駿河土産         戻る                          Home  
巻之一
   
    秀忠様は律義過ぎると本多佐渡守へ上意の事       目次へ
権現様は或時本多佐渡守へ「秀忠は余りにも律義過ぎる、人は律義だけでは成り
行かぬものだ」と上意があったので佐渡守がこの事を秀忠様に申上げ「御前様は時々は
嘘を言われたほうがよいでしょう」と云えば秀忠様はお笑いになり「内府様の御虚言は
買手があるが私が嘘をついても買い手がなくて困るぞ」と云われた
    

1.本多佐渡守(正信1538-1616)鷹匠として家康に仕え秀吉死後あたりから
家康の参謀として重用され、江戸幕府成立以後は秀忠付家老となり実務派として腕を振るう、
相州玉縄城主

2
    権現様の御譲金の事                         目次へ
権現様が江戸の新城(西丸)から駿府へ引移られるに際し本丸の老中方をお呼びに
なり、今度駿府へ引移られるにあたり秀忠様へ今迠の貯え金拾五万枚を御譲りになり、
此金子だけでは不足であろうと云う事で更にお金を添えられた。
「このお金は私用としては遣わずに天下のお金と思って、通常に遣われる分は毎年の
収入から出す事。 天下を治める以上は資金が不足してもやむを得ない、という考えは
宜しくないので極力無用無益なものへの出費を抑え金銀を貯えられるべきである。

この金銀の目的は次の三つである。
第一には軍用のためである。
二ツ目は昔京都や鎌倉でも有った事であり、今後江戸中の家屋が一軒も残らぬ様な
火事などが無いとは云えない、その時に居城はもちろん城下の貴賎万民が住居に困る
ような事があってはならないためである。
三ツ目は日本国中にそれぞれ守護の国主・郡主を委任してあるので大抵の凶年などに
対してはそれぞれの守護の力で諸人が飢等無い様に対策するべきだが、天地の変と
云ものは想像できず凶年が続く事も有り得る。 其の様な時に領内の民百姓達を領主の
力だけでは扶助出来ない旨を幕府に訴え出れば、その守護に力を添へ私領の民百姓を
助け救う様する事も天下を取る者の役目である

それから蔵入の知行高が余るからといってむやみに人を採用し、新しく知行を与えるべき
ではない、その理由は将軍がまだ若いので今後まだ男子が生まれるかもしれない。 
私の末子達に与えた知行高の数字もあるので、いくら末子だからといっても将軍の子供
には五万石や七万石の知行を取らせなければならないので蔵入之知行高を減らさぬ様
にして当然であろう。 これらの趣旨を良く理解して将軍へも伝える様に」と言われた。  

権現様は駿府へ引移られるに際しても余計な費用はお掛にならず、万事質素に隠居
なされた。 更に御他界になるまでの間に百万両に達する貯金が出来た由。 
その内から尾張殿と紀伊殿へ三十万両つつ、水戸殿へ十万両を御遣金として進呈され、
残り三十万両は江戸の御金蔵へ入れて置くべきかお伺いをたてた処、そのまま駿府に
残して置く様にといわれた。
大納言忠長公が駿河を拝領された時この御金は多分御城について居るものと皆が予想
したが、その明言もなかったので、幕府のお金を預かるのは迷惑である、と駿河殿からの
申し入れもあり、久野の御宮の内に御金蔵を作り、そこへお金を移した。 これを世間では
久野のお金といって大分有るように言われていたが、只三十万両ではなかった。
それは尾張殿の江戸上屋鋪が自火で焼失した時の普請料と云う事で十万両、紀伊殿の
和歌山城普請の節十万両、水戸殿へ三万両を夫々拝借が認めら、少々宛でも御返済
戴きたいと勘定頭衆から御願したところ、尾張殿の返答は、我等が拝借したお金は元々
権現様が御隠居料の中から貯えられたものであり、御他界の節に御遣金として我等兄弟
三人への御譲金の残りであり、それを我等が拝借したのであるから返納する必要はないと
言われ、紀伊殿、水戸殿も拝借金についても沙汰なしになった。

当時は外の大名衆へも拝借金を認められており、夫々決まりの通り必ず返上されていた。
ところが伊達正宗の借金返上が滞ったので勘定掛りから催促したところ、陸奥守忠宗の
返答は、「私の代では拝借はしておらず、亡父正宗の代に拝借があったとは聞いては
居りますが、どのような経緯だったのか今は分りません。 親の代に御借りした御金です
から親が生存している内に返上を申付けられべきを、その時は放置しておかれ、私に
返上せよとは迷惑な事です」という事で、進展しない。
譜代大名の中では松平越中守方の拝借金返済が滞っており、これも勘定頭衆から返上
されるように申し入れしたところ、越中守から、「前に拝借した時に私の方より差上げた
証文があるはずなのでそれを見たい」、と言われるので組頭衆二人に持たせたところ、
越中守はその手形を見られ、「私が覚えているのと相違ない、皆も見られる通り、「御借下
され有り難く存じ奉る御金の事」、と書いてある。 これは「拝借を仰付られた」とは、私の
気持ちの中で「拝領を仰付られた」と思って一言書いたものである。 従って返上の
必要は無いと思う」、とこれも進展しない。 結局今後はもう諸大名方の拝借金は認め
ない事になりました。

この拝借金の事に付いて、その頃板倉周防守が京都より江戸へ来られ、親戚の
太田備中守に招待された時に、その中の客のひとりが、大名衆への拝借金の仕組み
が停止された事を話題にしました。
周防守が云われるには、「是までの諸大名衆へ幕府の御金を拝借させていたのは、
権現様が隠居された時に台徳院様へ指示された中の一ケ條にあり、是も即ち天下長久
の施策の一ツと思われますが、幕府では収入の中から貸し付けるのでは無く、沢山蔵に
溜まっている御金を利足も取らず、返上もいい加減にして貸し付けたので諸大名衆に
してみれば結構な財政支援になります。
今時の京大坂では町人より大名方が大金を借用されていますが、利息を払うからと
言うだけでなく、貸し倒れ負担などの費用もあるためと聞きます。

このように拝借金等は必ず返上しなければならないものなのに実直に履行しないため、
もう拝借金は止めようという新法を出さざるをえなくなるのです。 禍は下からと云うのは
このような事です。つまり勘定頭衆の甘い処置の為にこのようになったと私は考えます。
譜代大名衆はもちろん、たとえ大身の外様大名衆といえども権現様が施策された
御金の拝借の仕組みを邪魔する人々は必ず弾劾されるべきです」、との周防守の
ご意見があり、この話題を出した人は大変当惑しました。


1.板倉周防守(重宗1586-1657)京都所司代、落穂集巻六板倉伊賀守参照
2.太田備中守(資宗1600-1680)太田道灌子孫、叔母にあたる英勝院(家康側室、落穂集八巻
松平伊予守参照)の養子となり、秀忠に近侍、寛永六人衆の一人、浜松城主三万五千石


3
     権現様、足事を知て足者は常に足と云古語を用いられる事   目次へ
権現様が御隠居される時、将軍より本多佐渡守を伺わせました。 御用が済んだ後、
佐渡守へ云われた事は、私などは若い頃世の中が騒々しく、学問などに打ち込む事
もできず、一生文盲のまま年を取ってしまった。 それでも老子の言葉との事だが、
足る事を知って足る者は常に足る、と云う古語と、仇は恩を以て報ずる、と云う諺の
二つは若い頃から常に忘れずに用いてきた。 将軍は私とは違い学問などもあるので、
様々な宜しき事も知って居られるだろうからこの語を用いられよと云う事ではないぞ、
これはお前に聞かせる事である、との上意でしたが、この事を佐渡守が申上げた
ところ将軍は聞かれると、硯、との上意で取寄せられ、御自筆でこの二つをお書きに
なり、床の間に張付させられました。 其の後金地院へ清書を仰付られ御自筆の物は
内田平左衛門が所持しているとの事でした。 

大猷院様の代にこれを聞かれ、子息信濃守へ仰付られて御城へ取寄せ、床の間に
懸させられ上下を召して拝見されました。 


1.老子四十六章 天下有道、却走馬以糞、天下無道、戎馬生於郊罪莫大於多欲、
禍莫大不知足、咎莫大於欲得、故知足之足、常足矣
天下に道有れば走馬を却けて以て糞す、天下に道無ければ戎馬郊に生ず、
罪は欲多きより大なるは莫く、禍は足るを知らざるより大は莫く、咎は得んことを欲するより
大は莫し、故に足ることを知るの足るは常に足れり。
解釈 天下が平和なら快速の馬は不要で耕作に使われる、天下が乱れると軍馬が町迄
満ちる、欲が多すぎる事ほど大きな罪なく、満足する事を知らない程大きな禍はなく、
他人の物を欲しがる程大きな不幸はない、ゆえに足りたと思うことで満足できる者は常に
十分である。 一言で言えば欲を言えば限がなく、ろくな事にならないと言う事か
2.仇は恩を以て報ず 老子63章 報怨以徳 怨みに報ゆるに徳を以てす
3.内田信濃守(正信1613-1651)家光家臣、下野鹿沼藩主、家光に殉死


4
     権現様嶮岨な場所は歩行なさる事                  目次へ
権現様は年を取られてからは猶更の事、お若い頃から少しでも馬が歩きにくいと
思われる所では馬を下りて歩かれました。
或時近習衆へ云われた事は、私が道の悪い所では馬を下りるのは大坪流の極意の
一伝である。 一般に少しでも危ない所では馬には乗らぬものである。 それは身分
高く乗替の馬も常に牽かせていれば別だが、只壱匹の馬に乗る小身の侍などは
十分に馬の足を庇うのが良い、馬に乗ると云う事は乗事ばかり考え、少しも労わる
心が無ければ馬の足を乗傷め、本当に馬に乗らなければならない所、時に乗る事
が出来ない様では散々の事である。この事をよく心得よ、と云われました。


1.大坪流 馬術の一流派、元祖大坪式部太輔は足利義満・義持に仕える
 
5
   
     権現様加藤清正へ三ケ條の異見を本多佐渡守へ云含められた事 目次へ
権現様は加藤清正と本多佐渡守とは仲が良いのを聞かれ、其方自身の考えとして
清正へ意見してみよ、と佐渡守に仰付けられました。 
或時佐渡守が清正宅へ行き談話の中で申しだされた事は、「私はあなたとは親しく
させて戴いており、何時か折りを見てお話したく思っていた事があります」と言われ
るのを清正聞かれ、「それは何よりのありがたい事です、たとえどんなことでも少しも
御遠慮なく申し聞かせてください」との事で佐渡守が云われた事は

「あなたへ伺いたいと思っていた事が三ケ條あります。
一つは、今は以前とは異なり中国・西国筋の諸大名方は大坂へ着岸されるとそのまま
すぐ駿河・江戸へ来られる様になりましたが、あなただけは大坂に逗留され、
以前と同じ様に秀頼卿の機嫌を伺われ、それが終らないと駿府・江戸へ来られません。
二つには今時は平和で物静かですから、諸大名方何れも参勤の時に召連れられる
家来数を減らしていますが、あなたは今でも以前の通りの多人数で上って来られるので
非常に目立ちます。
次に今時の諸大名方の中であなたの様には顔に髭を多く生やしていないので
剃落して戴きたい、殿中で皆さんが列座の時など特に目立って見えます」

清正が返答されたのは「只今あなたからお聞かせ戴いた事は普段私も気に掛けて
いた事です。恐らく人々が色々云っているのをお聞きになり、日頃親しくして戴いて
いるので内々にお聞かせ戴いたものとありがたく思います。 
併しながらこの三ケ条ともに分っておりますがその通りにするのは難しい事です。

その理由はあなたも御存知の通り、私は太閤の時代には肥後半国を領知して
居ましたが、慶長五年からは当御代となって小西が領知していた跡も私へ拝領を
仰付られ肥後の国主となりました事は御当家の厚恩というものです。 しかしどんな
大身に成ったからといって、以前から大坂着岸の時に秀頼卿の機嫌を伺っていた
慣例を止めて、大坂を素通りする事は武士の本意と言えず今更止め難い事です。
次に参勤の時に家来を多く召連れる事を止め、人も少なくして上る事は私の財政も
助かり、家来の者達の為にもなるのでその様にしたい事ですが、一般に西国大名は
何か御用が有る時に呼ばれます。 呼ぶ迄は国元で休息して居れ、という事であれば
別ですが、 この様に参勤交代を仰付られている事は、万一の御用等を仰付られる
事があれば、あなたも御存知の通り、私の知行所である肥後国は海上遥に隔たって
いますので、それなりの御奉公をしようと心掛ければ、供に召連れる人数を減らす事は
できません。
それから私の顔の生えている無駄髭を剃り落し、さっぱりしたらどんなに気持ち
良いだろう、と私も朝夕考えないわけではありませんが、若い頃この髭づらに頬当てを
して甲の緒を締めた時の心地よさは今も忘れられず、どんなに平和な時代でもこれまた
剃り払う事は出来ません。
あなたのお考えで聞かされた事を一つも実行しないのは如何かと思いますが御理解
願いたい」との返答なので佐渡守も呆れ果て、そのまま申上げた所、権現様は
御聞なされ「清正の言事か」とだけの上意で御笑になられました
   
6
      弓の師匠吉田出雲孫弟子三人を御三家へ進められた事  目次へ
権現様が駿府に居られる時、以前佐々木家の家老分で知行八千石を取っていた
吉田出雲と云う者が居り、此出雲の弓の弟子で石戸厳左衛門と云う者が年老いて
竹林と名を改め三井寺に引篭って居ました。 この事がお耳に達すると直ぐに
召出され駿府で若い旗本衆への弓指南を仰付られました。 竹林派と云一派が
有るほどで、人々に評判だったので、旗本衆の中に弓上手が大勢できました。
中でも佐竹源太夫、内藤義左衛門の両人の射芸は勝れていましたので、尾張殿へ
師匠の竹林を、紀州へ佐竹源太夫、水戸へ義左衛門をそれぞれ派遣されました。
右三人の者は射芸に達したので御三家方へ御付けになりましたが、江戸への派遣
に付いては天下を治められる方の御膝元へは天下の名人達が寄集るもの故
進呈しない、との上意がありました


1.吉田出雲(重正)日置流(へきりゅう)三代目
2.竹林 竹林坊如成、竹林派の開祖
   
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     蜂須賀蓮庵が大野修理の噂を申上げ御機嫌を損ねた事  目次へ
権現様が駿府に居られる時、蜂須賀蓮庵が登城され、最近秀頼卿の機嫌伺いで大坂
城中へ行った時に大野修理が私に言った事は、あなたは故太閤の厚恩を今でも
忘れはしないでしょうが、今後も色々とあなたを頼りと秀頼は考えておりますので
常々心得ておいて下さい、とあり聞き捨てならないので申上げます、と言われたところ
権現様はたいへん御機嫌悪い様子で言われた事は、あなたは若ボケされたか、あなたも
知っての通り、前の関ケ原一戦の時秀頼も逆徒として一所に身上を取上げざるを得ない
ところを、特別に私の気持ちでゆるしただけでなく、大禄を与え安楽にさせ、何の不足も
無いはずなのに、あなたの口よりその様事を言われて良いものか、との上意があり蓮庵は
非常に当惑しました。 (秀頼に)下心が有ったものと思われます


1.蜂須賀蓮庵(家政1558-1639)小六の嫡男、阿波大名、秀吉家臣、秀吉後は親家康派、
関が原には自身参加せず、嫡男至鎮は東軍参加で領地安堵、家政は隠居して蓮庵となる

8
     土井大炊頭へ関東では今も新田開発をしているかとの御尋の事  目次へ
権現様が駿府に居られる時、江戸から御用の為に土井大炊頭が参上され、逗留の間に
夜話にも出席されました。
或夜大炊頭へ御質問された事は、今でも関東においては新田を開いているのか、
とお尋ねがあり大炊頭は、上意の通り只今もあちらこちらで新田の場所を見定め、絶えず
開発しております、と申上げれば、今時二三万石分の新田が直ちに出来るとしたら、
其方はどう思うか、と上意があり大炊頭は、二三万石もある新田は後々も続くものですから
大変役立つもので喜ばしい事と思います、と御答えすれば更に上意があり、二三万石
分の古田の場所がずっと荒れ続けて捨てたと聞いたらどう思うか、とあり、それは大変な
失墜ですから悔やめる事で御座います、と申上げれば、権現様は笑いながら言われた事は、
其方達は新田が出来るのは悦ぶが古田が荒れて廃るのは何とも思わないのか、と上意が
あり大炊頭は、いえいえその様な事は御座いません、古田も大切ですから、新田は古田に
支障がある様な場所には開発させません、堤や河ざらえの普請は十分に費用をかけ丈夫に
作り、古田の損耗が無い様に致します、と申上げました。

重ねて言われた事は、其方も今は大役を勤めており、非常に役目を大切に思い、物事に
念を入れて勤めていると思うが、人には間違いや思い違いで不手際をする事は必ずある。
そのような時には誰であろうがその不手際を咎め、正すのも施策の一つであり、これを
見逃し聞き逃しばかりして放置してはいけない。 その不手際の軽重に随い、或は役を
取上げるとか、又は遠慮、閉門など言いつけるべきである。 それにより本人も困り、
間違いを悔やみ、以後は失敗を繰り返さないとあれば過去を許してやり、本人も安心して
喜んで奉公を励むようにするのが良い。 
もしそうしなければその者に与えている知行の分は、古田を荒らし捨てるのと同じ道理に
ならないか、よく考えなさい、との上意がありました。

大炊頭は江戸へ戻るとこの上意の趣を申上げたのでしょうか、その時二三万石ばかり
取られる譜代大名壱人、御番頭衆の中に壱人、その外役付の旗本衆壱両人不手際と
いう事で役を取上げられたり、本人は隠居させ子息を取立てたりがありました。 
一般に秀忠将軍は大御所様の上意とあれば特別に大切に扱われました。


巻之二
9

    或時医師衆へ「命ハ食に在」といふ事を御尋の事            目次へ
権現様は駿河御城内に居られるとき少々御病気でしたが直ぐに快復なされ、脈を
見られる医師衆へ云われた事は、気分も快よい感じであり、第一食もすすまれる旨
の上意があったので、医師衆皆が承り、それはたいへん結構でございます、命は食に有り
と云いますので、何よりおめでたい事で御座いますと申上げるのを御聞きになり、
命ハ食に有りと云う事をお前達はどのように心得て居るか、例えば今年生れの子は乳を
呑ませ過ない様、不足しない様にと、親達が注意を払わなければいけない。 一般に
人は朝夕の飲食物が大事であると云う事ではないぞ、と上意がありましたので御前に
伺公していた医師衆も、其通りで御座います、命は食に有と言う事を今まで間違って
解釈しておりました、と申上げました。 上意の様に食事の食べ過ぎ、不足に注意を
払い、やみくもに食べさえすれば良い、と考えるのは大変な間違いです

 この話題は権現様の駿府に於ける上意であり、その時以来江戸の人々の間で知られ
 る様になり、近頃ではこの話題は大猷院様が岡本玄治へ聞かされた上意であると
 云われているのは間違いのようです。

註   
1.下線部分は別写本159-053より追加、 
2.岡本玄治: 落穂集巻9岡本玄治法印参照

10
    阿部川町の遊女が繁昌しており町奉行へ仰付け踊りを上覧の事  目次へ
権現様が駿河へ御隠居なされた以後の事、阿部川町の傾城などが近いため、旗本の
若い人々が遊女町へ通っている事が評判となり、時の駿府町奉行の彦坂九兵衛は
阿部川町を二三里離れた遠くへ移転させたい旨申上げました。 

これを聞かれ九兵衛を御前へ召されて述べられたのは、駿河の町の町人達を皆
二三里も隔てた遠方へ移すと如何なるか、とお尋ねがあるので九兵衛は、それは
色々な売買の障害にもなり町人達は皆が迷惑をします、と申上げれば、重ねて
上意があり、其方は阿部川町を二三里も遠い所へ移転させるべきと云うが、阿部川町に
居る遊女達は売物ではないのか、売物であれば全てのものが同じはずでその様な
遠い所へ移しては阿部川の者達は生計の立て様がない筈である。 従来通りの場所に
置く様にと仰付られました。

その後阿部川町の繁昌は今までに倍して盛んになり、旗本衆の中には財政が衰微
する者が多くなったと云う風聞もありました。
その秋になり九兵衛を召されて、このところ町方で踊りを行う声が城内までも聞こえるが
見てみたい、 帯・手拭などを新に支度する必要は無く、有合せの衣服で城内へ踊りを
入れる様に、と云われました。 駿河の町全体を三ツに割、支度を調へ城内で踊りを
差上たところ踊り子や囃子方の者にまで握り・赤飯・酒などを下されました。 夜の踊りも
済んだ後九兵衛を召されて、阿部川の踊りはどうしたのか、とお尋ねがあるので、
阿部川町は遊女町ですから除きました、と申上げれば、御年も取られたので女子共の
踊りこそ御覧になりたく思われ、男ばかりの踊りはそれほど面白く思われないとの仰が
ありました。 

それから急遽阿部川町へも踊りを出す様にと通達され、阿部川町中で一組の大踊りを
用意し、幾日の夜と日程も決まったところで、全遊女の中で今人気のある有名な遊女は
その名前を書いて差し出す様にとありました。
その夜踊りの中休みになったところでこの書付にある遊女達を板縁に上げて置く様に
と有り、壱人つつ御前へ召し呼ばれ、銘々の忍名なども御聞きになりました。 帰りには
次の間で御菓子を頂戴しなさいという事で、福阿弥が小声になり、今後もし御指名で
呼ばれる事もあるのでその積りで居るようにと銘々に申し聞かせました。

この噂が大きく広がり話題になったので、この御前に出た遊女達の中で誰が御目にとまり
ふと呼ばれるか分らず、もしその場合にお尋ねがあれば遊女達が何を言い出すか
心配になり、歴々方の阿部川町通いはぴたとなくなりました。


1.彦坂九兵衛(光正1565-1632)三河出身、1609年駿河町奉行2000石、
家康死後駿河町奉行は廃止となり、徳川頼宜の家老3000石となる
  
11
      御伽衆による頼朝公の咄で上意の事            目次へ
権現様が駿河の御城での夜話の時、御伽衆の中から右大将頼朝公の事は申し分の
無い名大将の様に云われていますが、平家追討の際に名代として派遣され大変軍功
を尽された参河守範頼、伊予守義経両人の舎弟達を誅滅されたのはよくない事の様に
云われています、と申上げたのを御聞きになり、外の面々の方へ向かわれ皆はどう思うか、
と上意があり、誰もが今申上げた者に同意する旨御答え申上げました。
そこでお話しになった事は、お前達の考えは世間でいう判官贔屓というもので、年寄女達
が寄り合いの茶のみ話にする事であり全く役に立たぬ批判である。

頼朝は天下を取られた人である。一般に天下を支配する者は自分の代を譲り渡すべきと
思う長男の子一人以外は次男三男という事も無く、まして兄弟などといって立てる事は
無い。 親類のよしみにより大身に取立て、国郡の主とする事はあってもそれは外の
諸大名と替るものではない。 従ってその者達も猶一層身をもってへり下り、特に幕府を
敬い万事を慎んでこそ当然である。 それをそうでは無く、親族顔をして我侭を働き
目に余る行動を取れば、いかに子や弟であるからと云って見逃したり、聞き逃したりして
ばかりいては外々の諸大名に対して示しが付かない。 依怙贔屓をはなれ、相当の
処罰を申付けるのが天下を取る者の心得の一つである。 但し不行義や不作法と云う
程度の事であれば、身上を取上げ流罪などを云付ければそれで十分である。 しかし
謀反と云う事であればこれは死罪にする以外に無い 世の乱れる事を防ぎ万民安堵を
計るためである。 列国の大名の心得と天下を取る者の心得とは大きく異なるもので、
頼朝は悪いと言うべきでは無い、と上意がありました。

12
     若い御番衆が座敷相撲を取っているところへ権現様が来られ上意の事 目次へ
権現様が駿府に居られた時の事、城内で若い御番衆が寄り合って座敷相撲を取って
居た所へ突然来られたので肝を潰して平伏していましたが、権現様が云われるには、
又相撲を取るのであれば畳を裏にして取るのがよいぞ、福阿弥が見たら畳の縁が傷む
と云って怒るぞ、とお叱りの上意では有りませんが、各番頭達はこの次第を聞いて、
以後座敷で相撲を取る事を禁止しました。


1.福阿弥(ふくあみ)家康のお気に入りだったといわれる茶坊主

13
     駿府にある御足袋箱の事                   目次へ
権現様が駿府の御城に居られた時の事、大奥には御たび箱が二つ有り、壱つには
新しい足袋を入れて置き、一度でも使われて汚れた足袋は別の箱に入れます。 
この箱が一杯になりました、と申上げれば、総て取出させられ、その古い足袋の中でも
薄汚れに見えるものを二三足程つつ元の箱へ入れさせられ、残りは捨てよ
と上意があり、下々の女中達が分け取りします。
この箱に戻して残した足袋を使用されるという事はありませんが、かといって古い足袋は
残らず捨てよと云われる事も無かったようです。
又御帷子に汗が付いたものを濯がせよとの上意で洗濯した御帷子はありますがこれを
召されるという事はありません。
これは紀伊頼宜公の御母である養祥院殿のお話しを聞いたと云うある老尼の咄を
書留めました

14
     京都で雷が町家へ落ちた事申上げ、それに付き権現様の上意の事   目次へ
権現様が駿府に居られる時、夜話に参加した人で最近上方より下ってきた者が物語る
には、京都上方地方の町家へ雷が落ち家内の者六七人程が残らず事故に逢い、
その内二三人ばかりは即死との事。 前にも雷が落ちた事は度々あり、人が死ぬ事
も有りましたがどの場合も一人か二人の事です。 この度はその家に居たも全員が雷に
打たれましたので、これは何かばちが当ったのではと評判になっていました、と
申上げました。 権現様が云われた事は、それは一間の狭い所に寄り集まっていた
ところへ雷が落ちたので、残らず事故に逢ったものである、 何の罪でも祟りでもない、
と上意があり、三人の若いお子様方へ付けられている者達を呼ばれ、今後雷が強く
鳴るときは三人のお子様方を一個所に置かない様にと指示されました。


1.三人の子 家康の末子達、九男義直(1600生れ、後の尾張公)十男頼宜(1602、紀州公)
十一男頼房(1603 水戸公)か

15
     京都大仏殿炎上し淀殿より江戸の御台様へ御願の事    目次へ
京都大仏殿炎上の以後秀頼卿の御母淀殿より江戸の将軍の御台様の方へ内々で
御願がありました。 それは京都大仏殿の本尊を秀頼が再興する事で既に進めて
いたところ、作業を請負った鋳物師達の不注意で鋳形より出火してそれまで有った
来殿閣迄焼失したため、秀頼の力だけの建立は難しくなり将軍の協力を御願したいと
いう事でした。
幸いにその時御用があり本多佐渡守が駿府へ行かれるので大御所様のお耳にも
入れる様にとの事で、駿府で御用の序に佐渡守がこの趣旨を申上げました。
権現様が言われた事は、淀殿は女であるぞ、将軍も未だ若い事だ、其方などはいい年
をしてこの様な筋の通らない事を私へ聞かせるとはとんでも無い事だ、との事で流石の
佐渡守も当惑しました。 そこで重ねて言われた事は、其方なども良く考えてみよ、
南都の大仏は聖武天皇の勅願によって本尊堂共に建立されたものである。
ところが源平の争いで平中将重衡の兵火によって堂を焼失してしまった。 したがって
当時の天下の取り合いの結果であるから右大将頼朝が建立すべきものであるが、
俊乗坊と西行法師が協力して諸国から勧進して建立を遂たものである。 聖武帝勅願
の大仏殿さへ頼朝は構わなかった、ましてや京都の大仏とは太閤の物好で建立した
ものであるから親父の志を立てる秀頼が建立するのは別として、将軍が構うものでは
無い。 其方江戸へ帰ったら将軍へ伝えよ、と

上意で合わせて言われた事は、この大仏の件だけで無く、一般に日本国中に古来
からの由緒ある神社仏閣等は数限りも無い、由緒さへ言えば全て取上げ修復や建立
するなどあるべきでない。 幾重にも取上げ可否を検討し判断すべきである。 
ましてや大小に拘らず寺社等を新に建立などは甚だ無益の事である。
将軍へ伝えると共に老中達にもよく申聞かす様に、と上意されました。
    

1.御台様: (於江与1573-1626)秀忠将軍正室、近江の大名浅井長政の娘で
母は織田信長の妹お市、秀頼母淀(1569-1615)は同母姉に当る
2.京都の大仏: 秀吉が1586年に奈良の大仏より大きい大仏の建立を始めて
1595年に方広寺に完成したが、 1596年の文禄の地震で倒壊していた
(落穂集巻三伝奏屋敷参照)。 秀頼の再興開始は1602年
3.俊乗坊:(重源1121-1206) 1181年東大寺大勧進職となり、前年破壊された
大仏殿再興に取り組み、1185年開 眼となる。 
4.西行: (佐藤義清1118-1190)平安時代の武士、22歳で出家して高野山で修行中
俊乗坊と知り合う、大仏復興に資金調達で協力する
5.平重衡:(1157-1185)平清盛五男、清盛の命令で反平家勢力の拠点である
東大寺・興福寺を1180年焼き討ち。 其後一の谷の戦いで源氏に敗れ捕虜となる。 
奈良から引渡要求があり大仏破壊の罪で処刑される。

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    御隠居前に旗本及び外様大名衆の使い方を秀忠様へ言残された事   目次へ
権現様が御隠居前に秀忠様へ言残された事は、旗本で小身の者達に良く目を掛け、
親しく使う事が大事である。 又同じ大名といっても三河以来当家の取立に預かった
譜代の血筋の者は別として、以前から国郡の守護をしてきた外様大名は、当家に
忠誠を尽くすと言っても結局強い方へ付き、弱きを捨てるのが昔からの定説である。
それを不届と言うべきではなく、その筈であると心得なさい、と言われた
   これは台徳院様から直接に承ったと八木但馬守が言われた事です。


1.八木但馬守(守直1603-1666)但馬の豪族の流れで江戸前期の旗本、秀忠近侍4000石、
家光にも仕える
      
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    秀頼は伏見城で討死の諸将の首実検への関与は不審の事    目次へ
関ケ原合戦の際九月廿四日秀忠様が来られた時、大名分の人々十六騎を召し連れて
大坂へ着陣されるや いなや城中へ御使を立てられ、この度伏見城で討死を遂げた
鳥居彦右衛門尉元忠、松平主殿頭家忠、同五左衛門三人の首 を当地で実検された
と有るが、これは秀頼の指示に間違い無いので攻め殺す、との口上がありました。
城中大いに驚き秀頼の母、淀殿が答えられには、秀頼は未だ幼年でありこの乱の指示は
勿論、首実検の事も毛利輝元やその外奉行達が行ったもので、秀頼は預かり知らぬ
事です、との詫び言がありました。 秀忠様から京都の権現様へ報告されたところ、
秀頼は赦免となり今後は御蔵米七拾万石づつ与えられる旨が言い渡されました。 
それまでは諸軍勢も旗を張り一戦の支度をして居ましたが、秀頼安堵が発表されたので
皆旗を収め休息をとりました。


1.伏見城での討死の将: 落穂集巻三伏見城の討死参照

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