解説に戻る      (街談文々 第壱話ー第五話   前ページ       次ページ       Home
第1

       第壱  甲子改元
一  当年ハ甲子とし一元中段の初なり、定めて年号改
   元あるべしと、風聞の爰(ところ)正月十九日列侯諸士惣出仕
   於営中(えいちゅうにおいて)年号改元の旨、土井大炊頭殿傳達せらる(註1)

    甲子改元記
  文化
    周易曰観乎天文以察時変観乎人文以化成天下
     (周易曰ク天文ヲ観テ以テ時変ヲ察シ人文ヲ観テ以テ天下化成ス)
    後漢書曰宣文敬以章其化立武備以乗其共成
     (<後漢書曰ク宣文ヲ敬ヒ以テ其化ヲ章ラカニし武備ヲ立テ以テ其成ニ乗ス)
  嘉徳
    左氏傳曰上下皆有嘉徳而無異心
     (左氏傳曰ク上下皆嘉徳有リ而(しこうして)異心無シ)
  嘉政
    唐書曰嘉其義政顕賛於聴事 
     (唐書曰ク其義政ヲ嘉シ聴事ニ於テ顕賛ス)
  萬宝
    文選曰萬乎大乎萬宝以文化
     (文選曰ク萬ナルカ大ナルカ之ヲ以テ文化ス)
  嘉永
    宋書曰思皇享多祐嘉楽永無央
     (宋書曰ク皇ヲ思ヒ多ク享(すすめ)レバ嘉ヲ祐(たす)ケ楽永ク央(つきる)無シ)
  文政
    尚書曰孔傳曰撫僚天文七政
     (尚書曰ク孔傳エテ曰ク僚ヲ撫シ天文七政ス)
  萬徳
    文遷曰萬邦招和施徳百蕃而粛慎 
     (文遷曰ク萬邦招和シテ徳ヲ施セバ百蕃而(しかして)粛慎ス)
 
  年号字七号の中、文化、嘉徳可然(しかるべし)
  主上、 仙洞思召候、 尤丞相衆中へ勅問有之(これあり)候所、両号多被挙奏(きょうそうされ)
  候。 但、文化の号特ニ可然(しかるべし)の御沙汰(ごさた)ニ候得共、関東思召有之(これあり)
  嘉徳の号可被用(もちいられるべく)候成。 両号の中関東思召被聞合(ききあわせられ)可有御評定(ごひょうじょうあるべく)
  此旨関東へ宜(よろしく)被申入(もうしいれられ)候事    
             伝奏衆   広橋前(さきの)大納言
                     千種前(さきの)中納言
              所司代   青山下野守
  改元赦(ゆるし)の事先例の通(とおり)可有御沙汰(ごさたあるべく)候事

  文化元甲子大小
   ねづみがでればよがなをる  但、にごり無之(これなき)分大の月(註2)

  右改元二月十七日御触有之(これあり)。 是より十日程以前ニ、年号かわり
  ましたかわりましたト曼(か)ってに売歩行せしが早速(さっそく)被召捕(めしとらえられる)

                   神田紺屋町弐丁目
                     金次郎店  文蔵
一 右の者義不如意ニて取続(とりつづき)難相成(あいなりがた)し迚(とて)不斗存付(ふとぞんじつき)、年号
   元明と改元有之(これある)旨偽(いつわり)、内分ニて板行ニいたし又は相偲(あいしのび)壱枚ニ付
   四文づつ売歩行候段不軽儀(かるからざるぎ)不恐
   公儀(こうぎをおせれず)仕方不届至極ニ付中追放被仰渡之(これをあうせわたされる)

1.甲子改元 干支は60年で一周するが、江戸時代になってから干支が元に戻る甲子の年は元号を改めるようになった
2.大の月、少の月 大陰太陽暦では月令周期29.5日を一ヶ月としており、30日の月と29日の月が年間でほぼ半々であり、 30日の月を大の月、29日の月を小の月といった、

第2

       第弐    叶福助起原
一 当春より叶福助と号(なずけ)し頭大きく背短く上下(裃)を着し
   たる姿を人形に作り、張子又は土にて作り一枚絵に摺出し、
   其外いろいろのものに準(なぞ)らへ、尤(もて)あそぶ事大ニ流行す。 後には
   撫牛の如く蒲団に乗せ、祭る時は福徳ますとて小(ちいさ)キ宮に
   入(いれ)、願ふ事一ツ成就すれハ蒲団を仕立上ル事なり。 其根元なんと
   いふ出処を知らず、 唯愚夫愚婦の心ニも応せさる願立
   いたしけるこそうたてける。 其節の落首に
     とくし(特祠)よりよひ事ばかりかさなりて
          心のままに叶福助

       叶福助伝ト小本出板
                    福助伝

一 ある人のいふ江都の士何某みやこ在勤のおり福介とい
  ふ小者(ずさ)主人の出世を神にいのり、やがて
  昇進有りしとかや。 主人も誠忠を感じ、福介なきのち
  も深草なる土偶つくに、かの福助が形ちを製させ、いますが
  ごとく配前なせしといへり。 こと替りし物なれば夫より手遊(てすさび)ニも
  商(あきな)ふ時ハ斉の晏子に同じけれハ、人とけいする事も知らず。 衣
  服に眠子が紋ハあれど舞台の心いきおぼつかじ。 あたまは
  頼朝の異名をかふむりながら、人品つたなし。 朝比奈にハ髭
  なく梶原にでじまなし。 只大文字屋の昔を思ふのミ
  されど誠忠四方にひびきて、衆人尊敬して福助
  をいのるしるしあり。 嗚呼称すべし娼家の神棚に三
  平自慢のお福のめん、揚場の上にたつハ容人大
  明神の御使者なるかや

  あをげただ君子の
   徳や涼風の
    ふくハうちはの
      絵こそめてたき
       立川えんま師述
  右は 立川談洲楼焉馬翁の福助の賛なり因(ちなみ)ニ爰に書ス

   戯文   叶福助親類書
一 高百千万石   本国 深草 福神組西宮夷三郎支配
             生国 今戸     叶福助
    拝領屋敷宿処当分手遊方(てすさびかた)ニ住居仕る
一 毘沙門様御代、私父福寿延命小判改御役相勤候節
   へやずみ被罷出(まかりだされ)、見習被仰付(おうせつけられ)文福元甲子年福寿
   金銀等銭沢山ニ罷成(まかりなり)、願の通隠居被仰付(おうせつけられ)此旨於
   鶴亀の間(まにおいて)、七福神御列座出世大黒天殿被仰渡(おおせわたされ)、直(ただち)
   御金蔵白鼠番被仰付(おうせつけられ)、 当時金貸仕(つかまつり)
                      於多福女郎娘
                          妻 

   豊芥按(あんずる)ニ
   此叶福助の人形の起りハ新吉原京町弐丁目妓楼、 大文字屋
   市兵衛初メハ河原見世にて追々仕出し、京町弐丁目へ移り
   大娼家となりぬ。 此先祖至(いたっ)て悋惜(りんせき)にて、日々の食物菜の物
   も下食(げじき)(なる)ものを買置、夏の間ハ南瓜多く買置、秋迄も惣菜に
   ものしける由へ、近辺の者悪口ニ唱歌(となえうた)を作り「ここに京町大文じ
   やの大かぼちゃ、其名ハ市兵衛と申まス、ほんに誠ニ猿まなこ
   ヨイハイナヨイハイナト」、 大きなる頭を張ぬき、是を冠り踊り歩行し、此唱
   歌大評判になり、大文字屋ハ寿々(ますます)大繁昌せり
   此歌の手遊(てすさび)に是ニもとづき、 大頭の人形に上下を着せ叶福助ト
   名号(なづけ)何まれ願ひを懸ケ、利益のある時ハ布団拵(こしらえ)上る事なり
   又上の山方に頭大き成る男に柿色の上下を着せ、 年頃十二三叶福助ト云々
   見世物に出したり。 是等もあたま大キ由へ顔を晒して利分を得たり
   相良侯ハ撫牛を信して出世ありしとて世の人是をまなぶ。 叶
   福助も今に廃(すた)ることなし

第3

       第三 太郎祠群参
一 当二月上旬より浅草新堀、立花侯御下屋敷に鎮座なる
  太郎稲荷大明神奇瑞(きずい)ありて、参請の群集夥度(おびただしく)新堀の
  川へ丸太を架けて茶みせを開らきし事、其数不知(しらず)。 予七歳
  父や祖母に誘(いざな)われ度々参請す。 狂歌に
  尋ね行く人は浅草にい堀の
       深き願ひを満つのともし火
                      四方山人


  其来由尋ぬるに、立花侯御在所筑紫国大和郡柳川領
  小川庄、 武井組立山村に御鎮座にて、 太郎冠者稲荷大明神ト
  奉崇(あがめたてまつる)は、 初(はじめ)次郎稲荷大明神と申せしに、或夜村中の家々に夢に
  告していわく、我子太郎へ職を譲り我等ハ隠居しぬれハ皆人是ヲ
  祝ひ玉(たま)われと、新たに家毎に告ありしかハ、里人奇異の思ひ
  をなし、 是より太郎稲荷とも奉称(しょうしたてまつる)。赤飯、揚豆、コノシロの類(たぐ)
  思ひ思ひに持行きて参請セしト云々。 此時社領として十五石国
  主より給(たま)わりしといへり。 此事実ハ左にあらず、正治の頃筑紫の守
  護大友四郎経宗の娘、み保姫当社へ祈願を懸ケ、 然ルに鎌倉
  より三浦荒次郎を以て姫を迎かへらる。 源二位頼朝卿御寵愛
  の余り一子もうけ玉ひ、幼名を冠者太郎殿と申なり。
  其後鎮西の奉行として豊後の鞆(とも)に下し玉ひ、掃部頭近能(かもんのかみちかよし)
  養ひとして左近将監能直と申したてまつる、 是立花侯御先祖なり。
  是より彼稲荷を筑紫へ移し一社を建、 利根太郎殿の産神
  となして太郎冠者稲荷大明神と勘請して参らせける。 立花
  家代々御守護ありて、度々御軍利ありて社領十五石御寄
  附ありしハ天正年中の事なり。 神主岡兵庫頭とて
  小社なれとも国主御所縁なれハ衆人信心尊敬す。 近世浅草の
  御屋敷に移し参らセ、立花侯御参勤の節は御供ニて下りあるよし、
  申伝へ来(きた)

  予参請の節、社の脇ニ狐二匹居たり、 人を恐るる事更ニなし。 此藪の
  うちに穴ありて爰(ここ)に居(おり)、子狐育居(そだており)候也などと申あへり。 此節太郎
  稲荷御利生あり、是をさまざま唱歌(となえうた)ニ作り読売す。 其文句ニ
  唖(おし)がものいふ、目くら按摩(あんま)が眼をあいた、イザリが立って歩きます。
  察するニ去ル享和三亥とし(年)、麻疹流行し当春頃迄ありし。 予も此節せしなり
  此膿(う)ミに眼を煩(わずら)ひ、腰ぬけて立つ事なりがたきものも、自然
  快復すべき時の至れるを、太郎稲荷の利生と思ひ、斯(かく)口ずさ
  ミしをなるべし。  右太郎稲荷繁昌ニ付、此節上梓せし也
  白狐傳中本一冊太郎稲荷御利生記、 同落(どうおとし)はなし、
  はやり唄、 太郎いなり双六、 此外数多(あまた)ありし略す

第4

       第四  忠義之壮士
一 文化元甲子三月廿三日半十郎召使仁三郎奇特なる者ニ付、町
  御奉行所へ被召出(めしいだされ)御褒美として、白銀五枚被下シ置(くだしおかれ)候段、仁三郎
  世上に面目をほどこし、難有事(ありがたきこと)ともなり、由へに
  御奉行様へ御願申上、仁三郎が忠臣のあらましを上梓(じょうし)して
  忠義の名を知らしめんが為、売(うり)(ひろむ)もの也。 其傳左の通

    忠心職人傳  版元 橘町二丁目 山本屋小八
          馬喰町壱丁目伊兵衛店
            半十郎召使 仁三郎 子(ね)十六歳

  右仁三郎ハ下総国葛飾郡市川村百性要助倅ニて、十歳の節
  七年以前午(うま)とし中、当主人半十郎方へ年季弟子奉公ニ
  相成、 半十郎夫婦并(ならび)倅金蔵とも四人ニて木櫛佃工渡世として
  暮しける所、 四年以前酉年正月中金蔵ハ病死致しければ
  半十郎とし老(おい)て愁傷限りなく職分も出来兼けるゆへ、暮方(くらしかた)
  甚(はなは)だ困窮ニ及(および)けれバ、妻の生国え二人共引こまんと思ひける由へ
  仁三郎へ申けるは、其方も職分覚へ度(たき)とて我等が弟子ニ来り
  たる處(ところ)我等老人ニ及び、そちが知る通り一人の倅を先立いかん共
  すべきやうなく、依之(これにより)妻の在所へ引込ける。 其方もよき同職
  の者方へ遣(つかわ)す間、随分出精可致(いたすべし)と申付けれバ、其頃仁三郎十三歳
  にてありけるが、殊の外落涙して一両日の間打しおれ居(おり)ければ、
  合い店の者ども不審ニ思ひ仔細を尋問(たずねと)ふに、仁三郎答へて申ける
  ハ、私主人両人共此度在方(ざいかた)へ引こまれ候迚(とて)、私を同職の者へ弟子ニ
  遣(つかわす)べくと被申(もうされ)候得共、主人の子息金蔵どの病死致され、外ニ介抱
  いたししんぜ候者もなく候へバ、私ハ主人を見捨他人え奉公ニ参り候
  心底(しんてい)ハ無之(これなく)、殊ニ御主人も次第にとしも寄られ候得ば是非(ぜひ)主人の供
  いたし在方え参り度候と、噺しけれハ人々も幼年ニハ珍らしき実意
  の者なりとて右の様子を半十郎へ噺(はなし)けれハ、半十郎も仁三郎が
  心ざしをかんじ、 望に任せ同年三月半十郎妻の在所へと
  もなひ引込ける処に、仁三郎ハ次第ニ職分覚へ度とて在
  方にても木櫛佃工を出精して所々持歩行(もちあるきゆき)商ひ致けれ共、幼
  年の事由へわづかの売り前をもつて食物を買ととのへ、又ハ途中
  にて木の枝、落葉など拾ひ背負ひかへり薪となし、食事拵(こしら)への
  手伝ひいたし、夜分ハ佃工いたし其外万端心附、付添、介抱せ
  し処、半十郎ハ御当地に住馴し由へ、 又ぞろ御当地へ出府いたし
  たき趣(おもむ)きを仁三郎噺しけれハ、仁三郎も主人の心に随ひ翌
  戌年三月の中江戸表え出府し、木櫛をいとなミ暮しけるに、
  仁三郎未明におき食事こしらへいたし、勝手働き仕舞次第
  直(すぐ)に細工に取かかり、夜ニ入てハ主人夫婦をやすませ自分ハ九ツ過キ
  頃迄も細工いたし、油断なくかせぎ金蔵が忌日にハ早朝より菩提
  所墓参りをなし、朝飯前ニ立帰り主人夫婦の心を慰め主人
  両人の内、もの詣(もうで)、或は他所へ行にも衣類、杖、はき物迄も取集メ
  彼是(かれこれ)と深節(しんせつ)に介抱いたける。 主人女房そよ思ひけるは、 仁三郎
  壱人ニて稼きくれ由へ是迄は表店にて暮しぬれ共、見勢(みせ)
  商ひもひま由へ裏店へ引移りなバ店賃も心安し、付ては
  暮シ方ニもよからめ、 とある時このよしを相談ニ及びければ
  仁三郎答へて申けるハ、裏店へ引込候ては何かに付御不自由ニ
  候まま、此上の又職分出精致申ならバ暮し方ニ困り候事も
  有之(これある)間敷(まじく)間決而(けっして)御心遣ひ被成(なされ)る間敷とて、其後は別して
  職分を精いだし、遣廻(つかいまわり)、神事祭禮等の節は勿論、諸職人
  休日にても休事なく、衣類ニもかまわず、一途に職分を精出しける
  こそ奇特なり。 半十郎も当子(ね)としニて六十五歳、女房そよ
  六十六歳ニて夫婦共老年に及ぶ迄取つづきたるも全く仁三郎
  幼年より忠心を尽せし故のことよし。 此度
  御奉行所様へ相聞(あいきこ)へ、 甚だ奇特なる者ニ付、当子(ね)の三月廿六日
  仁三郎を被召出(めしいだされ)御褒美として白銀五枚下しおかれける。

   幼年より主人ニ誠忠を尽セし事天に通じ、忝(しか)
   公儀御政所に召出され、御褒美賜りし事難有(ありがたき)事に
   あらずや。 此仁三郎事(ごと)きハ四書五経孝経ハ扨置(さておき)実語
   教童子教も学ばざれど、斯(かく)主人に忠を尽くすは
   天然ニ心を得るのものなるべし、誠ニ美撰(びさん)すべきものなり  

第5

                                                                                     第五   孝子御褒美
  牧野備前守様御差図      小石川伝通院前
                        家主  八右衛門
   根岸肥前守様御番所え被召出(めしいだされる)
一  此者儀子(ね)七十六歳ニ相成候寿亭(すて)え平日孝心を盡し、尤(もっとも)以前は
   身上向も相応ニ暮罷在(くらしまかりあり)候所、近頃は不如意相成候得共母えは不
   依何事(なにごとによらず)不自由無之(これなき)様手当遣(つかわす処、寿亭事去亥八月より
   老病にて身骨痛(いたみ)、打臥罷在(うちふせまかりあり)、此者昼夜付添介抱致、何事
   も母の意に随ひ、給物(たべもの)等、好(このみ)候品を自(みずから)みいだし、給(たべ)させ并(ならび)両便
   等の世話迄も行届(ゆきとどき)、夜分ハ雑談噺しなど致(いたし)ながら、撫さすリ為臥(ふせさせ
   此者も側にふせり介抱致し、 且又(かつまた)妻きち母にて子(ね)五十相成
   みつをも引取置、是又実母同様に万端差支等無之(これなき)様ニ心付(こころづけ)
   いたし候孝心致段、 軽者(かるきもの)ニは奇特成義ニ付、御褒美として
   白銀三枚被下(くだされ)候間難有(ありがたく)頂戴(ちょうだい)可致(いたすべし)

          右八右衛門母寿亭
            煩(わずらい)ニ付代   清三郎
   右同断
   此者倅八右衛門孝心ニよって老養扶持として一日ニ米
   五合づつ此者生涯の内被下(くだされ)候間難有(ありがたく)可奉存(ぞんじたてまつるべし)

   右の通被仰渡(おうせわたされ)難有頂戴仕(ありがたくちょうだいつかまつり)候 
                           八右衛門
                   八右衛門母寿亭煩(わずらい)ニ付 清三郎
   文化元子五月廿六日

   前条ハ主人に忠義を盡し此一条ハ母親に孝行並妻の母
   をも引取、朝夕に心を用ひ世話いたし、如斯(かくのごとく)(ま)こころ厚キ
   生質(せいしつ)由へ、神仏の御加護にや、終に
   上より蒙御恵ミ(おめぐみをこうむる)事天道の導玉(みちびきたま)ふ事なるべし。 忠孝二ツハ貴賎
   ともに励むべき事なり

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