駿河土産巻の三              戻る                           Home

18
      駿府城の不明門番の事             目次へ
権現様が駿府に居られる時、不明門番は小十人衆が勤めていたのでしょうか、或時
村越茂助が清見寺へ御使いに行き、日が暮れてから帰られ門外で、村越茂助です、
御使に行き今帰りました、門を通して下さい、云えば、既に時間が過ぎており、この門を
開くことは出来ません、と云うところに安藤彦兵衛が通り掛り、村越茂助に間違い無い、
門を開けて通す様に、といえば小十人衆が云うには、あなたは今重い役を勤められて
いますが、その様な事を云われて良いのですか、日が暮れてからはこの門は決して
開けてならない事になっています、と答えました。
この事が権現様のお耳に入り、この二名の小十人衆へは加増を下され弐百石取となり
両名は紀州殿へ付けられました。


1.村越茂助(直吉1562-1614)家康家臣300石、関が原後壱万石
2.安藤彦兵衛(直次1555-1635)家康側近、1610徳川頼宜の付家老、紀州田辺三万八千石城主
   

19
     松平武蔵守の事を申上げ上意之事          目次へ
或時 権現様の御前で本多上野介が松平武蔵守の噂を申上げたところ、武蔵守は
筑前中納言に似ているぞ、との権現様の上意があったので、上野介は関が原において
約束通りに味方をした事を云われたものと思い、大変律儀な人でございます、と申上げた
ところ、いや、そうではない、最早五十万石を領地する者は親や兄にも目を懸けるのがよい、
律儀と云うだけでは済まないものである、と上意がありました。


1.本多上野介(正純1565-1637)本多佐渡守の子、家康が大御所の時駿府で家康を補佐し、
江戸の秀忠は父佐渡守が補佐した。 後秀忠の宿老として権勢を振るい他の老中及び秀忠にも
疎まれ失脚する。出羽横手に流罪
2.松平武蔵守(池田利隆1580-1616)父は池田輝政(1564-1613)父子共に関が原では東軍に
味方、戦後輝政は播州姫路52万石となる、輝政継室は家康の次女督姫、利隆正室は秀忠の
養女
2.筑前中納言(小早川秀秋1582-1602)秀吉の親戚の子に生まれ、秀吉の養子となり、
更に1594年小早川隆景の養子となる、翌年隆景隠居により筑前、筑後、肥前の一部30万石となる。
石田三成と不仲で関が原では西軍から東軍へ寝返ったと云われている。 戦後岡山五拾五万石
となったが狂死 


20
     松平新太郎殿始めて御目見を許された事         目次へ   
権現様の代は云うまでもなく、台徳院様の代頃迄は一般に世間も含めて万事が手軽で
あり、幕府の儀式といってもはっきり決まった形があった訳ではありません。
権現様が伏見城に居られる時、松平新太郎が六歳になり初めて御目見が許されました。
その時は白い小袖に頭巾を被られ脇指さえも指されず、側に置かれて、
お前が武蔵守の子か、丈夫に産れついて喜ばしい事である、と上意がありました。

其後秀忠様の代となり新太郎も成人になり江戸へ下り、始めて御目見に参上した時は
織田常真が大あぐらかき、上座で碁の見物をして居られる座敷にて御目見が許され、
新太郎そこへはいりなさい、伯耆は雪国と聞いて居るがそうであるか、勝手へ行って
食べ物を食べなさい、大炊案内せよ、との上意がありました。 勝手へ行き料理を食べる
時は一座の人々十三人で、上座には織田常真、其次の座へ大炊頭の指示で
松平新太郎が着座されました。 その時の料理は野菜の汁におろし大根、なます
あらめ煮物、干魚の焼物だったそうです
  これは新太郎殿の直接の物語で遥昔の事だそうです


1.松平新太郎(光政1609-1682)池田利隆の嫡子、母は秀忠の養女(榊原康政の娘)
六才時の家康へのお目見えは大坂冬夏の陣の頃、家康が伏見城に滞在中と思われる。
成人後の秀忠への御目見えは秀忠が大御所になる前後かと思われる
2.織田常真 織田信雄(1558-1630)信長二男、の出家後の名前、大和宇陀五万石


21
     醍醐の定行院に遠島を仰付けられた事       目次へ
権現様が在世の時、醍醐寺の定行院に罪があり遠島を仰付けられた時、伊豆大嶋を
御預になっている井出志摩方へ板倉伊賀守の書状を添えただけでした。


1.井出志摩(志摩守正次1551-1609)元今川家臣、1558家康に仕え駿河・伊豆の代官を奉職。
2.板倉伊賀守 京都所司代、落穂集巻六参照

22
     奥向の女中達が松下淨慶をにくむ事          目次へ
権現様が駿河に居られる時、奥向の若い女中が寄集って、あの淨慶坊程にくい者は
居ない、と口々に云っているのを権現様が聞かれ、年寄女中をお呼びになり淨慶の
事を何故あの様に皆がにくむのか、と尋ねられたところ、いや特別の事ではござい
ませんが、皆が言っているのは浅漬の香物が余にも塩辛く食べにくいので、もう少し
塩を控えめに漬けて下さい、と淨慶殿へ度々頼んでいるのに今でも塩辛いので皆怒って
いるのです、と申上げるのをお聞きになり、それは皆が怒るのも無理はない、塩辛く
しない様に云っておこう、と云われました。
其後表の間で淨慶を呼ばれ、例の件を仰付けられたところ淨慶が御側に這いよって
何事かひそひそ申上げるのを笑いながら聞かれていました。
その時それを見ていた近習衆が不審に思い淨慶に逢って、あの時何事をひそひそ
申していたのか、と尋ねられたので淨慶が答へたのは、いや別に替った事では
ありません、皆さんも御聞きの様に大根の香の物についての御指示がにあったので、
只今の通り塩辛くして食べさせても大量に消費しますが、女中達の好むような良い
塩加減にしたら、どれほど大量に必要となるか見当も付きませんのでそのようには
出来ません、従って御前様は御聞きにならなかった事になさるのが宜しいでしょう、
というのが淨慶の返事でした
  この松下淨慶は其頃台所頭だったのでしょうか、今でも駿府城内に淨慶蔵、
  淨慶門などがあります


23
     浅野左京太夫の事を後藤庄三郎にお尋ねの事     目次へ
関が原の合戦以後、浅野左京太夫幸長はそれまでは甲斐の国主でしたが、御加増に
より三十七万石余の知行高になり紀伊国の拝領を仰付られました。 その頃後藤庄三郎
は熊野山へ参詣して江戸へ戻ってきましたが、権現様が云われた事は、其方は先頃
熊野山へ行ったそうだが、帰京の途中に紀伊国へ行ったのか、との御尋があったので、
上意の通り和歌山城下に十日余りも逗留して居りました、と申上げたところ続けて御尋が
あったのは、逗留中に紀伊守はどんな接待をして呉れたか、と上意なので、
紀の川と云って吉野高野の麓より流れ落ちます大河がございます、この川へ船で出かけ
網を下ろして魚をとるところを見物しました、 其後鷹狩に出かけられた時も同行しました、
これは大変見ごたえがありました。 唯この山鷹野の際に今だに私などには合点の
行かない事がございます、と庄三郎が申上げればそれはどの様な事か、と御尋があるので、
雉子・山鳥・其外鹿・むじなの類等種類も数多く取れており、恐らく機嫌よくして居られる
だろうと思いましたが大変立腹で、勢子、奉行をはじめ其外役のある人々が散々に
叱られておりました、 又別の時の鷹狩では何も取れず、予想以上に獲物も少ないので
さぞや不機嫌であろう、と思っておりましたところ大変機嫌よく諸役人達に、骨を折り
大儀である、などと褒美もありました、と申上れば権現様お笑いになり、それは其方が合点
の行かない筈である、紀伊守がやったのは本当の鷹狩と云うもので、獲物の数の多少は
問題ではないものである、と上意がありました


1.浅野左京太夫(幸長1571-1613)豊臣五奉行の浅野長政の嫡男で石田三成と対立、
関が原では東軍で参加、紀伊守、病死後子供なく弟長晟が紀州藩継ぐが後広島に転封
2.後藤庄三郎(光次1571-1625)秀吉の経済官僚だったが後家康の下で金座.銀座主催(御金改役)


24
   
     何流という軍法は用いられない事            目次へ
権現様は お若い頃より度々戦陣に立たれ大小の合戦を行われましたが、何流の
軍法を使うと云う事でもなく、其時々の様子から判断されて指揮なされ常に勝利され
ました。 そのような状況で天正年中に尾州長久手では豊臣太閤秀吉の大軍に小勢で
対峙して有利に立たれ、此後近い内に豊臣家と徳川家との大合戦が必ずある筈と
世間でも言われ、家中の諸人も猶一層其覚悟をして居りました。 その様な矢先
三河岡崎の城主である石川伯耆守がふたごころあって徳川家を出奔し、太閤の陣営
に走りました、御家の大小の諸人の思いは伯耆守は、同じ家老中でも酒井左衛門尉、
石川伯耆守両人は常に先手を勤め、その武功なども勝れており、当家の第一人者が
敵方へ参加する事は当家の作戦機密なども細かく敵方へ知られてしまうので、
今後豊臣家との戦いはやりにくくなるだろう、と人々は残念がっていましたが、権現様は
伯耆守の欠落を何とも思っておられない様で、更に機嫌宜くして居られるので皆
不思議に思っておりました。

そんな時に当時甲州郡代の鳥居彦右衛門尉方へ指示された事は、信玄時代に
発せられた軍法等の書類、その他信玄が用いた武器や兵具の類は何でも国中へ
触れて取り集め、浜松城内へ持込ませる様に、とありました。 その担当奉行には
成瀬吉右衛門、岡部次郎右衛門の両人を任命され、惣元締めには井伊直政、榊原
康政、本多忠勝の三名合議で監督する様に云われました、更に徳川家へ採用された
直参の甲州衆は勿論、井伊兵部に付置かれた面々などへも信玄時代の事であれば
何でも報告する様に云われ、あらゆる情報を集めて検討の上、当家の方針を信玄流に
変更され、其年の霜月上旬の頃になると当家の軍法外万事が今後武田流になるので
その様に心得よ、と旗本は当然家中の末端の者までも承知するようお触れがありました。

その年北条氏政・氏直父子が領地の境目を見分する国廻りの序に三島へも来るという
風聞がありました。
権現様より氏政へ、私は多年の隣国同志であり、その上近年は親戚でもありますが、
まだ御子息氏真へも対面しておりません、幸いにこの度三島まで来られると聞いており
ますので、この機会に御父子へお目に掛かりたい、旨を伝えられました。
それに対し氏政の返答は、仰の趣旨は承知致しました、兼ねてから此方もその様に
思って居りましたので、今度三島まで出掛けた時木瀬河を挟んでお目に掛かりたい、と
有ったので、木瀬河を隔てての御対面申と云うのではまるで隣国会盟も作法の様であり
親戚同志の甲斐も無く、世間への聞こえも如何かと思いますので、私が三島へ行って
お目に掛りましょう、旅館で気安くして面会し接待などは必要ありません、と伝えようと
されるのを酒井左衛門尉が聞いて、御前へ出て云われた事は、今度北条氏政父子へ
御対面なられる旨を伝えられたところ、氏政殿より木瀬河を隔て御目に懸る、との御返答
をしてきたそうですが、そのような馬鹿げた事を云って来る者に逢われても甲斐の無い
事です、今度三島へ行かれ面会なさると云う事は、北条家の旗下になられたか、と世間で
評判になる事は間違いありません、そうなると当家の名折れにもなるので面会はお止めに
なるべきです、と申上げましたが、同意されずお考え通りに伝えられました。

氏政はこれを大変悦び大道寺孫九郎・山角紀伊守の両人を御馳走奉行に申付けられ
ました。 面会の日も決まったので前日には沼津の城迠まで行かれ、当日になり三島へ
行かれたところ、終日終夜の御馳走がありました。
御帰りに沼津の城の外廊の堀や矢倉を取壊させ、それから北条家より御見送として
付いてきた使者を呼ばれこれ見させ、今度父子の衆へ面談した上は益々親しい間柄に
なるので、堺目の城は不要と思い外曲輪の要害を取崩させた、其方よく見置いてこの
事を氏政・氏直父子の衆へ申し述べる様に、と直接に云われました。

この事の次第が世間に大きく知られ、上方へも聞こえてきたので、さては徳川家と
北条家は元々親戚であったが更に今度は如何様な談合があったのだろう、と諸人が
疑問を持ち、とりわけ全ての軍法を信玄流に改めた事の評判もあり、その以後でも秀吉卿
の石川伯耆への懇意に変わり無い様子でしたが、秀吉卿の旗本は皆が石川伯耆の事を
古暦とあだ名を付け呼んでいました。
其後近いうちに徳川家と手切れの大合戦が有るだろう、との風聞もなくなりました。


1.石川伯耆守(数正1533—1592)家康三河時代の重臣であるが、1585年突然秀吉に走り
信濃十万石拝領し1593年病死、子の時代に家康に改易される
2.酒井左衛門尉(忠次1527-1596)三河以来家康家老、徳川四天王
3.山角紀伊守(定勝1529-1603)北条家評定衆、敗戦後氏直に従い高野山に上る、
氏直死後井伊直政に召出され相模に封を得た
4.大道寺孫九郎(駿河守政繁1533-1590)北条重臣、作者友山の曽祖父
北条家滅亡時氏政等と共に秀吉に切腹させられる 


25
      権現様軍法を御咄の事                 目次へ
権現様が或時話された事は、今時の人の長となるものは作戦を立て、床几に腰かけて
采配するだけで、多数の人を使い、自らは手を汚さず、口先の命令だけで戦いに勝てる
ものと考えているのは大きな間違いである、 一軍の将たるものは味方の兵たちの
ほんのくぼばかりを見て居て合戦などに勝るものではない、と言われた


ほんのくぼ  首と背中の付け根、 ここでは兵達の背中か


26
      尾張・紀伊国両家の家老職を付けられた事     目次へ 
権現様が駿府に居られる時、尾張殿・紀伊殿両家への家老職の者一名ずつ付けよう
と考えられ、松平周防守と永井右近の両人へ内意を打診された所、両人共たとえ
草履取りとなされても今のままの旗本での奉公を望み了解された経緯もあるので、
其後は上からも言いにくく、下からも引請難くて互いに人々が囁き合っていました。
そんな折に少し持病なども再発され、食事もすすまないので鷹狩にも出かけられ
ませんでした。
其時安藤帯刀と成瀬隼人の両人が密かに相談して申上た事は、この間以来
大御所様は御両殿への付人の事で大変御苦労に思われて居られる事と存じます、
何を勤めるのも御奉公の内ですから両人申合わせて御願申上げます、私共の様な
不調法者でも良い、とお考えであればご意向通りに御両殿へ奉公申上げます、と
有ったので権現様は大変御機嫌で両人の心ざしに満悦され、御両殿へは
付けられるが、従来通りの幕府の仕事も続けて貰うので左様に心得る様に、と
云われ尾張殿へ成瀬隼人正、紀伊殿へ安藤帯刀を付けられました。
其後水戸殿へ中山備前守を付けられる事になりました。


1.成瀬隼人正(正成1567-1625)家康に小姓として仕え近侍、家康隠居
に際し駿府へ呼ばれ大御所政治の一端を担う、年寄のまま慶長12(1607)年尾張付
家老となる。家康死後1617年年寄を辞して尾張家に専念し犬山城主となる
2.安藤帯刀(直次1554-1635)幼少より家康に近侍、慶長15(1610)家康年寄のまま
紀伊付家老となる、家康死後紀伊家専念し元和二年遠近江2万石、
3.松平周防守(康重1568-1640)1608丹波篠山五万石
4.永井右近太夫(直勝1563-1640)下総古河七万二千石、長男尚政は秀忠時代の老中
5.中山備前守(信吉1576-1642)家康に小姓から仕える、1609年水戸家付家老となる


27
   大坂落城の時茶臼山より御覧になられた時の事        目次へ 
大坂にて五月七日落城の時、城方の者と見えるもの四五百人程一ケ所にかたまって
居るのを権現様が茶臼山の上から御覧になり、これ幸に尾張・紀伊勢に当らせよう、との
上意があり御両殿共に早々に来る筈でしたが、少し遅れているので御使役衆を呼ばれ、
隼人の腰ぬけめに右兵衛を早く連れて消えろ、と云えとの口上を、そのままに尾張衆の
皆が聞いているところで伝言したので隼人は聞くやいなや、此隼人はこれ迄腰をぬかした
覚えは無い、左様に云われる人こそ武田信玄に出合われた時に腰をぬかされた、と
皆に聞える様に大声でいわれた。

この陣の後隼人は名古屋より駿府へ参上して権現様の御前へでて申上げた事は、
去る大坂落城の日に義直公を茶臼山へ呼ばれた時、到着が少し遅れた事に御立腹で
再度御使を送られ、 隼人の腰ぬけめぞ、早く御供する様に、と云われましたが
私自身ははしらみ頭(若輩者)の頃より親しく御遣い戴いておりますので、如何様に
口汚く云われても気に致しません、しかし御前様の口上の通りをそのまま、皆が聞いて
いる事も考えずに私へ伝えるような、事の是非も考えない者に御使番の様な大切な
役を仰付られる事はあるべきではありません、
右兵衛様は今は未だお若い事ですから、尾張一家中でも私の事を皆が頼りにして
おります、そのような所に隼人の腰ぬけめなどというお言葉をいただいたので、私は
再び彼らに口もきかれず皆の思いも変わってくるでしょうから、恐れ多い御返事を申上げ、
お耳に入った事でしょうが恐れ入りました、と申上げたところ権現様は御聞きになり、
それは其方の云う通りもっともである、との上意でした


1.右兵衛 尾張藩主 徳川義直(1601-1650)の十五六才当時の官職 従四位右兵衛督



駿河土産巻の四

28
      紀伊殿へ安藤帯刀が異見した事             目次へ
江戸において或時尾張義直殿が紀伊頼宜殿の屋敷に訪問された時、頼宜公は
髪結いの最中であり出られるのが遅れ、義直公が安藤帯刀へ云われたのは、別に
用事は無いが此の辺通りがけに寄りました、其方に逢って変わりも無ければ別に面談
には及びません、と云われ帰られようとするのを、今少し御待ちくださいます様に申上げ、
帯刀は頼宜公の御側へ行き、尾張様は待兼ねてお帰りになられるのを今少しと
申上げお待ち戴いています、 今御前様の親しい方としては尾張様だけなのにあちら様
をお待たせになられる事がありましょうか、と申上げたので、心得たと早々にお仕舞に
して面会されました。

尾張殿が帰られた後、頼宜公は髪を梳いていた者を呼び出し、先程尾張殿が御出でに
なった時、私が出るのが遅いと帯刀が大変叱った時、私が落涙したのが多分鏡に映った
筈である、其方は見たか、とのお尋ねがあったので、おっしゃる通り落涙されるのが鏡に
映ったのを見ました、幾ら尾張様の事と云ってもきつ過ぎる帯刀の言い方だと私なんぞも
内心思いました、と申上げれば頼宜公は聞かれて、其方なぞは恐らくその様に推量する
だろうと思ったので尋ねたのだ、先程帯刀が私に云聞せた様な事を云う者は他に誰もなく、
あの様な事でさえ言い聞かせる者を私に付けて下さったお気持ちが有り難い事と、
権現様を思出して思わず落涙したのだ、と云われました

29
       水戸頼房公若い頃の男だての事            目次へ 
水戸頼房公は若い頃たいへん男立をされ、かいらぎ鮫の付いた長刀を金張にして
衣服等にも紅裏を付け、其外不良じみた行いもあり江戸中で上下の人々の噂になり、
御付の家老中山備前守も毎度色々と異見をしましたが聞き入れません。
そんなある時老中より備前守へ書状で、御用があるので午前十時に登城する様に、
と有り備前守は登城しましたが老中方が云われるには、今日あなたをお呼びになられた
御用の内容は私たちも知りません、御前よりの直接の御用でしょう、と有りました。
備前守は云われるには、皆様が御存知ない御用の事で私を御前へ呼ばれるのなら
私に心当たりがあります、多分水戸殿の行儀の事を尋ねられる事と思います、
そのままに申上げれば主人の悪事を訴える事になります、又何も私は存じません、
とか悪い事も宜しい様にとりなして申し上げれば、上を欺く事となり後ろめたい
ものですから、私は御前へ出ても対処の仕方がありません。 
お呼びであると云う事で登城はしましたが私は帰ります。 命令に背く私ですから
御機嫌を損ね、御仕置等を仰付けられるのも覚悟しております、と有り老中方も
皆思い当たっているので引き止めませんでした。

備前守は帰宅の途中で上屋敷に立寄りましたが、頼房公も今日備前守壱人が御用と
して呼び出された事に納得が行かないので、御用を済まして備前守が帰るのを
待たれており早速に呼びつけられました。
そこで備前守は御城での経緯を報告し、私も公方様から如何様なお咎めを受けるか
分りませんが先ず切腹と覚悟を決めております、ここに及び残念な事が三つあります
第一は私に才能が無く御前様の既にお聞きの行儀を改められる様な異見を
出来なかった事、
二つ目は若い御前様ですが此備前守を付けて置けば心配ないだろう、と思われた
権現様のお目がねに違った事が今更ながら申し訳の無い事です。
三つ目は早くから心配して居なかった訳ではありませんが、あれこれ方法を考えて
いる内に手遅れとなり、悪い行いの相談相手となっている不届な奴等を成敗せずに
そのままにして置いたので、私が死んだ後には益々御前に悪い影響を与える事は
間違いありません。
たとへ私は切腹して命は終っても魂は此御殿の内を離れません、お願いしたいのは
行いを改められ、御上の覚えも目出度くなる様になっていただきたい事で御座います。
私はこれが今生の御暇乞となりますので御盃を戴きたい、と云って小姓衆へ御酒と
御盃を持って来るように備前守が云うのを頼房公は聞かれてから小納戸衆を呼ばれ、
日頃使われた伊達拵の刀、脇指、衣類等まで全て取出して持参する様に指示
されました。
それらを備前守が見ている所で小姓衆へ残らず分け与え、其上で脇指の張物を広げて
小刀で切り取り、今後は行いを改めるので心配しないでよい、と備前守へ云われました。

これらを備前守は登城した時老中方へ詳しく報告して帰宅した事が上聞に達したので
公方様も、備前守の左様の了簡が無かったら水戸の行儀は直らなかったろう、
でかした事だ、との上意がありました。
  前述三人の事を書き記したのは、権現様の目がねで御三家方の後見としての
  付人に撰ばれた者達は見立通りに三人共にそれなりの器量を持った人々である
  との証拠の為と思い一話宛書き付けた


1.徳川頼房(1603-1661)家康十一男、水戸徳川家祖、水戸家成立は1609年


30
        松平忠吉公参勤御逗留に死去の事            目次へ
松平薩摩守忠吉公は尾張より参勤で江戸逗留中に病気となり、病状は非常に重い
と諸医達がの云うのが上聞に達し、将軍も薩摩守の宿所へ見舞われました。
そのような時に多少病状も良くなったので尾張へ帰って養生した方が良い、と云う事で
江戸を出発されましたが品川迄行かれたところで重態となり、養生の甲斐なく死去され
ました。 
増上寺において安置の間に近習の侍三人が殉死を遂げたとの情報が権現様の耳に
入り、殉死は江戸老中より差留なければならないものだが、それでも止められければ
上意により厳しく差留すべき、と大変御機嫌悪くその時云われた事は、
殉死とは昔からある事だが、何の用にも立たない事である、夫程に主人の事を大切に
思うなら、益々身をまっとうして跡目の主人へも身命を懸けて奉公し、もし必要となったら
大事な時に命を捨てる、という心掛があってこそ当然であるのを、何の用にも立たぬ
追腹を切って死ぬのは犬死と云うものである、
つまるところ主人がしっかりしていないからであるぞ、と有りました。

この上意の趣旨は江戸へも聞こえ、これによりその後越前中納言秀康公の越前
北之庄の城での死去が江戸へ聞こえたので宿次の飛脚で、家中の侍の中でもし殉死を
遂げようと云う者が有れば皆で止める様に、と越前家へ老中の書状が届けられました。

      権現様がこの上意の趣旨を為されたので、在世の間に厚恩を受けた人々は
      大身小身へ懸けて無数にありましたが、駿府において他界された時に殉死は
      壱人も無く、台徳院様もこの上意を守られたので殉死の人は有りませんでした。


1.松平薩摩守忠吉(1580-1607)家康四男、秀忠同母弟、松平家へ養子、初陣関が原、
尾張52万石、病死

31
        武道を嗜者は戦場への覚悟有るべし            目次へ  
権現様の上意に、武道をたしなむ侍は戦場へ赴くからには討死を遂げるだろうとの
心掛けが無ければいけない、白い歯が黄色にならぬ様にと心懸、髪にも匂いを留める
のがよい、 と云う仰を聞いた人々は大坂冬・夏両度の陣の時に伽羅を少々持参
されたが、香炉が無いので五月七日にも髪に香を留めていた人は近習の中でも一人も
有りませんでした。
同じく上意に云われた事は、小身の武士が着る具足を注文する時には胴・小手・其外は
あっさりと作るとしても、甲
(かぶと)には念を入れるのがよいぞ、理由は討死を遂げた時に
甲は首と一所に敵の手に渡る物であるので死後の為にもなる、と云われました。

  以上は上意であるが上田主水入道宗古斎が語るのは、従って侍は戦場で討死を
  遂げて首になった時の事を心に懸て置くのがよい、それには月代の後ろが下がって
  いると、首になった時に詫び言面になって見苦しいので後ろ高に剃るのがよい。
  剃刀を陣中へも持参して、明日は必ず一戦あると知ったら前日に月代を剃り、
  首をきれいにする心得が大切である、と宗古斎は話したそうである

1.上田宗古 茶人、武士、秀吉の直臣、関が原では西軍に属し、浪人中浅野幸長に
一万石で抱えられ大坂夏の陣で活躍後家康にも召される

32
      大坂冬陣の時正宗・義宜・景勝が一緒に訪問       目次へ
大坂冬の陣の際、権現様住吉の本陣へ御機嫌伺いとして伊達正宗、佐竹義宜、
上杉景勝が一緒に来られた事がありました。
その時正宗は猩々緋の袖なし羽織に菊を綴じ付け、朱鞘の脇指、白銀の打鮫、紅の
腕ぬきであり、 佐竹は普通の黒羽織に五本骨の扇子を大きく付けただけで、上杉は
黒いとじおりの羽織に金糸で葦と白鷺を縫い付け、赤い紐を付けて着ていました。
三人衆が退出した後で権現様が云われるには、景勝は多分律儀な人を使っていると
見える、側の者達のやった事と思うが馬鹿げた事だ、とお笑いになりました。


1.菊を綴じ付け 菊は伊達家の数多くある家紋の一つ
2.五本骨の扇子 佐竹家の家紋
3.この説話で家康が最後に云っている事の理由不明(訳者)

33
      大坂冬陣和睦で城中から織田有楽、大野修理が茶臼山訪問  目次へ
大坂冬陣の和睦が成立して、その儀式として城中から織田有楽、大野修理の両人が
茶臼山の本陣へ最初に来て、その後に七組の頭を始め兼ての主だった面々が太刀
折紙を差上げて面会する中で、織田雲生だけはあっさりした扇子を二本台に載せて
雲生寺の方院土用坊とある札を付けて持参しました

   雲生寺は夏陣の時、親父ゆう楽と一諸に城を出られたのでその配下の諸浪人は
   大庭土佐と云う者に属した


1.あつかい: 調停、和議 ここでは大坂冬の陣の和議をさす
2.織田有楽斎: (長益1547-1622)織田信長の実弟、千利休に茶を学び有楽流の祖、
関が原では東軍、その後は豊臣方なるも夏陣前に去る。家康に屋敷を与えられ、
其場所が現在の有楽町となった由
3.7組のかしら: 七手組は秀吉が創設した旗本親衛隊で1万人を7組に分け、豊臣家身辺警護
及び朝廷への儀礼に用いた。
4.太刀折紙: 太刀や馬を贈呈する際に、品目・数量・金額などを記した折り紙。
5.織田雲生:(?-1620)有楽斎の二男で有楽流の継承者、雲生寺道八ともいう
    
34
         大坂冬の陣で下町筋自焼の事              目次へ
大坂冬の陣で城方が下町筋を自焼した時に高麗橋迄も焼落したという情報と、否違うと
全くはっきりしない為、小栗又一に見分して来る様に指示されたので、彼が行って
高麗橋はそのままです、との報告を聞かれ、若高麗橋迄も焼落したのであれば城中の
奴らを全て皆殺しにしてやろうと思ったのに、との上意で、なぜ使番の者達は見届け
なかったのだろう、と云われたところ又一は、皆臆病者なので近くで見れば鉄砲に当る
かも知れないと思い、遠くから見ていた事によります、と申上げました。 
又一が御前を去った後で権現様の上意で御側衆へ、又市のあの大口では同僚達と仲が
悪いのも当然だ、とお笑いになりました。


1.高麗橋 大坂城外堀としての東横堀川に懸る、慶長九年頃、長さ62.5m幅11m
2.小栗又市 家康小姓から物頭、落穂集巻五御使役の事にも登場する

35
        大猷院様への天海大僧正御伽の事            目次へ 
大猷院様の代に天海大僧正が云われたのは、権現様は有為無常と悟られており、
台徳院様は柔和であられたので、 この御両代にはいろいろ申上げ、御伽も致し易く
思われたが、当将軍は利発で理屈強いのでお伽をしても気が詰ると云われたそうだ。


1.天海僧正 落穂集巻一御城之鎮守参照
2.当将軍  三代家光

36
        佐竹義宜は律儀者と上意の事                 目次へ  
権現様が駿府の御城居られる時、お伽の人々が、誰それは特に律義な人だなどとの
話しているのを聴かれ、律義な人とは稀にしかいないものである、私がこの年齢に
なっても律義な人としては佐竹義宜以外には見た事もない、と云われたました。
御伽衆の誰も納得できないので永井右近が御前へ向かわれ、義宜の事をその様に
考えられるのはどの様な理由からでしょうか、と申上げれば、其方なども知っている
事だが、以前に大坂で石田治部と七人の大名達が争った時に、治部が大坂を脱出し
私を頼って伏見へ来た時に、大坂からの道中は義宜が警護して連れて来、其後
石田は佐和山の城で蟄居する事になったが、その道中において大名達が示し合わせ
石田を襲うと云う風説があり、参河守に道中の警護を私が言いつけた事を義宜は聞、
治部を大名達に襲わせては自分の立場が立たない、という事で道中へ見張りや聞き
込みを送り、知らせがあれば出動して参河守と共に治部を救助できるようにと、上下
共に臨戦体制で待機していた事からも律義の人に間違い無い。

其後関が原一戦の時も、大坂方にもどちらにも付かずに中立の立場を取りたいと思い
ながらもその通りに成らなかった。 我々に味方して関が原へ参戦し、戦功なども
あれば先祖代々の領地でもある水戸の安堵は間違い無かった筈なのに残念な事である。 
人は律義である事は誉められるべき良い事であるが、律義が過ると云う場合は一つ
考えてみる必要がある、との上意でした。


1.佐竹義宜(1570-1633)北関東の源氏名門、石田三成と懇意だった為、 関が原では
あいまいな立場であり、1602年常陸五拾万石余から秋田二十万五千石へ所替
2.永井右近 右近太夫直勝 巻四26話参照
3.七人の大名 石田三成に不満を持つ武断派大名、加藤清正、福島正則、黒田長政、
細川忠興、池田輝政、加藤嘉明、浅野幸長の七人と思われる、後関が原では何れも
東軍となった
4.石田治部少輔(三成1560-1600)秀吉側近、豊臣政権五奉行の一人、家康排除を狙い
西軍を組織、敗軍斬首される
5.参河守 結城秀康 家康二男、落穂集巻四制外の家参照

37
      大坂陣の時将軍が作戦書を権現様へ御覧に入れた事  目次へ
大坂の陣の時、将軍が作戦を書付られ本多上野介を介して御覧に入れた所、
権現現様が云われたのは、将軍としての案はなるほどこの通りで良い、私自身は
若い頃よりいつの戦でも作戦の書付を出した事はない、理由は書付の通りにして
悪かった時には叱るわけにも行かず、又作戦の書付に背いたのが結果として良かった
事が有ってもそれを誉めては、元の法が成り立たない事になる、従ってその時の状況
次第にして成功してきた事である、と云われました

38
      大坂夏の陣で将軍が道中を急がれた事に権現様不興の事 目次へ
大坂夏の陣の時 将軍の江戸出陣に先達て上杉・佐竹・伊達・松平上総守殿の四人の
大名衆が何れも人数多くで押上られたので、将軍より近藤勘右衛門を使として皆が道を
急ぐ様に、と上意がありましたが大軍なので中々思い通りに行かず、箱根山を越えて
からは段々と先発勢を追越され、道中をたいへん急がれたので、歩行で御供する
御番衆などは付いて行かれず、膳の料理にする鳥の毛も馬上でむしる様な事も
ありました。
従って伏見へ早々に到着されたので、本多上野の気持ちでは道中を急がれたのは
当然の事と思い、その趣旨を申上げたところ権現様は聴かれてたいへん御機嫌悪く
言われた事は、将軍は何の用が有ってそんなに道中を急ぐのか、大身の奥州大名達を
後において先駆をするのか、それには及ばないのに、との上意で翌日も又其翌日も
持病との事で対面をされませんでした。

39
      権現様京都を出発し大坂に取懸けられる事        目次へ
権現様は京都を出発され大坂へ取掛られる時、何れも御供の人々は腰兵糧だけで
済ますべし、荷物車は不要、台所方へは白米三升、鰹ふし十、塩鯛一ツと味噌を少々
持参する様にと指示されました。
又大御所様が格好を付けて云われる、去年も大坂冬陣では百日ほど懸ったのにと
囁き合いました。


1.大坂夏の陣 天正19年(1615年)五月六日開始、七日落城、八日秀頼自害で終る

40
      大坂城落城の朝 持旗、長柄など住吉辺に置かれた事  目次へ
大坂落城の朝権現様は持旗、長柄を住吉辺に立ならべる様にと命令され、御自身は
茶色の羽織に下くくりの袴を召し為され、住吉と城との間に有るくぬき林の内に山駕籠で
行かれてお茶を召し上がり松平右衛門太夫へ云われた事は、城方の者達は、私が
住吉に控えていると思うに違いない、 もう戦には勝ったようなものであるから身を大事に
するのが良いぞ、とお笑いになられました。 
そこへ内藤帯刀がやって来て馬より下りて御前において合戦の状況などを申上げ、
お茶弁当番として付き添っている坊主衆へ向かって、私にも何か一盃飲まして欲しい、
と云えば坊主衆は、御前の御茶碗しか有りません、と云うのを帯刀は、御前の御茶碗で
あっても後を濯いで置けば良さそうな事、と言われるのを聴かれ坊主衆へ、帯刀が咽が
渇くと云うのに何故早く飲ませてやらぬか、この様な時に上下の隔てがあるものか、この
ばか者め、とお叱りになりました。

帯刀が退出した後、権現様が茶臼山の上へ上られた所、谷間より鉄砲を打出したので
御供の人々が騒ぎ、小十人衆三人がその場へ駆け付け、鉄砲を打った金笠を被った
足軽一人を捕らえ、茶臼山へ引連れて来ました。 本多上野介が其の場に居合わせ、
その者に向かって、お前は誰の家来で今の鉄砲は何故打ったのか、と尋ねれば、私は
本多上野介の足軽でございます、上様とは知らず敵と思い打ちました、と云うのを
上野介は聞いて、言語同断な不届な奴めが、などと云うのを権現様が聴かれ、小従人衆
の方へ向かわれ、放してやれ、はなせはなせ、との上意なので追放しました。

上野介は、不届な奴ですから成敗しようと思っていたところ、御意によりお助けを戴き、
冥加に叶った奴でございます、と申上げれば、我らは本道を通らずに脇道より来て、
更に旗・長柄等も無いので敵かと思ったのに理由がある、 あの足軽に罪は無い、との
上意がありました。
この小従人衆は石丸庄兵衛、八木善四郎、田中市兵衛の三人でしたが、真直ぐな
お考えである事だ、とその時下々でも云っておりました。

1.内藤帯刀 譜代大名、落穂集巻七切支丹成敗参照
2.松平右衛門太夫 家康近習 落穂集巻三吹上門石垣参照


駿河土産巻の五

41
       七日の朝権現様は袴だけで居られた事       目次へ
大坂夏の陣七日の朝、権現様は具足を付けず裾括りの袴に茶色の羽織を召されて
いる所へ藤堂和泉守が来られ、御前は御具足を召されないのですか、と申上げれば、
あの秀頼の若年ものを成敗するのに私の具足などがいるものか、との上意がありました。
高虎が御前を立去られた後、側に居た松平右衛門太夫へ云われた事は、和泉守は
上方の者なので本心を見せぬ様にと思って今の様に挨拶をしたが、実は年を取り
思いがけなく下腹なども膨れたので、具足などを着ては馬の乗下りも出来ないので
具足を着ないのだ、若い時とは大いに変ってしまった、との上意でした。


1.藤堂和泉守(髙虎1556-1630)秀吉時代は伊予宇和島7万石、関が原では.武断派と
共に東軍、戦後伊予今治20万石、築城の名人として有名

42
       大坂落城の朝豊国明神前の香典包銀の事     目次へ
大坂落城の五月八日の朝、秀頼自決の日に京都東山にある豊国明神の前に、誰か
分らぬ施主の名も無い香典の包銀をかなり多く持寄られている風聞がありました。
所司代から見分の者を送り調査させその状況を報告した処、権現様が云われた事は、
在世の時に智仁勇の三徳を兼備へた人でなければ、死後に神として崇拝される筈は
無いものである、と有り、太閤の影像の束帯を取り坊主にし、その時に社頭なども取り
壊し更地にする様にと指示されましたが、北の政所より崩れ次第に自然にして
置かれたい、との願がありその通りになりました。
  敵祖の廟を続けて置かない事は異国・本朝とも一般的です。


1.北の政所(おね1549?-1624)秀吉正室、1598秀吉他界で落飾し高台院となる

43
       大坂の決着後、将軍還御に付き権現様へ御伺の事  目次へ
大坂での決着が付き両御前様の朝廷参内の儀式も終り近日中に駿河・江戸へ夫々
還御が発表された時の事、何事でしょうか、将軍より老中方を通して権現様の居られる
二条城へお伺いを立てられました。
その時老中方を御前へ召出され直に云われた事は、唯今迄は思うところも有り又色々
将軍からも相談あったので相応の返答をしてきた、しかし今後は大小の事全てを将軍の
考え次第に処理するべきである、駿河へ相談する必要はない、又たとえ相談あったと
しても返答はしない旨将軍へも伝え、皆もその様に心得よ、と云われました。
  
     この通りに上意がありましたので、以後は江戸において何か変った事が
     発表された時は江戸の老中方より駿府老中へ事後報告で済ます様に
     なりました。

44
       伊勢の神職戸部太夫の闕所入牢の事          目次へ 
伊勢の神職である戸部太夫は太閤以来秀頼の代に至る迄神職でした。
大坂の陣の際に御当家の父子(家康・秀忠)様を調伏した事が明るみに出、当時の
山田奉行である日向半兵衛、中野内蔵丞両人によって取調べを受け、間違い無い
ので家は闕所として本人を牢に入れて置き、お仕置きを申付けるべきと駿府へ
お伺いを立てました。
権現様は上意で夫は奉行の心得違いで無理な処置だと思われ、秀頼の運が開ける様に
と祈祷をするのは戸部としては当然である、早々に出牢させ闕所にした諸事を
間違いなく返還する様に、と指示されました。

45
       増田右衛門を高力左近へ御預けの事            目次へ 
大坂五奉行の一人増田右衛門尉は関が原戦の以後、高力左近へ預けられ武州岩槻に
居り、右衛門尉の倅である兵太夫は大坂冬の陣の時は将軍側の人数の内に加わって
大坂に在る時、味方の戦果が華々しい噂を聞くと苦い顔になり、少しでも敵方の有利を
聞けば喜んでいました。
この事を冬の陣の和睦後駿府でお耳の入れたところ権現様の御意見は、それは近頃
奇特な心構えだ、流石に増田の子であるぞ、と云われたのみで何のお咎めもなく、夏の
陣でもそのまま浪人をしているので軽く召し出され、親の右衛門尉の御預けも緩やかに
する様にと考えられていました。 
ところが夏の陣の時は大坂へ行き秀頼の家来になり、長宗我部宮内と共に行動し、
五月七日藤堂和泉守との戦い晴れて討死をしました。 親の右衛門尉も後日になって
武州岩槻で切腹を申付けられました。    


1.増田右衛門尉(長盛1545-1615)豊臣政権の五奉行の一人、関が原には参加せず大坂留守居、
戦後岩槻に流刑、息子が徳川家から出奔し豊臣軍へ参加した事により、家康に切腹させられる
2.増田兵部(盛次?-1615)徳川義直に仕えていたが大坂夏陣前に出奔
3.高力左近太夫(忠房1584-1656)家康譜代の家臣高力清長の孫、岩槻2万石、
関が原後清長は子が早世しており、孫に家督を譲る

46
       駿府夜話の時織田三七郎信孝の辞世を御咄の事    目次へ
大坂夏の陣の後、駿府で或時近習衆へ権現様が聞かされた事は、恩になった主人や
その成長した子供などに辛く当る者は、たとえ自分の時は別条ないようでもその子孫の
代になってその報いが来る様に思われる、理由は織田三七郎信孝切腹の時辞世の歌を

     むかしより主をうつみの野間なれば
            むくいをまてや羽柴筑前

と詠んだのはその当時私も聞いていたが、今度大坂で秀頼が自害したのは八日で
あるが、豊臣家が亡びたのは五月七日である、又野間の内海で信孝が切腹したのも
五月七日だそうであるが不思議な事ではないか、と上意がありました。


1.織田三七郎(信孝1558-1583)織田信長三男、明智滅亡後秀吉と離反し柴田勝家と結ぶ、
秀吉に敗れ野間(愛知県知多郡美浜町)に送られ自害する
2.むかしより・・・昔源義朝がこの野間で恩賞目当ての家来長田忠致に入浴中に討たれたと云う、
うつみを討身にかけているという

47      
         太閤に大角与左衛門と云者が取立てられた事    目次へ
太閤の代に台所で魚や鳥などを洗っていた下男を取立て料理人を申付け、その後
料理人の頭となり秀頼の代になると台所頭となって、あちら此方に顔を出して飛び
回った大角与左衛門と云う者があり、此与左衛門が謀反して五月七日に自分の手下に
言いつけ大台所に火を付させました。
この謀反の働きを御奉公だと申し立て旗本に召出されたい、と願っている内に病死した
事を権現様が聞かれ、大角奴の事は去年の和睦の時、秀頼の母からの使として茶臼山
へも来た者である、元々下男だった者だが太閤の恩を得た奴である、恩知らずの
不届者で憎い奴、との上意でした。

48
        井伊掃部頭家来三人相討の事で権現様上意の事   目次へ
大坂の陣以後駿府で御側衆の中より、去る五月六日若江村において井伊掃部頭家来の
侍三人が同時に敵を討取りとの報告なので掃部頭が詳しく調査した結果、二人は同時で
ある事が明確となり壱人の報告は違う、という事で掃部頭は怒ってその一人に仕置きを
申付けたそうです、と申上げました。
その事についてはあれこれ云われませんでしたが、皆聞置く様にとお話しがありました。
全ての物事には余裕が無くてぎりぎりの状態はよくない事である。 特に武辺などには
尚一層の余裕が有るのが良い、理由は織田信長が未だ小身の時、佐々成政と前田利家
の両人が敵壱人を突倒したので成政が利家に向って、其方が敵を突倒されのであるから
首を取りなさい、と云い利家は、私は敵を倒しただけであり鎗合をしたのは其元が先です
から首は其元が取りなさい、と互いに辞退している所へ柴田権六も駆付けて、そんなに
両人が辞退する首ならば私が貰おう、と云って首を取り、私の名を上げる証拠の為に
両人も来て云いなさい、と三人一緒に信長の前に出て権六が云うには、此両人で敵を
突倒し首を取れ、取らないと云って譲り合っているところへ通り掛り、首は私が取って
来ました、と云うのを信長は聞き、三人共に大いに褒美を与えられたという、この三人は
共に武辺に余裕が有るからである、との上意でした。
  
     この上意から考えてみると同時討などをして先だ、後だと論じる様な事は
     権現様の  お考えには沿わないものと思われます


1.佐々成政(1536-1588)信長の馬廻りから戦功を重ね越中守護となる秀吉とは対立したが
織田信雄の仲介で配下となる、肥後の守護となったが一揆の責任を秀吉に取らされ切腹
2.前田利家(1539-1599)織田家直参、信長横死後、柴田勝家に付くが秀吉とも親しく
賎ケ岳の戦いでは動かずに秀吉に勝たせる、加賀前田家祖
3.柴田権六(勝家1522-1583)織田家重臣、賎ケ岳で秀吉に敗れる

49
      権現様が病床で肥前守、薩摩守、陸奥守三人へ刀を下された事  目次へ
権現様が駿府で御病気の時将軍も病床に同席され、唐紙の端には松平肥前守、
松平薩摩守、松平陸奥守の三人が召されており、各々へ正宗の銘刀を同じ様に
下された上で、今後北国筋で何か異変があれば肥前守、西国筋に異変有れば薩摩守
奥州で有れば陸奥守へ任せるので、各自が責任を持って平和の維持に尽くす様にと
云われました。

この三人が退出した後、松倉豊後守、堀丹後守、市橋下総守、桑山左衛門佐、
別所孫三郎の五人が召され将軍へ紹介をなされました。
上意で、此五人の者はこれ迄奉公してきて、其上大坂の大和口において良く働いた、
将軍もそれを心得て置かれるべきである、と有ったので五人共皆涙を流して有がたく
思っていました。
その後に別所に、と上意があり、此者は小身であるが優しい言葉を使い今後も役に
立つ者である、と言われたので別所は大声で泣き出しました。

   この上意に依って加賀、薩摩、陸奥の三家を外様三家衆と云うようになりました。
   薩摩家にはこの時拝領の銘刀と由緒書の表に権現様の上意の趣旨が
   書き記したものがあるそうです。 加賀、陸奥の両家にもその時拝領の言い伝えと
   正宗の刀はありますが、上意の書類としてはありません。 
   それから又別所孫三郎と云う人はその時は弐千五百石の知行高であり、大和口で
   味方の誰もが進撃を見合わせているところ、別所壱人が馬を乗廻し、筑紫の陣の時、
   尾藤が攻めないので太閤が勘当なされた、攻撃しにくい敵を攻撃する事が
   御奉公である、そう云う拙者は馬一疋の身代なので思うように成らず無念である、
   かかれ、かかれ、皆これは面白い事だと云いながら駆け巡っていた事が上聞に
   達したのでしょうか、それにより上意が有ったのだとその時評判でした。

1.松平肥前守=前田利常(1594-1658)前田利家の四男、加賀藩主三代目120万石
2.松平薩摩守=島津家久(1576-1638)薩摩藩主70万石
3.松平陸奥守=伊達正宗(1567-1636)仙台藩主60万石
4.松倉豊後守(重政1574-1630)筒井順慶の家臣、関が原で家康に見出され大坂夏の陣での
戦功で肥前日野43,000石の大名となるが、領民搾取の悪政を行い島原の乱の原因をつくる、
落穂集巻六切支丹成敗参照
5.堀丹後守(直寄1577-163)秀吉の小姓、その後家康に帰属、村上10万石 
6.市橋下総守(長勝1557-1620)信長、秀吉、家康に仕える、関が原は東軍に属し、
伯耆矢橋23,000石、大坂夏陣の功績で越後三条50,000石となる
7.筑紫の陣 天正15(1587) 秀吉の島津征伐
8.尾藤左衛門尉知宜(?-1590)秀吉の家臣、島津義弘の軍に慎重になり過ぎ逃したため改易となる

50
       権現様病床で板倉内膳正へ御指示の事           目次へ
権現様が駿府に居られ御病気の時、板倉内膳正へ死後の事を指示すると有って、
私の廟所を将軍が申付ける時、始祖の廟であるからと多分建造を立派にする様にと
云うであろうがそれは不要である、私の子孫の時代になり代々共に始祖の廟に勝らぬ
様にとの考慮の為でもあるので、そう心得て軽い宮居にして置く様、と上意がありました。
御他界以後江戸で内膳正が将軍へその事を申上げたところ、ご尤もな仰であるけれど
余りに軽い宮居というのもどうかと思われるので、概ね結構な宮居と見える様にと
普請掛りの人々と相談するように、と云う事で最初の御宮が建立されました。

其後寛永三年になり御父子(秀忠・家光)共に上洛された留守中に御台様が病気に
なられたので、京都へ報告して駿河大納言忠長公が看病の為に許可を得て江戸へ
下向されましたが、終に病気快復はならず九月十六日にこう去されました。
増上寺での法事等も忠長公が詰められている間に御父子も還御され、廟所や
御霊屋等の普請は忠長公の担当となったので思う侭に結構な普請となりました。

同九年正月廿四日台徳院様が御他界になった時、御霊屋の普請等については
崇源院様の御たまやよりは良く見える様に作るべし、との上意であり今ある様な
御仏殿ができました。
此御仏殿と比べると日光山に建立した東照宮の社殿は余りにも手軽く見えるので、
御宮の建直しではなく、修復という事で総責任者は秋元但馬守が任命されました。
その時御宮修復に必要な費用は特に制限しないので十分念を入れ、台徳院様の
御霊屋に勝る様に、と指示されました。
その結果この修復に掛った費用は七十万両との事でした。
  
     このような次第ですから代々の御霊屋が結構なものになったのもその
     始まりは駿河大納言殿の物好より起った事のようです。


1.秋元但馬守(泰朝1580-1642)家康近習出頭人、甲斐郡代壱万八千石、
1634-1636日光東照宮造営惣奉行を勤める
2.崇源院 秀忠正室お江与、三代将軍家光、駿河大納言忠長の生母

51
      岡崎城で敵対した門徒四ケ寺の事              目次へ 
権現様が岡崎の御城に居られた時、敵対していた門徒四ケ寺というのは
   針崎松万寺、土呂禅秀寺、佐崎淨宮寺、 野寺本証寺、此四ケ寺である


1.一向一揆 家康が初めて城主となった岡崎の城主時代、1563年に真言宗の一揆が起き、
家臣でも信仰の為に一揆側に走るものも有ったと言う

52
      関東御入国時長柄持を八王子で召抱の事          目次へ
権現様は天正十八年に関東に入国されましたが、これ以降の戦や上洛の時に長柄を
担いで御供をする中間を武州の八王子で五百人新しく召抱えられ、小身の甲州の
人々をその頭々に任命されました。 
それ迄の領地(駿河、遠近江、甲斐、信濃、三河)は本国の三河を始め全て召し
上げられ、中でも特に甲州を返上したのは残念に思われて居られた様であると当時の
御家中では語られていました。

八王子は甲州との境目でもあるので平時には生計の足しにするため、これら長柄同心
の近所でもある郡内の村々へ立入り、絹類を初め其外の甲州産出の物資を長柄達に
中買をさせ江戸で販売しましたが、慶長五年の関が原一戦以後は天下一統になった
ので、この仕事は町人達がやるようになり長柄の者が行う売買は中止となりました。
この長柄鎗は五百本と決まっており、それまでの長柄鎗の立場とは模様も違っている
との評判でしたが、その頃出陣も無いので誰もが知りませんでした。
ところが関が原で九月十六日の一戦の前日、明日の一戦に備えて、と旗本陣容に
旗・長柄等及び使者衆、目付衆の待機場所が発表されました。

其後大坂の陣(16年後)の時、旗本備えの陣容を以前の関が原戦の様にされますか、
と二条の御城で本多上野介が伺ったところ、其方は天下分目の合戦も秀頼を成敗
するのも同様に考えているのか、この度は私の旗本の陣容は細かく決めていない、
平らに押寄せ味方の体制がどうであろうと、居たい所に居るように言いつけよ、と
お笑いになりました。
従って関が原に於いて唯一度以外は、権現様が関東御入国以後に工夫された
旗本備の陣容を見たものはありません。


1.八王子鎗同心 この話しは落穂集巻四、八王子千本鎗に引用されている

53
         蔵米多過る事勘定方より申上げ権現様不興の事   目次へ
権現様の代に、江戸の蔵に納米が多過ぎるので欠米等も多く、その上諸国の代官所
から当地への運送途中での目減りによりかなりの出費となるので、江戸の米蔵の
棟数を減らせばかなり儲かる、と勘定方が考えました。
その趣意を勘定頭達より申上げたところ、たいへん御機嫌が悪く言われた事は、
蔵数が多ければ欠米等も多く私の損になる事は既に分っているが、万一の事変が
起きて遠国の米が当地へ運送出来なく様な事があれば、当地の米の値段が高値と
なり各地から集まっている江戸中の人々が食物に難義する事が無いとは限らない、
その様な時に活用する為を考慮して蔵米を多く貯えるのである、平勘定の者などが
云うのはともかく、天下の勘定頭とも有ろう者がその様な事を私の為だと言い聞かす
とは何事か、と上意でたいへんお叱りになりました。


1.蔵米の事 この話しは落穂集巻四 土井大炊頭と伊丹順斎に引用されている
    
                            以上原作    大道寺知足軒友山
                            現代語訳・註  大船住人(2007年2月)
  
駿河土産 終
 
                   追加第六巻へ