目次に戻る                                   前ページ    次ページ    

               夏草やつわものどもが夢の跡(3)

  黄巾の乱の収束後は呉の孫氏、蜀の劉氏、魏の曹氏による三国鼎立の時代となり、
三国志に出てくる蜀の丞相、諸葛孔明が有名ですが、杜甫712770盛唐)は孔明を大変
尊敬しており、以下の五言絶句を残しています

7
八陣図 杜甫    八陣(ハチジン)の図(ズ)
功蓋三分国    功(コウ)は蓋(オオ)う三分(サンブン)の国(クニ)
名成八陣図    名(ナ)は成(ナ)る八陣(ハチジン)の図
江流石不転    江(コウ)流(ナガ)るるも石(イシ)転(テン)ぜず
遺恨失呑呉    遺恨(イコン)なり呉(ゴ)を呑(ノ)むを失(シッ)す


詩解
孔明の功績は魏、蜀、呉の三国を通して圧倒的なものであり、その兵法、八陣の図の
考案でも名をあげた。しかしこの流れにも関わらず、時に利あらずか呉を併呑することが
出来なかったのは残念である

  三国鼎立は魏の曹氏が制したものの、程なくその重臣司馬氏に国を奪われ、司馬氏は
晋を建国しました。 しかしこの晋の王朝も内訌でゴタゴタしている間に雇兵であった匈奴に
国を奪われています。 以後華北中原では五胡十六国時代ともいわれるほど匈奴系、鮮卑系の
異民族国家が乱立したのち、鮮卑系の北魏が統一し北朝を樹立、一方晋の亡命王朝である
江南の東晋に続く宋が南朝を樹立し南北朝時代となり、漢滅亡から隋が582年に南北を統一
するまでの約350年間は異民族国家を含め多くの国が興亡した時代でした。 
異民族国家間で戦乱に明け暮れる中原、華北の地とは対照的に江南では文化、経済が華開いた
時期でもあり、三国鼎立時代の呉、東晋、南朝の宋、斉、梁、陳まではいずれも現在の蘇州
南京付近に都をおき、六朝といわれています。
  特に東晋では詩の陶淵名、書の王義之、画の顧ト之等が後世に大きな影響を残しています。
この東晋は江南の豪族、王導が建業(後建康に改名、現在の南京)に晋の一族を皇帝として
戴き建国、また後の宰相、謝安は北からの異民族国家の侵略を阻止し、東晋を安定させた
名宰相と言われています。劉禹錫(
772842、中唐の詩人)はこの東晋時代を偲び七言絶句を
残しています。

8
烏衣巷 劉禹錫  烏衣巷(ウイコウ) 
朱雀橋辺野草花  朱雀橋辺(スザクキョウヘン)野草の花
烏衣巷口夕陽斜  烏衣巷口(コウ)夕陽(セキヨウ)斜(ナナメ)なり
旧時王謝堂前燕  旧時(キュウジ)王謝(オウシャ)堂前(ドウゼン)の燕(ツバメ)
飛尋常入百姓家  飛んで尋常(ジンジョウ)百姓(ヒャクセイ)の家に入(イ)る

詩解
朱雀橋のほとりには、野草の花が咲き、烏衣巷の入り口には、夕日が斜めにさしている。
昔、この辺にあった王導や謝安の立派な邸宅に巣をかけていた燕も、今ではそのような邸宅も
ないため、ごく普通の民家に飛び込んでいく。

註: 烏衣巷 地名。 三国時代、呉の軍隊の駐屯地で彼らがカラスのように黒装束だった
 ことから烏衣巷と命名され、東晋の時代には皇族や貴族が邸宅を並べていた由。 
 東晋の繁栄は
劉禹錫の時代の400年以上前。

 六朝最後の王朝は南朝の陳ですが金陵(現在の南京付近)に都があり、陳の最後の皇帝は
文化的には多芸多才でしたが、政治は余り省みず、隋の侵攻で簡単に滅びてしまいました。
唐の詩人達が懐古を綴った詩を取り上げます。


9
金陵図  葦荘    金陵(キンリョウ)の図  葦荘836-910晩唐)
江雨霏霏江草斉  江雨(コウウ)霏霏(ヒヒ)として江草(コウソウ)斉(ヒトシ)
六朝如夢鳥空啼  六朝(リクチョウ)夢の如く鳥空しく啼(ナ)く
無常最是台城柳  無常は最も是れ台城(ダイジョウ)の柳(ヤナギ)
依旧煙籠十里堤  旧(キュウ)に依って煙は籠(コ)む十里の堤

詩解
長江には雨がしとしとと降り、河辺には草が同じように茂っている。六朝時代の栄華は遠い
昔の夢のようであり、今は鳥がむなしく鳴くばかりである。最も無情をそそるのは古い城址の
柳に新しい芽が出、霧は昔と同じように十里の堤をおおっていることである。

10
秦淮  杜牧    秦淮に泊(ハク)す  杜牧803853、晩唐の詩人)
煙籠寒水月籠沙  煙(ケムリ)は寒水(カンスイ)を籠(コ)め月は沙(スナ)を籠む
夜泊秦淮近酒家  夜(ヨル)秦淮(シンワイ)に泊(ハク)して酒家(シュカ)に近し
商女不知亡国恨  商女(ショウジョ)知らず亡国の恨(ウラミ)
隔江猶唱後庭花  江(コウ)を隔てて猶(ナオ)(トノ)う後庭花(コウテイカ)

詩解
霧は寒々とした河面にたちこめ、月の光は岸辺の砂を覆っている。夜、秦淮河に面した酒家の
近くに泊まった。 河向こうの酒家では芸妓たちが陳亡国の恨みの歌とも知らず、今もなお、
あの「後庭花」を唄っている。

註: 後庭花 陳の後主(最後の皇帝)が作った詩、「玉樹後庭花」で内容は寵妃の容色を
 たたえたもので、後の世まで歌い継がれたという。 
 陳の後主から杜牧の時代迄は
250年以上経ている。

                           前ページ      次ページ