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   七 宝永―享保期(1704‐1763)
〇宝永元(1704)年 無地頭
 ・六月五日、東市之介が記録所に転勤となり鹿児島へ参上した。 
 ・噯は黒木正左衛門、村田与右衛門、甲斐両右衛門、黒木治部之介
 ・黒木貞右衛門は市来次郎右衛門殿にお供して、正月三日に自宅を出、十日に鹿児島を出立して江戸
  へ上り、此年六月八日帰宅。
 ・豊作祈念として藩より各外城(郷)へ一貫文宛支給された。これにより神徳院で祈祷を行なった。
  神徳院門中の錫杖院、法連寺、地蔵院で経文、観音経を上げ、施物として両寺に五百文宛、家々に
  二百文、衆僧には百文宛出銭、寺作人には一かまどに十文宛出銭した。
 ・八月廿一日、信濃国善光寺から阿弥陀如来が国々へ下って来て、勧進を募った。 これは江戸幕府
  からのお墨付きであるという。天台宗の院家一名に供僧が八人で、鹿児島から加治木、国分の城を
  廻った後、これから都城で開帳し更に飫肥城下に入るとの事。 本尊はゑんふたこんと云う金で
  作られた阿弥陀如来である。
   註1 ゑんふたこんとは、仏教経典に載るインドに産するという紫色の砂金。
 
 ・九月十九日、先の薩摩守綱久公の嫡子である薩摩守綱貴(第三代鹿児島藩主)が五十五歳で江戸にて
  逝去された。  公は七月より御病気であり、国中の大身の人々は上洛され国中で願文が上げられた。
  又衆中は矢を射って平癒を願い、神徳院の東光坊からも数々の祈祷を行った。東権現や狭野権現へも
  詣でた。 十月十日より山野禁断三十日、商売禁止七日、髪は五十日剃る事禁止。 
  役所に悔みに出るのは、衆中の次男、三男、隠居も残らず行く事、其外下々迄。 
  鹿児島には村田与右衛門と中嶋覚左衛門が参上する。
 ・此時噯は甲斐両左衛門、黒木治部之介、黒木正左衛門、村田与右衛門、地頭は無い。
  与頭は永浜勘兵衛、宮田七郎兵衛、丸山治部左衛門。
  お悔みに神徳院が参上し帰寺は十月十二日、錫杖院は十月十三日帰寺。 
  十月十日から禁断の理由は九日に江戸から通知があった為である。
 ・此時幕府は松平右馬頭様(徳川綱吉)であり、国主として修理大夫様(吉貴)が家督を継ぐ様にと
  お触れがあった。
 ・十一月廿三日午後二時葬儀。
  一神徳院の僧達七名は廿四日より禁断三十日迄。
  一錫杖院も参上した。其外法連寺、白源庵は不参。
  一鹿児島迄迎えに黒木佐太右衛門と甲斐両右衛門が出た
  一葬儀に出席の噯は黒木治部之介と村田越右衛門、
  一神徳院の読経は十一月廿四日より十一月晦日迄続け、神徳院は十二月二日帰寺。 
   威徳院兵部、小林宝光院式部宮内、最雲寺参加
 ・十一月晦日、修理大夫公(吉貴)が江戸で家督を継がれた。 
  御祝儀に噯甲斐両右衛門、衆中代表押領司長門が参上した。
 ・江戸で逝去の綱貴公の法名は
    新捐大玄院政大中大夫羽林中務将薩隅日
       三国兼領琉球国源公昌道元新大居士
 ・十一月廿日、修理大夫公の官位は薩摩守となり、國中に通達された。
 ・法事が多かったので罪人の牢内上下皆々赦免された。其外流人は復職が許された。

〇宝永二(1705)年 無地頭
 ・二月三日、小林宝光院宮内卿が復職を許され、神徳院へ始て入る。
 ・五月十一日、野辺平太は遠慮を許され、月代を剃った。
 ・江戸の増上寺で火事が有ったと聞く。落書で大僧正の事を言っているのか。
   火宅をははたかに出し宵の空
        元やく寺ひゆほんやなふ
       ひゆほんとは法華経にあり、是を言うと。
   雨の夜のまた宵なから焼ぬるは
       寺のいつこに火事やくるらん
 ・十月、公方様(将軍、綱吉)が右大臣に任ぜられ、御使二人が上京した。 
   伊予松山十五万石、松平隠岐殿が上下三十人で上京した時の落書。
      いよ見事 松平いかに沖の波
           しずかにふれさ 花都入
 ・養若様(綱吉甥綱豊)が大納言に任ぜらた時、酒井雅楽頭が上京した時の落書
  欠落めさる酒井にうたてやな
      住ひたをれに供は少将
    雅楽殿は三千人の内千人が欠落になった。
 ・長崎町の女が伊勢参宮鏡山前で公家の集団に交じって歌を詠んだところ、認められ内侍官に
  採用された。前代未聞の事である。
    あわれけにくもれあらみ鏡山
      旅のつかれのかけもはつかし
     
 ・十月十日、廿三番地頭が清水弥兵衛殿に決まる。
 ・噯は黒木治部之介、甲斐両左衛門、黒木正右衛門、村田与左衛門。
 ・神徳院門前及び以前から社家で屋敷の無かった人々に野屋敷を七畝宛八か所下さる。 
  東(錫杖院)も八ヶ所下さる
 ・前の元禄十一年(1698)三月に入来山之丞が移入し、同郷大司七兵衛は元禄九年(1696)に屋敷を
  貰い移入、入木源右衛門は元禄十六年(1703)同年山波兵吉と移入。
 ・十二月十六日、西霧島御宮並び堂、塔など寺中、其他山も残らず焼失するような大火事に見舞われた。
  国家の滅亡もこれを超えようかと言われた。

〇宝永三(1706)年
 ・正月廿八日、狭野権現の遷宮が完了し、住持は憲純法印である。 藩主の名代として伊集院将監殿が
  来られ、高原からお供が三十人行列した。 南町に宿泊し十九日に出発し、神徳院で接待があった。
  高原より衆中全員その他合わせて六百人余同行。
 ・二月二日、東光坊が遷宮の接待をした。この時門前の高原物頭は皆参加した。 
  この時地頭清水弥兵衛尉殿は上洛(江戸)しており留守だった。
  噯は村田与右衛門、甲斐両右衛門、黒木治部之介、黒木正右衛門(正右衛門は宮田六左衛門に
  宝永四年正月九日代わる)
  此時藩公より何か頂いており、記録不明だが神徳院内の威徳院円就房が所持している。
 ・二月十八日、同十九日花堂の衆中が祝いとして酒、重を進上した。 此時の地頭は清水弥兵衛尉殿、
  噯は黒木正右衛門、村田与右衛門、甲斐両左衛門、黒木治部之介
〇宝永四(1707)年
 ・江戸大地震、大火事により江戸中男女死人七万八千と聞く。
  註1 原文は宝永十六となっているが、宝永は七年迄で、宝永四(1707)年十月四日の南海トラフ
    地震の事か。

〇宝永六年(1709)年
 ・将軍綱吉公逝去、常憲院。 将軍職は宜綱公、文照院の子が継ぐ。九月改元、年号正徳となる。
 註1 綱吉の後継は故兄綱重(甲府宰相)の子家宣(綱吉の甥)が継ぐ。家宣の法名が文照院。
    改元は宝永七年八月 
 
 ここから享保の噴火について纏めて記録する。
〇正徳五年(1715)
 ・三月、霧島山の内三山(新燃岳)の辺が燃えだし、八月から大焼となり郷中に灰が降る
 ・九月廿五日の大焼で祓川の人家が焼けた。 狭野寺及び社頭東御在所の社頭、花堂人家も少々焼けた。
  同二日、四日、 九月十日の大焼で皆々避難していた。
 ・十二月廿八日九日の大噴火で東光坊及び花堂の衆中町、門前社家の大方が焼け、後川内、広原も
  少々焼けた
 ・続いて翌年正月大噴火で麓、花堂、蒲牟田の人々は松山、小林、飯野、野尻、庄内、山田、水流村の
  方へ避難した。
 ・霧島の噴火で曽於郡、国分で松永川から石砂が溢れだし、高七八十石の地を損したと云う。 
 ・田畠損地は全体で高六万七千石相当であり、高原・高崎の田畠損地は七千石程である。
 
〇享保元年―二年(1716-17)
 ・元年十二月廿八日夜、霧島山で神火が燃出し、火石が降り花堂の家居は大方焼失した。
 ・同廿九日夜、大噴火で花堂は残らず家居焼失した。 
 ・明て二年(1717)正月元日は前述二度の大噴火で、正月の礼式等も無く嘆くばかりだった。 
 ・三日朝十時から昼十二時迄に二度大噴火があり、高原や花堂、高崎其外各地廿里四方に石砂が降った。
  中でも花堂は他所に比べて大量に大きな石が降り、諸寺院や家居が全て焼失した。 
  この状況なので皆小林や諸所に立ち退いた。
 ・同七日の大噴火で各地共大量の石砂が降り、同八日晩同九日同十日と噴火があり同十一日に収まった。
 ・右の通り度々の噴火により、高原や高崎は石砂が降り、人が住める状態でなく、早々高崎内、
  其外水流、且又勝岡郡の松山、野尻、小林、飯野、加久藤等各地に立退いた。
 ・高原高崎の両所への立ち退きについて諸事指揮に大目付の義岡右京殿、御用人宮之原甚太夫殿、
  高原地頭左近丞与太夫殿が正月廿一日に来られた。 高崎内村の空家に御用人章山角太夫殿、その外
  御歩行目付六人、郡奉行伊東長右衛門殿、新納仁右衛門殿、汾陽四郎兵衛殿、祢寝甚兵衛殿、
  大山六郎兵衛殿、土地検査掛廿一人、其外足軽多人数を召し連れて来られた。
 ・二月十日、今日、地頭が広原より小林に詰めて大目付に相談に来られた。
 ・同十一日、地頭は広原村へ二月四日出立、水流名の方へ行き、直接帰宅される筈である。 
 ・同十二日今日、小林の宝光院で狭野権現のお祭りがある。正月噴火のため宝光院に仮宮出来て本尊が
  安置されている。
 ・同十三日広原の田地砂上げ、検査掛は山本七左衛門殿、噯役は永濱勘兵衛が勤める。 
  後川内村砂上げの検査掛は池上勘助殿と有馬与左衛門殿が勤める。
 ・田十三町二反八畝七歩、籾五百四表一斗二升分で人夫千八百五人必用、 畠は十四町一反六畝十七歩、
  大豆百十七俵四升分で人夫千二百九十七人半必用。 合計で二十七町四反七畝七歩、籾大豆合わせて
  六百二十一俵一斗六升分、人夫合計三千百二十人半が必要である。 
  この内加勢を入れて二千六百五十三人は確保したが四百四十九人半不足する。加勢は財部から
  千二十四人、馬越から百九十人、真幸吉田から百八十人である。
  加勢の飯七合五勺宛は郡見廻から払われる。
 ・広原村砂上の諸物は栗野より納める筈
 ・後川内村砂上げは、吉田・飯野の諸所から加勢の人夫来る
 ・三月二日、今月は高崎で砂上げを行う。検査掛は川野清左衛門殿。 雇夫が竹田又四郎を切殺し、
  清左衛門殿が怪我をしたので、養生として池上勘助殿も高崎へ派遣される。
  この件について丸山十郎左衛門が帰ってきた。
 ・三月四日迄で加勢の人夫作業は完了した。
 ・三月五日は高原衆中の砂上げがあった。今日から噯丸山孫兵衛は後川内村に勤める。
 ・三月八日、高原衆中の持場の後川内村から江平村迄、検査の川上助左衛門殿、柳源左衛門殿、
  噯児玉勘兵衛、 郡見廻中島覚右衛門が立合う。
 ・後川内村から梅久保村迄の砂上げ、検査掛は池上勘助殿、有馬与左衛門殿、噯丸山孫兵衛、郡見廻
  藤右衛門が勤める。
 ・出張勤務日数         
  二年二月五日から三月二日迄 広原詰  噯永濱勘兵衛
  二年二月八日から同十四日迄 後川内詰 噯丸山孫兵衛
  二月十五日から三月六日迄 廿二日間  丸山孫之進
  但郡見廻の勤務日数は別紙で報告し、これらの勤務日数届は祢寝勘兵衛殿の筆者衆へ提出します。
 ・三月十三日、後川内村の百姓及び郷士が自分達で砂上げをしたいとの願いがあり、今日川内へ
  丸山十郎左衛門が行く。
 ・郷士達の家普請の為の諸道具が各地より納入された。
 ・三月廿三日、今日広原へ移った。 
 ・諸役人へ心付の米が下されると云う事で、お礼に今日から丸山孫兵衛、永牟田藤右衛門、岩元喜右衛門
  が鹿児島へ参上した。 心付米として白米壱石八合、飢米として一人当り米三升下さった。
  この手形は、広原に居る人々には真幸組の蔵から、小林に居る人々には高岡組の蔵から渡される。
 ・各役々(噯、横目、郡見廻、溝見廻、牛馬役、庄屋役など)への心付米の量、人数は次の通り。
  一噯丸山十郎左衛門、丸山孫兵衛、永濱勘兵衛、黒木左衛門、此四人は米三斗三升六合入りを四俵宛
  一郡見廻中島覚左衛門、藤田正左衛門、宮田直右衛門、牟田藤右衛門、此四人米三俵宛
  一溝見廻一人宮田七左衛門米三表、
  一牛馬役二人田口孝之丞、児玉甚五兵衛は三俵宛
  一庄屋四人馬場次郎右衛門、徳永諸右衛門、黒木吉左衛門、前原泉鏡坊、此四人は米二俵宛
  一横目二人萩原早兵衛、岩元喜右衛門は米二俵宛
   右は霧島山噴火により、十二月廿八日から正月迄に石砂が田畠に入り、且又色々苦労した事により
   心付米を下さるものである。
 ・四月八日、明日より飢米申請として真幸組の蔵へ衆中より届け出る筈である。 
  衆中の石高、村で砂上か今後砂上するかの予定を組んで届け出る。
 以上が享保新燃噴火に関する記事である。
 
〇.享保四(1719)年、此年迄に麓衆中は皆立ち戻ってきた。
 ・衆中当番は噯所へ詰める様に御用人から指図があったが、十二月に番所を麓の地蔵院辻へ造った。
 ・神徳院及び錫杖院門前と寺高分田畑の砂揚げをした。

〇享保五(1720)年
 ・此年衆中の持分田畑の砂上げが命ぜられた。郡奉行衆は新納二左衛門殿、検者衆は三島佐次右衛門殿、
  中郷孫右衛門殿、二階堂十兵衛殿、白坂鹿右衛門殿、溝工事監督上村源左衛門殿、野津正左衛門殿、
  池之上勘助殿

〇享保六年(1721)、
・地頭左近丞与太夫殿が享保十一年(1726)三月迄高原全体を支配。

〇噯役の名前の記録はない年は、元文六年(1741)、寛保四年(1744)、延享五年(1748)、
 寛延四年(1751)、宝暦四年(1754) 
である。

〇年不明 (1760頃)  廿五番地頭 伊集院伊膳殿
 噯田口伝兵衛、甲斐両左衛門、丸山十郎右衛門、黒木八郎兵 
 衛の六人が地頭の代役であるが、詳細の役目記載ない。
 

   八 明和―寛政期(1769‐1799)
〇明和六(1769)年
 ・七月ホウキ星が出た
 ・七月廿九日晩から翌朔日迄大風      
 ・九月廿八日大地震、小長野溝筋破損及び諸所が破損した。
 ・ 噯 丸山孫兵衛、村田仲左衛門、宮田庄兵衛、甲斐貞右衛門、永濱勧兵衛、
 ・郡見廻宮田直右衛門、児玉甚五兵衛、永牟田孫右衛門、藤田正左衛門

〇明和八(1771)年
 ・七月廿日、夕方六時頃から霧島山の古御鉢が燃え始め、差川内、猪之子石、福山、志布志辺迄灰が
  降った。且霧島山から流れ出る川筋には泥水が出たと云う。
 ・七月廿三日、近郷に灰が降り大焼になったので、狭野権現東御在所に神事の御願を立てた。 
 ・八月十七日、両神社で神事を行い、与頭丸山正蔵、村田仲左衛門、黒木八郎右衛門、取締村田武藤太、
  与頭甲斐仲左衛門、田口休右衛門、黒木主右衛門、地頭種子島次郎右衛門殿、伊集院仁右衛門殿、
  市来勧左衛門殿、畠山投馬殿、伊集院伊膳殿、石黒戸後右衛門殿が参列。
 
〇安永八(1779)年
 ・十月朔日、桜島で大噴火が起こり近郷に石が降り、且つ高原迄四五日間地震があった。
  海中でも暫らく噴火が起こり大小の島七ツ出来、その島は福山の方にあり一つの島に今は人家もある。

〇天明二(1782)年、
 ・噯役の事を郷士年寄と役名が替った。
〇天明六(1786)年
 ・与頭 甲斐両右衛門、瀬戸口武右衛門、丸山十郎左衛門、田口休左衛門、永濱勧兵衛、村田藤次兵衛
  噯 甲斐仲右衛門、黒木八十八、黒木平治、黒木正右衛門、村田仲左衛門
 ・此年領国中の田に虫が発生し、翌年(天明七年)迄には、百文で白米八合から九合の価格となり、
  麦は百文で壱升となり、人々は大変生活苦となった。
 ・この時衆中を郷士とする事になった。
 ・此年、太守豊後守(斉宜)が家督を継ぎ、御祝儀に郷士年寄丸山十郎左衛門、与頭永濱勘兵衛が
  参上した。
 ・国主豊後守(斉宜)様が初めて鹿児島に入部、御祝儀に参上したのは、郷士年寄黒木八十八、与
  頭永濱勘兵衛、与頭瀬戸口武右衛門に代わり瀬戸口武平太、郷士年寄黒木佐平太に代わり永濱勧兵衛、
  与頭勧兵衛に代り黒木次郎右衛門
〇天明七(1787)年
 ・二月、郷士年寄黒木平治に代わり丸山十郎左衛門
     村田仲左衛門に代わり郷士年寄黒木平治となる
 ・此年、中将様(第七代鹿児島藩主、島津重豪)江戸で隠居された。
 ・領国内で高壱石に対し、白米五升宛当年から五年間に限り上納する事が通達された。

〇寛政二(1790)年、 地頭 樺山物集女殿
 ・当年から人一人に付、銀壱匁か又は銭百文、牛馬一疋に付銀一匁宛三年を限り上納する事になった。
〇寛政十(1798)年
 ・郷士年寄丸山十郎右衛門に代わり瀬戸口武平太、郷士年寄黒木平治に代わり丸山十郎右衛門、
  甲斐仲右衛門。黒木八十八、黒木平治に代わり丸山十郎右衛門、永濱勧兵衛
 ・領内の者で欠落(逐電)する者が多くなった。 高城町人の宅間三七と云う者も他国迄も出て行き、
  手先の者達も連れて出たが帰参した。 そこで帰参は望み次第に郷、村を選んでよいとしたところ、
  高原郷の村々にも帰参、居付く者が多かった。 
〇寛政十一(1799)年
 ・与頭 黒木宇兵衛、黒木越右衛門、黒木次兵衛、黒木定治、永濱治左衛門、藤田平右衛門、
 ・郷士年寄 甲斐仲右衛門、黒木八十八、丸山十郎左衛門、瀬戸口武平太、永濱勘兵衛
 ・横目 黒木貞右衛門、黒木良学院、村田仲五右衛門、
 ・郡見廻 増田嘉右衛門、丸山小十郎、山口八藤次、丸山伊右衛門

                                   
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