          トンタブの図


     
薩摩言葉
〇唐芥子をこしょう、燈心をじみ、薩摩芋をからいも、箸を手元、 土瓶をちょろ、
 徳利をびん、へちまを糸うり、十六さゝけを黒まめ、ひつをよま、紙をかむ
 値段いくらをどしこ、悪しき事をげんない、冗談をはらぐれ、偽りをたんか、
 ちょっとの間をいっとき、暫しをいっこく、野郎をわつこ、かし屋をくや、
 猿をすも、公義を御もつ、いとしい事をむぞ、ちいさい事をほそい、大をふとい、
 婚礼を御せんけ、お産をする事を御はんじよう

     
湯治場
〇南東には 伊作 伊なく、指宿ちゅうの水、水のはな すな湯
 西北には安楽、いからき ひわく、霧島 ゑの湯、硫黄
 桜島には黒かみ ふる里、 以上十三ヶ所がある。
    
     
硫黄島への流人の事
〇松山通りにある小池に往来の石橋が懸っている所がある。 
 此辺は昔渚で船着き場だった。 俊寛の舟を繋いだ松は池の縁にあり、俊寛は
 此処から島へ流された。 昔の国絵図では山川から見えたと言われた硫黄島に
 流された。 島内には古跡が残っており、今でも薩摩藩の流人を此島に送るが、
 国に近く便利な所である。
〇琉球迄の島々を通りの島と云うが多数の大小の島がある。
〇島々へは鹿児島より代官を配置し、唐船、阿蘭陀船、琉球船の監視をしている。
  注1 俊寛(1143‐1179)後白河法皇の側近だったが、平家打倒の陰謀に加わったとして平氏政権に
   より薩摩に配流された。 通説では鬼界ケ島(喜界島)だが、この書では硫黄島となっている。


     
山川金山の事
〇薩摩藩第一の利益の本である。 金の品質が良く、金箔にしてもよい。 
 通常は棹金にして江戸の後藤へ送り通用する小判や小粒になるが金座で他の金を
 混ぜる。 この様な訳で此国には新金が多い。
  注1 後藤家 江戸の金座は徳川家康から後藤庄三郎が御金改役を拝命して始まる。以後代々後藤家が
   金座を掌る

 
     
東照大権現
〇なんしゅいん馬場通りに東照大権現公社がある。門に随身があり、葵の紋は黒塗で
 極彩色は立派である。 毎月十七日に参詣が許される。
  
     
秀頼伝説
〇谷山の町外れに木下角と云う所がある。 赤松の大木の下に五輪の塔があり、
 両面に公家の束帯の像が刻まれている。 苔生して誰の石碑か分からない。 
 大坂方の人々が此辺に住居し、浪人姿で世をおくると云う。 
 俗に言伝えでは秀頼が帯刀で町中を暴れ歩くと云う。 国主から言われている事は、
 この御仁に対して一切無礼が無いようにとお触れがあり、人々はその生酔いを
 見かけると逃げると云う。 今でも生酔を見れば谷山の酔っぱらいには敵わぬと
 逃げ隠れすると言う。 遭えば無心を言いかけられて困ると云う。
〇上町の地蔵堂は秀頼公乳母の子女が老母の為に立て、朝夕弔った地蔵と云う。
〇此地蔵堂の裏に池の権現と云う石墓がある。 今から八年程前に系図と人の骨を
 掘り出した。是も大坂方の遺骨と云う。 又下町の上方問屋に木村権兵衛と
 云う人が居るが、是は木村長門守の子孫と云う系譜があるとの事。
〇下町納屋通り上に山口姓の八百屋があるが、真田幸村の一族末と云う事で六文銭の
 紋を付けている。 
〇同新仲町に上総屋があり、秀頼の書を所持していると云う。 
〇後藤又兵衛や真田家の末裔は家士に採用されており紋所も其の侭である。 併し真偽は
 分からず、遥か後になって採用されたものと思われる。

  左: 木下角の五輪塔            右:なんしゅいん、南泉院、東照大権現宮

   伊集院の壺屋の事
〇朝鮮人である。 昔朝鮮の戦が終り彼地の焼物工を五人連れ帰り、此所に置き焼
 き物を作らせた。 此処は平沢の御領分との境であり、殿様が江戸へ上る時の
 本陣は此壺屋年寄役が勤めた。 その日は焼き物を御覧になった。 
 この村の町家の棟数千軒程あり、名主は唐国の様に苗字は一字、名は二字である。 
 頭髪は琉球人の様である。 殿様が到着すると、此壺屋は舞楽(まいがく)を奏して
 御覧に入れ、色々おどける事が多いと云う。 
 此壺屋は鹿児島に土瓶、壺、ちょか、擂鉢等種々の焼き物を馬に付けて牽いて来る。
 その馬引は髪が琉球人、衣裳は日本仕立て変わった風体である。
  注1 朝鮮の戦 秀吉が発した文禄、慶長の役。 薩摩からは島津義弘、家久(初代藩主)を大将として
   参加した。 帰国時に朝鮮人陶工を連れ帰り、薩摩焼の陶器を有名にした

  伊集院の焼き物風景 左:壷師  右:朝鮮人装束

   香木の事
〇大島(奄美)に沈香の大木があった。 
 文政三(1820)の春、百姓が深山に入って木を伐っていたが、日も既に暮れたので
 木の葉を集めて火に焚いた処、たいへん良い香りがした。 夜が明けて集めた木を
 見ると見慣れぬ木である。 早速殿様に報告した処、薩摩から検使が派遣され調査の
 結果、沈香に間違いないと云う事になった。 次第に深く山に分け入り探して何の木と
 云う事が分からず、追々に報告した役人より聞き伝える。 
〇又昔山川に五尺(一・五メートル)程の古木が流れ着いた。浜の者達は何も考えずに
 火に焼いた処香気が強い。 則鹿児島(政庁)に報告した処、役人が派遣されて
 調査の結果、伽羅(きゃら)の名香であった。 今は君侯の珍蔵と云う。 
 此海の近くに伽羅の生息地があるのだろうか。
  注1 沈香(じんこう)は熱帯雨林地域のジンチョウ科の大木の樹脂。 色々あり伽羅はその中で最も
    上等なものと云われる。
  注2 鎖国以前に日本が直接船を仕立てて貿易した時代(徳川家康、秀忠時代)が有ったが、タイ(暹羅)
    やベトナム(広南)等からの主要輸入品目に伽羅がある。

   
朝鮮大人参
〇近年薩摩藩でも朝鮮の人参を植えて培養させた処、二股の人参が出来、手足も有って
 人の様である。 人参は植付けてから五年目に採る。 葉は五枚宛出て大根の葉に
 似たものである。 日覆を掛けて直に日の当たらない様にすれば夜露も取れ、たいへん
 丹精に育てるものである。
 

     鹿児島藩の石高
〇藩主島津家の親戚、無役の御家門方
 ・加治木家  島津兵庫殿  高壱万五百五拾四石九斗九升四夕三才
 ・都之城家  島津鉄熊殿  高弐万五千三百石
   凡そ十万石余あり、東側入り口番所国役で通常は国詰めだが時々鹿児島に滞在
 ・垂水家   島津備中殿  高壱万七千四百五拾五石五夕
 ・今和泉家  島津因幡殿  高壱万五百五拾三石
 ・重留家   島津肥前殿  高壱万三千九百六拾弐石
 ・宮之城家  島津図書殿  高壱万五千三百弐十四石
 ・種ケ島家  島津龍之助殿 高壱万三千七百五石
 ・日置家   島津山城殿  高七千六百六拾九石

〇 持切、無役の御家門(私領としてある書もある)
 ・喜入    肝付弾正殿  高四千七百六拾弐石
 ・知覧    島津 杢殿  高五千四百石
 ・鹿籠    吉入主馬殿  高三千七百四十五石
 ・永吉    島津主殿   高四千三百五拾壱石
 ・吉利    小橋帯刀殿  高四千四百九拾三石
 ・平佐    北郷小膳殿  高弐千四百八十石
 ・入来    入来院石見殿 高三千弐百七拾弐石
 ・雀田    樺山左京殿  高千六百五十石
 ・佐司    島津左仲殿  高千二百二十八石
 ・新城    島津内蔵殿  高四千弐百十四石
 ・巻岡    島津大学殿  高五千百二十五石
 ・市成    島津右膳殿  高千六百九十二石
   
〇島津家頭取、家老衆で大名上方と呼ばれる人々
 ・川上殿 ・吉岡殿 ・樺山殿 ・新納殿 ・二階堂殿 ・丸津木殿
 ・伊集院殿・赤松殿 ・吉田殿 ・市田殿 ・町田殿  ・伊衆院殿
 ・宮ノ原殿・鎌田殿 ・島津登殿・末川殿 ・島津矢柄殿 ・山岡殿
 ・島津十兵衛殿 ・高橋殿 ・本郷殿
〇外に高取御家人武士  壱万九千人余
 惣武士人数      五万七千人余 高三拾三万三千弐百四拾七石弐斗七升六合
〇外城衆               高十一万千四百五十五石壱斗壱升三合
〇薩摩・大隅。日向諸県、道の島(七嶋)、琉球合計
                   高八拾七万千八百四拾五石壱斗三合四夕
 ・神社仏閣方           内高壱万五千弐百拾石
 ・山海川島々合せて凡三百万程(面積換算)となるが、島は適正に計れず、
  どれ程とするのは難しい。
 ・交易による利益は上記以外であるが、外国品(琉球経由)の数は分からない。
  注1一般に石数は米の生産に限らず、あらゆる生産物を米換算にして石高を決める

      琉球国    道の島々、大隅、日向、薩摩、肥後国 天草島原 

   代々伝える宝物の概要
〇頼朝公由来のもの
 ・文覚上人が頼朝公に持参した時雨の旗、丈九尺、幅四尺五寸
  上から一尺程下に幅五寸程の黒子持筋、地は白紬の様である。
 ・同八幡大社の旗、上に子持筋がある ・頼朝公の緋縅の鎧
〇代々の書状
 ・定家の御製、頼朝、文覚の御筆
 ・足利家代々御朱印 ・秀吉公御筆 ・東照宮御筆
 ・秀吉公から拝領の鑵子、同珊瑚樹の蓋置、芦屋の茶わん
 ・湯成院の色紙 ・朝鮮王の筆
〇武具
 ・忠久公鎧、代々具足、義久公関ヶ原御難の鎧疵鑵あり
 ・火龍の御かぶと、刀、太刀
 ・朝鮮国の大石火矢、鎧、鈍子の旗、幕、朝鮮から持ち帰る
〇名書、名画
 ・趙子昂の屏風、掛軸 ・けいしよきの屏風 ・雪舟の筆
 ・秦の始皇の筆 ・馬ようの筆 ・古法眼(狩野元信)の筆
 ・呉道子の筆 ・かんさいの筆 ・徽宗皇帝の筆 ・兆典司の羅漢
 ・探幽、尚信、安信等の類は無数にある
〇薩摩の名画家
 ・秋月と云う御家人があり、雪舟の弟子である。
  外に古ケンチウ、探元等が居る
  注1 室町後期の禅僧、画家。 秋月は字、元は島津家に仕えた武士で、雪舟に学び
   1492年に薩摩に帰る。
  注2 木村探元。(1679-1767)江戸時代中期の画家。江戸で狩野探信に師事し、雪舟に
    傾倒した。 鹿児島藩の御用絵師をつとめる。

 
    
不思議な按摩の事
〇鹿児島の俊寛橋瀬戸口と云う所に御家人の肝付源之進と云う者がいた。 その妻は
 按摩を行い、眼の病、小児の虫を始め何れの疾病でも按摩で治らないという事がない。
 又咳や痰の病等は見ている内に治し、特に眼病も治るのが不思議である。 
 按摩で治癒した例を以下に示す。
 ・上町の武家で布山平八と云う人の小児は三才位だが、生まれながらにせむしで骨も
  筋力も萎えていた。 これを二ヶ月程按摩した処、この小児は独りで寝起きが出来、
  足で立てる様になった。 更に言葉も七分通り明瞭になった。
 ・高麗町の吉田龍助と云う人は元は医者だったが、息子が十歳で骨無しの様になり
  起臥も難しかった。 是も三ヶ月程の治療で歩行も自由になった。
 ・下大黒町の谷村八十右衛門の息子は十歳で熱病を患い目が見えなくなった。 
  是も治療して眼が明いた。
 ・上町に住む武家の息女は風疹から脚が曲がらなくなったが按摩で治した。
 此外骨中の虫により不具者になった者を幾人も治しており、不思議な事である。

   
 名刀鍛冶の事
〇谷山に三条小鍛冶宗近の古跡があり、今でも井戸や鉄滓を掘り出す事がある。
 以前本阿弥重右衛門殿が此国に来た時に鉄滓掘出して持ち帰ったと云う。
 又この場所に波平行安の古跡があり、是は今でも跡がある。 波平派の刀鍛冶安国が
 切れ者を作り、又元平も名刀工で行安の弟子と云い同じ場所で鍛冶を行なった。
 又刀身に彫刻を施す彫師としては上野長左衛門や小田正房は中興の細工人となった。
 その他柄巻、鞘師、刀研ぎ師等色々の分野で名人が多く、よい刀が沢山ある。
 注1 三条小鍛冶宗近 平安時代の京都三条に住む名刀鍛冶。 一条天皇(在位986-1011の刀を
   作ったと言われる。 薩摩に滞在したと云う伝説があったが、その事実はないと云うのが通説
 注2 本阿弥家 代々刀剣のとぎ(磨研)、ぬぐい(浄拭)、めきき(鑑定)を業とする家で
   室町時代から代々幕府御用を勤めている。
 注3 波平行安(なみのひらゆきやす、生没年未詳)は、平安時代後期の刀工。 大和国から薩摩国に
   移住し、薩摩波平派の祖となった。 波平安国は行安の子孫で江戸時代初期の波平派刀工。
 注4 鉄滓とは刀を作る時に生ずる鉄の不純物、金糞とも云う
 
    
薩摩の大火
〇文政四(1821)年正月廿日の夕方六時過、下町の新納屋南角で出火、北風から東風に
 なり、火は下町全体の町家を残らず焼き払い、翌朝六時頃に鎮火した。 但し怪我人
 もない様子で、翌二日には御城から粥、握り飯の様なものが施された。
 出火元は重房と云う油屋で油紙に火が燃え付き、急に炎が上がり屋根へ抜け急火で
 皆駆けつけた。
 此時、荒き問屋は五十メートル程離れていたが、慌てふためき荷物を蔵に入れた時
 火が蔵に入り丸焼けになった。 蔵の火は翌日鎮まったが、焼け残りの衣類が沢山
 出て来た。あらき問屋に属する芸子は全て上町の行屋のたからべ問屋で暮らさせた。
 六日より幸行橋西角の油屋、池田彦七等の訴えで、此度の類焼した池田二軒、重野の
 計三軒が追加の問屋に指定されたので、これらの宅へ移った。 但し一日銀四十匁の
 運上金は一年間免除された。 その他復興に要する材木、竹、縄、莚の類全て値上げ
 する者は厳しく処罰されたので平穏だった。

      阿久根の塩田の事、同所帆柱神の事
〇阿久根の田の中に塩が湧き出る所があり、廻りは水田で二反(六百坪)程で塩が出る。
 武士はこの塩を焚いて商売にする。 普通の塩であるが此辺の田の中所々で出る。
〇この辺の海の中に真水が湧き出る所がある。 獅小島の先、天草木戸の瀬戸入口にあり
 船の用水とする。
 注1 獅子島は天草諸島の一つ、熊本県水俣の先にあるが鹿児島県
 注2 原文に帆柱神とあるが記述なし。 北九州や大分に帆柱神社と云うのがあるが関連不明

    天草の事
〇天草の島々の中に瀬戸三口と呼ばれる本渡、柳、三角がある。 その中の柳の瀬戸に
 ふたまたと云う所があり、そこに穴の権現と呼ばれるものがある。 三百メートル程の
 山の八合目に穴がある。 
〇一キロ程行くと石の尊像があり、此の所に石の乳が二つあり乳が垂れている様である。
 乳の出ない母親が立願すると乳が出る様になるから不思議である。
 又この下に穴がある。 昔この穴に試しに山伏と犬が入り山伏は出て来なかったが、
 犬は肥前島原の雲仙嶽に出たと云う。
〇此瀬戸の先に小島があり談合島と云う。昔天草一揆の者が寄り集まって一揆の相談を
 した所との事。
 注1 談合島 現在名湯島。 南島原市と上天草市の夫々の海岸から5キロ程の海中にある。

    
島原の先端角浜の石像
〇此所に岩石で板を立てたような石山がある。 山の高さ三百メートル余で八合目位に
 二間四方程の穴がある。 穴は浅いが中に石像の観音がある。 此処に至る道はなく
 石の合せ目から入り、葛に取り付きながら漸く登る事ができる程で誰も参詣しない。
 いつ頃からこの石像があるのか誰も知らない。

    
薩州泉(出水)口の事
〇此の所の風俗は同じ薩摩国内と云っても一風変わっている。
 殿様の交代の時、此処の郷士二百人程が同じ頭に同じ色の装束で一列に並び礼する。
 この様に頭から足先迄揃える事は見た事がない。 この事が将軍の耳に達し、江戸で
 披露する栄誉に預かった。 随って現在薩摩では種々改革中であるが、この例もあり
 今も出水郷士の姿は昔と変わらないと云う。
 
注1 出水郷は肥後国の境目の口であり、肥後からの防衛先端として屈強の武士を配したと言われる
    (薩州旧伝記)


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