解説に戻る                              訳註1に戻る
            薩摩風土記現代文訳注2

〇長崎由来の記
  そもそも肥前国彼杵郡は昔深江浦と申云った。 文治(1190)の頃、頼朝公より
 長崎小太郎と云う者が此深江浦を賜った。 鎌倉より下り山を開き谷を掘って耕作
 したが、始めは漁夫だけだった。 天文(1530-)の頃、此小太郎の子孫である
 長崎甚左衛門は家来を大勢抱え、美徳寺山の頂上に城を構えて武備を厳重にした。
 近国と度々合戦したが、一度も負けた事がなく日々その武威が盛んになった。 
  そのような状況の時、天正(1572-)の頃にはポルトガル船が渡来し、商売に
 託けてキリスト教を広め、実にその地は繁昌していた。 
  
  甚左衛門も度々信仰を勧められたが全く受付けず、却って不届きの奴らを討取る
 と軍勢を向けた。 すると町方は山田甚吉と云う者を頭として軍勢を揃え、
 五百余人が鬨を作り城の大手門を打ち破り攻込もうとした。 その時城中から鉄砲を
 激しく打ち、城から打って出て激しく戦った。 其頃諏訪山に玉円坊と云う山伏が
 甚左衛門に味方し、前後より町方勢を挟んで攻めたので、短時間に町方五十余人が
 討死した。 
  その後甚左衛門は町方へ押寄せて合戦したが、甚左衛門の侍大将である鬼神十蔵と
 金塊坊と云う大力の勇士二人が町方勢の佐賀侍高木甚内と云う者に打ち取られた。 
  これにより甚左衛門側の敗北となり以後城に籠った。 町方も又引取り双方警備を
 厳重にして無難を計り時が過ぎた。

〇肥前竜造寺隆信の幕下深堀茂宅と町方合戦の事
  天正六(1578)年三月、深堀茂宅は手勢七百余人で押寄せ、町方勢四百余人と
 睨み合い、度々戦うがその都度敗北する。 茂宅勢も攻めあぐみ海戦を仕掛けたが、
 町方はふすた船と云う物を作り、これに大砲を据えて打ち出した。 その為茂宅勢は
 大敗して、それ以上は押寄せなかった。 
  しかし乱世の世であるから近国から長崎を手に入れようと窺っている者が多い。
 そこで町方は入口に堀を掘り杭を打ち、鉄砲や大砲で厳重に構えて待機した。

〇長崎へ初めてポルトガル船が来た事
  天文の頃(1532‐1555)ポルトガル船が初めて商売の為、大隅、種ケ島、平戸、
 五島、次に長崎へ来る。 此地長崎は十二~十五キロの湾であり日本一の湊で、
 どんな嵐でも全く安全なので毎年此所に来るようになった。
 大村殿が家臣の友永対馬と云う者を派遣して良港に仕立てたが、十九年後の天正十三
(1585)年に公領となった。 初め四年間は鍋島飛騨守に預けられ、文禄元(1593)
 年に長崎奉行として寺沢志摩守が赴任した。

〇天正十五(1587)年秀吉公は九州の島津と大友の征伐を行い、帰陣の節筑前の
 箱崎に滞在した。 この時伴天連の僧が御礼として途中でお目見えを願ったが、此処で
 邪宗門の者二名が供侍の中に居る事が上聞に達した。 早速両人を召捕って箱崎八幡の
 辺で磔に懸け、伴天連の者は夫々異国へ追い返し、吉利支丹寺十一ケ寺を破却して
 厳しい制禁令を出した。
 
注1. 天文年間(1532-1555)十三代将軍足利義輝により長崎甚左衛門は長崎を没収され、その地は
    大村民部大輔純忠(入道理専)の所領となった。(通航一覧)
 注2 大村理専は熱心な切支丹大名で長崎でイエスズ会の便宜を図り、長崎は信者と商人の都市国家の
   様になっていたと思われる。 一方天下人となった秀吉は切支丹排斥に踏み切り長崎を没収して
   天領とした。 

  
〇秀吉公の定め写し
   定
 一当所長崎は公領となる以上、道理に外れた事があってはならない。
 一公儀へ納める物は直接物納所へ納め、仲介者は不要である。
 一当所の事は代官として鍋島飛騨守(直茂)に頼んで置くのでその様に心得る事。
 一異国船(商船)は従来通りに町人が対応して当所に着岸させる事。
 一当然ながら他から不満があっても一切承諾しない事。
 右の事に背く様な事があれば、必ず我々両人へ報告する事を堅く申し付ける。 
                        以上。
  天正十六(1588)年五月十八日
                  戸田民部少輔勝隆
                  浅野弾正少弼長政
   秀吉公御朱印

  長崎への異国商船は前々通り着岸させ商売する事。 当湊の商人の税は免除される
 事を浅野弾正少弼と戸田民部少輔が通知する。
         天正十六(1588)年五月十六日
               長崎の者達へ
 
注1 天文から慶長初期(1550-1620)頃迄は異国船と云えば南蛮国(ポルトガル及びスペイン)
   が主で ポルトガルは中国のマカオ、インドのゴアを基地とし、スペインはフィリピンのマニラを
   基地としていた。
 


   有馬修理大夫が長崎沖で南蛮船を焼打
〇慶長の頃、島原領主の有馬修理太夫は唐風の船を仕立、伽羅を調達する為に広南
(ベトナム)へ渡航させたが、難風でポルトガル人が居住するマカオに吹きよせられた。
 その時ポルトガル人と口論になり、相手は多勢であり船も金も全て奪われた。 是を
 無念に思っていたが、慶長十三(1608)年マカオからポルトガル人が長崎へ商売で
 渡来した。 有馬殿はこれこそ良い機会と思い、江戸へ訴えると軍船を用意して
 海戦を仕掛けた。 しかし大砲で応戦され寄り付く事が出来ない。 そこで小舟に
 櫓を懸け少人数で敵船に移り、手あたり次第に切り捲った。 彼等は船底に逃込んだ
 が火薬に火が移り大爆発を起こし、船もポルトガル人も皆焼け死んだ。 
 有馬殿はこれで数年の恨みを晴らした。

    町人浜田弥兵衛が高砂渡海をして帰る
〇寛永の頃高砂(台湾)をオランダが横領して住居していた。 寛永十四(1637)年、
 末次平蔵が船を高砂に派遣し、そこから小舟で福州へ糸を求めに行ったがオランダ人
 が金銀を奪い取り、言い訳の為二人のオランダ人を連れて来た。
〇寛永十五(1638)年春、弥兵衛と倅の新蔵、弟の小左衛門の三人の他三十人程人を
 集め、百姓の姿をして高砂に渡海した。 船から上らず「我々は遺恨を持つものでは
 ない、農作をして利益を得たい」と云うと検閲して上陸させた。 農具より外になにも
 ないので、オランダ人も安心していた。 
  半年程過ぎて何かお願い事が有るような顔をしてカピタン(総督)の前に出た。
 この頃はすっかり心を許していたカピタンを、いきなり高手小手に縛りあげて浜に
 出た。 大勢のオランダ人達が劔を抜いて迫ってきたが、小左衛門、新蔵及び他の
 仲間も一斉に刀を抜いて討って掛り、瞬時に十四五人を切り倒した。 
 彼等は皆逃げて大砲を打とうとしたが、弥兵衛は大声で、大砲を打つならカピタンを
 刺し殺すぞと云えば打てなかった。
  カピタンに前の罪を責めたところ幾重にも誤ったが関係者十人は日本へ連行すると
 云い、カピタンの息子とオランダ人三人を人質に取り、オランダ船で目出度く日本へ
 帰った。
〇囚人達の事
  オランダカピタン、コンフトヲルの息子十歳、其他家臣十人を連行して来たが大村
 に送り牢に入れた。 翌年息子は病死し、他は帰国させた。
 
注1 オランダは1602年に東インド会社を設立して東洋貿易に乗り出し、1624年に
   台湾南部(現台南市)に1624年にセーランディア城を築き、支配拠点とした。
 注2 この事件は別本では寛永五(1628)年となっており、原文の寛永十四年、十五年は
   夫々寛永四年、同五年の間違いと思われる。寛永十三年以降、海外渡航は厳禁となっている。



   ポルトガル船の入港禁止、其後切支丹禁止し、ポルトガル、オランダ、
   イギリス人子供を外国へ送り返す事
〇元亀元(1570)年より寛政十五(1638)年迄、ポルトガル人達は六十余年長崎へ
 渡来して邪宗門を広げた。 ところが慶長十八(1613)年に、検使 大久保相模守が
 邪宗門改めとして、翌十九(1614)年上使として山口駿河守、奉行には長谷川左兵衛
 殿が長崎に下り、切支丹伴天連を一斉に拘束した。 諸国の伴天連も一緒に日本から
 追い払い十一ケ寺を焼き払った。
  この時高山右近、内藤飛騨守の二人の大名も邪宗も者達と一同に異国へ親子三人
 流罪となった。
〇其後寛永三(1626)年、水野河内守が改め役として着任、更に竹中采女殿が奉行に
 着任し、邪宗門の余党及び京都大坂からの七十余人を含め二百名程、通訳名村八左衛門
 を添えてマカオに流罪とした。
〇寛永十三(1636)年の改め 
  奉行として榊原飛騨守と高橋三郎右衛門殿が着任すると、異国人の子供を調査して
 マカオに返し、その他イギリス、オランダ人二百八十七人もマカオへ送った。 
 この時大村から警護の侍六十八人、供廻り四百十六人、足軽三百余人 総人数八百人が
 付き添った。

〇同年幕府が両奉行に与えた条目は次の通りである。
 一異国へ日本の船を派遣する事は禁止する。
 一日本人は異国へ行ってはならない。 若し隠れて行くものあれば本人は死罪となる。
  その船及び船主は留めて言上する事
 一異国に渡り住居する日本人が帰国すれば死罪とする。
 一切支丹の疑いがあれば、両人に伝え調査する事。
 一切支丹を訴えた者には褒賞を与える。
 一伴天連を訴えた者に程度により白銀二百枚或いは三百枚、その他以前の様に与える。
 一異国船が入港した時は江戸へ言上し、番船は以前の様に大村へ申しつける。
 一伴天連の宗旨を広げる南蛮人其外悪名の者は大村の牢に入れて置く事
 一伴天連については船中の調査も入念にする事
 一ポルトガル人の子孫を日本に置かぬ様に堅く申し付ける事
  若しも違反して残す者があれば、その身は死罪、関係者も罪に応じて処罰する事。
 一ポルトガル人が長崎で持った子並び母、その子を養子にした父母は悉く死罪と
  なるべきだが、一命を助けポルトガルへ送る。 彼等が再び日本に来るか、又は
  文通をしたとしても本人は死罪、親類の者も罪に応じて処罰する事。
 一諸商品を一ヶ所で買い取る事を禁止する事
 一武士の面々は長崎で異国船の荷物、或いは唐人から直接買取る事は禁止する事
 一異国船の荷物は書上げて江戸表へ報告の上売買させる事。
 一異国船に積んできた白糸の値段を決めたら残らず五ヶ所の書付の商人に割当てる事
 一糸の外の諸商品も糸の値段に準じて相対取引させる事。 
  唐船は小船であるから見積させる事。並び荷物の代銀は値決め後廿日を限度に支払う
 一異国船は九月廿日を限度として帰る事、 遅れて到着した船は到着後五十日を限度と
  して帰る事。 唐船は少し後から出船する事。
 一異国船の売残り荷物を預かる事は禁止。
 一五ヶ所の代表者の長崎到着は五日より遅れない事。 遅れた者は割符から外す事。
 一平戸へ到着した船も長崎で値段決めがなされる前に値決めは禁止する。
                             以上
       寛永十三年五月十九日  加賀守(阿部)
                   豊後守(阿部
                   伊豆守(松平)
                   讃岐守(酒井
                   大炊頭(土居)

                 榊原 飛騨守 殿
                 高橋三郎左衛門殿

 
注1 糸割符 幕府がポルトガル貿易に対する不当な高値輸入を防ぐための統制として糸割符法
   (白糸割符)を制定し、ポルトガル船が輸入する生糸を京都・堺・長崎の商人(特権を持つ
    大商人)が入札して、糸年寄が長崎に運び込まれる全ての生糸の価格を決め、その価格で
    糸割符仲間に全て買い取らせる。 その効果は日本の商人には買付け競争が起こらなくなり
    ポルトガルの生糸を安い価格で買う事ができるようになる。
    五ヶ所とは京都、江戸、堺、大坂、長崎

  

      島原天草一揆の事
〇寛永十四(1637)年十月、島原の天草益田四郎と云う者が邪宗旨の頭目として
 徒党を集め、一揆を天草に起こした。 その頃天草は寺沢兵庫頭の領地であり、
 居城は唐津だったが名代として三宅藤兵衛が富岡の城を守っていた。
  この一揆は急に起こり、色々な手段を尽くして防いだが、日々増える一揆側には
 敵わずに富岡は落城する。 この時寺沢側から救援の部隊を送り海戦となったが、
 一揆側は島原の城に籠り、長崎へ移動すると云うので、城の出口を固めて守備を
 厳重にした。
 翌二月九州の各大名に命令が下り、二月に板倉殿が上使として江戸から着任した。
  翌年正月元日板倉殿は討死され、続いて松平伊豆守殿、戸田左衛門殿、松平甚三郎殿
 が着任し、二月に落城した。 松平伊豆守殿は原の城攻からの帰陣途中長崎に寄った。
 旅宿の末次平蔵宅に町年寄の者だけ呼び寄せ、此度島原一揆の者達の長崎へ移動予定を
 昼夜警備した事は大儀であったと語り、その他竹木、板、鉄砲、玉薬、細引、大工、
 鍛冶の類の費用として銀百拾壱貫六百目が支払われた。

〇唐通訳の頴川官兵衛が進言したのは、火つき石火と云う物で、城の根本を掘り、
 その穴に鉄玉を鋳込めば大山も崩れる程の破壊力があると云う。早速仕掛けて
使おうとしたが、敵方も推量して迎え穴を掘って水を差したので役に立たなかった。 
  その鉄砲玉は今でも浜にある。
 木石火矢(長さ五間、口径三尺)、火薬は百斤(60kg)入り今も大波止湊にある。
 鉄玉の重さ千十斤目方 (660kg)直径一尺八寸(54cm)、周囲(1.74m)
〇平戸へ着いたオランダ船を呼びよせて大砲を打たせたが、海岸より下がって打つので
 玉は届かなかった。
〇長崎の浜田弥兵衛を呼んで大砲を打たせたところ、その技術が優れており、その倅の
 新蔵は後に細川家に抱えられた。
〇榊原飛騨守殿は江戸へ召喚されて閉門となった。 これは城攻めで一番乗りをしたが
 軍法を破った事による。
〇肥前国宇部郡江懸村の百姓甚兵衛子とした生まれた
 ・島原一揆の首謀者益田四郎の首
 ・四郎娘の首
 ・四郎の舅大矢野小左衛門の首
 ・大矢野監物首
 以上は長崎出島の大門前で獄門に懸けた
〇原の城責めで働いた長崎の大砲熟練者達に褒賞として銀が左の様に下された。
 ・銀百枚    浜田新蔵
 ・同五十枚   六永十左衛門
 ・同三十枚   島屋市左衛門
 ・同三十枚   薬師寺久左衛門
 ・同五十枚   大砲手伝いの者達へ
                     以上


       異国渡海
〇秀吉公、権現(家康)様、台徳院(秀忠)様代迄は許可の上、日本から商船で異国へ
 航海したが、大猷院(家光)様の代に榊原飛騨守が着任し渡海を堅く禁じた。

〇日本から異国に渡る船は合計九艘だった。
 ・長崎    末次 平蔵  弐艘
        船本弥兵衛  壱艘
        荒木惣右衛門 壱艘
        糸屋弥右衛門 壱艘
 ・京都    茶屋四郎治郎 壱艘
        角之蔵    壱艘
        伏見屋    壱艘
 ・堺     伊予屋    壱艘

〇異国への距離
 ・南京        三百四十里   ・蘇州        二百五十里
 ・浙江        三百五十里   ・寧波        三百里
 ・浙江の内吉州    三百廿里    ・浙江の内温州    三百三十里
 ・舟山        二百五十里   ・普陀山(舟山群島) 二百五十里
 ・福建の内福州    五百里     ・福建の内泉州    五百七十里
 ・福建の内紗堤    四百三十里   ・広東        八百十里
 ・広東の内潮州    八百里     ・広東の内高州    千里
 ・広南(ベトナム南部)千四百里    ・東寧(台湾)    六百三十里 
 ・東京(ベトナム北部)千六百里    ・東浦塞(カンボジャ) 千八百里
 ・占城(ベトナム中部)千七百里    ・太泥 (マレー)  二千二百里
 ・六昆(リゴール、タイ)二千四百里  ・暹羅 (タイ)   二千四百里
 ・咬留巴(ジャワ) 三千三百里    ・莫臥爾(ムガール) 三千八百里 
 ・南蛮(ポルトガル、スペイン) ・イキリス  ・オランダ
   
注1 異国交流時代の船

   荒木惣右衛門船    船本弥兵衛船  ポルトガル船   寧波(清国)船

   邪宗門禁止後、ポルトガル伴天連が渡来し死罪の事
〇寛永十七(1640)年五月十七日、ポルトガルの切支丹が渡来して訴訟を行った。 
 馬場三郎右衛門殿が早速江戸へ報告したところ、上使として加賀爪民部少輔殿が
 八月六日に長崎に到着した。 報告の件については、前に厳しく言い渡して本国へ
 帰したのに、其趣旨を守らず渡来した事は不届であると、ポルトガル七十余人の内
 六十人を死罪とし、残る十三人を本国へ追返した。
 これは趣旨を確実に伝える為である。


    ポルトガル船二艘渡海及び九州大名の長崎へ出陣の事
〇正保四(1647)年六月廿三日、異国船弐艘が伊王島の沖に到着した。
 馬場三郎右衛門殿が通詞を派遣して調べたが、ポルトガル人の残党ではなく、商売
 の願いで渡来したものである。 切支丹の僧は一切連れていないので、是非商売の
 許可をお願いしたいとの事である。 先年(七年前)マカオから訴訟に上がった船は
 焼き捨てられたが、此度は王の代替わりで我々は使者であると云う書簡を差出した。
 江戸へその旨を報告したところ、上使として七月廿三日に井立筑後守殿、山崎権八郎
 殿が到着した。 船の大砲弾薬、武具は預かるのが日本の法であると伝えたが、
 我々は王の使者であり、商売が出来るか出来ないかの返事を聞く迄の事と云い、一切
 渡さず用心の様子である。
 そこで九州大名の留守居が軍勢を引連れ、長崎の町、山、海浜に陣取った。各家の旗、
 指物、幕を打ち廻し、夜は篝火、提灯、たいまつの明かりで白昼の様である
〇ポルトガルの使者はゴンザアルホウチンケイテソウサ及びトワルトデフスタアホブレイ
 でゴア国太守の家臣で国主の親類との事である。
 上使の趣旨は、先年堅く申付けたのに再び渡来するとはその罪は軽くないが、今回は
 慈悲により許されるので決して再来しない事と伝え、八月六日に帰帆させた。
 ・黒船二艘の使者二名、人数四百六人余、船長さ廿六間(四十七メートル)巾七間
  (十二メートル)、もう一艘は長さ廿四間(四十三メートル)巾六間
  (十一メートル) 各船に大砲は二十二門宛装備
   
〇諸大名勢揃ならび陣所
 ・筑前 松平筑前守 人数一万千七百三拾人 船数百三十艘   陣取 西泊戸町
 ・肥後 細川越中守  同壱万千三百壱人  同同       同  外木鉢
 ・肥前 鍋島飛騨守 人数壱万千三百五十人 船百廿五艘    同 深堀高向
 ・柳川 立花左近将監 同 三千八百七十人 同九十艘     同 □焼島
 ・小倉 小笠原信濃守 同 千六百七十人  同六十五艘 
 ・唐津 寺沢兵庫頭  同 三千五百人   同九十艘      同 内木鉢
 ・伊予今治松平美濃守 同 千二百人    同八十艘      町
 ・伊予松山松平隠岐守 同 六千三百人   同九十三艘     同
 ・大村 大村丹後守  同 二千六百人   同三十艘      同
 ・島原 高力摂津守  同 二千人               戸町
      人数合計   五万五千五百二十八人
      船合計      九百六十九艘
〇幕府老中からの奉書の写し
 一筆伝える。異国船が長崎に先月廿八日の明け方着港した事は高力摂津守、
 日根野織部、馬場三郎右衛門から報告が有り将軍に報告した。かの地より使者として
 渡来の由である。 布教の目的で入港した訳ではないので死罪を言い渡す必要はない。
 しかし以前に長崎奉行に通達して渡来禁止の事を伝え、これを無視せぬように、
 その旨伝えられよ。    恐惶謹言
   七月十二日    阿部対馬守(老中)
            阿部豊後守(老中)
            松平伊豆守(老中)
       松平筑前守殿(筑前藩主、長崎警固役)へ

〇ポルトガル船の渡来を厳禁して、平戸に居たオランダ人を長崎に移し、許可した異国船
 以外は入港できない。 必ず是を守る事として寛永十三(1636)年に松平左衛門佐が
 着任し、港入口である西泊戸町に番所を置き大砲を設置した。
 千人番所
  ・西泊・戸町番所大きさ二百廿一間四尺五寸
   大砲二十挺挺、玉重さ一貫八百目から二貫百目迄
  ・戸町番所 大砲十七挺
   松平筑前守の月番人数は千人
   番頭一人、鉄砲大頭一人、馬廻り一人、中老一人、大組一人、
   鉄砲頭四人、船三十一艘 早舟十二艘
〇又明暦元(1655)に松浦肥前守が請持ち七ヶ所の砲台を築いた。 
 砲台の場所は一番オオタブ、二番女神島、三番鳥神島、四番江崎、五番高鉾、
 六番長者、七番陸尾である。
 番船は半年交代で細川越中守(熊本藩)、高力摂津守(島原)、山崎甲斐守
 (天草富岡)が担当する。 早船四拾艘及び早船壱艘


  オランダが初めて日本に渡来した事
〇慶長六七年(1601‐2)堺の港に到着し、イギリス人も乗っていた。 早速江戸へ報告
 したところ、この船を江戸へ廻航せよとの指示があった。 しかし江戸へ行く途中、
 相模沖で難風に遭い、身体一つで江戸へ到着した。 そこでヤンヨウステンだけ江戸に
 残し、他の乗員は堺に戻した。 
 その後慶長十三(1608)年、オランダ船が平戸に着いた。是は前の船が戻らないので
 迎えに来たものである。 これ以後平戸に来て商売する事がオランダとイギリスに
 許可された。
 
〇権現様(家康)の朱印状
  ・朱印 オランダは日本へ渡来する時は何処の湊でも着岸する事を許可する。
   今後もこの事は変わらない。          
   慶長十四(1609)年七月廿五日
           チャロスクルウンヘイケに下される。    
  ・イギリスに対しても同文
  注1 オランダ船リーフデ号が1600年豊後国臼杵に漂着した。 時の権力者徳川家康が先ず大坂に
   廻航させ、更に江戸に廻航させた。その途中暴風雨で船は大破し、浦賀で廃棄となった。 
   航海長ウイリアムアダムス(イギリス人)同ヤンヨウステン(オランダ人)は家康の顧問として
   仕えた。

〇台徳院様(秀忠)朱印状
  オランダ商船が日本に向けて渡海時暴風雨に遭い、必要なら日本国の何処でも
  着岸を許可する事に間違いはない。
   元和元(1615)年八月十六日
       ハンレイカホワラへ下される
〇老中書状の写し
  至急通達する。オランダ船が平戸に来て前々通りかびたん次第に商売は出来る。
  云う迄もないがキリスト教を広める事の無いように堅く指示された。恐々謹言
   (元和元) 八月廿三日  土井大炊介
                安藤対馬守
                板倉伊予守
                本多上野介
           松平肥前守殿
              人々御中
  これら朱印状と老中奉書はオランダ出島屋敷の商館長が所持していた。 
  後にイギリスは商売に利益が出ないと云う事で撤退したが、オランダは今日迄
  渡海して商売をしている。
 
〇オランダが持込む金銀の小判にしても彼の国の品であり、皆幕府が買い上げる。 
  オランダ人の前で金吟味役人が鏨(たがね)で中を彫って調べる。 
  小判の大きさは日本の大判の様であり厚みも二―三分(六―七ミリ)ある。 
  中に詰め物があれば切ってオランダ人に渡す。 外部に出す事は厳禁である。
  銀は大銭の十文銭の様であるが、これも小判と同様に検査する。 昔から
  この銀は市中に流出したか、今でも時々ある。


    神事の事
〇元は森崎権現が長崎地主神だったが、寛永二(1625)年に諏訪明神、住吉明神と
 共に、昔松森天神にあった場所、丸山に合祭した。 今は諏訪山に遷し、諏訪は
 丸山にあった三社の合祭である。 
 寛永十二(1635)年迄祭礼は有ったが神輿の渡りはなかった。それを時の長崎奉行の
 神尾内記殿、榊原飛騨守殿在勤中の許可で神輿が二つ(諏訪と住吉)出来て九月七日
 に初めて渡しがあった。 随って森崎明神が後に残っていたが、正保三(1646)年、
 奉行の久松備後守殿が元々森崎明神は地主神であるから、神輿は三社にして渡す様に
 とあり、以後三社一同に渡す様になった。後任奉行も祭礼一日前に着任し、両奉行
 立会で祭礼見物をした。
    祭礼日
 ・九月九日祭は此神輿三体が大波止の旅所に留まり、十一日に本社へ帰る。
  九日十一日迄二日間笠鉾踊、だんじり、子供達のねりものや手踊りが催され、
  毎年十三町が隔年、当番で出るが、丸山町と寄合町は毎年祭役を勤める。 
  毎年最初に丸山町から祭礼を渡す事になっているが、是は元々宮があった場所
  だからである。 傾城屋から新造二人が振袖で扇子を持ち、鼓、太鼓、歌に
  合わせて舞を舞う。
   ・丸山町から納舞、他三人踊、芝居引物
   ・寄合町からも同様の出し物がある 
   ・後は年当番の町から笠鉾の出し物、三人舞台踊、だんじり及び囃し方、
    引物色々、子供の手踊り各種、町人上下の稽古等

    注1 長崎が大村家の領地となった戦国時代、領主大村理専は熱心な切支丹大名であり、長崎を
    イエスズ会に寄進して当時有った神社は全て破却された。 その後寛永二年森崎、諏訪、住吉の
    三神社が元は松森神社があった丸山に三社合わせて再興、更にこの三社は慶安元(1648)に
    現在の諏訪神社の場所に移転した。(長崎諏訪神社由緒他)
    注2 長崎の遊女屋は文禄二(1593)年頃からでき始め、各町に散在したが、寛永十九(1642)
      年に、丸山町と寄合町に纏めた云う。
    注3 長崎くんちと云う祭りは今も盛んだが、くんちとは旧暦九月九日の祭礼日から来たと
      云われる。

 
  注4 長崎奉行は二名で一人は長崎駐在、一人は江戸在勤で一年毎に勤務地を交代した。

上: 祭りの鉾
 下: 出島オランダ商館の旗
   長崎盆祭の図

〇長崎は南が海、東北西全て山で山の上には寺がある。
 中は町屋で橋数六十余大小の内石橋が多く、幅奥行拾弐丁(千三百メートル)の所で
 ある。 町中に石が多く、少しの坂でも石段で歩くのに不自由である。
 又町中で鳥を売り歩くが、毛を抜き水につけて目方を増やし、喉には糠を詰め足は
 無い。 魚は非常に安く、しび、鰹が多い。青野菜は悪く高価で辺鄙な所である。
 町の名主を乙名と云う。 旅人改方、盗賊方、唐人掛り等皆乙名が管理する。
 盗賊等の改めもこの役であるが、幕府の同心が大浦に屋敷があり、是を南組と云う。
 難しい捕り物は此方が扱う。
 町年寄は最初から四家で勘定改めを勤め、他に下役十人あり是は会所の吟味役である。
 外には大通詞と小通詞があり彼等も皆役人である。其外土地所有者は皆役を勤める。
  注1 江戸時代、長崎(町)は天領であり、幕府の代官である長崎奉行の下で町年寄、乙名が施政、
     貿易を管理運用した。
  注2 町年寄は豊臣秀吉が天領にした時から高木、高島、後藤、町田の四家が勤めたが、江戸時代中期
     以降入替もある



    イギリス船渡来の事
〇延宝元(1763)年五月二十五日異国船が到着した。 日本への許可証の写しを
 持っているが、かの国で日本文字を習い写したものと見える。 早速江戸へ報告すると
 共に、オランダ商館員を派遣して踏絵の板でポルトガル人が紛れていないか調べたが、
 一人も居なかった。 そこで港に入れて火砲や武具を預って碇を下ろさせ江戸にその旨
 報告した。
  ・乗組員数八十四人でイギリス人船長の名前はセイモンテルホウと云う。
  ・船長さ十九間(三十四m)幅三間四尺五寸(六m余)深サ三間(五・四m)
   マスト高さ四間余(七m余)
  以下の武器弾薬を船から預り三田甚左衛門の蔵に入れる
  ・大砲火薬 三十五桶   ・口薬桶壱勺
  ・大砲玉六百八十余 ・なまり小玉一桶 ・鉄小玉一籠 ・釘玉一桶 
  ・小石玉八桶
  ・鉄砲四十七挺 ・火縄なし鉄砲 二十三挺  
  ・劔 三百三十九本  ・鎗 十四本 手鉾 十二本
  外に進物として献上予定の品物
  ・鉄砲一挺 筒が二つあり長さ五尺三寸(一・六m)
  ・鉄砲十二挺 色々複雑な仕掛のある鉄砲である。
  ・いかり  五つ
  以上の武器及び鉄砲は帰帆の際に港で返し、火薬は沖で返す。
        オランダ語通訳
            加福吉左衛門印
            本木 広太夫印
            桜井新右衛門印
            名村八左衛門印
            中島清右衛門印
〇積載の品々
 ・羅紗 二十八丸  ・羅せ板 三十八丸 ・かへちよろ 壱丸  
 ・ふとん 六丸   ・はれい 八丸   ・一さんご樹 一箱
 ・あんそくかう 四十二丸  ・かなきん 十丸 ・もめん 四十丸
 ・さらさ 十丸   ・木綿嶋 二十一丸 ・かるのふ 十丸 
 ・薬物 八箱    ・砂糖汁 一桶   ・ろう 十程
 ・ペルシャ皮 二丸 ・花の水 十箱   ・水銀 二十六箱
 ・しくしや 六桶  ・ガラス鏡 二箱  ・すぐ  七百斤 
 ・縮緬・りんす・さあや 八百反  ・みいら 一箱 ・金から皮 二箱
 ・ちんた酒 一箱  ・時計 三つ ・ガラス盃 二桶 ・火矢 一丁 
 ・ガラス道具 二箱 ・匂い玉 二箱 ・火石矢 二丁 ・イギリス国絵一枚  
〇以下イギリスについてお尋ねがあったのでオランダ商館長よりお答えします。
 ・宗門はイギリスではレハルメンテ、オランダではケレフルメイカと云いますが
  同宗です。
 ・仏の名は、イギリスではガット、オランダではゴットと呼びますが、同じ仏です。
  イギリスもオランダも仏は天を祭るもので形はありません。随って宗門を唱える
  事もないので宗門を広める事もありません。
 ・異国の交易状況についてイギリス人の話は以下の通りです。
  今はポルトガル人が日本に来る様子は無いと聞いて居ります。又同国は以前の
  様に方々へ商船を派遣する力も無いと聞いております。 
  フランス国が船十七艘を用意してチハールトと云う所へ向かっていると、私共が
  バンタンに居る時、さうた国に居るイギリス人から聞きました。 これは商船か
  軍船か不明との事です。これ以外は特に御座いません。
 ・東寧の件についてお話しますが此処も商船は出しておりません。 最近東寧は
  オランダと戦い、オランダ人が虜になりました。 此のオランダのカピタンより
  私の船に依頼があり、日本のオランダ商館長宛の書状を預けられました。 
  不自由な暮らしなので、何とか日本に頼んで引取って貰いたいと云う依頼状です。
  書状は幕府のお願いすると云う事で商館長へ渡しました。
                        ヤンブロムル
                        他十名名前略
〇東寧のオランダ人からの書状     
                  通詞方
                     加福吉左衛門印
                     富永 一兵衛印
                     提林新右衛門印
                     中島隆左衛門印
 東寧に滞在するオランダ人が日本のオランダ商館長に差出した書状の和解を報告します。
 ・イギリス人が東寧へ来て、それから日本へ行くと云うので、書状で申し上げます。
  我々は数年東寧の国姓爺に囚われています。 存命はしておりますが、大変苦難に
  直面しています。 解放の時を待つものの、その見込みも立たず今も堪えています。
  本国(オランダ)へ帰る事できる様に、日本政府にお願いするものです。
              東寧滞在オランダ人 ヨハンブロメル       
                     同妻 ケイハルタメテレタカ
                     男子 ヨワンフロメル
                     娘  アラキサンドロシカブンブルク
                同       ハルヘイシ        
                     同妻 アントウニカハンベンカラ  
                     娘  オテレンカ、コロヌリ、
                     娘  ヘレミイナ サルモンハアルテセン
                     女 マリヤハンカアニイ
                     同 シュサナ
〇イギリス国旗について
 ・新しい国旗については、台湾の高砂に着いた時、中国船の者達が、日本では古い旗を
  立ててはいけないと云うので高砂で新しく染め替えました。
 ・イギリスは赤白筋の旗を立てます。又総赤も立てます。十文字の印はイギリス語で
  カロスと云います。
 ・ポルトガルは赤の下地に白、青の三色仕立にして、十文字を角違いに引きます。
  今のイギリスの旗印の十文字はポルトガルの十文字とは違います。 
  十文字はポルトガル語ではクルウス、オランダ語ではクルイスと云います。
 ・オランダの旗は赤白紺の三色に仕立てます。
                   以上の通りです。
               オランダ商館長
                       マルテイヌ セイサル
  注1 イギリスはオランダと共に慶長十七(1612)年以来交易許可の国だったが、元和七(1621)年を
   最後の利益がないと云う事で辞退していた。 以後オランダ一国だけが交易を許されていた。
   この延宝元(1673)年の渡来は改めて交易願いとして来たものと云われる。 しかし間が途絶えて
   居た事、又イギリス王家とポルトガル王家婚姻を結んだ事などで以後交易禁止となる。 
   但しこの船は食料も乏しい事から、依頼された品物を二百六十両余で売り払わせ、その中から
   百七十二両食糧費を払い残金を持たせた(通航一覧)
  注2 オランダ東インド会社は1621年台湾南部にゼーランディア城を築き、ジャワのバタビアと共に
   東洋貿易の拠点としていた。 しかし明国が滅亡し清国に替った時、明の遺臣である鄭成功が清に
   抵抗する拠点として、1662年にオランダ人をゼーランディア城から追い出して、鄭政権を樹立した。

   東寧とは台湾の鄭政権(1662-1683)の国名
 
 注3 鄭成功は平戸長崎滞在の唐人商人の子として生まれたが、明国に渡り軍人として清に抵抗した
   功績で明の亡命政権の皇帝から国姓爺と云う名を貰った。 

  黒人とオランダ人        唐人(清国人)風俗  ダイニングテーブル

   寛政頃ロシア船来航
〇ロシアの船が来航したが、是は交易を願う為に来たものである。
 
注1 文化元(1804)年五月、ロシアのレザノフが日本の漂流民(仙台の四人)及び国王の書簡を
   持参し長崎に渡来して交易を希望したが、幕府は結論迄長期間掛け結局拒否して帰した。
   その十一年前の寛政五年六月、ロシアのラックスマンが日本の漂流民(大黒屋光太夫他)二名を
   伴い北海道松前に来て交易を希望した。 その時幕府は交易は長崎でと云って返した経緯がある。


   文化の頃イギリス船来航
〇オランダに含む所あり、商館長を虜にし、取るべきもの取り船は出帆する。 
 大砲は間に遭わず撃退も出来ず、長崎奉行は切腹、当番の鍋島家は閉門の上家老は
 切腹した。 不思議な革舟で長崎を荒し乱暴する。
〇松平図書頭が長崎奉行在勤の時、文化五(1808)年八月十五日朝八時頃、野母岬の
 見張所から白帆の船一艘発見の注進があり、旗合せ確認の検使として、熊谷与十郎、
 花井常蔵殿、通詞の吉雄六次郎、猪俣金次郎、植村作七郎、及びオランダ商館の
 事務員ホウセマンとシキンムリが派遣された。 
 旗合せをしようとした時、例の本船より複数の小船で漕ぎ出して来て、旗合せの
 オランダ人二名を先方の船へ奪い漕ぎ出した。 どの船も大砲、鉄砲で武装し劔を
 振り回している。 これは大変な事になったと商館長のヘンデレッキドーフは
 交易許可の御朱印を携えて立山の奉行所に退避した。 
 色々評議したが、両人を取り返す手立ても黒船を引留めて攻撃する準備も間に
 合わない。 止むなく牛、野菜、豚等を要求される侭送り漸く両人を取り返した。
   状況
 ・最初尋ねた処、中国から出航、又ベンガル(インド東部)からの出航とも云った。
 ・船の長サ凡三十間(五十m)程に見え、大砲は船片側二十門余りあった。 
 ・旗は一切立てておらず、人数は二百人程と見え、言葉はイギリス語だった。
 ・船の造りは非常に丈夫で大小の鉄砲、大砲、抜身の鎗や劔を備え、大砲の両脇
  には二人宛付添、いざと云う時にはいつでも打ち出す準備をしていた。
 ・船主は若者である。
〇オランダ商館長によれば、長崎から女島迄は日本の地であると承知しております。
 女島より向こうは場合により、イギリス人と敵対関係にあります。
 注1 フェートン号事件として有名なもので、十八世紀末フランスのナポレオンが席巻するヨーロッパの
  争乱が遠く日本迄影響したもの。 オランダがフランスの属国となり、イギリスとは敵対関係になる。
  イギリスはオランダの東インド会社の船や権益を自国に取り入れるためオランダ船の拿捕を行い、
  長崎にもその目的で来たと云われている。 

   
   オランダ船入港時の記録
〇文政五(1822)年六月上旬、先ず沖島に見張りを置き、遠くに慥に帆が見えれば
 早船で注進する。 更に間違いないとなると、船が二艘であれば大砲を二発、
 大浦の山上から打ち、更に当日には奉行所屋敷の浦山で大砲を打つ。
 若し怪しい船であれば、その時狼煙を上げると段々受継ぎ九州中へ連絡できるので、
 この場合は九州の諸大名が長崎に駆けつける事になる。 この用意の為に屋敷に
 各藩の役人が駐在している。
 通常のオランダ船の入港の時は是ほどの事はしないが、黒田、鍋島の両家は月番を
 勤めるので、交代時は大騒動である。 交代時は戸町で火薬迄入れ替えを始め、旗、
 幟、指物を立替て役人が手勢を引連れて交代するが、その手際は実に早い。
 隊長挌の者は鎧、陣羽織、はち巻、陣笠で床几に掛けている。 大砲担当役人は
 腹巻で足軽人数引連れて詰めている。
  オランダ船が入港する時は沖の入口で大砲六つ、戸町の番所前で六つ、高島で
 六つ、最後に出島前で打つ。 これらは空砲であるが、見物船が引き船で航行する。
 以前大砲の煙りで船一艘が沈んだ事がある。 船頭と二人が被害に遭い怪我をしたが、
 オランダ船から見舞が出た。

  砲台・千人番所                 奉行所 出島 唐寺 諏訪社
  砲台                     唐人屋敷 丸山  内湊  浜町 

    オランダ商館長の屋敷、部屋の様子
〇玄関は緑青の色に塗り、二階が住まいである。 広間の仕切り戸や障子はガラスで
 障子の骨は緑青又は白塗りで漆は使わず油を塗っている。壁や天井は赤紅のから紙で
 ガラス製の灯籠が沢山掛かっている。 椅子に腰掛て飯台は四尺幅二間長程である。
 部屋にビロードの布を敷いた曲禄があるが、是は床の代わりの寝床である。その脇に
 高い台があり、ガラスの徳利、色々な器があり、これは酒盛りの道具である。 
 人造の花や鳥を飾っている。
〇医師は長崎の医療、医師と変わらない。又道具も日本にある道具と変わらない。
〇食物は丸焚したものを包丁で切り、鉤(フォークか?)に掛けて食べる。油、砂糖は
 匙で飲む。 飯はかの国の米は日本の麦より軽く、これを少しづつ食べる。
〇一般にオランダ人、唐人共に座敷に寝床を敷かない。 オランダは図の通り、清国は
 日本の戸棚の様であり、その上にりんすや緞子の布団を二ー三枚敷いて角に畳んで
 飾って置く。床の間はこれである。 
〇又清国人の屋敷の中は町の様であり、八百屋、豆腐屋、菓子屋、酒屋及び諸職人の
 店がある。

     高島の社
〇湊入口の高島にから島大明神と云う稲荷社がある。 この社に参拝して五十両が
 必要ならそれだけの願をかける。 すると其月の内に五十両が手に入るが、何月
 何日の期限迄の証文を納める。 しかし期限日に必ず大きな災難に遭うとの事で、
 誰も願を掛けた者はいない。 昔からの言い伝えである。

薩摩風土記 終              
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