十一 弘化―嘉永期(1845‐1855) 〇弘化二(1845)年 ・三月十二日、江戸から太守様(藩主斉興)が帰国し鹿児島に到着。 ・三月廿一日玉里の別荘に逗留、それから同所出発して入来筋から菱刈、真幸、日向各地、国分 その他を巡見。 それ以後重富の梅山別荘下から乗船して磯の茶屋下へ着船する。 磯の別荘で小休止の後鹿児島城に帰る旨言われた。 地頭所取次染川伊兵衛 ・此度前述諸所巡見され、高原到着は同年四月朔日である。 小林宿泊が三月廿九日、明けて四月一日に福原に入られる。 道案内は郷士年寄黒木祐助・組頭竹之下庄助で衣服は武士先羽織又引である。 遠目塚で駕籠を 下ろし茶屋で朝食を出す。高原郷士年寄瀬戸口武右衛門、組頭藤田源五左衛門が衣服は上下着、 諸支配人及び無役郷士十人も衣服は上下着用。 広原野中で駕籠を下ろし休む。 普請は全て完了しているので、前日に入られ事はなく、そのまま錫杖院を参詣、休みの間皆食事を とり、それから神徳院を参詣となる。 駕籠を下ろす場所には高原郷士年寄丸山孫兵衛、組頭黒木 作右衛門、他に御用聞四人、支配人四人、火消役組頭代理として普請方見廻役黒木伊右衛門が陣笠、 火羽織、股引で無役の郷士十人引率し、諸道具運搬人夫十人。 錫杖院も同じで前夜より待機し、小林へ前日御機嫌伺として年寄黒木越右衛門、組頭村田仲左衛門が 訪問した。 錫杖院での勤め支配役は十人共に服装は上下を着す。 神徳院を出発し、地頭仮屋に待機する役は瀬戸口武右衛門、藤田源五左衛門、御用聞役四人、火消役 右同断、地頭仮屋出発し鹿児山の原金曲の休憩場所待機は、年寄丸山孫兵衛、組頭黒木治右衛門、 その他支配人十人は上下を着す。 その後猿瀬川の川越は船掛橋のため、船十三艘並べ、三間の板を横に六枚並べ、横六枚を五組つなぐ。 高原の無役郷士六人、百姓十人が川越に勤め、支配役は組頭の永濱善太左衛門で衣服は上下を着し、 刀大小を差して勤務した。無役郷士は羽織に股引で刀大小を差す。 高崎から川越加勢役として、郷士年寄高野四郎太、同役黒木小次郎、組頭田口小源太外に無役郷士、 百姓総勢十八人が参加した。 彼等は三日前から来て川越の準備をしていた。高崎の役人も上下着す。 この川は夕方五時頃渡り、野尻の地頭仮屋に到着した時は日没頃だった。 野尻で御機嫌伺として 郷士年寄瀬戸口武右衛門、組頭藤田源五左衛門が待機した。 祓川門前出発の際の諸支配役は郷士年田口作兵衛、小林境目より行列の先払いは横目の黒木彦七、 宮原九郎左衛門が勤め、供二十六人、後締役は組頭田口休之進と組頭代理普請方見廻筋村田仲右衛門が 勤めた。 一御家老調所笑左衛門殿に先供四人 一大目付碇山織衛殿に先供四人、 一お側役海老原宗之丞殿に先供二人 一他に御付役人に先供二人あった。 当所の巡見に付いての出張役を書き記す。詳細は地頭仮屋に記録がある。 ・太守様(藩主斉興)の官位は宰相、薩隅日三州の太守、琉球国兼領。高原地頭の嶋津相馬殿が、 太守訪問時に諸所地頭代の側用人伊集院織衛殿から聞いた。 ・十一月廿日の夜半頃より鹿児島上町で大火事があり、明十時頃迄燃えた。 町人の相良某の宿から 火を発した。其宿に二十七歳の女が泊まり衣類を盗み、証拠隠滅の為に火を付けて、上町全体は焼失 したが隣接地は焼け残った。 武士屋敷には火が掛からなかった。其時地頭所島津相馬殿へ高原から 御見舞として与頭田口休之進殿が派遣された。 〇弘化三(1846)年 ・二月昨日、鹿児島山奉行所下目付役が来られ、狭野権現社の杉の穂五百本を採集した。その時太守様 より神楽に供えるとして金子一分、銭にして一貫七百四十八文の寄付があり、神楽を興行した。 この杉の穂五百本は、鹿児島郡吉田花尾山の杉の穂五百本と合わせて千本として、城下の三くいん橋 より玉里御屋敷迄の間に植えると聞いている。 ・此書で以前天保三(1832)十一月廿五日より大川とさきのはけから取水する事を書記した。 始め見分役人は永濱善太左衛門、田口休之進、村田仲右衛門、村田郷左衛門、森山銀之助合せて五人 で見分したが、取水が出来ると思われたので、明廿六日に花堂総出で翌廿七日迄溝を掘り堰を積み、 廿八日より廿九日迄合計四日で水を流す事できた。延人数百六十人余であり、蒲牟田村にかまわず 花堂だけで取水が済んだ。 冬水だけ取り入れる予定である。 元々森山市郎左衛門殿が設計していたので、市郎左衛門殿の差図で作業した。其後天保十五年 (1844)頃から蒲牟田村からも取水の加勢を提供したので蒲牟田村迄も冬の用水が確保された。 註1 天保十一年麓村と花堂蒲牟田の水利談合は記されているが天保三年の項には水利に関する ものは記されていない ・四月廿日、仁武天皇と申し上げた大行天皇の諡号は、仁孝天皇であると江戸より連絡あったと通達 された。この件で十一月十三日から宇都の前に札を取り付ける工事があり、年明け(弘化四)正月 廿日迄に工事が済んだ。 同年(弘化四年、1847)四月八日に麓と花堂の諸人に参拝が通達され、同十一日に狭野権件社から 宇都御社へ遷宮があった。高原中の役々が上下で参詣するので掃除があった。 横目や外町役人全員 参詣した。 ・十一月中旬比、小林の城山他数ヶ所に甘露が降ったとの事である。 この件は高原にも降った可能性 あるので、彼方此方調べて報告せよと郷士年寄衆へ通達された。同月晦日に触書が廻った。 私、永濱善太左衛門は同晦日に小林から柏木の葉束を貰ったので舐めてみたが、少し甘かった。 詳しい事は小林から報告書類が来るはずである。 高原から木の葉を取りに二名送り、収集物を 地頭所島津相馬殿へ報告書を付けて提出した。 小林の城山で甘露を初めて発見したのは中野平助の妻である。その後も降り、翌年(弘化四年) 正月七日の晩にも降り、翌日八日に発見した。 高原内でも彼方此方甘露が降り味を見た人も居る。 〇弘化四(1847)年 ・六月廿三日から大風雨があり夜十時頃迄の大風で下川原とさきのはけ下から北の方へ川が出来るので、 対策に一日総出で当たる。 花堂・狭野・祓川・野村では三日間総出で対策に当たった。 下川筋の大松が倒れた。 廻り五尺から八九寸の物迄二百本程が倒れ、調査の上報告があった。 下村川筋小塚山の後辺迄、田地の籾二百俵分が流された。蒲牟田村内の川筋は籾千俵程の損失である。 高崎の諸所で大きな破損があったと聞く。 以前の大洪水から六十一年ぶりと聞く。 田畠の実りの状態は平年並みだった。 ・十月十六日、花堂の弓射場が大川氾濫により損耗したので墓の前から坂本寺の後に移す。 寺には代金として六―七貫文を払った筈である。 ・十月十七日から八日九日迄三日間、弓射場の工事があり、坂本寺屋敷の上の段に移した。 与頭永濱善太左衛門、同村田仲左衛門、同役田口休之進、普請方見廻役村田仲右衛門、同役黒木 伊右衛門が責任者である。 本来百年前は寺の後にあったが、その後寺の前で川の上に移った。 しかし当年六月廿四日の風雨で破損したのでこの年から弓射場の場所が替る。 ・十一月三日、地頭仮屋で集会があった。地頭所(鹿児島)からの通達があり、郷士年寄瀬戸口 武右衛門殿が出座した。琉球国やその他各地に異国船が散見されるので異国対策の軍役が通達された。 十五歳から六十歳迄の者は弓鉄砲その他武術の稽古をする事。 弓か鉄砲で軍役を勤める事になるが、 銘々が覚書の帳面を提出すること、陣笠と陣羽織の用意もしておく事。 〇弘化五(1848)年 ・正月三日、初狩で狭野原ならき山神に十五歳から六十歳迄の者が鉄砲・陣笠で勢揃した。 三百人余りが揃い、病気の人は医師の証明書を提出した。 その後弓・鉄砲の式日を決めて稽古が あった。 ・二月三日、太守様が大隅国巡見に出掛けられ、同月六日、福山御牧(現霧島市牧之原)で異国防御の 鉄砲演習を御覧になるという事で、鹿児島から両指揮官の下に六百騎の鉄砲が揃った。 前年未十月廿八日に吉野の牧場(現鹿児島市吉野)で異国防御の演習があり大将二名で五百騎宛、 合わせて千余騎で鉄砲の演習があった。 ・十一月十八日夕方六時に北北西から南南東の方に大きな星が飛び、廻りは四五尺、雷の様な音がした。 ・十二月朔日、広原で異国防衛のための演習準備があった。 これは同月六日朝四時に出発して、 小林の調練場へ行き、郡奉行小森新蔵殿が見分を勤めた。 同月十五日夕方六時頃、地頭仮屋を出発して福原村の樋渡本学坊、山波矢十郎の両名の宿の脇に諸士 の宿が並んだ。 明十六日に小林東原で異国防衛演習の見分があった。小林を始め、高原二番、須木三番、高崎四番に 見分があった。 軍賦役奉行は 安田助左衛門殿及び同役三人、郡奉行小森新蔵殿、平嶋平太左衛門殿 は野尻から入り、昼十二時から見分あった。 御家流鉄砲操作並び大砲の打ち方など無事終わった。 同十七日には神徳院と錫杖院に諸士が参詣した。 ・この年(弘化五年)は嘉永元年となる。 〇嘉永三(1850)年 ・二月十八日、軍賦役奉行が小林から到着する。伊知地小十郎殿、野元源五左衛門殿及び軍賦役家老付 書記の甲斐弥右衛門殿である。 同十七日泊り(小林か)で明けて十八日霞原で武術の見分があり、 高崎も一緒である。 ・四月、白米の値段は銭百文で七合買える。 ・都城内小池道、曽於郡いのこ石道では高千穂の裾に至る迄小笹に実がなり、笹壱本に十数個で麦の ようである。 大きさはぐみのようで米の代わりになる。 飯にしても、団子にして、焼酎にしても よい。 男は一日に籾俵に三俵程、女は二俵程取れる。一俵に付き仕上りの実は一斗三升宛ある。 嘉永三年(1850)四月十日頃から同廿四五日迄取れた。国分、清水、日向山、曽於郡踊等各地から いのこ石原付近へ、一日に五六百人宛、都城、高崎、高原、小林各地から中山の野、御池の辺りに 数日何百人か分からぬ程の男女が訪れた。 大隅、日向各地から千人以上訪れたと聞く。 皆が助かる事この上ない。この辺で行かない人は無い。 三年前は前述の原に少しの実がなっていたが取る人も少なかった。 今年は全体に実った。 野原の少ない岡倉の辺にも実がなるが、飯にするほどは無かった。 以上笹の実の事、是迄聞いた事が無かったので此処に書き記す。 この笹の実はそば切に入れてもよい。国分地方ではそば屋が壱升八合を銭百文で引き取って呉れる。 ・八月七日、大風雨、高原内の家が二百十軒(小家の記録なし)倒壊、高崎は百三十六軒、高城は 四百三十軒余、都城は数千軒余、高岡は八百軒程、野尻百五十軒余、小林は高原より大風と聞くが 倒れた家数は聞いていない。 その他の近郷他郷大風だったようだが、細かい事は分からない。 作物の方も大被害である。 当年も百文で米七合宛だが、来年も困窮が続く年になると思う。 〇嘉永四(1851)年、 ・薩摩宰相斉興、官位正四位上参議中将は、隠居されて江戸に在住。 ・松平薩摩守斉彬、官位従四位上中将は家督を相続し、江戸から鹿児島へ下向された。 嫡子松平虎寿丸様は未だ御元服されないので名乗りは無い。この虎寿丸様は嘉永七年(1854)九月 死去された事が通達されたので高原からも役人がお悔み申し上げた 〇嘉永五(1852)年、郷の要求 ・十二月朔日から麓と花堂の諸士が申し合わせた事は、十年前に郷の為に使用する予定で拾貫文出資し、 屋敷毎に掛けてきたが、出資金が今はどうなっているか全く分からない状態になっている。 今郷中は困窮しているので、この出資金の利金を諸士に配当して欲しいとの要望である。 黒木越右衛門殿が集めて預かっており、元利合計八百貫文以上になるので、十二月二日に高原諸士の 会議があった。 翌三日迄に麓組は麓で検討、花堂組は花堂で検討の上、郷士皆捺印した書を認め、同四日麓の法連寺に 集まった。 同廿一日迄に配当ができなかったので、黒木越右衛門殿郷士年寄役を勤めているが、皆が越右衛門殿の 下では勤められないと言い、更に弟の宮原九郎左衛門殿は与頭役を勤めているが、是又悪口を言うので 皆が勤められないと言い、明けて正月役替りがあった。 黒木越右衛門殿は明三月迄役が勤められる 様に諸士中へ証文を出したが認められなかった。 明けて正月四日(嘉永六年)に諸士全員が又法連寺に集まり協議した。 同十三日夜に鹿児島御地頭所に諸士達が訪れ、麓からは甲斐貞左衛門を始五六人、花堂からは中島 作右衛門始め四五人、其外諸士中から毎日出張した。 高原郷士年寄黒木林右衛門、与頭藤田源五左衛門、瀬戸口右兵衛、郡見廻高妻矢五右衛門は後から 十四日に出張した。 高原四ケ才の百姓四百人以上が鹿児島へ出張し、新田の件で同十三日から十五日迄毎日出立した。 藩庁の担当郡奉行平島平太左衛門殿並び高原新田担当役の世話になり、その時は郷士、百姓共に交渉 は順調に進んだ。 諸士全体から八ヶ条の願いが出されたが、半分程は認められた。この時の地頭は島津相馬殿で取次は 川上貞太郎殿だった。 〇嘉永六(1853)島津斉彬公巡回 ・松平薩摩守斉彬公、御歳四十五歳が領国を巡回された。 十一月十二日に鹿児島を出発し桜島へ渡り、各地廻り同年十二月九日に野尻から高原へ入られた。 瀬口原及び麓の地頭仮屋で視察。神徳院参詣、錫杖院で参詣して休憩後狭野原、鳶野巣を視察。 その後小林で宿泊し、明けて十日には小林西之原で調練を見分された。 この時、財部、末吉、松山、 都城、勝岡、山之口、高城、高崎、野尻、高原、小林、須木の諸郷、合計十二外城、旗は二十一組が 参加。旗二十一組の中八本は都城である。見物人は一万人余と云う。 朝八時に見分が済み次第加久藤へ向かい小川原に入られる。 加久藤に三泊され、飯野で鷹狩りがある。御家老嶋津石見殿始め諸役及び随員で合計三百二十九人、 その他西目より通り夫(人夫)迄入れると千人を超えると聞く。 随員は二百文の宿代、人夫には 一日当り二百文、米一升が支給された。 その他以下高原で賄いを提供した。 瀬口原では野菜、 地頭仮屋では川魚、鯉、神徳院では餅、錫杖院での休憩時は高崎が引受けて賄った。狭野原は御茶で 飯を提供し、鳶野巣では川鳥、瀬口原は白米二石三斗、地頭仮屋者白米三石、鳶野巣は白米二石二斗、 合計白米七石計り 賄った。 同十二月廿六日太守様は鹿児島に帰着された。 この間高原地頭島津相馬様の取次役川上貞太郎殿が前々より来られ、後日立たれて十日程滞在された。 註1 鹿児島藩では薩摩半島を西目、大隅半島を東目と呼び、人口蜜度の高い西目から東目及び 日向諸県への人が移動した 〇嘉永七(1854)年、アメリカ軍艦来航で軍役 ・正月廿一日、太守斉彬様は鹿児島を出発し、江戸へ参府される。 ・江戸の浦ケ野(浦賀)湊へ異国船渡来した。 アメリカ人が五年前にも渡来したが、此度は幕府より特に軍役を準備する様に飛脚で通達があった。 そこで諸郷合わせ十三ケ郷から、石高の多い郷士の面々を選ぶ様に通達があり百人余が鹿児島で 揃った。 同廿六日から一番立として鹿児島を出発し、物頭(隊長)は鹿児島から立てる。 ・二月十三日、諸郷へ異国対応の軍役が命じられ、百人余が同廿一日二番隊として鹿児島を出発した。 一番隊の時と同様に隊長や幹部は鹿児島より選ばれ一隊となった。 この異国船は江戸から去った由で、後続隊は見合わせる事になったとの事。 註1 米国は日本に開国を求めて弘化三年(1846)にビッドルが二隻の軍艦で浦賀に来航したが、日本側 が拒否した。 次に嘉永六年(1853)閏五月、ペリー提督が四隻の軍艦(中二隻は蒸気船)を率いて 浦賀に来航、大統領の国書を手渡し、回答受理のため再度来航すると言い去る。 そして嘉永七年(1854)正月八隻の軍艦(三隻は蒸気船)を率いて再来航、開国の第一歩となる 日米和親条約を横浜で締結し、三月初めに去る。 嘉永六年の来航事に米国書の返事を貰う為に再度来航すると言って帰ったので、再来時の為に軍役が 幕府から藩に通達されたものと考えられる ・三月八日、昼十時頃、鹿児島の下町で大火事があり、翌日正午迄燃えた。 火元は加治木町の炭木屋 より出火した。 夫婦喧嘩から妻が火の付いた炭木を振り上げて投げたのが鉋くずの中に入り、 床下から火が起こった。 東は広小路の西石と籠通迄、北は御月屋通迄、南は浜迄全体が焼失した。 焼失竈数(戸数)三千余死者は老母一人だった。 此時太守様は江戸在勤でお留守だった。 ・四月六日、正午頃、京都で大火事があった。 仙洞御所内の御泊殿から出火し、南東の風が強く、直に内侍所辺に火が移り、禁裏御所と仙洞御所で 一時に炎が上がった。 近衛様の宸殿や両御門上の屋根板等は大方取除いたが別条はなかった。何分東風が強くなり、一条様、 今出川様、日野様、その他次第に焼け広がり、烏丸通の町家に火が移り、北を今出川通、南は下立売通 迄、堀川打越、所司代役宅、北の方は一町余りの範囲を焼払い、千本通迄焼払い、それから北西の 糸屋町、西陣へ焼広がり、翌朝四時迄鎮火しなかった。 右府様や大納言様は主上(孝明天皇)が 避難したので、お供をして聖護院宮へ入られた。雅君様始め御子方は大徳寺へ避難したとの事。 以上書状を受け取ったので書き記す。 註1 この火災で西は千本、北は今出川、南は下立売まで焼失。焼失の町数は百九十、寺社二四、 家数五千軒 を超える。現京都御所はこのとき焼失した内裏を再建したものが基礎になっている。 ・十一月五日昼四時頃、大地震があり、至る所で住居が倒壊した。山崩れは大雨の時の様だったと地震 の後で聞いた。 この辺で見る大崩れは、夷守岳の南脇の廻り、北側の平地の上下等で、その他にも 多数崩れた所がある。 一時間毎に小さな地震が昼夜続き、明後七日朝十時に又地震があり、後も 小さい地震があった。 これらの地震は近国の嶽や山の地中からの噴火地震ではないようであり、遠国の噴火地震でもない ようだが、日本国中が大変であり、又異国船の問題など、国家の動向等考えると今後どうなって 行く事か。 この地震は年明け正月になると九州地方は少なくなったが、中国地方は強く、江戸等の東国では津波も 彼方此方の浦に押し寄せ、人家が一軒も残らず海に流された所もあり、死人も多く家もつぶれた。 村により残らず焼失した所もある由で、たいへんな地震と聞く。 年内は言うまでもなく、正月迄は 時々地震があり、一日に四度もあった事もある。 次第に少なくなったが、東国の方は大地震と聞く。 ・十二月九日、異国船用心の為、江戸の御屋敷に詰める事が決まり、高原からは高禄者三人が選ばれた。 藤田新之丞 年廿三歳 持高九十八石 村田正治 廿二歳 九十五石 竹之下庄五 廿二歳 八十三石 高原を十二月十九日出発し、鹿児島から十二月廿五日各地十四郷の郷士四十八人が勤める。 鹿児島から軍賦役五人が率いる。 ・年号が替わり安政二年正月となる。(改元は十一月廿七日) 次ページへ |