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   九 文化―文政(1804‐1825)
〇文化元(1804)年、
 ・廿七番地頭日高次右衛門殿の病死により地頭不在となり、大番頭の北郷作右衛門殿預りとなる。
 ・郷士年寄瀬戸口武平太(後に武右衛門)、黒木宇兵衛、丸山十郎右衛門、甲斐佐次右衛門
 (後に両右衛門)、藤田平右衛門(後に一郎)
〇文化八(1811)年
 ・七月地頭を命ぜられた廿八番目の平島平八殿が断ったので地頭空白。
〇文化九(1812)年十二月、
 ・二十九番目地頭として義岡久馬殿が任ぜられた。 
 ・郷士年寄は瀬戸口武平太、黒木宇兵衛、丸山十郎左衛門、甲斐両右衛門、黒木源五右衛門。
    
〇文化九年(1812)、伊能忠敬の国土調査
 ・四月十四日、この時幕府の天文方が諸国へ派遣され、当国へも先立って巡回する。
  近々当郷も通行の筈であり、担当として藩記録奉行の本田休七殿、粂原善助殿、書記役小浜長蔵殿、
  永田佐八殿が今日都城から当所の狭野門前へ到着した。 郷士年寄丸山十郎左衛門、
  与頭田口作左衛門、郡見廻田口清之進、郷派遣役高妻五郎兵衛が勤めた。
 一諸寺院並び道筋、字名を帳面に書き付けた。
 一天文方が到着したら、諸寺院、村々字名、その外遠望できる高山など問われたら、滞りなく返答する
  様に言われている。  
 一同年五月晦日、幕府の天文方の到着に際し、境石迄各役人が迎えた。境石に茶屋が出来、境石から
  狭野迄測量した。今晩は狭野に泊り夕刻六時頃から星を観測して、何十何度のれいれい等の言葉を
  書記が帳面に付けている。天文職の言葉で何の事か我々は分からない。
 一天文頭の伊能勘解由様、坂部貞兵衛様、右両頭の他内弟子は神徳院寺内に宿泊した。 この御用聞と
  して鹿児島から町人が参加している。
 一天文弟子の今泉又兵衛様、永升甚左衛門様、門谷清次郎様の三人は日高平兵衛の所に宿泊した。
  この客人の世話の為鹿児島から付き添った留守居役平田次郎八殿は右兵衛宅、同役椎原与三次殿は
  庄兵衛宅に宿泊。蔵方目付の東郷八左衛門殿は甚兵衛宿、横目衆の田中仲右衛門殿は宮内宅、
  御留主居付役松本十兵衛殿は伝左衛門宿、横目山本十兵衛殿は儀右衛門宿 郡方書役上床次兵衛殿は
  清左衛門宿、郡方出役鍋田甚七殿は万右衛門宿、御記録方添役本間休七殿、岩元式部宿、右書役永田
  佐八殿は斎藤喜兵太宿、絵師笹川五兵衛殿は竹添鶴兵衛宿とそれぞれ支配の役人達が宿泊した。
 一同六月朔日、天文方は朝五時に出発して、神徳院杉馬場から測量、地頭仮屋でお茶を進上する。 
  この仮屋での準備は無事終わり、銘々帰宅した。
 一公用の人々の荷物支配として郷士十人付ける事。又さのぜ川越の為、郷士十六人用意すること。
 一天文方の賄の為に鹿児島から町人が四・五人付いて、時間通りに食事等賄うので当郷からは用意
  しなかった。 各種野菜に関しては当郷から納めた。
 一天文方の為に人馬都合六百余を用意する事。この人員の中百余は高崎から提供する事。
  これら人馬の支配は郡奉行に引渡す事。
  これら天文方測量に勤める郷士年寄は丸山十郎左衛門及び瀬戸口武平太、与頭は田口作左衛門、
  横目から竹之下百次、外に道案内の郷士として村田仲左衛門、黒木林右衛門が勤める。

〇文化十三(1816)年
 ・九月、永濱清左衛門に代り郷士年寄田口作左衛門が任命された。
〇文化十四(1817)年
 ・三月、郷士年寄の甲斐両右衛門は何か理由あり徳の島へ遠島となり、石高、屋敷没収された。
 ・同年郷士年寄瀬戸口武平太、丸山十郎右衛門、黒木林右衛門、甲斐仲左衛門、村田伊左衛門
  (後郷左衛門)
〇文化十五(1818)年
 ・十月、郷士年寄の黒木市太夫、丸山小十郎は何か理由あり、両人共年寄役を罷免された。

〇文政四(1821)年
 ・二月、郷士年寄丸山十郎右衛門から黒木林右衛門に代わる。代役丸山源兵衛 
 ・四月六日、地頭の義岡久馬様御子息の蔵人様及び御袋様、御息女、取次の木藤市之助殿並び役人が
  栄之尾に湯治にゆかれるとの事で、地頭横目の永田宝春坊と郷士一人が浜之市へ行き、付き添い役を
  監督した。この客人一行は狭野へ参詣のため、四月十三日に到着した。 毎日付添に立会う郷士達に
  は金子を下さった。 年寄や与頭にも金子を下さった。人夫などにも同様である。 
 ・郷士年寄は丸山孫兵衛、瀬戸口武左衛門、甲斐仲右衛門、黒木林右衛門、村田作左衛門
  与頭は宮田六郎、瀬戸口八平太、田口十右衛門、村田九郎右衛門、竹下百次、田口仲助
 ・甲斐両右衛門は遠島を赦された。
 ・十二月十九日、夕方四時頃から新燃岳の近辺で噴火が始まり、間もなく雷鳴のようである。 
  そのまま一晩中音が響き、翌日には鎮まったので皆が喜び合った。
 
〇文政五(1822)年、
 ・郷士年寄瀬戸口武左衛門、黒木林右衛門、丸山源兵衛、甲斐仲左衛門、村田郷左衛門
 ・正月廿九日、鹿児島下町で出火があり、多数焼失し、藩重職の屋敷迄まで火が及んだと聞く。
 ・二月十六日。東霧嶋の祭りに際し、高原郷士の山波仙左衛門が高城郷士の肥田木鉄右衛門等と云う
  者達により討ち果たされたとの事。 死体見分に関係役人が立ち会う様に連絡あったので、
  郷士年寄村田郷左衛門、与頭の田口十右衛門及び横目役の竹之下泉鉄院と宮田勝兵衛が東へ向かった。
  直に鉄右衛門は切腹し、他三人が助太刀した由であると、締方横目の伊東新八郎殿からお話があった。
  この書面には署名せずに帰ったが、郷の上役に見聞したことを報告した。
 ・二月廿八九日に横目二名が高城へ出張し、高原・高崎・高城・高岡、都城其外各地の先般立ち会った
  人々に、仙左衛門と鉄右衛門の事件の次第について調査があった。 先般助太刀をした肥田木源五、
  満行次郎兵衛、児玉利右衛門の三人も厳しい詰問に申し開きが難しいと思ったのか、三人共に切腹
  したと聞く。
 ・三月廿一日、昨年十二月に噴火した新燃嶽に、嶽山行司の森山正左衛門と竹木見廻役の高野瀬八十八
  及び外郷士達が連れ立ち見廻ったところ、動物の頭らしき骨が見つかった。噴火で焼けた池に棲んで
  いた蛇の骨でないだろうか。 何れにしても珍しいものだから持ち帰り高野瀬八十八方で保管していた。
  噂が関係筋に聞こえ、横目の黒木善之助が調査に入り見分の結果、これは蛇の骨に相違ないと言い
  鹿児島へ提出する事にした。 見分の斎藤宇平太や与頭の田口十右衛門は、これは蛇の骨二つと見た。
  一つは弐尺計、一つは壱尺三四寸程であった。

 ・七月廿三日、罰として銀三拾匁が郷士藤田清右衛門、竹之下常之助、押領司早十郎に課せられた。
  これは今年二月、東霧島で同行していた山波仙右衛門が打ち果たされた時、その場に居ながら処理が
  不手際であり、その為に課銀されたものである。 
  高原郷士の山波仙左衛門は今年二月十六日、東霧島弓場へ見物に行った時、高城郷士の肥田木鉄右衛門
  と云う者から打ち果たされた。 その結果仙右衛門は郷士を取り消されたが、死体に関しては問題
  なしと七月廿二日に裁定された。 
  高城郷士肥田木鉄右衛門は、切腹したが過料銭弐百五十文、加勢勢した肥田木木源五、酒行
  次郎左衛門、児玉利左衛門の三人は既に切腹したが死体の張付を言い渡された。
  これは横目衆の支配である。

 ・領国中三度の検地があると噂があったが、文政五年(1822)秋に高原から高崎、野尻迄検地がある旨
  四月三日に通達があり、早速事前調査があった。 五月の田植え時期は休むが年中調査となる。
  郡奉行衆が十二月十二日高崎へ入った。 早速高原の郷役人が見廻った。 検地掛りは郷士年寄の
  村田郷右衛門、黒木林右衛門、与頭竹之下百次、田口十右衛門、郡見廻役の田口四郎兵衛、高原の
  記録掛高妻祐左衛門、山下武右衛門、村田常之進である。

〇文政六(1823)年、検地
 ・正月廿八日、高原内の水流村へ奉行衆が入り、以後村々の検地が続く。
  二月五日に水流村の検地が終り、今日は祓川へ役々が付いて廻り同六日より検地、同九日には狭野へ
  宿泊。同十四日には奉行は蒲牟田村へ移動し、同十九日には花堂村へ移動した。
 ・二月廿三日、奉行は広原村へ移り、三月四日には麓村へ移った。 同十日には越村へ移り、
  同十九日後川内を最後に全て高原郷は終った。 
 ・三月廿日は野尻の検地となるので、高原の役人衆は引き取った。当所(高原)の検地日数は五十二日、
 高崎の日数は四十日間だった。

〇文政七(1824)年
 ・五月、地頭の義岡久馬殿は病気だったが、五月死去された。お悔みの為、郷士年寄丸山孫兵衛、
  与頭瀬戸口兵右衛門、地頭横目高原正尊坊が鹿児島に参府した。 地頭所は  殿が預かる事になる。

 ・八月七日、藤ケ嶋と云う島へ軍勢が乗った異国船が来て、鉄砲を打ち掛けたと云う。 島を警備する
  横目衆が浜に出向き、大将と目される者一人を打倒したところ、全員本船へ引き揚げた。事の次第を
  鹿児島へ早船で報告したところ、早速島津権五郎殿を大将として三百人余の士がこの島に出張した
  という。 異国人の死体は長崎奉行所で調査に送る為、塩漬けにして喜入多門殿が持参したと云う。
  註1 この事件の記録は諸書に残るが、宝島となっている。

〇文政八(1825)年
 ・三十番目頭として島津典礼殿、取次染川伊兵衛殿が決定した事が五月七日に通達された。 
  御祝儀として郷士年寄竹之下百次、与頭黒木助右衛門、地頭横目藤藤与次郎、郡見廻田口四郎兵衛が
  五月廿二日より鹿児島に参府した。
 ・正月、郷役人人事改定
  郷士年寄村田作左衛門に代り竹之下百次、百次に代り郷士年寄助役田口十右衛門、十右衛門に代り
  与頭黒木助左衛門、助左衛門に代り普請見廻森山市郎左衛門。

 ・佐土原正明人数覚、御用人飯田仲兵衛、同山元権九郎、御祐筆前田長兵衛、御隠居様方御側詰梶田
  小市郎、御広間詰加治木蔵之丞、小頭横目役竹下伊右衛門、御勘定方後藤弥右衛門、本御留主居市来
  五郎次郎、無役岩下千五郎、同中野広見、同萩原藤七、同翌山部内、同兵道者中村九八郎、
  合計十三人、吟味方横目役数野田寛平


  十 天保期(1832‐)
〇天保三(1832)年
 ・六月、日照りが三十二日続き、少し埃が落ち着く程の雨があったが、又十日続いて日照り前後四十日
  の日照りで野山は萎れ、畠作は実らず田も被害がある。他国では野山が枯れたと聞く。 
  翌年は飢饉の年だった。
〇天保六(1835)年
 ・寿姫様について昨年十二月十二日、内藤丹波守様への縁組を申請していたが、許可されたので
  承知して置く様各郷に伝える。 天保六年(1835)正月 安房
 ・若殿様(島津斉彬)について、昨年十二月十六日に少将に任官されたので、当月より少将様と
  お呼びする事なったと通達があったので此旨関係各先に通達する。 天保六年(1835)正月 但馬
 ・若殿様(島津斉彬)は昨年十二月十六日、御城へ列席して少将に任官された事が発表された。 
  これにより郷士年寄と組頭が一人宛記帳して太守様、中将様、少将様にご祝儀を申し上げる事
  になった。以上                   天保六年(1835)正月十一日 町田堅物
 
 ・七月中旬に大風が吹く。 無数の人家や山の木が倒れた。 浜に接した人家は全て倒れ、諸郷で
  多くの死者が出たと聞く。 高原でも麓で一人死者がでた。三度の大風があり、以後飢饉が続く。 
  白米の値段は壱升三合で百文である。
〇天保七(1836)年、飢饉のよる物価高騰
 ・夏白米値段は壱升二合で百文になった。この年も五穀が実らず秋から更に値上がりし、白米一升百文
  となった。 
〇天保八(1837)年
 ・六月、高原では白米は百文で七合となり、小林では二斗二升入で一俵の白米が金二分となり、銭に
  換算すると三貫六百文(三千六百文)となる。 其時鹿児島の公定価格は日向國向け、百文に付き
  白米六合六勺、鹿児島向け、五合で更に高くなる傾向にあり大飢饉である。
 ・二月十九、廿日の両日、大坂で大火事が有った。この火事の原因は、大坂で与力を勤めた大塩平八郎
  と言う大物が飢饉の年に諸人を救ったが、その後大阪東町奉行やその他裕福な町人に恨みを抱き、
  乱を起こした。 大塩平八郎の猶子を頭領として二百人程の人を組織し、大坂町の三分一を焼いた。
  死人は一万六千人と聞く。
 ・当然大坂、京都、江戸は大飢饉の影響で年始の頃、米一升、銀一升と云う程である。夏に向かい、
  白米一升が五百文とも言われ、更に高値もあり日本国中大飢饉である。 
  諸国の中三ヶ国の国主が薩摩から借米した。 
 ・此年七月高直になる中、高原は白米が百文で七合買えるが、小林は百文で五合である。 
  町の店売は百文で四合五勺、高崎、高原、野尻、須木、飯野等の近郷は小林で買入れ、百文で四合を
  鹿児島米として域外にも売った。 各地飢えで命に関わる程である。 
  以前から琉球からの上納米が七月初めに納められるので上下の人々も一息つくだろう。 
 ・江戸、京都、大阪、その他諸国は金銭があっても米が無く、値段は上がる一方である。 関所の外で
  ある高岡郷でも百文で四合である。 この時六月十日から七月七日迄日照りが廿八日続いたが田畑は
  大丈夫だった。

 ・七月十四・十五日頃、山川港に異国船が入った。長六十間程で本柱は八本立ち、乗員は三十人程で
  ある。 藩の異国掛は大騒動となっている。
  註1 アメリカの商船モリソン号で、異国船打ち払い令の時代にマカオから日本の漂流民七名の
    送還を理由に、日本との貿易を願った。 浦賀で砲撃された後、鹿児島に来た。
 ・七月末より八月中旬迄高原では百文で白米なら四合八勺、麦は五合八勺である。

〇天保九(1838)年
 ・六月十四日、高二石に付五升宛出米(上納)となり白赤半分宛。 これは従来からの上納米三升に
  二升上乗せして合計五升宛、当戌年より来寅年迄五年間上納が義務付けられる。是は追って通達
  される。
 ・一人銀一匁が石高に関係なく無高の人々を含む末端の武士迄も賦課され、子年(天保十一年)より
  次の辰年迄五年間毎年出銀する事になったので、毎年十月に藩庫に上納する事。七島、硫黄、竹島、
  黒崎、屋久島、種子島 及び道之嶋は十二月迄に船便次第で上納する事。 
  これは江戸城西の丸が全焼し、その普請の為十万両を幕府から頼まれ、止むを得ず受け入れる事に
  なったが、直には用意できない。一昨年の資金調達にもたいへん苦心したが、その上大阪の資金元の
  病死や火事により、一昨年の出資も完了しておらず、今回の出資要請に応える事は難しい状況である。
  就いては今藩内も困窮しているが、止むを得ず出米、出銀を指示するものである。その様な訳で一匁
  の出銀は、一昨年来の凶作もあり、皆困窮している状況に鑑みて、特別に来々年の子年から辰年迄の
  五年間とする。
   天保九年(1838)五月十五日 地頭所取次染川伊兵衛
                 家老印

 ・八月十八日、佐土原島津飛騨守様が通行され、上下八十人のお供で狭野権現社を参詣、神徳院に一宿、
  東御在所錫杖院を参詣し、西霧島参詣のため、踊の名香湯に入湯される。
  その後鹿児島へ行かれる。 その時の道路管理として郡奉行衆、平島平太左衛門、迫田仲之助殿二人、
  検者二人、書役二人が同行する。 高崎境目の茶屋出張するのは、与頭役一人永濱武助、
  其晩の火消役は自宅より火頭巾、火羽織、陣笠をそれぞれ用意し、与頭役永濱武助、横目役黒木彦七、
  郷士十五人、足軽百人が丹後、熊手、とび口二本、梯子一つ、火うち二つ用意し神徳院寺内で番をする。
  其夜午前二時迄勤務し、二時から錫杖院に移る。 飛騨守様は神徳院を朝四時に出発し錫杖院に参詣
  する。 錫杖院出張役は郷士年寄瀬戸口平作、与頭役永濱武助、上記出張役二名は飛騨守様に名前を
  提出する。神徳院出張役は郷士年寄宮田早右衛門、瀬戸口武右衛門、与頭黒木裕助、水流村出張役は
  郷士年寄永濱勘兵衛、鹿児島からの御用聞役二名、地頭仮屋守役一名が付いた。

〇天保十一年(1840)、水利談合
  ・二月五日頃から、元蒲牟田村支配内の田地用水溝の水上は亀野谷と云う所が水の出口である。
   今から六・七十年前に麓郷士達が水の出口から佐土の谷の方へ溝を掘って水を取入れようとしたので
   中止を申し出て取水を止めた経緯がある。 その時花堂・蒲牟田村からの水出口の新溝は埋められた
   筈だったが放置されており、何時の間にか溝浚えをして取水している事が知られぬまま今も宅水に
   利用していた。 水路の土手下へ水が零れる事が往々あるので蒲牟田村の田地用水調査をした
   ところ、此年二月五日より水出口から四・五町下った亀野橋の南側、尾野谷と云う所から池之谷へ
   貫通する水路が作られている。 
   今決着を付けて置かねば、後に溝を掘り下げれば麓へ水を取り入れる事が簡単に出来てしまう。 
   そこで花堂・蒲牟田村では検討した結果、蒲牟田村才役次助から、麓月番郡見廻丸山十左衛門殿へ、
   尾野谷貫掘は中止して下さる様に申入れた。しかし貫掘が中止されないので、蒲牟田村用水掛黒木
   吉左衛門、才役次助、下用水掛小太郎の三人が、二月十二日に丸山十左衛門殿宅へ行き、先達って
   次助から申出た貫掘中止願いについて、又々参りました、貫掘りを是非留めて下さる様にと申し
   出たが埒が明かない。
   花堂与頭村田彦之進、永濱武助、田口休之進、普請見廻村田仲右衛門、黒木伊右衛門、用水掛黒木
   吉左衛門始、其外諸士達が銘々揃って、二月十三日に貫掘り場所を見分した。蒲牟田村の庄屋が
   留守なので才役次兵衛、次助、万四郎、其外人々が見分した。 しかし堀方の中止がないので、
   将来的には水上が取切られ、水を失う事は間違いなく、その場合田地の質が落ちる。 又蒲牟田村の
   水源池は今の所、大丈夫だが将来水源が枯れた場合、川上の郷士田地は水が無くなり、荒地となる
   事は間違いない。 そうなると花堂の役人やその他郷士は奉公が出来なくなる。 
   この事は当番郷士年寄方へ与頭から差し止め願いを出すべきと、与頭村田彦之進、永濱武助が、
   同十四日、麓当番の瀬戸口武右衛門殿宅へ行き、この問題を諸士仲間からの申出として、貫掘の中
   止を申し出た。 もし貫掘りが止まないなら、花堂諸士全員から地頭所へ報告する筈です。 
   そうなれば地頭所の郡役人から調査があり、貫掘は中止されるでしょう。
   同十六日地頭仮屋当番東善左衛門が百姓万次郎を通じて花堂の与頭方へ返答があり、先達っての
   申出を検討しましたが、水取入れの時は貴方の役々の立合の下で水はけをしますとの答えがあった。
   この件で地頭所への報告資料を揃えて検査掛の野元市右衛門殿に伺ったところ、直ちに野元
   市右衛門殿より貫掘を止めるべきとなる。そこで麓役々から郡奉行平島平太左衛門殿へ根回しして、
   急に溝筋の見分に行ったが、その時花堂・蒲牟田村の方へは連絡はなかった。 
   急いで見分したところ、貫掘は中止となる可能性が高く、溝瀬下げ板を四つの谷に載せるように
   したのがこの年の五月六日である。
   担当役人の川田甚四郎殿がこの件で当年十二月溝瀬下げをしたところ、蒲牟田村内の水は少なく
   なった。これに付いて又明けて(天保十二)から地頭所へ報告書を出そうとしたが、麓側より
   水はけの相談を掛けた。麓の水の出口は石坂之谷に一つ、蒲牟田村の水出口は尾野谷、
   清兵衛尾之谷の二つ、中之伝右衛門谷水は双方の水が不足するときは融通する事に決まった。 
   其時は地方検査掛山田平治殿が同席して検討した。 この経過担当の郡奉行平島平太左衛門殿が
   広原村へ出張の節、郷士年寄瀬戸口武右衛門、与頭村田仲右衛門、永濱武助、郡見廻宮原
   六郎兵衛、 其外高原の役々が検討の上お願いしたところ、要望通り水はけの許可が出た。 
   この件を地頭所へ報告は村田仲左衛門殿が行う。 此時役々連名で印判した。
   後年に問題が出た場合はこの書を参照するとよい。

〇天保十三(1842)年
 ・江戸城二の丸が焼失した。 薩摩藩主より金子十万両献上し、各郷一様に銀を納める様にとあり、
  それぞれ目録が下された。
〇天保十四(1843)年
 ・二月七日夜七時より九時迄の間、西の方にぼけ色の雲が出て、形は横一尺(三十センチ)程、
  長さ二十尋(三十メートル)程である。 同廿八九日夜迄色雲で、廿日程後は薄くなる。 
  酉の方から西南の間に出る。
  西    中ぼけ色あかくニ   東
 
 ・六月七月迄の間に牛の病気が流行り、国中の牛残らず罹る。 喉や目がはれ草を食べない。 
  薬用にんじんを湯で米の摺粉と流し、茶の粉ヲ流し入れる。又昆布の煎じたのも良い。 養生が
  良ければ三日程で草を食う。 遅れると五六日掛かり、油断すると病死も偶にある。 
  他国でも一度に流行ると聞く。 この牛の病気は六十一年目に流行ると云う事を、福原村の山波
  善右衛門殿という八十八歳になる人が話している。占い師が呪う事が一番良いとの事。
 ・秋なすびは通常枝の本葉の本に生るのに、この秋は柄の世(ふし)になるのも不思議だ。 
  六十年前になったと聞く。 その時は米三升貰ったと聞く。
 ・七月五日、坂本寺の門。以前水天様は同寺門内に立っていたが、脇が崩れて御水天様が外に立った。 
  云い伝えでは以前は門より内側に御水天様があったが、村内に良くない事があり、門より外に建てたと
  聞く。 此度は神徳院法印が外に建てさせたが、今後の為になるかも知れないので此処に書き記す。
 ・七月晦日大風、五穀が実らない。
 ・九月から小林の岩瀬のとどろが裂け始め、川筋の瀬も裂け、川船が通り始めた。

〇天保十五年(1844)
 ・春から秋迄の間、月に四五日夜十時頃、霧島嶽(高千穂峰)八合目に夜火が見える。
  高原からは七八月になるとめったに見えなくなった。

 ・夏、琉球嶋へ異国のフランスと云う所の者が大船に乗って来て、色々難しい事を要求した。 
  異国人二人残して、当秋又来ると言って帰った。 念のため薩摩の鹿児島から異国掛の御用人の
  二階堂右八郎殿、鉄砲物頭近藤彦左衛門殿、坂本休左衛門殿、御目付松本十兵衛殿、安田助左衛門殿、
  旗奉行宮田清之進、唐船頭川上弥四郎、御代官原田直助、御家座書役野本一郎、異国船掛書役児玉
  宗八、目付御小姓与岩切莫助、松岡十太夫、騎馬御小姓組中村弥次郎、山口吉五郎、津留八之進、
  西田八郎太、野間休之進、池之上良右衛門、久保正之進、薗田彦次郎、本科外科田中道節、御兵具方
  肝煎壱人、御兵具方与力五人、内三人は既に渡海、御兵具方足軽四十五人内十五人は既に渡海、
  唐通事二人、御米千五百石、塩焇千五百斤、大筒三挺、小筒五百挺、合計三百人が八月十五日に
  当地出発して大島へ渡海、大島から琉球へ。

 ・七月、長崎港に異国船が入り、国王に願があると云う事で近国の大名達が情報収集をした。 
  異国船対応の手引書があると云う。 
   註1 オランダ国王の使節が国王書簡を携え、パレンバン号で長崎に入港。 清国における
     アヘン戦争の情報と日本の開国を薦めた。幕府は丁重に拒否。

 ・五月九日正午頃大地震があり、同午後二時頃にも大地震があり、田の中に女達は避難した。
  翌日十日には江戸城の本丸で火事があり、大方焼失し焼死者八百人と聞く
 ・十二月十三日、年号が替り弘化元年となる。

                           
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