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駿河土産巻之三
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駿府御城不明御門番之事 目次へ
権現様駿府ニ被遊御座(ござあそばされ)候節不明御門番之儀ハ小十人
衆被相勤候哉、或時村越茂助清見寺え御使に被参(まいられ)及
日暮(ひぐれにおよび)に帰宅之節御門外え来り、村越茂助ニて候、御使に
参り只今帰り候、御門御通し給(たま)はり度(たし)と申候へ共はや
刻限過候ニ付、此御門よりは不相成候と有之處え安藤
彦兵衛御門を通り被懸(かけられ)、村越茂助ニ紛無之候、御門明ケ
通し申様ニと申付候へかし被申候得ば、小十人衆被申候は各
中は当時重御役をも被勤人達の口より左様の儀を被
申て能ものニて候哉、日暮候て以後此御門を明ケ候有儀ハ
決て不罷成候との答ニ候となり。 此儀 権現様之御聴ニ
達し右両人の小十人衆え御加増被下(くだされ)弐百石取ニ被成、両人
共ニ紀伊国殿江御付被遊候と也
註
1.村越茂助(直吉1562-1614)家康家臣300石、関が原後壱万石
2.安藤彦兵衛(帯刀直次1555-1635)家康側近、1610徳川頼宜の付家老、
紀州田辺三万八千石城主
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松平武蔵守が噂申上候ニ付上意之事 目次へ
或時 権現様御前ニて本多上野介松平武蔵守が噂
を被申上候へは、武蔵守ハよく筑前中納言に似たるぞ、と有
権現様之 上意を上野介心得候は、関か原において御約
束のごとく御見方被致たるを以の仰と被存(ぞんじられ)候ニ付、随分律儀
なる人ニて御座候と被申上へハ、いや左様ニてハなきぞ、もはや五十
万石共領地するものハ親兄にも目を懸たるが能なり、律
儀なると云斗(いうばかり)ニて済事ニてもなしと有 上意にて候と也
註
1.本多上野介(正純1565-1637)本多佐渡守の子、家康が大御所の時駿府で家康を補佐し、
江戸の秀忠は父佐渡守が補佐した。 後秀忠の宿老として権勢を振るい他の老中及び秀忠にも
疎まれ失脚する。出羽横手に流罪
2.松平武蔵守(池田利隆1580-1616)父は池田輝政(1564-1613)父子共に関が原では東軍に味方、
戦後輝政は播州姫路52万石となる、輝政継室は家康の次女督姫、利隆正室は秀忠の養女
3.筑前中納言(小早川秀秋1582-1602)秀吉の親戚の子に生まれ、秀吉の養子となり、更に1594年
小早川隆景の養子となる、翌年隆景隠居により筑前、筑後、肥前の一部30万石となる。石田三成と
不仲で関が原では西軍から東軍へ寝返ったと云われている。戦後岡山五拾五万石となったが狂死
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松平新太郎殿始て御目見被仰付候節之事 目次へ
権現様御代之義ハ不及申 台徳院様御代之頃迄
ハ世上ともに万事手軽義共に有之 公儀之御規式
とも急度相定りたる御様子も有之たると申ハ無御座候
となり。 権現様伏見之御城ニ御座被遊候節、松平新太郎
六歳になられ候時初て 御目見被 仰付候節、白き御小袖
御頭巾を被為 召(めしなされ)御脇指をも御さし不被遊御側脇に被為置(おきなされ)
あれぞ武蔵守が子か、丈夫なる産レ付ニて一段之事と有
上意にて有之候なり。 其後 秀忠様御代となり新
太郎成人ニて江戸え下り始て 御目見被申上候節、織田
常真ハ大あぐらをかき、上座ニて碁を見物致し被居候
御座敷ニて 御目見被仰付(おめみえおうせつけられ)候刻、新太郎そこへはいりやれ
伯耆ハ雪国の由聞及たるがそふでおぢゃるか、勝手え行て
食を喰やれ、大炊同道セよとの 上意に御座となり。 御勝
手へ立御料理を給被申時(たべもうされるとき)、一座之衆十三人有、上座ハ織田
常真、其次之座へ大炊頭差図ニて松平新太郎着座
被致候と也。其節之御料理菜汁におろし大根、なます
あらめ煮物、干魚の焼物ニて有之候と也
右は新太郎殿之直物語ニて遥成(はるかなる)事之由也
註
1.松平新太郎(光政1609-1682)池田利隆の嫡子、母は秀忠の養女(榊原康政の娘)
六才時の家康へのお目見えは大坂冬夏の陣の頃、家康が伏見城に滞在中と思われる。
成人後の秀忠への御目見えは秀忠が大御所になる前後かと思われる
2.織田常真 織田信雄(1558-1630)の出家後の名前、大和宇陀五万石
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醍醐之定行院遠島被仰付候事 目次へ
権現様在世之内醍醐の定行院科之儀(とがのぎ)在之(これあり)
遠島被仰付候節、伊豆大嶋を御預被置候井出志
摩方え板倉伊賀守書状を被相添たる迠ニて事済
候となり
註
1.井出志摩(志摩守正次1551-1609)元今川家臣、1558家康に仕え駿河・伊豆の代官を奉職。
2.板倉伊賀守 京都所司代、落穂集巻六参照
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奥方の女中松下淨慶をにくみ候事 目次へ
権現様駿河ニ御座被遊候節御奥方の若き女中寄
集り居られ、あの淨慶坊程にくき事ハ無之と口々に
しかりしを権現様御聴被遊、年寄女中衆を被召(めしよばれ)、淨
慶が事をハ何ゆへあの如くにも何れもにくみ候哉、と
御尋被遊候へハ、いや別の事にても御座なく何れも申候は
浅漬の香物余りに塩からく御座候ていづれも給兼(たべかね)たるニ付、
今少シ塩をひかへて漬候様に申付給ハリ候様、と淨慶殿へ
度々頼遣しとても、今に塩からく候ニ付ての事ニ御座候、と被申上
候得は 御聴被遊、それハいづれも腹立するが尤なり、塩
からく無之様ニ云付てとらすべきにと有 仰にて、其後
御表に於て淨慶を被為 召(めしなされ)、右之趣被仰付候得ば淨慶
ハ御側へはいより何事をやらんひそかに申上候を、御笑ひ
被遊ながら御聞被遊候となり、其節 御前ニおいて見給ひ
被申たる御近習衆不審ニ存じて淨慶に逢ひ、其節は
何事をひそかに被申候哉との御尋ニ付、淨慶答へ候は、いや別ニ
替りたる義ニても是なく、各中も御聞候如く大根の香の物
の儀を 御意ニ付、只今の通塩からく仕給させたるさへ大
分に入申事ニ候、女中共の好のごとく能塩かげんに致し
給させ候ハハ何ほど入可申も計りがたきニ付、左様ニは成不申候
御前様ニは御聞不被遊候分ニて御座なされたるが能御座候との
淨慶申分に有之候となり
右松下淨慶ハ其節御台所頭ニても有之候哉、今以
駿府御城内ニ淨慶蔵、淨慶御門などニて有之候と也
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浅野左京太夫御加増被下候砌後藤庄三郎御尋之事 目次へ
関が原御合戦以後浅野左京太夫幸長夫迠(それまで)ハ甲斐
の国主ニて被居候を、御加増ニて三十七万石余の知行高ニて
紀伊国を拝領被 仰付候砌、後藤庄三郎熊野山え
参詣仕り其後江戸表江罷下り候節、 権現様被
仰候は、其方先頃熊野山え罷越候よし帰京之節紀伊
国え差越候哉との 御尋ニ付、上意のごとく和歌山御城下に
十日余りも逗留仕罷在候申上候へハ重て御尋被成候ハ、逗留中
紀伊守ハ何を馳走に被申付たるぞ、と 上意、紀の川と申候て
吉野高野の麓より流れ落申候大河御座候、此川え船にて
被出候供に参り、あみをおろし魚をとらせ被申候を見物
仕、其後山鷹野に被出候節も罷出申候、是ハ殊のほかめざま
しき見物事ニて御座候、此山鷹野の儀に付今において
私などの合点のまいらざる儀御座候と庄三郎申上候得ば、
それハ何事ぞ、と有 御尋ニて、雉子、山鳥、其外鹿、むじな
のたぐいにても物数多く取れ候間、定て機嫌能可有之(きげんよくこれあるべく)候と
存候へハ大きに腹立致され、勢子、奉行をはじめ其外役
かかりの者共迠散々にしかりに逢申(あいもうす)如く有之、又一度之
山鷹野ハ何もとれ不申、殊のほか物数もすくなく有之候間
定て不機嫌に可有之かと存候へハ、一段と機嫌能諸役人共
骨を折大儀にも存候などと有之候て、褒美被致(ほうびいたさる)ごとく有之
候と申上候へば 権現様御笑ひ被遊、夫ハ其方共が合
点のゆかざる筈の事なり、紀伊守がせらるるがまことの
山鷹野といふものにて、物数の多少にかまひなき事なり、と
上意被遊候となり
註
1.浅野左京太夫(幸長1571-1613)豊臣五奉行の浅野長政の嫡男で石田三成と対立、
関が原では東軍で参加、紀伊守、病死後子供なく弟長晟が紀州藩継ぐが後広島に転封
2.後藤藤庄三郎(光次1571-1625)秀吉の経済官僚だったが後家康の下で金座.銀座主催(御金改役)
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権現様何流と有る御軍法御用ひ不被遊候事 目次へ
権現様には御年若く御座被遊候節より数度之御
陣に御立被遊大場小所に於て御合戦・迫合等に
御出合被遊候へ共、 何流の御軍法を御用ひ被遊候と有
儀も無御座(ござなく)、其時々の様子により御見合次第御下知被
遊いつとても御勝利にまかせられ候となり。 然ル所に天正年
中尾州長久手において豊臣太閤秀吉の大軍に御
むかひ被遊、小勢の御味方を以大き成御勝軍(かちいくさ)有、此後近
年の間に豊臣家と徳川家との大合戦なくて不叶(かなわず)
と世上に於ても専(もっぱら)取沙汰仕、御家中諸人之儀猶以(なおもって)
其覚悟に有之候となり。 然ル処に三州岡崎の城主
石川伯耆守別心被致、御家を出発有之太閤え随
身ニ付、御家大小の諸人存ハ右伯州儀は同じ御家老
中と申内にも酒井左衛門尉、石川伯耆守両人の儀は
いつとても御先手を被致、其身の武功なども勝れ候を以て
御家の壱人共可申如(もうすべきごと)くの仁、敵方え降参と有てハ御家の
軍立の模様なども委細敵方え相知レ申ニ付、此已後豊
臣家との御一戦と有ハ万事被遊にくき御事なるべし、あぶのめ
の抜たるとハケ様の事かと有て人々くやみつぶやき
候處に、 権現様には伯耆守欠落之儀を何共思
召れざる御様躰ニて、一段と御機嫌宜御座被遊候を以て
御家中諸人不審をたて申如く在之候と也。 然ル處に
其頃甲州の御郡代鳥居彦右衛門尉方え被 仰遣候ハ信
玄時代被申出(もうしだされ)たる軍法等の書付、其外信玄之用候武器
兵具の類何にやらず国中え相触取集、浜松之御城
内え持セ越候様ニと被仰出、其奉行ニは成瀬吉右衛門、岡部
次郎右衛門両人を被 仰付、惣元じめ之儀ハ井伊直政、榊原
康政、本多忠勝此三人立合之吟味に被 仰付并(ならびに)御家へ
被 召出候御直参の甲州衆之儀は申不及、井伊兵部え
御附人に被成置たる面々などへも信玄時代のことをさへ有之
候ハハ何事ニよらず申上候様ニとの儀ニ付、悉く被取集被遊御
吟味之上にて御家諸色の義を信玄流に被遊かへさセられ、
其年の霜月上旬の頃に至り御家御軍法万事之儀
自今以後武田流に被遊候間、左様相心得候様ニと御旗本中
之儀は申ニ不及家中末々のもの共迠承知仕ごとく御触
御座候と也。 其年北条氏政・氏直父子領分之境目見分
として、国廻り之序に三島えも可被相越之旨風聞有之候
ニ付て 権現様より氏政え被 仰遣(おうせつかわし)候は、我等義多年
御隣国に罷在、其上近年之儀は御縁者にも罷成候得共
いまだ御息氏真えも對面不致候處、幸此度(さいわいこたび)三島迠御
越之旨承及候間、御父子え懸御目(おめにかかり)候給仕度(たまわりしたし)と有之旨、被
仰遣候處に氏政返答被申候ハ、被仰越趣致承知(おうせこされおもむきしょうちいたし)候兼て
此方ニも左様に存寄罷在候事ニ候間、今度三島迠罷出候
節、木瀬河を隔て可懸御目(おめにかかるべし)との返答被申候ニ付、木瀬河
をへだて御対面申と有ハ悉(ことごと)く皆隣国会盟之作法のごとくにて、
御縁者に罷成たる詮も無之世上の聞へもいかがに候間、我ら
三島え参懸御目(まいりおめにかかり)候、御旅館之儀と申御心安き事にも候へハ
御馳走がましき義を必以御無用に候、と可被 仰越(おうせこさせるべし)との儀を
酒井左衛門尉承ハられ 御前え罷出被申上候は、今度北
条氏政父子え御対面可被成(ならるべく)候旨被 仰越候所に、氏政
殿より木瀬河を隔て可被懸御目との御返答を被申
越候よし、左様なるうつけたる事申(もうし)ありたる候如くなる仁え
御逢被成度(おあいなされたき)と有るハ詮なき御事ニ候、此度三島え御越被遊候
御対顔被成においてハ、北条家の旗下に御成被遊たると世上
に於て取沙汰可仕は必定に候、左様候てハ御家の名折に
罷成候間、御無用に可被成(なさるべし)候と達て被申上候得共、御同心不被遊思
召通り被 仰遣候へハ、氏政殊の外成悦喜に有之大道寺
孫九郎・山角紀伊守両人を以御馳走奉行に被申付。
御出之日限相究(おいでのにちげんあいきまり)候ニ付、前日ニ至り沼津之城迠御越被遊
当日になり三島え御越被成候処、終日終夜の御馳走有之
候となり、御帰り之節沼津の城の外廊之堀・矢
倉を取こぼち候を北条家御見送として参候使者を
被 召呼御見を被成、今度父子之衆え面談申うへハ弥(いよいよ)
以(もって)御心安き間がらにて堺目の城には不及と思ひ外曲輪
之要害をハ取崩さセ候間、其方能見置(よくみおき)此趣を氏政
氏直父子の衆へ申述候様、と有御直ニ被 仰渡候となり。
右之次第世上にかくれなく上方へも相聞へ候を、扨は徳
川家と北条家は元来縁者たるが猶又今度如何様
成(いかようなる)云合セニても在之候哉、と諸人うたがひをなし、 就中一切の
軍法を信玄流に御改かへ候との取沙汰有之、以後とても
秀吉卿石川伯耆へ被懇意に於テハ何の代りたる様子
も無之候得共、秀吉卿の旗本に於てハ諸人共ニ石川伯耆
事を古暦とあだなを付て唱へ候となり、其後近年
に徳川家と手切レ之大合戦可有之との風伝なども
相止ミ候よしなり
註
1.石川伯耆守(数正1533—1592)家康三河時代の重臣であるが1585年突然秀吉に走り
信濃十万石拝領し1593年病死、子の時代に家康に改易される
2.酒井左衛門尉(忠次1527-1596)三河以来家康家老、徳川四天王
3.山角紀伊守(定勝1529-1603)北条家評定衆、敗戦後氏直に従い高野山に上る、
氏直死後井伊直政に召出され相模に封を得た
4.大道寺孫九郎(駿河守政繁1533-1590)北条重臣、作者友山の曽祖父
北条家滅亡時氏政等と共に秀吉に切腹させられる
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権現様御軍法御咄之事 目次へ
権現様或時 上意被遊候ハ、今時の人之頭(ひとのかしら)をもするもの
共軍法立をして床几に腰を懸、采配を以人数を
さし遣ひ、手をもよござず口の先の下知ばかりにて軍に
勝るものと心得てハ大きなる違ひなり、一手の将たるもの
が味方諸人のほんのくぼばかりを見て居て合戦など
に勝るものニてなしと被仰候と
註
ほんのくぼ 首と背中の繋ぎ目
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尾張・紀伊国両家え御家老職被仰付候事 目次へ
権現様駿府ニ被成御座候節、尾張殿、紀伊殿御両
家へ御家老職之仁壱人ツツ御付可被成(おつけならるべし)との思召ニて松平
周防守、永井右近両人え御内意有之候処に右両人共ニ、
たとへ御草履を取候て成とも其侭御旗本に御奉公
申上度との願ひニ付、御免被成(おゆるしなられた)との取沙汰なども有之候
ニ付、其跡ニてハ人によりちと御上よりも被 仰付にくく下ニても
御請も仕難く可有之と諸人ささやき合候となり。
其折しも、ちと御持病抔も御差発り被遊、御食事
の御すすみも無御座、夫故御鷹野にも不被為成(なりなされず)候と也。
其時安藤帯刀、成瀬隼人両人打寄ひそかに相談被
致候は、此間 大御所様ニは御両殿え御付人の儀をことの
外御苦労に被 思召候との御事ニ候、何を仕るも御奉公の
事ニ候間、両人申合御願ひ可申上(もうしあぐべし)との儀ニて私共様成不調
法ものニても不苦被(くるしからず) 思召候ハハ 御意次第御両殿え御
奉公可申上、と有候得ば 権現様ことの外御機嫌にて
両人之心ざし御満悦被成、御両殿様えハ御付置被成候
得共、只今迠之通り 公儀之御用等を不相替(あいかわらず)可被仰付
候間、左様ニ相心得可罷在(あいこころえまかりあるべし)之旨被 仰渡。 尾張殿え成瀬
隼人正、紀伊殿え安藤帯刀を御付被成候。 其後水
戸殿え中山備前守を御付被成候と也
註
1.成瀬隼人正(正成1567-1625)家康に小姓として仕え近侍、家康隠居に際し駿府へ呼ばれ
大御所政治の一端を担う、年寄のまま慶長12(1607)年尾張付家老となる。
家康死後1617年年寄を辞して尾張に専念し犬山城主となる
2.安藤帯刀(直次1554-1635)幼少より家康に近侍、慶長15(1610)家康年寄のまま紀伊付家老となる、
家康死後紀伊家専念し元和二年遠近江2万石、
3.松平周防守(康重1568-1640)1608丹波篠山五万石
4.永井右近太夫(直勝1563-1640)下総古河七万二千石、長男尚政は秀忠時代の老中
5.中山備前守(信吉1576-1642)家康に小姓から仕える、1609年水戸家付家老となる
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大坂落城之時茶臼山より御覧被成候節之事 目次へ
大坂にて五月七日落城之節、城方の者共と相見へ四
五百人斗(ばかり)にて一所にかたまり居候を 権現様茶臼山
のうへより 御覧被遊、幸ひの事ニ候間、尾張・紀伊国
御取餌被成(おとりえとなされる)との 上意ニて御両殿共に早々御越
被成候様との御事ニ候得共、少々御延引ニて御使役衆を被
召、隼人の腰ぬけめに右兵衛をはやく連れてうせをれと
いへ、との 御口上をとりもなおさず尾張衆何れも承り候
所にて被申渡、隼人聞もあへず、此隼人は終に腰をぬ
かしたる覚無之候、左様ニ被 仰候御人こそ武田信玄に
御出合あられ候節腰を御ぬかしあられ候、と諸人の承る
ごとく大声に被申となり。 御陣以後隼人名護やより
駿府え参上して 権現様の御前え罷出被申上候は、
去る頃大坂落城の日義直公を茶臼山へ被 召呼
候節、少々御遅参候とて御腹立被遊、重て御使を以
隼人の腰ぬけめぞ早々御供仕候様ニと被 仰下候、私儀
はしらみ頭(あたま)の節より御心安く被 召遣たる者の儀に
御座候得ば、如何様ニ御口ぎたなく被仰ても其通り之事
ニ御座候、 御前様の御口上之通りを其侭ニて諸人の
承ると何事考へもなく、私え申聞候如くなる勘弁も無之もの
共に、御使番抔と申大切なる御役儀を被 仰付差置候と
有は不可然候、 右兵衛様今程御年若ニも御座被成候得ば
尾張一家中にても私儀を鑓柱の様にいづれも存入れ罷
在候所に、隼人の腰ぬけめなどと有御言を蒙り候てハ、私
儀ハ重て口もきかれ不申、諸人の存いれもちがひ申候ニ付、其
節恐れがましき御返答を申上候間、定て御聞ニも相達し
可申と其段恐入候と被申上候得ば 権現様御聞被遊、
それは其方が申所尤至極也、との 上意に御座候
と也
註
右兵衛 尾張藩主 徳川義直(1601-1650)の十五六才当時の官職 従四位右兵衛督
駿河土産巻之四
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紀伊殿え安藤帯刀御異見被申候事 目次へ
江戸表において或時尾張殿紀伊殿御方え御見舞之義
有之候節、頼宜公御髪に御ゆひ懸り御座候て御出合之義
おそく候ニ付、義直公安藤帯刀え被仰は別ニ用事とても
無之候得共此辺を通候ニ付立寄候、其方に逢(あい)御無事
の由を聞候上は面談には不及候と被仰、御立被成候を、今少
御待被遊被下(おまちあさばされくだされ)候様に、と申上帯刀は頼宜公の御側え参り、
尾張様ニは御待兼被成候哉(おまちかねなられそうろうや)、御帰被成と被仰候を今少と
申上候ニ付御待被遊御座候、只今御前様の御親方とてハ
尾張様斗(ばかり)にて御坐候処に、あなた様などを御待せ被遊
様成儀が御座有物ニ候哉、被申上(もうしあげられ)候へば御心得被成候とて早々に
御仕舞あられ御対顔相済(あいすます)。 尾張殿御帰已後、頼宜公
には御髪を梳(すき)候仁を御呼出し、先程尾張殿御出候節
我らおそく出候とて帯刀殊外しかりたる時、我ら落涙セし
躰を定て鏡に移たるにて有べし其方ハ見候哉、御尋ニ付、御
意如(ぎょいのごと)く御落涙被遊候御顔色の御鏡に移セられ候を見上
申候、尤尾張様の儀とハ申ながら余りなる帯刀被申上候様
と私弐(わたくしに)のものの心にも存候、と申上候得ハ頼宜公御聞被成、其方
なぞには定て左様に推量すべきぞおもふニ付尋ねたるぞ、
先程帯刀が我らへ云聞せたるごとくの義を誰有て云ものとて
は外に無之、あの様なる事をも云聞セ兼ましきものと被
思召(おぼしめされ)、我らえ御付被遊被下たる御心入之程難有仕合なりと
権現様の御事を思出し、覚えず落涙せしと御申聞
られ候となり
註
私弐 自分の事をへりくだって言う言葉
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水戸頼房公御年若之時男だての事 目次へ
水戸頼房公御年若き頃殊外男立を被成、かいらき鮫
の懸りたる長かたなに金張を御打、御衣服等にも紅
裏を御付、其外御不行跡なる義とも在之、江戸中上下
の取沙汰に御逢候ニ付、御付人の御家老中山備前守毎
度色々御異見申上候得共御用ひ無之候となり、ある時
御老中より備前守え奉書ヲ以て御用之儀有之候間、四ツ時
登城候様にと有之ニ付、備前守登 城被致候處御老中
方被申候は、今日其元を被為 召候御用之筋は我ら共不存
事ニ候定て後刻 御前ニ於て 御直之御用ニて
可有之と也、備前守被申候は、何(いずれ)もに御存なき御用
之筋ニて私を 御前え被為 召(めしなされる)と有之ニおいてハ、我ら
の存当りたる義有之候、定て水戸殿御行跡の義を
御尋被遊との御事と奉察(さっしたてまつり)候、有躰に申上候得ば御主人
の悪事を御訴へ申に当り候、又何事をも私は不存
候と申、或はあしき儀をも宜しき様に取成(とりなし)申上候へば
御上をあさむき奉り御後暗きと申ものニて候得ば、私
御前え罷出候て之致方無御座候ニ付、被為 召候との義ニ付
登城は仕候得とも私ハ退出仕候、 御意違(ぎょいたがい)有之候私義
ニ御座候得ば、御機嫌損じ御仕置等ニ被 仰付候段は
覚悟仕罷在(かくごつかまつりまかりあり)候となり。 御老中方何れも御見当候へ
ば備前守承引なく、帰宅之節上屋敷え立寄候所に
頼房公にも今日備前守壱人を御用として被為 召候段
御合点不参候ニ付、御用相済(あいすまし)備前守帰候を御待御座候ニ付
早速被召出候、夫ニて備前守御城にての次第を申上、私義も
公方様より何分之御とがめに可被仰付被難斗(おうせつけられるべきはかりがたく)、先切腹
と覚悟を相究メ罷在候。 此上ながら残念成儀三ケ条御
座候、第一ニは私才知御座なく候ゆへ御前様御聞済被
遊御行跡等をも御改メ被遊如く之御異見を申叶え候義
を得不仕(えつかまつらず)候事、二ツには御年若成(おとしわかなる)御前様ニて御座候へども
此備前守を御付置被成候てハ御気遣も無御座(ござなき)義と御
安堵に被思召候 権現様之御目がねを御相違ニなし
奉り、今更申訳も無御座仕合と奉存候。 三ツにはとく
より心付不申(もうさず)にてハ無御座候得共、彼是と見合罷在候内
に延引仕、御不行跡之御相談相手え罷成候不届之奴原を
成敗仕らずして安穏に差置、私相果候ニおいてハ弥(いよいよ) 御
行跡の障に可相成(あいなるべく)候畢定之事候、たとへ私儀切腹
仕、身命ハ終り候ても魂ハ此所御殿の内をハはなれ申
間鋪候間、願くハ御行跡を御改メ被遊、 御上之思召にも
御叶ひ被遊ごとく御座有度(ござありたき)義と奉存候、私今生之御暇乞
ニて御座候へば御盃を頂戴被仰付被下候へ、と申上御小姓衆
御酒・御盃をと備前守申候を頼房公御聞被成、御小納戸
衆を御呼あられ、日頃御用ひ被成たる伊達拵(だてごしらえ)の御刀、脇指
御衣類等まで悉(ことごと)く取出し持参申候様ニと有之、備前守見
申所にて御小姓衆え残らず分ケ被下(くだされ)、其上にて御脇指之
御張ものをくつろけられ、御小刀を以て御うち被成、向後之
義は行跡を改メ候間気遣仕間鋪、と備前守え被仰聞
候となり。 右備前守登城之節御老中方え段々の存寄
申達、帰宅之由上聞に達し候得ば 公方様ニも備前守
が左様の了簡なくハ水戸の行儀ハなおるにて有べし
重畳の事なりとの 上意に在之候と也
右三人衆之義を書記候事ハ 権現様御目がねを以
御三家方之御後見として御付人に被仰付候所
に御見立之通三人共に一器量宛有之たる衆
中ニ候との証拠(據)の為と存一ケ條ツツ書付候なり
註
徳川頼房(1603-1661)家康十一男、水戸徳川家祖、水戸家成立は1609年
30
松平薩摩守忠吉公御死去之事 目次へ
松平薩摩守忠吉公尾州より江戸表え参勤有(あら)れ
御逗留之内、御煩ひ出し御病気御大切之由、諸医とも
被申之由 上聞ニ達し 将軍様にも薩摩守旅宅
御成被遊候となり。 然ル所少々御快奉候付、尾州え御帰城
あられ養生可然(ようじょうしかるべし)との儀ニ付、江戸表をハ御発駕被成(ごはつがなられ)候
処、品川迠御出候得ば御病気御差重り御養生御叶ヒ
不被成御死去ニ付、増上寺に於て御取置等有之節、御近
習之侍三人殉死を遂候由 権現様之御聴に達し
候所に、其節江戸御老中より不被差留(さしとどめられず)してハ不叶義也
其上不留(とどまらず)ニおいてハ 上意を以急度御差留可被遊
儀なりとの仰にて以のほか御機嫌悪しく、其節上意被
遊候ハ、殉死と云事ハ古来より有事なれども何之用ニも不立(たたぬ)
義なり、夫程に主人の儀を大切に思ふならバ弥(いよいよ)身を全くし
て、跡目之主人えも身命をなげうちて奉公致し、若自
然の義も有之節ハ肝要之用に立相果可申との心掛
有てこそ尤の義なるを、何の用にも立ぬ追腹を切て
死ぬると有ハ犬死といふものなり、畢竟ハ主人がうつけ故
の義なるぞと有、 上意の趣江戸表えも相聞ゆ。 依
之(これによって)其後越前中納言秀康公越前北之庄之城ニて
死去有れ候段江戸表え相聞へけるハ宿次を以、家中の
侍共之内に若(もし)殉死を遂へきと申者在之候共皆々
制業すべき旨、越前家老中と有奉書被成下候となり
権現様には右 上意の趣之思召(おもむきのおぼしめし)被為 成(なしなされ)候ニ付、御在世之間
御厚恩ニ預り被申たる衆中大身小身えかけ、数かぎりも
御座なく被居候得共、駿府において 御他界被遊候節
御供と申ては壱人も無御座 台徳院様にも右之
上意を御守り被遊候を以、殉死の衆とてハ無御座
候となり
註
1.松平薩摩守忠吉(1580-1607)家康四男、秀忠同母弟、松平家へ養子初陣関が原、
尾張52万石、病死
31
武道を嗜者は戦場えの覚悟可有之との上意之事 目次へ
権現様 上意ニ武道をたしなむ侍は戦場え赴くからハ
討死をとぐとべきとの心懸なくてハ叶ふべからず、白歯ものハ
歯の黄色にならぬ様ニと心懸、髪にも匂ひをとむる
がよし、と有仰を承り伝へられたる面々ハ大坂両度之御
陣之節、伽羅をハ少々ツツも持参被致候得共香炉無之ゆへ
五月七日にも髪に香を留メ被申たる衆とてハ御近習に一人
も無之候なり。 おなじく 上意に小身の武士着料
の具足を申付おどさせ候時、胴小手其外をハ廉相に
致させ候共、甲(かぶと)には念を入ル心得が能(よき)ぞ、子細は討死を
遂たる時甲ハ首と一所に敵の手に渡る物なり、然レば
死後の為にてハなきか、との仰にて候と也
右は 上意に付、上田主水入道宗古斎物語、然ば
侍ハ戦場に於て討死を遂、首になりたる時の義を
心に懸たるが能(よき)なり、去に依てさかやき抔之後(うしろ)さ
がりなるハ首になりたる時侘云(わびごと)つらになりてみぐるし
き間、後高にそりたるがよし、かみそりをば陣中
えも持参致し申、明日は必一戦と知れたる前日
ニハ月代をそり、首をきれいにいたす心得専一之由、宗古
斎咄之よし也
註
1.上田宗古 茶人、武士、秀吉の直臣、関が原では西軍に属し浪人中浅野幸長に一万石で
抱えられ、大坂夏の陣で活躍後家康にも召される
32
大坂冬御陣之節正宗・義宜・景勝同道ニて被参候事 目次へ
大坂冬御陣之節 権現様住吉之御陣え御機嫌
伺ひとして、伊達正宗・佐竹義宜・上杉景勝同道ニて被
参たる義有之。 正宗は猩々緋の袖なし羽織に白熊にて
菊とじつけ、朱さやの脇指、白銀の打鮫、紅の腕ぬき
なり、佐竹は常式の黒き羽織に五本骨の扇子を
大きにして被付たる迠なり、上杉ハ黒きとじおりの羽
織により金にて芦をぬひ、白鷺を縫に致、赤きひも
をつけて着被致(きいたされ)候となり、三人衆退出の跡にて
権現様被 仰候は景勝は律儀なる人を定て仕、側
の者共の仕業にこそ笑止なる事なり、との 上意ニて
御わらひ被遊候となり
33
織田有楽、大野修理両人茶臼山御陣営え参上候之事 目次へ
大坂冬御陣御あつかひ被成事済候ニ付、御悦として
城中より織田有楽、大野修理両人茶臼山の御陣営
え最初に参り、其已後七組のかしら初め兼て御出入之面々
は御太刀折紙を差上、各御目見申上中に織田雲
生斗(ばかり)ハ廉相成扇子を二本台にのせ雲生寺ハ方
院土用坊と云下ケ札を付持参候となり
雲生寺夏陣之節親父ゆう楽と一諸に城を出られ
候ニ付、組下の諸浪人共の義をハ大庭土佐と申もの
支配仕候となり
註
1.あつかい: 調停、和議 ここでは大坂冬の陣の和議をさす
織田有楽斎: (長益1547-1622)織田信長の実弟、千利休に茶を学び有楽流の祖、
関が原では東軍、その後は豊臣方なるも夏陣前に去る。家康に屋敷を与えられ、其場所が現在の
有楽町となった由
2.7組のかしら: 七手組は秀吉が創設した旗本親衛隊で1万人を7組に分け
、豊臣家身辺警護及び朝廷への儀礼に用いた。
3.太刀折紙: 太刀や馬を贈呈する際に、品目・数量・金額などを記した折り紙。
4.織田雲生:(?-1620)有楽斎の二男で有楽流の継承者、雲生寺道八ともいう
34
大坂冬御陣之節城中より下町筋自焼之事 目次へ
大坂冬御陣の節城方より下町筋を自焼致し候
刻、高麗橋をも焼落したるとも申、又左様無之とも申
一円議定不仕ニ付小栗又一に、見分いたし参り候へ、と被
仰付候へば罷越候て高麗橋は其ままにて有之候ともうし
上候得ば御聞被遊、若(もし)高麗橋をも焼落し候ニおいてハ
城中の奴原悉くみな殺しにして呉んと思ひつるに
との 上意にて何とて使番之者共ハ見届ざるぞと
仰有けれハ又一、いつれも臆病ものどもニ候故近くへ寄
て見候得ば鉄砲に当るべきかと存、遠くより見候ニ付て
の事ニ候と申上候。 又一 御前を立れ候跡ニて 権現様
上意御側衆え、又市があの大口ニてハ同役共と中の悪き
が尤也、との 上意ニて御笑ひ被遊候と也
註
1.高麗橋 大坂城外堀としての東横堀川に懸る、慶長九年頃、長さ62.5m幅11m
2.小栗又市 家康小姓から物頭、落穂集巻五御使役の事にも登場する
35
大猷院様御代天海大僧正御伽之事 目次へ
大猷院様御代天海大僧正と被申候は 権現様
有為無常と御悟被遊、 台徳院様には御柔和ニ
御座被成候ニ付、右御両代には物も申上よく御伽も致し
安き如くおもわれ候處、 当将軍様には御発明にて御
理屈つよに御坐被成候を以て、御伽を致しながらも気が
詰ると被申候よし
註
1.天海僧正 落穂集巻一御城之鎮守参照
2.当将軍 三代家光
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佐竹義宜ハ律儀なるものとある上意之事 目次へ
権現様駿府御城ニ御座被遊候節、御伽之衆中
誰どのハ殊の外律義成人ニて候との咄を御聴被遊、
律義なる人とてハ稀成ものなり、我ら此年に成候得とも
律義なる人とてハ佐竹義宜より外は見たる事なし、と
の仰ニ付御伽衆中何れも御合点不仕候處に、永井
右近 御前え被居候が、義宜義を左様に 御意
被遊候は如何様之子細を以て 思召ニ御座候哉、と被申上候得ば、
其方抔も存候ごとく先年大坂ニ於て、石田治部と七人の大名
共と出入之儀ニ付、治部大坂を立遁れ我等を頼み伏見え来
り候節、大坂よりの道中之儀ハ義宜介抱してつれ上り、
其後石田佐和山の城え蟄居之道中ニ於て大名とも
云合セ打果すべきの風説に付、参河守に道中見送り
を我ら云付たるとの義を義宜聞およばれ、治部を大名
どもに打果させ候てハ其身の一分不相立と有之、道中え
目付、物聞を付置、一左右次第に駆出して参河守と一手
に成て治部を介抱致すべきと有て、上下共に軍立にて
待合セ被居候となれハ、律義人の実仁に紛れ是なし、 其
後関が原一戦之刻も大坂方何方へも不付して被居候を心底如在
無とは思ひながらも其通りにはいたし置難なり、我らへ
一味にて関が原表え出勢被致、戦功なども有之候ハバ朝熊も
先祖代々の領地の義なれば、水戸の義ハ相違有まじき
に残り多き事也。 人々律義なといふハ誉たる事にて随分
能事なれ共、律義過たると云にのぞみては一思案なくてハ
不叶(かなわぬ)義なり、と 上意之由也
註
1.佐竹義宜(1570-1633)北関東の源氏名門、石田三成と懇意で関が原ではあいまいな
立場であり、1602年常陸五拾万石余から秋田二十万五千石へ所替
2.永井右近 右近太夫直勝 巻四参照
七人の大名 石田三成に不満を持つ武断派大名、加藤清正、福島正則、黒田長政、
細川忠興、池田輝政、加藤嘉明、浅野幸長の七人と思われる、後関が原では何れも東軍となった
2.石田治部少輔(三成1560-1600)秀吉側近、秀頼時代は五奉行の一人、家康排除を狙い
西軍を組織、敗軍斬首される
3.参河守 結城秀康 家康二男、落穂集巻四制外の家参照
4.朝熊も : 伊勢の朝熊の地名はあるがここでは意味不明
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将軍様より御軍法之御書付御覧ニ被入候事 目次へ
大坂御陣之時 将軍様より御軍法之御書付被遊
本多上野介ヲ以御覧ニ被入候所 権現様 御意
被遊候ハ 将軍ニハ成程此通ニ能(よく)候、我ら事ハ年若
き頃よりいつの軍にも軍法之書付を出シたる事ハなし
子細ハ書付の通りに致して悪き時には、しかる事もならず
又軍法の書付をそむきてよきことあれ共、それを誉て
ハ云出したる法が立ぬにより、時の見合次第にして埒を明ケ
来りたる事なりと被 仰候と也
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将軍様殊の他御急被遊候ニ付権現様御機嫌不宜候事 目次へ
大坂夏御陣之節 将軍様江戸御出陣に先
達て上杉・佐竹・伊達・松平上総守殿右四人之大名衆
何れも人数多ニて押のぼられ候ニ付、近藤勘右衛門を御使
にていつれも道を急ぎ候様ニとの 上意ニ候得共、大軍
故埒明不申候ニ付、箱根山を御越被遊候ては段々と先
勢を御追越被成、御道中殊外御急被遊候ニ付、歩行ニて御
供之御番衆などハつづき兼、御膳之御料理になり候鳥の毛
をも馬上ニてむしり申候ごとく有之候、去ニ依て伏見へ早々御着
被遊候所に本多上野、心には御道中御急ぎ候段御尤成御
事と被存ニ付、其趣を被申上候得ば 権現様御聴被遊、
以外(もってのほか)なる御機嫌ニて被 仰候は、 将軍ニは何用ニて左様
に道中をいそがるる哉、大身なる奥州大名どもを跡に置て
先駆をハ被致候哉、それには不及義なるを、との 上意ニて
翌日、又其翌日も御持病気之由ニて御對 面は無御座(ござなく)
候となり
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権現様京都御立遊ハされ大坂江御取懸ケ被遊候節之事 目次へ
権現様京都を御発駕被遊(ごはつがあそばされ)大坂え御取懸ケ被遊候節
何(いずれ)も御供中ニは腰兵糧斗(こしひょうろうばかり)ニて事済へき也、小荷駄は
及べからず、御台所方え白米三升、鰹ふし十、塩鯛一ツと
味噌を少々持参仕候様ニと被 仰渡候ニ付、又 大御所様
之御巧者だてを被 仰出候、去年も大坂表に百日ほど
御懸り被成候ものをとささやき申候となり
註
大坂夏の陣 天正19年(1615年)五月六日開始、七日落城、八日秀頼自害で終る
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御持旗、御長柄抔住吉辺え立ならべ可申との上意之事 目次へ
大坂落城之朝 権現様ニは御持旗、御長柄之義
は住吉辺ニ立ならべ候様ニ、と御下知被遊 御自身様ニは
茶色之御羽織に下くくりの御袴を被為 召、住吉と
城との間に有くのき林之内に山駕籠に被為 召、御坐
被遊、御茶を被 召上候とて松平右衛門太夫え被 仰候は、城
方之ものども之心には身共ハ住吉ニひかへ居たると思ふ
にて有べし、もはや軍には勝たるものなれば身を
大事にしたるがよきぞ、と有 上意にて御笑ひ被遊候と
なり。 其所え内藤帯刀参来りて馬より下り
御前ニて合戦之次第など申上、御茶弁当に付居候坊
主衆えむかひ、身どもも何ぞ一盃給度(たまわりたし)、と被申候得共坊主衆
聞候て、 御前之御茶碗より外ニは無之、となり帯刀
きかれ、 御前之御茶碗にてもあれ跡をすすぎて置
たらハよさそふな事なり、と被申候を 御聴被遊坊
主衆え被 仰は、帯刀が咽がかわくと云になぜ早くのませ
ぬ、カ様の時節上下之へだてがあるものか、うつけめが、との
上意にて御しかり被遊候となり。 帯刀退出被致候處
権現様茶臼山の上え御上り被遊候節、谷間より鉄
砲を打出し候故御供中騒ぎ候ニ付、小十人衆三人
其所えかけ付、鉄砲打出候者を見候所、金笠をかむりたる
足軽壱人相捕え、茶臼山え引来候所本多上野介其
場に被居合そのものに被申候は、おのれハ誰が家来ニて唯今の鉄
砲をハ何とて放し候ぞ、と被尋候得ば、私儀ハ本多上野介足軽
にて候 上様とは存不申、敵と存候て放しかけ候、と申候を
上野介きかれ、言語同断不届なる奴めがなど被申候を
権現様被為 聴、小従人衆之方え御向ひ被成、放してや
れ、はなせはなせとの 上意ニ付追放シと致候時上野介
不届奴之義ニ御座候間、成敗可仕と存罷在候処 御意
を以御助ケ被遊、冥加ニ相叶ひたる奴ニて候、と被申上候得は
我ら本道を差置、脇道より来り旗・長柄等も無之
ゆへ敵かと思へたるハ理(ことわ)りなり、あの足軽に科ハなし、との
上意に有之候由、右小従人衆ハ石丸庄兵衛、八木善四郎
田中市兵衛と申三人ニて有之候となり、御すなおなる御事の
由其節下々にて申奉り候と也
註
内藤帯刀 譜代大名、落穂集巻七切支丹成敗参照
松平右衛門太夫 家康近習 落穂集巻三吹上門石垣参照
駿河土産巻之五
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御具足不被為召御袴斗ニて御座被遊候事 目次へ
大坂御陣七日之朝 権現様ニハ御具足ハ不被為
召、すそくくりの御袴・茶色之御羽織を被為 召(めしなされ)御
座被成候所え藤堂和泉守被参、 御前御具足をば
御召不被遊候哉、と被申上候得ば、あの秀頼の若年もの
を成敗申付るとて我等の具足などがいるものにて候哉、との
上意有、髙虎御前を被立候以後松平右衛門太夫 御前ニ
被居候に被 仰聞(おうせきかされ)候ハ、和泉守事ハ上方者ゆへ下心を見
せぬ様にとおもひて今の様に挨拶をハしたる也、実ハ年
寄て殊の外下腹などもふくれゆへ、 具足などを着て
ハ馬の乗下りもならぬゆへ具足をハ着ざる也、わかき時
とは大キに違いたる事なり、との 上意に候と也
註
藤堂和泉守(髙虎1556-1630)秀吉時代は伊予宇和島7万石、関が原では武断派と共に東軍、
戦後伊予今治20万石、築城の名人として有名
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豊国明神之前え何方共不知香典包銀有之候事 目次へ
大坂落城五月八日之朝、秀頼生害之日京都東山豊
国明神の前え何方(いずかた)よりともしらず、施主之名も無之候香
典之包銀余程持寄りて有之候風聞ニて、所司代より見分
を遣し吟味之上其趣達 上意ニ候処 権現様被
仰候は、在世之時智仁勇の三徳を兼備へたる人ならでハ、
死後に神といはい候ことハならざる筈之義也、 と有
仰ニて太閤之影像の束帯をとり坊主に被成、其節社
頭之義も悉く取こぼちて跡ははき地にて被 仰付と有
之候処に、北の政所より崩れ次第になし置れ被下度(くだされたし)と
の願ひニ付、其通りに被 仰付候と也
敵祖の廟を重て置不申と有義ハ異国・本朝
とも相定りたる事也と也
註
北の政所(おね1549?-1624)秀吉正室、1598秀吉他界で落飾し高台院となる
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将軍様江戸表え還御ニ付権現様え御伺之事 目次へ
大坂表之儀埒明、両 御前様御参 内等之御規
式も相済候ニ付、近日駿河・江戸え還御可被遊旨被 仰
遣候砌、何事やらん 将軍様より御老中方を以御伺
ひ被遊義有之、二条之御城え伺公被遊候へハ 御前へ
被 召出 権現様御直ニ被 仰聞候は、唯今迠之義は
粗思ひよりも有之ニ付、万端之義将軍より相談あられ候
ゆへ相応之返答ニ及たる事なり、自今以後之義ハ大細
事ともに 将軍の了簡次第に可被致こと也、 駿河え
相談ニハ及不申候、此上ハたとひ相談したく被申越とも、其挨
拶には及間鋪旨将軍えも此趣申達、いづれも左様に
相心得候様に、と被 仰渡候と也
右之通の 上意ニ付、其以後之義ハ江戸表において
相替事被 仰出抔在之節ハ、江戸表老中方より駿
府御老中方まで自分しらセのごとくに被申上事済候
となり
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伊勢御師戸部太夫家内闕所入牢之事 目次へ
伊勢御師戸部太夫事ハ太閤以来秀頼の代に至り
候迠の御師也、 去に依て大坂御陣之節御当家の
御父子様を調伏仕候との趣相知れ候ニ付、其節之山田
奉行日向半兵衛、中野内蔵丞両人方より吟味を遂
候処に実正に付、家内闕所に申付其身をば牢に入置、
御仕置之義をハ可申付と駿府え相伺ひ候処に
権現様 上意ニ、夫ハ奉行共の心得違ひにて無理成
申付抔と被 思召候、秀頼運を開れ候様にと有祈祷を
するハ戸部には似合たる事也、早々出牢申付闕所致し
候諸色をも無相違(そういなく)返し遣候様にと被 仰出候と也
45
増田右衛門・高力左近え御預ケ之事 目次へ
大坂五奉行之内増田右衛門尉義ハ、関が原以後高力
左近え御預ケ武州岩附ニ罷在候となり、右衛門尉倅
兵太夫義ハ冬御陣之節ハ 将軍様御人数之内に
相加り大坂表に罷在候所に、御陣寄手のはなばなしき
噂を聞候てはにがき顔を致し、少ニても城方の宜鋪義を
承り候へば悦喜仕候と有之義を、御和談以後駿府に
おいて御聴に達したる人有之所 権現様御意被
遊候ハ、それは近頃奇特成心入哉、流石増田が子なるぞ、と
迠の 仰ニて何の御とがめも無之、 夏御陣にも其侭
牢人ニて居候へハ、かろくも被 召出、親右衛門尉御預之
義をもゆるやかに可被 仰付との 思召に在候所、夏御
陣之節は大坂え罷越秀頼え家来ニ在付、長宗我
部宮内え合宿仕り、五月七日藤堂和泉守備先え
向ひはれなる討死を遂候ニ付、親右衛門尉も後日に
至、武州岩槻ニおいて切腹被 仰候と也
註
1.増田右衛門尉(長盛1545-1615)豊臣政権の五奉行の一人、関が原には参加せず大坂留守居、
戦後岩槻に流刑、息子が徳川家から出奔し豊臣軍へ参加した事により、家康に切腹させられる
2.増田兵部(盛次?-1615)徳川義直に仕えていたが大坂夏陣前に出奔
3.高力左近太夫(忠房1584-1656)家康譜代の家臣高力清長の孫、岩槻2万石、
関が原後清長は子が早世しており、孫に家督を譲る
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織田三七郎信孝切腹之時辞世御咄之事 目次へ
大坂御陣之以後駿府にて或時御近習衆え 権現様
被 仰聞候ハ、恩を得たる主人又ハ生立の子どもなどへつらく
当りたるものハ、たとへ当分仕合よく別条なき如く有之候とも
子孫に至り其むくいハのがれざると思はるる、子細ハ織田
三七郎信孝切腹之時の辞世の歌ニ
むかしより主をうつみの野間なれば
むくいをまてや羽柴筑前
とよみおかれたるとの義ハ、其時分より我等なども聞及
居たる事なるに、今度大坂にて秀頼生害ハ八日なれども
豊臣家の亡びたるといふハ七日なり、右野間の内海にて
信孝切腹といふも五月七日のよしなれハ、ふしぎなること
にてはなきか、との 上意のよし也
註
1.織田三七郎(信孝1558-1583)織田信長三男、明智滅亡後秀吉と離反し柴田勝家と結ぶ、
秀吉に敗れ野間に送られ自害する
2.むかしより・・・昔源義朝がこの野間で逆臣長田忠致に討たれたと云う、うつみ(内海)を
討身にかけているという
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太閤之代に大角与左衛門と云者之事 目次へ
太閤之代に台所にて魚鳥などを洗ひ候下男を取立、料
理人に被申付、其後料理人の頭となり秀頼の代に
成てハ台所頭となり、爰えもこしこへもさし出、飛まハり
たるものに大角与左衛門と申者有之、此与左衛門逆心致し
五月七日ニ至り我が手下のものどもに申付、大台所え
火を付させ候と也、右逆意の働きを御奉公ニ申立、御旗本へ
被 召出候様ニと願ひ居申内煩ひ付相果候、と有之義を
権現様御聴被遊、大角めがことは去年和談之節、秀頼
母儀方よりの使として茶臼山えも来りたる者也、元来
下男上りとは云ながら太閤の恩を得たる奴、恩しらず
の不届もの也にくき奴との 上意なりしとなり
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井伊掃部頭家来三人ニ相討ニ付上意之事 目次へ
大坂御陣以後駿府ニ於て御側衆之中より去ル五月六日
若江村ニおいて、井伊掃部頭の家来之侍三人にて敵
を討取三人相討と有之ニ付、掃部頭委細に吟味を相
遂候得ば両人相討に極り、内壱人之申候相違ニ付掃部頭
不興致し仕置に申付候由と被申上候へば、其義ハとかくの
仰も無之、何れも聞置候へ、惣じて物ごとに餘斗(よけい)といふこと
なく切詰たる如く成ハ宜しからず、就中武辺などの
義猶以餘斗(よけい)の有がよき也、子細は織田信長いまだ
小身の時、佐々成政と前田利家と両人にて敵壱人を
突倒し、成政利家に向ひ、其方敵突倒されたる義なれば
首をとられ候へ、となり利家聞て、我等ハ敵を倒したると
云うまでにて、鎗合之義ハ其元先なれハ、首ハ其元とられよ
と有て互ニ辞退の所え柴田権六も駆付、左様に両人
辞退の首ならば中にて我ら申請べし、と云て首をあげ
我等高名の証拠の為両人も来り被申よ、と三人同道して
信長の前に於て権六申候ハ、此両人にて敵を突倒し
首をとれ、取間鋪きと申て吟味あひ候処へ参り懸り首
をも私取て参り候、と申候へば信長被聞三人共に大キニ
褒美被致候由也、右三人ともに武辺に餘斗(よけい)が有ゆへなり
との 上意に候と也
右之 上意を承り伝へ、相考へ見候へハ相討など
を致して先後を論じ申様成事ハ 権現様の
思召にハ相叶申まじきかにて候
註
1.佐々成政(1536-1588)信長の馬廻りから戦功を重ね越中守護となる秀吉とは対立したが
織田信雄の仲介で配下となる、肥後の守護となったが一揆の責任を秀吉に取らされ切腹
2.前田利家(1539-1599)織田家直参、信長横死後、柴田勝家に付くが秀吉とも親しく
賎ケ岳の戦いでは動かずに秀吉に勝たせる、加賀前田家祖
3.柴田権六(勝家1522-1583)織田家重臣、賎ケ岳で秀吉に敗れる
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肥前守・薩摩守・陸奥守三人え御腰物被下并上意之事 目次へ
権現様駿府ニて御不例之節 将軍様にも御側に
御座被遊、御紙張のきハへ松平肥前守、松平薩摩守
松平陸奥守右三人の衆を被為 召(めしなされ)、各(おのおの)え正宗の御腰物
を一様に被下候て、其上ニて此以後北国筋に何変之義も
有之候節は肥前守、西国筋に異変有之ハ薩摩守、
奥州之義は陸奥守え御任セおかれ候間、各請取被致(おのおのうけとりいたされ)
静謐之沙汰を取計ひ可申旨 仰渡候と也、右三人
退出の後、松倉豊後守、堀丹後守、市橋下総守、桑山
左衛門佐、別所孫三郎五人を被 召、 将軍様え御
引合セ被遊、此五人之者唯今迠御奉公申上、其上大坂大和口
表ニ於て能働(よくはたらき)候、 将軍様ニも左様ニ御心得御座可被成(ござなさるべく)候
なり、五人共ニ涙を流し有がたく存候と也、其後別所
にと有 上意ニて、此ものハ小身なれともやさしき云葉をつかひ
候、此已後も用ニ立もの也と 上意被遊候へば、別所大声
になき出し候と也
右之上意にて其砌ハ加賀、薩摩、陸奥の三家を
ば外様三家衆と申触候と也、薩摩之家には右拝領
之腰物由緒書之表に 権現様上意之趣書
記有之由也。 加賀、陸奥之両家にも其節拝領之
由申伝、正宗の刀有之候へとも 上意之留書とてハ
無之候と也。 且又別所孫三郎と申たる仁之儀、右之節
弐千五百石之知行高ニて被居候となり、大和口に於て
御味方何れも懸り不被申(もうされず)候処に別所壱人馬を乗廻
し筑紫陣之節、尾藤が心付ざるを以 太閤勘当
被致候、懸にくき敵に懸るこそ御奉公なれ、ケ様に
申それがし抔ハ馬一疋の仕合なれハ思様にならず
無念之至りなり、かかれかかれ、皆以興成事と云
ののしりて駆けめぐり被申候かし、此趣 上聴ニ
達し候ての上にても有之候哉、右之 上意有
之候とて其砌取沙汰仕候と也
註
1.松平肥前守=前田利常(1594-1658)前田利家の四男、加賀藩主三代目120万石
2.松平薩摩守=島津家久(1576-1638)薩摩藩主70万石
3.松平陸奥守=伊達正宗(1567-1636)仙台藩主60万石
4.松倉豊後守(重政1574-1630)筒井順慶の家臣、関が原で家康に見出され大坂夏の陣での
戦功で肥前日野43,000石の大名となるが、領民搾取の悪政を行い島原の乱の原因をつくる、
落穂集巻六切支丹成敗参照
5.堀丹後守(直寄1577-163)秀吉の小姓、その後家康に帰属、村上10万石
6.市橋下総守(長勝1557-1620)信長、秀吉、家康に仕える、関が原は東軍に属し、
伯耆矢橋23,000石、大坂夏陣の功績で越後三条50,000石となる
7.筑紫の陣 天正15(1587) 秀吉の島津征伐
8.尾藤左衛門尉知宜(?-1590)秀吉の家臣、島津義弘の軍に慎重になり過ぎ逃したため
改易となる
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権現様御不例之砌板倉内膳正え被仰候趣之事 目次へ
権現様駿府ニ御座被成候節、御不例之砌板倉内膳正え
御身後之義どもを被 仰出候とて、我等廟所を 将軍
より被申付(もうしつけらる)においてハ、始祖の廟なれハとの義を以定て作事
等を結構ニは申付候ともそれハ無用之事に候、我等子孫
に至り代々ともに始祖の廟に増らぬ様ニ、とある勘弁之
為にも在之間、其心得を以軽き宮居に致し置き候様ニ、との
上意ニ付御他界以後江戸ニ於て 将軍様え其段
内膳正被申上候得ば、御尤成仰ニは有之候得共、余りに軽
き御宮居と有ハ如何なれバ、大概結構なる御宮居と相見
え候如く御普請懸の衆中え申談候様に、と被 仰出
最初の 御宮御建立出来候となり。 其後寛永三年
に至り、 御父子様共 御上洛被遊候御留守ニ於て、
御台様御病気被為付(ごびょうきつきなされ)候段京都え相聞へ候ニ付き、駿河
大納言忠長公御看病之ため、御暇ニて御下向之處、終
に御快気無御座、九月十六日御こう去被遊候ニ付、増上寺に
於て御法事等も忠長公御詰合被遊候内に 御父子様
も還御被遊、御廟所御霊屋等御普請義共に忠長公
之御請懸りと罷成候ニ付、思召之侭に結構ニ御普請出来
仕候と也。 同九年正月廿四日 台徳院様御他界被遊候節
御霊屋御普請等之儀 崇源院様之御たまやよりハ
見増り候様に仕立可申旨 上意ニ付、唯今のごとくなる
御仏殿ハ出来仕候となり。 此御仏殿と見合候へば日光山
に御建被遊たる 東照宮の御社殿殊外手軽く相見へ
候ニ付、御宮御建立直しでは無御座、御修復と有之趣にて惣奉
行之義ハ秋元但馬守え被 仰付候、則御宮御修復ニ付ての
御入用ハ御いとひ御座なく候間随分と手を込め
台徳院様之御霊屋に見増り候様との被 仰出有
之候となり、去るによって右御修復ニ付ての御入用七十
万両之由也
右之次第ニ在之候へば御代々御霊屋の結構に有之、其始
ハ駿河大納言殿御物好より起りたる事のよし也
註
1.秋元但馬守(泰朝1580-1642)家康近習出頭人、甲斐郡代壱万八千石、
1634-1636日光東照宮造営惣奉行を勤める
2.崇源院 秀忠正室お江与、三代将軍家光、駿河大納言忠長の生母
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岡崎之御城ニて御敵対申候門徒四ケ寺之事 目次へ
権現様岡崎之御城に御座被遊候節、御敵対申上候
門徒四ケ寺と申ハ
針崎松万寺、土呂禅秀寺、佐崎淨宮寺
野寺本証寺 此四ケ寺也
註
一向一揆 家康が岡崎城主の時1563年に真言宗の一揆が起き、家臣でも信仰の為に
一揆側に走るものも有ったと言う
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関東御入国之砌御長柄持八王子ニ於て被召抱候事 目次へ
権現様天正十八年関東御入国の砌、此以後御陣・御上
洛之節、御長柄をかつぎ御供仕候中間義ハ武州之内
八王子に於て五百人新抱へに被遊候、小身なる甲州衆
を以其頭々に被 仰付候となり。 それ迠の御領知之義ハ
御本国三河を初め悉く上り候中ニ、甲州の上り候段をハ殊外
御残念に被 思召候由、其節御家中ニ於ても御沙汰仕候と也。
八王子之義ハ甲州堺目の義にも有之候ニ付、自然の時分御
手遣のためと有義を以、右之御長柄同心之義近所之義ニ
も有之候ニ付、郡内の村々え立入絹類を初め其外甲州より
出候諸色の義ハ右之御長柄之ものども中買を仕り、江戸
表え持出売買仕る如く在之候処に、慶長五年関が原
御一戦以後は天下御一統ニ付、町人共の仕業と相成候て
長柄之者と有之売買ハ相止候なり。 右御長柄鎗
五百本と相定り候節、夫迠御長柄鎗の立場とは模様も
違ひ候との取沙汰ハ有之候得共、其比御出陣と申事も無
之候ニ付誰も不存候処、関が原表ニ於て九月十六日御一戦之
前日、明日御一戦之刻御旗・御長柄等之立配り所、并御
使者衆、御目付中之備場共に被 仰候となり。 其後大坂
御陣之節、御旗本備之模様之義ハ先年関が原表ニて
の如く可被仰付哉、と二条の御城に於て本多上野介
被相伺候所、其方ハ天下分ケ目の合戦も秀頼成敗申付
るも同様に心得候哉、今度我等が旗本の備作法式の事
子細に非ず、平攻におし寄セ味方の諸人何様に成共
居度様ニ居よと云付よ、と 上意にて御笑ひ被遊候となり。
然ば関が原ニおいて只一度ならでハ、 権現様関東
御入国以後御工夫被遊たる御旗本備之模様を見申たる
ものハ無御座候なり
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御蔵米多過候段御勘定方より申上候ニ付権現様御不興之事 目次へ
権現様御代、江戸御蔵ニ納米多過候故欠米等も多く
其上諸国の御代官所寄り御当地迠の運送の御失却
も有之旁以御費に御座候間、江戸御米蔵の棟数を
御へらし被遊候ハハ大分の御徳用たるべき旨、御勘定方ニて
被相考(あいかんがえられる)之趣を御勘定頭衆より被申上候へば、以の外御機嫌
宜からずして被仰出候ハ、蔵数多く候得ば欠米等も多く
我等損と有事ハ兼て知りたる事なれ共、万一の義も出来遠
国之米数当地え運送の成兼候如くの義も有之時ハ、当地
米の直段なども高直になり、諸方より集り居たる江戸中
の諸人食物に難義いたす様なる事もなくては不叶、左様之
節ニ入用之為を考へ思ふにより蔵米をハ多く詰置す
る義也、平勘定の者などハ其通り、もはや天下の勘定
頭とも云るるものなどがケ様の義を我等の為なり、と云聞
する様の義ハ有ものか、との 上意ニて殊外御しかり被遊
候と也
右は大道寺知足軒友山撰述之
駿河土産 終
駿河土産巻之六へ