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                  水戸詩吟の旅

    旦早流詩吟の会ではテキストに取上げられた漢詩夫々の背景とその心を
学ぶため、水戸方面へ宗家以下21名でバスによる一泊旅行に出かけ、弘道館を
初め偕楽園、水戸八景各地を廻った

弘道館
              水戸徳川家九代藩主斉昭(烈公)が藩士子弟の教育のために1841年に設立
したもので、当時日本最大の藩校で学生数は最多
1000人に達した由。 教室に相当
する大広間がいくつかあり、此処で喧々諤々議論が交わされたであろうことが偲ばれる。
 「尊攘」の二文字だけの大きな掛け軸、藩校の憲法ともいうべきもので烈公自ら筆を
入れたといわれる、約
500文字の漢文で書かれた「弘道館記」の拓本掛け軸などを見ると、
この弘道館の精神が当時の国内思想に大きな影響を与えたことを十分納得できる。
弘道館詳細

水戸八景
    烈公がやはり藩士子弟の自然鑑賞と健脚鍛錬のために藩内の景勝地を選び、
南宋の時代に描かれた洞庭湖周辺における瀟
八景の八つの主題(夜雨、晩鐘、落雁、
暮雪、秋月、帰帆、晴嵐、夕照)をモチーフにして、
1834年に水戸八景を選定したもの。
 弘道館をスタートしてこの八景を廻ると100kmになる由。 同じモチーフを用いた
ものに室町時代に選定された近江八景、元禄の頃選定された金沢八景なども有名である。
 この二つは画人安藤広重の版画が残されているので当時の風景を視覚的に捉えることが
できる。残念ながら広重は水戸方面には足を延ばさなかったとみえ、水戸八景の版画は
残っていない。その代わりに烈公自身が八景をまとめて詠み込んだ七言律詩「水戸八景」、
又夫々の場所についての和歌、及び直筆の自然石の碑が残されて居り、碑のある場所から
往時を偲ぶことはできる。 
八景詳細
                                                   

後記
    今回特に水戸の烈公の事跡を中心に見分したが、烈公がいかに藩士子弟の教育に
心血を注いだか、また尊王攘夷で幕末の思想界をリードしたこと改めて理解した。 斯かる
殿様を戴いた藩士達は恵まれた教育環境で文武両道に切磋琢磨があり幾多の人材も育ったと
思うが、それにしても弘道館で学んだ藩士たちは何処へ行ったのだろうか。 維新の回天、
それに続く近代国家建設の中で水戸藩士達の名前が見えてこない。 桜田門外の変とか
水戸天狗党の乱など、どちらかと云うと激動する時代の捨石になっただけなのだろうか。 
「弘道館記」の精神は西南諸藩では目的達成のために都合よく切り張りしながら利用したが、
本家では一字一句の解釈とその重さに押しつぶされ、「弘道館記」を超えられずそれ自体が
目的となってしまったのだろうか。 快適な常磐自動車道を一路東京に向かうバスの中で
この歴史の命題をぼんやり考えながら、先人達の知、血、汗のおかげで築かれた平和な日本で、
五浦の露天風呂は良かったな、魚が新鮮で美味かったなと思い出し、カラオケに打興じ詩吟旅行
を終えた。
(20050916)

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